黒夜行

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「3月のライオン 後編」を観に行ってきました

闘う理由がなければ、強くなることは難しいのかもしれない。
何故強くなりたいのか、という支えがないと、強さには到達出来ないのかもしれない。

『正義なんかどうでもいいから、逃げて欲しかった』

純粋な強さを目指して目指して、しかしそうすればするほど、目指すべき強さから遠ざかることに気づかされるのかもしれない。

『宗谷と闘った者には、よくあることだ。自分を一度バラバラに分解して、再構築が必要になる』

誰かを守るために、人は強くなることが出来る。

『でも、後悔なんてしない。しちゃダメだ。だって私がしたこと、絶対間違ってなんかない』

怖くても、闘いの場に立つことは出来る。

『宗谷と闘うと、真実を暴かれる。自分が気づかなかった心の弱さや自信のなさ、恐怖心を突きつけられる。自分の本当の姿に容赦なく向き合わされる』

そうやってボロボロになって、うなだれて、でも、弱いからこそ、強さを目指すことが出来る。

『自分の弱さを他人のせいにして生きられるような人間じゃない』

弱い者同士が、補い合いながら、次の一歩を歩み続けることが出来る。

『読みきれなかったのは、自分を信じていなかったからだ。』

闘い続ける意志は、強くなりたい理由によって生み出される。

『少しでも、力になりたいんです』

そうやって、僕たちは強さを目指すことが出来る。

『ずーっと、元気でいてね~』

闘う者たちの、物語だ。
桐山は新人王で優勝し、7冠達成の偉業を成し遂げた棋界のスーパースター・宗谷との対局が実現する。桐山が幼い頃から、その異次元の強さで圧倒していた宗谷と対局することに、実感が湧かない。しかし次第に桐山は、自分が恐怖を抱いていることに気付く。
生みの親が事故で他界し、育ての家族とも様々な理由から疎遠になっている桐山は、一人暮らしの中で出会った川本家の面々と親しくなる。川本家には両親がおらず、三姉妹と祖父母で生活をしている。長女のあかりは、母親代わりとなって川本家を支えるが、次女のひなこが抱えている問題に直面し、自分の不甲斐なさを思い知らされる。
育ての父親が入院し、その見舞いに行った先の病院で、桐山はA級棋士の後藤の姿を見かける。桐山にとっては姉のような存在である、育ての父親の娘の不倫相手だ。宗谷への挑戦権を掛けた獅子王戦では、順調に行けば桐山は後藤と当たることになる。
川本家では、新たな問題が発生していた。誰も予期していなかったその問題に、桐山は川本家を守るために立ち上がる決意をするのだが…。
というような話です。

前編も良かったけど、後編も良かったなぁ。あまり映画を見て泣くことはないんだけど、前後編ともに、随所で泣かされてしまいました。

様々な登場人物たちの物語がうまく絡まり合っていくのだが、後編の全体的なテーマは、「何のために闘うのか」だと僕は感じた。

桐山は、当然そのことを常に突きつけられている。
桐山にとって将棋というのは、生きる手段でしかなかった。家族を一遍に失った桐山が、生きていくためにせざるを得ない選択だった、というだけの話だ。そのことは、ずっと桐山の中でくすぶっている。

『ずっと暗闇の中だった。今まで暗すぎて気づかなかった』

桐山には、生きるため、という理由があった。でも桐山は、一人だ。自分一人が生きていくために強くなる―。そのことに対して桐山は、自分の身を投じることが出来ないのだろうと僕は感じた。桐山には、常に躊躇がある。他者を蹴落としてまで自分が強くなっていくことの意味をずっと問い続けてきた男だからこそ、桐山は常に、勝つ理由を見失いがちだ。

『もう将棋しかないから』

度々桐山がこんな風に自分を追い詰めるのも、そうしなければ強さに邁進出来ないからだ。自分の内側から湧き出るようには、強さへの欲求を見つけ出すことが出来ない。

そこに、川本家が関わってくる。単純に言えば、川本家の存在が桐山にとって「勝つ理由」になるのだ。

川本家も、闘っている。三姉妹で暮らすことになった経緯が紐解かれていきながら、強くなければ乗り越えられない状況が次々とやってくる。

強さとは、最終的には自分の内側で生み出すしかない。どんな武器があっても、どんな盾があっても、自分自身が強くならなければ乗り越えられない状況というのはある。

『ごめん、何の役にも立てなかった』

桐山は、川本家に武器や盾になろうとした。結果的にそれは、うまくいかなかった。けれど、桐山の行動は、川本家の面々の内側に強さを生み出す役に立った。そこに、桐山の大きな存在意義がある。桐山と川本家は、お互いによって支え合いながら、なんとか目の前の現実と闘っていく。

後藤も、闘っている。後藤の物語は、なかなか難しい。何故難しいのかと言えば、後藤が何と闘っているのか、はっきりとは見えないからだ。明確な対象が見えにくい。しかし、強さへの貪欲さは、誰よりも感じられる。何故強くなりたいのか―。その背景が見えにくいから、後藤の物語は難しい。

『私を大切にしないからだよ』

ある場面で発せられたこの言葉は、後藤の強さと弱さと関わっている。後藤がこの言葉をどんな風に理解するかで、後藤という人間像が変わってくるなと思う。

桐山の育ての家族である幸田家も、闘いの最中にいる。桐山が共に幼少期を過ごした香子と歩は、桐山が将棋で成功していくのと反比例するかのようにダメになっていく。

『ウチは将棋に呪われてるのよ』

香子は妻子ある男と不倫関係にあり、歩は部屋に篭ってゲームばかりしている。桐山は、幸田家のそういう状況を折りに触れ見聞きすることになる。桐山の強さへの躊躇は、この幸田家から生み出されもする。自分が強くなったことが、幸田家をメチャクチャにした要因の一端なのだ、と桐山は思っている。

『将棋は誰からも何も奪いはしない。だから最後まで諦めるな』

みんな、誰かと、何かと闘っている。闘い続ける者もいる。闘い方を変える者もいる。闘えずに逃げる者もいる。闘いに直面した人間たちの弱さ、葛藤、絶望、希望、そうしたものを、映画の中でうまく描き出している。

前編の感想でも書いたが、対局のシーンの描き方がやはりうまい。心の声もないまま、無言でただ駒を動かしているだけのシーンに、結構な時間を使う。その贅沢な時間の使い方が、対局シーンの重厚さをうまく出している。また、あまり詳しくは書かないが、桐山と後藤の対局シーンの描き方は見事だったと思う。

実に良い映画だった。

「3月のライオン 後編」を観に行ってきました

「夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきました

いやー、面白かったなぁ。
映画見てて、久々にテンションが上がった。
良い映画だなぁ、と思うことはそれなりにあるけど、テンションが上がる映画ってあんまりないから、僕にとってはとても良い映画だった。

アニメだということを最大限活かした映画だったなぁ、と思います。

森見登美彦の原作は元々読んでましたけど、すっかり内容は忘れてました。けど、森見登美彦の描く世界観が、荒唐無稽だったなという記憶はちゃんとありました。その荒唐無稽感がべらぼうに面白いわけですけど、仮に実写でやったとしたら、その荒唐無稽感をどこまで生み出せたかというのは疑問だなと思います。

というのは、実写で撮る場合、背景をフルCGとかでもしない限り、どうしてもそこには、僕らが生きている世界の現実感みたいなものが入り込んでしまうと思うからです(すべてセットを組んで撮る、とかならまだ可能性はあるかもですけど)。

森見登美彦が描く世界には、現実感が欠片もないからいいのだ、と僕は感じます。森見登美彦は、京都という、ちょっと特殊な雰囲気を持つ街のイメージを最大限に利用して、京都から現実感だけを取り去って、京都が身にまとう妖しい雰囲気だけを煮詰めるようにして増幅させていきます。そして、今回のアニメ映画では、その妖しい雰囲気を、アニメという手法で非常に見事に描き出していると感じました。

そこには、絵のタッチも関係しているなと思います。

この映画の監督は、僕は知りませんでしたが、「奇才」と紹介されていたので、知る人には知られている方なんでしょう。恐らくこの映画全体の絵の雰囲気を決めたのも、監督なんだろうと思います。絵のことを言葉で表現する経験をあまりしていないので上手く説明できる自信はありませんけど、シンプルな線で描きながら、誇張すべき部分を分かりやすく誇張する、という絵のタッチが、映画全体に独特の味を生み出していると感じました。

人物については特にそうでしたが、シンプルな線で描き出すことで、個々の個性が際立つ感じがしました。個性が際立たたないキャラクターはモブとして注目する必要はなく、何らかの形で誇張されている人物に目が行きます。シンプルであるが故に、乙女の赤い服や先輩の寝癖、樋口君のアゴや羽貫さんの服の着方など、それぞれの特長たる部分がズバッと視界に入ってくるわけです。

背景の描き方は様々で、古本市で本の背表紙をリアルに描いてみたり、川沿いに咲く桜の木をアートっぽく描いてみたりと、場面ごとに雰囲気がまったく違って面白いです。背景の描き方によって、その場面毎の重要度やシリアスさなどが瞬時に伝わってきて、これが物語を絵や言葉で過剰に説明しなくても、森見登美彦の謎めいた世界観にスッと入っていける工夫なんだろうなと思いました。また、回想シーンのタッチがまた独特で、これも場面ごとの転換という意味では非常に効果的だったなと思います。

人物はシンプルに描き出し特長を分かりやすく押し出す、背景は場面ごとの役割に応じてタッチを目まぐるしく変えていく、というやり方が、物語自体ではなく絵自体で語る部分を生み出し、より作品全体に厚みをもたらす結果になっている、そんな印象を受けました。

僕の記憶では、原作は4作を収録した連作短編集だったと思うんだけど、映画の中ではそれらをうまく繋げて一つの物語に仕立てていました。原作では確か、ある一定期間にまたがった話だったように思うんですけど、映画ではたった一夜の物語という風にまとめられていて、そのぎゅっと凝縮した感じが、物語の面白さをより引き出しているように感じられました。

また、映像ならではの物語の処理の仕方も素晴らしかったです。原作では恐らく、「主人公の脳内のグルグル」として描かれているだろう場面を、映像できちんと見せてくるんですね。特にラストの、理性と本能のバトルは見ごたえがありました。状況説明としてはまるで役に立たないですけど(笑)、主人公の先輩の慌てふためき振りが非常によく映像化されていて、テンションで押し切った!みたいな映像処理が良かったなと思います。

原作も素晴らしかったですけど、アニメならではの描き出し方で、原作の魅力をより引き出しているなと思える映画でした。

難しいですけど、内容の紹介をしてみます。
先輩(主人公)は、1年前知り合った後輩の黒髪の乙女に魂を鷲掴みにされ、以来「ナカメ作戦」を遂行してきた。「ナカメ作戦」とは、「なるべく彼女の目にとまる作戦」の略であり、様々な場面でさも偶然であるかのように彼女と遭遇する、ということをやり続けてきた。友人である学園祭事務局長に、外堀ばかり埋めているんじゃないと言われながらも、同じく友人のパンツ総番長から、思いを伝えるべきだと促されながらも、先輩はひたすら外堀を埋め続ける日々を過ごしてる。
先輩も黒髪の乙女も招待されたとある結婚式の夜、先輩は二次会に流れるだろう黒髪の乙女と同じ席に座る決意をしていた。しかし黒髪の乙女は二次会には流れず、先斗町で今彼女が求めて止まない酒を所望し続ける。とあるバーで春画コレクターに胸を触られおともだちパンチを繰り出し、知り合った樋口君と羽貫さんと一緒に先斗町で飲み歩き、幻と呼ばれる偽電気ブランに思いを馳せる。酒豪ぶりを認められた彼女は、三階建の電車でやってくるという李白さんと飲み比べを打診される始末だ。
一方の先輩は、黒髪の乙女を見失い、パンツを奪われ、鯉を飼っていたオジサンに絡まれ、やっと黒髪の乙女を見つけるも、どこにいても主役になってしまう彼女のいる場で、ただの脇役に甘んじるしかない。
チャンスを求めて、先輩はその後、古本市・学園祭と奮闘するのだが…。
というような話です。

原作を読んだ時も思いましたけど、まず何よりも黒髪の乙女がやっぱり最高ですね。こういう女性は、凄く好きだなぁ、と思います。

自分が関心を持ったことに正直で、でも視野が狭いわけでもなく、飛び込んできた状況にすぐに馴染んでしまう。一人で行動することが普通で、でも誰とでも仲良くなれてしまうし、何をするでもないのに場の主役に躍り出てしまう。当たり前に囚われたり、行動を躊躇したりすることなく、強い決心をするでもなく普通ではない状況をするりと乗り越えてしまう。自分に向けられた関心に無頓着で、かと言って冷たいとかではなく、自分なりの関心を他人に向ける。僕の中での黒髪の乙女のイメージはこんな感じだ。言葉にすると余計に、素晴らしい女性だなぁ、と思えてくるのですね。先輩が黒髪の乙女に惚れるのも当たり前だなと思います。

物語は、最初から最後まで奇妙奇天烈摩訶不思議な感じで展開されていくのだけど、独特の絵のタッチと畳み掛けるような展開で、いつの間にやらその世界観に引きずり込まれてしまう。明らかにおかしな状況なのに、登場人物たちのほとんどはその状況を奇妙がらないし、色んな話が絶妙に絡まり合っていくから、そういうもんなんだなぁ、と思いながら引き込まれてしまう。そういう魔力を持った作品で、まさに森見登美彦らしさを忠実に再現しているなぁ、と感じさせる映画でした。

映画を見ながら、僕はずっとニヤニヤしてたと思いました。ニヤニヤが止まらない映画でした。ほとんど声を上げて笑っている場面もあったと思います。純粋に、凄く面白かったなぁ、と思える、とてもいい映画でした。

「夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきました

不屈の棋士(大川慎太郎)

人工知能によって、人間の仕事がどんどんなくなっていく、という話は、ちょっと前からじゃんじゃん出始めている。どんな仕事がなくなっていくのかというリストさえ、色んなところで目にするようになった。しかしどうだろう。実際の生活の中で、「人工知能によって、今の自分の仕事がなくなるかも…」と実感できる人は、まだそう多くはないだろう。

そういう意味で言えば、現代の職業の中で、最も人工知能の影響にさらされている一つに、棋士を挙げることが出来るだろう。

様々な評価の仕方があり、統一の見解こそないものの、本書を読んだ僕の印象では、既にソフトの棋力は、現役の棋士と互角かそれ以上なのだ、ということがよく分かった。

『ソフトと戦っても勝てない、と予想しています(勝又清和)』

『仲のいい棋士には、解説が終わった後に、「あれは人間が勝てるレベルじゃないよ」という話をしました(西尾明)』

こういう発言をしている棋士もいるほどだ。

『江戸時代から400年以上の歴史を有する将棋界。
言うまでもなく、棋士は常に実力最強の存在だった。棋士はその誇りを胸に競い続け、将棋ファンは尊敬と憧憬の念を抱いてきた。
将棋の強さこそ棋士最大の存在価値。それは当然の感覚であり、いちいち疑問を差し挟む者など存在しなかった。
コンピュータの将棋ソフトが驚異的な力をつけるまでは―』

そう棋士は、人工知能によって今まさに影響を受け続けている存在なのだ。

本書は、現役棋士11人に、コンピュータの将棋ソフトの捉え方や関わり方を問うたインタビューをまとめた作品だ。羽生善治・渡辺明という将棋界のスーパースターもいれば、コンピュータ将棋に造詣の深い者、コンピュータ将棋に負けた者、コンピュータ将棋を良く思っていない者など、様々な立場の棋士が、それぞれの将棋観を語っていく。

『将棋界は「強制」が少ない世界なのだ。だから自由な発想で物事を考え、それぞれが好き勝手に意見を述べることができる。これは将棋界の豊潤さの証明であり、財産だろう』

将棋連盟に所属していても、基本的に棋士は一人で活動する存在だ。だからこそ、自分の哲学に則って行動することが出来る。コンピュータ将棋との距離のとり方も様々で、それぞれの個々の哲学が密接に絡まり合っている。特に、ソフト研究を最も採り入れていると言われている若手棋士・千田翔太の将棋への取り組み方は印象的だ。

『これからは「棋力向上」を第一に目指してやっていこう、と(千田翔太)』

『公式戦で勝つよりも、純粋に棋力をつけることを第一としようと。(千田翔太)』

そしてそのために千田は、ソフト研究を採り入れる。

一般的に将棋の勉強法は、「棋譜並べ、詰将棋、実戦」だ。しかしこの勉強法を千田は、『その従来のやり方だと、個人の資質に大きく左右される。うまく人は才能がある人(千田翔太)』と判断する。そして、ソフト研究によって様々な形勢判断を自分の内側に取り入れていくことで、従来の方法よりも多くのものを吸収することが出来る、と語るのだ。

『現状、千田のソフトに対する姿勢が周囲に理解されているとはいい難い。先駆者の宿命ではあるのだが、苛立ちを感じることもあるだろう。
だが、未来は違うはずだ。これからプロになる若者の多くは、躊躇なくソフト研究を取り入れていくだろう。千田も自分の後を追ってくるであろう若者たちには大いに関心があるようだった』

ソフトをどう取り入れていくのか、というスタンスは、今まだに過渡期といえるだろう。どういう距離の取り方が正解であるのかは誰にも分からない。そういう意味で、千田翔太という棋士が10年後20年後にどうなっているのかは、とても楽しみだ。

本書には、ソフトが登場したことによるメリット・デメリットが様々に語られるが、最も印象的だったのは「怖さ」に関する話だ。

『人の頭なら相当わからない難解で長手数の詰みでも、ソフトはわかっている。この変化は詰むか詰まないかがわからないから踏み込めない、という話がソフトにはないわけでしょう。つまり人間が持つ「怖さ」という感覚が存在しない。それはちょっと違いますよね。強いんだろうけど、別物というか(渡辺明)』

同じ話を、さらに将棋を鑑賞することまで含めた議論に持ち込んでいる発言もある。

『将棋というのは人間同士の勝負で、お互いに答えを知らない中でやるものじゃないですか。怖さはあるけど、それに打ち勝つことも大事なわけです。ファンにもそこを楽しんでもらっている部分があると思う。もちろんソフトの手だって全部が正解ではない。でも、ソフトを使うと怖さを取り除くとまでは言わないけど、薄めているのは間違いない。勝負としてのおもしろさが減ってしまったら、スポンサーやファンがどう思うでしょうか。そういう状況が続けば今後、棋士全体が対局だけで食べていくのは大変でしょう。本当の上位棋士しか生き残れなくなる気がします。
―勝負というのはお互いに怖さを持つ中でやる。これが山崎さんの信念ですね。
そこが一番おもしろいところだと思います。答えがわからない中で、自分が正解と信じている手を指していく。その中で自分ができる工夫をしていくことが大事なんです。ただソフトを使うと、自分を信じる部分が薄れてきますよね。自分より強い、自分にはない発想に頼るようになると、それまでの局面認識や経験を元に培った判断が変わってくる。それはどうなのか(山崎隆之)』

この話が一番面白いと感じた。そう、問題は、棋士とソフトどっちが強いか、ということではないのだ。そうではなくて、将棋という勝負やゲームがちゃんと生き残っていくのか、ということだ。ソフト研究によって「怖さ」を失ってしまえば、対局から面白さが削られてしまう、という部分は、人工知能が将棋界に与える一番クリティカルな問題なのではないか、という風に感じました。

『たとえば詰将棋に関しては昔からコンピュータの方が解答が速いって知ってるけど、コンピュータの計算競争なんて誰も見ないでしょう。それと同じ。人間が暗算の競争をやるから見るんですよ。どっちが先にミスるんだ、っていう(渡辺明)』

『人間の勝負とはまったく別物ですから。トップ棋士同士とはいえ、やはり人間の将棋はミスありきなんです(渡辺明)』

『人間にしか指せない将棋とかそういうことではなく、人同士がやるからゲームとして楽しめるんです(渡辺明)』

渡辺明のこれらの発言は、棋士だけではなく見る側にも重要な問題だろう。トップ棋士でももうソフトに勝てないんだろ、と言って将棋を見ることから離れてしまった人もいるだろうが、やはり、人間同士が知力を尽くして闘うからこそ将棋は面白いのだ、という感覚が皆どこかにあるはずだ。そこに、ソフト研究という形でコンピュータが入り込むことで将棋がどう変わっていくのか。それらについても後で触れるつもりだが、まずは別の棋士の似たような発言を引こう。

『車がいくら早くても、人間が100メートル走で10秒を切ったらすごいでしょう。それと同じように、「人間の頭脳でここまで指せるんだ」と見守っていただきたいです(勝又清和)』

さて、実際にソフトを使うことで棋士としての力がどうなるのか、という部分についても、印象的な指摘があった。

『ソフトの示した手がプラス評価(※ソフトが盤面をどう捉えているかという評価値の話)だとしますよね。「じゃあ優勢なのかな」と思って実戦で採用する。その局面が仮にプラス300点だとして、その後の手順が自分が経験したことのないギリギリの攻め筋なんです。だからその後の指し方がわからないというか、間違えてしまう。コンピュータ的にはいけるのかもしれないけど、針の穴を通すような際どい攻めは自分の技術では導き出せない。だからソフトの評価値を重要視するあまり、自分のスタイルを見失っている部分はあるかもしれません(村山慈明)』

この指摘は非常に重要だろう。これは、棋力を上達させるには、答えではなくプロセスを学ぶ必要がある、という話だ。

『学ぶことは結局、プロセスが見えないとわからないのです。問題があって、過程があって、答えがある。ただ答えだけ出されても、過程が見えないと本質的な部分はわからない。だからソフトがドンドン強くなって、すごい答えを出す。でもプロセスがわからないと学びようがないという気がするのです(羽生善治)』

確かにその通りだ。先の村山慈明の指摘は、まさにこのことを言っている。

ソフトは、盤面を数字で評価してくれる。しかしその評価は、「俺(ソフト自身のこと)がミス無く指すって前提でこの点数ね」ということでしかない。ソフトがどう指すつもりでいるのかは、ただ評価値を見ているだけでは分からない。ソフトはいくらでも先の展開を読めるし、ミスもしない。だから、無謀な手筋でも押し通せる。しかし人間にはそれが出来ない。だから、プロセスを理解しないまま評価値だけを受け入れてしまうことの怖さがある。

これは恐らく、今後将棋界以外でも問題となっていくだろう。人工知能は、恐らく何らかの答えを出してくれる。人工知能が処理まで実行してくれるなら問題ない。しかし、人工知能に答えだけ教えてもらって、その上で人間が実行する、という状況があるとして、その場合人間にはプロセスは理解できないかもしれない。そういうことは、人工知能と共存していかなければならない過程でいくらでも起こりうるだろう。

『実力がつかないうちにソフト研究を取り入れるのは本当に怖いと思います(村山慈明)』

『―棋力が定まっていない人がソフトを使うのはよくないと思いますか?
まずいでしょうね。棋力が定まっている人間でもうかつに使うとまずい。ソフトとずっと指し続けると感覚がおかしくなって、自分の将棋が崩れます(糸谷哲郎)』

確かに、こういう指摘については納得できるし、将棋以外の場でも認識しておかなければならないだろう。

他にもソフトがもたらすデメリットとしては、

『いままでは、本来ダメなはずの新手もみんなわからないから2年くらい持っていたのが、(ソフト研究によって)即ダメになる。だからスパンがすごく短くなるけど、そもそも戦法の数がそんなにないので、後手番で戦える戦法がドンドン少なくなっていく(笑)(渡辺明)』

『今後は新手を指しても本当に自分で発見した手かどうか証明できませんから(行方尚史)』

など色々挙げられている。

とはいえ、もちろん良い点もある。一番のメリットについては、多くの棋士が指摘している。

『コンピュータのおかげでセオリーや常識にとらわれない指し手が増えてきました。プロ棋士もまだまだ将棋のことをわかっていなかったんだな、ということがわかってきました。こんなことはやっちゃいけない、というタブーもなくなってきた。この先、古い価値観はどんどん廃れていくでしょう。いまの将棋に合った新しい価値観も生まれるんだからそれでいいと思います(勝又清和)』

『将棋の枠組みが広がって、タブーが減った。不安が取り除かれてやりたいことがやれるようになった。(山崎隆之)』

『だからソフトの登場によって、過去の定跡が覆る可能性があるんです(村山慈明)』

『20年間主流だった矢倉の4六銀戦法も指されなくなったように、常識となっていたことがソフトに覆されるようなことも出てきた(行方尚史)』

人間の思考力では、長い長い歴史や積み重ねを経ても到達出来なかった部分に、ソフトはどんどん突き進んでいる。そうやって、ソフトが将棋の新しい常識や価値観をどんどん生み出しているのだ、という指摘が非常に多かった。

また、こんな指摘をする者もいる。

『だから全体的に終盤に時間を残そうとしている人が増えていますね。あとはみんなよく粘るようになりました。相手が間違えることが前提であれば、それは頑張りますよね。これは間違いなくソフトの効果で、将棋の進歩に役立っていると言えるでしょう(糸谷哲郎)』

糸谷哲郎は、『いつの日か棋士という存在がいらなくなる可能性を除けば、メリットばかりだと思っています』とさえ発言しているほどだ。もちろん、ソフトの存在に警鐘を鳴らす者もいる。ソフトの存在をどう評価するかは、まだまだ様々な価値観が入り乱れているのだ。

また、ソフトの登場と直接的な関係があるのかと言われればちょっと疑問符がつくかもしれないが、こんな指摘をする棋士もいる。

『開発者は純粋にソフトを強くしたいと思っている方々ですし、技術に対する意欲が強い。棋士以上にまじめだと思いますよ。そもそも棋士がどれぐらいまじめに将棋をやっているのか、私には疑問です。たとえば一部のベテラン棋士には、「真剣に取り組んでいるのかな」と思うような人がいますからね。それと比べると、開発者の方がよっぽど熱意があると思います(千田翔太)』

『もちろん将棋界にも問題はあります。プロが負ける姿を世の中におもしろおかしく見られてしまうのは、いままで将棋界が胡座をかいていたせいでもあるので。
―胡座をかいていたというのは?
“産児制限”を設ける、つまりプロ棋士になれる人間を厳しく限定して、その代わりにプロになってしまえばある程度は生活を保障する、という互助会的な制度だったことは否定できません。勝負の世界なのに、活躍できなくてもなんだかんだと食べていけたわけです。それは将棋界の甘いところだし、守られていたところだったでしょう。プロ棋士って本当に強いの? と訊かれて胸を張れる人は何人いるのか。だからいまは、将棋界の根本的なところに対して、ソフトというナイフを突きつけられているんです(行方尚史)』

棋士自身から、将棋界全体に対する問題提起がなされる。これもまた、「強制」の少ない将棋界ならではのことかもしれない。「胡座をかいていた」棋士もいるという中で、ソフトの存在がどう将棋界を変えていくのか。こういう問題意識を持つ人間がいるという事実が、将棋界の明るい未来を示唆している、と考えるのは、楽観的に過ぎるだろうか。

大川慎太郎「不屈の棋士」

「LION/ライオン~25年目のただいま~」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
インドのカンドワという町に住む少年のサルーは、兄のグドゥの仕事をよく手伝っていた。石炭を積んだ列車から石炭を盗み出すのもお手の物だ。石運びをしている母親を楽させようと、妹であるシェキラの面倒もちゃんと見る。
ある日グドゥが一週間ほど仕事をしに家を離れるという時、サルーも一緒に行きたがった。夜間の仕事だからサルーにはまだ無理だ、という兄の言葉を聞き入れず、サルーは兄についていく。しかしやはりまだ子どものサルーは、途中の駅で睡魔に襲われてしまう。兄は、駅のベンチでうとうとするサルーに、ここで待ってろよ、と言って仕事を探しに行く。
目覚めて兄がいないことに気づいたサルーは、辺りをうろうろする。停車中だった列車に乗り込んで兄を探すも、やはりいない。そこでサルーはまた眠り込んでしまう。
気づいたら、列車は動いていた。回送列車らしく、2,3日止まること無く走り続けた。
たどり着いたのは、カンドワから東に1600キロも離れたカルカッタ。ヒンディー語だったカンドワとは違い、ベンガル語であるカルカッタでは言葉も通じない。サルーはそこで2ヶ月ほど野宿でやり過ごした後、施設に保護される。
その施設で彼は、サルーを引き取りたいと思っている家族がオーストラリアにいると知らされる。サルーはオーストラリアへと移り住み、20年の時が経った…。
というような話です。

実話を元にした映画です。映画のラストには、実際の映像で、オーストラリアの育ての母と、インドの生みの母が会うシーンが挿入されます。なるほど、実際にこういう出来事があったんだな、と思うと、感慨深いものがあります。

とはいえ、映画としてはどうなのかというと、僕は良いとは思えなかったなぁ。実話を元にしているから仕方ないとはいえ、そうなるんだろうなぁ、というような展開が続いていくような映画だな、と思ってしまいました。

大人になったサルーが、突然インドの家族のことに執着し始め、色んなことを投げ打って故郷を探そうとする、というのも、僕の中ではうまく理解できなかったな、と。まあ、人間なんてそんなもんだと言われればそうなんですけど。一応ストーリーの中では、グーグルアースで探す、という手段があるのだと気づいてから故郷探しにのめり込んでいくことになる、という流れだから、分からないわけでもないんだけど、それまでも故郷のことを気にしていたんだ、というような描写は特になかったので、唐突に思えてしまいました。

この映画の中で一番興味深かったのは、サルーの育ての家族であるジョンとスーの夫婦です。彼らが何故養子を引き受けることになったのか、という理由は、映画の結構後半で明かされるので、あまり書きすぎてはいけないと思うけど、『自分の子を産んで、世界が変わる?』というセリフには、グッときました。

こういう展開を評価する人もいると思うので好みの問題だと思いますけど、僕としては、もう少し何かあって欲しい、そんな風に感じた映画でした。

「LION/ライオン~25年目のただいま~」を観に行ってきました

ひこばえに咲く(玉岡かおる)

ただしたいからする、というのは、僕にとっては「文章を書くこと」だろうか、と思う。

何故だが、文章は書きたくなる。これは、「誰かに何かを伝えたい」とか「文章を書く練習をしたい」というような動機ではない。それらがまったくない、とは言わないが、そういうものよりももっと、ただ「書きたい」という気持ちになる。

自分でも、良く分からない。

僕は、なんだかんだこうして文章を書き続けてきたお陰で、「文章を書くこと」が仕事に役立てられるようになった。それは、とても運が良かった。文章を書くことが出来る、というのは有用性が高くて、色んな範囲で役に立つ。自分でも、文章を書くことを続けてきて良かったなぁ、と思っている。

ただしたいからする、という欲求は、どんな風に生み出されるのだろう、と思う。僕は、元々理系の人間だ。国語は大嫌いだった。本は読んでいたが、いわゆる本が好きな子どもが読むような本は読まなかった。特別文章が上手い子どもでもなかった。

僕がちゃんと文章を意識して書くようになったのは、たぶん20歳くらいからではないか。初めは、書きたくて書いていたわけではない。初めは、本を一冊読んだらその本の感想を必ず書く、というルールを決めて、無理やり書いていた。正直、文章の書き方なんて知らないし、その当時は長く文章を書くなんて全然出来なかった。

いつから、無理やり書く、から、書きたい、に変わったのだろう?

今でも、そう決めたから書きたくないけど書いてる文章もある。書く文章のすべてが、書きたくて書かれたものではない(これは、文章を書くことが仕事に活かせるようになった弊害と言えば弊害である)。とはいえ、やはり僕が文章を書き続けているのは、書きたい、と思うからだ。過去を振り返ってみて、「本を読む度に感想を書くことに決めて、粛々と書き続けた」という経験以外、文章を書くことに親しむ経験なんてほとんどないのに、どうして自分の内側からそんな欲求が湧き上がってくるのか、よく分からない。

『描くためだけの絵もあるんでねえか』

僕には到底、ケンの気持ちは分からない。画家であるケンは、『人が、食べたら排泄しないと死んじまうように、描かなきゃどこか胸の一部が詰まって死んじまうやつだっているべ?』と語る。僕には、そこまでの感覚はさすがにない。けれど、なんとなくは分かるつもりだ。僕は、感想を書くところまで含めて読書だ、と考えている。今では、読んだ本に関して感想を書かないことが気持ち悪く思えてしまう。

ケンの『描くためだけの絵もあるんでねえか』というのは、お金に換えるなんてことのために絵を描く以外のやり方もあるのではないか、という主張だ。これだけ聞くと、芸術家を気取った若者の理想論のようにも聞こえてしまうかもしれない。

しかしケンは90歳になるまで、ほとんど青森から出ることなく、150枚以上の絵を描き、納屋に押し込めていた。誰から評価されることも、まして誰かに絵を見てもらうことすら望まないまま、ひたすら魅惑的な絵を書き続けたのだ。

『描くためだけの絵もあるんでねえか』

そんな男の言葉だと思って聞くと、全然違った風に聞こえるはずだ。

『「あのですね。―誰に見せるつもりがないなら、百五十枚ものこの作品、いったいどういうつもりで描きためたのですか?」
眼鏡の下で、困ったような目がさまよう。香魚子は重ねて聴いた。
「こんなところに押し込むしかない絵を、どうして一生懸命、描いてるんですか?」
何が訊きたいか、今度はわかってくれたか、という目でケンを睨む。
だが、ケンの答えは香魚子の予想を超えていた。
「そりゃあ絵描きは絵を描くだろ。船頭が船をこぐようなもんだ」』

理由を考える理由さえ思いつかないまま、ケンはひたすらに絵を描き続ける。
特殊な環境があったとは言え、こんな風に生きられるとしたらいいな、と思える一生だった。

内容に入ろうと思います。
若瀧香魚子は、父が始めた銀座の骨董店で働いていたが、父がその骨董店の閉店を決断し、自らの身の振り方を考えなければならなくなった。既に50代。素晴らしいものを見る目と、人を惹きつける能力に長けた父に庇護の元不自由なく育ったが、自分の才覚で何かをやるという決断のなかなか出来ない年代だ。パリには、3年ほど付き合っている恋人がいる。黒岩俊紀は妻子ある身だが、日本とパリとで離れて暮らしているが故に、家族との関わりは薄い。ついぞ結婚しなかった女と、結婚しているがパリで一旗上げようと起業した男。男の事業が右肩下がりで下降している現実を前に、二人の恋の灯火も危ういものになっている。
骨董店の閉店準備を進め、また俊紀との関係がどうにもどん詰まりに陥っていたある日、まったくの偶然に、香魚子はある無名の画家の画集を目にすることになった。上羽研(ケン)というその画家の絵に、香魚子は魅入られた。ひと目この絵を見たい。思いつきで、ケンの住む青森まで言った香魚子は驚いた。
画集に載っていた、見る者の心を揺さぶる絵が、納屋に押し込められるようにしてひと目に触れない場所にしまわれていた。
この絵を多くの人に見て欲しい。そういう思いに駆られた香魚子は、閉店した骨董店の跡地をギャラリーに変え、その第一弾として上羽研展を行うことに決めた。俊紀の事業が下降するのに反比例するかのように香魚子の事業はトントン拍子に進み、それもまた、二人の関係に少なくない影響を及ぼす。
また、口数の少ないケンに変わって渉外すべてを担当する馬力のある70代の緒方芙久(フク)は、ケンのことを「オヤブン」と呼び、若い頃から慕ってきた。彼らには、絵画を介した長い長い歴史があり…。
というような話です。

かなり素晴らしい作品でした。香魚子と俊紀の現代の話と、ケンとフクの過去の話が折り重なるようにして進んでいき、時代時代の苦難を乗り越えながら「生きていく」ということを考えさせる物語だなと感じました。

何よりも、ケンが素晴らしいですね。ケンは、実在のモデルがいるらしいです。巻末に載っている参考文献の書名に、恐らくこの人物なんだろう、と思う名前がありますが、一応ここでは書かないことにしておきましょう。

ケンが実在した人物だ、という事前情報は、この作品を読む上で非常に重要だと僕は思っています。というのも、ケンという存在は、いやーそんな奴おらんやろ、と思ってしまうような非実在感を抱かせるものがあります。一流の批評家をもうならせる絵を描きながら、青森からほとんど出ることもなく、誰に見せるでもない絵を描き続ける。それは、実在の人物がいた、という情報があるからこそリアルに感じられる側面はどうしてもあると思います。

ケンのように生きられたら、と多くの人が思ってしまうのではないだろうか。何も望まず、何にも囚われず、目の前にあるもので、自分に今出来ることで満足する、という生き方。それは、出来るかもしれないことを、手に入るかもしれないものを諦めるような生き方に見えるかもしれないけど、たぶんそうじゃない。うまく説明できないけど、望まないことが結局、望んだ場合以上の何かを生み出すことがある、と僕自身が思っているからそんな風に感じるのかもしれない。

僕も、何の目的もなく、ただ書きたいというだけで文章を書き続けてきたけど、そのお陰で、自分が望んでもいなかったような現実がやってきた(詳しくは書かないが)。ケンも、もしかしたら同じなのではないか。何のため、ということもなく、ただ絵を描き続ける。そのことが、作品の質を高め、さらに物語を生み、死の間際に盛大な評価を得るに至ったのではないか。望むことで、その望んだものが手に入りにくくなる、ということは、起こりうるのではないか。そんな風にも感じた。

とにかく、ケンの存在感(ほとんど喋らないのだけど)に溢れた物語だった。

フクもまた良い。ケンを「オヤブン」と慕い、ケンを世に出すために奔走し続けてきた女。香魚子と出会ってからは、ケンの展覧会を成功させるために出来る限りのことをやった女。そんな彼女もまた、厳しい時代を生き抜いてきたのだった。東北の、厳しい貧しさの中で育ったケンとフクが、何故絵を描くことと出会い、二人がどこで出会い、日々どんな風に生きてきたのか。後半のメインとなるその辺りの物語も、実に読み応えがある。

物語を動かしていく香魚子は、恐らく最も読者に近い立ち位置の人物だろう。不自由なく育ったが、始末に負えない妻帯者との恋や、奔放な父が突然止めると言った骨董店の後始末など、どうにもならない現実に絡め取られながら生きている。その悲哀が、作品の隅々から漂ってくる。泰然自若としたケンや、何事にも前向きなフクの有り様には、正直遠さを感じる人もいるのではないか。境遇こそ様々に違えど、香魚子のような、くたびれ感とでも言うような生き方に共感できる人は多いのではないかと思う。

特に、俊紀との恋の物語は、大人の恋愛だからこそのややこしさみたいなものが非常に色濃く描かれていて面白い。妻子がいたり、パリと日本との距離だったり、俊紀の事業が傾きかけていたりと、様々な要因が絡まり合う中で、好きだとか嫌いだとかでは制御出来ない何かに翻弄される様は、読んでいて滑稽でもあり、切実さを感じもする。

時代背景や境遇などはまったく違うが、読者からすると、香魚子の人生と、ケンとフクの人生とか、様々な場面で共鳴していく。絵を介して出会った三人の人生が、時間を超えたところで折り重なっていく構成は、見事だなと感じる。

生きていくということの切実さや覚悟みたいなものに溢れた作品だ。若さを超え、人生の先が見えてきた者たちが咲かせた美しい花。奇跡的な邂逅から生まれたその花の行く末を読んでみて欲しい。

玉岡かおる「ひこばえに咲く」

ちょうかい 未犯調査室1(仁木英之)

内容に入ろうと思います。
通島武志は、身内が犯したとある事件により警察を去ることになってもおかしくなかったが、新たな辞令が下り、キャリアでありながらおっちょこちょいな女の子にしか見えない枝田千秋と共に警察庁へと向かっている。
そこで知らされたのは、これまでに蓄積された犯罪情報を元に、犯罪を未然に防ぐ任務に就く、ということだ。表向き彼らは、警察庁の外郭団体である犯罪史編纂室に所属していることになっている。しかし実際は、「繭」と呼ばれる謎めいた機器を千秋が操作することで、データマイニングの技術によって犯罪が起こりやすそうな状況を探り出し、そしてその発生を未然に防ぐ、という任務を行うのだ。
何がなんだかよく分からないまま、武志は、叩き上げの刑事の中では伝説的な存在となっている魚住桂樹、パソコンオタクである木内亮介、「繭」のナビゲーターである金田りえらと共に、一人の少年と、大規模な落書き事件から始まる混迷に身を投じることになるのだが…。
というような話です。

非常に面白そうな設定と展開ではある。物語がどうなるのか、という興味は確かにある。しかし僕には、まず「繭」がなんなのかまったく理解できなかったので、その時点でかなり挫折してしまいました。

「繭」というのは、ゲームセンターにあるような、体ごと入る筺体みたいなものがある(というのが僕のイメージ)で、その中に千秋は入ってるようだ。でも、武志と桂樹も入っている感じもする。
それで、その「繭」の中で彼らが何を見ているのかが、全然想像できない。ドラえもんでタイムマシンに乗ってる時に彼らがいるような空間みたいな、現実とは違うデータによって組み上げられた空間にいるんだろう、みたいなイメージなんだけど、でもどうも現実の映像(と言っていいのか)も映るようだ。「繭」の中で、千秋が一体何をしているのかも不明だ。恐らくそれは、物語の核心と関わりがあるだろうから分からなくて当然なのかもしれないけど、しかし登場人物の中に、読者と同じ困惑を体験してくれる人物がどうもいなくて(武志も桂樹も、まったく戸惑っていないわけではないが、千秋が何をしているのかという部分への違和感がどうも見えてこない)、僕は置き去りにされているような感じがした。

「繭」の中で、現実と変わらない映像を見ることが出来る、と思いながら読んでいる僕としては、千秋や武志や桂樹が「今いる場所」が、「繭から見た光景」なのか、「彼らが現実にその場にいる」のか分からなくなる場面もあった。「繭」から見てるんだろうなぁ、と思いながら読んでたらそうではなかったということがあった。

「繭」そのものの描写もなかなか理解し難かったのだけど、「繭」によって彼らが何をしようとしているのかもイマイチ分からなかった。彼らの目的が、犯罪を未然に防ぐことだ、ということはきちんと理解している。しかしそうではなくて、「繭」を使って彼らが何をしたいのかが分からない。「繭」が「犯罪を未然に防ぐこと」とどう関わっているのかが、僕にはイマイチ見えてこないのだ。武志と桂樹は、元々現場の刑事だから、足を使って情報を集めてくる。亮介は常軌を逸したパソコンオタクだから、街中の防犯カメラや他人の携帯電話なんかにも侵入して勝手に情報を取ってくることが出来る。彼らがやっていることは、やっていることと成果が結びつきやすい。しかし、「繭」がどう絡んでいるのか。千秋が「繭」で何をして、それが「情報を取る」という点においてどんな役割を果たしているのかという点が、どうにもうまく掴めなかった。

「繭」の存在を除けば、千秋のキャラクターも面白いし、武志が陥っている状況のジレンマも凄まじいし、少年と落書きから始まった物語が壮大な展開を見せる流れも面白いと思う。しかし、「繭」だ。「繭」のことが、僕にはどうにも理解できなかった。

「繭」のことをもう少し伝わりやすく書いてくれるか、あるいは「繭」という設定を丸ごと取り除いてもらえたら、面白く読めるような気がしました。

仁木英之「ちょうかい 未犯調査室1」

月の満ち欠け(佐藤正午)

物理学には、「ひも理論」という理論がある。これは、原子というのは、ひも状のものが振動することで異なる性質を持っているのだ、というようなところからスタートする理論だ(詳しくは知らない)。ひも理論は、理論としてとても美しいようだ。その美しさを、僕自身は理解することは出来ないが、そういう記述を頻繁に見かける。もしこの理論が正しいとしたら、世界のあり方を説明するのにぴったりな美しさだ、と。

しかし、一つだけ問題がある。それは、問題となる「ひも」があまりにも小さいため、現在の技術では観測することが不可能なことだ。もしひも理論が正しいとしたら、今よりも遥かに小さなものが見える顕微鏡を開発しなければならないが、それは技術的に不可能なのではないか、という意見もあるようだ。

さてこの場合、ひも理論の扱いはどうなるのだろうか?

科学の世界では、証明できない理論は、たとえその理論がどれだけ整合性のとれた素晴らしいものであっても意味をなさない。あくまでも、証明できることが大事なのだ。ひも理論は、「ひも」を観測することが出来ない。よくは知らないが、ひも理論が予測する何らかの効果を測定することも、きっと難しいのだろう。

とはいえ、証明できないからひも理論は成り立たない、ということでもない。実際に、僕らが生きているこの世界は、ひも理論によって成り立っているのかもしれない。けれど、僕らはそれを確認する方法を持たない。そういうことだ。

さて、生まれ変わりというものについて考えてみよう。これは、証明できるだろうか?

前世の記憶がある、知っているはずのない知識を喋った、クセが同じだ…というようなデータを取ることは出来るだろう。しかしそこから、「生まれ変わり」という現象を証明することは難しい。

例えば、知っているはずのない知識を喋ったとか、前世の記憶があるとかいう話には、こんな理屈をつけることだってできる。

「脳」と「記憶」が、「鍵」と「鍵穴」のような関係なのだとしよう。そして「記憶」というのは、脳内にただ留まっているわけではなく、常時空気中に放出されているとしよう。通常、「脳」と「記憶」は、形状が一致しなければ認識しない。Aさんの「脳」とAさんの「記憶」は形状が一致するので、AさんはAさんの「記憶」を脳内で再生できるが、Bさんの「脳」とAさんの「記憶」は形状が一致しないので再生できない。

しかし、極稀に、他人なのに「脳」と「記憶」の形状が同じ人がいる、とする。その場合、空気中に漂っている、まったく知らない誰かの「記憶」が、自分の「脳」で再生されることになる。

これが、前世の記憶や知らない知識の混入の説明である、と主張することも出来る。無理矢理考えれば、何故そんな仕組みが人類に採用されているのかも説明できる。人間は、突然死ぬ可能性がある。その場合、その人の思考は失われてしまう。しかし、「脳」と「記憶」がこういう仕組みになっていれば、いずれ誰かがその思考を拾う可能性がある。知識や思考という、人間を人間足らしめている要素を無益にしないための仕組みなのだ。もしそうなら、突然インスピレーションが湧くとか、今まで考えたこともなかった発想が浮かぶ、なんていう状況の説明も出来るかもしれない。

なにも、僕自身がこんな話を信じているわけではない。しかし、仮に「生まれ変わり」という仮説を信じるのであれば、僕が提唱した「脳・記憶仮説」を否定する理由もないはずだ。科学では扱えない理論であり、証明できないという点で両者は等価なのだから。

与えられた条件を満たす仮説など、恐らくいくらでも思いつけるはずだ。その中で「生まれ変わり」という仮説だけが特別な理由はない。あるとすれば、その仮説が僕らにとって受け入れやすく馴染みやすい、というぐらいなものだ。しかし、物理や化学の世界を少し知っていれば、僕らが生きているこの世界が、あまりにも僕らの日常感覚からかけ離れた理屈で動いていることを知ることが出来るだろう。受け入れやすいからと言って正しいとは限らないのだ。

だから、僕にとって「生まれ変わり」という現象は、科学的に証明する手立てがないのだから議論する価値はない、となる。もちろん、いずれ証明できる日が来るかもしれない。それはひも理論も同じだ。しかし、少なくとも今は証明できない。それは結局、いくらでもありえる仮説の一つに過ぎない、ということだ。

内容に入ろうと思います。
小山内堅は、八戸から東京までやってきた。ある少女に会うためだ。緑坂るりという7歳の少女は、会ったこともない小山内のことを「知っていた」。
何故なら彼女は、14年前に事故死した小山内の娘・瑠璃の生まれ変わりだ、というのだ。
小山内は、瑠璃のことを思い出す。ある時妻の梢が、瑠璃がおかしい、という。謎の高熱にうなされた後のことだ。ぬいぐるみに、「アキラ」という名前をつけている、という。小山内には、それのどこがおかしいのか分からない。しかし妻は重ねて言う。瑠璃は、黛ジュンの歌を口ずさんでいたんですって。デュポンのライターを見分けたんですって。ママ友や先生から聞いた話を小山内に聞かせる。小山内は、大したことじゃないだろう、と考えていた。その後、瑠璃は突然失踪した。彼らが住む千葉から高田馬場まで、小学生の身で一人で行ったという。その行動の意味はよく分からないが、小山内はそれでも瑠璃を特別おかしいと思うことはなかった。
事故で妻と娘を一遍に亡くした小山内は、長い時を経て、三角哲彦と名乗る一人の男性の訪問を受ける。14年前の妻と娘の葬儀にも顔を出してくれたらしいが、小山内は覚えていない。非の打ち所のない三角の経歴に、一点だけ曇りがある。大学を5年掛けて卒業しているのだ。
その空白の一年の話を、三角は語る。レンタルビデオ屋でアルバイトしている時に出会った、一人の女性の話を…。
というような話です。

評価の難しい作品だ。個人的には、さほどグッと来なかった、という感じだ。

偉そうな評価になるが、よく出来ている、とは感じる。生まれ変わりという、まあ言ってしまえば胡散臭い題材を、うまく物語に落とし込んでいる。様々な人物が登場するが、物語があまり複雑にならないようにうまく調整しているようにも感じられる。

ただ、僕の感触としては、リアルに寄せすぎたが故に中途半端になってるような気がしてしまった。

「生まれ変わり」という非現実的な題材ならば、その設定をフルに活かしてもっと空想の羽根を広げてもいいんじゃないか、という気がした。「生まれ変わり」という題材をリアルに描き出そうとするが故に、物語の広がりみたいなものが限定的になってしまっているように感じられる。巨人が狭い箱の中で伸びをしようとしているような作品に感じられた。

生まれ変わっているのかどうか、という点が、ミステリのような形で後に後に引き伸ばされているように感じられるのも、個人的には難しいのかもしれないと感じた。冒頭で書いたように、「生まれ変わり」という現象は絶対に証明出来ない。物語の中であれば、読者にそう錯覚させる風に描き出すことは出来るはずなのだが、本書ではそれを最後の最後までしない。「本当に生まれ変わっているのかどうか」という点を、謎のように引っ張っているように感じられてしまった。もちろん、それが作者の意図であるのかもしれない。しかし僕には、その部分で物語を引っ張っていくのは厳しいのではないか、と感じてしまった。何らかの形で、物語の早い段階で、「生まれ変わっているのだ」ということを打ち出してしまって、それを前提として物語が進んでいく方が、個人的には好きになれるような気がする。

生まれ変わっているかどうかで物語を引っ張っているように感じられるのは、生まれ変わっている本人たち視点で物語が進んでいかない、という部分も大きい。基本的には、生まれ変わっている者の周囲の人間たちの視点で物語が進んでいく。だからこそ、生まれ変わっている者たちの内面がなかなか見えてこない。生まれ変わっているのかもしれない、という葛藤を抱える周囲の人間の苦悩みたいなものを描く、という点ではこの物語は成功している。しかし読みながら僕は、生まれ変わっている者たちが何をどう感じているのか、という部分に関心が向いた。もちろん、それはこの物語で著者が書きたかったことではないのだろうし、読者に想像してもらいたい部分なのだろう。ただ、僕の好みではないなぁ、と思ってしまった。

この物語の中で僕が面白いと感じたのは、三角哲彦の大学時代のパートだ。この部分だけが、この物語の中で唯一「当人同士の物語」だと言えるかもしれない。そこに、切実さを感じることが出来る。彼らの物語には生まれ変わっている「かもしれない」、の部分がないので、スッと受け入れることが出来るのだ。

僕としては、もう少し違う形で物語が進んでくれたら良かったな、と感じられる作品だった。

佐藤正午「月の満ち欠け」

哲学的な何か、あと科学とか(飲茶)

久々に、ド級に面白い作品を読んだ。
自分の趣味のど真ん中、ということももちろんあるが、面白かった理由はそれだけではない。

正直なところ、本書に書かれている事柄は、ほとんど別の本で読んで知っていることばかりだった。そういう観点から本書を捉えれば、面白い本ではなかった、という感想になってもおかしくはない。

けど、そうはならなかった。
何故か。
それは、本書が「科学のびっくりする話を集めてみました」というような造りの本ではないからだ。
本書にはきちんと、「科学とはどういう営みなのか?」を伝えたいという、強い意志が込められているのだ。

『などなど、哲学的な視点で「科学的な正しさ」を問いかけていくと、実はそれがかなり危ういものだと気づかされるだろう。いままで確かだと思っていた景色がガラガラと崩れる瞬間は、怖いけども、ちょっぴり楽しかったりもする。』

本書は、主に科学のエピソードを様々に取り上げながら、「科学とは何か?」を伝えようとする。そういう意味で本書は、日常を生きる僕たちが読んでおくべき一冊だと感じるのだ。

何故なら、僕たちの日常は「科学的なもの」に取り囲まれているにもかかわらず、僕たち自身の手や目でその「科学的なもの」を確認することが出来ないほど複雑になってしまっているからだ。

たとえば。築地移転において豊洲の土壌汚染の問題が発覚した。多くの国民は、築地市場は既に耐震性や衛生面で問題を抱えているというのに、豊洲の土壌汚染の方を重視し、豊洲への移転を「安全ではない」と判断しているような印象がある。そしてそういう中で、土壌汚染を調査している科学者のチームにマスコミの人が「安全かどうか」を問うている場面をテレビで見かけて、それは科学者に向ける問いではないなぁ、と僕は感じてしまうのだ。

人は「科学」と聞くと、現実をはっきりと理解し、物事を明確に判断するものだという印象を受けるようだ。どんな仕組みかは分からないが、「科学」というブラックボックスを通せば、世の中のあらゆることに白黒つけることが出来る、と思っているようだ。だからこそ、豊洲の問題についても、科学者に対して「安全かどうか」を問う、という行動が生まれるのだ。

しかし、「科学」というのはそういう営みではない。本書を最初から最後まで読めば実感できるだろうが、「科学」というものを通せば通すほど、余計に目の前の現実が分からなくなっていくのだ。「科学」というのは、物事をくっきりさせるどころか、より深い混沌へと導くものでもあるのだ。

本書を読み、「科学」というのがどんな営みなのかを理解すれば、「科学」というブラックボックスに放り込めば何でも分かる、なんていう幻想は消え去るだろう。

科学者は、「科学」の限界をきちんと認識している。認識しているからこそ、「科学」という「道具」を使って、有益な成果を生み出すことが出来るのだ。本書は、その限界の一端を垣間見せてくれる作品だ。「科学」に出来ることと出来ないことをきちんと見極めることで、「科学的に正しい」という言葉が何を意味しているのかきちんと理解できるようになるだろう。驚くかもしれないが、「科学的に正しい」というのは必ずしも、「現実がそのようになっている」ことを保証しないのだ。

『そもそも、科学の役割とは、「矛盾なく説明でき、実験結果を予測できる理論を作ること」である。
だから、ぶっちゃけ、「観測する前は波!観測されると粒子に大変身!」ということが、「本当に起きているかどうか」なんてことは、科学にとって、どうでもいいことなのだ』

この発言の背景を少しだけ説明しよう。量子力学という物理の分野に、二重スリット実験という有名な実験がある。詳細は省くが、その二重スリット実験によって、「光は波でもあり、同時に粒子でもある」と考えなければ説明がつかない実験結果が得られたのだ。これは、僕たちの日常感覚からすれば到底受け入れることが出来る考え方ではない。そもそも、波でもあり粒子でもある状態、なんて誰も想像出来ない(これは、そう主張している科学者にしても同じことだ)。

しかし、「光は波でもあり粒子でもある」と考えると、目の前の実験を矛盾なく説明でき、また何らかの実験をした場合の結果を予測出来るのだ。

だったら、とりあえずそう考えようぜ、というのが「科学」という営みのスタンスなのだ。

『だから、決して科学は、「コペンハーゲン解釈(注:光は波でもあり粒子でもある、という考え方)が説明するとおりに、現実もホントウにそうなっている」とは述べていないことに注意してほしい』

恐らくこれは、あなたが抱いていた「科学」というものに対するイメージを大きく変えるのではないかと僕は思う。「科学」というのは、目の前で起こっている現象をきちんと理解した上で理論を組み立てるのだ、と思っていたのではないだろうか。でも、そうではないのだ。目の前で何が起こっているのかはまったく分からないが、とりあえずこう考えると矛盾しない理論が作れるし結果の予測も出来るから、じゃあそういうことが起こっていることにしようぜとりあえず、と考えるのが「科学」なのである。

『だから…。
この世界は、ホントウはどうなっているの!?世界は、いったい、どのような仕組みで成り立っているの?
という、古くから科学が追い求めてきた「世界のホントウの姿を解き明かす」という探求の旅は、科学史のうえでは、すでに終わっているのである。
科学は、世界について、ホントウのことを知ることはできない。
「ホントウのことがわからない」のだから、科学は、「より便利なものを」という基準で理論を選ぶしかないのだ』

信じられないかもしれないが、これが現在の「科学」が行き着いた到達点である。科学者は、この限界についてきちんと理解をしている。だから、「科学」の範囲で出来ることを探し、日々新たな成果を生み出している。しかし、科学者ではない者は未だに、「科学」というものを万能であるかのように感じてしまう。「科学」というブラックボックスに放り込んだものは真実の姿を見せるのだ、と思ってしまう。

ここに、大きなギャップがある。このギャップは、科学者にとっても科学者でない者にとっても不幸しか生まない。このギャップを埋めることが、「科学」が人類にとって有用であり続けるために最も重要なポイントだと言ってもいいだろう。

ここまで読んで、なーんだ「科学」って役立たずじゃん、と思った方がいたとすれば、それは違うと僕は言いたい。確かに、「科学」では「世界のホントウの姿」を明らかに出来ないかもしれない。しかし、「科学」が人類に様々な恩恵や成果を与え続けてきたし、これからも与え続けるのだということだけは間違いない。結局のところ、「科学」に何を求めるかの問題なのだ。「科学」に幻滅したとすれば、それはあなたが「科学」に対して望んでいるものは的外れだ、ということに過ぎない、ということが、本書を読むと理解できるだろう。「科学」という営みが人類全体にとって有益であるためには、「科学」によって出来ることは何で、出来ないことは何なのかということについて、社会全体で共通の認識を持つことだろう、と僕は思う。

そういう意味で、本書はむしろ、「科学」が苦手だったり嫌いだったりする人に読んで欲しいのだ。あなたが思い込んでいる「科学」の姿を打ち砕き、「科学」に何を求めるべきなのかをきちんと理解してもらうために、本書を読んで欲しい。

さてここまでで僕は、「科学とは何か?」というものを、「科学が担うべき役割」という側面から描いてきた。本書の中では、また別の側面から「科学とは何か?」を描き出す。それが、「科学でないものとは何なのか?」という側面だ。

よく「エセ科学」や「ニセ科学」という言葉を見かけることがあるだろう。これらはもちろん、「科学ではない」という意味で使われているのだが、それでは「科学ではない」とは一体どういう意味だろうか?

これも、きちんと理解しておくべきだろう。日常の中には「エセ科学」が溢れている。目の前の事柄が「科学」なのか「エセ科学」なのかを見極めるための指標を知っておくというのは、とても大事なことではないかと思う。

「科学」と「エセ科学」を区別することは、実はとても難しい。というのも、「エセ科学」であっても、どこからどう見ても矛盾しない理論、というのはいくらでも存在するからだ。

ここで少し、「非ユークリッド幾何学」について話そう。

本書の前半で、「公理」という項目がある。「公理」というのは、「あまりにも当たり前だから証明しなくてもいいよね」という法則だ、と思ってもらえたらいい。例えば、「線分の両端は無限に延長できる」などだ。これは、どう考えても当たり前だろう。

さて、その「公理」の中に、「二つの平行線は互いに交わらない」というものがある。これも、そりゃあそうだろうよ、と思うくらい当たり前の法則だろう。数学の根本を成す「公理」は5つあり、平行線は交わらないという公理は「平行線公準」と呼ばれている。紀元前からこの「公理」をベースに数学というのは組み立てられており、5つの「公理」をベースにした数学を「ユークリッド幾何学」と呼んでいる。

1800年頃、あの天才数学者・ガウスが、この「平行線公準」を満たさないとしても、つまり「二つの平行線が互いに交わる」と考えても、矛盾のない幾何学の体系を作り出せることが分かった。それは「非ユークリッド幾何学」と呼ばれ、実は僕らが生きている現実により近いのは「ユークリッド幾何学」ではなく「非ユークリッド幾何学」であることも判明したのだ。

『このことの最大の問題点とは、
「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」
ということなのだ』

「非ユークリッド幾何学」の発見によって、「絶対的な真理の記述」というのが幻想であり、あらゆる学問の理論体系は、「ある一定の公理をもとに、論理的思考の蓄積で作られた構造物」と見なされるようになったのだ。

さて、話を「エセ科学」に戻そう。「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」ということが判明した以上、理論がそれ自体で矛盾を孕んでいるかどうかを、「科学」と「エセ科学」の境界にすることは出来なくなった。

これは困った。この問題が浮上した当時、怪しげな理論がどんどん生まれ、それらの中から「科学ではないもの」を排除する必要に迫られていたのだが、誰もその境界を示すことが出来なかったのだ。

そこで登場したのが、ウィーン学団。彼らはウィーン大学の哲学教授を中心としたグループで、「論理実証主義」によって「科学」と「エセ科学」を見極めてやる、と主張したのだ。

さて、その結果どうなったのか。なんと、「科学と擬似科学のあいだに、境界線はない。ていうか、擬似科学しか存在しない!」という結論になってしまったのだ。多くの科学者が「科学」だと考えているものまで、ウィーン学団にかかってしまえば「エセ科学」扱いされてしまったのだ。

これも困る。なんとか「科学」と「エセ科学」に境界を見つけることが出来ないだろうか。

そこで登場したのがポパーである。ポパーが提唱したのは、「反証可能性」というものだ。大雑把に言えば、「反証可能性を持つものが科学であり、反証可能性を持たないものがエセ科学だ」とポパーは主張したのだ。

では、反証可能性とは何か。噛み砕いて言えば、「その理論が間違ってると指摘される可能性」のことだ。

例を挙げて説明しよう。昔読んだ本には、こんな例があった。透視が出来る、という男がおり、とある教授が実験を行っている。実験の詳細は何でもいいのだが、とにかくその男が透視が出来たと示せるような実験を、観客の前で行うのだ。
しかしその教授は、実験の前にこんなことを言う。
「もしこの部屋の中に、この男の透視能力を疑う者が一人でもいれば、彼は透視能力を発揮できない」
さて、この状態で実験をした場合、どういうことが起こるだろうか。
透視が出来た、という結果が出れば、それはいい。問題は、透視が出来なかった、という結果が出た場合だ。この時教授は、男に透視能力がないことを認めないだろう。何故なら教授は、「透視が出来なかったのは、この部屋に彼の透視能力を疑う者がいたからであり、この結果は彼の透視能力を否定するものではない」と主張できるからだ。

さて、この実験の場合、「透視が出来る、という主張が間違っていると指摘される可能性」はあるだろうか?透視が出来た、という結果が出れば正しいことになるし、透視が出来なかった、という結果が出れば観客が疑っていたせいにする。つまり、どんな結果が出ても、「透視が出来る、という主張が間違っていると指摘される可能性」はゼロなのだ。

この状態を「反証可能性がない」と言う。つまりこれは、「科学ではない」「エセ科学」だと考えていい。

『一般に「科学」と言えば、「明らかに正しいもの」「間違っていないと確認されたもの」というイメージを持ちがちであるが、実はそうではないのだ。面白いことに、「科学」であることの前提条件とは、「間違っていると指摘されるリスクを背負っているかどうか」なのである』

これは非常に面白い観点だと思わないだろうか?この視点もまた、「科学」というものの捉え方を一変させるだろう。

もちろんこの反証可能性という考え方も、決して万能ではない。究極的には、すべての科学理論は反証不可能だと言えてしまうのだ。だから本書には、こんな風にも書かれている。

『つまり、科学理論とは、
「うるせぇんだよ!とにかくこれは絶対に正しいんだよ!」
という人間の<決断>によって成り立っており、そのような思い込みによってしか成り立たないのだ』

とはいえ、反証可能性というのは一つの指標になることは間違いない。法律でもルールでも宗教でも何でもいい、目の前に何らかの理論めいたものがあった時に、「この理論が「間違っている」と指摘できる可能性はあるだろうか?」と考えてみよう。どう考えても「間違っている」と指摘できない場合、それは怪しげな理論だ、と思っていいかもしれない。

ちなみにこの「反証可能性」は、科学には当てはまるが、数学には当てはまらない。数学の場合、「数学的に証明された理論」は、未来永劫絶対に覆ることはない。もちろん、証明そのものに欠陥があるような場合は別だが、その証明が完璧であれば、数学の理論は覆らない。これが、「数学的に正しい」と「科学的に正しい」の決定的な違いだ。「科学的に正しい」というのは、概ね「現時点ではそう考えられている」という以上の意味を持たないが、「数学的に正しい」というのは、「100%正しい」と同じ意味である。恐らく数学や科学にあまり親しんでこなかった人には、この違いをうまく捉えられていないのではないかと思う。本書を読んで、特に「科学的に正しい」というのがどういう状態を指しているのか、実感して欲しいと思う。

僕たちは、「正しい」という言葉をあまり深く考えて使うことはない。しかし、「正しい」にも様々なグラデーションが存在し、様々な種類がある。本書は、「科学」という営みを「哲学」という切り口で眺めてみることで、「科学的に正しい」ということの意味合いを探っていく本だ。

難しい本に思えるかもしれないが、いくつか引用した箇所の文章を読んでもらえれば何となくの雰囲気は恐らく伝わるだろう、とても読みやすい本だ。扱われている内容は非常に高度で複雑だ(なにせ、科学者自身でさえも理解できていないことなのだから、難しいのは当然だ)。しかし、その難しさの本質をうまく取り出し、分かりやすく易しく説明をしてくれている。本書を理系の人間が読めば、漠然としか理解できていなかった数学や科学の複雑な状況を理解し、疑問が氷解していくことだろう。そして本書を文系の人が読めば、自分が「科学」をどんな風な思いこみで見ているのかが分かり、そしてその思いこみがかなり薄まるのではないかと思う。科学や哲学が嫌いだから本書を読まない、のではなく、嫌いだからこそ本書を読んでみる、そういう風に思って欲しいなと思う。

実に素晴らしい本だった。

飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」

「ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命」を観に行ってきました

たぶん疲れていたんだろう。
映画の前半部、断続的に寝てしまった。
だから、ちゃんと見れたのは後半だけ。
ちょっと楽しみにしていた映画だったから、もう少しちゃんと見れれば良かった、と後悔している。

物語は基本的に、ジャッキーの愛称で親しまれたケネディ元大統領の妻が、夫が暗殺された直後に受けたインタビューと、そのインタビューで語りながら回想する場面で構成されていく。彼女は記者に、「メモはすべてチェックさせてもらう」と告げてから記者を家の中に通した。そして彼女は、時々「これは書いてはいけない」と告げながら、暗殺されたまさにその時の状況を、そしてケネディ大統領との日々を語っていく。

僕には知識としてそもそもないが、ケネディ大統領はアメリカではかなり良い風に捉えられているようだ。この映画の最後で、「誰もがキャメロットを信じている」とジャッキーが語る場面があるが、ネットで調べるとこの「キャメロット」というのはケネディ家を指す言葉であり、栄華を古代の都市の名から取られているのだという。ジャッキーが、夫の死を伝説にするために「キャメロット」という名前を付け、発信したのだという。そんな風にして夫を伝説にするためにジャッキーが何をしたのか、というのがこの作品のメインとなる部分なのだと思います。

「ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命」を観に行ってきました

不発弾(相場英雄)

もし自分がバブルの時代に生きていたら、馬鹿げた投資に足を突っ込んでいただろうか、と考える。
現代から見れば、バブルの時代がいかにイカれていたかというのは誰だって分かる。しかし、「バブル」などという名前さえ付いておらず、土地の値段や株価は上がり続けるのが当たり前だ、と誰もが思っていた時代に生きていたら、どうだっただろう、と思うことがある。

今の自分の性格であれば、きっとその時代に生きていても、きっと投資には手を出していなかったように思う。絶対、とは言い切れないが、「自分がきちんとルールを把握することが出来ない事柄に手を出すことが怖い」「周りが盛り上がれば盛り上がるほど、それから離れようと意識する」という僕自身の性格を考えれば、アホみたいな投資に手を出して借金を抱えるようなことはきっとなかったに違いない。

そんなことを考えながら、じゃあ今はどうだろう?と考える。時代には、リアルタイムで名前が付くこともあれば、その時期を過ぎてから名前が付くこともある。先程も書いたように、「バブル」というのはたぶん、「バブル」だった時期の呼称というよりは、「バブルが弾けた」というような形で、「バブル」の時期の後に名前が定着したようなイメージがある。

今僕たちが生きているこの時代も、過ぎてしまえば何らかの特徴的な名前が付くような、そんな時代であるかもしれない。その時代を生きている人には気づかない、後から振り返ってみればみんな何をしてたんだろうね、と感じるような、そんな「狂乱」の中に僕らは生きているのかもしれない。そうである可能性は、どんな時代に生きる人にもありえるのだ。

世の中がそうだと言っているからと言って、その事柄の正しさが裏付けられる、なんていうことはありえない。僕らも、知らず知らずの内に「不発弾」を抱えてしまわないように、注意しなくてはいけないと思う。

内容に入ろうと思います。
警視庁捜査二課は、経済犯や知能犯を扱う部署だ。そこで管理官を務めるキャリアの小堀は、新聞で取り上げられている三田電機に違和感を覚える。三田電機は、創業から100年以上の歴史を持つ老舗企業で、洗濯機などの白物家電や半導体製造、あるいは原子力発電所など多岐に渡る事業を手がける、日本屈指の総合電機メーカーである。その三田電機では先ごろ、1500億円を超える“不適切会計”が発覚したばかりだ。小堀は、10年間で1500億円というのは、“不適切会計”ではなく、立派な“粉飾”ではないかと感じている。年上の部下であり、捜査二課のエース捜査員でもある今井巡査部長と共に、三田電機について調べてみることにした。
その過程で掴んだのが、古賀遼という男の存在だ。何者なのかははっきりしないが、古河遼について調べ始めると、彼が関わった企業や信金などで様々なトラブルが起こっていたことが判明する。古賀は北九州の炭鉱町出身だが、その地元信金の重鎮が、「不発弾」という謎の言葉を遺して自殺していることも判明した。小堀らは、古賀を追うことに決めた。
古賀遼こと古賀良樹は、証券会社に勤めていた先輩の話を聞き状況、中堅どころの証券会社の場立ち要員となった。立会場にて手振りで売買を成立させる仕事を長く続けた。そこから縁あって別のステージへと進むことが出来た古賀は、日本経済の発展と凋落に合わせながら、その時々で企業会計の世界で汚れ仕事を引き受けてきた。
まさに古賀こそが、日本中に「不発弾」を埋め込んだ張本人と言ってもいいのだ…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。扱われているテーマはちょっと難しい部分を含んでいて、その点はやっぱり理解がかなり困難です。そもそも短い描写で説明しきれる話ではないでしょう。その難しい部分をどうしてもきちんと理解しないまま読み進めるしかない、という点が唯一難点と言えば難点ですけど、全体的に非常に面白く読ませる作品だと感じました。

本書で描かれる三田電機は、明らかに東芝がモデルになっています。1500億円という巨額の損失隠しが何故行われたのか、そしてそれが何故隠されたままで在り続けたのか、そしてなぜ「粉飾」ではなく「不適切会計」と言い換えられたのか…。もちろん本書は小説であり、現実をそのまま引き写したものではない、という点は注意しなければなりませんが、なるほど、あのニュースの背景にはこんなことがあったのか…と驚かされる思いがしました。

本書を読むと、東芝の“不適切会計”が氷山の一角であるということがよくわかります。本書のタイトル通り、「不発弾」が日本中に眠っていて、いつどこでそれが爆発するのか、ほとんどの人が知らないままでいる。細かな部分まで完全に理解できているわけではないのだけど、本書を読む限り、日本が直面している状況は非常に深刻なのではないか、と感じざるを得ません。

「金」というのは何なのだろうな、と考えさせられます。

僕はいつも、「金持ちにはなりたくない」という発言をしています。もちろん、生活に困るような状況に陥りたくはありませんが、日常の生活がほどほどに過ごせるお金があれば、それ以上のお金を強く望む気持ちは特にありません。実際僕の年収は、同世代の平均年収と比べて大分低いと思いますけど、とりあえず生活していく分には特に不満もないので、あとちょっとあると楽だな、とは思いますけど、無闇矢鱈にお金が欲しいとは思いません。何らかの仕事や成果に対する対価としてもらえるのなら、仕事や成果を評価してもらえた、という側面もプラスされるのでありがたいのだけど、何の意味もなくポンと大金が目の前に現れたら、それを喜べるのかどうか、ちょっと分かりません。

というのも、お金持ちになればなるほど、お金を奪われるリスクに対する対処をしなければならないと思ってしまうからです。その余計な心配をしたり、奪われないために様々な知識を身につけたりする労力が、お金を得るというプラスと見合うのかどうか、僕はいつも疑問に思ってしまいます。

本書で描かれる人々も、結局のところ、大金を扱うだけの知識や技量が足りない人間が多い、ということなのだと思います。古賀を含めた、盤面全体を見渡せるごく一部の人間だけがその能力を有し、それ以外の人間は踊らされているだけ。マネーゲームというのは結局そういうものなのだろうなと思ってしまいます。

金持ちになりたいという人は、なればなるほど金を奪われるリスクが高まる、ということを意識出来ていないのではないか。僕にはそんな風に思えることがあります。

それ自体は、まあいいでしょう。リスクを見なくて困った事態に陥るのが当人であるなら、問題ありません。ただ、本書で描かれているのは、リスクを無視して踏み出したことで巨額の損失を被った場合、その損失を自分以外の何かのせいにする、という企業のあり方です。こういうあり方は、改められなければならないだろうな、と感じます。

僕らが普通に生きている限り見えることのない現実を見事に切り取った作品だと思います。

相場英雄「不発弾」

ハリー・クバート事件(ジョエル・ディケール)

嘘を吐くつもりがなくても、結果的に嘘になってしまうことはある。
その時、それが嘘であるとはっきりと言うことが出来れば、世の中の色んな問題は起こらずに済んだかもしれない。
しかし、なかなかそれは勇気の要ることだ。

嘘を吐き続けるのは、とても苦しいことだ。平然と嘘を吐ける人間も世の中にはいるだろうが、大抵の人は、自分の内側に嘘を抱え続けることに耐えきれない。しかし、真実を明らかにすることは、さらなる苦痛を伴う。どちらにも進むことが出来ない状態は、とてもつらい。

嘘は、日常のあらゆる場所にある。舞台にも状況にも関係性の中にも。すべての嘘を取り除こうとすれば日常が成り立たないし、かといって些細な嘘でも積み重なれば致命的な事態を引き起こしもする。

僕は、なるべく嘘をつきたくないと思う。正確に言えば、バレるような嘘はつきたくない。嘘をつくのであれば、絶対にバレないように、一生抱えるつもりでつく。そうでない場合には、嘘にならないように努力する。

しかし…。もし僕が、この作品の舞台であるオーロラの町に住んでいたら…。まったく嘘をつかないで過ごすことが出来ただろうか、と思う。誰もが、自分が放つ些細な嘘の中に、自分にとって大切だと思える何かを忍ばせて、長い年月の間現実を歪ませてきた。

その歪みが一気に噴出する時…。最悪な形で真実が明らかにされる。

内容に入ろうと思います。
マーカス・ゴールドマンにとってハリー・クバートは人生の師と言っていい存在だ。1500万部という金字塔とも言える売り上げを記録した「悪の起源」という作品を書いた偉大な作家だからとか、彼から小説を書くための心得を教わったから、というだけの理由ではない。まさしくマーカスは、ハリーと出会ったことで、作家として、そして人間として歩むことが出来たのだ。
ハリーは長年、オーロラという小さな町の外れにある邸宅で一人で暮らしてきた。マーカスは、デビュー作が200万部の大ベストセラーとなり、一躍時代の寵児となったが、しかし二作目が書けなくて苦しんでいた。出版社とは、五作分の契約をしている。二作目以降が書けなければ、契約違反で訴えられてしまう、そんな追い詰められた状況にあった。
そこでマーカスは、オーロラに住むハリーを訪ねた。マーカスが大ベストセラー作家となってからは久しぶりのことだった。
そしてその日マーカスは、とんでもないものを見つけてしまう。「悪の起源」などという傑作を書けた理由を知りたくてハリーの書斎を漁ってしまったマーカスは、そこで、ハリーが34歳の時に15歳の少女とつき合っていた証拠となるものを見つけてしまったのだ!ハリーがつき合っていたノラ・ケラーガンという少女は、1975年の8月のある晩に失踪している。謎めいた失踪であり、2008年現在もノラの行方は分かっていない。
書斎を漁っていたことを知ったハリーは激怒し、マーカスにこのことを口止めした。しかしその数ヶ月後、信じられない出来事が起こった。
ハリーの邸宅の庭から、ノラと思われる少女の死体が発見されたのだ。死体と一緒に、なんと「悪の起源」の原稿が埋められており、その原稿には、<さようなら、いとしいノラ>と書き込みがあった。
すぐさまハリーは逮捕された。アメリカを代表するベストセラー作家の逮捕に、全米中が騒然となった。また、「悪の起源」が15歳の少女との禁断の愛が描かれた作品だと知った人々は落胆し、「悪の起源」は出版停止に追い込まれるほど評判が下がった。ハリーは、この一件ですべてを失ったかに思えた。
しかし、マーカスだけはハリーの無実を信じた。マーカスは、警察とは別で独自の捜査を続けた。33年前のあの夏、このオーロラの町で一体何が起こったのか。執念の捜査で少しずつ真相の断片を掴みはじめていったマーカスは、やがて取材によって判明した事実をデビュー2作目として発表することになるのだが…。
というような話です。

評価の難しい作品だけど、とりあえず難しいことを考えなければ、とにかく面白い作品だった!外文にしては圧倒的に読みやすかったし、これだけの分量の作品を一気読みさせる筆力はなかなかのものだ。

とはいえ、小説の構成という意味で言えば厳しい部分もある。決して悪いわけではないが、時系列も視点人物も場所もあっちこっち入り乱れて、非常に断片的に描かれる構成で、それこそ一気に読まないと物語の筋を追いにくくなるようにも思う。この作品、内容はメチャクチャ面白いんだけど、この構成が難ありかなぁ、という感じが僕はした。

ストーリーは、本当によく出来ていると思いました。物語のかなり早い段階でハリーが疑われ、ハリーが真犯人だと考える以外にないような状況が提示される。しかしそこから地道な捜査を続けていくことで、オーロラという町に住む住民たちの様々な“秘密”が明らかになっていく。そして幾重にも重なったそれらの“秘密”をかいくぐった先に、事件の真相がある。

真実は少しずつしか明らかにならないのだけど、物語の中に色んな要素が詰め込まれているので、謎が少しずつしか明らかにならなくても読まされてしまう。決して謎だけで引っ張るタイプの作品ではないのだ。

何よりも本書の一番の魅力は、ノラという少女だろう。ノラは基本的には、人々の回想の中にしか登場しない。しかし、様々な人間が語るノラの姿を知る度に、どんどんノラという少女のことが気になってくる。色んな面を見せる少女だが、ハリーへの愛、という点で非常に真っ直ぐ貫かれたものがある。ハリーのことを心の底から愛している、という点がブレないまま、それを貫くためにどう行動すべきかが表に出る。その表に出た行動だけ見ると、ノラという少女は非常にチグハグな存在に思えるのだけど、ブレない想いがあるという前提でノラの行動を見れば、ノラという少女の純真さが非常に良く伝わってくる。

また、ハリーとマーカスの師弟関係もとても良い。ハリーはマーカスをきちんとした作家にすべく様々なことを教え、マーカスは“できるやつ”と思われながらも自分の虚飾に気づいていた人生を払拭すべく、ハリーの教えを忠実にこなそうとする。二人は、年こそ離れているが、固い友情で結ばれており、だからこそマーカスはハリーへの疑惑を払拭しようと奔走する。しかし、この関係にも、物語の中で様々な転換が存在し、特にハリーの苦悩が明らかにされるラストは、どうすれば良かったのだろうと考えさせられてしまうようなものだった。

また、オーロラの住民たちも、一癖も二癖もあって面白い。彼らは、何らかの“秘密”を抱えていたり、あるいは無害だったりと様々な立ち位置を取るが、様々な条件が重ならなければノラが命を落とすことはなかったし、それはオーロラだから起こったことだと言うことも出来る。オーロラという町に隠されていた“秘密”はあまりにも根深く、もちろんネタバレするつもりもないのでここでは書けないが、それぞれの“秘密”が、ただノラの事件と関係するというだけではなく、それぞれの住民たちの中で一つの物語となっている、という点が非常に良いと思う。それぞれの“秘密”ごとに一遍の短編小説が書けるのではないか、と思えるような密度があり、ノラの事件に設定として必要だから、というような理由で描かれているわけではない点が好感が持てると感じた。

正直なところ、読んで何かが残るような作品ではなく、とにかく一気読みして「面白かった!」と思うようなエンタメ作品です。でも、エンタメ作品として本書は非常に読みやすく面白く良く出来ているな、と感じます。この作品に何を求めるかで作品の評価が大きく変わりそうな気がしますが、とにかくエンタメ作品なんだと思って読めば、凄く楽しめる作品だと思います。

ジョエル・ディケール「ハリー・クバート事件」



「3月のライオン 前編」を観に行ってきました

勝つことは、誰かを傷つけることと同じだ。
勝つことは、孤独だ。

『あんたが帰れば、あの家に。
おめでとう。父さんに勝ったんでしょ?』

強さは、生きるための武器になる。
そして強さは、自分を傷つけるための刃にもなる。

『得意げな顔してんじゃないわよ』

強いことは、弱さを蹴散らすことだ。
強いことは、自分の中の何かをどんどんと弱くしていく。

『負け犬でも見るような目しやがって』

弱いことからは、逃げることが出来る。
強いことからは、逃げられない。

『なんだよ、その目は。俺が途中で投げたって言いたいのかよ』

勝つことは、強くなることでもあり、弱くなることでもある。

『みんな俺のせいかよ!
ふざけんなよ!
どうすりゃ良かったんだよ!
他になんにもねぇってぐらい、将棋しかねぇんだよ…』

生きることと勝つことは、基本的にはイコールにならない。
勝とうと努力するかどうかは、ほとんどの場合、本人の意志次第だ。
しかし、そうではない環境も、時には存在する。
勝つことが、生きることと直結してしまうような、そういう環境が存在する。
勝たなければ、生きていけないのだと思わされるような、そういう環境が存在する。

勝つことは、生き抜くための手段だった。
しかし、そのことが誰かを傷つける。
そして、自分自身をも傷つける。

『その家族を壊したのは、どこの誰?』

傷つけることが分かっていても、勝つことから逃げることは出来ない。
自分が傷つくことが分かっていても、強くなることから逃げることは出来ない。
そうしなければ、生きてこれなかったからだ。
そうしなければ、これまでの自分の人生すべてを否定することになるからだ。

だから彼は、努力をする。
自分の中の何かを削り取りながら勝つための努力をする。
誰もが勝つための努力をしている世界の中で、勝つためでもあり、生きるためでもある努力を、彼は重ね続ける。

その軌跡しか、彼は「人生」と名付けられるものを持たないのだから。

内容に入ろうと思います。
桐山零は、中学生でプロ棋士になった史上5人目の天才棋士としてデビューした。しかし、9歳の時交通事故で両親と妹をいっぺんに喪った彼は、父の友人だった棋士の幸田に引き取られ、内弟子として育てられた厳しい過去を持っている。17歳、高校に通う零は、今は幸田の家を出て一人暮らし。家族も友人もなく、ただひたすら将棋と向き合う日々を送っている。
そんなある日、酒に酔って潰れている零を見かねた川本あかりは、零を自宅まで連れ帰る。あかり・ひなた・モモという三姉妹に気に入られた零は度々川本家に足を運ぶようになる。家族団らんという、長らく経験したことのない時間に心が浮き立つが、ここは自分がいる場所ではない、という思いも芽生える。
師匠の幸田の長女であり、弟の歩と共にプロ棋士を目指していた香子は、妻のいるプロ棋士である後藤と微妙な関係を続けている。香子は度々、幸田家を壊したのは零だとして零に辛く当たる。零は香子の行動を諌めるが、香子は後藤との関係を終わりにしようとしない。川本家で年越しをした零は、初詣の折に香子と一緒にいる後藤と出くわす。聞く耳を持たない後藤に、獅子王戦トーナメントで後藤を倒したら香子を家に戻せと詰め寄る。しかし後藤にたどり着くには、後藤と同じA級に所属する島田を倒さねばならないが…。
獅子王戦と同じくして、新人戦のトーナメントも進んでおり、幼い頃からライバルとして一方的に桐山に絡んでくる二階堂との対戦も実現間近だったが…。
というような話です。

凄く好きな映画でした。とにかくセリフが極端に少ない映画で、表情や仕草(それも非常に抑制されているのだけど)によって感情を伝えようとする映画だなと思いました。原作はマンガなので、マンガのやり方に近いと言えば近いですけど、ただマンガにはセリフだけではなく内面を描くような心の声も文字で書かれている。映画の方では、それも非常に抑えられていて、その場面場面で観る者がそこに何を観るかを問われているような、そういう映画だと感じました。

零を中心とした棋士の世界は、まさにそういうあり方を体現している。もちろん棋士の中にも、例えば二階堂のような騒がしい者もいる。しかし、この映画の中で描かれる棋士は皆、内に何かを秘めているような佇まいを見せる。その内面が、はっきりと描かれる場面は少ない。何を考えているのか分からないような、表情もあまり動かないような場面が非常に多くある。

それは、棋士らしい世界を表現しているなと感じる。棋士にとっての言語は、将棋であり、駒の動かし方を記した棋譜だ。彼らは、棋譜を読み込むことで、他の棋士と対話をする。実際に対局をしている時の駒の動かし方でも、対話が生まれる。実際に言葉を交わさなくても、彼らには伝わるものがある。そういう棋士ならではのあり方を、映画という手法の中でうまく描き出しているように感じました。

零を中心とした棋士の世界が「静」であるとすれば、棋士・桐山零の外側にある世界は「動」だ。
学校での零には、友達がいない。しかし彼には、担任の教師という強い味方がいる。零のことを応援してくれる存在だ。映画の中では目立つ存在ではないが、要所要所で零にとって重要なポジションを取る。零は、そのままにしておけば自分から動く人間ではない。そんな零のことを、「動」の世界にいる誰かが押し出していく。

「動」の世界にいるのは、川本家も同じだ。川本家の女たちは、零が何者なのか知る前から、零をあっさりと受け入れる。そして、やはり自分では物事を切り開いていかない零の世界に良い感じに入り込んでいって、零を動かしていく。

この物語は、「居場所」の物語でもある。

「静」の世界には、零の居場所はある。そこが、心地よい居場所であるかどうかはまた別の問題だが、零は「史上五人目の中学生プロ棋士」であり、「将来を嘱望される新人棋士」として関係者からも世間からも注目されている。そこは、勝ち続けなければならない厳しい勝負の世界であり、気の休まる時はないが、しかし零にとって居場所であることは間違いないだろう。

しかし、「動」の世界には、零が居場所だと思える場所はない。

『あんたの居場所なんて、この世のどこにもないんだからね』

幸田家からは、出て行くしかなかった。零が幸田家にいることが、諸悪の根源のような状況に陥ってしまったからだ。結局零は、幸田家の面々とは家族になりきれないまま、幸田家を離れることになった。

学校にも居場所はない。常に屋上で一人で飯を食い、担任の教師以外に話す相手はいない。

川本家は零にとって居場所になりうる場所だった。しかし零は、川本家を居場所だと思うことに抵抗を感じてしまう。

『今度はこの人たちなんだ。
得意だもんね。不幸ぶって他人の家族メチャメチャにするの』

零には、幸田家での苦い記憶がある。生きるために選択せざるを得なかった、将棋で勝つという道。しかしそのことが結局、零を幸田家から追いやる結果となった。
川本家は、棋士・桐山零を求めているわけではない。そのことは、零にもきちんとわかっているはずだ。あの人たちは、零が何者であろうときっと受け入れてくれる。とても素晴らしい人たちだ。
でも、だからこそ、自分という異分子が入り込むことで、川本家がバラバラになるようなことがあってはいけない。そんな可能性が少しでもあってはいけない。
そこまで踏み込んで描かれることはないが、零が積極的に川本家に足を向けないのには、そういう理由があるはずだろうと思う。

『家族を大事にできない人間は、サイテーです』

後藤に向けて放ったこの言葉は、零にとってどんな意味を持つ言葉なのだろうか?9歳の時に家族を喪い、その後他人の家で育てられてきた零は、自分が家族を大切にしてこれなかったという後悔を抱えているのだろうか?大切にした家族を持つことを望んでいるのに自分にはそういう存在がいないことを哀しんでいるのだろうか?あるいは、家族という存在を強く捉えすぎるが故に川本家に深入り出来ない自分を悔いているのだろうか?

『僕ならどこに行っても心配する人はいない』

「動」の世界では勝つことを常に宿命付けられ、「静」の世界では居場所を見つけることが出来ない桐山零。彼がどんな風に未来に向けて進んでいくのか、楽しみだ。

「3月のライオン 前編」を観に行ってきました

松ノ内家の居候(瀧羽麻子)

時々テレビで、歴史上の有名人物の末裔、みたいな人が出てくる。
そういう人や、そういう番組自体には強い関心はないが、もし自分がそういう末裔だったら、と思うと、なんとなくちょっと楽しい。
いやきっと、実際に末裔だったらめんどくさいだろうから、実際には末裔にはなりたくない。だから、ちょっとした想像だ。歴史の教科書にこう載っているけど、実は違うんだぞ…、みたいな言い伝えが色々あったりするだろう。なんかそういうのは、ちょっとだけワクワクする。

けど、実際にそういう可能性はとても低い。けど、そういう歴史上の有名人物に関わっていた家系、ということであれば、もうちょっと可能性は広がるかもしれない。関わっていた、というレベルだと、そのことが後世にきちんと伝わっていない可能性もある。どこかで情報が途切れてしまえば、末裔たちはそのことを知らないままだ。

けど、ふとした瞬間に、それが判明するかもしれない。自分が、あの人物と関わりのある家系だったのだ、と分かる日が来るかもしれない。そんなことを考えると、本書の主人公の一人、娘の琴美の興奮も、ちょっとは分かるような気がする。

しかも、未だに見つかっていない重大なモノが、屋敷に残されているかもしれない、なんて知らされたら…。

内容に入ろうと思います。
松ノ内一家は、松ノ内家当主である貞夫の祖父が創業した、松ノ内商会という商社を代々引き継いで経営している。四代目である現社長・孝之は、自分で進めた計画が頓挫したために会社内での発言権が弱く、会社は実質的に副社長が仕切っている。引退してはいるが、未だに貞夫の影響力も残っている。
貞夫は、庭付きの豪邸で毎日を過ごしている。時折散歩には出るが、あまり出かけることはない。長年連れ添った妻・雪江を喪い、今松ノ内家を回しているのは孝之の妻である郁子だ。雪江と郁子は仲がよく、雪江亡き後も、郁子は松ノ内家の一員として切り盛りしてくれている。彼らの一人娘である琴美は、中学生ながら聡明で、他人を見下しているのではないかとさえ感じるほどだが、琴美からすれば同学年の面々は退屈な人間ばかりで、琴美は論理的で聡明な祖父・貞夫に関わるのが好きである。
そんなある日、松ノ内家にとある美しい青年がやってきた。西島と名乗ったその青年は、楢崎の孫だと言った。家族のほとんどは楢崎の名にピンと来なかったが、貞夫はすぐに分かった。
楢崎春一郎。私小説を多く書いた文豪で、主要な文学賞を受賞、ノーベル賞の有力候補とまで目されていたという、日本を代表する作家だ。小説家として名高いが、女関係もまたすごく、何度も結婚し、愛人も常にいたような男だったという。西島は、楢崎春一郎は、今年が生誕100年、没後10年の記念の年なのだ、と語った。
西島は何のために松ノ内家を訪れたのか。それは、楢崎がある時期、この松ノ内家に居候していたことがあることと関係がある。その事実さえ、貞夫以外の面々は初耳だったのだが、楢崎春一郎の名すら知らなかった孝之を始め、それ自体はそこまで大きな衝撃ではない。より重要なことは、楢崎が松ノ内家に居候をしていた一年間だけ作品を書いていない、という事実なのだ。研究者の間では、空白の一年、と呼ばれているそうだ。
しかし西島は、その時期にも小説を書いていたことを示す記録があった、と言った。そして、もしかしたらこの屋敷のどこかに、楢崎の未発表原稿があるかもしれないのだ、と言ったのだ。
それに反応したのが、現社長である孝之だ。楢崎の名も知らなかったくせに、未発表原稿が見つかればかなりの大金が転がり込むかもしれない、という風に目が眩んでいる。郁子にはうまく状況が理解できないが、貞夫が西島の存在や申し出を良く感じていないことが気にかかっている。琴美は、自分がそういう特別な家系にいるのだ、ということにちょっと興奮している。
あるのかないのかさえ分からない未発表原稿を巡って、松ノ内家は俄に慌ただしくなる。貞夫・孝之・郁子・琴美という松ノ内家の四人、そして闖入者である西島を加えた五人の思惑が絡まり合い、松ノ内家の歴史を総ざらいするような騒動に発展していくが…。
というような話です。

これ、面白かったなぁ。あんまり期待してなかったんだけど、かなり良く出来た作品だと思いました。

まず、楢崎春一郎の設定が良い。明らかに谷崎潤一郎をベースにして作られている作家で、谷崎潤一郎らしさをうまく作品に活かしている。僕は別に谷崎潤一郎について詳しいわけではないんだけど、それでも「私小説を多く書いた」「女性関係が色々あった」ぐらいの知識はある。この二点が、本作でも非常に重要なキーワードになっていって、作品の核の部分と密接に関わり合っていく。楢崎春一郎、という作家をリアルな存在として立ち上げた、という部分が一つ、本書の成功の要因だろうな、という感じがします。

そして、西島という部外者の登場によって、あるのかないのかさえ判然としない未発表原稿の存在が明らかになるのだけど、本書は、ただその未発表原稿があるとかないとかでわーわーするだけの話ではない。それだけだったらこんなに面白くはなかっただろう。本書の肝は、この未発表原稿の存在が、松ノ内家をより強い「家族」にした、という部分だろう。

これは本書の面白さの肝だと思うのであまり書きすぎないようにするつもりだが、これが抜群に上手いと僕は感じた。貞夫・孝之・郁子・琴美は、楢崎の未発表原稿に対してそれぞれ違った思惑を持っている。その方向性は、基本的にはバラバラなのだ。何故バラバラなのかというのは、もちろん家族であっても他人だから当然ではあるのだけど、しかし別の見方をすれば、家族としての大きなまとまりが失われている、という風にも受け取れる。松ノ内家には特段目に見えるような大きな問題は存在しないが、それは浮き彫りになっていないというだけで、決してないわけではない。その、実はあった問題を、未発表原稿の存在が浮き彫りにする。未発表原稿に対するそれぞれの思惑が、松ノ内家という家族が実はバラバラの方向を向いているということを明確にするのだ。

そして、同じ未発表原稿が、今度は家族を一つにまとめる働きもする。これが良く出来ていると感じる。楢崎の未発表原稿は、家族の問題を浮き彫りにさせるのと同時に、その状態の家族を一つにまとめるための役割も果たすのだ。あるんだかないんだか分からない未発表原稿が家族をどんな風に結びつけていくのか、その過程を是非楽しんで欲しい。

松ノ内家にとって楢崎の未発表原稿が脅威なのは、楢崎の「私小説を多く書いた」「女性関係が色々あった」という点に関係がある。つまり、もし松ノ内家に居候している間に楢崎が何か原稿を書いているならば、それは松ノ内家の人間と不倫関係にあったことを示す描写があるのではないか…。彼らはそういう想定をしている。それに対する反応も家族の間で様々なのだが、この点が、谷崎潤一郎をモデルにした楢崎春一郎を作中に登場させた一番の面白い点だと思う。楢崎の未発表原稿は、ただの原稿ではない。松ノ内家の「恥」を明らかにするかもしれない存在なのだ。文豪の未発表原稿を探すというミステリのようでありながら、それは決して物語の核ではない。楢崎の未発表原稿が、家族の「恥」を掘り起こすことになるのではないか、という懸念が、松ノ内家を揺るがし、またバラバラにしていくのだ。

物語がどんな風に展開し閉じていくのか、それは是非読んで感じて欲しい。作品だけではなく作家が愛されるというのはこういうことなのだ、という風に感じることも出来るし、家族というものが一つの大きな存在としてどうあるべきなのかということも示唆する、なかなかどっしりとした、それでいて読みやすい作品だ。

瀧羽麻子「松ノ内家の居候」


生きてゆく力(宮尾登美子)

内容に入ろうと思います。
本書は、宮尾登美子が、主に作家になる前の、家族や住んでいた地域の思い出を描いたエッセイです。

僕は宮尾登美子の小説は読んだことがないんですけど、このエッセイはなかなか面白かったです。
宮尾登美子は、生家が芸妓を斡旋する仕事をしていたようで、その頃芸妓の卵のような子たちと一緒に生活をしていた。その当時の、貧しいけれど豊かさを感じさせる日々。また、戦時中満州へと移り住み、戦後死ぬような思いを幾度もしながら日本へと戻ってきた話。結核を患いながらも農家の嫁として働いていた日々。子供の頃にあった、奇妙だけどなくなってしまえば懐かしさを感じさせる様々な習俗。そういった様々を、著者は丁寧に掬い取っていく。

それらは当然、僕が経験したこともない生活なのだけど、著者の記憶力が子細に渡っているからか、あるいは誰しもが自分のどこかにそういう古き良き時代への郷愁みたいなものがあるからなのか、とても面白く読める。現代とはまた違う理屈で、家族や人生や社会というものが成り立っていた時代の、物質的には決して豊かではないのだけど、どこか豊かさを感じてしまうような、そういうあり方はいいなと思いました。

宮尾登美子の小説を読んだことがないから勝手な想像だけど、このエッセイに書かれているような日常が、著者の作品の背景を支えているのだろうな、ということは強く感じました。

宮尾登美子「生きてゆく力」

仁術先生(渡辺淳一)

内容に入ろうと思います。
本書は、大学病院で講師として医局の中心的立場にありながら、突然下町の診療所に移ってしまった円乗寺優先生の、下町での診療を描いた作品です。

「梅寿司の夫婦」
円乗寺先生のいるK診療所に、ある青年がこそこそとやってくる。最初何かと思ったが、梅毒なのだという。であればその態度も分からなくもない。この時代は、梅毒であるとなれば忌避されてしまう恐れもあった。そんな青年と、寿司屋で会った。寿司屋の職人なのである。やがて円乗寺先生に気を許すようになった青年はある悩みを打ち明けるが…。

「特効薬」
戸浪さんの奥さんが倒れたというので自宅まで診療に向かう円乗寺先生。旦那は慌てふためいている。奥さんは身をよじりながら、衣服をはだけさせながら苦しがるが、円乗寺先生は一向に何もしない。注射の一本も打たない円乗寺先生に旦那はキレてしまうのだが…。

「健保ききません」
結婚したものの奥さんとうまくセックスが出来ないとやってきた大石という青年。イチモツは立派なのだが、いざという時にどうもうまくいかないのだとか。円乗寺先生は、保険はきかないけどいいか、と言って、看護婦と共にとある治療をするのだが…。

「不定愁訴」
K診療所に新たにやってきた若手医師に、円乗寺先生は教訓を伝えようとしている。円乗寺先生は、「女を見たら…と聞かれてどう答えるか?」と若手医師に問いかける。そしてそこから、円乗寺先生がかつて経験した、村石という女性患者の苦い診療の記憶を語り始める…。

「腰抜けの二人」
これは、円乗寺先生の話ではない。
ある医師の元に、毎年「中津川三郎」という男から年賀状が届く。そこには「腰抜け男」と書かれている。これは、二人の間だけで通用する符丁だ。
手術も碌に出来ない新人でありながら、北海道の炭鉱近くの診療所へ行かされることになった医師は、一人でなんでもこなさなくてはならない不安を抱えつつ、比較的穏やかな日々を過ごしていた。しかしある日、炭鉱落盤事故があり、患者が運び込まれてくることになったのだが…。

というような話です。
なかなか面白かったです。「医療ミステリー」というようなガチガチっとしたものではなくて、病院のおっちゃんと下町風情がうまく絡み合って、すすすっと読める感じに仕上がっています。

医師というのは、知識や技能がまず連想されるけど、なによりもコミュニケーションが大事なんだろうなと改めて感じさせてくれる作品でした。どの話も、知識や技能はさほど必要とされないけど、患者とどう接し、どうコミュニケーションを取っていくのかという部分はとても重要になってくる話が多かったなと思います。そこに、下町の人情がうまく混ざり込んで、良い話にまとまっているという感じです。

渡辺淳一「仁術先生」

「ラ・ラ・ランド」を観に行ってきました

うーん、と思ってしまった。
正直、この映画に関して書けることは、特に何もない。
少なくとも僕にとっては、全然面白さの分からない映画だった。

そもそも恋愛的なストーリーに興味がないとか、そもそもミュージカルが好きじゃないとか、色んな理由があると思う。正直、元々観るつもりのない映画だった。あまりにも世間の評判が高いから、それならと観に行くことにしたのだ。そういうわけで、元々自分には合わないだろうなという予感はあった。そういう意味で、「期待通り」ではあったと言える。

しかしこれほどまでに、何故この映画が受け入れられているのか分からないのも珍しいと思った。多くの人にとって、この映画はどこが「刺さる」のだろう?欧米人であれば、「ミュージカル」という形式が元から受け入れられているだろうから、そういう部分での評価もきっとあるのだろうとは思う。しかしきっと日本人の多くの人にとっては、この作品の「ミュージカル」的な部分はそこまで評価していないのではないか。後は、恋愛的なストーリーがグッと来る、ぐらいしか思いつかない。他にどんな要因が、この映画の評判を押し上げているのだろう?

自分に受け入れられなかったからと言ってすべてを否定するつもりはないが、久々に自分と世間のズレを感じる作品だった。

「ラ・ラ・ランド」を観に行ってきました

か「」く「」し「」ご「」と「(住野よる)

人の気持ちを知ることが出来たらなぁ…なんて、別に考えたことはない。
そんなの、ただめんどくさいだけだ。

けど、世の中は、そうではないらしい。自分が良いと思う相手のことを、何でも知りたいらしい。いつどこで何をしていて、どんなことを考えているのか知りたいようだ。

けれど、基本的には知ることは出来ない。相手の気持ちは、相手の言葉や態度から推測するしかないのだけど、言葉や態度は嘘をつくことが出来る。気持ちや感情と連動させないことが出来る。知りたいけど、はっきりとは分からない。けれど知りたい。世の中的には、そういうもののようだ。

知ってどうするのだろう?と僕は思ってしまう。

僕は、自分が良いなと思う相手、好きだなと思う相手であればあるほど、全部は知りたくはない。いつまでも、よく分からない部分が残っていて欲しい。いつまでも予想外の反応が返ってきて欲しいし、いつまでもなんだかよく分からないことを言っていて欲しい。真意とか本心とかが全然掴めなくて、行動原理が全然読めないような、そんな存在であって欲しいと思う。

その方が面白い。

気持ちまで含めた相手のことを全部知るというのは、結局、自分の思った通りでいて欲しい、ということでしかない、と僕は思ってしまう。あなたの望んだ通りに動き、あなたの望んだ通りに考え、あなたの望んだ通りに感じる人。

そんなのの、何が面白いのだろう?

結局、相手のことなんか分からないから面白いと思うのだ。分からないから知りたくなる。知りたくなるのに知ることが出来ないから面白い。人間関係って、きっとそんな風に成り立っているんだ、と思う。

だから「読点」とか「トランプの柄」とか「バロメーター」とか、そんなのが見えちゃうようなのは、嫌だなと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。

「か、く。し!ご?と」
大塚には、人の上に記号が見える。ハテナとか読点とか。その人の感情に連動した記号が見えてしまう。
大塚は、クラスメートのミッキーに恋をしている。ミッキーは情熱溢れる女の子で、どんなことにでも心を動かすことが出来る良い奴だ。大塚はミッキーと話そうとすると動揺して変になってしまうが、大塚の友人でありクラスの人気者であるヅカはミッキーと子どもの頃から仲が良くて、仲が良い者同士にしか醸し出せないやり取りを日々している。
ある時から大塚は、ミッキーのシャンプーが変わったことに気づいた。そんなことに気づいたことに気づかれたら気持ち悪いと思われるだろうから指摘しなかった。同じ頃、ミッキーは何故かヅカに、「私何か変わった?」と聞くようになった。ヅカはどうも、シャンプーが変わったことに気づいていないようだ。とはいえ、横から口を出すわけにもいかない。いつもヅカはミッキーからボロクソに言われることになる。
大塚は、隣の席に思いを馳せる。宮里さんはゴールデンウィークが始まった頃から二ヶ月、学校に来ていない。理由は誰も知らないようだが、自分のせいだったらと不安になる。

「か/く\し=ご*と」
ミッキーには、他人の心臓のところにシーソーのようなバーが見える。それがプラスに傾いたりマイナスに傾いたりするのを見て、ミッキーは相手の感情を理解する。大体の人はプラスかマイナスに傾いているのに、パラというぶっ飛んだ友人だけは、そのバーがいつもくるくる回転している。
文化祭でヒーローショーをやることになった。理由は、パラが提案したのだ。自分の進路のために、という理由を隠しもせずに堂々と話、脚本まで用意していた。みんなやる気をみなぎらせた。衣装や照明も自分たちでやる。パラをリーダーとして、クラス一丸となってのチャレンジだ。昔からヒーローに憧れていたミッキーは、ヒーローショーのヒーロー役をやることになった。
ちょっとしたトラブルもありながら、無事ショー当日を迎えた。けれど、「三木は舞い上がってるとあぶなっかしいからなぁ」という先生の忠告を、もうちょっとちゃんと聞いておけばよかった…。

「か1く2し3ご4と」
パラには、他人の心のリズムが見える。早くなったり遅くなったり。その変動を知ることが出来る。パラはある時から、他人の鼓動を強めるためにぶっ飛んだ行動をするようになった。それがキャラクターとして定着した。本当は、ただ冷酷なだけの人間だ。
パラは、ヅカの本性を知っている。ヅカは、誰に対しても良いやつで、ポジティブな感情を露わにし、クラスのムードメーカーだが、実際にはどんな状況であってもヅカの心音が変化することはない。フラットなのだ。
修学旅行だ。修学旅行中に鈴を渡すとずっと一緒にいられる、というおまじないがある。ヅカは、修学旅行の朝に鈴を持っていた。既にもらったものなのか、あるいはこれから誰かに渡すものなのか…。パラはある計画のために、修学旅行中、基本的にずっとヅカを「王子様」と呼んでべったりしていたが…。

「か♠く◇し♣ご♡と」
ヅカは、人の感情を反映したトランプの4つの柄が見える。スペードは「喜」、◇は「怒」、クローバーは「哀」、ハートは「楽」だ。ヅカは自分で自分のことを、相手との関係をフラットに見すぎてしまう、と思っている。自分の意思より相手の意思を尊重してしまうのだ。
そんなヅカが気になるのは、エルの「哀しみ」だ。頭の上にいつも大きなクローバーがある。ちょっと前から、おかしいのだ。仲良しだったはずの隣の席の京と何やらうまく行っていないようだし、ヅカがミッキーについて言及するとクローバーが大きくなるような感じがする。誰も相談されていないみたいだし、京もまったく原因が分からないという。
いつもの5人で花見に出かけた時、ちょっとした出来事が起き…。

「か↓く←し↑ご→と」
エルには、他人の好意が矢印になって見える。誰かが誰かのことを好きだということが、矢印ではっきり分かるのだ。だから、ミッキーと京が両思いなのも、もちろん分かっていた。
けどこの二人、全然進展しない。周りがあの手この手でくっつけようとしているのに、まるでダメだ。京は私と同じで臆病で、自分なんか、と思ってしまうようなところがある。そしてミッキーは恐ろしいほど鈍感なのだ。どうにもならない。
受験勉強が始まって、将来のことについて考えるようになった頃。タイムカプセルを埋めようという話になった。未来の自分に手紙を、という話のはずだったのだけど、パラの提案で、他のメンバーへの手紙にしよう、と決めた。ここで京とミッキーにお互いの気持ちをはっきり書かせて強くさせよう、という魂胆だった。
しかし…。

というような話です。

相変わらず住野よるは良い小説を書くなぁ。僕は、住野よるの作品は何を読んでも「君の膵臓を食べたい」を越えられないんだけど(僕の中で「キミスイ」はちょっと別格なのです)、この作品も凄く良いと思いました。

まず、設定が非常に秀逸だ。5人が5人とも、何らかの形で他人の感情を見ることが出来る。この設定が、非常に上手い。他人の感情が見えたところで、その原因まで分かるわけではないから、何もかも分かるわけじゃない。けれども、感情の一端は分かる。分かった上で、能力で分かったわけではない、という風を装いながらその感情と関わっていくのだ。

誰もが、こんな能力を持っているのは自分だけだ、と思っている。だから、自分が能力を使って相手の感情を読み取っているという事実は悟られないようにしなければならない。でも、知ってしまった感情に対して、何もしないではいられない。哀しんでいるならその哀しみを取り除いてあげたい。好き合っている者がいるならくっつけてあげたい。そんな風に思うのは当然だ。

だからこそこの5人の関係性は、誰もが皆、「誰か」を一番に考えている。自分のことを一番に考える者はいない。これが、この作品における、感情が見えすぎることによる一番大きな効果だろうと思う。

そしてその過程で、とても面白いことが分かる。それは、全員が、自分よりも他の全員の方が他人を思いやっていると思っていることだ。いや、全員というのはちょっと言い過ぎたかもしれないが、自分は他人に対して冷たい人間だ、と考えている人間が多い。

読者の視点からすれば、5人は全員、「誰か」のことを一番に考える良い奴だ。でも、5人はそれぞれ、自分自身のことをそんな風には捉えない。自分は冷たい人間だけど、他の4人はそうじゃない、というような捉え方をする。これもきっと、感情が見えすぎている効果なのだろう。彼らは皆、「相手の感情が見えているのに、自分は見えているが故の行動を取らない。他の4人は感情なんか見えていないはずなのに、相手のことを思いやった行動が取れていて素晴らしい」みたいな風に考えているのだろう。自分以外の4人も皆、感情が見えるのだ、なんて想定できないだろうからこういう発想が生まれる。この状況も実に面白い。

他人の感情が見える、なんていう設定は、安易に思いつくことが出来るだろう。しかし、そういう状況設定の中でどういうことが起こり得るかまできちんと考えられている作品はそう多くはないだろう。本書の場合、感情が見えすぎることが、彼らのパーソナリティに少なくない影響を及ぼし、さらにそれが5人全体の関係性にまで波及していく。非常に繊細だ。

その繊細さは、エルの感情の見え方にも現れている。エルというのは、本当に些細なことでも気にしてしまう自己評価の低い女の子だが、そのエルに見えるのは、相手の感情の中でも「誰が誰を好きか」という好意のみだ。感情全体が見えるわけではない。この設定は、エルというキャラクターには実にしっくりくる。エルが他の4人のように感情全体が見える設定であれば、エルはもっと違うキャラクターになっていただろうし、そうであればこの作品が成り立たなかった可能性がある。エルの感情の見え方を知った時、上手い、と改めて思った。

そしてその上で、ここのキャラクターがとてもいい。

全員好きだが、特に好きなのがパラだ。本書で描かれるパラは、僕にとってはとても素晴らしい。

僕には、かなりパラに似ている部分がある。

(本書を読んでいない人は、これ以降の記述を読まない方がいいかもしれない。二編目でのパラと三編目でのパラの落差を感じた方が面白いし、ここで暴露するパラの本当の姿だけ読んでも、きっと面白くないだろうから)

『君は面白いと思ってくれてるかもしれない、私の発言は、私がこう言ったら面白いと思われるだろうと、計算して言っているものだし。君が面白いと思ってくれてるかもしれない、私の行動は、私がこうやったら驚かれるだろうと狙ってやっているものなんだ』

パラの言動はあまりにもぶっ飛びすぎていて、言動で比較する場合、僕とパラは全然似ていないだろう。しかし、行動原理を比べれば、僕とパラはそっくりだと思う。

僕も、パラとまったく同じ発想で行動している。僕は、自分が変だと思われるように行動するように意識している。それは、本来の自分からかけ離れているわけでは決してないが、本来の自分ではない。僕は計算で自分の行動をデザインしている。

『そうじゃないんだよ。本当は私だってそういう人間になりたいよ。損得なんて考えない人間になりたいし、やりたいことだけ迷いなくやれる人間になりたい。でも、実際の私はそうじゃない。私の言葉や、行動は、私がなりたい私に過ぎない。本当に私じゃ、ないの』

「そういう人間」というのは、ミッキーに近いキャラクターだ。どんな状況でも熱くなれて、やりたいことを迷いなく出来る。パラは、周りからそういう風に見られるように行動しているけど、自分がそういう人間でないことをちゃんと知っている。

『冷静さを長所だと言う人間もいるだろう。だが、違う。ただ、冷たい人間というだけだ。』

パラのこの自覚も、僕にはよく分かる。僕も、自分の冷たさをきちんと自覚している。

先程から書いているように、パラの言動はあまりにもぶっ飛んでいるので、単純に比較は出来ないが、パラのこの落差を知ると、世の中で楽しそうに生きている人にもきっと、こういう内面を抱えている人はいるのだろうな、と感じる。実際僕は、そういう人に何度か会ったことがある。表向き、凄く楽しそうにワイワイと人と絡んでいるのに、ちょっとその内側を覗き込んでみると、みんなの中にいる時からは想像も出来ないような内面を見つけることが出来るような人が。僕はなんとなく、そういう人に惹かれることが多い。自分もそういうタイプだから気になる、ということもきっとあるのだろうけど、わざわざ楽しそうに振る舞わなくてはならないその感じに、どことなく哀愁を感じるのだろうなと思う。

京(大塚)やエル(宮里)もとても良い。この二人にも、僕自身の欠片を感じ取ることが出来る。自分に自信がなくて、自分が世間の主流を歩いてはいけないと思っていて、いつでも自分の気持ちに蓋をしてしまうような二人のあり方は、昔の自分を見ているようだ。5人の間に発生する問題(と書くとネガティブな騒動という感じだが、そこまでネガティブでもない)のほとんどが、京とエルに関わるものだ。彼らの性格のマイナス思考の部分が、結果的に状況を引っ掻き回してしまうことが多い。

パラとミッキーという、どんな行動を取るのか分からない女二人に、京とエルという後ろ向きな二人、そして人気者でありながらその実、心の中はフラットというバランス感覚を持ったヅカという5人組が、いつだって自分以外の「誰か」を思いやりながら行動する。そうやって築き上げられていった関係性が、なんだかとても羨ましく思えてくる。普段、良い人ばっかりの物語にはどことなく嫌悪感を抱いてしまうことが多いのだけど、この物語は、基本的に皆良い人なのに、自分の中の嫌悪カウンターが反応しない。それもまた、他人の感情が見えすぎるという設定をうまく使った効果なのだろう、と思う。

誰だって“厄介な自分”を生きている。そんな風に思わせてくれる作品だ。

住野よる「か「」く「」し「」ご「」と「」

蜜蜂と遠雷(恩田陸)

「学ぶ」というのは「枠」を知る、ということだ。

僕たちは基本的に、「知の暗闇」の中で生きている。知らないことだらけだ。しかし、少しずつ「学ぶ」ことで、明るい部分が増えていく。明るくなると、そこに何かが見える。それは大抵、仕切りのようなものだ。「こちら」と「あちら」を区別する仕切り。明るくなった場所に浮かぶそれらの仕切りを確認しながら、僕たちは色んな概念を学んでいく。ある言葉の意味、誰かの感情、雲の形から予想される雨、数百年後に地球に接近する彗星。僕たちは、「枠」を捉えることで、物事や感覚を捉えていく。

しかしその「枠」は、誰かが決めたものだ。誰が決めたのか、ということは問題ではない。iPS細胞のように発見者が明確なものもあれば、古代の誰かが発見しいつの間にか広まっていることもある。誰でもいい。とにかく、「枠」というのは、誰かが決めたものに過ぎない。

「枠」を知ることは重要だ。「知の暗闇」の中では、僕らは歩くこともままならない。真っ暗な中を手探りで歩き続けるのは、怖いし危険だ。これ以上進んではいけない場所、「こちら」と「あちら」とで区切られている場所、そういうものをきちんと確認しながら歩いていきたい。それはある種の、人間の本能と言ってもいいだろう。

しかし、時に「枠」は、人間の行動を制約する邪魔ものに変わる。「枠」が見えれば、そこから出てはいけないと咄嗟に感じる。「こちら」と「あちら」は連続していないのだ、と思ってしまう。

そういう躊躇の積み重ねが、人間を臆病にしていく。

時々いる。「知の暗闇」の中を、真っ暗なまま歩ける者が。彼には「枠」が見えない代わりに、「枠」を越えてはいけないという発想もない。もちろん、「枠」が見えないが故に、色んなものにぶつかりながら歩いて行くことになるだろう。しかしその過程で、普通の人だったら絶対に越えられない「こちら」と「あちら」の境界をあっさり飛び越えてしまったりもする。

そういう人を、僕らは「天才」と呼びたいのだと思う。

「天才」にも、様々なタイプがいる。大量にこなせる者。超スピードでこなせる者。誰も真似出来ない技術を使える者。そういう者も、「天才」と呼ばれ得る。しかし、僕は、概念をしなやかに飛び越えることが出来る人間こそ、「天才」の名に相応しい、と思いたい。

「◯◯はこうでなければならない」という「枠」は、「◯◯」という伝統や文化を守っているように見せかけながら、実はそういう発言をしている人の地位やキャリアを守っている、ということが多いのではないだろうか。その「枠」を押し付けることで、「枠」の内側に入れていない人間を疎外することが出来る。その「枠」の内側に入ってこなければ認められないと振りかざすことが出来る。

『近年、演奏家は作曲者の思いをいかに正確に伝えるかということが至上命題になった感があり、いかに譜面を読みこみ作曲当時の時代や個人的背景をイメージするか、ということに重きが置かれるようになっている。演奏家の自由な解釈、自由な演奏はあまり歓迎されない風潮があるのだ』

「枠」の内側に入っていないものはダメだ、と判断するのは、簡単だ。しかしそれは、ある意味で思考停止と言ってしまっていい。「枠」を設けたのは一体誰なのか?個人を特定したい、という話ではない。結局「枠」を設けているのは、批評家だ。

『よく言われることだが、審査員は審査するほうでありながら、審査されている。審査することによって、その人の音楽性や音楽に対する姿勢を露呈してしまうのだ』

『そして、審査員たちも薄々気付いている。
ホフマンの罠の狡猾さと恐ろしさに。
風間塵を本選に残せるか否かが、自分の音楽家としての立ち位置を示すことになるのだということを。』

「評価」や「批評」というのは、「枠」があるからこそ成立する。複数ある内のどの「枠」を選択するか、という自由度はあるにしても、何らかの「枠」を設定した上でなければ「評価」も「批評」も出来ないのは確かだろう。

そういう意味で、「評価」も「批評」も出来ないようなものにこそ、そのジャンルを粉砕させるような力がある、と言っていいだろう。

『よし、塵、おまえが連れ出してやれ。
少年はきょとんとした。
先生は、底の見えない淵のような、恐ろしい目で少年を見た。
ただし、とても難しいぞ。本当の意味で、音楽を外へ連れ出すのはとても難しい。私が言っていることは分かるな?音楽を閉じこめているのは、ホールや教会じゃない。人々の意識だ。綺麗な景色の屋外に連れ出した程度では、「本当に」音を連れ出したことにはならない。解放したことにはならない。』

音楽が「音楽」を超える瞬間を、この作品は感じさせてくれる。たぶんこれは、そういう物語なのだ。

内容に入ろうと思います。
事件は、パリで起こった。
3年毎に開かれ、今年で6回目を数える「芳ヶ江国際ピアノコンクール」。そのオーディションがモスクワ・パリ・ミラノ・ニューヨーク・日本の芳ヶ江の5箇所で行われている。パリでの審査員を務める嵯峨三枝子、アラン・シモン、セルゲイ・スミノフの三人は、退屈な演奏が続くオーディションの中で、その少年と出会った。
風間塵。
異例づくしの候補者だった。履歴書はほぼ真っ白。学歴もコンクール歴もなく、日本の小学校を出て渡仏したことぐらいしか分からない。後で風間塵と接触したスタッフに聞くと、オーディションギリギリのタイミングで会場にやってきた風間の手は泥で汚れていたという。風間の父親が養蜂家であると知ったのは後のことだ。
そして、何よりも最大級の衝撃は、その少年が、あのユウジ・フォン=ホフマンに5歳から師事し、彼の推薦状を持っているという事実だった。
信じられない。
ホフマンは、あらゆる音楽家に愛されながら今年亡くなった、伝説的な音楽家だ。弟子を取らないことでも有名だった。あのホフマンが、弟子を…。
『僕は爆弾をセットしておいたよ。僕がいなくなったら、ちゃんと爆発するはずさ。世にも美しい爆弾がね』
死の間際、ホフマンは周囲の人間にそう漏らしていたという。
まさか、あの少年が「爆弾」なのだろうか…。
その通りだった。風間塵の演奏は、常軌を逸していた。三枝子は初め、拒絶した。ホフマンに対する冒涜だと思った。しかし結局、他二人との議論の末、風間塵を合格とした。
そして、第6回芳ヶ江国際ピアノコンクールの日を迎える。
栄伝亜夜は、天才少女と呼ばれながらも、母の死をきっかけにして「取り出すべき音楽がない」と感じられるようになり、7年前にとあるコンサートから逃げ出して以来、正規の音楽教育からは遠ざかっていた。ある時、浜崎という男性が家にやってきて、亜夜の演奏を聞きたがった。そして、その男性の推薦により、音楽学校への入学が決まった。学長だったのだ。そして、その学長の後押しもあり、亜夜はこのコンクールに出場することになった。
マサル・カルロス・レヴィ・アナトールは、僅かな期間日本に住んでいた頃、子供の頃にたまたま出会った少女に誘われて顔を出したピアノ教室で、その才能を見出された。フランスへ行くことになったマサルに少女は、ピアノを習ってねと言い、マサルはそのお願いを聞き入れ、ピアノの練習に励んだ。彼は圧倒的な才能を持ち、僅かな期間で驚くべき飛躍を遂げた。長身に甘いルックスであることもあって、舞台映えするマサルは、スターの予感を漂わせている。
高島明石は、コンクール出場者の中でもかなり高齢の28歳だ。楽器店で働くサラリーマンであり、妻と子供もいる。他の参加者がもっと若く、一流の指導者の元で練習に励んでいるのに対して、明石は仕事の合間を縫って、睡眠時間を削るようにしてこのコンクールのための調整を続けてきた。「生活者の音楽」という持論を持ち、音楽は音楽だけを生業とする者だけのものではない、という想いから、コンクール出場を決意したのだ。高校時代の同級生である仁科雅美が、ドキュメンタリーのためにカメラを回している、というのも非日常だ。
様々な背景を持つトップクラスのピアニストが、コンクールという場で互いの全力を出して闘う物語だ。

実に濃密な物語だった。冒頭では、風間塵の生き様やスタンスを切り取ってあれこれ書いてみた。それも、本書の主要なテーマの一つだ。しかし、本書の主役は決して風間塵だけではない。風間塵という超絶的な天才が物語の中心にいることは間違いないのだけど、ただそれだけの物語ではない。

亜夜・マサル・明石・塵。彼らの音楽に対する葛藤や生き様が、コンクールという場で発散し、溶け合って、絡まり合う。その混沌の中に、「音楽」というジャンルを掬い上げるような希望の光が生まれる。そんな神々しさを感じるような作品だ。

亜夜は、音楽に対する態度を決めきれないでいる。

『しかし、意外にも、亜夜自身に挫折感はなかった。
彼女の中では、コンサートのドタキャンは筋が通っていたからである。
取り出すべき音楽がピアノの中に見つからないのに、なぜステージに立つ必要などあるだろうか。』

そもそも彼女は、ピアノを必要とする人間ではない。

『彼女は、元々ピアノなど必要としていなかった。
子供の頃、トタン屋根の雨音に馬たちのギャロップを聴いていた時から、彼女はあらゆるものに音楽を聴き、それを楽しむことができたからである』

彼女には、ピアノに戻るための必然性のようなものはなかった。彼女がコンクールに出場することを決めたのは、自分を推薦し入学させてくれた学長の面子を潰さないためだ。そして、入学以来亜夜のことをずっと気にかけてくれた学長の次女の奏の熱心な説得があったからだ。

自らの意志によってステージに戻ってきたわけではない亜夜は、しかしこのコンクールの場で様々な感情に奔流され、自分でも思ってみなかった場所へと流れ着く。

『決して、自分はあの時コンサートピアニストから身を引いたことを後悔していないし、挫折感も持っていない。音楽を深く愛しているし、音楽から離れようと思ったことは一度もない。それを、ずっと舞台に戻りたいと思っていたとか、やっと立ち直ったとか思われるのは耐えがたいものがある。』

コンクール期間中も、ずっと気持ちが定まらないまま、どこか他人事のようにピアノを弾いていた亜夜。しかし、風間塵やマサルとの出会いが、亜夜を大きく変えていく。

マサルにもマサルの物語がある。しかし、それについてはここでは触れないでおこう。マサルにとっては結果的に、権威ある国際コンクールに出場する、という以上の価値をもたらした。コンクールの審査員も務めている彼の師匠も絶賛する、間違いなく未来のスター候補であるマサルがこのコンクールの出場によって得たものとはなんであったのか。それは是非読んで欲しい。

明石のスタンスはとても好きだ。

『俺はいつも不思議に思っていた―孤高の音楽家だけが正しいのか?音楽のみに生きる者だけが尊敬に値するのか?と。
生活者の音楽は、音楽だけを生業とする者より劣るのだろうか、と。』

『音楽を生活の中で楽しめる、まっとうな耳を持っている人は、祖母のように、普通のところにいるのだ。演奏者もまた、普通のところにいてよいのではないだろうか』

クラシック音楽という、ともすれば一般人には馴染みのない音楽を、生活する者として聴かせることは出来ないか―。そんな明石のスタンスは、演奏にも人柄にも現れる。と同時に明石は、こんな相反する想いも抱いている。

『もし自分が抜きん出た才能を持っていたら迷わずプロの音楽家の道を選んだだろうし、それ以外の職に就くことなど考えもしなかっただろう。そして、そちら側にいたならば就職して所帯を持ち、「生活者の音楽」などと嘯いている者をきっと軽んじていたに違いないのだ』

圧倒的な才能と煌めきを放つコンテスタントたちの演奏を聴きながら、才能を持って生きるということや、才能があっても決してうまく行くわけではない現実について明石は考える。そして、音楽という業の深い人生について、生活者の立場から読者に近い感覚を見せてくれるのだ。

本書は、物語そのものの濃密さもさることながら、まるで「文字」という楽器で音楽を奏でているかのような描写力が凄まじい作品でもある。僕は、音楽に対する素養がないので、そもそも描かれている曲が頭に浮かぶことはない(恐らく知っている曲もあるのだろうけど、曲名では判断できない)。しかし、それらの曲がどんな雰囲気を持ち、演奏者によってどんな部分が異なり、何が凄まじいのかというような部分は、恩田陸の「文字」という楽器によって鮮やかに示される。僕は、音楽というものを文字で解釈しようとしたことがないので、その圧力に圧倒されるような思いだった。小説という、聴かせることが出来ないメディアで、これほど「音楽」を感じさせる作品はそうそうないのではないかと思う。

しかし何にしても、才能を持つ者というのは羨ましいものだ。

『世界中にたった一人しかいなくても、野原にピアノが転がっていたら、いつまでも弾き続けていたいくらい好きだなあ』

そんなものに出会うことが出来た人間は、幸福なのだろうと思う。

恩田陸「蜜蜂と遠雷」

桜疎水(大石直紀)

内容に入ろうと思います。
本書は、6編の短編が収録された短編集です。

「おばあちゃんといっしょ」
竹田美代子は「常世神」宗教団体を立ち上げて詐欺をしている。45歳のホームレスの佐原芳雄という男を教祖に仕立て上げ、もっともらしい来歴ともっともらしい教義を作り上げて、信者から大金をまきあげていた。最も、佐原は最近言うことを聞かなくなってきた。祈祷の最中居眠りをするし、家に誰もいれるなと言っているのに女を連れ込んでいる。そろそろ大きな仕事をして、佐原を切る時期だろうか。
美代子は、赤木静子という大金を持っていそうな老女を見つけ、この仕事が終わったら佐原を切ろうと考える…。

「お地蔵様に見られてる」
京都には二度と住まないと誓って、京都に支社も営業所もない東京本社のアパレルメーカーに就職したさやかは、今年になって京都に支社を立ち上げるとかで、まさかの京都住まいになってしまった。
真如堂の参道で倒れた女性が、泰宏の母親だった。変わり果てた姿になっているが、間違いない。恐ろしくなってさやかは逃げ出した。
大学時代、達朗と泰宏の三人で過ごした日々を思い返す。あんなことにさえならなければ…。

「二十年目の桜疎水」
スウェーデンに移り住んで20年。日本に帰ったのはほんの数度だ。しかし、母が危篤と聞いて、正春は久々に日本へと帰った。死の間際、母は正春に懺悔した。私のせいで辛い思いをさせてしまった、と。
雅子の話だ。母は雅子に手紙を出したことがあるという。なんの話だそれは?
その話がどうにも気になって、正春は京都へと向かった。そうする間、雅子とのことを思い返していた。
雅子とは会ってすぐに気が合い、つきあい始め、結婚の約束もしていた。その後、あんなことにならなければ…。

「おみくじ占いにご用心」
ヘルパーの後をつけ、ターゲットにする老人を選ぶ、というやり方で大金をせしめてきた横道と上宮は、今回も同じやり方で一人の老女に狙いを定めた。ヘルパーの来ない日に、介護ステーションの職員を装って侵入し相手をうまく丸め込むのだ。今回も問題なくうまくいくだろう。
しかし、“仕事”の前に引いたおみくじが「凶」だった。今までこんなことはなかった。もう一度引いて「大吉」を当てたが、なんだか嫌な気分だ。拭えない違和感はその後も頻発するが…。

「仏像は二度笑う」
片山正隆は子供の頃から手先が器用で、中学の頃に両親を無理矢理説き伏せて仏師の修行に励んだ。25歳を過ぎる頃には一人で仕事を任されるほどの上達ぶりで周囲を驚かせたが、しかしギャンブルで身を持ち崩した。師匠から見限られた正隆は、自分で作った仏像を骨董屋に売りに行くが…。
一方津久見は、馴染みの料理屋でいつものように飯を食っていた。骨董関係の人間が集まるのでちょっとした情報を仕入れやすくて重宝している。その日、店主の相原が、客から上物の九谷焼を買い取っていた。明らかに安い値段で。それを持ち込んだ男の父親が仏像専門と聞いて津久見は色めき立つ…。

「おじいちゃんを探せ」
ある日沙和は、両親が自分に内緒でおじいちゃんの話をしているのを聞いてしまう。それは、おばあちゃんが内緒でおじいちゃんと年賀状のやり取りをしていた、という他愛もない話だ。祖父母は沙和が幼い頃に離婚しており、沙和はおじいちゃんの顔を知らない。ミステリ好きな血が騒いで、両親が一体何を隠しているのか探ろうと決意する。
しかし、大したことではない風を装って母親におじいちゃんの話を振ると、母親の顔が固まった。おじいちゃんの話は、沙和が想像しているよりもタブーなようだ…。

というような話です。

なかなかよく出来た作品でした。冒頭の「おばあちゃんといっしょ」が日本推理作家協会賞短編部門を受賞したようですけど、確かによく出来た作品でした。他の作品も、粒ぞろいという感じがします。

やはり一番出来がいいのは、「おばあちゃんといっしょ」かなと思います。導入の物語があってからの、「常世神」の宗教の話になっていくのだけど、なるほどと思わせる構成でした。

同じようによく出来た構成だと感じたのは、「おみくじ占いにご用心」と「仏像は二度笑う」の2つ。「おばあちゃんといっしょ」を合わせた3作品が、詐欺をモチーフにした作品です。「仏像は二度笑う」は、3つの中でもまた大分タイプが違っていて、「詐欺」というモチーフでありながら読後感の良い作品という感じがしました。

「二十年目の桜疎水」は、雅子のある決断が物語の肝になってきます。悩んだ末、今の状態で未来を生きていくためにした雅子の決断。その決断の真意を二十年目にして初めて知ることになる主人公。二人の新しい未来を予感させるような展開がなかなか良かったです。

「おじいちゃんを探せ」は、またちょっと違ったタイプの話。家族の秘密を巡る物語ですが、想定していなかった展開がお見事という感じでしょうか。両親のひそひそ話をちょっと耳に挟んでしまったことから展開される物語としては、なかなかハードでしたけど。

「お地蔵様に見られてる」だけは、正直良くわからなかったんですよね。作品全体のトーンと、何となく合わないような気がしました。大学時代に起こった出来事は興味深いですけど、全体としてはイマイチよく分からなかったです。すっきりしない終わり方だったような気がしました。

全体としては、なかなか良くできた短編集だと思います。

大石直紀「桜疎水」

むすびや(穂高明)

内容に入ろうと思います。
本書は、商店街に店を構えるおむすび専門店「むすびや」を舞台に、商店街の面々との関わりや人生に様々な葛藤を抱える人々の交錯を描き出す作品です。

結は「ゆい」と読むが男だ。昔はこの名前で散々からかわれた。そして、名前のせいだとは思いたくないが…、就職活動ですべての会社に落ち、結は仕方なく実家の「むすびや」を手伝うことにした。
毎朝エプロンをつける度に敗北感がある。自分は何も出来ない人間なのだという悔しさみたいなものが、ずっと残っている。それでも、毎朝起きて両親を手伝わなくてはいけない。まだおむすびは握らせてもらえないけど。
同じ商店街には、親が自営業をしているかつての同級生がたくさんいる。俊次は実家の八百屋を継ぎ、佳子も夢を諦める形で実家の酒屋に戻ってきた。実家の魚屋が潰れ、今は安さだけがウリの回転寿司店の店長として殺人的な残業をこなしている者もいる。みんなそれぞれに色んなものを抱えながら、「むすびや」を交点として繋がっていく。どうにもならない人生を受け入れながら、どうにか目の前の現実に馴染もうとする者たちの物語だ。

さらっと読める作品です。商店街という、人と人とが日常的に関わり合う中で、色んな人が様々な葛藤を抱えている。特に結は、就職活動に全敗するという挫折を味わいながら、色んな人と関わる中で自分の人生をまた違った形で受け入れていく。両親を見下しているつもりはないが、どうしても高卒の両親が自営業としてスタートさせた店に素直に馴染むことが出来なかった。子供の頃からの葛藤もあり、余計に難しい。

しかし、両親がおむすび作りをいかに丹精込めてやっているのか。どれだけ細かな部分まで気を配って様々なものを生み出しているのか。そういうことを理解していくにつれて、結の考えは少しずつ変わっていく。劇的な変化はないが、少しずつ現実を受け入れていく過程がゆったりとさせてくれる作品だ。

穂高明「むすびや」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)