黒夜行

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もうすぐ絶滅するという紙の書物について(ウンベルト・エーコ+ジャン=クロード・カリエール)

本書は、まったく別の分野で活躍しながら、共に書物愛好者でもある二人が、『世界規模で進められている文書のデジタル化と新しい読書ツールの導入という試練に直面している今』の世の中において、『書物がフィルタリングという災難にもめげず、結局は張られた網をすべてかいくぐり、幸運にも、また時には不運にも、生きのびてきた、その奮闘ぶりを愉しげに語ってい』る本です。電子化という、抗いきれない時代の流れの中にあって、「本が好き」「紙の本は素晴らしい」という単純な偏愛ではなく、長年、本を始め様々なメディアや文化や価値観と関わってきた二人が、それでも紙の本に一体何があるのかということを深く深く掘り下げていきます。

彼らは本当に様々な事柄について話していくのだけど、僕が本書で一番興味深かったことは「忘却」に関わる部分です。電子データは、「忘却しない」という点においてデメリットを有している―非常に大雑把に要約すればそういうことになるだろうと思います。

たとえば、ちょっと長いがこんな文章がある。

エーコ『カエサルの最後の妻カルプルニアのことは、カエサルが暗殺された三月十五日までは、何でもわかっています。三月十五日、カルプルニアは不吉な夢を見て、夫カエサルに元老院に行かないでくれと頼みました。
カエサルの死後のカルプルニアについては、いっさい情報がありません。彼女は我々の記憶から姿を消したのです。なぜでしょう。これはなにも、彼女が女性だったからというわけではありません。(中略)文化とは、つまり、このような選別を行うことなのです。現代の文化は逆に、インターネット経由で、世界じゅうのあらゆるカルプルニアたちについて、毎日毎秒、詳細な情報をまき散らしているので、子供が学校の宿題で調べ物をしたら、カルプルニアのことを、カエサルと同じくらい重要な人物だと思うかもしれないほどです』

この記述は、非常に面白いと僕は感じました。

それがどんな記録媒体であれ、「記録する」ということには通常、何らかの選別が入るはずです。紙の本にする、というのは、ある意味でその最たるものかもしれません。この本の中に何を書いて何を書かないか、残すべきものは何で残す必要のないものは何か―紙の本に書くということは、そういう無限の選別の行為の果てにあるものです。

もちろんそれは、電子情報でも同じ部分はあります。自分が何らかの文字なり文章なりを書く、ということであれば、紙の本だろうとブログだろうとなんだろうと、そこに何らかの選別は入り込みます。

しかし、電子情報には、ひとりでに記録するという側面もあります。分かりやすいのは、ボイスレコーダーのようなものでしょうか。スイッチを入れておけば、マイクが拾える範囲の音声はすべて拾う、という行為には、選別の入る余地はありません。

同じように、GPSで移動経路を記録するとか、ネットショッピングの注文履歴を記録すると言ったようなものは、選別なしに何もかもを記録してしまうものです。そういうものにはやはり、選別という思考が入り込む余裕はありません。

そして先ほど引用した文章は、選別なきものは文化ではない、と主張しています。『文化とは、つまり、このような選別を行うことなのです。』という一文は、そう言い換えることが出来るでしょう。となれば、ひとりでに記録される電子情報は、文化の基盤には成りえない、と言えると思います。

この視点は、僕の頭の中にはあまりなかったものなので、非常に新鮮でした。

同じようなことが、別の場面でこんな風に書かれています。こちらも長いですが引用してみます。

エーコ『諸文化は、保存すべきものと忘れるべきものを示すことで、フィルタリングを行います。その意味で、文化は我々に、暗黙裡の共通基盤を提供しています。間違いに関してもそうです。ガリレイが導いた革命を理解するには、どうしてもプトレマイオスの学説を出発点にしなければなりません。ガリレイの段階までたどり着くには、プトレマイオスの段階を共有しなければいけないし、プトレマイオスが間違っているということをわかっていなければいけない。何の議論をするにしても、共通の百科事典を基盤にしていなければいけません。ナポレオンなどという人物はじつは存在しなかった、ということを立証することだってできなくはない―でもそれは、我々が三人とも、ナポレオンという人物がいたということを知識として学んで知っているからです。対話の継続を保証するのはまさにそれなんです。こういった群居性によってこそ、対話や創造や自由が可能になってくるんです。
インターネットはすべてを与えてくれますが、それによって我々は、すでにご指摘なさったとおり、もはや文化という仲介によらず、自分自身の頭でフィルタリングを行うことを余儀なくされ、結果的にいまや、世の中に六〇億冊の百科事典があるのと同じようなことになりかねないのです。これはあらゆる相互理解の妨げになるでしょう』

こちらも、なるほど、と思いました。「文化」というのは要するに、ライブ会場の入場ゲートのようなものなのでしょう。会場に入っていい人とダメな人(チケットを持っているかどうか)を入場ゲートで選別する。そしてその入場ゲートを通り抜けることが出来た人が、ライブという共通の経験を得ることが出来るわけです。

「文化」についても同様で、文化というフィルタリング機能があるからこそ、僕らは、他者と何らかの議論や意見交換をするための共通基盤を得ることが出来る。そしてそのフィルタリング機能は、「保存すべきもの」と「忘れるべきもの」を示すことによって発揮されるのだし、つまりは「忘れられること」というのが絶対的に大事になってくる、というわけです。

しかしインターネットは忘れません。一度インターネット上に載ったものは、相当な苦労をしなければ完全に削除することは出来ないし、削除できない以上いずれ誰かが見つけるかもしれないし、つまり完全に忘却されることは出来ないということになります。

一方で本というのは、様々な形で忘却され得る。禁書にされたり、家事で燃えたり、あまり広く読まれることなく時間が経過してしまったりすることで、本の存在や本に書かれた内容はすぐに忘れられてしまう。

本書で指摘されているこんな事例もまた、本が忘却という機能を内包していることを示すかもしれない。

ジャン=フィリップ・ド・トナック『我々は今日なお、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスを読みますし、彼らをギリシャ三大悲劇詩人と見なしています。しかしアリストテレスは、悲劇について論じた「詩学」のなかで、当時の代表的な悲劇詩人たちの名前を列挙しながら、我らが三大悲劇詩人の誰についてもまったく触れていません。我々がうしなったものは、今日まで残ったものに比べて、より優れた、ギリシャ演劇を代表するものとしてよりふさわしいものだったのでしょうか。この先誰がこの疑念を晴らしてくれるのでしょう』

僕らは、残ったものからしか過去を判断できない。しかし、当然ながら、残ったものがすべてなわけではない。であればどうして、残ったものの中が最高のもの(あるいはその一つ)であると信じることが出来るのだろうか?

あるいはこんな話もある。

エーコ『ストア派の哲学というのは、我々がその重要性を十分評価しきれていない知的達成の一つと言えそうですが、そのストア派について我々が知っていることの大部分は、ストア派の思想に反駁したセクストゥス・エンピリクスの文章がなければ、知りえなかったことです』

この記述から分かることは、ストア派の人間がストア派について書いた本というのは、現代にほとんど残っていない、ということです。ある意味ではそれも、文化のフィルタリング機能によるものなのでしょう。しかし一方で、ストア派の思想に反対した人の文章は残っていて、それによってストア派の思想が現代でも知られている、というわけです。

これらの話から分かることは、必ずしも残ったものが素晴らしいとは言い切れない、ということです。本当であれば三大悲劇詩人よりも素晴らしい詩人はいたかもしれないけど残っていないし、本当であれば残っていてもおかしくはないストア派の人間がストア派について書いた本というのは失われてしまっているわけです。だから、「保存すべきもの」と「忘れるべきもの」という判断は決して、その中身に依るのではない、ということだ。

ならば、そんな程度の低いフィルタリングを要請する「文化」というものも大したものではないと言えるかもしれない。だからインターネットが、選別やフィルタリングが存在しない世界を作り出すことが、プラスに働く可能性もないではない。それは、もっと時代が経たなければ分からないことだろう。とはいえ、あくまでも僕の個人的な感覚で言えば、「文化」というフィルタリング機能があるというのは重要に思えるし、だからこそ、忘却という機能を有する本というメディアは存在価値があると感じられる。

中身に依るのではない、という話で言えば、こんな話も出てくる。

エーコ『「もしかしたら私の能力が少し足りないのかもしれないが、誰かが眠れなくて輾転反側する様子を語るのに、どうして三〇ページも費やす必要があるのか私には理解できない」。これはプルーストの「失われた時を求めて」について最初に書かれた書評です』

このあと、「白鯨」「ボヴァリー夫人」「動物農場」「アンネの日記」など、世界的名作と呼ばれている作品が、出版された当初いかに評価されていなかったか、ということが書かれています。

こんな風にも書かれている。

エーコ『傑作が傑作であるためには、知られるということが大事です。つまり、作品がみずから喚起した解釈を吸収することで、その個性をより強く発揮していれば、傑作は傑作として認知されます。知られざる傑作には読者が足りなかったんです。充分に読まれなかったし、充分に解釈されなかった。』

「解釈を吸収する」という話では、シェイクスピアのこんな捉え方も面白い。

カリエール『おっしゃいましたね、今日我々が読んでいるシェイクスピアの戯曲は、書かれた当初よりきっと豊かになっている、なぜなら、それらの戯曲は、シェイクスピアが紙にペンを走らせて以来、積み重ねられた偉大な読みと解釈をすべて吸収してきたからだ、と。私もそう思います。シェイクスピアはたえず豊かになり、丈夫になりつづけているんです』

このように、「保存すべきもの」「忘れられるべきもの」という観点から、電子化と紙の本を捉えるという視点が、本書を読んで僕が一番面白いと感じた点です。

また、本とは関係ないですが、「忘却」という点で一つ、非常に興味深い話があったので引用してみます。

エーコ『二十年前、NASAかどこかの米国政府機関が、核廃棄物を埋める場所について具体的に話し合いました。核廃棄物の放射能は一万年―とにかく天文学的な数字です―持続することが知られています。問題になったのは、土地がどこに見つかったとしても、そこへの侵入を防ぐために、どのような標識でまわりを取り囲めばいいのか、わからないということでした。
二、三千年たったら、読み解く鍵の失われた言語というのが出てくるのではないでしょうか。五千年後に人類が姿を消し、遠い宇宙からの来訪者たちが地球に降り立った場合、問題の土地に近づいてはいけないということをどうやって説明すればよいでしょう』

これも、今まで考えたことのない問いだったので、なるほどなぁ、と感心してしまいました。確かに、半減期が異様に長い核廃棄物を埋めたとして、現在我々が使っている言語が滅びる、あるいは解読出来ないような状況になってしまう可能性については考えておかなければなりませんね。そういう観点からも、核廃棄物という存在に否を突きつけることが出来るかもしれません。

本書は対談であり、共に書物愛好者の二人なわけですが、とはいえ、紙の本を絶対的に信奉しているわけでもないし、本を読むという行為にもかなり柔軟な捉え方をしています。
いくつか抜き出してみます。

カリエール『我々は、書物というものを非常に高く評価しており、えてして神聖視しがちです。しかしよく見れば、我々の蔵書の圧倒的多数が、無能ないしは間抜けな人間、あるいは偏執狂によって書かれた本なんです』

エーコ『世界には書物があふれていて、我々にはその一冊一冊を知悉する時間がありません。出版されたすべての書物を読むことはおろか、ある特定の文化を代表するような最重要書だけでも、全部読むことは不可能です。ですから我々は、読んでいない書物、時間がなくて読めなかった書物から、深い影響を受けています』

エーコ『くどいようですが、べつに本を買わなくたっていいし、読まなくたっていいんですよ。ただぱらぱらめくってみて、背表紙に何が書いてあるか見てみるだけでいいんです』

エーコ『ところで、楽観的になれる理由の一つは、最近は、大量の本を目にすることのできるチャンスが増えてきているからです。私がまだ子供だったころ、書店というのはひどく暗い所で、敷居が高かったんです。中に入ると、黒っぽい服を着た店員が、何かお探しですかと訊いてきます。それがあんまり恐ろしいので、長居しようという気にはとてもなれませんでした。時に、文明の歴史のなかで、今日ほど書店がたくさんあって、綺麗で、明るかったことはありません』

ある意味では、無類の本好きとは思えないような発言もあるでしょう。本との接し方に肩の力を抜いてもいいと思えるような捉え方ではないかと思います。

ここでは書ききれないほど、様々な方向に話の矛先を伸ばしていきながら、博覧強記の知識で縦横無尽に対談を続ける二人の知の巨人のやり取りは、本の電子化、などといった矮小的な問題に囚われない、非常に自由で奥行きのある内容になっています。色んな形で知的好奇心を刺激される一冊です。

ウンベルト・エーコ+ジャン=クロード・カリエール「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」

グッバイ・マイ・スイート・フレンド(三沢陽一)

内容に入ろうと思います。
高校生の藤怜士は、格闘技好きの少年だ。しかも、筋金入りの。彼は男子の総合格闘技を『大味な試合や微妙な判定が増えてきた』『商業化され、ただのビジネスに成り下がっている』『第三者が勝敗を決める判定試合が多いことに不満』だとして、そういうものとはまだ遠い場所にある、女子総合格闘技にハマっているのだ。
そこで彼は、とんでもない逸材の存在を知る。本城麻里奈―女子総合格闘技団体「ライジング」のフェザー級及び無差別級チャンピオンだ。なんとまだ高校生だ。とはいえ麻里奈は自分が高校生であることを公には明かしてはいない。ならば何故知っているのか。
それは、なんと麻里奈と同じ高校のクラスメイトになったからだ。格闘技のことなど知らない他の連中はそのことに気づいていないし、そもそも休み時間はイヤホンで音楽を聴きながら読書をしているごくごく普通の女子高生で、まさか格闘技のチャンピオンとは誰も思わない。
麻里奈は、相手の得意とするフィールドで闘い勝利をもぎ取るというスタイルを貫いていて、それでいて全戦全勝、未だ負けなしだ。試合後のインタビューでは常に「世界で一番強くなりたいです」と言っている。
麻里奈は、会場で試合を見ている怜士のことを覚えていたようで、教室で話しかけられた。それから、学校ではほとんど関わらないが、喫茶店などで話す(と言っても会話のほとんどが格闘技についてだ)ようになった。
ある日麻里奈は、いつも以上に機嫌よく登場した。何があったのかと聞くと、対戦相手が決まったのだという。相手を聞いて驚いた。九条亜美―『ライジング』のフェザー級ランキングで五指に入る実力の持ち主で、さらに麻里奈と同じく女子高生で、かつデビュー以来負け無しだ。確かにいずれぶつかる相手なのかもしれないが、それでも怜士はあり得ないと思った。何故ならこの二人は“同門”だからだ。禁止ではないが、業界的にはタブー視されることが多い。しかし、昔から幼馴染として、遠く離れてからもやり取りが続いている亜美との対戦を、麻里奈は素直に喜んでいるようだ。
しかし、そんな喜びもつかの間、亜美に予想外の出来事が起こる。「紫の隙間女」―そう呼ばれる存在が、亜美の日常に侵入してきたのだ…。
というような話です。

一応ギリギリネタバレを避けるために、こんな書き方になりました。本当は「紫の隙間女」がなんなのかを書いて、さらにその上でもう少し中身を深掘りしたいんですけど、それだとちょっとネタを明かしすぎな気がするので、このぐらいにしておきます。

正直、中盤ぐらいまでは、そこまで面白くないなと思っていました。僕がさほど格闘技に興味がない、ということももちろんあるだろうけど、その後どんな展開を見せる物語なのか全然予想がついていなかったので、ただの格闘技小説と思って読んでいたことと、文章がちょっとこなれていないのとで、あまりスッと物語が入ってこない感じだなと思っていました。

とはいえ、2/3ぐらい読み進めたところで、物語が一気に劇的な変化を遂げます。正直、これは予想外過ぎたなぁ、と思いました。いや、予想できる人もいるかもしれないけど、僕はちょっと虚をつかれた感じです。なるほど、そんな方向に進むのか、と。

で、その、唐突にも思える物語の転換を含めれば、全体的にはなかなか面白かったという感じがします。正直、まったくあり得ない展開で、もしかしたら人によっては、最後の1/3の展開こそが要らない、という人もいるでしょう。純粋に、それまでの流れの中で物語を終えてほしかった、と感じる人もいると思います。この辺りは、本書をどういう小説として読んでいるかに依るでしょう。格闘技小説として読んでいる場合は、うーんどうなんだろう、最後の展開を面白く受け取ってくれるかどうか。格闘技的な部分に凄く反応しているわけではなく物語を読んでいる人的には、後半の転換はなかなか面白く捉えるんじゃないかと思います。

僕にはさほど興味のないことだったのだけど、本書は格闘技的なウンチクや価値観が結構満載で、格闘技に興味を持ってるんだけどまだ深入り出来ていないという人なんかには、ある種の入門書的な感じで読める部分も多いかもしれません。どんな風に試合を見たらいいのかとか、技の攻防のどこが凄いのかみたいな部分は、割と自力ではたどり着けない部分だったりするので、そういうことを知れる読書になるかもしれません。
(とはいえ僕は、技を掛けている描写が全然映像化できなかったので、その辺りは飛ばしちゃいましたけど。そもそも文章を読んで何か映像が浮かんでくることがないので、無理なんですけど)

最後の展開は正直、それまでの流れを無視しているかのような、ちょっとあり得ない展開なんだけど、でもその最後の無謀な展開をリアルに見せるように、そこに至る前に結構色んな描写をちゃんと入れてリアリティを与えようと努力している感じがしました。だからそのあり得なさみたいなものも、まあ許容しようか、と思える感じになってて、僕は良いと思いました。まあ正直、過去に同じような設定で書かれた小説はまずないだろうと思うほど、なかなかに異色な小説です。

好き嫌いは大きく分かれそうですけど、細かなことを考えずに小説が読める人なら、面白く読めるんじゃないかなと思います。

三沢陽一「グッバイ・マイ・スイート・フレンド」

拝啓、本が売れません(額賀澪)

以前テレビのバラエティ番組を見ていて、面白いなと感じた発言がある。
とあるお笑い芸人(FUJIWARAのフジモンか、千原兄弟のせいじのどっちかだったと思うんだけど)が、テレビ番組の中で、テレビを見る人が減っている的なことを発言したり特集したりする意味ってある?と言ったのだ。

つまりこういう意味だ。テレビというのは当たり前だけど、テレビを見てくれている人に向けられている。その人たちは、テレビを見てくれているぐらいなのだから、まったく見ない人から比べればテレビに好意的だといえるだろう。そういう、テレビに好意を持ってくれている人に向けて、わざわざ「テレビって今あんまり見られてないんですよねぇ」なんていうネガティブな発信をする意味なんかあるんか、という問題提起だったのだ。

なるほど、と思った。確かにその通りだな、と。確かにテレビは今、時代から取り残されつつあるかもしれないけど、それでもちゃんと見てくれている人はいるわけだ。だったらその人たちに、テレビというもののネガティブな情報ではなくて、もっとテレビを見ようと思ってもらえるようなポジティブな情報を届けた方がいい、という判断は、なるほどもっともだと思った。

さて、この流れだと、本書のことを悪く言いそうだと予想するだろうが、ちょっと違う。

前述の発言には確かに納得したが、それは「テレビが見られていない」という情報が、ただ情報である場合だけだ。例えば、ニュース番組の中で、「ここ20年間のテレビの視聴動向の推移は~」みたいな、データだけ引っ張り出してきて「テレビが見られていない」という事実を提示するようなものは、まあ無意味だなと感じる。たとえばそれが、「じゃあどうしたらもっとテレビを見てもらえるのか」という議論の前フリなのであれば、何の問題もないだろう。

本書にも、似たようなところがある。

本書の中で、著者の額賀澪は、しきりに「本が売れない!」と言う。まあ、確かにそうだ。そうだし、そういう声は色んなところから聞こえてくる。僕も書店で働いているので、そういうのは分かるつもりだ。人によっては、別に何をしているわけでもなく、ただ「やばいよやばいよ~」と言ってうろたえている。あるいは、特に何もしていないのに「何で売れないんだ」と怒っていたりする。そういう人が、本というメディアを通じて、「本が売れない!」と言い続けていれば、冒頭のようなケースになるだろう。

しかし本書の場合、著者の額賀澪は、本を売るために奮闘する。「小説を書く」という形で「出版」という大きな流れに関わる著者であるが、それまでは「小説を書く」ということの周辺しか知らなかった(見えていなかった)。本書の内容紹介もまだ碌にしていないのにこんな風に内容に突っ込んでいってもあまり理解できないだろうが、本書では、「小説を書く」人である著者が、「小説を書く」以外の部分を積極的に知り、理解し、自分に引きつけて出来ることがないかと考え、実行するというスタンスが明確にある。実際にそれがどういう結果を生むことになるにせよ、やはり行動を伴っている人間には説得力もあるし、納得が出来る。

本書は確かに、「本」というメディアを通じて「本が売れない!」とひたすら連呼する内容ではある。しかし、本書で繰り返される「本が売れない!」は、現状を打破するための自らへの叱咤であり、具体的な行動への道筋を掴むための建設的な自虐である。

内容に入ろうと思います。
額賀澪というのは小説家なのだが、本書は小説ではない。恐らく、小説以外の本を出すのは初めてなのではないか。本書は、ライトなノンフィクションである。エッセイ寄りノンフィクションという言い方をしてもいいかもしれない。
小説家・額賀澪は、自ら「平成生まれの糞ゆとり作家」と称する。生まれた時にはもう不景気で、ゆとりゆとり言われ続けてここまできたと書いていて、そんな自分は作家になっても、ゆとりらしく悲観丸出しである。「大丈夫」と「ヤバい」は紙一重であり、すべてのものは少しずつ悪くなっていくと捉えており、そういう中で、デビューからなかなかに恵まれた新人作家としてここまでやってこれたとはいえ、いつまでもこんなことは続かないし、自分の小説が売れているという強い実感も持てないし、でも多くは望まないから小説を書いてなんとか暮らしていきたいと思い、一念発起。本を売るためには、売れる本を書くためには、本が必要とする人のところにきちんと届くには、一体何が必要で自分に何が出来るのか見極めようではないか―。
というようなところから本書の構想が生まれている。
小説家・額賀澪は、「小説を書く」以外の形で本に関わる人たちの元を訪れる。編集者、書店員、webコンサルタント、映像プロデューサー、装丁家などだ。
額賀澪は彼らに、本(あるいは売るべきもの)を届けるためにしていることや、映像化や書店店頭での仕掛けなどに「選んでもらう」ための要素など、様々なことを取材する。そうした中で、「小説を書く」人として自分がすべきことをもう一度客観的に見極め、出来ることは全力でバリバリやっていくぞー!
という意気込みに溢れた作品である。

どう読むか、というスタンスによって大分評価が変わりそうな本ではあるが、僕は結構面白く読んだ。

僕は本書を、「情熱大陸」や「仕事の流儀」的な読み方をした。要するに、小説家・額賀澪自身も含め、本書に登場する「仕事のプロフェッショナル」たちの、仕事への向き合い方や考えていること、そしてそれらをいかに言語化するのか、という部分に着目して読んだ。つまり僕は本書を、「本」や「出版」というようなフレームの中で読まなかった。だから面白く読めたのだろうと思う。

例えば本書を、「額賀澪の新作」として読んだ場合、評価は高くはならないだろう。それは、本書の中でも指摘されている。取材に同行している担当編集者が、「この本は額賀澪のファンが読んではいけない本だ」というような発言をしているのだ。確かに、僕もそう思う。

また、「本」や「出版」というフレームの中で本書を読んでも、あまり面白いとは思えないかもしれない。日々本を売っている立場として感じるのは、まだまだ「本」というものを「純粋なもの(という表現はちょっと変だが)」と捉えてくれている人は多いのだな、ということだ。そしてそういう人が、文庫ではなくいわゆるハードカバーの本を買っていってくれるのだろう。そういう人たちは、「本の製造工程」や「本作りへのこだわり」的な意味での舞台裏は知りたいと思うような気はするけど、本書はそういうタイプの本ではない。最初から最後まで「いかに売るか」という部分に特化した作品で、「本」を「純粋なもの」と捉えている人には、そういう舞台裏はあまり望んでいないような気もする(あくまで想像だけど)。

いくつか読み方に触れてみたが、そういう意味で本書は、どういうスタンスで読むのかによって大分評価が分かれそうだと思う。

プロフェッショナルたちの働き方、という読み方をする場合、面白い描写は結構たくさんある。過去編集を担当した作品の累計発行部数が6000万部を超えているというスーパー編集者は、「誰に向けて本を作るのか」「『アニメ化しにくい』とはどういう意味か」「売れる作品に一番必要なのは何か」などについて、非常に明快でかつ面白い切り口の捉え方をしている。特に、「ライトノベル」というジャンルを「電車の行先表示のようなもの」と表現する感覚は、僕も共感できるし、その本がどう捉えられているのかという意識なしに本は売れない、という僕自身の感覚にも合うなと感じた。

また本書には、川谷康久という装丁家(というのとはちょっと違うんだけど、呼びやすいのでこう呼ぶ)も登場する。額賀澪が川谷康久氏を知ったのは、「月刊MdN 2017年12月号」の「恋するブックカバーのつくり手、川谷康久の特集」だったのだけど、実は僕もこの雑誌を読んでいた。「アオハライド」を始め、見れば誰もが知っているような作品(少女コミックが多い)の表紙を手がけている川谷氏は、デザインのド素人である僕が見ても分かるぐらい特徴的でインパクトがあるし、もしかしてこれ川谷康久の表紙かな、と思って確認してみると実際にそうだったことがあるくらい、記名性があるようなデザインをする人だ。

結果本書は、その川谷康久氏に装丁を担当してもらえることになったようだ。川谷氏の表紙は、絵と文字が一体となっているような不思議な印象を与えるものが多く、やはり本書の表紙もそういうイメージを与えるものになっている。

「月刊MdN」を読んだ際、「1日に1つ本の表紙を仕上げる」みたいなことが書かれていた。今や超売れっ子になった川谷氏は、恐らく超絶的に忙しいはずなのに、本書の描かれ方的にはそんな雰囲気をまったく感じさせない。もちろん、額賀澪の書き方一つで印象などは変わるだろうが、恐らく本書に書かれているような印象の人なのだろう。担当した本の発売初週の売上を気にするなど、売れっ子とはいえ自分の仕事に対する捉え方がシビアであるところなど、非常に面白かった。

「装丁」と言えば、話はいきなり変わるが、先日「装丁、あれこれ」(桂川潤)という本を読んだ。「装丁」に軸足を置きながら様々な話題を論じる作品だったが、その本の感想の中で、書店員としての自分の仕事のスタンスみたいなものをふわっと書いた。

ここでも少し書いてみよう。

担当著作累計が6000万部を突破した編集者は本書の中で『僕は創作物に面白くない作品は一つもないと思ってるんです』と語る。

僕も、まあ近い感覚を持っている。自分に合う作品、合わない作品というのはあるが、作品そのものがダメ、と感じるケースは非常に稀だ(もちろん、まったくないとは言わないが)。

そういう前提に立つ時、こういう課題を捉えることができる。それは、「その本の、どの面白さを押し出すべきか」というものだ。

僕はこの作業を「変換」と呼んでいて、本に限らずだろうけど、モノを売る場合に最大限しなければならないことだと思っているし、僕自身の今の仕事のベースの考え方でもある。

「その本の、どの面白さを押し出すべきか」というのは、もう少し噛み砕いて言えば「誰に売るか」ということだ。その本を面白いと感じる人はどこかにはいるはずで、じゃあその人が面白いと感じるようにどう「変換」すればいいのか、ということが考えるべき課題になる(もちろんその過程で、「売るべき対象をどう絞るか」という問題もあるが、まあとりあえずここでは触れない)。

終わった人」(内館牧子)という小説がある。主人公は定年したばかりの男で、仕事人間だったが故にやることが何もない。あまりにも暇だが、他の老人と同じようなことはしたくないという妙なプライドはある。妻は、専業主婦だったのにある時突然美容師の免許を取り、今でも近くのサロンで働いている。自分だけが暇。どうしたものか…。
というような小説である。

普通に考えればこの小説を届ける対象は、主人公と同年代の人たちということになるだろう。分かる分かる、と共感してもらえるポイントは多いはずだ。しかし、よりたくさん売る、ということを考えた時、それだけでは弱い。より多くの人に届けられないか?

僕は本書を読みながら、この本は若い人が読んでも面白いと感じるだろう、と思った。というのは、この主人公というのは、バリバリ働きまくってサラリーマンとしてはかなり大成功を収めつつあったが、結局出世競争で敗れてしまった人物だからだ。そのまま出世競争を勝ち抜ければ、また違った老後になっただろう。しかし現実は厳しい。出世競争から脱落したことで、これまで会社員として猛烈に働いてきた、という功績は、老後にほとんど活かされることがないのだ。

こういう小説を、大学生・就活生・今働き始めたばかりの若者たちが読んだら、「働く」ということの捉え方がまた一つ変わるのではないか、と感じたのだ。もちろん、今の若い世代は、「働く」とか「老後」とか、そんなことにあまり重きを置いていないだろうけど、フィクションとはいえ、猛烈に働いた末こんな人生が待っているのだ、という実例を知ることで、働き方・生き方を考え直すきっかけになるだろう。

そう思って、上記のようなことを短く書いたPOPを作り、大学生・就活生・今働き始めたばかりの若者に、「この本は自分のための本だ」と感じてもらえるように「変換」した。

さて、長々と脱線したが、翻ってじゃあ本書の場合はどうか、と考えてみよう。

本書は、普通に捉えれば次のようなターゲットに向いている本だろう。
【売るためのモノを作り、それを売るための努力をしている人、あるいはしたいと思っている人】
では、そういう対象からまったく外れた人たちにも「この本は自分のための本だ」と感じてもらえる「変換」は出来るだろうか?

例えば、本書のターゲットではない人として、上記の対象とは真逆の人たち、つまり「専業主婦」や「お年寄り」を想定してみよう。彼らは、売るためのモノを作ったり、それを売るための努力をしていない人が多いだろうから、本書がそもそも想定する読者とはかけ離れているはずだ。

例えばそういう人向けに、こんなPOPはどうだろう?

【先日芥川賞を受賞した「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子)は、過去の芥川賞受賞作品の中でもダントツで売れているようです。若竹さんは年配の専業主婦の方です。業界に伝手があったわけでも、インターネットの凄い知識を持っていたわけでもありません。じゃあどうしてこれほど爆発的に売れる本を書くことが出来たのでしょう?
本書を読めば、小説というものがいかに文章「のみ」で勝負出来る、稀有な分野なのかということがよく分かることでしょう。】

普段POPのフレーズを考えるほどには真剣には考えていないのでこんな程度のものだけど、一応、本書がメインターゲットとする人以外に向けて「変換」出来ている内容になっているんじゃないかな、と思う。

本書の随所で登場する発言だが、売るためには何よりも面白い本でなければならないのだ。それはまあ確かにその通りなのだけど、「面白さ」というのは、見えやすさ・伝わりやすさ・感じやすさみたいなものが様々だ。だからそれらを見えやすくする、伝わりやすくする、感じやすくする、という方向性もまた、売るための一つの努力だろう。本書の内容とは直接的には関係のない話を書き連ねたが、一応僕も業界の末端にいる身としては、「売る」という部分にどうアプローチ出来るのか日々考え行動しているのだ、ということを書いておきたかった。

本書には、ある書店員の言葉として、『だってさー、プルーフ(※発売前に書店員などに配られる見本のようなもの)を配ったって、読む側は<いいコメント>しか書かないし、配る側も<いいコメント>しか求めてないでしょ。<何でも褒めるだけ>の風潮が蔓延してるんだよ』と書かれている。僕は、書店員としては結構珍しいタイプだと思うけど、ダメだったら(自分に合わなかったら)そう正直に書く。作家さんがその感想を目にする可能性があることがちゃんと分かっていて書くのでなかなか緊張することもあるが、でもそうしないとダメだよなぁ、といつも思って書いている。そういう発言をすることで、届けるべきターゲットについての話をすることも出来るし(自分に合わないから、こういう人に勧めた方がいい、というようなこと)、また、自分が書き手側だったらそういうネガティブな感想も欲しいと思うタイプなので、すべての人にではないだろうが、需要もあるはずだと思って書いている。

本書には、著者の次回作の冒頭(本書の出版社とは別版元から出版される予定)が巻末に掲載されている。こういう試みは良いと思うし、というかこれに近いアイデアを、僕はもう大分前から色んな人に言い続けてきた(僕は、ベストセラー作家の新刊の巻末に、新人作家の小説の冒頭部分を載せちゃえばいい、とずっと言い続けていた)。うまく行くのかは分からないが、うまく行くかどうかなんてやってみなければ結果が分からないんだからやるしかない。

あと、あとがき(というか、『「拝啓、本が売れません」をここまで読んでくださった方へ』という文章)が結構良いので、本書のことがなんとなく気になった方は、とりあえずあとがきだけでも読んでみたらいいと思います。


額賀澪「拝啓、本が売れません」

「グレイテスト・ショーマン」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
バーナムは、貧しい仕立て屋の家に生まれた。父の仕事についていった先で、チャリティというなの美しい少女見て恋に落ち、離れ離れになりながらも手紙でやり取りを続け、やがて結婚することになる。裕福な一家であるチャリティの父親は、「娘はどうせ戻ってくる。貧しい暮らしに耐えかねてな」と言い捨てたが、彼らは二人の娘にも恵まれ、決して豊かではなかったが、幸せな生活を続けていた。
ある日、バーナムが勤めていた会社が倒産してしまう。彼は、以前から温めていたアイデアを実行に移す時だと考え、自分の物ではない貿易船の登録証を担保に銀行から金を借り、動物などの剥製を置く博物館を作った。バーナムには自信があったが、客はほとんど来なかった。娘のひと言からヒントを得て、街中から「変わった人間」を集めたバーナムは、異様に背が高い男、成人しているのに背が子どもみたいに小さい男、髭の生えた女性、前身タトゥーの男など、特徴あるマイノリティを集めショーを行った。
このショーが大成功!連日観客で満員で、彼らは笑顔で帰っていく。しかし、批評家の一人は新聞に「ペテン師」と書きたて、バーナムにも「お前が売っているものはすべて偽物だな」と言う。街の住民からは、ダンサーであるマイノリティ達を排斥するような運動まで起こる。しかしバーナムは、自分のやっていることが正しいと信じて、公演を続ける。
ある日バーナムは、社交界で評判の良い演劇を作った若い演出家と知り合い、彼を引きずり込むことに成功する。バーナムはどうにか、自分たちのショーを上流階級にも認めさせようとするのだが…。
というような話です。

調べてみたところ、バーナムという人物は存在していたようですね。この映画がどこまで史実をなぞっているのかは分かりませんが、とりあえずバーナムがサーカスの生みの親である、という部分は正しいようです。

個人的には、まあまあだったかな、という感じです。これはなかなか難しくて、僕はどうしてもミュージカル的な部分をうまく許容出来ないんですね。だからどうしても評価が自分の中で高くならない。ミュージカルという形式に慣れ親しんでいたり違和感を覚えない人であれば何の問題もないんだと思うんですけど、僕は歌が始まるとどうしても「むむっ」って思っちゃって、そこで一旦集中が切れるんですよね。難しいものです。

物語としては、今これを映画にした理由がよく分かるような感じでした。というのは、この映画は、マイノリティの物語だからです。アカデミー賞で黒人俳優が賞を取れない、と問題になったのはちょっと前の話ですけど、やはりそこからでしょうか、マイノリティ的な要素を入れ込んでくる映画が、特に欧米(欧も入るのかは、どの映画がどこ資本のものなのかちゃんと知らないので分かりませんが)の映画で多くなっているような気がします。この映画もある意味では、そういう流れの中にある一本なのかな、という感じがしました。

別に非難しているわけではありません。マイノリティという要素があるお陰で映画にしやすかったという部分はあるでしょうし、そのお陰で、どの程度史実に基づいているのかはともかく、サーカスが生まれた歴史みたいなものを知ることが出来たので、良いと思います。

とはいえ、マイノリティ的な部分が物語のメインにあるのかというと、そうでもなさそうです。やはり物語は、バーナムが市井の人々の評価に飽き足らず、上流階級にも受け入れられようとして色んなものを失いかける、という部分がメインになってきます。その過程で妻とどういうやり取りがあったのか、上流階級に食い込むための秘策だったオペラ歌手との関係はどうなのか、上流階級に食い込もうとしてダンサーたちがどんな風に置いてけぼりにされたか、というような部分が描かれていきます。

バーナムを中心に描いていく、というのは正しかったと思います。この映画は、ショーやダンスや歌の公演などが結構ビジュアル的に美しく撮られていて、その点も映画の魅力の一つでしょう。個人的には、マイノリティ的な人たちにもっとスポットライトが当たる物語だといいなと思いましたが、そうなると美しいビジュアルを削らないといけなかっただろうし、そうなるとミュージカル映画としてのこの映画の魅力も減じてしまったかもしれません。とはいえ、やはり個人的な趣味としては、階級社会が厳然と残る社会の中でマイノリティたちがいかに闘っていったのか、という部分をもう少し描いてほしかったな、という感じがしました。

「グレイテスト・ショーマン」を観に行ってきました

はじめまして、お父さん(山本甲士)

自分の人生において、何を大事にしていくか、ということは、ある程度は明確に持っておいた方がいい、と僕はずっと思ってきた。

僕にとっては、「自由」だ。

僕は、色んな意味で自分を縛ったり制約したりするものが嫌いだ。もちろん、社会の中で一人で生きているわけではないから、完全に制約を無視することは出来ない。日本に住んでいる以上、否応なしに日本の法律には縛られてしまうし、あるいは、僕が男であること、背が高いこと、頭の中に映像を浮かべることが出来ないことなどは、僕個人の変えがたい属性なので、こちらも僕を制約する要因ではある。

しかし、そういうどうにもしようがないものを除いて、後は可能な限り制約から自由でいたい、と僕は考えている。束縛や制約をもたらすものは、基本的に自分の人生から排除したい、と思う。

例えば、「お金」について考えてみる。もし僕が、欲しいものややりたいことに溢れている人間であれば、「お金」というのはそういうものを手に入れたり実行したりする「自由」を得る最良の手段の一つだ。しかし、残念ながら僕には、欲しいものもやりたいこともさほどない。そういう人間にとって「お金」というのが、逆に制約になり得る。

お金を持つことによる制約は、色々想像出来る。お金を持つことで、お金を奪われたり詐欺的な被害に遭ったりしないように、知識を得たり相応の努力をしなければならず、そのために時間やお金が取られる。お金を目当てに寄ってくる人間が増えるかもしれず、そうなれば無駄に自分の時間が奪われることもあるだろう。お金を持っている人間であれば当然そうすべきとされるような行動(欧米では、お金持ちは慈善事業や寄付をするのが当然、という文化がある)をしなければならなくなるかもしれない。あるいは、お金を持つことで、自分が実行できる行動の選択肢が増え、それ故に何をするかを「選ぶ」時間が余計に掛かる、ということもある。

細かく挙げていけばまだまだ色々あるだろうけど、とにかく僕にとっては、「お金」よりも「自由」の方が大事なので、「自由」を縛り得る「お金」は過剰には持ちたくないな、と思ってしまう。

他にも、「家族」「常識」「地位」など、「自由」を制約する可能性のあるものはなるべく欲しくない。

そういう自分の芯みたいなものさえきちんと持っておけば、そこまで大きく人生を見誤ることはないだろう。しかし、自分が人生で何を大事にすべきなのか、はっきりと捉えきれていない人間は、人生のどこかで立ち往生してしまうことになり得るだろう、と思っている。

僕は、金持ちを目指すなとも思わないし、結婚するなとも思わないけど、金持ちを目指したり結婚したいと思ったりする人の中には、自分が本当に求めているものが何なのかきちんと捉えきれず、お金があったり結婚してたりすれば幸せでしょう、という世間の当たり前に流されている“だけ”の人もいるんだろうなぁ、という風に見てはいる。

もちろん、金持ちになったり結婚したりすることが、自分が求めているものと重なる人もいるだろうし、そういう人は何の問題もないんだけど、そうじゃない人がたくさんいるから、離婚する人がたくさんいるんだろう、と僕は考えている。

もちろん、失敗することで見えてくるものもある。だから、失敗することを悪いことだと捉えているのではないのだけど、自分自身のことをある程度ちゃんと捉えておかないと、意味のある失敗が出来ない、ということもまた事実だと思う。失敗が意味のあるものになるように、自分がどうだったら幸せなのかについて、具体的に考える時間を取った方がいいだろうなぁ。

内容に入ろうと思います。
白銀力也は、福岡に住むフリーライターだ。妻・優奈と息子・世界の三人暮らしで、まだ赤ん坊の世界の子育てに追われながら、優奈の営業力と力也の文章力とで、なんとか生計を成り立たせている。
スポーツ雑誌で、九州方面の取材があれば担当しますと言って取材を引き受けたり、地元のミニコミ誌で連載をしたり、時々公募の懸賞に応募したりなんかしながら、なんとか食っている。子育てで妻が働きに出れない現状で、なんとか生活が出来ているのは、少し前に日光書店主催の雑誌企画の公募で金賞をもらい、結構多目の賞金を手に入れたからだ。
その日光書店別冊編集部から電話があり、金賞を取った企画を月刊ニッコウで連載を始めたい、ついてはライターの一人としてお願いできないか、と依頼があった。もちろん断るわけもなく即断したが、その最初の取材相手に驚いた。
合馬邦人。時代劇などによく出演していた割と人気のあった俳優で、芸能人時代から居酒屋の経営も始めていた。それまでも女性スキャンダルなどは度々あったものの、それらとは比べ物にならないちょっとどデカいスキャンダルがあって、それを機に引退、居酒屋の経営に専念することになった。
実はこの合馬邦人、力也の実の父親なのである。合馬は編集部に、遠い親戚だ、と説明しているようだったが。そう、今回は合馬からライターを指名されたのだ。
何を考えているのか分からないまま、翌日早速合馬と会うことにした力也は、恙無く取材を終え、初めて会う実の父親と酒を酌み交わした。本当ならそれで終わるはずだったが、その後合馬から、しばらく自分に付き合ってくれ、とお願いされた。かつて合馬が関わり、様々な事情で謝罪したい相手のところを訪問したい、というのだ…。
というような話です。

やっぱり山本甲士、うまい小説を書きますね。さすがだと思います。本書は、実にシンプルな構成と物語で、時系列があっちこっち行ったり、視点人物が切り替わることもなく、合馬と力也が二人でロードムービーのように色んな人に会いに行く、という実に分かりやすい小説です。しかし、そんな分かりやすい構成ながら、丁寧に人間を描き、細かな部分で感情を揺さぶり、それほど深い設定の物語ではないにも関わらず、「どう生きるべきか」についてふと考えさせられてしまうような、そんな小説でした。

冒頭でも書いたみたいに、本書のメインテーマは「人生で何を最も大事にすべきか」です。合馬邦人という、芸能界で成功し、実業界でも成功を収め、後は海外に隠遁して余生を過ごそう、という人間にとっての「大事にすべきもの」と、そうではないごく一般的な人生を歩んできた人間にとっての「大事にすべきもの」の差みたいなものが浮き彫りになってきます。

「差」と書きましたけど、それは経済格差というのとは違います。ここが面白いんですね。合馬邦人と、合馬邦人が訪ねる人間たちの間にどんな「差」があり、その「差」がどんな風に合馬邦人を打ちのめしていくのか―ここがやはり読みどころですね。

僕は、悪人が登場しない小説って、どことなく胡散臭さを感じてしまう部分があるんですけど、本書は悪人らしい悪人が登場しないのに、いつも感じるはずの胡散臭さを感じませんでした。悪人を登場させないまま、ある種の対立関係を描き出して、そして実はそれが対立関係ではなかった、ということを示す(何を言っているのか分からないでしょうけど、読めば分かります)、という構成は見事で、基本的に良い人しか出てこないのに、よくもこんな風に物語に起伏を生み出せるな、と感心しました。

合馬と力也のキャラクター、そして二人の関係性も良かったと思います。合馬は自信家、力也は小心者とまったくタイプの違う二人で、様々な部分で考え方が食い違うのだけど、それでも生物学的には親子である、という点が二人を結びつけます。とはいえ、親子的な時間を過ごしたことはなく、今回の取材がお互いに初対面なわけだから、そういう部分ももどかしさみたいなものを描かれます。どう接すべきなのか、という葛藤を、特に力也の方が抱えていて、色んな場面で戸惑いながらも、少しずつ打ちのめされていく合馬に寄り添っていく。合馬も、実の息子の前で恥ずかしい真似は出来ない、という意識もあるのだろう、全編で基本的にシャンとした姿を見せながら、ふとした瞬間に表に出てきてしまう弱さみたいなものもある。

彼らの人生はまったくかけ離れた場所で展開されていたのだけど、合馬が力也を連れて4人の人間に会うことで、合馬と力也の間で心理的な逆転現象みたいなものが起こる。生きている時、自分の人生は正しかった、などと確信することはなかなか出来ないものだけど、自分の人生は間違っていた、と感じてしまう瞬間については、色々と想像出来る。合馬にとっては、図らずもそういう現実を突きつけられる旅路だったわけで、しかしそれでも、最終的には合馬にとっても良かったはずだ、と感じさせてくれる辺りがまた良いと思う。

シンプルながら、良く出来た物語だと思います。

山本甲士「はじめまして、お父さん」

ガラパゴス(相場英雄)

僕は運が良かった、といつも思う。

僕は、大学を中退し、就職活動を一切せず、10年以上アルバイトを続けた末に、今に至っている。今どこで何をしているのかをここで書くことはしないが、僕は今、10年前には想像もつかなかったような場所にいる。「場所」というのは、住んでいる地域という意味でもそうだが、立ち位置という意味でもある。今自分がいる立ち位置は、望んで努力したところで手に入るようなものではない。本当に、運が良かったといつも思う。

もちろん、努力はしてきたと思う。努力というか、自分の内側にきちんと何かを積み上げていく意識はずっと持っていた。それが知識であれば技能であれなんであれ、自分の内側に蓄積することが出来れば可能性はある、と思っていた。結果から見れば、確かに可能性はあった。20代の頃、あらゆることに手をつけ、色んなことをやってきたが、その多くが今仕事や人生に活かされている。今ここでこうしてブログを書き続けていることも、僕にとっては大きな財産となっていて、というか、このブログを続けていなければ不可能だったことが、今の僕の生き方を支えていると言っても言い過ぎではないかもしれない。

まあそんなわけで、努力はした。でも、努力だけではどうにもならなかった。僕が今の立ち位置に来るまでには、僕が想像もしなかったいくつかの幸運があった。それは、自分の努力だけではどうにもならなかった類のもので、だから僕からすれば「運」としか呼びようがないものだ。

本当に、僕は紙一重だったと思う。僕が辿ってきた道は、他の人には勧めない。同じ道を辿ったところで、同じ場所に来られるわけではない。

いや、正直に言えば、僕が今いる場所など、別に「運が良かった」などと大げさに言うようなところではないだろう。でも、世の中を見ていると、苦しい生き方をしている人たち、特に若い人たちがたくさんいることが分かってくる。時代が悪いと言ってしまえばそれまでなのだけど、様々な要因から、給料も低く労働環境も悪いところで働かなければならない人たちがたくさんいる。僕も、様々な幸運がなければ、そういう生き方をしていた一人だっただろうと思う。正直20代の終わりぐらいには、遠くない将来自分の人生が行き詰まるだろうな、というイメージしか持てないでいた。僕には、その状況を自分でなんとかする気力はなかったから、そのままだったら普通に行き詰まっていただろう。

本当に、運が良かった。なんとか、しばらくの間は行き詰まらなさそうで良かった。

内容に入ろうと思います。
殺人事件の時効が撤廃されたことで、新たに「捜査一課継続捜査班」が生まれた。迷宮入り寸前の殺人事件を少数の専従捜査員が担当する部署だ。とある事件から警察全体を激震させるような事実を拾いおこしたが故に、この継続捜査班に回された田川信一は、鑑識課の小幡祐治から相談を受けた。警察学校の同期である小幡は、ノルマ強化月間を来月に控えた今、一人も身元を割っていないと泣きついてきた。鑑識課には、身元不明相談室があり、事件・事故・自殺など、様々な理由で死に至りながら、未だ身元が判明していない者たちの遺留品などに関するファイルが置かれている。ここから身元を割り出さなければならないのだ。
田川は協力することにしたが、様々な遺体の写真を見ていて、おかしなことに気がついた。自殺として処理されている事案が、遺体の写真を見る限り明らかに他殺だったのだ。そんなことが起こり得るのか…。しかし、遺体発見の日付を見て、田川は納得した。その前日、西新井無差別通り魔事件が起こっていたのだ。死者8名、重傷者15名以上という大事件であり、その翌日に起こった、自殺に見せかけられた遺体の捜査がおざなりになることは、多少なりとも想像は出来てしまうからだ。
田川は、小幡のためではなく、捜査一課の刑事として、この事件を追いかけることに決める。とはいえ、手がかりは非常に少ない。遺体が発見された現場は当時のまま残されていた。臨場した刑事が自殺と断定したために、鑑識が入ることもなかったようだ。田川は現場をくまなく探し、そこで被害者が残したと思しきメモを見つけるが、「新城 も」と「780816」という文字だけで、何がなんだかわからない。
一方、日本最大級の自動車メーカーであるトクダモータースの社長である松崎は、鬼のようなコストカットで製品価格を下げ、売上を伸ばした。そのコストカットの最たるものが人件費だ。正社員の採用を控え、製品の需要と供給に合わせて派遣社員を増減させるというやり方は、政府が派遣業の規制緩和を行ったからこそ出来たことだ。
そしてトクダモータースの人件費カットの陰には、人材派遣会社を一代で急成長させた、パーソネルの森がいる。あくどいことを平気でやり、脱法すれすれのやり方で、8万人の派遣社員を抱える一大企業となった。
トクダモータースとパーソネルの間には、絶対に表には出せない秘密があった…。
というような話です。

なかなか面白い話でした。明らかに実在する企業をモデルにしている小説で、それが現実とどの程度リンクするのか僕には分からないけど、ここまであからさまに描いているんだから、恐らくただのフィクションとは言えないような事実があるのでしょう(もちろん、殺人事件はないでしょうが)。

本書で描かれていること(現実の企業とのリンクはともかく)が全部正しいとして、本当に日本は恐ろしい国になっているな、という感じがしました。

それまでの時代、誰もが強く望もうとしなくても手に入った日常を、今僕らは、強く願っても手に入れられない、そんな社会に生きているわけです。

もちろんそういう感覚は、漠然と持ってはいました。非正規で働く人が増え、結婚しない(できない)人が増え、子育ての環境が厳しいが故に子どもをあまり多くは育てられなかったりと、川の流れの中における下流での現実みたいなものは、ニュースなんかを見ていれば目に入ってきます。

ただ、下流の現実を生み出す川の中流・上流の現実がどうなっているのか、という具体的なことは知りませんでした。

本書では、人材派遣会社がどんなシステムで成り立っているのかを描き出すことで、社会に空いた大きな穴を見せつけます。正直なところ、ここまでのことが行われているとは思っていませんでした。昔、ドヤ街に住む労働者たちが、日雇い仕事を求めて町の一角に集まるような時代がありましたが、現代でも、見た目こそ変わっているけど、同じようなことが行われているのだ、と感じました。

冒頭で書いたみたいに、僕は本当にラッキーで今の場所にいます。正直、今のような立ち位置にいないで、本書で描かれる派遣労働者のような生活になっていてもまったく不思議ではなかったと思います。本書のラスト近くで田川が、『同じ立場にいたら、私もどういう行動をとったか。はっきり言って自信がありません』と言う場面がある。この気持ちは、僕も分かる。もし僕が、彼らと同じ環境にいたら、何をしてしまうか分からない。僕は、そうならなくて良かった、と思う。でもそこには、たまたま自分はそういう境遇を逃れられただけ、というような罪悪感もある。ある登場人物が、「あいつと俺が入れ替わっていてもおかしくなかったんだ」というようなことを言う場面があるが、確かにその通りだ。

どう考えても、社会が悪い。

ちょっと前に、厚生労働省が出したデータに膨大な不備が見つかったために立ち消えになったが、政府は「裁量労働制」を柱とした働き方改革法案を提出しようとしていた。僕がニュースなどを見て理解したところでは、これは産業界からの強い要請があってのことだったようだ。政府は、労働者にとってもメリットがある、というような答弁を繰り返していたが、産業界の要請ということであれば、基本的に企業にメリットがある仕組みになるだろう。

本書でも、まさにそういう現実が切り取られる。本書で重要なモチーフとなる「期間工」や「派遣労働者」などは、派遣業の規制緩和によって実現している。政府がなんと言って法案を通したのか、もはや覚えていないが、それによって日本は、残酷な働き方を余儀なくされる者が大量に現れる世の中になってしまった。

僕も、書店員として日々本を売る仕事をしている。そりゃあ、本が売れてくれないと困る。困るけど、じゃあ誰かを傷つけたり追い詰めたりしてまで売上を取りたいかと言えば、そんなことは出来ればしたくない。そりゃあ、すべて正しいことをしているなんてことは言わないけど、どこかでマイナスを生み出すことでプラスを得るようなことはしていないはずだ。

これから日本は、益々人口が減り、超少子高齢化も進み、人類の歴史上誰も経験したことがないような時代を経験するだろう。そうなればなるほど、社会のあちこちに歪みが生まれてくることだろう。そういう社会の中で真っ当さを貫き続けるのは難しいかもしれないが、出来れば人としてのモラルを見失わずに生きていきたいと、この小説を読んで感じた。

社会の実相を知るためにも、読んでおくべき一冊だと思う。

相場英雄「ガラパゴス」



「シェイプ・オブ・ウォーター」を観に行ってきました

自分と違うものを排除するのは、簡単なことだ。
「違う」という理由は、何故だかは分からないけど、周囲にも理由として認めさせやすい。
「俺とは」あるいは「俺らとは」違うんだ、という理由だけで、なんでも正当化されてしまうような可能性は、いつでもどこでもあり得る。

僕は願いとして、そうではない自分でありたい、と思っている。
「違う」以外の別の理由があるならまだいいけど、「違う」というだけの理由で何かを決断したり行動したりしたくはないな、といつも思っている。

というか、「違い」というのはそもそも、見方の問題でしかない。
猿と人間のDNAは、ほんの僅かしか違わない、と言われる。見た目は、まあ結構違うだろう。四足歩行とか尻尾があるとか体毛があるとか、結構色々違う。でも、DNA的にはほぼ同じだという。

つまり、見た目で判断すれば違うけど、DNAで判断すれば同じだ、ということだ。
そしてこういうことは、どんな場合でも考えられる。

とすれば、こう考えるべきだということになるだろう。
「違う」から排除するのではなく、排除するために「違い」の出る見方を採用するのだ、と。
彼らは恐らく言うだろう。いや、「違う」から排除するのだ、と。しかしそうではない。排除するために「違い」を見つけるのだ。そういう意識で無ければ、わざわざ「違い」を見つけるなどという方向に行くはずがない。

じゃあ本当の理由は何かと言えば、邪魔だとか気に食わないとかムカツクとかそういうことだろう。こういう理由は、すんなりとは周囲に受け入れられにくいはずだ。だから「違い」を見つけて正当化しようする。

人間の歴史なんて、そういうくだらない理由の積み重ねでしかないだろう。

そんなくだらない人間にはならないようにしたい。
なるべくそう願いながら生きている。

内容に入ろうと思います。
ソ連と宇宙開発を競っている冷戦時代のアメリカ。航空宇宙研究センターという研究所で掃除婦として働くイライザは、喋ることが出来ない。黒人の同僚・ゼルダと組んで所内の様々な場所の掃除を手がけている。
ある日この研究所に、新たな“対象物”がやってくることになった。イライザらは掃除中にその搬入現場に遭遇し、イライザは水の満たされたタンクに閉じ込められた謎の生物をチラリと目撃する。
その生物の警備担当だというストリックランドという男が、ある日研究室から血まみれで出てきた。どうやら指を噛まれたらしい。掃除を命じられたイライザは、そこで初めて謎の生物の全体像を見ることになる。
それまで判を押したような、家と職場を往復するだけの単調な生活を続けていたイライザだったが、その生物と関わるようになってから気分が明るくなっていく。お互い、声は出せないのだけど、ゆで卵をあげたり、音楽を聞かせてあげたりしながら、イライザは少しずつその生物とのコミュニケーションを深めていく。
しかしある時、衝撃的な事実を耳にしてしまう。宇宙開発でソ連に負け続けているアメリカは、水中と空気中どちらでも呼吸が可能なこの生物を生体解剖して秘密を探ろうとしている。
感情も知性もあるこの生物を殺させてはならない―。イライザは、同居する売れない画家であるジャイルズに助けを求め、救出作戦を練ることになる…。
というような話です。

アカデミー賞を受賞した作品ですが、受賞する前から観ようと思ってた作品です。ストーリーは、実にシンプル。舞台背景とか人物の性質とか色々剥ぎ取ってみると、出会って心を通わせあって危機から救う、という、非常に単純な構造の物語だと思います。

この映画に関しては、そのシンプルさはとても良かったと僕は感じます。というのも、物語の本質以外の部分での要素が色々多いからです。冷戦下のアメリカ、得体の知れない生物、口の利けない掃除婦、関係性が分からない年上男性との同居、裏で暗躍している風の謎の組織…などなど、この映画を支える要素というのが結構多いんですね。これらが、複雑な構造の物語の中に放り込まれていたら、ちょっと食傷気味になってしまっていたかもしれないけど、この映画は、ストーリーライン自体が実にシンプルだったので、特異的に描かれていくそういう様々な要素がゴテゴテしすぎずに済んでいるような感じがしました。

イライザは口が利けないので、最初は何故彼女が謎の生物に惹かれたのか、イマイチよく分からないままでした。でも、ある場面で彼女は、その理由を明確に話します。その理由が、なるほどなぁ、という感じで、僕の中ではその場面を前後に、映画の見え方がガラッと変わったような印象を受けました。

そのシーンまでは、「ちょっと変わった恋愛物語」的な感じでしか見てなかったんだけど、そのシーンを見てからは、「自分という存在をどう認めるのか」という見え方に変わりました。

ストリックランドが、掃除婦であるイライザとゼルダに向かってこう吐き捨てる場面があります。

『クソを片付け、小便を拭く女たちだ』

そういう時代だったということももちろんあるのだろうけど、彼女たちはただ「女性だ」というだけの理由で蔑まれているように見えます。またストリックランドは、強烈な成果主義、階級主義の世界で生きています。映画の中でメインの舞台となるのは、ストリックランドが支配する日常なので、ストリックランド的な世界観から見れば、自分と同じような土俵で闘っていない者、つまり女性だけではなく科学者や黒人なども蔑みの対象として含まれていくように思えます。

イライザの視点からすれば、ストリックランドの世界観の中では、女性であり、さらに口が利けないという意味で障害者でもあるので、自分をなかなか肯定しにくい。同居している男性との関係や同居に至った経緯などは映画の中ではっきりとは描かれていなかったものの(「夫婦」ではなく「同居」と判断したのは、画家がゲイであるかのような描写が一瞬描かれるため)、朝出勤前にバスタブで自慰をしている(んだと思う、たぶん)毎日であり、職場を離れた場所でも自分の存在をまるっと受け入れてくれるようなものはない。

彼女がその生物に惹かれたのは、もちろん最終的には恋心に昇華されるものなのだけど、最初は「自分を受け入れてくれている」という感覚だったのだろうと思う。彼女の日常を構成する人間たちからは、彼女にそういう感覚を与えてくれる者はいない。唯一、同僚のゼルダだけがそういう存在に近いが、イライザとゼルダの関係性は、イライザが喋れないという事情を抜きにしても、ゼルダが一方的に喋り倒すようなもので、受け入れる/受け入れられるという関係性とはちょっと違う。

その生物とは、言語的なやり取りは一切出来ない。イライザは喋れないし、その生物も喋れないようだし、仮に喋れても言葉が通じるとは限らない。触れたりするような直接的なやり取りもほとんどない。けれども、イライザには感じるものがあった。そしてそれは、後にイライザが説明してくれることによって、僕らにも納得できるものだと分かる。

誰かを、あるいは何かを肯定していくというのは、実は結構難しいことだったりする。無意識の内に、色んな考えや価値観に冒されていて、自然と否定の方向に進んでしまっていることというのはよくあることだ。自分以外の誰かがそういう行動を取っていれば分かるのに、いざ自分のこととなると簡単にはいかない。だからこういう映画を見て、改めて思い直すことは大事なのだと思う。それぞれ個人にはその個人なりの考えが様々にあって、それらは可能な限り尊重されるべきだし、そうであればあるだけ、自分も世界から尊重され得るのだ、と。

あと、見ていて気になったのが、謎の生物に最後まで名前(呼び名)がつかなかったこと。意図があってのことなのか、たまたまなのかは分からないが、イライザでさえ最後まで「彼」というような呼び方しかしていなかった。イライザとしては、ずっと一緒にはいられないと分かっていたからこそ名前をつけなかったのか、あるいは自分なんかが名前をつけるべきではないと考えたのか、あるいは名前などつけてもイライザは呼びようがないからつけなかったのか、あるいは他の理由なのか。色々考えられるなと思う。

「シェイプ・オブ・ウォーター」を観に行ってきました

「空海 KU-KAI 美しき王妃の謎」を観に行ってきました

いやー、全然分からんかった(笑)
映像は凄かったし、金かかってんなぁって感じだったし、スピード感もよかったし、別に悪い印象はないんだけど、でもとにかくストーリーはあんまり理解できなかったなぁ。

一応内容に触れてみよう。
まず、黒猫が出てくる。この猫は、喋る。近護衛っていう、皇帝の警護をする役職の屋敷に現れて、その妻(?)に、夾竹桃の根本に金貨が埋まってるから、とか言って去る。で、金貨出てくる。みたいな。
空海は唐にやってきて皇帝に会おうとするんだけど、でも空海の眼の前で死んじゃう。7日間ぐらい苦しみ続けてたって。で、役人から「風邪で崩御」って書けって言われて断った白楽天と一緒に行動することになる。皇帝の死の直後、空海は黒猫の毛を見つけてて、なんだかんだあって、皇帝の死に黒猫が絡んでるんじゃ?みたいなことになってくるんだけど、でもなんだか全然分からない。
その後も、黒猫は八面六臂の大活躍。遊郭で大暴れしたり、近護衛の屋敷にまた現れてわちゃわちゃしたりして、空海もあっちこっちで振り回されていく。
で、その過程で、空海気づく。あの黒猫、もしかして、30年前に殺された楊貴妃の死の真相を伝えようとしてるんじゃないか、って。
みたいな感じです。

いや、正直、なんだか分からない。とにかく、出てくる単語が理解できないものばっかりで結構大変だった。僕が見たのは吹き替え版だったんだけど、これ、字幕版もあったのかなぁ。字幕で見てれば、もしかしたらもうちょい理解できたのかも、って気もする。耳では全然聞き取れないような、初めて聞くような単語がオンパレードだったんだけど、文字で見てたらもしかしたらもう少しは理解できたかもなぁ。

そもそも、楊貴妃が殺された(ってか、死を迫られた)ってのも、僕はこの映画を見て初めて知ったくらい。それって、世界史の授業で習ったりする知識だったりするんかな?僕は歴史の授業はまともに受けたことなかったから、そうか、楊貴妃って殺されちゃったんだね、みたいな感じだったから、普通の人とはちょっと見方違うかも。

猫が喋るのもそうなんだけど、とにかくSFチックな設定がバンバン出てくるから、どういう気分でこの映画を見ればいいのかちょっと難しいのもあった。空海とか阿倍仲麻呂とか楊貴妃とか、みんな知ってる人物が出てくるわけだから、当然歴史的な事実をベースにしてる物語だと思ってみるんだけど、黒猫とか鶴とか虎とか桜とかそういうのが、そういうスタンスをぶっ壊しに掛かってくる。えっ、これって、フィクションなのはもちろんフィクションだと思って見てるけど、SFっていうかファンタジーっていうか、そもそも別世界の話だと思って見ればいいの???みたいな困惑はあって、その点も個人的には難しかったなぁ。

映像的には結構凄かった。どこまでがCGでどこまでが実写なのか分からないけど、明らかにこれは街を実際にまるっと再現してるんだろうな、みたいな場面もあって、金の掛け方が半端じゃないなって思った。日中合同の制作らしいけど、だからってハリウッドみたいに格段に制作費が上がるみたいなことってあるんかしら?衣装とか彫刻とか建物とかも、たぶんこの映画のために作ったみたいなのも多いだろうし、凄いよなぁ。今ネットで調べたら、セットを作るのに6年掛けたって。東京ドーム8個分の土地に、長安の街をまるっと再現したとか。総製作費150億円らしいけど、ひぇーです。

たぶん、ストーリーを理解させることをある程度諦めてスピード感を採ったんじゃないかなって僕は思うんだけど、まあそれは正解だったかもって気がする。僕は読んでないけど、そもそも原作は文庫で全4巻っていうクソ長い小説だし、それをどんだけうまくまとめようとしたって、映画の尺の中でまともにストーリーを理解してもらうようには作り変えられないだろうな、と。だったら、映像美とスピード感でグイグイ押していく、っていう造りにするのは正解だったと思うし、僕的には、ストーリーがほぼ理解できなかった割には映画全体に対する満足度はそこまで低くなかったかな、という感じです。

まあとはいえ、人に勧められる映画ではないかなぁ。映画を、映像美とかで見る人には良いと思います。

「空海 KU-KAI 美しき王妃の謎」を観に行ってきました

鍬ヶ崎心中(平谷美樹)

内容に入ろうと思います。
時は明治元年。盛岡藩にある鍬ヶ崎村は、小さな港町でありながら、盛岡藩有数の花街だった。そこに住む千代菊、26歳は、3~4番手の格となる妓楼・東雲楼で長いこと女郎として生きている。東雲楼で一番年上の女郎であり、12歳で売られてから15年、既に実家で暮らした年月よりも長くここにいる。
来年になったら年季が明ける―そのことだけを思って日々をやり過ごしていた千代菊だったが、楼主の弥右衛門に難癖のようなことを言われ、年季が明けるまであと数年掛かると分かった。
あらゆる苦しみに傷つけられた心と身体は、鈍麻していると思っていたが、まだまだ痛みを感じるのだと知った。
ある日、侍が東雲楼にやってきた。髭の男は、東雲楼の3階にある隠し部屋を通年で貸してくれという。七戸和磨という密偵をそこに匿え、ということのようだ。盗み聞きしていた千代菊は一計を案じ、押し問答の末、なんと和磨に身請けしてもらうという形で話をまとめた。しばらく隠し部屋で、足の悪いこの侍の世話をしなくちゃいけないが、そんなことは大した問題ではない。千代菊は、自由になった身の上を喜んだ。
お礼にとばかりに、身体で奉仕しようとする千代菊だったが、和磨に「そんなことはしなくていい」と言われてしまう。うまく距離感も掴めないまま、和磨に見捨てられたら生きていく場所がなくなるとばかりに必死で関わりを持とうとする千代菊だったが、やがて和磨から、ここに至るまでの厳しい道のりを聞き、次第に千代菊は「七戸和磨」という男への気持ちを高まらせていく…。
というような話です。

内容紹介には書けませんでしたが、本書は史実である「宮古湾海戦」をベースにしている物語です。正直僕はこの海戦のことは知りませんでしたが、新政府軍と旧幕府軍のギリギリの攻防が行われていた頃のことだそうです。

さて本書は僕にはちょっと難しかったです。「難しかった」というのは、内容が高尚であるとかそういうことではなくて、単に僕が歴史の知識に疎い、というだけのことです。平谷美樹の作品は時々読みますが、僕がこれまで読んだ作品は、舞台や設定こそ史実をベースにしながらも、史実そのものを描いているわけではない作品が多かったのでまだついていけました。

でも本書は、確かに七戸和磨と千代菊という人物は虚構なんでしょうが、描かれているのが「宮古湾海戦」を中心とした明治維新に至るまでの史実で、だからこそ僕にはちょっとハードルが高かったです。物語のベースは、和磨と千代菊の関わり合いなんですが、その背景にはきちんと歴史の流れがあって、僕にはその歴史の流れがうまく捉えきれなかった。会津藩がどうした、盛岡藩がどうした、佐幕と倒幕がなんちゃら、どっち側の人間だったかちゃんと覚えられない人物たちがあーだこーだした、みたいな描写が結構多くて、正直、歴史が嫌いで歴史の知識がこれっぽっちもない僕には、結構読むのに苦労する作品でした。途中で、背景的な部分を理解するのを諦めてしまいました(だから、後半は、和磨と千代菊がどう動いているか、という部分にだけ注目して読みました)。

和磨が抱えている鬱屈と、それを知ってしまった千代菊の、どうすることも出来ない歯がゆさは、良かったなと思います。和磨は武士としてしか生きられず、千代菊は、女郎ではなくなったけど、とはいえ12歳から女郎しかしてこなかったのだから、世間のことなどほとんど分からない者としてしか生きていけない。大きく世の中が変わった時代に生きている僕らからすれば、千代菊の葛藤はともかく、和磨が抱えている「戦って死ななければ」という焦燥みたいなものは馬鹿馬鹿しく感じられてしまう。でも、そういう時代だったのだから仕方ないのだろう。和磨は、武士としてのプライドさえ捨てることが出来れば、いくらでも生きていく道があっただろう。しかし和磨は、武士であることに、そして武士として死ぬことにしか価値を見出すことが出来なかった。読んでいて、その点へのやりきれなさみたいなものは強く感じた。

千代菊の、自由を希求していたのに自ら囚われたような生き方に固執してしまうような感じは、傍から見て良いとか悪いとか言いにくいものがあるけど、千代菊としてもそう生きる以外になかった、という切実さは感じ取ることが出来ました。自分を囚えるものが変わっただけで、結局窮屈な生き方をせざるを得なかった千代菊は、しかし、和磨を好きだと自覚することで、ほのかな自由を感じることが出来たのかもしれない、と思います。和磨はプライドさえ捨てれば別の生き方はあっただろうけど、千代菊の場合は、ちょっと難しかったかもしれません。和磨をだしにして身請けされた形を取ったことで、結局千代菊の生き方は狭められてしまった。それでも、それまでの人生より遥かにマシだっただろうとは思いますが。

歴史的な記述に僕はついていけませんでしたが、歴史の知識がごく一般程度にある人には、面白く読める小説なんじゃないかなと思います。

平谷美樹「鍬ヶ崎心中」

「15時17分、パリ行き」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
15時17分、パリ行きの列車内で、銃器を携行した男に立ち向かった男たちがいた。
アンソニー・アレク・スペンサーの三人は、小学校の頃からの“悪友”だ。いつも校長室に呼ばれて、問題児扱いされていた。彼らは、引っ越しなどで離れ離れになってしまったが、その後も連絡を取り続ける関係が続いていた。
アレクとスペンサーは、軍に入隊した。彼らはそれぞれの役目を担ったが、スペンサーは軍内での自分の在り方に不満を抱えていた。元々、パラレスキュー隊を希望して、奮闘の末肉体を絞り軍に入隊したにも関わらず、ある適性が足りなかったせいでパラレスキュー隊を希望することが出来なかった。スペンサーはヤケになったが、子供の頃に「私を平和の道具にしてください」と神に祈りを捧げていたように、人の役に立つことをしたかった彼は、望んだ任務ではなかったが、与えられた役割を全うしようと努力した。
スペンサーの提案で、アンソニーと二人ヨーロッパへ旅行をすることになった。イタリアで美女に声を掛け、アムステルダムで魅惑的な夜を過ごした彼らは、途中で合流したアレクと共に、予定通りパリへと向かうことにした。
その車中―その事件は起こった。
というような話です。

最近観る映画は、事実を元にした作品が多い。僕が意識的にそういう作品を選んでいるということもあるだろうが、やはり欧米の作品にそういうタイプの映画が多い。日本の映画だとあまり、事実をベースにした作品を見かけることがない。日本の場合、映画というよりはドキュメンタリーというテイストになってしまうことが多い印象がある。そして、ドキュメンタリーだと、なかなか多くの人の目に触れるように上映することが難しいのかもしれない。

僕は、自分の人生や日常のことに大して関心はないのだけど、「知りたい」という欲求は結構強い。自分が今まで知らなかった事柄、特に、そういうものが存在することさえ知らなかったような出来事について知ることに、強い関心がある。

映画の中で触れられていたように、彼ら4人(映画でメインで描かれていた3人に加えて、もう一人車内で重傷者を救うために奮闘した人がいた)はフランスから勲章が与えられたし、アメリカ国内でも大きく取り上げられたようだ。しかし、僕はこの、一般人がテロを未然に防いだという事実を、たぶん今まで知らないでいた。世の中、そういうことばかりだ。知る必要のない、どうでもいいくだらないことは、テレビやネットを見ていればいくらでも知ることが出来るけど、人間が本当に知るべきことというのは、自分から意識して知ろうとしないとなかなか知ることが出来ないものだ。

『人々に知ってもらいたい。危機に瀕した時は、行動すべきなのです』

勲章を授与された際、3人の内の一人がそう語っていた。僕は、いざ自分がそういう立場に立たされた時、行動できるかどうかは分からないけど、自分を危険に晒しても誰かを助けることが出来たらいいなぁ、という気持ちはある。だから僕にも、「私を平和の道具にしてください」と神に祈っていたスペンサーの気持ちは、分かるつもりだ。自分なんかに大したことが出来るわけがない、と思っているからこそ、いざという時ぐらい、行動できる人間でありたいなと思う。

正直なところ、「この話は事実が元になっている」という部分以外で、映画として何か特筆すべきことがあったとは感じられなかった。誤解しないで欲しいのだけど、決してこれは映画を貶しているわけではない。事実の強さを伝えることが出来るというのも、映画の持つ役割だし、そういう点でこの映画は力強さを発露している。

もしかしたら知らないで観た方がいいかもしれないから、ここでは書かないけど、僕はこの映画の実に特異な点を知らないで観た。観終わっても、気付かなかった。ライトが点いた後、映画館で観客の一人が、「◯◯って◯◯だったよ」と言っていて、それを耳にして「嘘っ!」と思った。で、家に帰って調べたら、本当にそうだった。いや、驚いた。確かに映画の最後の方で、あれっ、とは思った。でも、その違和感はすぐスルーしてしまった。だって、まさかそんなことをするなんて、想像もしなかったから。もしかしたら、知った上で観た方が面白い可能性もあるから、気になる方はネットで調べてみてください。この映画に関する何かしらの記事を見つければ、たぶん書いてあると思います。

「15時17分、パリ行き」を観に行ってきました

物を売るバカ 売れない時代の新しい商品の売り方(川上徹也)

『物(=商品)だけを売って飛ぶように売れる時代はもうとっくに終わっています。どんなにいい商品でも、それだけを売ろうとしたらなかなか売れない。頑張っているのにバカをみてしまう。普通では売れない時代だからこそ、新しい売り方が必要なのです』

僕もこのことを、2つの意味で実感している。一つ目は、「物だけ売ってても売れない」という点。僕自身も、書店という小売で働いているので、その実感は日増しに強くなっていくという感じです。

そしてもう一つが、「新しい売り方が必要なのだ」という点。具体的には書かないけど、僕は日々、様々な「新しい売り方」を模索してあーだこーだやっている人間だ。それらのチャレンジが、周囲や世間にどう伝わっていくのか、という実感を大なり小なり得ているので、こちらも実感としてある。

物を売るんじゃなかったら何を売るのか。それが「物語」です。具体的な事例は本書に様々に載っているので是非読んで欲しいのだけど、元々知ってた話で、本書の中でもインパクトのあったビール会社の話を少しだけ書こう。そこはアメリカで5番手のビール会社だったのだが、広告会社の提案で「あること」を押し出したところ、たった数ヶ月でシェア1位を獲得したという。ただその「あること」というのは、ビール業界にいる人ならば誰もが知っている、誰もが当然だと思っていることだった。しかし広告会社の担当者は、ビール業界に詳しいわけではなかったから、その「あること」が非常に新鮮だと思ったし、それは他の生活者も同じだと考えた。だからこそ、「そんなことをアピールしても意味がない」というビール会社からの猛反対を押し切って、その「あること」を押し出したのだ。

ある意味で、これも「物語」なのだ。結局、「物」(今の例で言えばビール)以外のどの部分に価値を感じてもらうか、という発想であり、その「物」以外の価値に「物語」という名前を付けている、と捉えればいい。

本書に載っている事例を挙げればキリがないが、僕としてはそれらの事例を読んで、自分が日々意識している方向性でもあるので、納得感もあったし、やっぱりそうだよねという感じだった。「物」で差別化出来るのは、資本のある大手だけ。中小はそういうレベルで闘ってはいけないのだ。

僕も働く中で、そういう感覚を少しずつ身につけていった。「書店」というのはそういう意味で、「物語で売る」というのに最適な環境ではある。何せ本は、値段は変えられないし(定価が決まっている)、どの書店で買ってもまったく同じものが売られているのだ。品質や値段なんかで差をつけようがない。だったらどこで勝負するのか―それは、「物」以外、つまり「物語」しかない。

本書を読んで、具体的なアイデアが得られる、ということはないだろう。もちろん、思考のための参考にはなるだろうけど、それ以上に本書は、現状を把握するために有用だと思う。未だに「物」の勝負だと思って商売をしている人がいるとすれば、本書を読んで考え方を変えなければならないだろう。少なくとも日本においては、「物」は(サービスも含めて)高いレベルで安定しているわけで、どう頑張っても差別化出来ない。だったら、「物語」でどう闘うかを考えなければならない。

本書に載っている例ではないが、以前聞いた話を書いてみよう。書籍を音声で聴く、というサービス開発を請け負いたい企業や個人などを集めてプレゼンをさせる、ということがあった。そこには、誰もが名前を知っているような一流企業も参加していたのだけど、見事プレゼンで勝ったのは、一流企業ではなく一個人だったという。その人物には、目が見えなくなってしまった祖父がおり、その祖父のためにオーディオブックを開発したいのだ、と熱弁したという。まさにこれは「物語」だと言っていい。結局その人物がスタートさせたオーディオブックは、その分野での先行者として大きなシェアを誇っているようだ。

『商売における「物語」とは、創るものではなく、発見するものです』

自分が当たり前だと思っていることでも、当たり前ではないと感じられるかもしれない。自分の仕事と関係ないと思っていたことが、お客さんの琴線に触れるかもしれない。そういう視点で、自分の仕事周りを見直してみる必要があるだろう。

川上徹也「物を売るバカ 売れない時代の新しい商品の売り方」

終わった人(内館牧子)

僕は昔から、暇つぶしのために生きている、と思っているし、機会があればそういう発言もしている。
「暇つぶしのために」というのは、なかなか意味不明な表現だろうけど、僕の感覚としてはピッタリくる。

僕には、特別やりたいことは何もない。
やってて面白いことはあるし、っていうか大体何をやっても楽しめる人間なんだけど、でも、心の奥底からそれをやりたくって仕方がない、みたいなものはない。美味しいものを食べるのも、綺麗な景色を見に旅行に行くのも、恋愛絡みの何かも、別にどうでもいい。

僕には、自分自身を支える芯みたいなものがない。いや、考え方や価値観の芯はある。ただ、自分の人生を貫くようなもの、自分の人生に意味を持たせるようなもの、そういうものはない。

自分にもない、と思う人もいるかもしれないけど、僕には子供を育てている人の多くが、「子供」という存在がそういう芯のようなものであるように見える。もちろん、虐待をする親なんかもいるわけだけど、子供が出来ると今までとまるで変わってしまう、なんていう話も結構耳にする。だから、そういう人の人生には、支えとなる芯があるのだと僕は思う。

僕には、それがない。いや、ないことを嘆いているわけではない。むしろ、意識的に持たないようにする意識もある。何故なら、そういう芯を持ってしまったら怖いからだ。だって、その芯がなくなってしまったら、その後どうやって生きていけばいいのか…。

そんな風に考えて、ずっと生きてきた。だから僕は、今も自分を支える芯がないし、これからも持つつもりもない。

芯を持つよりは、その時その時の現実にするりと合わせていく方が僕には合っていると思う。

本書の主人公は、東大を出て銀行に入りエリートコースを順調に進んでいたはずの男だ。彼にとって仕事は、彼の人生を燦然と輝かすものだった。しかし、そうであるが故に、仕事がなくなってしまうと、途端に人生が真っ暗になってしまう。そりゃあそうだ。仕事という唯一の光源を失ってしまったのだから、真っ暗になるのは当然だ。

僕は、それがいくら光輝くキラキラしたものであっても、自分の内側に絶対的な光源を持ちたくはない。それよりは、その時々で、目の前の現実からちょろっと光源を拝借する程度でいい。探せばいつだって、目の前の現実から何か自分にとって光源になりそうなものくらい見つけられるだろう。

僕は、家を欲しいと思ったことがない。家を持ってしまえば、その家に縛られるからだ。例えば、近所にゴミ屋敷が出来るかもしれないし、子供がいじめられて転校を検討しなくてはいけなくなるかもしれない。そういう時、持ち家があると動きづらい。まったく動けないわけではないだろうが、動きにくいのは確かだろう。

その点賃貸なら、何か困ったことがあっても、引っ越せばいい。その身軽さが素敵だ。色んな考え方があるのは知っていて、確かにお金的な面で見れば家を買ってしまう方が安く済むのかもしれないが、僕は賃貸を選択し、家を買うよりも多くのお金を使って、その身軽さを「買っている」という意識がある。

この考え方はそのまま、生き方全体にも当てはまる。何かはっきりとした、自分の人生はこれなんだ、というものを持ってしまえば、そこから動きづらくなる。それよりは、明確なものはないけど、その時その時で自分の人生を豊かにしてくれるかもしれないものを目の前の現実の中に見つけ出していく方が、結果的にはずっと穏やかでそれなりに楽しく生きていけるだろう。

『俳優でも作家でも映画監督でも芸術家でも何でも、世代交代と無縁でいられるヤツらは天才よ。それと同列に並ぼうったって、努力でどうにかなるもんじゃない』

そう、凡人は凡人らしく生きた方がいいだろう。

内容に入ろうと思います。
田代壮介は、東大を卒業し、大手であるたちばな銀行に就職、順調に出世していくも、49歳で子会社への出向を命じられ、51歳で転籍となった。完全に「終わった人」だ。そして今、退社の日を迎えた。本書の書き出しは、「定年って生前葬だな」である。
仕事一筋で生きてきた壮介には、仕事がなくなってしまうとやることが何もなくなってしまう。妻の千草は、43歳の時に突如ヘアメイクの専門学校に通い始め、今は美容師としてサロンで働いている。娘の道子は結婚して家を出ている。縁戚であるトシは、「トシ・アオヤマ」として有名なイラストレーターであり、同年代でありながら醸し出す雰囲気が若いし、定年とは無縁の人生だ。
ずっと家にいて、暇を持て余す壮介だったが、しかし色んなプライドから、ジジババが集う場所には行きたくないと思ってしまう。カルチャーセンターや図書館などは最悪だ。また仕事をしたいと思うが、華麗な経歴が逆に足枷にも成りうるし、そもそも今までの仕事とは比べ物にならないレベルの仕事しかないだろう。そもそも、あと数年は会社にいられたが、給料が大幅に減額され、さらに社内でロクな仕事もないのに若手に気を遣われるのが嫌で、延長はしなかったのだ。そんな自分が、ハローワークで手に入る程度の仕事をするわけにはいかない。
しかしさすがに暇過ぎて、ようやく壮介は、プライドが邪魔して出来なかったことを、なんだかんだ理由をつけて始めてみることにしたが…。
というような話です。

これは面白い作品だったなぁ。老後とかって、もうすぐ35歳になる僕にはまだまだ先の話なんだけど、それでも人生の終着の一つの在り方を見せられたことで、今どう生きるかという視点に影響が出るなぁ、と感じました。

僕は少し前に、「老後破産 長寿という悪夢」という本を読んだ。NHKスペシャルの内容を書籍化したもので、年金もちゃんともらい、貯金をある程度持っていても、ちょっとしたことで簡単に経済的に行き詰まってしまう、という、現代のお年寄りの現状を切り取った作品だ。

この「老後破産」は、お金の面から老後を描いた作品だ。お金の話は、とても重要だ。働かなくなることで年金以外の定期収入がなくなれば、お金とどう関わっていくのかは真剣に考えざるを得ない。

しかし、本書「終わった人」を読んで理解できるのは、問題は決してお金だけではない、ということだ。

本書の主人公は、お金的な面で言えば恐ろしく恵まれている。日本全体の中では、かなり上位の方に属する、富裕層と呼んでいい人種だと思う。通常であれば、そういう主人公は、読者の感覚とはかけ離れているために、共感されにくい面もあるだろう。しかし、本書の場合はちょっと例外だ。本書では、壮介はお金には困っていない、という設定にすることで、純粋に「老後という時間」の苦しさに焦点を当てることが出来ている。もし本書にお金の問題も絡んでくるとしたら(いや、本書にしても、まったく絡んでこないわけではないのだけど)、「お金がないからこうなのであって、それってお金があれば解決するんじゃないの?」という疑問を拭えないだろう。しかし本書の場合、お金の問題をほぼ排除することで、老後の問題をより純粋に描き出しているように感じられる。まずその点が面白い。

冒頭で僕が書いたように、壮介の場合、「仕事」というものにすべての比重を傾けすぎたために老後がしんどくなってしまった。これからすぐに老後を迎える、という世代にもそういう人はきっと多いだろう。仕事をがむしゃらにやることが良いのか悪いのか一概には言えないけど、本書を読むと、老後ということまで視野に入れて仕事や生き方を選ぶ、という発想はアリだよなぁ、と思う。そういう意味で本書は、大学生や働く若者にも読んで欲しいと思う。

また本書は、女性が書いているが故の視点や描写の鋭さみたいなものがかなり光る作品だと思う。主人公は男だが、普通男だったら気づかないだろう感覚まで本書では描かれている。わかりやすく伝えられる例は、銀座のクラブのママが言った「スーツって息をしてるの」という発言ぐらいだが、妻とのやり取りや、途中から登場する浜田久里という女性との関係の描写なんかは、まさに女性の嗅覚や観察眼みたいなものが光る描写が多いと思う。老後という、派手なことが起こりにくい状況を舞台にしている以上、物語を動的に動かしていくことはなかなか難しい(まあ本書では、そういう動きも結構あるのだけど)。けど、女性的な視点で心理描写を濃厚に描き出すことによって、本書は静的な動きが映える作品に仕上がっていると思う。その点もとてもいい。

物語は、壮介を中心に、様々な人間関係が描かれていき、それぞれにおいて様々なドラマがある、なんていう雑な紹介をするしかないぐらい色々描かれるんだけど、その中でもやはり印象的なのは、壮介の高校時代の同級生たちとの話だ。

壮介は、高校時代から神童的な扱いで、東大を出て大手銀行に入るという、まさに地方からのし上がっていくような道を進んできた。そのことに壮介自身も自負があったし、それ故、出向や転籍などの話も出来ないでいた。ずっと、「たちばな銀行」のエリートコースを進んでいると思われたかったのだ。

しかし、色んな関わりがある中で、壮介の気持ちは様々に動いていく。特に、高校時代目立つわけではなかった同級生が、今時分なりの生き方を見つけて、これからも静かに輝き続けていくだろう姿を見ることで、壮介の心は揺れていく。もちろん、もう過去には戻れないし、壮介は自分が辿ってきた道を否定したいわけでもないのだけど、定年を境に「終わった人」になってしまった現状を鑑みて、別の生き方もあったのではないかと思ってしまうのだ。

人生の良し悪しは、どこか一部だけ切り取って判断できるものではなくて、まだ自分が経験していない未来に何が起こるかなんて誰にも分からないのだから、考えても意味がない。良いことも辛いこともそれなりにあって、人生の早い段階で良いことを使い切っちゃう人もいるだろうし、遅咲きの人もいるだろう。そんな風に思えるから、僕は自分の生き方を誰かと比べようと思わない。僕は僕なりに、僕の価値観に沿って、自分の人生がまあまあ悪くはないなと思えている。それで十分だ。

なるべく50歳ぐらいで死にたいと思っているのだけど、まあそう簡単には行かないだろう。僕にも、「老後」と呼ばれる時間がやってくる可能性は十分にある。嫌だな、と思いつつ、昔から僕は、明確な芯を持たないようにする、という意識を持つことで、ちょっとずつ準備をしているつもりだ。

内館牧子「終わった人」

1行バカ売れ(川上徹也)

昔から、自分の言動が周囲にどう受け取られるのかに関心があった。

「関心があった」などと書くと非常に冷静な風だが、実際はそうではない。いわゆる、周りからの目を気にしてオドオドしてしまうような、そんな子供だった。でも、だからこそ、自分の言動が相手にどう届いているのかに強い関心を持つことが出来、また、自分がしようと思っている言動がどう受け取られる可能性があるのかを考えることが出来るようになった。

そしてそのことが今、自分の仕事に大いに活きている、と感じるのだ。

僕は、本屋で働いている。モノを売る仕事だ。現場における裁量はかなり大きく、発注や売場づくりだけではなく、企画全般についても、特に上司や会社の許可なく大体色々出来てしまう環境にいる。

そんな僕が日々やっていることが、「言葉」を駆使していかに本を買いたいという気分になってもらうか、ということだ。僕の仕事のメインと言ってもいい。

もちろん、やらなければならない業務も山ほどあるので、常にというわけにはいかないが、とにかく隙間を見つけては、売るべき本を探すことと、その本をどう売り出すのかについて考え続けている。

本書に、こんな一文がある。

『(コピーがスルーされない大原則は、)受け手に「自分と関係がある」と思ってもらうということです』

僕の発想の根本も、まさにそこにある。僕はこれを「変換」と呼んでいる。

世の中には色んな本がある。それらは、色んな理由で出版され、色んな理由で外側のデザイン(装丁やタイトルなど)が決められている。しかしそれらは、「売る現場」から離れたところで決められていることだ。「売る現場」の視点から見ると、(それじゃあ狙ったターゲットには届かないと思うなぁ)(この本なら幅広い層に読んでもらえる内容なんだけど、外見がこれじゃ厳しいなぁ)と感じる本も多い。

それらは、手に取ってくれた人に「自分と関係がある」と思わせることが出来ない本、ということなのだ。

僕はそういう本を見つけてきては、それを伝わりやすい形に「変換」する。これが僕の今の最大の仕事だ。

そこには色んな方法があって、僕は色んな方法を試している最中なのだけど、勘違いされることも多いイメージがある。それは、「方法に価値があるのだ」という捉えられ方をすることがある。いや、そうではない。あくまでもその方法は、その本が抱えている問題を「変換」するのに適していただけであって、他の本でも通用するわけではない。しかし、そういう思想が背景にあるということを無視して、形だけ流用する、というような事例を見ることがあると、それは違うんだけどなぁ、と思ったりする。

大事なのは手法ではない。その背景にどんな考え方があるか、なのだ。

本書でも冒頭でこんな風に書かれている。

『ゴメンナサイ。この本には、「この1行を書けば必ずバカ売れする」そんな魔法の1行を書くテクニックは載っていません』

確かにその通り。本書では様々な実際の事例が取り上げられているのだけど、そこで使われたコピーの形だけ真似しても何の意味もない。そのコピーに至る過程に何があったのか、ということを知ることの方が遥かに大事なのだ。そういう意味で本書は「テクニック本」ではないし、「重要なのはテクニックではないのだ」ということを伝える本だとも言える。

言い方を変えると、一番大事なことは、そこに問題を見出すこと、なのだ。

『受け手に「問題意識」を持ってもらうところから始める必要があります』

本書にこんな一文があるが、受け手側だけではなく、届け手側も「問題意識」を持つことが大事なのだ。

つまり、その本(あるいはモノやサービス)の何が問題であるのかを正確に捉えようとしなければいけないのだ。問題さえ捉えられれば、あとはどう解決するか、というだけの話だ。そこで初めて、テクニックやセンスが関わってくる。しかし、いくらテクニックやセンスがあっても、伝えるべきモノやサービスの問題点をはっきりと捉えきれていなければ、伝える言葉を生み出すことは難しいのだ。

「問題意識」とは少し違うのだが、本書の中で印象的だった事例の一つが、ボイスレコーダーを売る話だ。ジャパネットたかたはボイスレコーダーを世の母親に売りまくったのだが、一体どうやったのか?その方法は本書を読んで欲しいのだけど、これは、母親が言語化することも意識することもなかった問題を掘り起こし、明確に言語化したことで生み出された売上なのだと感じた。

北海道のとある水族館のエピソードも面白かったなぁ。こちらの場合は、問題点ははっきりしていて、その問題点をどう打ち出すかという部分で知恵を絞ったという話だ。しかし、普通「問題点」は、「問題点」であるが故にそれそのものは価値にはならないはずなのに、この水族館の例では、「問題点」であったはずのものが、「言葉」の力だけで、まったく同じものが「価値」へと変じてしまった、という点が非常に面白い。

そんな風に本書には、様々な事例が載っている。事例そのものを知ったところで、売れるコピーが書けるわけではないのだけど、そのコピーの背景にどんな物語や積み重ねや幸運があったのか、ということを知ることはやはり大事だと思うし、そのために様々な事例に触れることはとてもいいと思う。

売るための「言葉」は、問題点を把握し、それを「変換」して「自分と関係がある」と思ってもらうためのものなのだ、ということを改めて実感した一冊だった。

川上徹也「1行バカ売れ」

おらおらおでひとりいぐも(若竹千佐子)

「老い」というものを意識することはない。
僕はもうすぐ35歳。まだ「老い」を意識する年齢じゃない、と言われればその通りなのだけど、たぶんそれだけではない。

僕は、「老い」を迎える頃まで生きる意識がそもそもないのだ。

昔から、50歳くらいで死にたい、と言っていた。正直、健康でお金にも不自由せず、周りの友人や知り合いがどんどん死んでしまわない内に、この世を去りたいと思ってしまう。まあ、そういう意味で、「老い」を意識しているとも言える。この年齢にして既に、「老い」を避ける意識を持って生きているのだから。

「老い」が自分に何をもたらすのか、それは分からない。想像すらできない。しかし僕はこう思う。仮に「老い」が僕に何か煌めくような瞬間を与えてくれるのだとしても、僕は「老い」など求めないし、自分の人生には不要なものだと思っている。

内容に入ろうと思います。
桃子さんは、一人で暮らしている。70歳を超えてひとり暮らしだ。夫の周造は、既に亡くなってしまった。娘や孫はいるが、頻繁に関わるわけではない。
桃子さんは、思考が飛び飛びになってしまうことを自覚している。身体の内側に、東北弁が渦巻いていて、これまでのこと、これからのことなどを東北弁で考えていたりする。自分の来し方は正しかったのか、あの時は何を考えていたのか、あの時どうしていれば良かったのか…。桃子さんは考える。人生色々あったけれども、結局こうして一人で生きている自分のことを考える。
というような話です。

良い作品の予感はあったんですけど、正直、自分の精神状態的にちょっと今本(特に小説)があんまり受け付けない感じになってて、そういう意味でちょっとスパッとは頭に入ってきませんでした(何でそんなタイミングで読んだんだ、って疑問はあるだろうけど、まあそれも色々ありまして)。

個人的には、部分部分の記述は凄く面白いなぁ、と思いました。物事の捉え方というのか、思考の連続のさせ方というのか、そういう部分は、あぁ面白いなぁ、と思いながら読んでいました。ただ、それらが撚り合って一つの物語になった時のまとまり、というのは、正直僕にはうまく捉えられなかったかなぁ。

思っていたよりもちゃんと“文学”という感じで、そもそも“文学”がそんなに得意じゃない僕にはよく分からない部分もあった、という感じがします。

まあとは言えやはり、「生きる」ということにもう少し真剣である人が読むべき本かな、とは感じました。僕はそもそも、「生きる」とか「生活をする」みたいなことに根本的な関心がないので、そういう部分について深く真剣に思考をする、ということがないかもしれません。「人生」とか「生活」とかに関心があれば、「老い」についてももう少し関心が持てるかもだけど、ちょっと僕にはそれは難しいかなぁ、と思いました。

若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」

「否定と肯定」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
実話とは思えない、衝撃的な出来事を描いた作品だ。
ユダヤ人歴史学者であり、「ホロコーストの真実」の著者であるデボラ・リップシュタットは、ある日イギリスの法廷に訴えられたことを知る。彼女を訴えたのは、イギリス人歴史学者であるデイヴィッド・アーヴィング。彼は有名なホロコースト否定論者として知られているが、その彼が「ホロコーストの真実」の中でホロコースト否定論者であると侮辱された、と訴え出たのだ。アメリカの法律と違ってイギリスの法律では、名誉毀損は訴えられた側に立証責任がある。
デボラにはいくつかの選択肢があった。和解もその一つだし、あるいは侮辱したつもりはないと主張することも出来た。しかし彼女はそれらすべてに頷かなかった。自らの信念に基づき、徹底的にアーヴィングと闘うことに決めたのだ。
デボラのために強力な弁護団が組まれた。この裁判は、「歴史的事実の真偽を裁判所で争う」という前代未聞のものだったが、しかし弁護団は争点を「ホロコーストがあったか否か」に据えなかった。その理由は様々にあるが、デボラはその弁護方針に不満を抱く。さらに彼女は、法廷戦術として法廷では証言させるつもりがないと言われ、主張したいことが山ほどあるのに言えないもどかしさに苦しめられる…。
というような話です。

僕は、この映画の原作である「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」という本を読んだことがある。この映画の主人公の一人であるデボラが書いた本だ。もちろん、デボラ視点である、ということを加味しながら読まなければならないが、原作は、この裁判の起点から終結まではもちろん、デボラの来歴や歴史観、資金集めや調査の過程、そしてかなり膨大な裁判シーンと、一連の出来事にまつわる様々な事柄が盛り込まれている作品だ。

確かに面白かったが、やはり冗長であるようにも感じられてしまった。確かに著者には書きたいことが山ほどあっただろうと思う。けれど、もう少し焦点を絞っても良かったかもしれない、と思う。読者の関心に応じて作品を2冊に切り分けるなどしても良かったかもしれない。つまり、歴史的な部分に焦点を当てた本(こちらをデボラが書けばいい)と、この裁判にまつわる事柄を書いた本(こちらはデボラとは別のノンフィクションライターが書いても良い)に分ける、というものだ。その方がスッキリしたかもしれない。

この映画はそういう意味で、この裁判の全体像をスッキリと提示してくれる作品だったと思う。非常に面白かった。あらかじめ、膨大でなかなか複雑な原作を読んでいたからこの映画をより良く捉えているのかもしれないが。

映画ではシンプルに、一連の裁判の過程に焦点を当てて描いている。もちろんホロコーストについてまったく描かれないということはないのだが、裁判シーンも、ホロコーストがどうであるというような場面よりは、アーヴィングがいかに信用のおけない人物であるかを立証するのに必要な描写が描かれている印象があった。

そう、この点がこの裁判における最も重要な点であり、この映画の見どころとも関わってくるものだ。

この映画は当然、「デボラVSアーヴィング」という構造を持っている。とはいえ、これは単純にそう言える話でもない。映画では特に強調されていたが、この映画での対立関係は実はこうだ。

「弁護団VSアーヴィング」and「デボラVS弁護団」

どういうことか説明しよう。

弁護団は、この市場稀に見る特異な裁判に勝訴するための方針を立てた。それは、「アーヴィングの歴史学者としての信頼性を揺るがせる」というものだ。彼らは、アーヴィングの過去の著作、各所で行っていた講演、さらにはアーヴィングが20年に渡って記していた日記(証拠開示請求により提出させた)に目を通し(これには、チームが雇った歴史学者が教える大学院生も協力した)、それらから歴史学者・アーヴィングによる意図的な改竄や歪曲を見つけ出す、という膨大な作業をしたのだ。

つまり、名誉毀損を訴えてきた側であるアーヴィングは、歴史学者として信頼出来ない人物であるのだから、デボラが名誉毀損めいたことを言ったにせよ、それは名誉毀損には当たらないのだ、という主張を展開するということだ(この理屈は映画の中で語られていたわけではなく、僕の解釈なので、論理が間違ってるかもだけど)。

この弁護方針は、「ホロコーストは実際に起こったことかどうか」を争点にすることを避けた結果だ。では何故彼らは、「ホロコーストの実在」を争点にしなかったのか。

それは、それこそがアーヴィングの思う壺だと分かっていたからだ。アーヴィングは弁護人を立てず、自身で自身の弁護をした。当然、自ら法廷に立つ。彼はあらゆる弁舌を駆使して細かな部分を付き、「ここに矛盾がある」「ここが信用できない」という部分を印象づけ、「だからホロコーストはなかったのだ」と印象づけたいのだ。また、「ホロコーストの実在」が争点になれば、ホロコーストの生存者も法廷に立たされるだろう。しかしそうなれば、確実にその生存者たちは、アーヴィングから手酷い扱いを受ける。それだけは何としても避けなければならない。

しかしデボラは、この弁護方針が納得出来ない。彼女は、そんな戦術でもし負けてしまったら、世界中に嘘、つまり「ホロコーストはなかった」という誤った情報が伝わってしまう。だからこそ法廷では、「ホロコーストの実在」を証明するように努めるべきだし、生存者にも証言させるべきだ、と思っている。

まずここに大きな対立がある。

さらに弁護団は、デボラに法廷で証言させないと決めた。理由はいくつかあるが、アーヴィングの歴史学者としての信頼性を争点にする上で、デボラの証言は必要ない、というのが主な理由だ。この点もデボラにとっては不満だ。何故なら彼女は分かっているからだ。

『しっぽを巻いて逃げ出した卑怯者』

法廷でひと言も証言しなければ、マスコミや世間からそう見られるだろう、ということを。それに対して、法廷弁護人であるリチャードは、『勝訴のための代償だ』と言う。

デボラ自身も弁は立つし、主張したいことは山ほどある。しかし、自国アメリカではなく、慣習の違うイギリスの法律の元で闘わなければならないこと、また勝つために「ホロコーストの実在」を争点にしないことなど、様々な不可避の状況によって、デボラは声を封じられてしまうのだ。

『良心を他人に委ねる辛さをわかってもらえるかしら。これまで私は、絶対に委ねない生き方をしてきた』

勝つためとはいえ、デボラは不自由な状況下に置かれることになったし、そもそもそのやり方で100%勝てるのかどうかも分からない。デボラ自身は、法廷で座っていることしか出来ないのだけど、そういう葛藤がずっと渦巻いていて心休まる時がない。様々な状況が重なって、デボラが弁護団と対立せざるを得なくなってしまう、という点がこの裁判のもう一つの特異な点であり、その部分が物語を実にスリリングにしていると感じました。

「否定と肯定」を観に行ってきました

「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」を観に行ってきました

正しいことをしたい、といつも思っている。

もちろん、正しいことだけでは生きていけないし、意識的に悪いことをすることだってある。ただ、いつも思っていることは、後から後悔するかもしれないような行動はしたくない、ということだ。

後悔をしたくないが故にチャレンジを避けるような生き方は、それはそれで嫌なものだが、あの時ああしておけば良かった、ああしなければ良かった、などと後から思うような行動は取りたくない、と思っている。

そういう時、いつも想像するのは、戦争のことだ。

僕は、戦争というものを直接的に体験したことはない。それがどんなもので、どれほど悲惨なものなのか、僕は想像すら出来ていないだろう。そんな僕が何を言っても、それは砂上の楼閣以上のなにものでもない。

とはいえ、イメージの中で僕は、戦争という時代の圧力に屈したくない、という気持ちを持っていたい、といつも思っている。戦争というのは人びとに、それまでとは真逆の価値観を押し付けるものだ。一変してしまった価値観に、屈さざるを得ないこともあるだろう。

それでも僕は、なんとかして、自分が正しいと感じる生き方を貫けたら、と思っている。

周りの価値観に従って流されて生きていく方が、もちろん簡単だ。しかし、そういう自分をなかなか許容できない性格であることももちろん理解している。信念、なんていうカッコイイ言葉を使うつもりはないのだけど、自分が正しいと思うことをする、あるいは間違っていると思うことをしない、という矜持は、出来るだけ持ち続けておきたいなと思っている。

内容に入ろうと思います。
ポーランド・ワルシャワで、動物園を営んでいたジャビンスキー夫妻は、広大な敷地で数多くの動物を飼育し、市民に親しまれていた。しかしワルシャワに、戦争の影が忍び寄る。ドイツ軍がポーランドを制圧したのだ。
空爆により壊滅的な被害を被った動物園は、ヒトラー直属の動物学者であるヘックの指示により、希少動物のみドイツ軍が引き取り、後は処分されることになった。悲しみに暮れるアントニーナとヤン。
彼らにはもう一つ、大きな問題があった。友人であり、ユダヤ人である女性の行き場がなかったのだ。アントニーナは、夫の反対を押し切って動物園内に彼女を匿うことを決断する。動物園はドイツ軍によって監視されているけど、一人くらいなら匿えるだろう。
しかしその後夫のヤンが、驚くべき話を持ってくる。ワルシャワでユダヤ人を救う活動をしているグループと接触したらしく、ユダヤ人たちが新たな隠れ家に行くまでの間だけ彼らを匿うことに決めたというのだ。アントニーナは、友人一人を匿うのとは訳が違うと言って反対したが、救える命は救いたいという想いを共有することとなった。
彼らは、ドイツ軍から“丸見え”状態である動物園にユダヤ人を連れてきて匿うために、巧妙な作戦を考えた。彼らは日々、ゲットーからユダヤ人を数人連れてきては地下に匿うという、長く続くことになる危険な活動をやり続けた…。
というような話です。

色んな映画を観ますけど、やはり「実話(というか、実話に基づいた話)」の強さにいつも打たれます。僕が冒頭で書いたように、彼女たちも「正しいことをしたい」という想いがあって、その中で様々な葛藤を繰り広げていくことになります。

『正しいことをしたい。その思いだけなのに、自分が嫌でたまらない』

ある場面でアントニーナはそう吐露します。

具体的な内容には触れませんが、アントニーナは、自分たちがやっているこの危険な活動のリスクを少しでも減らすために、とある行動を取ります。しかしその行動は、夫のヤンにとっては不快なものでした。アントニーナの言っていることも、ヤンの言っていることも、分からなくはありません。どちらが正しいとか間違っているとかではなくて、やはり戦争という状況が間違っているのだ、としか思えません。平時であれば、アントニーナはそんな行動を取る必要がないし、ヤンも存在しない行動を不快に感じることもありません。

映画の中で描かれる葛藤以外にも、様々な葛藤が彼らを襲ったことでしょう。彼らは結局その活動を、3~4年ぐらい続けたことになるはずです。延べ300人以上のユダヤ人が彼らの元で匿われ、ごく稀な例外を除き、全員の命が助かったようです。

戦争という辛い状況の中では、そうでありたいと思っていても正しい行動が取れなかった人もたくさんいることでしょう。そういう人たちを責めるつもりなど僕にはないし、そんな権利も当然ないと思っています。ただやはり、この夫妻のような、危険を冒してでも、自分たちに出来る限りの努力で正しさを貫いていく、という生き方は称賛したいと思うし、そういう事実をもっと知りたいと思います。

彼らは後に、「諸国民の中の正義の人」としてイスラエルからヤド・ヴァシェム賞を受賞したとのこと。終戦後、ワルシャワの人口は6%を切ったそうですが、彼らはまた動物園を再開し、現在でも営業を続けているとのことです。

難しいこともありますが、日々の生活の中でなんとか折り合いをつけながら、自分なりに正しい行動をし続けたいと、この映画を観て改めて感じました。

「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」を観に行ってきました

「スナッチ」を観ました

内容に入ろうと思います。
いくつかの物語が交錯して展開するのでなかなか紹介が難しいですが、大雑把に二つの物語が展開される。
一つは、裏社会を牛耳る男がやっている裏ボクシングの話。そこにボクサーを送り込むはずだった二人組は、ちょっとした手違いからボクサーが負傷、出られなくなってしまった。そのボクサーは、パイキーと呼ばれる集団の一人で素手ボクシングのチャンピオンである男にボコボコにされたのだけど、二人組はそのパイキーを裏ボクシングに出させようと画策する。しかし、賭け事である以上直前の変更は許されないと裏社会のボスから言われる。その流れで二人は、パイキーに4ラウンドで倒れろと、つまり八百長を指示してきた。
一方、銀行から盗まれた86カラットのダイヤを巡る物語も同時に進行していく。そのダイヤの売買を任された男が大の掛け狂いで、そこを突かれてダイヤを奪われてしまう。しかしそのダイヤは、色んな事情からいくつかの組織が追いかけていて、持ち主がコロコロと変わっていく。チンケな銀行強盗たち、元KGB、宝石商などが、ダイヤの行方を追うが…。
というような話です。

なかなかおもしろい話でした。登場人物が多くて、最初は状況の把握がかなり困難でしたが、大雑把に状況が理解できた後は、スピーディーな展開でトントンと進んでいく物語はなかなか面白く見ることが出来ました。

裏社会の話で、基本的にみんな(程度の差こそあれ)悪い奴らなんですけど、残虐なシーンもありつつ、かなりポップに描かれている感じがあって、残虐さが強調されているという印象はありませんでした。エンタメって感じの作品で、気楽に見るには良い映画だと思います。

「スナッチ」を観ました

「夜間もやってる保育園」を観に行ってきました

僕は結婚もしてないし子どもももちろんいないし、何らかの形で子育てに携わったこともないし、子どもはそもそも好きじゃないし、そんなわけで全然子育てについて語るのに相応しい人間ではない。ないんだけど、自分なりに世間の情報を見聞きしたり、時々子育てをしている人の話を聞いたりしながら考えることはある。

子育てにおける日本の困難さの根本原因は、子育てを取り巻く空気にある、と僕は感じている。

『生まれたばっかりですぐに子どもを預けてしまうのは、罪悪感がありました』

『やっぱり言われましたよ。子どもの一緒にいる時間が少なくなるのは可哀想だって、結構周りの人に』

映画の中で、夜間保育園に子どもを預けている親がそんな風に語る場面がちらほらある。実際に、僕が子育てをしている母親から話を聞いた時も、そんなようなことを言っていた。

また、ネットの記事なのでどこまでホントか分からないが、日本が保育園などに力を入れたがらないのは、政治家(高齢の男性)が、子育ては家でするものだ、という幻想を捨てられないからだ、と主張している人もいた。

こういう空気が、僕は日本での子育てを困難にしているのだと感じる。

僕は個人的には、保育園に子どもを預けることは良いことだと思っている。それは、共働きだろうがそうじゃなかろうが、夜働いていようがそうでなかろうが関係なしに、保育園という仕組みがそもそも子育てに必要ではないか、という立場だ。

何故なら、一昔前と違って、子どもが他者と接する機会が減ってきていると思うからだ。

昔は、兄弟が多かったり、三世代同居だったり、あるいは近所のコミュニティがちゃんとあったりで、家で子育てをしていても、両親以外の他者と自然と関わる機会があったはずだ、と僕は思っている(データがあるわけじゃないから、あくまでもイメージだけど)。そういう時代であれば、「他者と関わる場としての保育園」は不要だろう。

しかし現代は状況が大きく変わっている。核家族が進み、子どもも一人という家庭が多いのではないか。近所付き合いも濃密ではなくなり、それ故に、子どもが日常的に接するのが親だけ、という状況が生まれているのだと思っている。

そしてその状況は、子どもにとってとても悪いものだと思っている。確かに、母親と接する時間は大事だと思う。しかし、母親以外の他者と関わる時間だって同じくらい大事だ、と僕は思う。社会状況の変化によって、家庭での子育てのみでは他者との関わりが少なくなってしまった現代ならば、「他者と関わる場としての保育園」は非常に必要性が高いのではないか、と僕は考えている。

実際映画の中でも、そういう趣旨の発言をする人がいた。

『(農家なので)周りに同世代の子どもがなかなかいない。いれば保育園に預ける必要はないかなって思うんですけど、やっぱり他の子どもと触れ合う時間も大事だと思うので』

『遅くまで子どもを預けるなんて可哀想、ってやっぱり言われましたよ。でも、子どもの側から見たら、ここが生活の一部だし、友達もいるし、いつも楽しそうにしてる。卒園してからも、ここで働きたいなんて言うぐらいですから』

そうだろうなぁ、と思う。もちろん、保育園の環境にも依るだろうし、この映画で扱われている保育園は、全体の中でも恐らく「良い部類」の保育園だろうから、単純に捉えることは出来ないにせよ、やはり映画の中で映っていた子どもたちはみんな楽しそうだったし(そういう場面ばっかり切り取っているのだ、という可能性はあるにせよ)、同年代の子たちと関わっている姿は、家庭だけの子育てではなかなか得られにくいだろう、とも感じた。

空気、という意味で言えば、もう一つ感じることがある。それを的確に表現してくれていたのが、映画に登場した内閣官房統括官の方だ。この方は、自らの出身である地方の村での子育てにおける状況を語った後で、こんな風に言った。

『子どもを育てるということへの敬意が薄くなっているように感じることがあります』

それは、ニュースなんかを見ていても感じることだ。電車にベビーカーで来るなとか、幼稚園を近所に作るな、みたいな話が結構出てくる。そりゃあ、実際に迷惑を被っている人からすれば大変な状況ではあるんだろうけど、でもそういうのって、子どもを育てることに対する敬意がちゃんとあれば、まあしょうがないかという形で収まる話なんじゃないか、という気もします。子どもを育てることへの敬意が、一昔前はあったのかどうか僕には分からないけど(内閣官房統括官の方はあくまでも、自分の出身の村の昔の状況と、現在の日本の大雑把な状況を比較している)、現代ではそれが薄い、ということは間違いないだろうと思う。

そういう世の中にあって、保育園という存在は益々重要になってくるだろう。映画の中でも、「この保育園がなかったら、二人目は考えられなかった」と語る親もいた。子どもは欲しいけど、育てられるか分からないからという理由で躊躇してしまう人だっているだろう。そうなればなるほど、色んなことが苦しくなってくるだろうなぁ、と思う。

現在(確かデータは2016年のものと表記されてた気がする)、保育園(これが無認可も含むのか忘れてしまった)は2万ヶ所ぐらいあるのに対して、認可夜間保育園は80ヶ所しかないという。一方で、無認可のいわゆる「ベビーホテル」と呼ばれるところは全国で1749ヶ所あるという。

この映画では、そんなベビーホテルも取り上げられていた。必要性があるからこそ、1749ヶ所も存在するのだけど、認可がないから補助金はない。ベビーホテルの方の話だと、認可保育園だとキャバクラで働いている人は落とされてしまうという。そういう意味でも、ベビーホテルのような存在は必要とされている。

ニュースを見ていると、認可保育園でも問題があったりと、保育園を巡る様々な問題が取り上げられる。あるいは先日ネットで、「実は認可保育園に落ちたい母親が潜在的に多くいる」という記事を見かけて驚いたことがある。その記事によれば、認可保育園に落ちたという証明があれば、育休が伸ばせたりするらしい。だから、認可保育園に落ちたという証明をもらうために、敢えて入るつもりのない認可保育園に応募する親もいるらしい。そんなわけで、子育てを巡る問題や解決は、単純なものではなく、社会全体の色んな部分をひっくるめて考えなければならないことなんだと思うのだけど、こういう映画を見ると、そういう問題に目が向くようになって良いと思う。

この映画では、「エイビイシイ保育園(新宿)」「玉の子夜間保育園(沖縄)」「すいせい保育所(北海道)」「エンジェル児童療育保育園(新潟)」などが取り上げられる。それぞれが問題意識や使命感を持って夜間保育を担っていて、そこで働く人や、そこに預けている人の話を積み上げていきながら、現代の子育ての問題を浮き彫りにしようとする。

使命感ややりがいは大事だし、そういう人は素晴らしいと思う。けど、使命感ややりがいなど高いハードルを越えないと出来ないことは、なかなか広がっていかない。夜間保育も含め、子育てというものが、社会全体の努力によって、今よりももう少しハードルの低いものになればいいと、映画を見ながら感じた。

「夜間もやってる保育園」を観に行ってきました

「密偵」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
日本統治下にある朝鮮で、イ・ジョンチュルは通訳上がりの日本警察の警務として働いていた。当時、朝鮮の独立を掲げた抗日武装秘密結社である義烈団の活動が秘密裏に行われており、日本警察としては義烈団の動きを抑え、団長であるチョン・チュサンを捕らえることを至上命令としていた。
東部長の元で働いていたイ・ジョンチュルは、その語学力と独自の情報網を駆使して、義烈団のメンバーを追うが、なかなか決定的に捕まえることが出来ない。
ある時部長から、“橋本”(日本名ではあるが、朝鮮人)の男を組むように命じられる。お互いの情報は共有するように、と指示されたが、イも橋本もお互いを信用しない。互いのやり口を牽制し、それぞれが自らの正しさで捜査を進めようとする。
一方、義烈団の隊長を務めていたキム・ウジンは、商人として町に溶け込みながら、革命のための準備や情報戦の最前線にいた。情報漏れや資金難など課題は山積だが、メンバーの士気は高く、なんとか朝鮮の独立をと意気込んで活動に邁進している。
ある日イが、キムの営む写真店を訪れた。互いに牽制しながら、キムはイを「アニキ」と呼び、仲の良さをアピールするようになる。イも、キムが義烈団のメンバーであると認識しながら、それを知らせず、キムを動かして組織の壊滅を目論もうとする。
そんなある日、イにとって青天の霹靂とでも言うべき事態が起こり…。
というような話です。

全体的にはなかなか面白かったんですけど、とにかく最初の内は設定を理解するのが大変でした。調べると「義烈団」というのは実在したようです(歴史にはまったく詳しくないので、もしかしたら普通は学校で習うことなのかもですけど知りませんでした)。韓国では義烈団というのは恐らく誰もが知っている存在なのでしょう。この映画は韓国映画であるが故に、その辺りの詳細があまり詳しく描かれないまま話が展開されていきます。義烈団が何なのか、そもそもそこから知らない僕は、義烈団というのはどういう組織で、何と何が対立していて、誰がどちらの陣営なのか、みたいなことを理解しながら観るのにかなり苦労しました。

その辺りを大体理解できたら、後はスピーディーに展開する物語を楽しめるようになりました。そうなってくると、主人公のイ・ジョンチュルの葛藤が様々な形で浮き彫りになってきます。

内容を明かすことになってしまうので詳しくは書きませんが、イは様々な葛藤の中で目まぐるしく立場が入れ替わり、悩みながら行動していくことになります。義烈団、日本警察、そして朝鮮人という出自。どれもが彼の行動を制約し、苦しめる結果になります。イ自身は、恐らく善良な人間でしょう。というか、善良でありたいと願っている人間だと感じます。ただ、社会情勢や出自が、ただ善良であり続けることを許さない。その時その時で自分に与えられた役割をまっとうしながら、一人絶望的なまでの葛藤を飲み込んでいく姿は、なかなか迫ってくるものがありました。

だからこそ、イの最後の行動は、なんというか、個人的には受け入れてあげたい、という感じがしてしまいます。そう思うことは間違っているんでしょうけど。彼の最後の行動は、正しいか正しくないか、という判断基準ではなく、そうすべきか否か、という基準で選ばれたのだろうな、と思います。で、やるべきだ、と判断した。その決断をさせたものがなんだったのか、それは正直分かりません。分かりませんが、だからと言って納得感がないわけではありません。イの行動は、正しいかどうかではなく、すべきかどうかという観点から見れば、すべきだったと結論してしまっても仕方ないものに感じられます。いや、観る人によって感覚は変わるかもしれませんが、僕にはそう感じられました。

結局のところ、憎しみは何も生み出さないのだと感じる。憎しみを捨てきれないことは多々あるし、何も生み出さないと分かっていながらせざるを得ないこともあるのだろうけど、憎み合い続けることの不毛さみたいなものを感じました。この映画で描かれている状況は、日本側が憎み合いの口火を切っているわけで、「憎み合い続けることの不毛さ」などと言えるような立場ではないとは思うのだけど。

「密偵」を観に行ってきました

僕は君を殺せない(長谷川夕)

内容に入ろうと思います。
本書は、3篇の短編が収録された短編集です。

「僕は君を殺せない」
「おれ」と「僕」の物語が交錯する。「おれ」はかつて、とんでもない事件に巻き込まれていた。しかし、世間はその事件のことを知らない。「おれ」は運良く、その惨劇の舞台から生き延びたのだ。一方「僕」は、レイという名の同級生の女の子と良い関係にある。同棲しているとかではないが、レイは時々家にやってきてはご飯を作ってくれ、時々一緒に寝る。
交わりそうになり二つの物語が、徐々に折り重なっていく…

「Aさん」
かつて団地の一角に住んでいたAさんのことを思い出す。折れそうな痩躯、飼っていた痩せた犬、その犬に襲われそうになった記憶、Aさんの家の前にいた男の人、捨てられていた子犬…。

「春の遺書」
祖父が亡くなり、その直後、叔父が自殺した。その後、祖父の遺品の一部を受け取った私は、夜叔父の幽霊を見るようになった。ひたすらに仕事に打ち込み続けたという叔父は、一体何に未練があるというのだろうか…。

というような話です。

個人的には、うーん、なんともなぁ、という感じの作品でした。一番近い言葉を探せば、「甘い」となるでしょうか。全体的に、作品としてのシャープさが足りない気がしました。切れ味の悪いナイフで切ったような、という感じでしょうか。やりたいことは分からなくもないんだけど、ちょっと色々足りないような気がしました。表題作である「僕は君を殺せない」は、読みながら、なるほどそういう感じかぁ、ってなりましたけど、構成とか描写とか人物造形とか、全体的にちょっと甘い感じでした。もうちょいやれるだろう、と。

「Aさん」と「春の遺書」は、本作と関係ない形で読めばまた違ったかもしれないけど、「僕は君を殺せない」がちょっとなぁ、という感じだったので、正直、後の2篇を読みたい気分があまり盛り上がらなかった、ということがあります。作品として客観的に評価できていない感じがするので、あまりあれこれ書きませんが、こちらもやっぱり、もうちょっとなぁ、という感じがしました。

表紙が綺麗で印象的なので、中身もそれに相応しいものだと良かったんだけど、なかなかそうもいきませんでした。

長谷川夕「僕は君を殺せない」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)