黒夜行

左脇のプロフィールにある「サイト全体の索引」から読みたい記事を探して下さい。

銀河鉄道の父(門井慶喜)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



内容に入ろうと思います。
本書は、宮沢賢治の生涯を、宮沢賢治の父である宮沢政次郎視点から描く物語です。
宮沢家は、祖父・喜助が興した質屋で堅実な商売を続ける地元の名士であった。弱き農民から金をまきあげているかの如く言われることもあるが、宮沢家は家業に誇りを持っている。今は政次郎の代となり、幼い頃から優秀ではあったが、「質屋に学問は必要ない」と言われ、妻・イチと共に家業を堅実に盛り立ててきた。
彼らの間に生まれたのが、長男の賢治だ。時は明治。父親は家族の中で威厳ある存在でなければならぬ、とされていた時代であり、政次郎は賢治をあやしたい気持ちを、『家長たるもの、家族の前で生をさらすわけにはまいらぬ。つねに威厳をたもち、笑顔を見せず、きらわれ者たるを引き受けなければならぬのだ』とこらえて律する。
政次郎の心づもりでは当然、長男である賢治に家業である質屋を継がせるつもりでいた。血筋なのか、賢治も秀才ぶりを発揮していたが、かつて喜助から言われていたように、賢治も小学校を卒業したら家業をやらせるつもりでいた。
しかし、政次郎は自覚している。自分は、賢治のことを父親として愛しすぎている、と。政次郎自身がどうさせたいかではなく、賢治自身がどうしたいかを汲み取ってしまうのだ、と。

『理解ある父になりたいのか、息子の壁でありたいのか。』

政次郎はあらゆる場面で思い悩む。自分は一体父親として、どう振る舞うべきだろうか、と。賢治のことを想うが故に、どうしたらいいか分からなくなっていく父親の葛藤から、宮沢賢治を描き出していく。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
先に書いておくと、僕は宮沢賢治の作品を一作も読んだことがないと思います。教科書には何か載っていたのかもしれないけど、国語の授業は嫌いで、基本的に教科書は読みたくなかったので、読んだ記憶がありません。「雨ニモ負ケズ」みたいな有名なフレーズを多少知っているぐらいで、宮沢賢治のことはほとんど知りません。

だから、本書で描かれている宮沢賢治像がどこまで事実に沿っているのか、そういうことも僕には判断できません。そういう僕の知識量から見た場合、本書で描かれる「宮沢賢治」はちょっと意外でした。なんとなくイメージでは、貧しい者のために生きた高潔な人、っていう感じでしたけど、本書を読む限りでは決してそういうだけの人間ではなかったみたいです。っていうか、結構ダメ人間じゃん、と思いました。今でいう、パラサイトシングルみたいな感じの人みたいですね(笑)。

宮沢賢治像ということで言うと、本書には、創作をする者としての宮沢賢治はほとんど描かれません。童話や詩を書くような描写は、ラスト近くになってからで、それまでは創作とは縁遠い生活をしていたようです。本書は、宮沢賢治を父親視点で描く物語ということで、ある程度宮沢賢治のことを知っていないといけないような気になるでしょうが、「創作者・宮沢賢治」ではなく「生活者・宮沢賢治」を描く物語なので、基本的に宮沢賢治の著作を読んでいなくても全然問題ないな、という感じがします。

本書の主眼は、タイトルにある通り「父」です。死後に高く評価された天才的な国民作家を、「父」としてどう育てどう接していったのか。物語の核はまさにその点にあります。

政次郎の、非常に面白く、また本書全体を貫くだろう実感が書かれている箇所があるので引用してみます。

『ため息をついた。われながら、愛情をがまんできない。父親になることがこんなに弱い人間になることとは、若いころには夢にも思わなかった』

この点こそが、父・政次郎の葛藤の根幹なわけです。

政次郎は、「どうあるべきか」と「どうありたいか」の狭間で葛藤する。現代では、過程での「父」の役割は以前と比べて大分低迷しただろうが、この時代は家父長制度(があったのか、その名残が残っていたのか知らないけど)によって、一家の長である「父」の力がとても強かった。強いが故に制約もあり、「どうあるべきか」という要請に抗うことはなかなか難しい。しかし一方で、初めての子である賢治のことを、慣用句を使えば「目に入れても痛くない」ほどに感じている。息子に対して「どうありたいか」という気持ちが、あらゆる場面で浮かび上がってくる。

この「どうあるべきか」と「どうありたいか」の葛藤というのは、なかなか現代の小説では描きにくいものではないだろうか。現代では未だに、「母親はどうあるべきか」という根強い思い込みみたいなものが残っている印象はあるが、「父親はどうあるべきか」についてのコンセンサスみたいなものはほとんどないと言っていいだろう。「どうあるべきか」と「どうありたいか」の葛藤を現代小説で描くとすれば、母親目線にするしかない。本書は、父親目線でそれを描き出した、という点が非常に斬新で面白い、と僕は感じる。

政次郎の振る舞いは、彼の内面を知った上で見ると非常に滑稽だ。「こうあるべき」という父親像に引き摺られて、思うようには行動できない。現代の目からすれば、別にいいじゃん、と思ってしまうようなことも、当時は家長である父がすべきではない、と思われていたのだ。そういう中で政次郎が場面場面においてどういう選択をしてきたのか。そういう読み方をすると面白く読めるだろう。

『この子はこの家に生まれて幸せだとつくづく思った。自分ほど理解がある父親がどこにあるか。子供の意を汲み、正しい選択をし、その選択のために金も環境もおしみなく与えてやれる父親がどこにあるか。』

賢治と接する中で、政次郎自身が変化していく。それはもちろん、時代の流れや要請による部分もあるのだろうが、賢治という、その時代の規格に収まりきらない息子と接することによる影響というのももちろん多分にあるだろう。かなり破天荒だったと言わざるを得ない「生活者・宮沢賢治」と生涯関わり続けた政次郎が、父子の関わりの中で何に気づき何を得ていったのか。確かに本書は宮沢賢治の話ではあるが、より普遍的な父子の物語として捉えられるべきだろう。

『お前は、父でありすぎる』

喜助からそう言われた政次郎の「父」としての有り様を読んでみてください。

門井慶喜「銀河鉄道の父」

持たない幸福論(pha)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



本書の中で、僕にとって最も重要な部分をまずは抜き出してみよう。

『大切なのは、周りに流されずに「自分にとって本当に必要なのは何か」「自分は何によって一番幸せになるか」という自分なりの価値基準をはっきり持つことだ』

人生にとって最も大事なことはこれぐらいだろう、と僕も思う。

昔は僕も、生きているのがしんどいなと思っていた。今でもまったく思わないではないんだけど、ほとんどそう感じることはなくなった。自分の考え方を、長い時間を掛けて変化させてきたからだ。
そう、「幸せ」というのは案外、考え方の変化によって単純に手に入る。

著者は、

『今の日本は物質的にも豊かで文化も充実していて治安もいいのに、こんなに生きるのがつらそうな人が多いのはちょっと変じゃないだろうか』

と問題提起する。僕もそう思う。実におかしい。とはいえ、僕も昔はそういう人の中にいたので、気持ちは分かる。そう、生きるのは辛い。何よりも辛かったのは、自分が何故生きづらさを感じているのかがよく分からなかったからだ。

生きづらさを感じる理由を、著者はこう書く。

『要は、多くの人が普通にこなせないものを「普通の理想像」としてしまっているから、みんなその理想とギャップで苦しむのだ』

これも、まさにその通り。僕は徐々にそのことに気づくことが出来た。自分を苦しめているものの正体を見極めることが出来た。だからそこから逃げ出して、自分なりの生き方をゼロから組み立てることが出来るようになったのだ。

多くの人が「普通の理想像」として抱いている、普通にはこなせないものを挙げてみよう。

「正社員になる」「結婚する」「子どもを育てる」「子どもに良い教育をさせる」「老後の蓄えをする」「家を買う」「病気にならない」…などなど。

こういうものを皆、「自分の人生で出来て当たり前だ」と感じている。しかし、こうやって挙げたものすべてを実現できる人って、人口の何%ぐらいいるだろう?分からないけど、間違いなく半分以下だろうし、もしかしたら1/4以下かもしれない。

僕たちは、そういう「多くの人が実現できない未来」を「当たり前にやってくるはずの理想」と捉えている。何故なら、一昔前はそれが当たり前だったからだ。しかし、時代は凄まじい勢いで変化する。僕らは、親世代とはまったく違う社会を生きている。そういう中で、過去の価値観にしがみついて自分の人生を設計することは危険すぎるのだ。

まず僕たちは、そういう認識を持たなくちゃいけない。僕も、時間は掛かったけど、どうにか自力でそういう考えにたどり着く事ができた。

そして、その地点に立つことさえ出来れば、現代というは過去どんな時代よりも自由に満ちあふれていると感じる。

『今は、そうした「人を包括的に支える大きなメインシステム」は崩れて、何を頼ればいいかはっきり分からない時代になった。それは不安定でどう生きていったらいいかが分かりにくいということでもあるけれど、いろいろと試行錯誤しながらたくさんある選択肢の中から選ぶことができるようになったということでもある。不安定だけどそこには自由さがある。だから基本的に僕は今が今までで一番良い時代だと思っている』

凄くよく分かる。理解してもらうために、もう少し整理しよう。

一昔前は、先程挙げたような「普通の理想像」が、特に苦労しなくても実現できる時代だった。しかし同時に、その「普通の理想像」から外れた生き方はなかなか許容されにくい世の中でもあった。結婚しないと一人前ではないと思われていたはずだし、家も買うべきものだと捉えられていただろう。一昔前というのは、そういう「人を包括的に支えるメインシステム」に沿っていれば安定した人生を送ることは可能だったが、しかしそれ以外の生き方をする場合の抵抗力がもの凄く高い時代でもあった。

一方で現代は、「普通の理想像」は簡単には実現できない。一部の人にとっての特権的なものになっている。そういう意味ではとても厳しい時代だ。しかし一方で、「普通の理想像」が崩壊しているという感覚が徐々に共有されていくことで、「普通の理想像」ではない生き方をする流れが出てきた。頑張っても理想に辿り着けないなら、そんなの目指さないで好きにやるわ、というような人が少しずつ出てきたのだ。そうすることで、「普通の理想像」から外れた生き方をする抵抗力が低くなった。つまり、自分にとって快適で落ち着ける生き方を自分でデザイン出来る時代、ということなのだ。

そういう意味で現代は、非常に自由な時代だな、と僕は感じるのだ。

一昔前の当たり前だった「普通の理想像」が、今は手の届かない高い理想になっている、だからそこを無理して目指さない方が充実した人生を送れる可能性が高い、ということに気づくことが出来さえすれば、そこがスタート地点になる。そしてそこから、自分にとってどの方向が快適であるのかということを自問自答しながら、自分で道を作っていくようにして進んでいけば、自分にとって生きやすい人生を選びとることが出来る。

これが、冒頭で引用した、

『大切なのは、周りに流されずに「自分にとって本当に必要なのは何か」「自分は何によって一番幸せになるか」という自分なりの価値基準をはっきり持つことだ』

ということの意味だ。

『ただ、「こんな生き方やこんな考え方もありなんだ」という選択肢の多さを紹介することで、この社会に漂っている「人間はこう生きるべきだ」という規範意識のプレッシャーを少し弱らせて、みんなが自分自身の生き方にも他人の生き方にも少しだけ寛容になって、生きることの窮屈さが少しマシになればいいなと思いこの本を書いた。』

著者がまえがきで書いているように、本書は「こんな風に生きたらいいよ」という、読者が進むべき方向性を示してくれる作品ではない。そうではなく、「そんな風に生きない方がいいよ」ということを示すことによって、今まで読者の視界に入っていなかった様々な価値観や考え方に目を向けさせるための本なのだ。

だから、本書を読んでも、読んだ人間がどう生きるべきかは分からない。当たり前だ。「自分なりの価値基準」を持たなければならないのだし、そのためには自分で考える時間が絶対に必要だ。本書は、そうやって自分なりの生き方を考える動機や、どんな風に考えたらいいのかという指針を与えてくれる。

著者は、こうも書いている。

『僕が何故本やブログを書いているかというと「知識は人を自由にする」と思っているからだ』

『本というのは「自分がぼんやりと気づきかけていることをはっきりと言葉にして教えてくれるもの」だ。本を読んで知識を得ることで、頭の中が整理されたり、考え方の選択肢を増やすことができたり、自分の周りの世界で当たり前とされていることを相対化して観ることができるようになったりする。本を読むことで僕は生きるのが楽になった』

僕も、似たようなことを考えている。僕は、「知識」もだが、「考える力」も人を自由にすると思っている。「知識」と「考える力」というのは関係があって、僕の中では、「考える力」の土台や材料となっているものが「知識」だ。「知識」だけでは考えられないが、「知識」がなければ考えられない。本を読み、考えるということを繰り返してきたこれまでの膨大な時間が、僕を色んなしがらみから解放してくれたなと本当に実感する。

本書では様々な考え方が描かれる。「働かない」「家族を作らない」「お金に縛られない」の三つをベースとしながら、著者なりの考え方が書かれていく。本書を読む上で重要なのは、そういう著者自身の考え方そのものに共感できなくても構わない、ということだ。本書は、「読者が囚われている理想を目指す必要がない」ということを説く内容だ。決して、著者自身の考えに読者を誘導しようという本ではない。仮に著者の考え方に共感できなくても、本書を読めば、自分が今理想だと考えている生き方以外にも道はあるのだ、ということを体感できるだろう。そのことが、何よりも大事なのだ。

比較的自由に生きている僕の目から見ても、著者は自由すぎる(笑)。それで生きていられるのだから凄いと感じるけど、著者と同じことは出来ないしやりたくないなと思う。しかし、それで全然いい。むしろ、「著者がこう書いているんだから、自分もまったく同じことを実践しよう」と考える方が怖い。それは結局、「社会が要請する理想」ではなく「著者が提示する理想」を盲信すると決めたというだけの話であって、「自分なりの価値基準」はそこに存在しない。いかに「自分なりの価値基準」を持つか。本書を読んで、そのことの大事さを実感してほしいと思う。

pha「持たない幸福論」

「散歩する侵略者」を観に行ってきました



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



「狂気」の物語ではない。
「狂気」を受け入れる『狂気』の物語だ。

ごく普通にイメージした場合、物語の中で「狂気」が描かれる時は、その「狂気」が「普通」といかに対立し、いかに狂乱を引き起こすのか、という点が物語の核になるはずだ、と思う。
しかしこの映画は、そういう風には作られていない。「狂気」が目の前に現れた時、その「狂気」を受け入れていく『狂気』を描き出すのだ。もちろん、「狂気」がいかに混乱を巻き起こすのか、という部分も描かれはする。しかしそれは、物語の背景でしかない。

どの本に書いてあったのか忘れてしまったので正確には記述できないが、かつてこんな話を読んだことがある。とある女性が、世界の終末のサインを受け取った、助かりたい人は皆で祈りを捧げましょう、というようなことを言い始めた。それに賛同する人が増え始めたことを知ったとある心理学者が、人間の認知の変化を知る興味深い実例だとしてその会に潜り込んだ。心理学者は、彼らの教えを信じているフリをして観察を続けた。その心理学者の興味はただ一点。女性が唱えた終末の日に世界が滅亡しなかった場合、その話を信じていた人たちはその状況をどう捉えるのか、である。
女性が指定した時刻が過ぎた。何も起こらない。するとその場にいた人たちは口々に、「自分たちの祈りが通じたのだ」と解釈した。自分たちの祈りのお陰で、終末を回避できたのだ、と。人間は、自分が信じるモノを信じる状況を生み出すために解釈や認知の方に改変を加えることがあるのだ、という実例として取り上げられていた記憶がある。

鳴海と桜井。この二人の目の前にも、「狂気」が現れた。人間の形をした「狂気」が。彼らは、その「狂気」と対立することも出来た。「普通」側にいる自分と遠く離れたモノとして受け取ることも出来た。立場としてはそうだ。しかし彼らはどちらも、その「狂気」を受け入れることにした。

その理由は、それぞれ違う。週刊誌の記者である桜井は、初めは興味本位から「狂気」を受け入れた。その「狂気」がホンモノであるのかという検証をし続けながら、「狂気」と関わり続け、取材をし続ける。そういうスタンスだった。しかし、少しずつ彼は変化していくように見える。どう変化したのか、それはなかなか捉えがたい。しかしその変化は、「狂気」と関わる理由そのものと関係してくるはずだ。外側からでは桜井の内面の変化を追うことは難しいが、「狂気」がもたらす未来に興味を持ってしまった、ということかもしれない。

鳴海はまったく別の理由で「狂気」を受け入れる。いや、彼女は最初、「狂気」を受け入れてはいなかった。正確に言えば、最後の最後まで「狂気」を受け入れなかったかもしれない。彼女が受け入れたのは、「狂気」ではなく「夫」だ、とも言える。愛する夫、いや、愛していたはずの夫、という方が正確だろうか。
難しいのは、「狂気」と「夫」がイコールであることだ。どちらかだけを受け入れることは出来ない。どちらも受け入れるか、どちらも排除するか。鳴海には、その二択しか存在しなかった。そして彼女は、「狂気」ごと「夫」を受け入れるという選択へと傾いていく。

物語の中で「狂気」が選ばれる場合、普通は「狂気」と対立する展開になる、ということは書いた。この映画ではそれとは対極的に、「狂気」を受け入れる(その『狂気』を描く)展開になる。そして、「狂気」と対峙するもう一つのスタンスがある。それが、無視するという在り方だ。

本書が異質であるのは、「狂気」を目にしているはずの人々の姿だ。彼らは、そこに「狂気」など存在していないかのように振る舞う。「狂気」を認識して対立したり逃げ惑ったりするのではなく、目の前にある「狂気」がなんでもないものであるかのように振る舞っている。そう感じさせるシーンが結構ある。

そしてそのことが、妙なリアルさを生み出してもいる。現代人は、「異質なもの」に慣れていない。共感をベースにした同質性の高い人たちとすぐに繋がれる世の中になってしまったが故に、自分たちと価値観の違う人たちと関わり合いを持たなくとも生きていける世の中になってしまった。だからこそ、「異質なもの」に対する反応速度が鈍くなっていると僕は感じる。あまりにも「異質なもの」を排除できてしまうために、自分の周りに「異質なもの」があるのだ、という前提を知らず知らずの内に手放してしまえる。だから、「異質なもの」と直面した時の反応が遅れるのだと思う。

この映画を見ていると、現代人のそういう在り方がうまく切り取られているように感じられた。「狂気」を受け入れる、という選択をした鳴海と桜井は、むしろ感度が高いと言えるだろう。それは、異常な事態に対しての反応が鈍い者たちが背景に描かれるからこそ、余計強調されるように感じられる。

また、作中の人々が「狂気」に対して反応が遅れてしまうもう一つの理由がある。「狂気」が人間の形をしている、ということだ。
「狂気」がもっと違う形で目の前に現れれば、もっと機敏に反応できるだろう。しかし、人間の形をしているが故に、躊躇する。目の前の存在が「狂気」であると認めることに怖気づく。

この映画で描かれているのとまったく同じことが起こる可能性はほとんどないだろう。しかし、人間の形をしているから、あるいは別の理由でもいいが、そういう分かりやすい理由によって受容・拒絶を判断することの怖さをこの映画は伝えているのだと思う。ちょっと違うから排除する、見た目が同じだから受け入れる―そういうやり方ではたどり着けない地点にあるもの。そういうものを、この映画では描き出しているのだ、と感じる。

例えば、「愛」とか。

内容に入ろうと思います。
イラストレーターの加瀬鳴海は、変わり果てた夫真治の姿に呆然とする。会話がまともに通じず、それどころかちゃんと立って歩けもしない。記憶もどうやら失われてる部分が多いらしい。真治の不倫疑惑を追求しても、何を言われているのか分からない、というような表情をする。状況が理解できないまま、あちこち歩きまわったり、謎めいた言動を取る真治に、鳴海はイライラを募らせていく。
ある街で、残虐な一家殺人事件が起こる。生き残ったのは、立花あきらという女子高生のみのようだが、現在行方は分からなくなっている。その事件の取材をすることになった、週刊誌記者の桜井は、現場付近で不思議な男と出会う。天野と名乗ったその男は、自分が宇宙人で地球を侵略しにきた、と語る。そして桜井に、立花あきらを一緒に探し、同時に自分のガイドになってくれ、と頼む。成り行きに任せるようにして、桜井はその話を受け入れる。
半信半疑のまま天野に付き従う桜井だが、次第に彼らの実態が明らかになっていく。どうやら彼らは、人類の「概念」を集めているのだ、という。言葉に便りすぎる人類から、言葉に依存しない、概念を下支えするイメージのようなものを吸い取る。すると吸い取られた者は、その概念を失ってしまう。所有の概念を奪われた者はすべてを手放し、自分と他人の概念を奪われた者は世の中すべての人間を私だと思い込む。
彼らの侵略の計画を聞きながら、彼らの手伝いに従事する桜井。そして、夫の変化に苛立ちながら、自分が愛した人をなんとか取り戻したいと願う鳴海。動機はまるで違うが、結果的に侵略者という「狂気」を受け入れる『狂気』に浸ることになった彼らの奮闘と絶望が描かれる。
というような話です。

個人的には結構好きな作品でした。全体的には、ある種のシュールさみたいなものが漂うし、状況がイマイチ理解できない部分があったりするしと、するっと受け入れられる映画ではないのだけど、「狂気」を受け入れる『狂気』、というものに焦点が当てられることで人間の葛藤が引き出される、という展開は面白いと思いました。

何よりも、鳴海(長澤まさみ)が非常に良かった。鳴海の行動原理は、当初上手く掴めないでいた。それは、真治が侵略者となる以前の夫婦の話がまったく描かれないからだ。彼女たちがどんな夫婦であったのか、判断する材料はない。そういう意味で僕ら観客は、侵略者として戻ってきた真治と同じ視点から鳴海を見ている、とも言えるだろうと思う。

鳴海は、真治に「夫婦だろ」と言われて、「そんなのとっくに終わってるよ」と返す。彼らの関係は基本的には破綻していたのだ。その原因は、真治がしたらしい不倫にあるのだろう。真治に対する鳴海の態度は、やはり不信感混じりのものとなる。とはいえ、夫を呼ぶ呼び方は「しんちゃん」であるし、真治の様々な奇行に対しても手を差し伸べていく。そこには、同じ家に住んでいるから、という理由ではない何かが見えるような気がする。

そして次第に気づくようになっていく。鳴海が、夫のことを未だに愛しているのだ、ということを。そしてそのことが、物語を支える一つのベースとなっていく。鳴海が持つその感情が、「狂気」を受け入れる背景にも、事態の展開を左右する要素にもなっていく。この点が、物語的に凄く良く出来ているな、と感じました。

地球を侵略するためにやってくる宇宙人たちの振る舞いも、実に面白いと思いました。姿形は人類そのものなのだけど、中身が乗っ取られていて別人格のようになっている。そんな彼らは人類の持つ概念を集めるために動き回るのだけど、そうやって概念を集めても、掴みきれないことがある。例えば、彼ら宇宙人は恐らく人類の肉体に当たるものを持っていないのだと思う。だからこそ、人類の身体の脆さみたいなものはなかなか実感できない。そういう、人類社会に対する知識が欠如しているが故の様々なズレた言動みたいなものがうまく表現されているような感じがして面白かった。

桜井(長谷川博己)も、「狂気」を受け入れる側の人間だが、捉えきれない謎めいた雰囲気が滲み出ていたのが良かったと思う。桜井の言動は正直、普通には理解しがたいと思う。どう見ても「宇宙人側」の立場として行動しているようにしか思えないからだ。桜井自身にも、自分が何をしようとしているのかよくわかっていないのかもしれない。いずれにしても、桜井という捉えがたい言動をする人物を、そのよく分からなさを滲ませながら演じている部分も良かったと思う。

細かな部分まで理解できているわけではないが(例えば、途中から桜井らを追いかけ始める組織が何者なのか、ちゃんとは分からない)、それも物語全体の不穏さを高める要素だと思うし、「狂気」を受け入れる『狂気』という、一段レベルの高い『狂気』が描かれていながらも、それが僕らの日常からかけ離れたものであると感じさせないのは、役者の高い演技の賜物なのかな、と思う。この映画を見て何を感じるのかは様々だろうが、全編に通じるこの不穏さみたいなものは、非常に独特で印象的ではないかと思う。

「散歩する侵略者」を観に行ってきました

「三度目の殺人」を観に行ってきました



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



人間は、他人のことを理解したい生き物だ。
それはつまり、他人のことを理解することが、自分の安心に繋がる、という意味だ。

僕の中には、あまりそういう感情はない。
むしろ、出来るだけ他人は、理解できない存在でいて欲しい。

いや、これはもう少し説明が必要だ。
僕にとってどうでもいい他人は、理解できる存在であって欲しい。あまり深入りしたくないから、簡単に理解できて、簡単に扱える人であってほしい、と感じる。
しかし、僕にとってどうでもよくない他人、自分が深く関わりたいと思える他人は、出来るだけ理解できない存在でいて欲しい。理解できない存在であればあるほど、僕の興味は持続する。その人を理解したい、という気持ちこそが、僕の他人に対する関心の根源であって、だからこそ、理解できてしまっては困る。いつまでも「理解したい」という気持ちを持ち続けるために、その人には永遠に理解できない存在であってほしいのだ。

だから、人間のことが分からない、という状況は、僕にとって特別不安定なものではない。それが当たり前だと思っているし、理解できたという状況の方が幻想であり現実逃避でしかない、と考えているからだ。

ただ、他人を理解できない状況は、実害をもたらす場合もある。例えば、どんな動機であれ、「殺人」という犯罪はすべて、他人を理解できないことによって生じるだろう。理解できていればきっと怨恨などは生まれないし、金目的やその他理解しがたい動機の殺人も、「そういう人間がいるのだ」ということを芯から理解できていれば防げる可能性は高まる。しかし、頭の片隅でそう思っていても、僕らは「他人を理解できる」という前提を持って生きていたい人間だから、「そういう人間がいるのだ」という感覚を自分の内側にきちんと定着させるのが難しい。

実害が及ぶことは望んでいないから、僕自身も、普段は理解されるような振る舞いをし、他人を理解しているような振る舞いをする。そうすることで、お互いに実害を回避しやすいことを、長い経験で理解しているからだ。

また、「他人を理解できる」という前提を共有したい人が多い世の中だ。SNSの普及は、人間のそういう感覚がベースにあるはずなのだ。そういう世の中では、「他人なんて理解できない」という前提を前面に出しながら生きていくのは摩擦を生むばかりだ。だから、理解出来ている風を装う。

けど、他人のことなんて基本的には理解できないはずだ。有名な話だが、「僕が見ている赤色と、あなたが見ている赤色が、同じ色だとは限らない」というものがある。まったく別の色を「赤色」と呼んでいても、会話上齟齬は生じないのだ。同じことが、人間同士のありとあらゆることについても言える。言葉、価値観、感情、記憶…そうしたものを「同じだ」と捉えることは、結局のところ幻想以外の何物でもないのだ。

そのことを忘れていられる社会の中で、僕らは生きている。いや、そういうことを忘れていなければ、僕らは生きていけないのだ。

『色んなことを見て見ぬふりをしなきゃ生きていけないんだから』

他人を理解できないことは、敗北ではなく始点なのだ。この映画はそのことを、潔く突きつけてくる。

内容に入ろうと思います。
かつて殺人を犯した者が、また殺人の容疑で逮捕された。強盗殺人で、自白しているという。なら、間違いなく死刑だ。三隅は、工場長に解雇された腹いせに河川敷で殺害、財布を奪った上で火をつけた。自白以外の客観的な証拠はない。
弁護士の重盛は、同期の別の弁護士から三隅の弁護を頼まれた。供述がコロコロ変わるんだよ…。最初から担当したかったと感じる重盛だったが、強盗殺人を殺人と窃盗に落とすことで減刑を狙う方針を立てる。重盛の父は元裁判官であり、かつて北海道の留萌で三隅が起こした殺人事件を裁いた者でもある。
『理解とか共感とかそんなもの弁護するのに要らないよ。友達になるわけじゃないんだから』
『そんなのは依頼人の利益になることしかないだろ。どっちがホントかなんて分かんないんだから』
裁判という勝負に勝つことにこだわる重盛は、真実の追求ではなく、法廷での勝利のために事件を調べ始める。厳しいだろうが、この方向で弁護するしかないと決まった後で、週刊誌に驚きの記事が載る。なんと三隅は、工場長の妻である美津江に頼まれて殺したと証言したのだ。確かに三隅には事件前50万円の振込があった。メールのやり取りも、決定的な文言こそないものの、殺人をほのめかすような内容だった。供述内容の変更に憤る重盛らだったが、美津江を主犯とする共同共謀正犯である方が勝ち目があると判断、弁護方針を切り替える。
しかしその後、調べを進める中で、美津江の娘である咲江が三隅と何らかの関わりがあったらしいという事実を掴み…。
というような話です。

「真実」の周りを、様々な人間がうろうろし、翻弄される、そんな映画でした。見ている間、ずっと様々な問いを突きつけられているような感じのする作品で、その緊張感が、答えのない、分かりやすい落とし所のない映画を見せる力を生み出しているのだと感じた。

「真実」の中心にいるのは、刑務所の中の三隅だ。殺人を自白している三隅の周囲に、何らかの「真実」がある。しかし、三隅の証言によって、その「真実」の姿は煙幕を張られたかのように見えなくなる。三隅の言葉は、「真実」を覆い隠す。それを三隅が意図的にやっているのかいないのか、それすら判然としない。

真実など勝つためにはどうでもいい、と考えていた重盛だったが、三隅と関わる中でその気持ちが変化していくように見える。三隅の言葉の奥にある「真実」の姿を見極めたくなる。

三隅の得体の知れなさは、様々な部分から分かる。かつて三隅を裁いた重盛の父、留萌での三隅に関する証言、咲江の三隅に対する捉え方、そして三隅自身による証言…。これらがすべて、バラバラの像を描き出していく。皆が三隅について話をしているのに、話せば話すほど三隅という人物から遠ざかっていくかのようだ。三隅が生きていく中で残し続けてきたその様々な違和感が、重盛らの手によって集められ、それによって余計に増殖したかのような不気味さを生み出す。

『生まれてこない方が良かった人間ってのはいるんですよ』

三隅のその言葉が、誰のことを指しているのか。何がそう思わせたのか。三隅と関われば関わるほど、三隅という人物像が拡散していく。

三隅の発言は、どれが真実なのか誰にも判断できない。しかし、これは本心だったのではないかと僕が感じたい発言がある。「刑務所の方がマシだ」という内容のものだ。何故これを本心だと感じたいのかと言えば、僕が三隅と同じ状況にいたとしたら、僕もきっとそう実感するだろう、と思えるようなものだったからだ。

三隅が本当は何をして何をしなかったのか、それは誰にも分からない。そして僕らはそれを、三隅という狂気がそうさせたのだ、と思いたいだろう。しかし、僕はそうは思わない。この映画で訴えかけたいことも、そうではないだろう。あの三隅の姿は、僕ら自身の姿なのだ、ということをこの映画は伝えようとしているのだ、と思う。僕らは幸せなことに、「刑務所の方がマシだ」と思えるような追い詰められ方をしていない。だからこそ、三隅のような狂気を放たずに済んでいるのだ。しかし、自分を取り巻く状況が変われば、僕らはいつだって三隅のようになることができる。いとも、簡単に。自分は三隅のようにならない、と思うことは、三隅を狂人の枠に嵌め込んで、自分から遠ざけているに過ぎない。

僕らは皆、わけの分からない部分を内側に抱えている。普段それは、意識せず生きていられる。だから自分がそんなものを持っているとも思わずに済む。しかし、だからと言って持っていないわけではない。持っているのに、気づいていないだけなのだ。

そのことを重盛は、自分の娘との関わりの中でも気付かされる。妻と離婚調停の最中であり、娘とは一緒に暮らしていない。その娘が、重盛にとって得体の知れない存在になっていく。その恐怖みたいなものを、三隅の在り方とダブらせたのだろう。三隅を理解しようとした背景には、娘の存在があったはずだと思う。

僕らは、自身の得体の知れなさに気づいていない。それに気づき、コントロールしようとしている、という意味においては、僕らよりも三隅の方が高い位置にいるのかもしれない。それをコントロールせざるを得ない人格や環境に生まれ、必死で葛藤し続けた男と、その存在に未だに気づかないでいる者では勝負にならない。初めから重盛には勝ち目はなかった、ということだろう。

三隅を排除して遠ざけてはならない。三隅が抱える得体の知れなさを自分も抱えているかもしれない―そういう認識を与えてくれる作品だからこそ、観る者をこれほどザワザワさせるのである。

「三度目の殺人」を観に行ってきました

幻の黒船カレーを追え(水野仁輔)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



タイトルから想像出来るように、本書は「カレー」についてのノンフィクションだ。基本的に本書に書かれていることは、「カレー」のことだけである。しかし本書を読んで僕はまず、「カレー」ではない事柄に触れたい。

それは「情熱」についてだ。

僕は正直、「情熱」のない人間だ。身体の内側から湧き上がってくるような、抑えようもないような、そういう「情熱」を感じたことがない。

たぶん僕の内側にも、アクセルはあるはずだと思う。でも僕は、アクセルを踏むと同時にブレーキも踏んでいる。ブレーキを踏まずにアクセルだけ踏む自分、というのが想像できない。常に未来に対して悪いことを想像し、あらゆることについてうまく行かない可能性を考えてしまう。そんな人間が、アクセルだけを全開に踏めるはずがない。結果、ブレーキで押さえられた後の熱量しか意識されないので、自分には「情熱」がない、と感じられるのだろう。

著者は、カレーのルーツを探るために会社を辞めた。妻も子どももいるのに、である。それを許容する妻も凄いと思うが、やはり会社を辞めてまで調べたい、知りたいことがあるという「情熱」を身体の内側に抱え持っている著者にこそ、僕は凄みを感じてしまう。

本書を読むと、作品の隅々から、著者の「情熱」を感じることが出来る。もちろん著者にも、「カレー」以外のことをしている時間だってあるはずだ。家族もいて、働いてもいて(調査の期間中、ずっと無職だったわけではない)、その隙間を縫って「カレー」について調べているのだ。本書での記述は、そうして縫い上げた時間を凝縮しているに過ぎない。本書の記述を丸々受け取って、「この人は四六時中ずっとカレーのことしか考えていないんだ」と捉えるのは間違っている。しかし、自分が自由に使えると判断した時間すべては「カレー」に費やしている、と言っても言い過ぎではないだろう。それぐらい、「カレー」のことしか頭にないようだ。

著者にしても、子どもの頃から「カレー」バカだったわけではない。著者がカレーにハマったきっかけは、社会人になって間もない頃に始めた、週末に公園でカレーを作って食べる集いだ。それはどんどん規模が大きくなり、やがて「東京カリ~番長」というグループを作り、カレーを作るために各地に出張していたら、いつの間にかカレーにのめり込んでいた、というのだ。

子どもの頃からずっと、というならまだしも、大人になってから、しかも社会人として働きはじめてから、そこまで猛烈にのめり込めるものに出会える、ということが僕にはとてもうらやましく感じられる。

しかも、こう言ってはなんだが、著者の抱いた疑問は、世の中的にはどうでもいいものだ。これが「数学の歴史を変える定理を見つける」とか、「時効になってからも殺人事件を追い続ける」みたいな話であれば、世の中的に価値を見いだせる可能性がある。しかし、「カレーのルーツを探る」というのは、あまりにも世の中的に意味がない。だからこそ、それを追い求めることの純粋さが強調されもするし、そんなまったく社会に貢献しないことに時間とお金と労力を掛けられる「情熱」の強さ、みたいなものが際立つということもある。

そういう人の生き方を見ていると、今の自分には絶対に無理だし、積極的にそうなりたいわけでもないけど、でもやっぱり憧れる部分はあるなぁ、と思ってしまう。

内容に入ろうと思います。
本書は、先程も書いたように「カレーのルーツを探る」ことに取り憑かれた著者が、会社を辞めてまで真実を追い続けるノンフィクションです。
まず、日本のカレーの来歴をざっとおさらいしておきましょう。
日本のカレーは、インドからイギリスを経由してやってきた(これは、カレー関係者には常識だが、一般にはさほど知られていない)。イギリスから日本にカレーがやってきたのは1870年代前半。そして、インドからイギリスにカレーがやってきたのは1770年代前半だ。
さて、僕らは今でもインドに行けば、インドカレーを食べることが出来る。つまり、インドからイギリスに伝わったカレーは、現存するのだ。では、イギリスから日本に伝わったカレーはどうだろう?ここが著者の疑問だ。著者は、約150年前にイギリスから日本にやってきたカレーを「黒船カレー」と命名し、その黒船カレーを必死に追い求めるのだ。黒船カレーがどんな味だったのか、それをどうしても知りたい。
日本のカレーは、インドのカレーとは別物なのだ。例えば、以下のような調理過程は、日本のカレーでしか重視されていないという。

◯ 長時間煮込んでブイヨンをひく
◯ スパイスを30~40種類混ぜわせる
◯ 隠し味をいれる
◯ 一晩寝かせる
◯ 玉ねぎをあめ色になるまで炒める

黒船カレーがどんなカレーだったかを知ることが出来れば、これらの調理法がどこで生まれたのかが分かる。つまり、黒船カレーの時点でそういう調理法がなされていたのか、あるいは日本にカレーがやってきてからこれらの調理法が発明されたのか。
著者は、仕事の合間を縫って、まずは国内で調査を開始する。文明開化の折、黒船が日本にやってきた場所はただ一つ、当然「港」である。そこで著者は、商用に開港した「函館・新潟・横浜・神戸・長崎」と、海軍用に開港した「室蘭・横須賀・舞鶴・呉・佐世保」の10個の港であらゆることを調べ回った。
日本で出来る限りのことをやり尽くした後は、もうイギリスに行く以外の選択肢はなくなった。しかし著者は勤め人、まとまった休みなど取れるはずもない。そんなことをぼやいていた著者に、妻から衝撃の一言が。
『そんなに探したいものがあるなら、いますぐ会社を辞めて、3ヶ月ぐらい言ってきたらいいじゃない』
妻の男気溢れる一言に背中を押された著者は、本当に会社を辞め、3ヶ月ロンドンに滞在し、まさに日本のカレーの中継地であるイギリスでの調査を開始するのだが…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。正直に言えば、調査の間中、めぼしい発見はほぼありません。著者は繰り返し、『見つからないことを見つけに行く旅』というような表現を使うのだけど、著者は明らかに何もないだろうと思うところにまで、「ないことを確認するため」に行く。あらゆる場所に調査に向かうが、本当にほぼ空振りである。調査取材、という意味で言えば、本書で描かれているほぼすべての描写が「失敗」だと言えるだろう。

しかしそれでも、作品全体としては面白い。それは、著者の物事の捉え方がちょっと面白いからだと思う。そしてそれを、上手く文章に変換できている。調査取材という意味ではほぼ何も起こらないのに、それでも著者が自身の旅を語る内容はなかなか面白い。こんな奇妙な読後感をもたらすノンフィクションは、高野秀行以来かもしれない。高野秀行のノンフィクションの中にも、高野秀行自身にはほぼ何も起こらないまま調査取材が終わる、というものがあった(ウモッカという幻の魚を探しに行く話だったと思う)。

そしてやはり冒頭でも書いたように、著者の「情熱」の凄まじさに圧倒される部分もある。正直に言ってしまえば、よくもまあこれほど「どうでもいいこと」にのめり込めるものだ、と感じる。しかし、彼の「情熱」は、実に多くの人を動かす。確かに、『僕が真面目に日本のカレーのルーツに対して語れば語るほど、周囲の反応は冷ややかになっていく』という反応もあるのだが、しかしやはり著者の「情熱」に感化される者もいる。著者の妻だって、いつも間近で夫の「情熱」を見ていなければ、会社辞めばなんて提案をするはずがないだろう。その「情熱」の強さが、作中のあちこちら鬱陶しいぐらいほとばしっているので、そこもやはり読みどころだと感じる。

本書を「ノンフィクション」と捉えてしまうと、もしかしたら肩透かしを食らうかもしれない。というのも、これは書いてしまうが、本書は「日本のカレーのルーツの調査はまだまだ続く」という、「to be continued」的な終わり方をするのだ。「ノンフィクション」としては、ちょっとあり得ないかもしれない。本書は「エッセイ」として読んだ方がいいだろうし、一時期流行った「エンタメノンフ」という括りでもいいかもしれない。とにかく、凄まじい情熱をまるで無駄な方向に費やし続ける男の物語である。しかし、こういう人がいるからこそ、人類の叡智ってのは蓄積されるし広がっていくんだよなぁ、とも思わされるのである。

水野仁輔「幻の黒船カレーを追え」

木洩れ日に泳ぐ魚(恩田陸)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



物語全体に大きく関わると言えば関わるし、関わらないと言えば関わらない部分なのだが、本書の主人公の一人である「ヒロ」の自己認識に、共感できてしまう部分がある。

『だが、更に嫌らしいことに、僕は今感じている自己嫌悪が単なるアリバイ作りに過ぎないこともちゃんと分かっているのだった。僕の計算高い部分が、ここで自己嫌悪を感じておくべきだと判断しているので、僕は自己嫌悪を感じているふりをしているだけなのだ。そうすることで、世間や他人に対する免罪符を手に入れたと安堵しているに過ぎない。
本当の僕は、罪悪感も自己嫌悪も感じていない。
何も感じていない―そう、何も。たぶん。』

この文章は、僕には凄く強烈だった。メチャクチャ理解できると思った。そう、そのとおり。僕はその時々の計算で、自分をどう見せるべきかを調整している自覚がある。悪いと思っていないことでも、ずっとそう感じていたかのように見せることが出来てしまう。たぶん。うまく繕えていると、自分では思っているに過ぎないのだけど。

他にもある。

『酷薄なら酷薄になりきれればそれなりに筋が通るものを、どこかに弱さがある。自分一人の胸にしまっておけなくて、ぎりぎりまではなんとか持ちこたえられるものの、最後の詰めが甘い。あと少しのところで他人に決断を丸投げしてしまい、結局は人のせいにする。僕はそういう奴だ。』

これも、僕自身のことを言っているのかと思った。その通り。酷い人間である自覚があるなら、それを貫き通すべきなのだけど、それをどうにもやりきれない。それで行き詰まると、あらゆる理屈を駆使してなんとか相手のせいにしてやろう、と思うのだ。まあ、こういう部分は、ある年齢ぐらいからちゃんと自覚出来るようになって、最近では自分なりにある程度抑制できていると思ってはいるのだけど、さてどうだろう。

『自分は将来、実沙子を傷つけるだろう。実沙子が知らなかった僕の醜い部分でさんざん彼女を傷つけ、やがては彼女を泣かせ、萎縮させて彼女の人生を台無しにするのだ。
そんな暗い直感が、それこそ『こころ』の一節のように全身を貫いた。
しかも、まずいことに、その直感が正しいであろうことを、僕はこの瞬間痛いくらいに確信していたのだ』

これも、僕の感覚の中にある。僕は、他人との距離が近くなればなるほど、普段自分が抑えている(と思っている)醜い部分が表に出てくるようになる。そうなってからの僕は、相手をただ傷つけるマシーンのような存在になってしまう(まあ、ちょっと誇張したけど)。それを自覚しているから、なるべく他人との距離を縮めようとしないように意識している。

主人公の一人がこういう性格だったから、こういう物語が成立した、という捉え方は出来る。そういう意味で、今引用したような文章、そしてそこから類推される「ヒロ」の人格などは物語全体に関わってくる。しかし、この部分が、ストーリー展開に直接関係あるわけではない。だから本書を読む人にとっては瑣末な部分であると思うのだが、僕は「ヒロ」の人格の部分にちょっと引っかかってしまった。うん、凄く理解できる。僕の中には間違いなく「ヒロ」がいるなぁ。

内容に入ろうと思います。
とはいえ、本書についてはあまり多くを書くことは出来ない。
引越し業者がやってくるのを翌日に控えたとある晩、一組の男女がガランとした部屋の中にいる。彼らにとっては、最後の夜だ。今日を境に、別々の道を生きていく。部屋にあるものや、日常生活の中での細々としたことは、少しずつ整理してきた。そうやって今日を迎えた。しかし、一つだけ二人の間で解消されていないことがある。
あの男の死に関わっているのだろうか?
お互いがお互いに対して、そういう疑惑を抱きながら、彼らは最後の夜を過ごしている。明日、別れる前までに、ずっと拭いきれなかったこの疑問を相手にぶつけることが出来るだろうか?
というような話です。

最小限の内容紹介に留めた理由は、本書を読めば理解してもらえると思います。どんな本もすべからくそうだと言えますが、本書の場合は特に、物語についてほとんど何も知らないまま読み始める方がいいでしょう。彼らの会話や回想を通じて少しずつ、彼らの関係性や過去が明らかになっていく。その過程そのものを楽しんでいく作品だと僕は感じます。

今、「過程そのものを楽しんでいく作品」と書きましたが、まさにそうで、過度などんでん返しみたいなものを期待しないで読むのがいいんじゃないかなと思います。どこに物語が着地するのか、という部分も確かに本書の読みどころではあるのだけど、どのようにその着地点まで向かうのかという過程に注目する方がより楽しめるのではないか、という感じがしました。

個人的な意見ですが、恩田陸は「風呂敷を畳まない系の作品」が多いと感じます。恩田陸の作品は、「夜のピクニック」と「チョコレートコスモス」と「蜜蜂と遠雷」がもの凄く好きで、凄い作品を書く作家だと思ってかなり色々読んでみたんですけど、先に挙げた三作以外は比較的、物語が上手く着地していないというか、広げた風呂敷を畳みきれていないような印象を持っていました。

そういう意味で言うと本書は、ちゃんと風呂敷が畳まれているタイプの作品だと思うので、安心して読んでもらっていいと思います。

物語がどう展開し、彼らがどんな過去を抱えているのかという部分ももちろん面白いですが、それらに対して彼らがどう思考し、どう感じ、どう対処しようとしているのかという心理的な部分も面白いと思うので、そういう部分もチェックしてみてください。

恩田陸「木洩れ日に泳ぐ魚」

機龍警察(月村了衛)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



凄まじい作品だった。
これがデビュー作とは…。月村了衛、恐るべしである。


『世界中で戦争をしているんじゃない、世界中が戦場なのだ、と。
それがテロという名の憎悪が拡散した現在の戦争だ。いや、違う。戦争の現在形だ。』

「傭兵代理店」という単語を目にしたことがある。確か、小説のタイトルだ。詳しくは知らないが、要するに戦場に派遣する傭兵を調達する代理店なのだろう。

そう、戦争は今や、フリーの契約で動く「傭兵」によって成り立っている。その方面のノンフィクションをあまり読んだことがないので、聞きかじった情報でしかないが、恐らく間違いない。

かつて戦争は、何らかの意見や価値観の対立を持つ集団同士で起こっていたはずだ。その根底にあるのが宗教なのか、経済なのか、政治なのかは様々だろうが、戦争によって対立している集団は、その集団の中で同一の価値観を有している(あるいはそうみなされる)というのが大前提だったはずだ。

しかしいつの頃からか、その前提は大きく崩れてしまった。

現在の戦争も恐らく、戦争を始めるごく少数の者たちは、かつてと同じように何らかの意見や価値観の対立でまとまる集団なのだと思う。しかし戦争が始まってしまえば、後はビジネスとなる。どんな思想を持っているかによらず(完全に関係ないとは言えないだろうが)、強い兵士を金で引っ張ってきて戦わせる。今では、戦争によって対立している集団内で、戦争のきっかけとなった事柄に関する価値観が共有されているわけではない。彼らは、ただ契約に則って、ビジネスライクに戦争をするのだ。

『変わったのは法律だけじゃない、世の中です。世の中の犯罪と人の心です』

そんな世の中に生きていれば、人の在り方は大きく変わっていくだろう。幸いにも、日本はまだ具体的な「テロ」や「戦争」に巻き込まれてはいない。かつては国内で、全共闘運動に代表されるような思想の対立があり、「テロ」と呼ぶべき争いも多々あっただろうが、恐らく日本では、「地下鉄サリン事件」以降、「テロ」と呼ぶべき事態は起こっていないのではないかと思う。

しかし、もし「テロ」が日常茶飯事の世界に生きなければならないとしたら…。

僕達は、生活スタイルや人生に対する考え方を大幅に変える必要に迫られることだろう。

本書で描かれるのは、そうした世の中になる一歩手前の日本だ。「テロ」の危険性は常にあるし、実際「テロ」も起こる。しかし頻発しているわけではない。

その状況で、国を守る責務を負う警察は、どう立ち回るべきか。

本書では、僕らが近いうちに迎えるかもしれない、現在よりもさらに殺伐とした世界における「警察」の存在意義みたいなものを突きつけてくる作品だ。そういう意味で本書は、既存の警察小説とは一線を画する作品だ。

『警察内で孤立する特捜部の専従捜査員は、皆筆舌に尽くし難い苦労を強いられている。彼らは全国の警察から引き抜かれた刑事だが、元の同僚からしてみれば、裏切り者以外の何者でもない。それでなくても特捜部は警察内部の異分子と見なされている。偏狭な体質を持つ警察組織が、特捜部に滅多なことでは情報を渡そうとしないのも当然と言えた。
それだけではない。時には悪意に基づく情報を意図的に伝えてくることがある。明白な嫌がらせであり、捜査妨害である。特に公安部にその傾向が顕著であった。』

本書の設定では、警視庁に新たに「特捜部」という部署が出来たということになっている(ありそうな部署名だが、現在は存在しないという)。その「特捜部」は、既存の警察組織では不可能な組織運営と機動力を有しており、「今のままの警察組織ではマズイ」という考えを共有している。「特捜部」の存在や捜査手法を手放しで受け入れてもいいのか、そこは様々な議論があるだろうが、本書で描かれている社会まで世の中が進んでいってしまっているのならば、やむを得ないのではないか、という感じもする。

変革は、時代によらず、様々な場面で常に起こっている。問題は、変革の最中は、それが未来を良くするものであるのかどうか、誰にも判断できないということだ。だから多くの人は、それまでのやり方にしがみつこうとする。しかし、そういう在り方ではもう、国境など関係なく繋がってしまった世界の中で、スピード感のある変化には対応しきれない。時に「特捜部」のような、変革の最中には批判を浴びるようなやり方こそ、未来を切り拓いていく可能性を持つのだ。

本書は、「警察組織」という、世の中の組織の中でも最上級にお固い組織を舞台に、それを内側からぶち壊すかのような「特捜部」という設定を組み込むことで、変革と変革に付き物の抵抗を描き出す、そんな一面も持っている作品だ。

内容に入ろうと思います。
警察法、刑事訴訟法、警察官職務執行法の改正によって、警視庁内に特殊部局が設置されることになった。「特捜部」あるいは「SIPD(Special Investigators, Police Dragoon)」と呼ばれる、刑事部・公安部などいずれの部署にも属さない特殊セクションだ。「機龍警察」とも呼ばれている。日本警察の悪夢とも称される「狛江事件」により、警察内部の抵抗勢力は封じられ、通常ではありえないセクションが誕生することになった。
その特捜部を率いるのは、元外務省の官僚である沖津旬一郎だ。彼は全国の警察から優秀な、しかも特捜部の理念に共感する者を集めると同時に、警察外部の人間もリクルートしている。

姿俊之:その世界では非常に有名な、金で契約をして戦争に従事する傭兵
ユーリ・オズノフ:元モスクワ警察の刑事。かつて指名手配されていた経歴を持つ。
ライザ・ラードナー:最悪のテロ組織と名高いIRFに所属していた元テロリスト

警察組織が雇うにはあまりに拒絶反応が高そうな彼らの経歴は程よく隠されている。とはいえ、そもそも警察組織が外部の人間をリクルートする、ということそのものに拒絶反応を示す者も多い。警察内部では、特捜部は同じ警察組織の人間とは見なされず、探偵に毛嫌いされているのが現状だ。
ある朝、住民からの通報によりパトカーが向かった廃工場から、人体を模して設計された全高3.5メートル以上に及ぶ二足歩行型軍用有人兵器「機甲兵装」3機が現れた。後に「ホッブゴブリン(第二種機甲兵装「ゴブリン」の密造コピー)」であると判明した3機は街中を逃走。人々を混乱に陥れながら、地下鉄有楽町新線千田駅構内で、ちょうど到着した列車の車内にいた人間を人質にしながら立てこもった。警察は、SATの出動を決定。SATが所有する9機の機甲兵装で鎮圧する計画を立てた。特捜部は、SATの後方支援を命じられた。機能で言えば、機甲兵装よりも遥かに性能の高い「機龍兵」を所有する特捜部は、機龍兵搭乗要員である姿・ユーリ・ライザの三人に指示を出し、計画の進展を見守る。
しかし…事態は思いがけず最悪の展開を見せた。甚大な被害を被った警察は捜査を開始、特捜部も独自に情報を収集する。
千田駅で起こった最悪のテロ。その背後では巨大な組織がうごめいているが…。
というような話です。

凄い物語でした。月村了衛の作品は2作ほど既に読んでいて、そのレベルの高さを知っていたんですけど、デビュー作である本書からこれほどのクオリティだったのかと、改めて驚かされました。

著者がどういう経緯でデビューしたのかは知らないが(少なくとも経歴を読む限り、新人賞を受賞してのデビューではないようだ)、本書は最初からシリーズ化することが想定されて書かれている。かと言って、単体の作品として劣るかというとそんなことはない。本書は、シリーズ作品の1作目としても、単体の作品としてもレベルの高い作品だ。まずそのことに驚かされる。

作品は、近未来を舞台に、これまでの警察小説とはちょっと違う描き方をする物語だ。ロボットと組織の対立という意味で言えば、『エヴァンゲリオン』×『踊る大捜査線』みたいな作品、と言えるかもしれない。様々な登場人物の過去が、世界観や物語に複雑な影響を与えている、という意味でも、『エヴァンゲリオン』の雰囲気を感じさせもする。

解説によれば、著者は、【警察が傭兵(しかも一人はテロリスト)を雇う、という状況をリアルなものにするために、機甲兵装という設定を考えだした】と語っているという。ロボットが登場する警察小説を書きたかったわけではなく、警察が傭兵を雇う物語を書きたかった、ということだ。その設計思想一つ取ってみても、本書の凄さが分かろうというものだ。普通は、「警察小説にロボットを登場させよう」と発想するだろう。

警察が傭兵を雇う物語を描きたかった、というだけあって、「特捜部」という特殊セクションの設定や、「特捜部」がいかに警察全体から嫌悪されているのかという、「特捜部」を取り巻く環境の描写は見事だ。「特捜部」の面々は、自分たちのやり方でなければ対処不可能な犯罪が目の前にあり、だからそれに全力で取り組むべきだと考える。しかし旧来の警察組織は、体面や前例などを重んじ、組織のあらゆる常識から逸脱する「特捜部」を排除しようとする。どちらが正しいか、などという議論をするつもりはないが、個人的には「特捜部」に肩入れしたくなる。

「特捜部」がそういう厳しい環境に置かれているからこそ、「特捜部」に属する面々の人間性がより色濃く浮かび上がってくる。警察組織全体から疎まれながらも、志願して「特捜部」入りした面々は、自分たちの行動が未来の日本を良くすると信じている。もちろんそう思っているのは、「特捜部」以外の警察の面々もきっと同じだろう。とはいえ、迫害されているからこそ、その意思がより強固に発揮され、小さな集団の中で連帯感が生まれていく、ということはあるだろう。

しかし、かといって「特捜部」は、完全には一枚岩にはなれない。何故なら、「特捜部」内でも、外部から招聘した傭兵に対する考え方は様々だからだ。しかも、「特捜部」の切り札である「機龍兵」は、「特捜部」の創設と同時に存在していた。つまり、「機龍兵」を誰がどのように作ったのか、ということを知る者がほとんどいないのだ。「特捜部」内でも情報が秘されているという事実は、組織を一枚岩にしようとする上で大きな障害となるだろう。

先程も書いたが、本書はシリーズの第一作目だ。本書で出てくる様々な伏線は、本書内で回収されるとは限らない。姿・ユーリ・ライザの三人を始め、登場人物たちの様々な過去が描かれていく。例えば、「機龍兵」の整備責任者である鈴石緑は、彼らの内の一人と浅からぬ因縁がある。姿が所属していたという「ディアボロス」という奇跡と賞賛される組織についても謎だ。そもそも、何故沖津が外務省の官僚から「特捜部」の部長になったのかも不明だし、「フォン・コーポレーション」という、香港財閥系企業のCEOが何を狙っているのかも不明だ。そもそも、千田駅でのテロ事件の真相は、本書では明らかにならない。本書のメインであるはずの事件を解決に導かない、なんてことをデビュー作からやってのけてしまう、ということが、やはり凄まじいなと感じるのだ。

本書ではないが、本シリーズは「日本SF大賞」と「吉川英治文学新人賞」を受賞している。同一シリーズで、SFの賞とミステリの賞を受賞した例というのは、あまり多くないのではないか。ジャンルの区分けなどまるで意味をなさないほど縦横無尽に様々な要素が組み込まれる本作は、小説の新たな未来を切り拓いていく力を持つ作品なのではないかとも思わされた。

月村了衛「機龍警察」

読者(ぼく)と主人公(かのじょ)と二人のこれから(岬鷺宮)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



物語の登場人物が現実に現れたら…というのは、誰しもが抱いたことがある妄想かもしれない。自分が物語の世界に入り込む、というパターンもあるだろうけど、そっちはなんかかなりハードルが高そうな気がする。けど、登場人物の一人だけでもいいからこの世界のどこかにいる―そんな風に妄想するのは、イメージしやすいかもしれない。

僕は子どもの頃からマンガはあまり読まないし、ゲームもしない。小説はそこそこ読んでいたけど、小説を読んで頭に映像が浮かばない人間なので(今でもそうだ)、特定の誰かに憧れた、という経験があまりない。

けど、振り返ってみて、「エヴァンゲリオン」の綾波レイは一時凄く好きだったな、と思う。

綾波レイが目の前に現れたら、テンション上がるだろうなぁ。「エヴァンゲリオン」を見たのは大分前でちゃんと覚えていないから、そんな事態になるなら見返しておかないといけないけど、それを予測出来るなら、綾波レイについて情報を得て、どんな話をしようか、とか考えるんだろうなぁ。

みたいなことが、現実に起こってしまった高校生男子を主人公とした物語なわけです。SFでもファンタジーでもなくこの設定を作り上げているので、これは、規模の大小はあれど、僕たちにも起こりうる話なのだ。

最近ネットのニュースで、「日本に一度も来たことがない外国人が、渋谷の写真を見て『懐かしい』と言うのは何故か」というような記事を見た。これは、海外での多くプレーされているゲームの舞台が渋谷であることが多く、その再現レベルが実際の渋谷の風景にかなり忠実であるが故にそういう状況が生まれるのだそうです。

ある意味で本書も、それに近いと言えなくはないかな、という感じはしました。

内容に入ろうと思います。
都立宮前高校一年の細野晃は、中学時代のある時から他人に心を閉ざすようになり、本ばかり読んで過ごしている。他人と関わることで、相手を傷つけてしまう―そのことを恐れているのだ。彼は、「十四歳」という小説を愛読していた。十四歳の少女の日常を綴っただけの物語なのだが、『自分と同じことを考えている「誰か」が、ページの向こうにいる―』と感じられるほど、主人公の「トキコ」に共感できてしまう。折りに触れ読み返していたために、表紙がボロボロになっている。
クラスで自己紹介が始まる。自分の前に座っていた女の子が壇上に上がり自己紹介をした時、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
「トキコ」だ。「トキコ」がいる。
柊時子と名乗ったその少女は、立ち居振る舞いや言動のすべてが、「十四歳」に出てくる「トキコ」そのものだった。そんなまさか。小説の主人公が目の前に現れるなんて―。
その疑問は、しばらくして氷解することになる。なんと「十四歳」は、時子の姉が時子をモデルに描いた小説だ、というのだ。
やっぱり間違いなかった。「トキコ」だったのだ。
僕は、なかなか周囲の会話に入れない時子のサポートらしきことを続けていた。それを感じ取った時子は、これからもそうしてもらえると嬉しい、と僕のやり方を受け入れてくれた。
こうして、他人を拒絶し続けてきた少年と、小説から抜け出してきた少女は、細野の旧友である須藤伊津佐と広尾修司も巻き込みながらお互いの存在を強く意識するようになっていくが…。
というような話です。

いわゆるライトノベルと呼ばれる作品ですが、ライトノベルを普段読まない人にも面白く読める作品だと思いました。異世界や魔法やロボットなんかは一切出てこず、純粋な学園小説という感じです。もちろん、ライトノベルの特性上若い世代にもわかりやすく書かれているので、小説としてはちょっと甘い部分はあるかな、という感じはします。もどかしいなぁ、という感じのするラブストーリーなので、そういう話が苦手な人にも合わないかもしれません。でも、ライトノベルだという偏見を除けば、かなり読める作品じゃないかなと思います。

細野の臆病さがもうちょっとちゃんと描かれていると良かったな、という点が残念ではありますが(うまく説明できないんだけど、本書における細野の臆病さの描写は、ちょっとわざとらしいというか、もうちょっと上手く書けるよなぁ、という感じがします)、時子が必死に周囲に溶け込もうとする感じや、憧れの小説の登場人物と出会えた細野の喜び、また須藤や広尾の関わり方など、全般的に良かったなという感じがします。特に、須藤と広尾は、細野とは違ってコミュ力がとても高いのだけど、そんな二人が細野に対して「何故他人と関わるのか」を語る場面は、かなり良かったなという感じがしました。

また本書では、「時子が小説の主人公である」という部分が障害になっていく、という点も描かれていて良かったなと思います。憧れと現実が入り混じった時にどういう変化が起こり、どういう選択を迫られるのか、という部分の描写は、本書においてはやはり重要な部分で、そこがラスト付近で大きな意味を持ってくる、という展開は良かったなと思います。

ネット上ならともかく、リアルでは距離を詰めるのが苦手な人が多くなっているように感じられる時代には、彼らのもどかしい振る舞いは共感してもらえる部分があるのではないかと感じた。

岬鷺宮「読者(ぼく)と主人公(かのじょ)と二人のこれから」

「新感染 ファイナル・エクスプレス」を観に行ってきました



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



自分だったらどうするだろう、という場面が多々あった。
正しい判断が出来ただろうか?
選択の、連続だ。正しさを判断している余裕は、実際のところない。
というか、「誰にとっての正しさ」を追求すればいいのか分からない。

そう、この映画で問われていたことは、まさにその点なのだと思う。
危機的状況に陥った時、「誰にとっての正しさ」で物事を判断すればいいのか。

どんな言動も、正しさの軸を定めてしまえば、それに沿って正しい/間違いの判断が出来る。
いくら誰かを救う行為であっても、それは大切な人を傷つける結果に繋がるかもしれない。
いくら誰かを傷つける行為であっても、それは大切な人を守る結果に繋がるかもしれない。

『パパは自分のことしか考えてない』

ある場面で主人公は、娘にそう言われる。

確かに主人公の言動には賛否あるだろう。しかしそれも、正しさの軸をどこに設定するかによって判断が変わる、というだけに過ぎない。娘の視点からは、パパは非道な決断をしているように見える。しかし主人公は、最も大事な人をいかに守るかという問いの最善解を導き出しているに過ぎない。正しさの軸は、状況や場面によって常に変化する。確かに主人公の言動は、平時においては残酷で非人道的に思えるかもしれない。しかし有時においては選択肢の一つとして許容されてもいいのではないかと思える。

他人の犠牲にしてまで生きたいのか、という問いに対する答えは様々だろうし、積極的に他人を犠牲にする行為は、たとえそれが有時であっても許されるべきではないと思う(この映画の中にも、そういう人物が登場する)。しかし、仕方ない犠牲もあるはずだし、そうであれば、その犠牲を見込んで何か前に進むための一手を打つことが仕方ない状況もあるだろう。

自分がこの映画の登場人物の一人だったらどうするだろう、と色んな場面で考えた。きっと、決断に迷って大した行動は出来ないだろう。たぶん僕は、モブ側の人間だ。何も出来ないまま、すぐ死んじゃうタイプだろうなぁ。ヒーローにはなれないかぁ。

内容に入ろうと思います。
ファンドマネージャーをしているソグは、そのあまりの忙しさと、他人を顧みない冷徹さが仇となり、妻に家を出ていかれてしまった。母親と、娘のスアンと三人で暮らすが、ソグはスアンを構ってやれず、スアンは誕生日に自分の母親が住むソウルに一人で行くと言って聞かない。ソグは、なんとか仕事のやりくりをつけて、スアンと一緒にKTX(韓国の新幹線みたいなもの)に乗った。
発車直前に乗り込んできた一人の血まみれの女性。皆彼女に異変に気づかないが、やがて事態は勃発する。その女性が乗務員の一人に噛み付いたのだ。それはまさに<パンデミック(爆発的感染)>の始まりだった。時速300キロで走る車内で、「感染者に噛まれると感染する」という謎の感染症が蔓延。乗客は生き残りをかけて、必死で逃げ惑う。
一眠りして起きた時、スアンの姿が見えなかったため探しに出たソグは、その途中でその<パンデミック>の事態に遭遇した。乗客たちと力を合わせながら、なんとか感染しないように逃げ続けるが…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。正直、画的には相当ギャグっぽい感じの映画です。感染者たちが異常に増殖し、車内を徘徊したり、人に襲いかかったりする様は、怖いというよりも思わず笑っちゃうような雰囲気を感じさせました。それぐらい「感染者」役の人たちが振り切りまくった演技をしていたのは良かったですけども。

画的にはギャグなんですけど、全体的にはかなり人間ドラマの要素の強い作品でした。物語の主軸としては、冷徹で他人のことを考えない主人公が、周囲に助けられながらスアンと共に逃げられている状況が続く中で、自分も人を助ける意識が芽生えていく、というような部分なんですが、それ以外にも車内で展開される人間ドラマは色々あります。妊婦を連れ添った男や、野球部の集団と応援団長(女)、何があっても自分だけは生き残ろうと他人を切り捨てる男などです。極限状況の中、彼らは数々の決断に迫られる。それはほとんどが、それまで一緒に協力して逃げ続けてきた誰かを切り捨てるようなもの。そうしなければ他の者たちの命も危うい、というギリギリの状況で、彼らはなんとか決断を積み重ねていく。そういう、極限状況に置かれた人間たちの究極の選択が手に汗握る展開を生み出しているな、と思います。

「感染」あるいは「感染者」に関する設定は、かなりシンプルです。まず、かなり早い段階で分かることはこういう感じです。

◯ 「感染者」に噛まれると100%感染する
◯ 「感染者」はドアの開け方を知らない(だから閉めさえすれば、鍵を掛けなくても大丈夫)
◯ 「感染者」は人が視界に入ると襲ってくる

さらに、あと一つか二つぐらい特徴的な性質が描かれるんだけど、本当にそれぐらいです。原因は何なのか、感染を防ぐ方法はないのか、みたいなことは描かれません。そういう部分を一切物語に組み込まず、ひたすら「逃げる」という部分に物語を特化したのが良かったんだろうと思います。

とにかく、一難去ってまた一難、どころの話ではありません。難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難…って感じで、ずーーっとヤバイ状況が続きます。しかも、乗客たちには分かりやすい希望も特に与えられません。「◯◯にたどり着ければ助かる」みたいなのが何かあれば、そこまではどうにか生きよう、という風に思えるかもしれないけど、乗客たちは基本的に、どこに行けば自分たちが助かるのか分からないまま、ただ迫りくる「感染者」たちから逃げなければならないんです。これはかなり辛いだろうな、と思いました。

見ていて、あぁ、人間だなぁ、と思った場面がありました。詳しくは書きませんが、車内が二つに分裂して対立した直後の場面です。嫌な予感はありました。で、やっぱりそうなるかー、って感じになりました。その時のその人物の行動が、うまく説明できないけど、あぁ人間っぽいな、と思ったんですね。あの場面は、結構好きです。

設定と大雑把な展開は非常に単純ながら、なかなか惹きつけられる映画でした。個人的には、この映画の後が知りたいなぁ。こんなこと起こったら、韓国崩壊なんじゃないか、と。日本みたいに島国だったらともかく、韓国は陸続きだから、何がなんでも韓国で事態を終息させないと国際問題にも発展するだろうし。いやー、この後の韓国、どうなるのか気になる。「シン・ゴジラ」のその後が気になる、みたいなのに近いですね。

「新感染 ファイナル・エクスプレス」を観に行ってきました

客観視のモンスター・山下美月



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



【部屋にいる時の私、友だちやメンバーと一緒にいる時の私、ステージに立っている時の私、その3つのキャラが存在するんです。】「BUBKA 2017年8月号」

3期生の山下美月はそう語る。山下美月は、客観視のバケモノだと、インタビューを読んでいて感じる。

山下美月のパッと見のイメージは、恐らくこんな感じだろう。
「正統派の美少女」「ザ・アイドル」「明るくて元気な女の子」
まさにアイドルになるべくして生まれたような―などというと大げさ過ぎるのかもしれないが、そういう雰囲気を醸し出す少女ではないかと思う。「BRODY 2017年10月号」で山下美月のインタビューアーを務めた方も、【正直、オーディションでの山下さんの印象は「できあがっちゃってるな」でした。器用だし、ずば抜けて完成度も高かったので。】と語っている。中身を知らなければ、その印象が変わることは恐らくないのだろう。

しかしインタビューを読むと、山下美月のまったく違う面が見えてくる。

【でも、久保(史緒理)ちゃんはそういう弱い自分と真正面から戦っているタイプだと思うんです。ただ、私の場合、もう一人の自分を作って、違う人間に乗り移ってるみたいな感じなんですよ。
―ステージに立つ時は、ってことですか?
アイドルとして活動する時は、違う人間になっているような感じがして。でも、そういうのをすべてはずしちゃったら、ネガティブで人付き合いの苦手な人間なんです。】「BUBKA 2017年8月号」

彼女は、「ザ・アイドル」なのではなく、「ザ・アイドルに近づこうと必死に努力している女の子」なのだそうだ。アイドルとして活動している彼女を見ているだけでは、そういう面は見えてこない。何せ、「3つのキャラ」を使い分けているのだから。ちなみに、「部屋にいる時の私」「友だちやメンバーと一緒にいる時の私」「ステージに立っている時の私」がどんな感じなのか抜き出してみる。

「部屋にいる時の私」:【夜は自分の部屋で繭玉を30個くらい並べて、それにずっと顔を描いてて…。】【部屋ではずっと下を向いて泣き叫んでるし】「BUBKA 2017年8月号」

「友だちやメンバーと一緒にいる時の私」:【(山下)楽屋だとやばいよね? (久保)やばい(笑)。モアイ像みたいな顔してます(笑)】【楽屋ではギャグを言ったりワイワイ騒いでいて】「BUBKA 2017年8月号」

「ステージに立っている時の私」:【「こういうアイドルになりたい」というのがあるから、自分をその理想に近づけています】【ステージではアイドルとして振る舞っていて】「BUBKA 2017年8月号」

それでも山下美月は、嘘をついているわけではない。

【でも、どれが本当の自分とかじゃなくて、どれも自分なんです。理想のアイドルになりたい自分がいるので、その使い分けは絶対にしたいと思っています。】「BUBKA 2017年8月号」

ファンには基本的に、「ステージに立っている時の私」しか見えてこない。「部屋にいる時の私」「友だちやメンバーと一緒にいる時の私」として山下美月自身や久保史緒理が語る姿は、イメージと離れていてなかなか想像が出来ない。僕のように、インタビューを読めば、多少見えてくる部分もある。しかし、それもどこまで信頼できるのか。

【でも、私はあんまり人に本心を見せないんですよ。人と深く関わったら自分の中身まですべて知られちゃう、という怖さがあって。たぶん本当の私は誰にもわからないというか、私にもわからない…。これも全部キャラだと思っているので。
―えっ!?今日のインタビューも全部?
アイドル・山下美月としてしゃべっているので。すべてアイドルとしての発言だと思っています。】「BRODY 2017年10月号」

どうにも掴めない女の子だ。こういう、外側からのイメージを切り裂くような人格は、一体どのように生まれたのだろうか?

【私は引きこもってネットばかり見てたよ。日光を浴びたくなかった(笑)】「OVERTURE 2017年7月号」

【家でおやつを食べながら、イスから一歩も動かずにテレビドラマやバラエティを観たりしていました。】「BRODY 2017年10月号」

【―それからはネットサーフィンの毎日ですか?
YouTube を(笑)。本当にずっと家にいて全然しゃべらなかったです。大人しいというか無口で。表情もそんなに明るくない…暗かったです(笑)】「BRODY 2017年10月号」

乃木坂46に入る前の自分自身を、彼女はそんな風に語る。正直、なかなかイメージできないだろう。家から出ないとかネットやテレビばかり見ていた、というのはともかくとしても、「無口」「大人しい」というイメージを山下美月から引き出すのはかなり困難だ。それこそ、学校の中で上位のカーストにいて、友達がたくさんいて、いつでも友達と遊んでいる―こういう勝手なイメージをもたれるのはきっと嫌いだろうが、今の彼女しか知らない視点からは、やはりそう見えてしまう。

学校での過ごし方も、非常に特異だ。

【―(スクールカーストの)あえて真ん中のポジションあたりに収まった?
小学校のときと高校では上にも下にも行かずに真ん中でした。クラスにもちゃんと馴染めてて、いろんなことをそれなりにやる生徒っていうか、そういうふうに思われなきゃ、という意識がありました】「BRODY 2017年10月号」

【自分の中で「こうしていれば普通の人間だ」っていうのがあったんです。何人か友達がいて、学校では単独行動をせず、誰かに合わせていれば可もなく不可もなくで、ずっと一定の状態であり続けられるだろうなと思って…めっちゃ性格悪いやつみたいですね(苦笑)】「BRODY 2017年10月号」

こういう発言から理解できるのは、山下美月の特異な客観性だろう。集団の中での自分という存在を、常に俯瞰してみている。もちろんそれは、思春期の若者であれば多くの人が持つ視点ではあるはずだ。しかし、なんというのか、その客観的な視点の使い方が変わっていると僕には感じられるのだ。集団の中での客観性は普通、その集団の中での自分の立ち位置を有利にするために発揮されるのではないかと思う。どうしたらこの瞬断の中で、自分が良い立ち位置を確保できるのか。普通はそれを考えるのではないかと思う。しかし山下美月はその客観性を、ちょうど真ん中を保つために使った。恐らく彼女の容姿や、あるいは今アイドルとして発揮している部分を出していけば、その客観性を駆使しながら集団の中でかなり上位にいられたはずだ。しかし彼女はそうしなかった。それには、彼女なりの痛い経験が関係しているようだ。

【小学生のときは“クールドール”って呼ばれていて。
―すごいニックネーム!
そうなんですよ(笑)。“笑わないお人形”って言われたくらいで。それで、みんなに「近寄りがたい」とか「あの子は冷たい子だよね」っていうイメージを持たれているから、なるべくそう思われないように必死に暖かみを出していて。でも、それでテンションが高かったり、はしゃぎ過ぎちゃうと「あいつは目立ちたがり屋だ」とか「絶対あいつ作ってる」って思われちゃったりするんです。
―がんじがらめじゃないですか!その15年間はつらすぎますね。
やっぱり…つらかったです。だからこそ「普通の人間として見られよう」って努力しました】「BRODY 2017年10月号」

ある意味で彼女は、その容姿が足枷になっていたと言えるのかもしれない。彼女は、自分が集団の中できちんと受け入れられるように、器用にその立ち位置を変化させてきた。しかし、自分がどう見られているのかという高い客観性を持ち、さらに他者からのイメージを修正させるような自己改造の能力まで持ちながら、どうやっても周囲からプラスで見てもらえる立ち位置を確保できなかったようだ。その苦しい経験から彼女は、可もなく不可もなく、目立つでも目立たないでもない、ちょうど真ん中の立ち位置を確保できるように振る舞うようにしたのだ。

【そのときは学校がすべてじゃないですか。だから、まわりに嫌われたら私の人生は終わっちゃう、という恐怖感がありました。結局、人の目線を気にしすぎちゃって、人の目に合わせて自分を作っていたんだと思います】「BRODY 2017年10月号」

僕も、「まわりに嫌われたら私の人生は終わっちゃう、という恐怖感」は学生時代持っていたし、僕自身も自分を客観的に見ながら自分の立ち位置を把握することはやれていたと思う。しかし山下美月のように、自分の立ち位置を器用に上下させたり、それを諦めて早い段階で「普通」を目指そうとしたりする生き方は、たぶん僕には出来なかったような気がする。僕は、容姿が良ければ女性は人生がすべて上手くいくとは思っていなくて、まさに山下美月はその典型例みたいなものなんだろうとインタビューを読んで感じた。本人も語っているが、非常に辛い学生時代だっただろう。

【―(オーディションを受けたのは)もう一度、人生をやり直そう、と。
本当にそうです。自分のなかで今まで中途半端にやってきたことの後悔を晴らすためにも乃木坂46に入って、これから先の進路や人間関係をすべて捨てて、再スタートするんだ!って。】「BRODY 2017年10月号」

そんな彼女は、自分を変えるために乃木坂46のオーディションを受けた。乃木坂46には本当にそういうメンバーが多い。他のグループのことは分からないが、やはり同じような人間が集まるような雰囲気があるのか、あるいは選ぶ側が意識的にそうしているのか。

【―芸能界に入りたかったということは、人前でなにかをすることが好きだったんですか?
というよりも、「今いる場所から逃げ出したい」という思いが強かったです。クラスのグループとか先生の目とか、将来の進路のこととか。自分としてはそれがつらかったので、そこから逃げ出したくて。それで芸能界に行ったら逃げられるんじゃないかと思ったんです。あと、芸能界ってまわりからの目じゃなくて、自分自身の実力でのぼっていけるような世界だと思っていたので、もしかしたら人間関係を作るのが苦手な私でもそこだったら頑張れるかもしれないと思って。】「BRODY 2017年10月号」

乃木坂46を好きになる前の僕であれば、「逃げるためにアイドルを目指す」という選択はきっと理解できなかっただろうが、生駒里奈や白石麻衣、西野七瀬といった「辛い過去を振り切ろうとオーディションを受けた」みたいなメンバーの多い乃木坂46のことを知って、その感覚をなんとなく理解できるようになった。僕は「アイドルとは、臆病な人間を変革させる装置である」という記事も書いたことがある。キラキラしたものを目指すというよりは、これまでの輝きのなかった自分の人生を捨てるための場所として、アイドルという存在が捉えられている。

乃木坂46に見事加入した山下美月だったが、やはりそこからも苦労は続く。

【めっちゃわかる…。私が「乃木坂らしくない」って言われるのは、たぶん『プリンシパル』のイメージが強いからだと思います。】「BUBKA 2017年8月号」

僕は『プリンシパル』を見ていないので分からないが、彼女自身でその当時のことを【「気合い」で役を勝ち取ろうとしてるガチな奴】「BUBKA 2017年8月号」と評している。「やる気!」「熱意!」「根性!」で役をもぎ取ろうとするスタンスだ。

【ホントは正統派でいきたいの!】「BUBKA 2017年6月号」

そう語る彼女には、理想のアイドル像がきちんとある。しかし、今の自分では真っ直ぐそこを目指すことは出来ない。頑張ろうとしても頑張り方が分からず、演技や歌の上手い久保史緒理や、ダンスの上手い阪口珠美とは違って、自分にはアピール出来るような武器はない。でも、理想のアイドルを目指すために、まずはアイドルとして見つけてもらわないと、色んな人に見てもらわないと始まらない。彼女はそう割り切って、今乃木坂46として活動している。

【―でも、10代の女の子がヒール役のイメージを持たれる、って耐えられないほどつらくないですか?
最初は「なんでそんなふうに思われちゃうんだろう?」とか「どこを直せば本当の自分をファンの方にわかってもらえるんだろう?」って悩んだりもしました。でも、そういうイメージを持たれるのを悪いことだと捉えずに、それも自分のキャラにしちゃえばいいんじゃないか、って最近思うようになってきて。見た目は怖そうに見えても、しゃべったら案外そうでもなかった、というのを自分の長所にしちゃえばいいんじゃないか、って】「BUBKA 2017年8月号」

そんな風に辛い状況でも頑張れるのは、彼女が負けず嫌いだからだ。【メンタルは豆腐だけど、負けず嫌い。】「BRODY 2017年10月号」と発言している。

【『自分には見てる人を惹きつけることができる力はないのかな?』とか『何が取り柄なんだろう?』とか考えてたら、すごく悔しくて…つらかったです。そういう『これ以上、何を頑張ったらいいんだろう?』っていう葛藤の中で、最終的には『次に出られなかったら死のう』ぐらいの気持ちで挑みました。もう頭がおかしくなってたんですよね、あの頃(笑)。でもそういう気持ちでいけたから、その次の公演では吹っ切れたお芝居ができたというのもありました】「BRODY 2017年6月号」

『プリンシパル』の時の自分についてもそう語る。「次に出られなかったら死のう」という言葉はきっと、大げさではなかったのだろうと思う。
結果的に彼女はこれまで、「普通」を目指して頑張るという、抑制された努力しか出来ない環境にあった。そのことを彼女は「中途半端」と語るが、しかしそれは試行錯誤の末の仕方ない妥協だったのだとインタビューを読んで僕は感じた。抑制された努力しか出来ない状況に押し込められていた彼女は、最上を目指して振り切った努力をする経験を長らくしてこなかった。そんな自分の制約を振りほどくには、無謀な決意をする他なかったのだろうと思う。

しかし山下美月は乃木坂46で、久保史緒理という盟友と出会うことが出来た。

【(久保史緒里がいなかったら)意識の持ち方が今と全然違ったと思う。久保ちゃんがいるからこそ、久保ちゃんみたいにもっとストイックにコツコツ積み重ねていかなきゃ、って思える】「BUBKA 2017年8月号」

久保史緒理との関係については「「弱さ」と「強さ」の絶妙なバランス・久保史緒里」の記事でも触れたので読んでみて欲しいが、「くぼした」とも呼ばれるこのコンビは、お互いの存在がお互いを高め合うという、見事なハーモニーを奏でている。

【お互いに、弱い自分への対応の仕方が違うだけで、同じことを考えてるし、グループに関して思っていることや今の3期生に対して思っていることは一緒の部分が多いんです】「BUBKA 2017年8月号」

そんな風に感じられる盟友の存在は、山下美月にとってとても大きいだろう。彼女たちは、お互いにないものを補い合いながら、二人で高みを目指しているように見える。乃木坂46に入らなければ絶対に出会うことがなかった盟友の存在はきっと、これまでの山下美月のくすんだ(と表現しても怒られないだろう)人生を塗りつぶし、別の色に変えるような、そんな大きなものではないかと思う。

【最終的には先輩たちやファンの皆さんに『3期生に任せれば、これからの乃木坂は安泰だ』と言ってもらえるくらい、乃木坂に貢献できるようなメンバーになりたい。それができるんだったら、乃木坂にすべてを賭けることも本望です】「BRODY 2017年6月号」

【今や、私の9割以上は乃木坂でできています。乃木坂に入って、性格とか、全部が変わって、自分自身を変えられている最中。きっかけを与えてくれたのは乃木坂ってグループだし、先輩たちが5年間作っていただいたもの。全力で貢献できたらいいなと思っています】「AKB新聞2017年8月号」

山下美月の乃木坂46に賭ける意気込みは、それこそ痛いほど伝わってくる。インタビューを読んで、外見からのイメージとは違う山下美月像が自分の中で形作られるに従って、彼女の「乃木坂にすべてを賭けることも本望です」「全力で貢献できたらいいなと思っています」という言葉には、言葉以上の意思を感じられるようになってきた。

とはいえ、客観視のモンスターである彼女は、きちんと自分の立ち位置も見極めている。

【今じゃなくて、先のことを見据えているので。そのために今を頑張っているから、「すぐ選抜に入りたい」とか、そういうふうには思っていないです。3、4年後に、先輩方みたいにちゃんと成長できているかが問題だと思います】「BRODY 2017年10月号」

【―山下さんは一番になりたい、という気持ちはありますか?
私は目指してないです。自分はあんまり真ん中に立つべき人じゃないって、わかっているので…。主人公タイプではないと思うし。私はセンターとか一番になるより、たとえフォーメーションで一番うしろの列にいたとしても、「山下はうしろにいても存在感があるから大丈夫」って思われるような存在になりたいです】「BUBKA 2017年8月号」

「乃木坂46の中で自分がどうなりたいか」ではなく、「乃木坂46の中で自分がどうなっているべきか」を優先して考えるだけの落ち着きが、今の彼女にはきちんと備わっている。集団の中での立ち位置を常に捉え、模索し続けた彼女の本領発揮と言ったところだろうか。

アイドルになって、やっと素の自分を見せられるのではないか、と語る彼女は、自分自身をこんな風に捉えている。

【アイドルって個性が大事じゃないですか。個性がなきゃ死んじゃうと思って。ただ、ひとつ問題なのは、これまでは作ってきた自分だったから、自分の本当の個性が何なのかよくわからないんですよね。
―リアルな自分を忘れてしまった?
まだ本当の自分がわからないし、たぶんこれからさきもわからない気がしているんですけど、でも、「自分はこういうアイドルになりたい」「こういう人間でありたい」っていう理想になりきろうとしている自分が、本当の自分なんだろうな、と思うんです。
―理想のアイドルに近づこうとする気持ちに嘘はないってことですね。
家ではめっちゃ暗いし、仕事場では明るくなりきってるけど、それが「嘘なのか?」って言われたら嘘じゃなくて。そうやって自分を作ろうとしている自分が、本当の自分なのかも?
―高次元すぎますよ(笑)。
今までずっとそうたって生きてきたから。】「BRODY 2017年10月号」

客観視のモンスターは、そんな風に自分自身を捉えることで、3つのキャラを使い分ける自分を肯定する。自分という存在の本質は、どこかに固着した「静的な存在」ではなく、理想を目指し続ける「動的な存在」にこそあるのだ、という捉え方は、普通に生きている10代の女の子ではきっとたどり着くことが出来ないだろう。抑え込んでいたこれまでの苦しい日々、そしてアイドルとしての高みを目指すために解放的な努力を積み重ねる今、その蓄積の中でしか掴み取れなかっただろうと思う。

「理想になりきろうとしている自分が、本当の自分なんだろう」という発言は僕に、齋藤飛鳥のこんな言葉を思い出させた。

【今でも選抜、アンダーのどっちがいいのかと聞かれると考えてしまいます。誤解を恐れず、理想を言えば「選抜に選ばれて、うれしい私」でありたいです。】「日経エンタテインメント アイドルSpecial 2015」

齋藤飛鳥もまた、自分を捉える眼差しの厳しい女の子だ。彼女たちのように、自分で掴み取ってきた言葉で自分自身を捉え表現する力を備えた若い世代がアイドルとして日々奮闘しているという姿に、僕は刺激と感動を覚える。

最後に、「アイドルのプロ意識」について語った山下美月のこんな言葉を引用してこの記事を終えようと思う。

【私、ずっと「プロ意識」っていうものは、ちゃんと仕事を自分でいただいて、その仕事をきっちり成功させることだと思っていたんですよ。
―それがプロフェッショナルだと。
そうなんです。でも、アイドルとしてのプロ意識はそうじゃないなってことに気づいて。どんなポジションでも応援してくださっているファンの方を満足させること、ファンの方をしあわせにできることが、アイドルとしての一番のプロ意識だなと思ったんです。だから、いま応援してて一番楽しいアイドルになりたい、って思うんです】「BUBKA 2017年8月号」

山下美月が、「客観的に見てる私が嫌い」でないことを祈っている。

「パーソナル・ショッパー」を観に行ってきました



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



正直、どこに焦点が当てっているのか、僕には分からない映画だった。

観ている時は、凄くワクワクした。僕には、今何が起こっているのか掴みにくい映画で、だからこそ、この物語がどこに着地するのか凄く興味があった。いくつもの要素が現れて消えていった。それらが最終的に一つの何かに収斂していくんだと思っていた。それを凄く期待しながら観ていた。

しかしどうやらそういう映画ではなかったようだ。少なくとも僕の主観で語れば、物語はどこにも着地しなかった。いや、恐らくしたにはしたんだろうが、僕が思い描いていたような、それまで出てきた謎めいた要素をすべて説明してくれるようなはっきりした着地ではなかった。

つまり、ある程度物語に対する読解力がないと、この映画は面白さが分からないのだろう、と思う。

正直僕にはこの映画をうまく受けとることが出来なかったから、内容については書きすぎないようにしようと思う。というのは、予告を観てイメージしていた内容と本編に大分差があったからだ。冒頭からして、かなり予想外の展開だった。役者が予告で観た通りの人だったから勘違いはしなかったが、もし主人公以外の人物が登場していたら、観る映画を間違えたと勘違いしたかもしれない。

というわけでここでは、本編の内容紹介ではなく、僕がなんとなく記憶している予告の映像から分かることのみで、本編の雰囲気を伝えようと思う。恐らくその方が、この作品をよりフラットに観ることが出来ると思うから。

主人公のモウリーンは、キーラという著名人(恐らく女優か実業家だと思う)の「パーソナル・ショッパー」を務めている。仕事は、忙しいボスの代わりに、ショップブランドから服を調達してくることだ。キーラがパーティなどで着る服をモウリーンがセレクトして届ける、そういう仕事だ。
キーラは厳しく、モウリーンが調達してきた服をモウリーンが着ることを禁じている。モウリーン自身は、いつも同じようなセーターを着て、疲れきったような表情でパリ中の、時にはロンドンのショップを周り、服を手に入れる。
ある時デザイナー(orショップオーナー)から、キーラ用の服を着てみないかと提案される。禁じられているから、と拒むモウリーン。しかしやはり誘惑には勝てず、絶対に口外しないと約束させて着てしまう。
モウリーンの、別人になりたい願望が刺激される。
パーソナル・ショッパーとして他人の服を調達し続けるだけの日々。時にMacの設定を頼まれたりと、雑用も多い。やりたいことがやれないストレスが溜まるも、他の仕事だってクソみたいであることは変わりないとも思っている。遠くの国でシステムエンジニアの仕事に従事している恋人と電話をしていても、なかなか理解し合えない。
そんな日々を過ごしていたある時、モウリーンは殺人事件に巻き込まれることになり…。
というような話です。

繰り返しますが、ここで書いた内容紹介は、予告で伝えようとしていた雰囲気のみを伝えるために、本編の内容から部分部分をセレクトして書いたものです。本編の中で、パーソナル・ショッパーとしてだけでなく、彼女はもう一つ重要な役割を担うことになるのだけど、それに関しては一切触れていない。予告では、そんな雰囲気を一切感じさせなかったからだ。実際はどんな映画なのかは自分で確かめて欲しい。

「パーソナル・ショッパー」を観に行ってきました

「君の膵臓をたべたい」を観に行ってきました



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



もし原作を読んでいなかったらボロ泣きしていたかもしれない―。
そんな風に思わされる映画だった。

原作の感想も載せておこう(こちら)。
僕はこの作品について、これ以上の文章が書けるとは思わないので、こちらでは、映画としてどうだったのか、という点をメインに文章を書いていこうと思う。


「日常」を生み出すものは何か―。
普段、当たり前のように「日常」の中にいる僕らは、そんなことを考えない。
海で泳いでいる魚が「海」について考えないように、僕らが普段生きている中で「空気」に意識を向けないように、僕たちは「日常」というものに殊更注意を向けない。

しかし、「日常」はあっさりと崩れていく。
たぶん、土台も基礎も何もないまま建っている建物みたいなものなんだろうと思う。普段僕たちは、建物の下に土台や基礎があるかどうかなんて気にしてない。建物が建ってるんだから土台もあるだろう、と思っているぐらいだろう。しかし、いざちょっとしたことで崩れた時、そうか土台なかったんだ、と気づくのだ。

「日常」も同じ。僕たちはそこに、土台があると思い込んでいる。あって欲しいと思っている。そんなに簡単に崩れて欲しくないし、なくなったら困る。だから土台はあるはず。僕たちはそういう思い込みの中で生きている。

でも、実際はそうじゃない。「日常」は実にあっさりと奪われていく。そういう実例を僕たちは日々ニュースなどで目にする。でも、それらを見ながらも思う。あれはテレビの向こう側の話。私の「日常」には関係ない話だ、と。

いつの間にか「日常」が壊れてしまった時、僕たちはどんな風に振る舞うことが出来るだろうか?

『君はただ一人、私に普通の毎日を与えてくれるんだから』

「日常」が奪われた少女は、「日常」に接しないと決めた少年と出会うことで、かりそめの「日常」を維持していく。それが、この作品の大雑把な要約だ。少女には「未来」がない。そして少年には「関係」がない。近いうちに確実に奪われてしまう「未来」に絶望しながらそれでも「日常」を生きようとする少女と、他人との「関係」に無関心でありながらそれでも他人の「日常」を支えようとする少年が出会い、その時その場でしか生まれ得なかった「日常」が生み出されていく。その「日常」は、僕らが普段生きている「日常」とは違う。彼らが作り上げた「日常」は、近い将来確実に崩れ去ってしまうことがわかっている「日常」だ。土台も基礎も、固い地盤もないことが、最初から分かっている。そんなところに二人は、なんとか建物を建てようとする。テントみたいな一時しのぎのものではなくて、堅牢で暖かさを感じさせるような建物を。

『君がくれる日常が、私にとっての宝物なんだ』

その「日常」は、彼らにしか生み出せなかった。残り僅かな命ながら明るく懸命に病から逃げずに生きようとする少女は、崩壊の予兆を感じさせる「日常」を拒み、病気のことは周囲に伏せた。しかし、一人だけ、崩壊の予兆を感じさせない「日常」を生み出してくれそうな人がいた。その少年は、『僕はただ、向き合おうとしていないだけだよ』と自分を卑下する。でも少女にとってその少年は、ある種の希望だった。自分の人生が、未来が、希望がもしかしたら奪われないかもしれない―そんな予感を僅かでも感じさせてくれる人だったからだ。それは、少女にとって逃避ではない。多くの人は、少女にとって避けられない悲しい未来ばかり見る。でも、その少年だけは、少女の今を見てくれる。今そこに、こうして立って笑って泣いて怒っている少女を見てくれる。その視線が、少女の崩れ去る未来の予感を塗りつぶすほどの強さを持っていたということだ。

『一番辛いはずの当人が涙を見せないのに、他の誰かが辛そうにするのはお門違いだから』

少年は、自分が他人との関係の中にいることが想像出来なかった。まったく望まなかったなどということはないかもしれない。でも、得るものより失うものの方が大きいと思って避けていた。他人との関係の中で生まれるものに、価値を見出すことが出来ていなかった。でも少年は少女と出会った。そこで知った。関係の中でしか生まれないものがあるのだ、ということを。少年には、少女のことが理解できなかった。何故自分なんかと関わりを持とうとするのか、クラスの中で最も地味な自分と一緒にいて楽しいのだろうか。でも少年は少女から、自分にも誰かに何かを与えられることを知った。そして自分も、誰かに与えられたもので涙することが出来るのだと知った。

僕はこの二人の関係を、とても陳腐な表現だが、奇跡、と言ってしまいたい。

大雑把な内容は、原作の方の感想を読んで下さい。
ただ映画は、原作とかなり違う部分があります。その点を中心に書いていきましょう。

原作は基本的に、少年と少女の学生時代の話だけでほぼ完結していました。少年がいかに少女と出会い、関わりを持ち、その死に接するのか、という部分だけに焦点が当てられていました。

映画では、少年の12年後の姿が描かれる。これは原作にない設定。教師となった少年は、去年、自分が通っていた高校に赴任することになった。少女と濃密な時間を過ごした、あの高校だ。そこで少年は、長い伝統を持つ図書館の閉鎖に伴って蔵書の整理を任されることとなった。実は、図書館の膨大な蔵書に整理番号を貼り仕分けたのは、12年前図書委員だった少年と少女だったのだ。

少年は、現図書委員の男子高生がやっている蔵書の整理を手伝いながら、少女との思い出を回想していく。少年には一つ、答えを出さなければならない問題がある。かつてのクラスメートから届いた結婚式の招待状に返事を書かなければならないのだ。出席すべきかしないべきか―。少年は、判断を保留したまま、蔵書の整理を続け、少女との回想に耽る。

原作にないこのオリジナルの設定は、素晴らしいと思いました。原作の雰囲気を壊すことなく、その世界観を未来にまで延長しています。12年という時間の重みを映画の中に組み込むことで、映画のラストで現れるとある展開の深みが変わってきます。12年という時間の流れの末にその展開があるからこそ、より彼らの経験や感情がどわっと押し寄せてくる、という構成は見事だなと思いました。

また、この映画で僕が個人的に良かったと感じたのは、高校時代を演じる役者さんたちが(少なくとも僕には)全然知らない人だと思えたことです。もしかしたら彼らは、役者の世界では期待されている若手のホープたちなのかもしれませんが、僕は全然知りませんでした。アイドルとか知名度の高い若手俳優を起用するんじゃなくて、(恐らく)一般的にもさほどメジャーではないだろう若手俳優を起用することで、作品をフラットに見ることが出来たなと思います。俳優のセレクトが違ったら、映画を見た感想も大きく違っていたかもしれません。

もしかしたら、原作と映画で設定が変わっていたのも、その辺りに理由があるのかもしれない、と思いました。これは完全な邪推で根拠はありませんが、アイドルとかを起用しないでくれというのは原作者の希望だったのではないかな、と。なるべく色の付いていない俳優にしてほしい、と。しかしそれだと、興行的には厳しくなる可能性がある。だから、大人になった時代の話も組み込んで、小栗旬や北川景子などの人気俳優を登場させた、ということなのかな、と思ってしまいました。仮にそうだとしても、映画に対する評価はまったく変わりませんが。

主演の女の子は凄く良かったです。この作品で求められるのは、「誰からも人気のあるクラスの中心人物で、誰にも分け隔てなく話し、辛い病気と闘いながら前向きで、それでいて哀しさが表にまったく出ないわけではない」という、なかなか難しい女の子像だと僕は思っています。そして主演の女の子はこの難しい役をかなり見事に演じていたように僕は感じました。凄く明るいんだけど、その明るさはヒマワリみたいなピカーンみたいな感じじゃなくて、スミレとかそういう大人しめの花のような感じ。だから、普段元気に振る舞っていても、ちょっとした瞬間に些細な仕草や表情で哀しみも表すことが出来る。そこが凄く良かったな、と思いました。

映画を見ながら、どの瞬間に、ということもなく、いつの間にか涙がせり上がってくるのを感じました。原作を読んでいて、その後の展開が分かっていたので、それもあって泣く所まではいかなかったのだけど、本当に原作を読んでいなかったら泣いていたと思います。原作がバカ売れした作品の映画化って、勝手ながら大コケするようなイメージがあったんだけど、この映画に関しては映画化は完璧だったと思います。原作ファンの方も、是非見てほしいなと思います。

「君の膵臓をたべたい」を観に行ってきました

QJKJQ(佐藤究)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



久々に興奮させられる作品だった。
これが新人のデビュー作とは、信じがたい。


『「正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体」市野桐清はわたしにかまわず話し続ける。「それは何のことか?国家のことだ。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの言葉だ」』

そう、僕たちは「国家」という幻想を共有している。
普段、あまりそういうことを意識することはない。「国家」などというものについて考えることはないからだ。考えなくても生きていける。

しかし、実際には「国家」などというものは存在しない。

それは、「国境線」などというものが実際には存在しないのと同じような意味だ。ここが国境だ、というような場所に言っても、僕らはそこに実際の「線」を見るわけではない。線でなくてもいい。何か、国と国とを分かつようなもの(それこそ、トランプ大統領が作ろうとしている国境の壁のようなもの)があるわけではない。「国境線」というのは、僕らの頭の中にしかないのだ。

それは、つまり妄想、ということだ。しかしそれが妄想であったとしても、大多数の人間がそれを承認していれば、それは「現実」と呼ばれる。

「国家」も同じようなものだ。「リンゴ」のように何か実体を持つわけではない。もちろん、実体の有無で存在非存在を判断するのはおかしい。例えば、「虹」は実体があるとは言えないだろう。しかし、現象としては確実に存在するといえるだろう。

では、存在非存在を分ける要素は何なのか?何故「国家」は存在しないと言えるのか?

これは僕なりの定義だが、僕は、「人間がいなくてもそこにあるもの」は「存在している」と言っていいと思う。「リンゴ」も「虹」も、人間がいるかどうかに関わらず、そこにあるだろう。

では、「国家」は?「国家」は、人間がいなくても存在しうるだろうか?

いや、しないだろう。人間がいなくなれば、「国家」など簡単に消滅してしまう。それは、太平洋に浮かぶ細長い島が「日本」でなくなるとか、そういう話ではない。「国家」という概念そのものが消滅してしまうということだ。

つまり、「国家」というのは、人間の幻想によって支えられている、ということだ。

こういうものは、他にもある。有名なのは「貨幣」だ。「貨幣」には硬貨や紙幣といった実体がある。しかし、実体があっても、「貨幣」は人間の想像の産物なのだ。何故か。こんな風に考えてみればいい。タイムマシンが存在するとして、僕らが使っている千円札を持って江戸時代に行って買い物できるかやってみよう。まず無理だろう。実体100%に対して価値があるならば、千円札は江戸時代でも使えるはずだ。使えないのは、「貨幣」というのが実体だけではなく、人間の幻想によっても成り立っているものだからだ。皆がそれに価値がある、と思い込んでいるからこそ、「貨幣」は「貨幣」としての価値を持ちうるのだ。

普段「国家」や「貨幣」などについて考えることはないが、考えてみるとそれが幻想であることが分かる。となれば、僕らが普段真剣に考えていない様々な事柄が、実は幻想であってもおかしくはない。僕だって、「国家」や「貨幣」が幻想によって成り立っているなどと、自分の思考によってたどり着いたのではないと思う。何か本を読むなりして、なるほど言われてみれば確かにそうだな、と思ったということだ。

また、幻想によって生み出される現実は、人間という共同体すべてにおける大多数である必要はない。ある集団における大多数によっても生み出され得ると思う。

例えば宇宙論の世界ではかつて、「エーテル」という物質の実在が信じられていた。これは、宇宙空間すべてを満たしている物質、として考えられていた。当時、光は何もない空間(=真空)を進むことは出来ないと考えられていた。だから、真空に思える宇宙にも、きっと何かで満たされているはずだ、と物理学者は考えた。それは観測されてはいなかったが、実在するはずだ、という多数の物理学者の幻想によって、「エーテル」という物質が仮定されたのだ。

結局、エーテルは実在しないことが証明された。それを証明した実験は、物理の教科書に載るほど有名だし、また「何もないはずの空間を何故光は進めるのか」という疑問の答えを見出したのは、あのアインシュタインである。

さて、僕は何が言いたいのか。仮にエーテルの不在が実験によって証明されていなかったとしよう。そうしたら僕らは、物理学者たちがそう考えている、という理由によって、エーテルという物質の存在を信じることになるだろう。エーテルは誰も観測したことがない物質だが、エーテルは実在するはずだ、という物理学者たちの幻想がその実在を強く意識させることになった。そして、エーテルが実在することを前提に、科学が進んでいた可能性はゼロではない。その場合ロケットや人工衛星の設計は今とは違ったものになったのではないか。

地球上の全人口に対する物理学者の数は非常に少ないだろうが、その少ない人数が幻想を抱くことによっても、現実に大きな影響を及ぼす可能性があるのだ。

そういうことが、僕らの現実に起こっていないとは、誰にも言い切れないだろう。

この作品は、ある「もしも」を描き出す。もしも、ある少数の人間たちが抱く幻想によって、僕らの生きる現実が「改変」されているとしたら…。いや、これでは表現として正確ではない。僕らの生きる現実の「意味合い」が「改変」されているとしたら…。

恐らく、本書で描かれていることは、現実にはあり得ないだろう。でも、もしかしたら…という僅かな可能性を捨てきれない。それぐらい、あり得そうに感じさせるのだ。

現実が解体されていくかのような経験を味わった者たちの物語である。

内容に入ろうと思います。
市野亜李亜。高校生。17歳。普段からスマホの電源はつけず、防犯カメラから身を隠すようにして生活している。何故か。殺人鬼だからだ。人気のない寂しい路地で声を掛けてきた男。男の車に乗ってドライブ。キスを受け入れて、ベストの内ポケットから取り出したペーパーナイフで男を切り裂く。家に帰ると、母に言われる。「どうして部屋でやらなかったの?」と。
家には<専用部屋>がある。人を殺す専用の部屋だ。母はそこに若い男を連れ込んで、シャフトで殴って殺す。兄は若い女性を連れ込んで、あごの力で喉を噛み切る。父が人を殺している姿は、一度しか見たことがない。しかし、その光景はあまりに衝撃的なものだった。抜いた血を口から飲ませて殺していたのだ。
そう、私の家族は全員猟奇殺人鬼だ。そういう秘密を抱えながら、普通の家族のように生活している。
ある日、驚きの光景を見つけてしまう。さらに、理解できない状況。父親の視線の変化から、長い間気づかずにいた秘密を知るや、父親を問い詰めた。答えは、理解できないものだった。
『誰でも目の前のものを見ずに生きている。現実を他人に教えられても信じない。それで結局、自分で向き合うこととなる』
家から離れ、現実を知ろうとする。しかし、その第一歩で早速つまづいてしまう。自分の住民票の写しを見ることが出来ない…。
というような話です。

凄い物語でした!久々にこんなとんでもない物語を読んだな、という感じです。しかも、これが新人のデビュー作というのは、ちょっと破格過ぎるだろう、と思います。びっくりしました。

正直、本書を読んだ人間なら誰でも感じるだろうけど、本書の内容については詳しく触れたくない。1/3を過ぎた辺りからの果てしない混沌、混沌を分け入って少しずつ集める情報、そして認めたくない現実。これらの衝撃的な展開を是非味わって欲しいなと思うからです。

だから、この感想の冒頭で書く話も、僕なりにはかなり気を遣ったつもりです。読み終わった人なら、僕が際どい部分を避けながらなんとかこの作品の本質的な部分を拾い上げようとしているのを感じ取ってくれるかもしれません。

もちろん僕は、本書の「現実が解体されていく感じ」も凄く好きなんですけど、それ以上に感心したのが、本書の中で「アカデミー」と呼ばれているものについてです。詳しくは書かないのだけど、僕はこの実在を100%否定出来ないなと思います。もちろん、理性的に考えれば、あり得ません。ただ、本書で繰り出される「アカデミー」の存在理由については、理解できるとは言わないまでも、そういう論理的には成り立つと思うし、賛同する人がいても不思議ではない、と感じます。もしそれを理念として掲げる人物がどこかの時代に存在したとすれば、後は様々な現実的な要素を照らし合わせながら可能か否かという話になるでしょう。人間が人類史の中で行ってきた様々な事柄を考え合わせれば、決して不可能ではないように僕には感じられます。だからこそ、あり得ないと思いつつ、完全には否定できないなと思えてしまいます。

もちろん、現実の世界で「アカデミー」が実在するのかどうか、という論点と同時に、物語の中に「アカデミー」を登場させていいのか、という問題も、また別の問いとして存在しうるとは思います。どういうことなのか、というのは本書を読めば(あるいは巻末の選評を読めば)きっと理解できると思うのでここでは書かないのだけど、僕はあまりその点は気になりませんでした。「アカデミー」を登場させるかどうかの是非よりも、登場させて場合にどう料理するかの部分が大事だと思うし、その調理法は非常に見事なものだったと思うからです。これが下手な料理人によるものであれば感じ方も変わったでしょうが、作者の「アカデミー」を取り扱う様が絶妙だったと僕は感じるので、全体としてよくまとまっていたな、と感じました。

巻末に載っていた江戸川乱歩賞の選評も読みましたけど、僕は辻村深月の評が好きだ。本作が持つ魅力と欠点を、実に巧く描き出していると思う。もちろん、応募時点での原稿から手が加わっているだろうから、辻村深月の指摘が本書に対してどこまで的確であるのか、本書しか読んでいない僕らには分からないのだけど、なるほどと感じさせる評でした。

実は僕は、この著者の二作目である「Ank」という作品から先に読みました。こちらもまた常軌を逸した素晴らしさを持つ作品です。是非読んでみてください。しかしホントに、凄い新人作家が現れたものだよなぁ、と思います。

佐藤究「QJKJQ」

響きの科学 名曲の秘密から絶対音感まで(ジョン・パウエル)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



内容に入ろうと思います。
本書は、「音楽」というものを科学的に捉え、しかも数式やグラフや楽譜などを基本的に使わずに説明する、という作品です。音楽を「科学する」というのが、恐らくイマイチ想像出来ないんじゃないかと思いますけど、例えば冒頭に、本書はこんな疑問を解き明かします、と出てきたものを書いてみます。

『音楽の音と雑音のちがいは何なのか』
『なぜバイオリン十台の音の大きさが、一台の音の二倍しかないのか』

この疑問は、なるほど、と感じさせられました。確かに、「音楽」と「雑音」の差って、説明しろと言われてもなかなか出来ません。また、面白いと思ったのは後半の疑問で、確かにそうかもな、と。僕はバイオリン十台の音なんて聞いたことないですけど、でもオーケストラとかでバイオリンがたくさん並んでいるのを見ることはあります。想像してみる時、バイオリンが十台あった時、それがバイオリン一台の時の10倍の音だとしたら、想像を絶する大きさでしょう。でも、たぶんそんなことにはならない。オーケストラの人たちが力強くバイオリンを弾いているように見えても、10倍の音にはならないだろうな、と思います。それは何でだろう?そういう、「音楽」というものを取り巻く色んな理論や状況や不思議を、科学の視点から解説していく、という作品です。

また本書は、音楽の歴史的な話もちょくちょく出てきます。個人的に意外だったのは、ピアノの歴史です。

『ピアノは1709年にバルトロメオ・クリストフォリという流麗な名前をもつイタリア人楽器製作家によって発明され、その後100年以上もかけて改良が続けられた。』

何が意外だったかというと、ピアノってもっと歴史が古いものだと思っていたんです。それこそ500年とか1000年くらいの歴史があるんだと思ってました。まだ300年ぐらいの歴史しかないんですね。それがホントに意外でした。

また、楽譜に書かれている音が時代によって違う、という話も面白かったです。その事実は、別の本でも読んだような記憶があるんですけど、より具体的に書かれていて面白かったです。

『こうした歴史上の事情があるために、世の音楽学者たちは頭を悩ましている。学者の典型的な見解に、モーツァルトの音楽は、書かれたとおりに演奏すべきだというものがある。もうひとつ、モーツァルトの音楽は、楽譜に書いたときに彼の頭のなかで聞こえていたとおりに演奏しなければならないという、これもまたもっともな見解もある』

これは一体どういうことか。かつては国ごとに、あるいは町ごとに、楽器の音は異なっていた。同じ「ド」でも、違う音だったのだ。ここまではなんとなく僕も知っていた。

じゃあ、いつ音は統一されたのか。これが結構意外だった。

『専門的な議論(口論とたいして変わらない)が何度ももたれた後、1939年のロンドンでの会合で、今日使われている音が決定された。それで現在、世界中で、フルートをはじめ、バイオリンやクラリネット、ギター、ピアノ、木琴などの西洋楽器には、標準的な音の集まりがあるのだ』

これもびっくりでした。むしろ、1939年まで音が統一されていなかった、ということに驚きました。1939年以前の音については、色んなところで当時音楽家が使っていたメトロノームが見つかっているために、今の音とは違うということがわかっているそうです。であれば、モーツァルトが「聞いていた」通りに演奏するべきだろうと思うんだけど、そうなると楽譜を書き換えないといけなくて大変なんでしょうね。

歴史の話で言えばもう一つ面白いと思った話があります。
現在音楽には「長調」と「短調」という音階方式がありますが、紀元前から続く音楽の歴史の中では、様々な音階方式が生まれては消えていったそうです。そこからどんな風にして「長調」と「短調」の二つに収斂していったのか。

『西ローマ帝国皇帝のカール大帝は、教会旋法を広く普及させようとして、これらを使わないと死罪に処すと聖職者たちを脅かした。そうして教会旋法はあまねく行き渡った。
教会旋法は数百年にわたり広く用いられたが、そのなかでも流行り廃りはあった。最終的に、十八世紀に入るころには、もとの七つの旋法のうち二つしか使われなくなっており、この二つが長調と短調として広まっていった』

やっぱりキリスト教の教会ってのはホントに色んなところに出てくるな、と思わされました。しかし、教会旋法を使わなかったら死罪って、メチャクチャだよなぁ。教会、怖っ。

科学の話で言えば、こちらも興味深い話はいくつかあります。ただ、一部を抜き出して説明するのがなかなか難しいですね。

たとえば、ギターの弦をはじく場合。ギターを弾いた経験のある人はもちろんわかっているでしょうけど、弦の中央をはじいた場合と弦の端の方をはじいた場合では音が違う。実は、どちらの場合でも、音の基本周波数は同じなのだ。しかしそれでも、音は変わる。その理由を非常にわかりやすく説明してくれている。

また、実際にはスピーカーから出ていない音を人間の耳に聞こえさせる方法も非常に面白い。例えば、90Hz以下の周波数にはあまり強くないスピーカーがあるとする。このスピーカーから55Hzの周波数の音を出したい。普通に考えればはっきりした音は出ないのだけど、方法がある。実は、55Hzの倍音の周波数、つまり110Hz・165Hz・220Hz・275Hzをスピーカーに送り込めば、55Hzがはっきりと聞こえてくる。実際にスピーカーには55Hzの周波数の音は送り込まれていないのに、である。

また、現在の西洋の音階方式の基本である「等分平均律」の話もなかなか面白い。
我々が使っている音階というのは、基本的にこういう発想で作られている。
「オクターブを12段階に分割し、その内の7つの音を使う」
僕は正直うまくイメージ出来ていないのだけど、1オクターブをまず12個の音に分割するらしい(何故12なのかは不明。書いてあったのかもしれないけど)。で、その12個の音の中から7個を選んで、それに「ドレミファソラシ」と名前をつければ、僕らが使っている音階になる、というわけだ。

1オクターブというのは、例えば弦の話で言えば、弦の長さが半分になることを意味する。つまり、1mの長さの弦をはじいた時に「ド」の音が出るとすれば、そのちょうど半分である50cmの弦をはじけば1オクターブ上の「ド」の音が出る、ということだ。つまり、1m-50cm=50cmの長さを12に分割することが求められている。その12の音それぞれが他の音と何らかの関係性を持つようにすると、音同士がうまく調和するのだという。

その理想的な形は「純正律」と呼ばれる。しかし純正律は、実は使いにくいのだという。バイオリンやチェロなど「音が固定されていない楽器」のみであれば純正律でもハーモニーを生み出せるらしいのだけど、ピアノやフルートなど「音が固定された楽器」と合わせようとすると、純正律だと不調和な音が生まれてしまうのだという。

そこで妥協の産物として等分平均律が生まれた。これは、先の例で言えば、弦の長さ50cmをそれぞれの音が同じ間隔で配置されるように12に分割するものだ。一見すると簡単そうだが、これがなかなか難しかったのだという。このやり方にたどり着いたのは、ガリレオ・ガリレイの父であるヴィンチェンツォ・ガリレイ(1581年発見)と、中国の学者である朱載◯(◯は土偏に育)(1580年発見)の二人だが、どちらも音楽界からは無視され、1800年代に入るまで普及しなかったという。可哀想やねぇ。

科学の話とはちょっと違うけど、音の大きさを測る「デシベル」の話も面白かった。デシベルという単位について全然詳しくなかったのだけど、これは「絶対的な音の大きさ」を測るものではなくて「相対的な音の大きさ」を測るものだそうです。知らなかった。

デシベルという単位は、例えば「二つの音の差が10デシベルなら、大きい方の音は小さい方の音の2倍大きい」ということらしい。だから、20デシベルは10デシベルの2倍の大きさだし、93デシベルは83デシベルの2倍の大きさだそうだ。変な単位だ。その不便さを解消するために、人間にどう聞こえるかという主観的な音の大きさを基準とする「ホン」という単位があるそうだが、デシベルがあまりにも広く使われているために「ホン」が普及しないのだという。本書の説明を読むと、「ホン」という単位の方がメチャクチャ使いやすいんだけどなぁ。

あと、著者が断言してて面白いと思ったのが、「調は特定の気分を持つ」という音楽家の意見は思い込みだ、というものだ。例えば「イ長調」は「明るく陽気」、「ハ長調」は「中間的で純粋」というような、調による気分を多くの音楽家が感じているのだという。しかし著者曰く、科学的にはそれらに違いはない、ということだそうだ。あくまでも、調の変化が重要なのだという。また、調に気分があると信じる音楽家が、それぞれの調に「合う」と感じる楽曲を多く作るから、余計その思い込みが助長されるのだ、というような説明もしていた。

とまあこんな感じで、音楽を題材に様々な事柄が描かれている作品です。難しかったりややこしかったりする記述がまったくないとは言わないけど、概ね面白く読めるんじゃないかなと思います。

ジョン・パウエル「響きの科学 名曲の秘密から絶対音感まで」

さぎ師たちの空(那須正幹)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



内容に入ろうと思います。
物語は、広島から家出してきた少年が、大阪にたどり着いたところから始まります。地元の不良中学生グループ・友和会から抜け出した島田太一は、警察から職務質問を受け、スポーツバッグと現金10万円を置いて逃げた。仕方ない、食い逃げでもするか、と思って入ったラーメン屋で、先程の警官に出くわしたのだ。いや、警官ではなかった。ただのおっさんだった。つまり太一は、騙されて10万円を奪われた、ということだ。金とバッグは返す、というおっさんを見返してやりたいと思って、食い逃げするためにとある仕込みをしたのだが、そのせいで店主らからボコボコにされてしまった。結局、おっさんに連れて行かれることになった。
おっさんは、アンポという名前らしい。状況はイマイチよくわからないが、どうやら太一の怪我を利用して、ラーメン屋から金をふんだくる算段をしているらしい。要するに、詐欺師の集団だ。太一は、成り行きから彼らの詐欺に関わることになり、その後も、大掛かりな仕掛けを用意する彼らの騙しの現場に加わることにした。政治家に似た男を利用して大金をふんだくる詐欺、ホテルに幽霊が出るという噂を流して金を取ろうとする詐欺、そしてついにはヤクザまで…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。詐欺、という犯罪を扱う作品なんですけど、全体的に凄くユーモラスに話が展開していきます。こういう物語の場合、詐欺という犯罪を正当化するために、詐欺を働く相手は悪人、つまり「清水の次郎長」みたいな感じの設定になることも多いと思うんだけど、本書では別にそんなこともなく、ただ金になりそうな案件を見つけたら、みんなで楽しそうに計画を練るわけです。なんだか、学園祭の準備でもしているような雰囲気で、みんな楽しそうです。

個人的にちょっと思うのは、何故アンポが詐欺をしているのか、という部分がイマイチよく分からなかったということです。いや、恐らく、著者的にはちゃんと理由を書いているつもりなんだと思うんです。本書では、アンポが「共産党宣言」という本を教材に、周辺住民に共産主義について勉強会をしているシーンが描かれます。そして、アンポの発言として、「金持ちから金を奪って分配するんだ」みたいなのもありました。恐らくアンポは、共産主義的な世界を実現する手段として詐欺という手法を選んでいるんだ、というような描き方なんだろうな、と思います。

ただ、そう描くには、さっきもちょっと書きましたけど、詐欺を働くターゲットの選別が甘いと思うんです。もし、富める者から貧しいものへの分配、というのが詐欺のテーマであるなら、あくどいことをして儲けている金持ちのみをターゲットにした方がいいと思うんですよね。その方が、その詐欺のテーマがはっきりと描き出せると思うんです。でも本書は、そういう感じではない。あくまでも、詐欺で金がふんだくれそうなターゲットが現れたら即座に反応する、というような感じでターゲットが決まっている、という印象を受けました。そこが弱いなぁ、と。そして、もし分配が詐欺のテーマでないとするならば、アンポが詐欺に注力する理由は明確には描かれていない、ということになります。個人的には、物語をうまくまとめるにはその辺りの描写が欲しかったかな、という感じはしました。

詐欺の中身は、なかなか面白いです。もちろん、実際にこんなにポンポンうまく行くのか、という疑問はあるだろうけど、どの詐欺も一手二手先まで周到に考えられています。しかも、「金をふんだくる」みたいな感じではなくて(最初のラーメン屋に対する詐欺は、ちょっとそういうテイストですけど)、あくまでも金を相手が自発的に出すように仕向ける、というようなやり方で仕掛けを進めていきます。特に、政治家に似た男を登場させる仕掛けでは、鮮やかだったなぁ、という感じがします。まさに、自発的に金を出させる、というのが上手くはまっているな、と。

詐欺は犯罪だけど、彼らと一緒なら、ちょっと面白そうだし、混ざって一緒にやりたいな、と思わされてしまう作品でした。

那須正幹「さぎ師たちの空」

「GOLD」を観に行ってきました



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



『カネには興味はない。金(ゴールド)に執着してた』

これは、分かるなぁ、と思った。

お金にまったく興味がないと言えば、それは嘘になるけど、人並み以下の興味しかないと自分では思っている。とりあえず僕は、衣食住にさほど興味がなく、日常的な生活にさほどお金が掛からない。お金の掛かる娯楽にも手を出していない。結婚もしていない。僕としては、お金がないせいで今の生活が維持できない、というような状況にさえならなければ、それ以上お金に関して特別望むことはない。

それよりも、お金では手に入らないものの方にやはり価値を感じる。

そんなもの、今の世の中にあるのか?と思う人もいるかもしれない。でも、僕はそれをイメージ出来る。

例えば「冒険」だ。確かに冒険をするためには、ある程度のお金がいることは確かだ。しかし、お金があれば冒険になるわけではない。このさきにはもう進めないかもしれないという判断や自然の変化を読み解く力、困難な状況を乗り越える勇気などがなければ、冒険にはならない。冒険は、お金で買えないものだと思う。

僕は、人間の能力も、お金では買えないと思っている。もちろん、大金を費やすことで能力を得やすい環境を手に入れることは出来るかもしれない。でも、僕が欲しい能力は、たぶんお金ではどうにもならない。僕は生まれ変わったら数学者か将棋指しになりたいと思っている。数学史上に残る難問を解く力や、大逆転をもたらす一手を導く力などは、どれだけ億万長者になろうとも手に入れることは出来ないだろう。

どれだけ資本主義が発達しようとも、お金では絶対に手に入れることが出来ないものというのは存在する。お金で手に入る、ということは、裏を返せば、頑張れば手に入る、という意味だ。しかし、お金で手に入れることが出来ないものというのは、無理な人にはどう頑張っても手に入れることが出来ないものだ。どちらにより大きな価値があるのかは明白だろう。

お金というのは結局、既に誰かが知っている世界を手に入れるための手段でしかない。お金で交換できる価値というのは、つまりはそういうことだ。交換レートが設定され、交換する場が既に存在している、ということだ。お金というのは結局、そういうものとの交換の役にしか立たないのだ。誰も知らない価値を手に入れようとしたら、お金は無力だ。

まあこんなことを言うと、貧乏人の負け惜しみにしか思われないんだろうけどなぁ。

内容に入ろうと思います。
ケニーは、祖父が興し、父が大きくしたワショー社を受け継いだ。鉱山を見つけ発掘するのを生業とする会社だ。しかしワショー社は廃業寸前まで追い込まれる。株価は4セントまで下がり、ケニーが語る儲け話に乗る人間はほとんどいない。ケニーは完全に追い詰められていた。
ケニーが思い出したのは、マイク・アコスタという男の名前だ。マイクはかつて、自ら打ち立てた理論によって銅山を発見した。彼女にプレゼントした金の腕時計を質屋に入れて旅費を作ると、ケニーはマイクに会いに飛んだ。
業界では彼の理論はほら話だと受け取られている、と語るマイクの話を聞きもせず、ケニーは自らの熱量をマイクにぶつける。掘りたい場所があるなら掘れ。金は俺が用意する。
こうして、インドネシアでの金鉱発掘のプロジェクトが立ち上がるのだが…。
というような話です。

「170億円(億ドルだったかな?)が一瞬で消えた」みたいなコピーがポスターにあって、面白そうだなと思って見てみました。あ、実話を基にした話だそうです。でも、なかなか予想外の展開になって、すげぇなこれが実話なのか、という感じで見ていました。

たぶんストーリーの展開が映画の肝なので、あまり詳しく書きすぎないようにしようと思うのだけど、とにかくアップダウンを繰り返す、なかなかの波乱万丈記という感じです。ケニーはどん底まで追い詰められるも、マイクを仲間に引き入れ一発当てようと目論みます。『俺達が売るのは儲け話、つまりあんただ』とマイクに言うように、かつて銅山を当てたマイクに対する期待の高さから金を集めるケニーは、心底からマイクの力を信じてすべてを託します。

しかし、発掘はなかなかうまく行かない。理由の一つは金が尽きかけているからですが、もう一つ、現地労働者が去ってしまう、というトラブルもありました。この状況をどう脱するか―そこでマイクが取った行動は、なかなか良かったなと思います。必要なものを必要な場所に届ける、ということの大事さを感じさせられたエピソードでした。

その後の狂乱は、ここでは書かないでおくことにしましょう。ケニーは、非常に分かりやすい成功を収めるけど…というような展開になっていきます。なかなか壮大な話で、もう一度書くけど、これが実話なんだなぁ、という感じで見ていました。

あまり深さはないけど、エンタメ作品としてはなかなか面白い映画だったかなと思います。

「GOLD」を観に行ってきました

「人生タクシー」を観に行ってきました



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



そこまでつまらなかった、というわけではないのだけど、結果的に途中で寝てしまった。だから、映画全体をちゃんと見れていない。

この映画は、イランの有名(らしい)なパナヒという映画監督による作品です。「作品です」と書いたのは、これがフィクションなのかドキュメンタリーなのか、僕にはイマイチ判断できなかったからです。

まずは全体の設定を書いておきましょう。
パナヒ自身がイランで、タクシードライバーをしている。町中で色んな人を乗せ、下ろす。その様子を、車内に取り付けた何台かのカメラで切り取っていく。という映画です。

なんでそんなやり方で映画を撮ろうとしたのか。それは、パナヒがイラン当局から映画撮影を禁じられているから、だそうです。どうして禁じられたのかは、映画を見ている分には分かりませんでしたが、作中に登場するパナヒの姪が、「イランで上映可能な映画の条件」について語っている場面がありました。「女性はスカーフを巻いている」「男女が交わらない」などなど色んなルールがあり、恐らくパナヒはそのいずれかに抵触したのでしょう。

これだけであれば、なるほどルールの網をかいくぐって面白いやり方でドキュメンタリーを撮ったのだろう、と思うでしょう。しかし作品を観ていると、単純にそうとも思えないのです。

というのも、作品の中で色んなことが起こりすぎるからです。

基本的にこの作品は、とある一日の情景として切り取られます。まず最初に、ちょっと強面の男性とスカーフを巻いた女性を乗せ、二人が「軽い罪で死刑にしたがる現状」について議論します。そこから色んな人を乗せながら話が展開していくんですけど、ホントにこれ実際に起こった話なのかな、と思ってしまうような展開もあります。

その最たるものが、交通事故にあった男性を病院まで搬送する場面です。まあもちろん、そういうこともあり得るでしょうけど、パナヒという映画監督が運転しているタクシーにたまたまそんなことが起こるもんだろうか、と思ってしまいました。

その後やってきた、金魚を抱えた二人組の女性もおかしかったし、そんなことを言ったら冒頭に出てきた強面の男性もちょっと変です。これが、何日かに渡って起こった出来事を編集で繋いだ映像なら、全然理解できるんです。でもこの作品は明らかに、一日に起こった出来事として記録されています。だから、「人生タクシー」の中で起こる出来事にはすべて脚本があって、つまりフィクションである、という考え方も出来るだろうな、と思います。

この映画について何か調べたりはしていないので、実際のところどうなのか分からないのだけど、フィクションであるにせよドキュメンタリーであるにせよ、試みとしてはとても面白いと思いました。

作品の中で、学校で短編映画を撮らないといけない、と語る男が出てきます。有名な古典映画はほぼ観たし、今は映画や本を読んで題材を探しているのだけどなかなか見つからない、という話をパナヒにします。それに対して彼はこう答えます。

『映画はすでに撮られ、本はすでに書かれている。他を探した方がいい』

これは、短いながらも実に的確で示唆に富むアドバイスだな、と思いました。確かにその通りだなと思いました。またこれは、映画撮影をまさに今禁じられている自分自身の体験から来るものだろう、という感じもしました。「映画を撮る」という枠組みを外れたところでしか映画を作れない身として何が出来るのか―その思考の果てに、タクシードライバーになる、という形を思いついたのではないか、と思うので、彼自身の実感のこもった言葉として聞くことが出来ました。

さて最後に。この映画の冒頭(という表現は正しくないですが)にはちょっとびっくりしました。突然、日本人による映像が流れ始めたんです。正直、何が始まったのか、さっぱり理解できませんでした。

最初は、とある映像編集会社にカメラを持った映画監督(最後に、森達也だと分かります)が入っていきます。カメラを持った映画監督は、どうも映画撮影を禁じられているそう。そこで彼は、「映画を撮る」のではなく「映像を編集する」という抜け道を探ります。つまり、過去に撮った映像を編集するのであれば、「映画を撮る」からは外れられるのではないか―「映画」と「映像」の論争をするような、ショートフィルムという感じでした。

そしてその後、また監督は代わります(名前は忘れました)。彼は、「もし自分が映画の撮影を禁じられたとして、それでも撮りたいと思うものは何か?」と考え、「息子しか思いつかなかった」と語ります。そして、生後1年ほどの息子を撮影した映像がしばらく続いていきます。

そしてその後に「人生タクシー」が始まる、という構成だったんですけど、イマイチ冒頭の二つの短い作品の存在意義が理解できなかったなぁ、と思いました。

「人生タクシー」を観に行ってきました

少女キネマ 或は暴想王と屋根裏姫の物語(一肇)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



向こう側に行けてしまう人間に、憧れることがある。
程度は、あまり問わない。しかも、主観的だ。あくまでも、「僕が壁を感じていること」を「容易く乗り越えているように見える人」のことを指している。

時々、そういう人間と出会うことがある。勉強でも芸術でも遊びでも人間関係でも仕事でも何でもいい。普通越えられないように感じられるハードルを、難なく乗り越えてしまう。

そういう時、自分の小ささを感じさせられる。

僕自身は、理性で自分を抑えつけてしまうことが多い。常に、自分を含めた物事を客観的に見てしまう癖がある。自分ではない自分が、いつでも自分を監視しているようなイメージだ。そして、そのもう一人の自分が見ていて「恥ずかしい」と感じてしまうようなことが、なかなか出来ない。

『圧倒的な才能というのは、他者すべてをいち観客にしてしまう。そこには嫉妬も何もない』

そういうものが欲しかった、と思う。僕は、生まれ変わったら数学者か将棋指しになりたいと思っている。しかも、圧倒的な才能を持つ数学者か将棋指しだ。誰も捉えたことのないような数学世界を数式で構築したり、誰も見たことがないような神の一手を指したりしたい―切実にそう感じてしまうことは、やはり時々ある。

ただやはり、「欲しかった」というような態度では、そもそもダメなのだろう。

『天才という言葉は、天才と呼ばれる人々に対する最大の侮辱なのです』

そう、そのことは、頭では理解できる。

天才と呼ばれる人たちは、それこそ圧倒的な努力をしているのだ。何も努力せず、天賦の才のみで圧倒的な成果を出し続けられる人はいないだろう。確かアインシュタインだったと思うが、「才能とは、努力できる天才のことである」というようなことを言ったという。確かにそうなのだ。「才能」という贈り物が外部から挿入されるのではない。努力し続けるその動きの過程そのものが「才能」と呼ばれる、ということなのだ。

『カメラには、努力だけでは行けない領域がある』

もちろん、これも一面の事実ではある。努力だけではどうにもならない。自分の内側に何かの可能性を見出すこと、そしてその可能性を大きく広げるだけの努力をし続けられること、その可能性が生み出す成果を形にし世に問い続けられること―。そうしたすべてが才能であり、才能を生むための努力なのだ。

『確かに僕は、才条三紀彦の放つ光の強さに引かれた人間のひとりである。その為に高校時代のほぼすべてをやつに侵食され、やつの使い走りとなり、やつの映画の手伝いをひたすらさせられた。それについて恨むことはない。楽しかったし、出来上がった作品も素晴らしいものであった。むしろその充実した日々には感謝したいほどである。
だが、やつは東京へと消えた。凡人たる僕に正体不明の熱を宿し、僕の人生に軌道を曲げたあげく、唐突にこの世からも消え失せてしまった。』

才能がいつ開花するか、それは分からない。だから、自分の内側に才能はないと諦めてしまうのは、いつであっても早い。早いがしかし、自分の内側の才能が見つからない以上、どう生きるかを考えなければならない。どんな生き方もあり得る。しかし、圧倒的な才能を持つ者の側で、その煌めくような光を浴び続けながら生きる―というのも、生き方としては悪いものではないのだろう。

そんな風に思わせてくれる小説だ。

内容に入ろうと思います。
十倉和成は、武蔵野にある中堅の私立大学である星香大学に通う一年生だ。熊本で二浪してまでもこの大学に入りたい切実な理由があった―ということだけを同宿である亜門次介に話してしまっていたようで、その理由を問い詰められる機会は何度もあったが、十倉はその理由を話さなかった。しかし、その切実さは実は、十倉が入学する時点で失われてしまっていたのだ。それ故十倉は、自分が思い詰めて必死の受験勉強の末に入学した大学であるというのに、日々凡庸とした日々を送っている。
彼が住んでいる友楼館は、かつて大学のあるサークルの部室であった。その名も、キネマ研究部。映画の撮影に情熱を燃やす者たちによる、ある意味吹き溜まりのようなサークルだ。
古い建物であり、建物中の音が伝わってしまうこの部屋にあって、十倉は最近大きな問題を抱えている。部屋の中のモノが無くなるのだ。「温子」と名付けた次姉が編んでくれたマフラーや、「武蔵」と名付けた100円ショップで買ったハサミが消え、ついには「どん兵衛」が盗まれた。「誰かいるのか―」誰もいるはずがないと思ってした誰何に、なんと押入れの真上の天袋のスペースから声が返ってきた。
黒坂さちと名乗った高校生のその少女は、なんと5年もその天袋に住んでいるのだという。今までよく気づかれなかったものだ。体調を崩し、「温子」と「武蔵」と「どん兵衛」を盗んだことを彼女は認めたが、十倉としてはもはやそんなことはどうでも良かった。このおかっぱの黒髪の美少女に魅せられていたのだ。
それからしばらく、十倉とさちの奇妙な共同生活は続くこととなった。さちの生活を心配した十倉が、高校生にも出来るアルバイトを探す―そんなきっかけから、二人の運命は流転していくことになる。
同じく友楼館に住んでいる久世一麿が、自分が撮る映画の主演をしてくれないかとさちにバイトを持ちかけた。そして一方で、十倉は、自分がこの星香大学に来た本当の理由を直視するようになっていく。
十倉が大学に入学する前、構内の建物から落下して命を落とした、高校時代十倉を映画撮影のために振り回し続けた才条三紀彦が最後に撮っていた映画のフィルムを見たことで、止まっていた十倉の時間が動き始めた…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。ザ・青春小説、という感じの作品で、言い回しやキャラクターの感じが森見登美彦を彷彿とさせる、と言えば、大体どんな作品かイメージはつくでしょう。映像にしたら面白そうな感じの作品です。

外枠は、よくある青春小説みたいな感じですが、中身はなかなか骨太です。本書で描かれているのは、「芸術に人生を捧げることについて」と言ってもいいと思います。学生の分際で人生を捧げるなどとは大げさ、という感じもするでしょうが、確かに彼らは、「映画を撮る」ということに人生を捧げている、あるいは捧げようとしているなと思います。

芸術というのは全般的に、向こう側に行ってしまった人間が、こちら側の表現方法で向こう側を描き出す、そんな側面があるような気がします。だから、本当に歴史に残り、人々の琴線に触れるような作品を生み出すためには、向こう側に行くしかないのだと思います。しかしそれは、努力だけではどうにもならない。努力なしではたどり着けないだろうが、ただ努力するだけでは無理なのだ。たどり着ける者とたどり着けない者がいる。

作中で才条三紀彦は、たどり着けた者として描かれます。彼の遺作となった、未完の映画「少女キネマ」は、観る者を皆震えさせるような衝撃を伴うような映画だったわけです。

だからこそ、多くの者は、特に十倉は「何故?」と思う。才条の死は自殺か事故なのか判然としなかったが、とにかく、何故これほどの映画を撮りながら死んでしまったのか、と誰もが思うのだ。

物語の大きな軸は、才条の死と「少女キネマ」という未完の映画に関わるものだ。まさにここでは、芸術とは何か、芸術に身を捧げるとはどういうことか、というようなことが、決して小難しくなく、エンタメの皮をうまく被りながら描かれていく。

そしてもう一つの軸は、黒坂さちだろう。天袋に住み続けているという謎の少女だ。十倉は彼女に惚れ込んでいるが、父の「女は魔性だ」という言葉が刻まれているが故に、思い切った行動が取れない。とはいえ、心温まるようなささやかなやり取りは日常の中であり、その積み重ねの中で十倉の想いはふつふつと膨れ上がっていく。

さちとの邂逅と、才条が遺した「少女キネマ」が、十倉の人生を大きく動かしていくことになる。それまで十倉の人生は、ほぼ止まったままだったと言っていいだろう。本書のラスト付近まで読み進めれば、よりそう実感出来ることだろう。止まったままの人生を、彼は周りにいる個性的な面々と関わることで過ごしていく。その生き方も、決して悪くはない。しかし十倉は、才条という男の存在を知ってしまっている。普通であれば覗き見ることが出来ない世界の入り口に立った男のことを知ってしまっている。やはり、その魅力に抗うことは難しい。

この物語は、十倉が重い重い腰を上げるまでを描く物語だ。映画が嫌いだ、と公言していた十倉が、その発言を撤回するかのような行動を取るまでに、どんな葛藤があり、どんな後押しがあったのか。その過程で様々なことが描かれるが、僕が好きなのはベスパというバイクの話だ。壊れたベスパをただひたすら修理する、というだけの無為な時間を小説で描き続けるのだけど、それが十倉の人生にとってはなかなか重要な転機となる。重要なモチーフや出来事を、そうとは感じさせないように登場させながら、ただの日常として描いていく、みたいなテイストは結構いいなと思う。

若さが全開にほとばしる、疾走する青春小説、と言った感じの作品です。

一肇「少女キネマ 或は暴想王と屋根裏姫の物語」

あなたの人生の科学(デイヴィッド・ブルックス)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



本書を一言で説明しろ、と言われたら、たぶん僕は断るだろう。それは不可能だからだ。しかし、どうしてもと言われれば「脳科学の本だ」と答えるかもしれない。もう少し踏み込んで、「無意識についての本だ」と答える場合もあるだろう。

しかし、そういう説明では、本書の大半はこぼれ落ちてしまう。

別の説明をしてみよう。本書は、一つの大きな物語である。本の分類としては、間違いなく「理系ノンフィクション」というような括りになるだろう。書店でも、そういう売り場に置かれるに違いない。しかし本書は、間違いなく物語でもあるのだ。

まずはその辺りのことから書いていこう。

『だが、この本で語られる成功や幸福は、もっと深いものだ。問題とされるのは、心の奥底の部分である。無意識の感情や直感、偏見、自分でも気づいていない願望、その人の心が生まれつき持つ癖、社会からの影響など。これらはみな、私たちが日頃、「性格」と呼んでいるものに大きく関係している。そして、深い意味で人生に成功するためには、その性格がとても大事なのである。他人とうまく関わっていける性格かどうか、それが鍵となる』

ある意味で本書は、「人生の成功法則」が書かれている本であるとも言える。しかし、「人生の成功法則」と聞いて一般的にイメージするような本ではない。本書には、具体的にこうした方がいいというような提言はあまりない。あるにはあるが、それが作品のメインにはならない。また、テーマが容易にはコントロールできない「無意識」に関係する以上、分かりやすい行動を提示できない。

『心の中で、私たちが自分で意識している部分は実はほんのわずかしかなく、大部分は意識の下にある。そして、思考や意思決定の多くも、この意識下の心でなされている。幸福な人生を送れるかどうかも、多くは意識下の心のはたらきで決まるのである』

このことを、僕は他の本を読んで知っていた。「あなたの知らない脳 意識は傍観者である」という本だ。非常に刺激的で、人間に対する認識を大きく変容させる本なので、是非読んでみて欲しい。

僕たちは普段、様々なことを「自分」、つまり「意識」によって決めていると思って生きているはずだ。夕食に何を食べるのか、誰と旅行に行くか、結婚式場をどこにするか、何色の靴下を履くか…などなど、日常は決断の連続だ。そして僕たちは、自分の「意識」によってそれらの決定をしていると思って生きている。

しかし、脳科学の研究が進めば進むほど、実はそうではないのだということが明らかになってきた。

『意識は、無意識のした仕事の結果を私たちに伝えるために物語を作り上げるという、それだけが意識の仕事だというのだ』

実際に、ほとんどの決定は「無意識」によってなされている。これは、ここ最近の脳科学の研究によってかなり明確に明らかになってきた事実だ。僕たちが「意識」によって決定を下していると思っている様々な事柄は、実は僕たちの「意識」に上るずっと以前に「無意識」によって決められてしまっている。「意識」は、「無意識」の決定を「僕たち」に伝えるための役割を担っているに過ぎない、というのだ。

『ただ、長年、勉強を続ける間、私は何度も繰り返し同じことを思っていた。それは、脳や心の研究者たちが人間というものについて驚くべき洞察をしているにもかかわらず、彼らの研究結果は世の中一般に有意な影響を与えていない、ということだ』

本書を執筆した著者の問題意識は、まずここにあった。それぐらい、脳に関する最近の知見は驚くべきものであり、そしてそれらが驚くほど僕らに伝わっていないのだ。

『これまで、無意識は不当に低い地位に置かれてきたと思う。その状況を変えたいという気持ちもある。人類の歴史の中で、多くの人が知っているのは「意識の歴史」である。意識だけが自らの歴史を文章に残すことができたからだ。内側の無意識の世界で何が起きていたのか、それはまったく知らないまま、意識は自らを主役であると信じて疑わなかった。実際にはまったくそうではないのに、あらゆることは意識の力で制御できるはずと思い込んでいたのだ。自らが理解できることだけを重視し、それ以外は無視する、それが意識の世界観だった』

「無意識」の役割について知るようになれば、「意識の歴史」がいかに薄いものであるのかが理解できるようになるだろう。僕たちは、自由意志(これをどう定義するかは難しいが)によって生きてきたはずなのに、実は「無意識」という操り糸によって動かされるだけの存在だったというのだ。僕は、先に挙げた「あなたの知らない脳 意識は傍観者である」という本を読んでその事実をあらかじめ知っていたので驚きは少なかったが、それを初めて知った時には本当に驚かされたものだ。

『私がこの本を書いた最大の目的は、読者に無意識の役割を知ってもらうことである。人間が幸福になる上で、無意識がいかに重要な役割を果たすか、それを知ってもらいたいのだ。私たちの日々の行動は、無意識の世界で生じる愛情や嫌悪などの感情によってかなりの部分が決められてしまう。つまり、この無意識の感情の扱い方によって、私たちが幸福になるかどうかがほぼ決まってしまうと言ってもいいのだ』

ここまで言われてしまったら気にならない人はいないだろう。そして本書を読めば、「無意識」というものがどれだけ人生に大きく影響を与えるのか、実感することが出来るだろう。

そして、そういう実感を与えられるように、本書は物語の形式で提示されるのだ。

『私は、この本をあえて物語という形で書いた。それは、無意識の世界があまりに多面的なためだ。無意識については、様々な分野の多数の研究者が調べている。分野が違うので、それぞれが、無意識という暗い洞窟の違った場所に光を当てている。どうしても理解が断片的なものになりがちだ。しかも、その成果の多くは、学問の世界の外にいる一般の世界の人には知らされない。私は、そうしたばらばらの研究成果を何とか統合し、一般の人にもわかりやすくしたいと思った。そのための手段として物語が有効だったのだ』

本書には、ハロルドとエリカという男女が登場する。彼らは生まれ、子ども時代を過ごし、大人になり、出会い、結婚し、成功し、引退し、死を迎える。両親がどんな人物であったのか、生まれた土地柄はどうだったのか、学校で出会った友人はどうだったか、どんなコミュニティに属していてそこでどんな振る舞いをしていたのか…。本書では、そうした様々な細々した事柄を描き出す。そしてその過程で、彼らの人生を題材としながら、最新の研究結果を挟み込んでいくのだ。

『危険な試みであることは言うまでもない。脳や心についての研究はまだ初期段階にあり、その成果には異論も多い。しかも、私は研究者ではなくジャーナリストである。(中略)
それでも、私はこれを十分に取り組む価値のある仕事だと考えている。神経科学者や心理学者たちの過去三〇年間の洞察は本当に重要だからだ。政治や社会、経済、そして私たち一人一人の人生を大きく変える力を持っていると言えるだろう。私は、それをできる限り科学的妥当性を損なわないように気をつけて書いた。同時に、多少異論のあること(まったくないことは珍しいが)に関しても、思い切って、ある程度断定的に書いている』

著者は、自身の限界をきちんと理解している。研究者ではないが故に、踏み込んだ記述をしない。しかしその代わりに、ジャーナリストであり研究者ではないというある種の開き直り(と書くと語弊があるかもしれないが)によって、研究者であれば断定できないようなことを断定的にも書いている。もちろん、こういう書き方には賛否両論あるだろう。とはいえ、物語という形式を採用した時点で、一般的な理系ノンフィクションの枠組みを外れている。かっちりとした研究成果を読みたければ、個別に追うことは出来る。しかし本書は、人間の一生に影響を与える様々な事柄について一冊の本で描ききるために可能な選択をした、と捉えるべきだろう。そういう意味で、面白い試みだと思ったし、有意義な本ではないかと感じた。

本書の内容について、これ以上書くことは難しい。ハロルドとエリカの人生は、誕生から旅立ちまで、かなり細かく描かれていく。その合間合間に、最新の知見が挟み込まれる。どこかを切り出して提示する、ということがなかなか難しい本である。

しかし一つだけ書きたいことがある。「無意識」の凄さを実感してもらえるだろう話だ。

「盲視」と呼ばれる現象があるという。

『無意識の知覚の中でも特に驚くべきなのは、おそらく「盲視」という現象だろう。(多くは脳卒中が原因で)脳の視覚野を損傷した人は、意識の上ではまったく目が見えなくなる。(中略 そういう人に対する実験の詳細が描かれる) 色々な図形が描かれたカードを次々に見せ、どの図形かを当ててもらうという実験もその一つだ。見えていないはずなのに、かなり高い確率で図形を当てることができる。意識の視覚は失われたが、どうやら無意識がその後を引き継いでいるらしいのだ』

本書には、こういう様々な研究結果が、ハロルドとエリカの人生に並走するようにして描かれていくのだ。

本書は僕たちに、人生において何を重視すべきなのかを教えてくれる。具体的にどうすればいいのか、という研究こそまだ追いついてはいないのだが、結局僕たちが幸福になるためには「無意識」を良い方向に育てていくしかない、という結論になる。そう考えることで、日常的な様々な行動が変わっていくのではないかと思う。

デイヴィッド・ブルックス「あなたの人生の科学」



Ank:a mirroring ape(佐藤究)



style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



言語というのは不思議だ、と思う。

物事にはたぶん、大体「始まりの瞬間」というのがあるはずだ。宇宙の誕生で考えれば、それは「ビッグバン」ということになっている。少なくとも今のところは。ビッグバンが「始まりの瞬間」であるが故に、それ以前がどうだったのかについて、考える余地はあるが、調べる手段は(たぶん)ない。そんな風にあらゆる物事は、何らかの「始まりの瞬間」からスタートしているはずだ、と僕は思っている。

では、言語の場合はどうなのか?ごくありきたりの考え方をすれば、こうなる。ある時突然、言語を獲得した存在が現れたのだ、と。それが「始まりの瞬間」のはずだ。

しかし、ちょっと考えてみれば、この発想はおかしいということが分かる。何故なら、僕はこう考えているからだ。言語というのは最初は、コミュニケーションのために生まれたものだ、と。

僕は、この考え方が当然だ、と思っていた。言語の「始まりの瞬間」には、それほど高度な単語や言語体系はないだろう。僕らは普段言語を、コミュニケーションだけではなく思考に対しても用いるが、「始まりの瞬間」においては言語は思考に使えるほど高度なものではなかっただろう、と思うのだ。だからこそ、コミュニケーションのために生まれたのだ、と思っている。

しかしだとすると、言語を獲得した存在が「偶然」にも同時に二つ以上生まれた、と考えざるを得なくなる。そんなことが、あり得るだろうか?地球上には人間(現生人類)以外に言語を獲得した種はいない、とされている(僕は、これに対しても「本当だろうか?」と考えているが、とりあえずそれは置いておこう)。生命が誕生してから恐ろしく長い時間が経っているにも関わらず、言語を獲得した種は人間だけ。それほど低い事象であるのに、「始まりの瞬間」に言語を獲得した存在が二つ以上生まれたなどと、考えられるだろうか?

ここまで具体的に言語化していたわけではないが、人間が言語を獲得したこと、について僕が考える時、すぐさまこういう行き詰まりにたどり着いてしまう。僕には、コミュニケーションの手段として言語が生まれた、という発想しか出来なかったので、これ以上の考察はなかなかしようがない。

本書を読んで驚いた。本書は、現生人類がいかにして言語を獲得したのかについての(恐らく著者オリジナルだろう)仮説をベースに物語が展開していく。それがどんな仮説なのかは、物語の後半で明かされる、この物語の肝となる部分なのでここでは触れない。とにかくその仮説は、「あり得る」という感覚を抱かせるに十分な説得力を持っている(本物の研究者が読んだらどう感じるのか分からないが)。

本書の登場人物の一人もそうだが、「人工知能にいかに言語を獲得させるか」という研究はずっと行われている。「機械が意識を持つ」ということは、ほとんど「機械が言語を獲得する」というのと同じであり、人工知能をさらなる高みに押し上げるには、いかに意識・言語を獲得するか、という研究に進んでいくのは当然だ。

本書で提示される仮説が仮に正しいとして、じゃあ人工知能に言語が獲得できるようになるのか、と聞かれたら、分からないと答えるしかない。本書で提示される仮説は、自己言及のようなある種の無限ループの果てに言語が生まれた、とするものだ。恐らく機械にも、その無限ループを実現することは出来るだろう。しかし、人類の祖先がその無限ループの果てに変化させたのは塩基配列だ。人工知能の場合、無限ループの果てに変化させられる可能性があるものはプログラムしかないはずで、しかし本書の仮説が要求する変化は、無限ループによる自己言及を経ずとも、人間の手でプログラム出来るものなのではないか、という気もする。しかしそうだとすれば、無限ループを経て言語を獲得した、という仮説が成り立たなくなるわけで、どうなるのだろうか?

そういう疑問はともかく、本書の仮説がもう一つ魅力的なのは、人類の進化に関するもう一つの謎も解決している、という点だ。
それは、何故地球上に存在する「ヒト」は、「現生人類」のみなのか、という謎だ。例えば犬であれば、土佐犬もいればゴールデンレトリバーもいる。犬は人間による交配によってその種を増やしているという事情もあるから特殊かもしれないが、しかしゾウにしろペンギンにしろ、それぞれの種には複数の属が存在する(学術的に用語の使い方を間違っているかもしれないけど、意味は通じるでしょう)。
しかし「ヒト」の場合は「現生人類(ホモ・サピエンス)」しかいない。

我々は我々自身のことを「ホモ・サピエンス」と呼んでいる。ラテン語で「ホモ」というのは「ヒト」という意味だ。何故僕らは僕ら自身のことを、ただ「ヒト」とだけ呼称しないのか。

それは、「ホモ・サピエンス」以外にも「ヒト」がいた証拠があるからだ。「ホモ・エレクトゥス」や「ホモ・ルドルフエンシス」など、我々と非常に似た者たちがいた。しかし、今はもう存在しない。「ヒト」という種には「ホモ・サピエンス」しか残っていないのだ。

何故か。この理由は未だに明らかになっていない。そして本書の仮説は、この謎にも明快に解を与えるのだ。

つまりこういうことだ。「現生人類」以外の「ヒト」は、言語を獲得するための過程において姿を消さざるを得ず、「現生人類」のみがその過程を生き延び言語を獲得したのだ。

非常に刺激的な仮説だ。しかし、恐らくこの仮説が仮に正しかったとしても、実験によって証明することはかなり困難だろう。物理学には「ひも理論」と呼ばれる、理論だけなら非常に美しく精緻な理論が存在する。しかしこの「ひも理論」、物質に関してあまりにも微小な前提を設けているが故に、現在の、そして恐らく未来の技術でも「ひも理論」が要求するレベルの微小さを観察出来ず、仮に「ひも理論」が正しいとしても現実の世界でその正しさを実証する実験を行うことは不可能だろう、とされている。本書で提示される仮説も、似たような宿命を持っているのかもしれない。仮に正しいとしても、現実の世界での検証は不可能。

そう思えばこそ、この物語で提示される「フィクション」が、現実世界では絶対に行うことの出来ない実験の「シミュレーション」のように思えて、ただの「物語」ではない感じを抱かせるのだ。

内容に入ろうと思います。
2026年10月26日。後に「京都暴動」と呼ばれるようになる信じがたい事象が発生した。突如人々が凶暴化し、近くにいる人間と命尽きるまで素手で殴り合うのだ。しばらくすると彼らは正気を取り戻すが、正気を取り戻す前に命を落とす者が大半だ。しかも仮に生き残っていたとしても、自身が暴徒化していた時の記憶は失われており、何が起こっているのかを証言できる者は皆無。「京都暴動」は京都のあちこちで散発的に発生しながら、京都以外の場所でも惨劇を引き起こすことになった。動画サイトで共有された映像により、「AZ(Almost Zombie ほとんどゾンビ)」と呼称されたり、病原菌や化学物質の蔓延によるものではないかという噂が世界中を駆け巡ることになる。しかし、最終的にその原因が人々の公表されることはなかった。
京都大学で研究を続けていた鈴木望は、ある日を境に人生が大きく変わった。今では、京都に莫大な敷地を有する施設を持つ、KMWP(京都ムーンウォッチャーズ・プロジェクト)の総責任者として、世界中の優秀な研究者のトップに立つ存在だ。2年前までは、そしてある意味では今でも、ほとんど無名に近い研究者であったにも関わらず、だ。
望をKMWPのリーダーに据えたのは、天才的なAI研究者だったダニエル・キュイだ。シンガポール人であり、北米ビジネス誌が選ぶ<世界で最も影響力のある100人>にも選出されたことがある。巨額の資産を有するIT企業の最高経営責任者であり、また人間と遜色のない会話をこなすAI用言語プログラムを開発した天才研究者でもある。しかし彼は今AI研究の第一線から退き、望をトップに据えたKMWPの出資者になっている。
望が研究しているのはチンパンジーだ。KMWPを京都に設置する案を提示したのは望であり、それは<京都大学霊長類研究所>が連綿と積み上げてきた研究風土が、京都を世界の霊長類研究のトップの地へと押し上げたからだ。KMWPでは、チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オランウータンの四種しか存在しない大型類人猿の研究を通じて、「人類が、どうして人類たりえているのか」を追い求めようとしているのだ。KMWPはマスコミ向けに研究施設を公開する予定であり、その取材のためにやってきたサイエンスライターであるケイティ・メレンデスは、その公開前に望の独占インタビューを取ることに成功する。ケイティは長くダニエル・キュイを追いかけており、その関心の延長線上にKMWPがあったのだ。
南スーダンに派遣されているUNMISS(国際連合南スーダン派遣団)は、検問所を通過しかけた貨物トラックを止めた。先頭グループが資金源確保のために人身売買を行っているという情報が届いていたからだ。そのトラックから見つかったのは、しかし人間ではなく一匹のチンパンジーだった。ウガンダ野生生物局で、施設許容量の限界から受け入れを断られたUNMISSは、廻り巡ってKMWPにチンパンジーを預け入れることとなった。そのチンパンジーに望が付けた名前は「アンク」。
この「アンク」が、人類進化の謎を解く「鍵」となるのだが…。
というような話です。

これはホントにとんでもない物語でした!メチャクチャ面白い!「虐殺器官」や「ジェノサイド」に匹敵する傑作というのは、大風呂敷ではないと感じました。

物語は基本的に、鈴木望という研究者を中心に進んでいく。鈴木望にインタビューをする女性記者・ケイティ、鈴木望に投資したダニエル、鈴木望の配下にいる様々な研究者、そして鈴木望自身の来歴や思考。こうしたものが物語の冒頭から中盤を動かしていく。もちろんそこには、「京都暴動」と呼ばれる謎の事象の断片が差し込まれるわけだけど、その段階では「京都暴動」で何が起こりどう状況が展開したのかはほとんど分からない。

鈴木望の物語に、「アンク」と名付けられた一匹のチンパンジーが紛れ込むことによって、事態は大きく展開することになる。「アンク」の存在が、鈴木望と「京都暴動」を結びつけることになる。とはいえ、その結びつきが理解できたところで、「アンク」が何を引き起こしたのかということは分からないままだ。

そこには、本書の核となるとある仮説が横たわっている。いかにしてこの仮説を「真実らしく」見せるのか―。この作品で描かれる様々な要素が、その一点のために存在すると言っても言い過ぎではないだろう。とてもではないが、一般人には予測することの出来る仮説ではなく、しかし提示された仮説は、難しい点もないではないが、理屈としては比較的すんなり受け入れられるように感じられる。「何故言語を獲得したのか」という非常に大きな難問に対して、非常にそれらしい説明がつけられている。見事だ、と感じた。いくつかの科学的な事実を巧みに結びつけて、一つの大きな「虚構」(証明されていない段階では、すべての仮説は虚構と呼んでいいだろう)を生み出す手腕は素晴らしいと言う他ない。特に、僕が「言語の獲得」に対して考えていた、「他者とのコミュニケーション」という大前提をまったく介在させずに「言語の獲得」を説明する仮説はとても魅力的だ。

「言語の獲得」と「京都暴動」がどう結びつくのか、それは是非とも読んでみて欲しい。「ヒト」が本能の奥底に持っている「はず」の衝動を呼び覚ますことで生まれるものによって「京都暴動」は引き起こされている、ということになっている。凄まじい想像力に惚れ惚れする。

本書では、ほぼすべての人間が、とある条件下では「京都暴動」を引き起こす加害者(暴徒者)になるのだが、その条件下でも暴徒者にならずに済む者もいる。何故暴徒者にならずに済むのか―、そのまったく別々の理由を複数用意しているところも非常に面白い。特に物語の後半で登場するある少年の存在は興味深い。とある症例により、「京都暴動」を引き起こす条件を逃れられているのだが、その症例を僕は聞いたことがなかった。調べてはいないが、恐らく実際に存在する症例だろうと思う。最も根源的な理由によって、「京都暴動」を引き起こす条件を免れているこの少年の存在感は非常に強く、インパクトがあった。

真実に近づけば近づくほど、世界は奇妙な振る舞いをする。ビッグバン直後の宇宙の想像を絶する環境や、微視的な物質の常識では捉えられない振る舞いなどはその一例だろう。数学でも、「無限」というものはうまく扱うことが出来ない存在だ。それが真実に近ければ近いほど、僕らの常識では測ることが出来ない状況が現出する、ということであれば、本書で描かれる虚構もまた、真実に近づいていると言えるのかもしれない。いかに言語を獲得したのか、という真実を追求する過程で不可避的に引き起こされることになった「京都暴動」の存在は、神や人間そのものと言ったある種の「タブー」に、科学が接近しすぎることを抑制するようなインパクトも持ちうると感じるのは、僕の考え過ぎだろうか。

佐藤究「Ank:a mirroring ape」

«  | ホーム |  »

プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)

サイト全体の索引
--------------------------
著者名で記事を分けています

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行~わ行

乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2

BL作品の感想をまとめました

管理人自身が選ぶ良記事リスト

アクセス数ランキングトップ50

TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法

一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法

国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



------------------------

本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
14位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
11位
アクセスランキングを見る>>

アフィリエイトです

最新記事

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)