黒夜行

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「名探偵コナン ゼロの執行人」を観に行ってきました

コナンの劇場版、久々に観たけど、面白かった!
しかし、明らかに大人向けだな。絶対子供には理解できない(笑)

内容に入ろうと思います。
数日後に日本でサミットが開催されるというタイミングで、エッジオブオーシャンという商業施設がテレビで紹介されている。ここの国際会議場でサミットが開かれる予定だ。また敷地内にはカジノなども併設され、外国人観光客も見込んだ一大施設としてオープンする予定だ。
しかし、まさにサミットを数日後に控えたある日、サミット会場予定である国際会議場が謎の大爆発により崩壊した。テロなのか、事故なのか。調べを進めると、国際会議場の地下にあった調理場が爆心地であるようで、ここでガスが充満し爆破に至ったと判明した。テロであるならばサミット開催と同時に行わなければ意味がない―その判断も加わって、捜査会議は事故の方向に着地しそうだった。
しかしそこへ、公安警察の風見がやってきて、現場から黒焦げになった指紋が発見されたという。エッジオブオーシャンはまだオープン前だったため、工事関係者と、サミットの警備のために出入りしていた警察関係者しか指紋が残りようがない。そこで、その指紋を、工事関係者、そして前警察関係者のものと照合したところ、一致する人物がいた。
それがなんと、毛利小五郎だったのだ。
毛利探偵事務所はすぐに捜索が行われ、毛利小五郎のパソコンから、国際会議場内部の地図などの資料が発見され、毛利小五郎は逮捕されてしまった。
憔悴する毛利蘭。コナンは、状況を打開すべく、毛利探偵事務所の隣の喫茶店・ポアロで働く安室透の元を訪れた。彼は、毛利探偵事務所の見習いとして働いているが、その実態は、公安警察警備局の秘密組織・ZEROの捜査員だ。コナンはおっちゃんの逮捕に、公安警察の横暴を見て取るが、しかし状況を打開できるほど情報も物証もない。コナンは、おっちゃんを救うべく、謎めいた国際会議場爆破事件に挑むが…、
という話です。

先に観ていた人から、「ハリウッド映画みたい」と聞いていましたけど、まさにその通りだなと思いました。冒頭からハイスピードで事件が展開され、しかもそこに公安警察の影が見え隠れする。誰が味方で、誰が敵なのかも分からないまま事件を追うコナン。そして明らかになる事件の背景。意外な繋がり。そして、危機的状況を打開するとんでもない計画…。エンタメ的要素をこれでもか!と詰め込みましたっていう展開は、大人が見ても充分以上に耐えうる作品だし、っていうか正直、子供にはわけが分からないと思います。

この映画では、公安警察が暗躍しているんだけど、この公安警察っていうのがメチャクチャやっかいです。僕は警察小説なんかを読んで、それなりにイメージはあるのだけど、公安警察というものに何のイメージもないままこの映画を見たら、ウソでしょって思って、ここに描かれている公安警察は架空の組織なんだと思うかもしれません。まあ、実際公安警察が何をしているのか、僕も知っているわけではないんですけど、僕が本なんかを読んで理解している範囲だと、この映画で描かれている程度のことであれば、やっていても全然おかしくはないですね。

違法捜査のオンパレード、というのが公安警察のイメージなんだけど、この映画でもまさにそうで、治外法権の連発。特にラスト付近では、挙げたらキリがないくらい法律を破りまくっています(まあ、劇場版のコナンでは、そういうハチャメチャなシーンは元から多いですけどね)。特に、安室透の運転については、いやいやいやいやって感じで、死人が出ないのが不思議なくらいです。ってかまあ、そのあとコナンがしたことも、バカかお前は、って感じですけど(笑)

この映画で描かれるテロの手法は、正直充分にあり得ることで、もちろん色んな対策が取られているんでしょうけど、現実にこの映画で描かれているようなハチャメチャな状況がやってくる可能性はあるでしょう。便利になるってことは、リスクも同じくらい高まるってことだよなぁ、と改めて感じました。

最初に「はくちょう」が登場した時点で、なんとなく最後にどんな展開になるのかわかりましたけど、にしても、よくもこれだけのストーリーを展開させたな、という感じがします。僕はコナンのコミックも読んでますけど、たぶん原作を読んでない人も充分楽しめるんじゃないかな(原作を読んでないと面白くないネタはそんなになかったと思う)。

「名探偵コナン ゼロの執行人」を観に行ってきました

これからの本屋読本(内沼晋太郎)

非常に実用的な本だ。
だからこそ僕は、本書の冒頭に違和感を抱いた。

本書は、これから「本屋」を始めたいと思う人に向けられている本だ。「本屋」とカッコで括ったのは、本書で扱われている「本屋」の範囲が非常に広いからだ。本書では、「何らかの形で本を扱っている」という条件さえ満たせば、売る業態でなくても「本屋」と呼ぶし、本が売り物のメインでなくても「本屋」と呼んでいる。

さて本書は、そういう、これから「本屋」を始めたいと思う人には、非常に有益な本だ。

『今自発的に「本」に関わろうとする人の多くは、程度の差はあれ、ビジネスとして厳しいことはある程度自覚した上で、それでも「本屋」のことを考えている。そんな人が目の前にいるとき、むしろじっくりと話を聞き、考えうる限りの選択肢を示すことこそ、本に関わる仕事をしている人間のすべきことだ。それを明示することも、本書の目的のひとつである』

まさに本書は、様々な選択肢を提示する内容になっている。漠然と「本と関わりたい」と思っているだけではなかなか具体的に前に進んでいくことは難しいが、本書を読めば、自分が今いる状態の中で何が可能なのか、そして少し踏み出せばどこまでやれるのか、逆に何が無理でどこを諦めなければならないのか、ということが理解できるだろう。

本書には、「いかに本を仕入れるか」という話も詳細に載っている。

『「本屋をやりたい」と漠然と思った人の前にあらわれる、最初の、かつ最大のハードルが「本の仕入れ方がわからない」ことだと、ずっと感じていた。
(中略)けれどだからこそ、こんな時代にわざわざ「本を売りたい」と思った人が、「仕入れ方」などでつまづくようでは、未来がないに決まっている』

と書かれているのはまさにその通りだと感じる。僕は一応新刊書店で働いているのだが、この仕入れ方に書かれている記述で、知らないこともたくさんあった。僕は店の文庫をすべて発注し、何を返品するかの権限もあるが、文庫という形態は比較的発注も返品も容易で、注意すべきことは多くはない。自分の書店員としての経験の中では、文庫と新書がほとんどメインだったこともあって、まったく触れずにここまで来ていることもある。それは僕だけに限らず、本の仕入れ方についてちゃんと網羅的に把握している人というのは、ちゃんと担当を持っている書店員でもそう多くはないだろうと感じる。

そんな風に本書は、これから「本屋」を始めたいと思う人に実践的な知識と、妄想を加速させるようなアイデアを様々に提供する本なのだ。

さてここで話を戻したい。なぜ僕が本書の冒頭に違和感を覚えたのか、という話だ。それは、本書の対象読者をきちんと絞りきれていないように感じてしまうことが書かれていたからだ。

本書の冒頭は「本屋のたのしみ」と題して、本屋という空間をどんな風に楽しみ得るか、という様々な可能性が記述されている。僕はこのパートを読みながら、なんでこんな話が冒頭に来るんだろう、とずっと疑問だった。何故なら本書は、「本屋を始めたい」と思うくらい、本あるいは本屋に対して何か強い思い入れを持っている人に向けられている本だからだ。そういう人に対して、何故わざわざ「本屋のたのしみ」などを記述しなければならないのか、僕にはうまく理解が出来なかった。

本書がもし、「本屋や本というものにこれまであまり触れてこなかった人に、本屋や本というものとどう関わればいいのかを提示する本」なのであれば、本書の冒頭のような記述はぴったりだろう。本屋という場所は、ただ本を買うための場所なのではないし、本というのは、ただ読むだけのものではない。そんな風に考えたこともない人にしてみたら、本書の冒頭の記述は新たな発見に満ち溢れたものとなるだろう。

しかし、最後まで読めば明白だが、本書は明らかに、本屋や本について、ただそれだけの存在ではないということに気付いている人に向けられている。だって、そうでなければ、本屋など開こうとは思わないだろう。本屋がただ本を買う場所だという認識なのであれば、amazonと等価でしかないし、本がただ読むだけの存在なのであればウェブページと等価でしかない。しかし、そうではない価値を既に認めているからこそ、本屋を開きたいと考えているのだ。そういう人たちに向けて、本書の冒頭にある「本屋のたのしみ」を読ませる意味はなんだろう?と、僕はずっと違和感を拭えないまま読んでいた。

第二章からは、少しずつ実践的な話になっていって、中盤からはもう完全に、これから本屋を開きたいと思う人に向けられた記述になっていく。だから、冒頭の第一章だけが、僕にとっては大きな違和感だった。

その点さえ除けば、「本屋」というものの可能性や実務全般に関する網羅性という意味で、非常に有益度の高い本だと言える。既に本屋で働いていて、自分なりに本の売り方を日々模索していて、これまでの常識の範囲外のことに色々手を伸ばしている(つもり)の僕には、正直なところ、そこまでグッとくる記述はなかったのだけど、ところどころ、なるほどと感じさせる文章があって、頭の中がクリアになる感じがした。

本とは何か、という定義について、本書では様々な寄り道をした上で、こんな結論に行き着く。

『けれど少なくとも、「本とは、問いを立てる力を養うものである」と定義してみることは、本が未来の人間にとっても必要なものであり続ける、その可能性につながっている』

これは僕も非常に賛成だ。非常に納得感のある記述だった。

本を読むという行為は、映像などと比べればまだ能動的なものだが、それでも、あまり頭を働かせずに読んでしまえば、著者の主張を無批判に丸呑みしてしまうことにもなりかねない。別にそれが完全に悪いわけではないが、批判を加えながら読む、というのもまた本の使い方だ。そしてその意味においては、ネットの文章よりも本の方が圧倒的に有意義だ。というのもネットで出会う文章というのは、検索や自身の興味・関心による緩やかな繋がりベースでリーチ出来る範囲で収まってしまう可能性が高い。であれば、「批判」という観点からそれらに触れることは難しい。しかし本であれば、意識的に自分の考えや価値観と違うものにも手を伸ばすことが、原理的に可能だ。そういう意味で、本にはまだまだ可能性があると感じている。

また、ことばに関するこんな記述も、非常に強い。

『世界を動かすのはことばだ。「本屋」という仕事は、どこかの誰かのものの考え方を変え、感情を動かし、その人が誰かに語りかけることばを変える力をもつ。それは、ときにおそろしく感じられる。けれど、ひとりの「本屋」にできるのは、選ぶことに誠実に向き合い続けることしかない。
自分の仕事が、この世界で「読まれる」ことば、それを通じて「話される」ことばの質にかかわるという自覚。本を手渡す回数を積み重ねることが、世界を変えていくわずかな実感。それは重大だ。けれど、蔓延する「ニーズ至上主義」に個人として抗うことができる唯一の方法だ。せめて身の回りの大切な人々が、単純な快楽に食い物にされないように、ノイズとしてのことばを、その種を蒔く。そんな手応えを感じられる仕事は、なかなかない。』

僕は、こんな風にブログに自在に文章を書けるようになって、ことばというのは本当に強い武器だと感じるようになってきた。もちろん、楽器が弾けたり、絵が描けたり、プログラミングが出来たり、とんでもない行動力があったりと、個人が持ちうる武器は様々に存在する。しかし、「ことば」というのは、人間の行動を司る基本単位みたいな感じがある。「音楽」や「絵」や「プログラミング」や「行動力」は、人の感情を揺さぶったり、新しい選択肢を生み出したりするが、しかしそれらも、「ことば」の存在を抜きにして何かを動かすことは難しいだろう。逆に「ことば」というのは、ただそれだけで目の前の現実にアプローチすることが出来るものでもある。その威力を、僕は普段から実感しているが、この強さをまだ感じられていない人に感じてもらうことはなかなか難しい。それはやはり、本を読むことを通じてしか育まれないと思うし(「しか」は言い過ぎだろうが、それに近い状況はあるだろう)、とはいえ、「ことば」というのは、「誰もが」「苦もなく」扱えるものだ、という程度の認識しかされないのであれば、なかなか本の重要度は伝わらない。そういう中で、「ことば」の威力を感じてもらえるようにする、ということが「本屋」の仕事の一側面であるとすれば、それはやはり面白い仕事だと思う。

しかしとはいえ、本屋を「仕事」と捉えると、なかなかうまく行かないだろう。

『優雅な暮らしがしたいわけではない。最低限のお金があれば、それよりも大切なのは時間だ。自分なりに、幸せを感じられる時間の使い方をしたい。今の時代を代表する価値観は、そうした方向に変化してきている。本業の傍ら、儲からなくても、自由になる時間のほぼすべてを捧げてでも「本屋」をやろうという人は、本を人に手渡すこと、本を介して人と触れ合うことに、幸せを感じる人なのだと思う。自分の大切な時間を「本屋」であることに使う。それは「本屋」として生きるということだ』

本書では、あらゆる場面で、「本屋」というものの可能性を記述する。そしてそれらのほとんどは、個人としての「生き方」に直結していく。「どう稼ぐか」「どう働くか」という問いから、「本屋」という結論を導き出すのは危険だ。そうではなくて、「どう生きたいか」という問いから「本屋」という結論に至ろう。そうであれば、「本屋」というのは、様々な可能性と魅力を秘めた選択肢となる。そう実感させてくれる一冊なのだ。

内沼晋太郎「これからの本屋読本」

北の夕鶴2/3の殺人(島田荘司)

さて、なかなかどうしたものか。
正直なところ、非常に面白くなかった。

もちろん、好みの問題も大きいし、作品の古さも大きい。僕は昔、今以上に本格ミステリが好きだったし、その頃の僕が、携帯電話が出てこず、新幹線がなく、寝台列車が日常的に走っているような時代を古いと感じないようなタイミングで読んだとしたら、本書も面白いと感じられたかもしれない。

いや、どうだろうなぁ。

島田荘司のミステリは、トリックが奇想天外でトリッキーで現実離れしている。そのこと自体は、作風なので別にいい。本作も、なんだそのトリックは?という感じではあった。トリックそのものというよりは、不可思議さの演出にちょっと無理がある、という感じで、それを奇跡的な偶然で片付けちゃったらなんだって出来るっしょ、と思ってしまった。とはいえ、まあそこも良しとしよう。トリックや謎の演出は、まあ好みの問題だと考えられる。

僕が一番受け入れ難かったのは、主人公の吉敷の行動原理だ。いや、刑事でそれは、さすがにいくら物語でも成立しないっしょ、と思ってしまった。ミステリ(特に本格ミステリ)ではよく、人間が描かれていない、という指摘がなされるし、分野としてそういう傾向を持つジャンルであるとは言える。しかしとはいえ、とはいえなのであるよ。吉敷という人物が、不良刑事とか、ロクでなしみたいな設定なんであれば別に本書のような描き方でもいいんだろうけど、たぶんそうじゃない。吉敷は、まっとうな倫理観があって、ちゃんと刑事をやっている人間として描かれていると思う。そんな男が、いくら切実な私情があるとはいえ、こんな無茶苦茶な行動を取ってたらダメだろうよ、と思うのだ。

いや、まだ吉敷という人間の行動の範囲内で収まっているならば目を瞑れる。しかし、吉敷のハチャメチャな行動を容認する他者というのが途中で登場するのだ。ウソだろ、と僕は思った。ンなアホな、と。いやもちろん、現実に吉敷のように、私情を全面に押し出しながら無茶苦茶な行動をする刑事というのは存在するだろうとは思う。しかし、それはやっぱり、物語的な説得力は持ちえないと僕は思うのだ。物語的な説得力を持たせた上で、吉敷のような行動をさせるのであれば、もちろんそれは許容できる可能性が高まると思うが、本書ではそれらしい配慮などほぼほぼなされない。

そんなわけで、ちょっとこの物語は受け入れがたいなぁ、と感じてしまった。

まあそんなわけで、内容についても特に触れずに感想を終えよう。非常に厳しい評価だが、最近伊坂幸太郎が帯にオススメコメントを書いている、という事実には触れておこう。僕には合わなかったが、すべての人に合わないというわけではもちろんない。

島田荘司「北の夕鶴2/3の殺人」

「GODZILLA 決戦機動増殖都市」を観に行ってきました

いやー、これは面白い!
この映画はシリーズの二作目で、一作目を見ていないとおそらくさっぱり理解できないだろうから、是非見てみてください。一作目の感想はこちら→「GODZILLA 怪獣惑星」を観に行ってきました

一作目では、ゴジラに侵略された地球を手放し、宇宙の放浪者となった者たちが、再度地球へと戻ってきて、ゴジラと戦うか否かという決断を迫られる物語でした。一作目の基本的なテーマは、「定住の場を失ったものたちの悲哀」と「ゴジラ討伐を決断して立ち向かう意志」と言ったところでしょうか。正直僕は、この映画がシリーズとして続くとは思っていなかったのですが、二作目である本作を見た今、一作目はプロローグとしても非常に秀逸だったと思います(もちろん、単体の作品としても素晴らしい)

本作でテーマとなるのは、「人として生きるとはどういうことか?」だ。まさかゴジラの物語でそんな深淵なテーマが用意されているとは思わなかったので、驚いた。

こんなテーマが成立するのは、本シリーズが三つの種族の混合によって展開されていくからだ。

具体的なことは一作目のネタバレに繋がってしまうと思うので詳しくは書かないが、このシリーズでは、元から地球に住んでいた「人類」以外にも、「ビルサルド」と「エクシフ」という、「人類」から見れば地球外生命体の三種族が一体となって物語が進んでいく。この三種族が共に同じ宇宙船で長きに渡り宇宙を放浪することになったのには色々理由があるのだけど、そういった背景そのもの以上に、種族としての考え方に差がある。

「人類」は、基本的に僕らと同じ感覚の存在として描かれている。「ビルサルド」は、非常に合理的で論理的な存在として描かれていく。そして「エクシフ」は宗教的な存在として描かれるのだ。全体を率いているのは「人類」であるサカキ大尉だが、それぞれの種族にリーダー的な存在がおり、サカキ大尉は彼らと様々に調整をしながら全体を動かしていく。

しかしやはり、ベースとなる種族における価値観の溝みたいなものは完全には払拭できない。そして本作では、その価値観の相違が如実に全面に押し出される展開になるのだ。

そしてその価値観の相違が、最終的に「人として生きるとはどういうことか?」という壮大なテーマに繋がっていくのだ。究極の決断を迫られることになったサカキ大尉の苦悩は、非常に深淵で難しく、スパッと答えを出せるものではない。

このシリーズは、どこからどう見ても僕らが生きている現実からかけ離れたSF作品ではあるが、ゴジラという圧倒的な悪の存在感や、圧倒的な敵を前にしながら共闘できない種族たちという構図は、受け取る側の見方によって、現実の様々な事柄と対応をイメージ出来るのではないかと思う。例えば、僕がこの文章を書いているまさに今は、北朝鮮とアメリカの首脳会談が延期されるかどうか、みたいな状態にある。僕らが現在直面している「核の脅威」をゴジラに置き換え、アメリカ・韓国・中国・日本など、北朝鮮の周辺でなかなか共闘できないでいる各国を三種族に置き換えてみると、このSF作品が現実にグッと近づくことになる。

いやしかしまあ、そんなことを考えずとも、とにかくエンタメ作品としてべらぼうに面白い作品なのだ。

内容に入ろうと思います。
見慣れぬ場所で目を覚ましたサカキは、自分が普通に呼吸できていることに気付いて驚く。2万年経過した地球の大気は、我々には適合しないはずなのに。外に出ようとしたところで、食事らしきものを持ってきた少女に出くわす。少女?まさか、ゴジラに侵食されたこの地に、人類の子孫が残っているというのか?
後を追うサカキだったが、その過程ではぐれた仲間たちと合流、フツワと名乗るこの地で生き延びているらしい種族(人類の子孫?)に連れられ、地底国へと行き着いた。そこでさらにはぐれていた仲間と合流し、彼らはフツワの助けを借りながら、母線と連絡を取る手段を模索することになる。
フツワとは直接の会話は成立しなかったが、双子らしき二人の少女が触媒となりテレパシーのような形で会話ができた。また双子の少女は驚異的な言語力を持っているようで、サカキたちの言葉を少しずつ覚えているようだった。
やがて母線と連絡を取ることに成功したサカキたちだったが、ビルサルドの面々がフツワの武器を見て何かに気づく。その発見が、ゴジラ討伐への新たな道を開くのだが…。
というような話です。

メチャクチャ面白かった!一作目も凄かったけど、本作も凄かった。だって、一作目のラストとか、いやいや、もうこれ続かせるの無理でしょ、って思うくらい、絶望的なところで終わってたわけです。どうすんの、こんなん?だって、やりようなくない?って誰もが思うようなところから、また凄い展開を考えたものです。人員も物資も圧倒的に不足しているという状態から、なるほどそんな風になりますか!っていう怒涛の展開を見せて、再度ゴジラと戦うという流れになっていくわけです。

しかし、冒頭でも書いたように、本作の場合は、ゴジラと戦うか否か、戦うならどう戦うのか、という部分は、正直なところ物語の本筋ではありません。ゴジラと戦うことに関しては、サカキ自身はずっと思い悩むが、隊全体としての結論は早い段階で下されるし、いかに戦うかという部分も、一作目と戦術としては同じだからです。

しかし、ゴジラとの戦い方の過程で、彼らは究極の選択を迫られることになるわけです。ここが凄い。まさかゴジラの物語で、こんな展開になるとは思ってもいませんでした。

僕はゴジラシリーズはまともに見ていなくて、ちゃんと見たのは「シン・ゴジラ」ぐらいです。なので全然詳しくはないんだけど、それでも、ゴジラが登場するシリーズは基本的に「ゴジラにいかに対処するか」という部分に焦点があるはずです。初期のゴジラシリーズなんかでは確かなんか強いやつが出てきたような気がするし、「シン・ゴジラ」では官僚たちが立ち向かうわけですが、やはり描かれるのは対処の過程です。

しかし本作は、もはやそんな次元の物語ではありません。もちろん、ゴジラをどう対処するかという部分は必須の要素ではあるのだけど、それは物語の核ではない。ゴジラというものを登場させることで、「生きるとはどういうことか?」を問いかける、そんな物語になっているわけです。

結局それは、進化や退化の話に繋がっていきます。2万年の時が経過した地球は、ゴジラを頂点とし、あらゆる生物がゴジラに奉仕するように進化しました。また、どうやら昆虫の遺伝子も取り込んでいるらしいフツワという謎の種族も登場します。さらに、ゴジラと対する者たちも、三つの種族の混合であり、それぞれ「生きる」ということに対する違った見解を持っています。そういう中で、何を「進化」と捉え、何を「退化」と捉えるのか―。そういう、僕らが生きているこの現実ではなかなか真剣には突きつけられない、しかし環境や生態系を破壊し尽くし、現在地球における6度目の絶滅期に差し掛かっていると言われている現状を考える上では、無視できないテーマだと感じました。

非常に面白い映画でした。まだ続くみたいなので、次も見ようと思います。

「GODZILLA 決戦機動増殖都市」を観に行ってきました

「孤狼の血」を観に行ってきました

現実というのは、常に目の前に存在している。
そして、前(未来)にしか進んでいかない。
この二つから僕は、現実というのは受け入れる以外にはない、と考えている。

こういう考え方は、僕が物理学のことが好き、という部分もあるかもしれない。
物理学というのは、現実に起こった現象ありきですべてが進んでいく。
どんなに素晴らしい着想も、どんなに整合性の取れた理論でも、それが現実と僅かでも合わない部分があるなら、それは正しい着想・理論ではない。
また、どれほど受け入れがたい現象であろうと、どれほど理解に苦しむ結果であろうと、それが現実であるならば受け入れるしかない。
現代物理学はどんどん、僕らの日常感覚を失わせる現実に直面し、普通には納得できないような理論や結果が様々に現れている。
しかしどれほど物理学が新たな理論を生み出そうとも、理論が現実に先行することはない。常に理論よりも先に現実があるのだ。

この物理学における現実と理論の関係は、現実と正義の関係に近いかもしれないと思う。
どれほど素晴らしい理想的な正義があっても、どれほど望ましい正義があっても、それは現実よりも先行することはない。まず、現実が存在する。そしてその現実という制約の中でどう正義を実現していくのか。そういう問いしかあり得ない。現実の存在を無視して、理想の正義、望ましい正義を追求したところで、どこにもたどり着かない。いや、辿り着く場合もあるかもしれない。恐らく歴史に詳しい人であれば、そういう事例をいくつも取り出せるのだろう。しかし、そうではないのだ。仮に正義が現実に先行するように見えたとしても、それはたまたまであり、ラッキーだったということに過ぎない。理想を追い求めた正義が、たまたまその時の現実と整合していたというだけに過ぎない。現実と整合しない理想につられるようにして、現実が劇的に変化するなどということはまずあり得ないだろう。

正義は、現実の奴隷なのだ。

理想的な正義の存在や、それを追い求める人のことを非難したいのではない。それらは、世の中にとって存在だとは思う。誰もが、理想的な正義を諦めている社会は、荒みきって悪くなる一方だろう。

しかし同時に、現実の中に可能な正義を埋め込もうとする人の存在を無視していい、ということにはならない。現実の中に埋め込める可能な正義は、時として「悪」に見えるかもしれない。しかし、それが現実の求める「解」なのであれば受け入れるしかない。

現実は、いつだって強い。だから、それに負けない正義を埋め込むためには、時には悪魔に魂を売り渡さなければならないことだってあるだろう。大事なことは、その正義を、理解してくれる人がいるかどうかだ。

内容に入ろうと思います。
昭和も終わろうとしている頃の広島・呉原には、尾谷組と加古村組という二つのヤクザ組織が覇権を争っていた。14年前に大規模な抗争から小康状態が続いてはいるものの、呉原には常に火種が燻っているような状態だ。
呉原東警察署に異動になった日岡は、みんなから「ガミさん」と呼ばれている、大上というマル暴刑事と組むことになった。大上は、メチャクチャだった。日岡に、パチンコ屋にいた組員にイチャモンをつけさせ、日岡がボコボコにされたところでネタを強請る、など朝飯前。昵懇にしている尾谷組から金を受け取り、時には放火してでも情報を取ってくる。そんな大上のやり方に、日岡はイライラを募らせていく。
呉原金融という闇金の金庫番が行方不明になっている、という情報を掴んだ大上は、この線で加古村組を壊滅させようと目論む。その失踪に、加古村組が絡んでいると見ているのだ。しかし、街中での小競り合いによって、尾谷組の組員が射殺されて死亡、尾谷組が報復しようとするのを大上がなんとか止めている―そんな一触触発の状態になってしまっていた。
三日―大上が尾谷組から与えられた猶予だ。それを過ぎれば、尾谷組は加古村組に大々的に戦争を仕掛ける。三日で加古村組を壊滅させるべく、金庫番の線を洗う大上はさらに違法なやり方で捜査を続けるが…。
というような話です。

原作も面白かったですけど、映画も面白かったです!特に映画の方が良かったのが、やはり複雑な人間関係がスパッと理解できるところですね。原作だとどうしても、◯◯組の××と名前で覚えなければならないので、人間関係を把握しきれません。しかも、どの組がどの組の傘下で、誰と誰が兄弟分で、みたいな話はややこしすぎて結構辛い。映画では、その辺りの複雑さがストーリー的にも緩和されているし、さらに、どこの誰かなんて言わなくても顔を見ればどっちの組の人かはすぐ認識できる。そういう意味でこの作品は、映画の方がより親しみやすいかもしれない、と思います。

僕は任侠映画って基本的に見たことないですけど、ちょっと古くさいタッチの映像で、たぶん昔の任侠映画を意識して撮っているんだろうな、と感じました。今の時代は、暴対法なんかがヤクザをがんじがらめにしてて、この映画で描かれているような暴力的なことをちょっとでもやれば組が壊滅、みたいなレベル(だと思う)んで、現代を舞台にしてはこういう話って成り立たないでしょうけど、昭和が終わろうとしているという時代や、広島という土地が、この作品をうまく成り立たせているな、と感じました。

しかしまあ、キャラの濃い面々ばっかりで、面白かったです。主役の一人である日岡(松坂桃李)の影の薄いこと薄いこと(笑)。みんな「じゃけえ」みたいな広島弁で喋るし、ヤクザとか警察とか夜の女性たちなど、特に肝の座っている人たちの話なんで、迫力がすごいですね。特に僕は、大上が懇意にしているクラブのママである梨子(真木よう子)が良かったなと思います。顔立ち的に、夜の女性がハマり役だなぁ、って思っちゃいました。ほとんどが男ばかりの物語の中で、ヤクザや警察とまともに張り合える唯一の女性キャラ、という点も、彼女を際立たせて見せていた部分だと思います。

しかしまあなんと言っても、主人公の大上(役所広司)の存在感は圧倒的でした。僕は俳優のことをそこまで詳しく知っているわけではないですけど、日本の俳優で大上の役が出来る人って、そう何人もいないだろうと思います。ただ「怖い」だけの存在ではなくて、硬軟使い分けられるような存在感があって、でも怖い部分はメチャクチャ怖い。ある種の狂気を宿せる人で、それに納得感を与えられるような演技が出来る人ってあんまりいないだろうし、役所広司はハマっていたと思います。

ストーリー自体は、原作を読んでいて知っていたので、ある程度先の展開がわかる形で見ていましたけど、知らないで見たら、ストーリー的にも相当引き込まれる作品だと思います。実際、原作で読んだ時は、グイグイ読まされましたからね。

男臭い映画ですけど、たぶん女性が見ても楽しめると思います(それは、呉原の常識に馴染んでいない日岡(松坂桃李)の存在が大きいと思いますが)。

「孤狼の血」を観に行ってきました

ののはな通信(三浦しをん)

僕には、うまく理解できない感情がある。
「嫉妬」だ。

「嫉妬」にも色々あるから、すべての「嫉妬」を理解できないのかというのは分からない。ただ、ここで僕が書きたいことは、恋愛における「嫉妬」だ。

恋愛における「嫉妬」は、基本的に排他律を前提にしている。

排他律というのは、「AでなければB。BでなければA」というタイプの理屈だ。白と黒のボールしか入っていない箱の中から何か一つ取り出した時、「白でなければ必ず黒」だし、「黒でなければ必ず白」だ。「白でもないし黒でもない」とか「白でもあり黒でもある」などということはあり得ない。

恋愛における排他律はこうなる。「私のことが恋愛的に好きなら、私以外の人のことは恋愛的に好きではない」「私以外の誰かのことが恋愛的に好きなら、私のことは恋愛的に好きではない」

僕には正直、この理屈がよく分からないのだ。白と黒のボールの話ではあり得なかった可能性は、こちらの場合では充分にあり得る。「私のことも、私以外の誰かのことも恋愛的に好き」ということも、「私のことも、私以外の誰かのことも恋愛的に好きではない」ということもあり得る、と僕は考えている。

恋愛的な「嫉妬」というのは、この排他律を前提にしなければ成立しないはずだ。何故なら、「私以外の誰かに恋愛的な好意を示している」=「私のことは恋愛的に好きではない」という判断をするからこそ、「嫉妬」という感情が生まれるのだと思う。

僕は、少なくとも恋愛においては排他律を採用するつもりがない。だから、「嫉妬」というのがよく分からない。「嫉妬」に似た感情が生まれるケースもある。例えば、自分が好意を抱いている人が、「僕には好意を示さない」が「僕以外の人には好意を示している」という状況なら、「嫉妬」に近い感情を抱くこともある。しかし、「僕にも好意を示している」し「僕以外の人にも好意を示している」という状況なら、「嫉妬」に似た感情は生まれない。排他律を採用しない僕は、両者は共存しうるのだ。

「この人を独占したい」という感情が、誰かを想う強さのバロメーターとして標準化されているのだろう、と感じる。しかし、本当にそれが想いの強さを測るバロメーターとして正しいのかどうか、僕にはうまく判断出来ない。「本物の愛」とか「運命の出会い」とか、そういう言説は世の中に様々に存在するし、あると認めていいのかどうかも分からないそういう存在を目指して誰かを想うのも自由だと僕は思うのだけど、けれど、そういう形でしか「本物」「運命」を感じられないとしたら、またそれはそれで寂しいんじゃないかな、という気もしてしまうのだ。

内容に入ろうと思います。
横浜のミッション系のお嬢様学校に通う二人の少女、野々原茜(のの)と牧田はな。二人は大の親友であり、携帯電話などまだない時代に、時間を惜しんでは手紙を送り合ったり、授業中にメモを回したりして、濃密なコミュニケーションを取り続けてきた。同じ高校の女子生徒が、男性教師と付き合っているという噂があって、その真偽に翻弄されたり、お互いのなんてことのない日常の報告や、勉強の手助けなど、少女らしいやり取りを続けていく。
しかしやがて二人は、友情以上の関係になっていく。お互いがお互いの存在なしには立っていられないような、片時も離れていたくないような感情のほとばしりを常に感じている。
しかしやがて二人の関係は激変を迎えることになる…。その時から、二十数年に及ぶ二人の関わりを、書簡のみによって描き出す小説。

三浦しをんらしいなぁ、と感じました。三浦しをんはBL(ボーイズラブ)が好きで、そういう意味で同性愛的なものに親しんでいるし、三浦しをん自身(確か)結婚していないはずなので、彼女たちの関係性や発言などに、自分の来し方を織り交ぜている部分もゼロではないだろう、と思います。

正直な感想はこうなります。たぶん凄く良い作品だと思う、けど僕には合わなかった。

何故そう感じたか。主人公が女性であるとか、同性愛が描かれているとか、そういう部分は別にどうでもよくて、やはり僕は、冒頭で書いたように、「嫉妬」(特に恋愛における「嫉妬」)がうまく理解できないからだろう、と思う。

僕の中には、ののやはなの中にある「激しさ」はない。それを「情熱」と呼ぼうが「愛」と呼ぼうが「欲」と呼ぼうが何でもいいのだけど、「相手のことをすべて知りたい」「相手を独占したい」「自分以外の誰かに心を向けないで欲しい」というような感覚が僕の中にあまりにもないので、彼女たちの切実さみたいなものをうまく捉えられなかった。

少なくともこの点において、僕は特殊な人間だと思っているので、本書を読んで僕のように感じる人間はほとんどいないだろうと思います。だから恐らく、ごく一般的な人が本書を読めば、彼女たちの辛さ、悲しさ、必死さみたいなものがきっと理解できるのだろうし、そうであれば、膨大なやり取りを通じてお互いを深く深く知ろうとする彼女たちの高潔な関係性に非常に強いものを感じるのではないか、と思います。

読んでいて印象的だったのは、往復書簡の設定が非常にリアルだったこと。こういう形式の小説をそこまでたくさん読んだことがあるわけではないのだけど、大体の場合、物語を成立させるために、「本来であれば二人のやり取りの中に絶対入るはずのない読者向けの記述」みたいなものが紛れ込んでしまうことが多いと思います。ただ本書の場合、注意深く読めば色々出てくる可能性はあるけど、基本的にはそういう「読者向けの記述」だと感じる箇所はほとんどありませんでした。二人が実際に何らかの書簡でやり取りしている場合、こういうペース、こういう記述、こういう記述のなさになるよな、と想定出来るような感じになっていて、その辺りはさすがだなと感じました。

三浦しをん「ののはな通信」

大栗先生の超弦理論入門(大栗博司)

いやはや、メチャクチャ面白かった!

「超弦理論」と聞いて、「うわっ、難しそう」と思った方。はい、正解です。メッチャ難しいです。本書は、メッチャ分かりやすく書いていると僕は感じられますけど、それでも文系の人にはちょっとついていくのは無理だろうと思います。まあ、「超弦理論ってなんぞや?」的な話はおいおい書いていきますが、まずは理論そのものよりも、著者が本書を通じて問いかけたかった事柄の一つに触れてみたいと思います。

それは、「空間というのは幻想かもしれない」ということだ。

何を言っているのかよく分からないだろう。僕も、最初は何を言っているのか分からなかった。というわけでまずは、物理学において「空間」というものがどんな風に捉えられてきたのかを書いていこう。

まずはニュートン。万有引力の法則を生み出した超天才ニュートンは、「絶対空間」というものを考えました。これが一番、僕らのイメージにそぐうものだと思います。「絶対空間」というのは要するに、「『空間』という大きな箱が存在していて、それは変化せずに不動だ」みたいな感じです。僕らは、「◯◯ビルの3階で待ち合わせ」みたいなことをやりますが、これは「緯度」「経度」「高さ」の三つを指定することで、空間の中の一点を指定している、ということになります。「絶対空間」は、そういうことが出来るわけですね。

で、その「絶対空間」を否定しちゃったのが、これまた大天才のアインシュタイン。彼は相対性理論を生み出し、それによって、「空間も時間も相対的だよ」と言いました。どういうことか。太郎・二郎・三郎の三兄弟がいるとします。太郎は教室にいて、二郎は学校の傍を通る電車に乗っていて、三郎はグラウンドにいるとしましょう。ニュートンの「絶対空間」なら、太郎のいる位置(教室の位置)は、二郎から見ても三郎から見ても同じです。だって、不動なんですから。でもアインシュタインの場合は違います。アインシュタインは、例えば動いている二郎が捉える太郎の位置と、止まっている三郎が捉える太郎の位置は違う、と主張します。アインシュタインは、両者の間に相対的な速度差がどれだけあるか(この説明で正確なのか自信ないけど)で、物体の位置や長さや時間の流れが変わる、と主張します。つまり、空間も時間も、観測者次第であり、不動のものではない、ということですね。

とりあえず今僕らは、このアインシュタインの描像の中にいます。あれ?「超弦理論」は?と思った方。いや実はこの「超弦理論」、まだ理論としてはちゃんと認められていないんです。ここからは聞き流してもらっていいですけど、この「超弦理論」は、量子論(めっちゃ小さいモノを扱う物理学)と一般相対性理論(大きなモノを扱う物理学)を融合させる最有力候補と言われてはいます。物理学にとって、量子論と一般相対性理論(というか、何らかの重力理論)を結び付けることはある種の悲願なんだけど、二つの理論があまりにもかけ離れているために、結構苦労してるんですよ。でも、この「超弦理論」ならもしかしたら行けるんじゃ!って期待されてるってことですね。ただ、物理理論というのは、何らかの予測をして、それが観測されることで初めて正しいと認められるんだけど、「超弦理論」はまだその試練をくぐり抜けていないから、ちゃんと認められているってところまで行っていないんです。

さて、そんなまだ認められていない「超弦理論」ですけど、もし「超弦理論」が正しいとしたら、空間というのはどう捉えるべきものになるのか。それが本書の主眼の一つです。

そして本書を(頑張って)読むと、「空間って幻想かも」という風に感じられるようになると思います。

とはいえ、「空間って幻想かも」っていう文章の、そもそもの意味が分かりませんよね。まずその辺りから説明してみたいと思います。

本書の中ではよく、「温度」の話が出てきます。僕らは様々な場面で「温度」と日常的に関わることがあるし、物理学でももちろん「温度」は使います。しかし「温度」というものは、実際には存在しないんですよね。僕らが生きているマクロな世界では「温度」だと捉えられているものは、ミクロの世界(原子とかの世界)では分子が持っているエネルギー(の平均)のことです。マクロの世界では存在する「温度」が、ミクロの世界に行くと消えてしまう。

「空間」も同じようなものなのではないか、というのです。僕らが生きているマクロな世界では、「空間」というのは存在するもののように感じられるけど、「温度」が実は分子のエネルギーだったように、「空間」も実は別の何かがそう見えているだけなのではないかと、「超弦理論」を研究している物理学者たちは考えているわけです。

何故そんな風に考えるようになったのか―。それをちゃんと説明するにはかなり色んなことを書かないといけないし、その色んなことを全部ちゃんと理解しているわけでもないし、っていうかちゃんと知りたいなら本書を読めよって感じなのでするっとまるっとすっ飛ばして核心の部分だけ書いてみます。

何故「空間って幻想かも」と思うに至ったのか。それは、

「9次元で成立するある理論のあるパラメーター(要素)をちょっとずつ大きくしていくと、10次元で成立する別の理論へと連続的に変化することが分かったから」

ということになります。

と言っても、意味不明でしょう。というわけで、恐らくまったく正確さを欠いた説明だろうけど、なんとなくイメージしやすい形に置き換えてみます。

例えば、マンガは紙に書かれています。つまり二次元です。この二次元で成立するマンガのあるキャラクターのあるパラメーター(ここでは、線の太さということにしましょう)をちょっとずつ大きくしていく(つまり線を太くしていく)と、二次元だったはずのキャラクターが徐々に三次元の存在に変化していく、みたいな感じです。

どうでしょうか、凄いと思いませんか!!あるパラメーターをちょっとずつ大きくしていくだけで、次元が一つ上がってしまうんです。実際に、それが数学的に証明された、ということです。

さてそうなると、「次元」ってなんだろう、と疑問に思わないでしょうか?だって、線の太さをちょっと変えるだけで、二次元のマンガが三次元に変わってしまうんです(これはあくまで喩えですけどね)。もしそんなことが本当に起こるとしたら、「空間」なんて別に全然本質的なものじゃない、という発想が生まれるのも当然という感じがします。

実はもう一つ、凄い話があるんです。マルダセナという物理学者が発見したものです。これも、途中を省いて結論だけ書きますけど、彼は、

「三次元空間の重力を含まない理論と、九次元空間における重力理論が完全に対応する」

ということを発見しました。「対応する」というのは、要するに「まったく同じ」と言い換えてもいいです。

この発想は、ブラックホールの研究も絡んでいます。ブラックホールという天体は、「表面」に存在する情報のみから、ブラックホールの「全体」が理解できるのです。ブラックホールの全体というのは、もちろん三次元ですから、ブラックホールというのは、二次元の情報のみから三次元全体のことが分かる、ということになります。そして、これを他の事柄にも応用し、「三次元空間の重力現象が、重力の存在しない二次元世界で描像できる」というアイデアを、「重力のホログラフィー理論」と呼ぶそうです。

これも「次元」や「空間」の考え方を変えるものでしょう。だって、「三次元」の情報が「二次元」ですべて理解できたり、「三次元」のものと「九次元」のものが一致しちゃうんだから。

そんなヘンテコリンな「超弦理論」を、どうして物理学者は熱心に追求するのか。そこにはちゃんと理由があります。

これまで物理学の世界では、様々な理論が生まれてきました。万有引力の法則、相対性理論、量子論など、様々な理論がありますが、これらは基本的に、「三次元」以外でも成立します。どんな次元の空間であっても、成立するのです。

別にいいじゃないか、と思うかもしれませんが、物理学者というのはなかなか欲張りなのです。物理学者は、「何で俺らが生きているこの世界は三次元なんだよ!」っていう、えっ、そんなことも疑問に思っちゃうの?的なことまで考えちゃうような人たちなのです。あるいは、標準模型には「世代」というカテゴリーがあって、僕らが生きている世界の「世代」は「3」なんですけど、これも「なんで3なんだよ!」ということを物理学者たちは知りたいわけです。現実に「三次元」だし「世代は3」なんだからしょうがないじゃん、とは彼らは考えません。世の中を統べる理論の帰結として、それらが現れて欲しいわけです。

そういう意味で「超弦理論」というのは、史上初めて「成立する次元が限定される理論」なわけです。実は「超弦理論」は、九次元空間でしか成立しません(ちなみに、詳しく書きませんが、「超弦理論」とは別に「弦理論」というのもあって、こちらは二十五次元空間でしか成立しません)。

いやいや、俺らは九次元空間なんかに生きてないじゃん!という総ツッコミがありそうですが、彼らにとって別にそれは大したことではありません。実際に物理学者たちは「カラビ-ヤウ空間ってものがあって、それによって六次元の空間が丸まっているんだ!」などという、パンピーにはまったく理解できない主張によってこの問題を解決してしまいます(実際に僕らの生きている世界が九次元で、それがカラビ-ヤウ空間によって丸まっている、ということが示されたわけではありません。あくまでも、カラビ-ヤウ空間というものが数学的に存在していること、そしてもしこの世界がカラビ-ヤウ空間によって丸まっているのなら超弦理論が成り立つことが確認されている、ということです)。

彼らにとって何よりも大事なことは、「理論的な制約によって次元が決まる」ということなのです。これで彼らはテンションが上がってしまいます!だって古今東西、様々な物理理論が現れては消えていきましたけど、そんな「次元の制約」を要求するような理論はこれまで存在しなかったんです。しかも、標準模型では説明できなかった、「世代数が何故3なのか」問題も、「超弦理論」なら解決出来ちゃうわけです(ここでもまた、カラビ-ヤウ空間が登場するわけですけど)。

そんなとんでもない「超弦理論」ですけど、一時期不遇だった時期もあるそうです。素粒子物理学の中で「場の理論」がめざましく発展した時期があって、その時は「超弦理論」は忘れ去られていた、と。僕も昔読んだ本では、「超弦理論(僕が読んだ本には「超ひも理論」と書かれていたはず)」は面白いけど机上の空論、みたいなことが書かれていたような気がします。

けど、シュワルツという、著者の同僚だった物理学者が「これは超弦理論に一生を捧げてやるんだ!」と言って孤軍奮闘し続けたお陰で、その後の爆発的な大発見に繋がっていくわけです。

そもそもこの「超弦理論」は、「弦理論」ってものを出発点にしています。「弦理論」では、大別して二種類あるクォークの内片方しか作れなかったんだけど、「超空間」の内部で「弦理論」を考えることで、フェルミオンとボソンという両方のクォークを生み出すことが出来るようになったそうです。ちなみにこの「超空間」ですが、「同じ数を掛けると0になる」という意味不明な性質を持つ「グラマン数」も座標に含む空間、らしいです。意味不明ですね。

で、何を書きたかったかと言えば、その「弦理論」を生み出したのが、あの南部陽一郎だそうです。南部陽一郎って何した人か忘れちゃいましたけど、とにかく物理学の凄い発見をした人だったはずです(弦理論ではない何か)。その人が、弦理論なんていう、統一理論(量子論と重力理論を結び付ける理論はこう呼ばれる)となるかもしれない理論を生み出しているんだから、やっぱすげぇなって思います。

あと、本書を読んでてビビったのは、オイラーが発見したという、数学ネタでよく登場する数式です。オイラーは、

「1+2+3+4+5+…=-1/12」(見えにくいかもだけど、右辺は「マイナス12分の1」です)

という数式を残しています。ゼータ関数だったと思うんだけど、そういう特殊な数学の分野の話らしいんですけど、もはや何を言っているのか意味不明ですよね。でも、その意味不明な数式が、まさか物理学で実際に使われているとは驚きでした。いやー、これはビックリ。

まあそんなわけで、相変わらず線引きまくりの、大興奮の読書でした。超面白かったなぁ。でも、もう少しちゃんと、本書に書かれていることを理解できる頭が欲しい。

大栗博司「大栗先生の超弦理論入門」

いまは、空しか見えない(白尾悠)

小中学生の頃、僕はよく学校を休んだ。たぶん。ちゃんと覚えてないけど。実際に病気だったりどこかが痛かったりしたこともある。骨折したり入院したりしたこともある。ただ、仮病だったことも確かにあった。なんというのか、学校に行きたくないな、という感覚は、やっぱりどこかにあった。

具体的な、分かりやすい何かがあったわけではなかった、と思う。特別いじめられていたとか、特別嫌な先生に当たったとか、確かにそういう部分はゼロではなかったかもしれないけど、でもはっきりとこれが原因だというような、明確な何かはたぶんなかった。でも、学校に行くという現実が、もっと言えば、今日という一日をちゃんと生きることが、嫌だなと思っていたことはやっぱりあったはずで、そういう時、ちょっとした逃避をしていたのだと思う。

その一方で、高校時代は皆勤だった。などと書くと、学校が好きになったのだ、と思われるかもしれないが、そうではない。たぶん状況は真逆と言っていい。

僕は、こう思っていた。一度でも学校に行かなくなったら、二度と行けなくなってしまうんじゃないか、と。たぶん、そういう強迫観念に押し出されるようにして、学校に行っていたような気がする。高校時代だって、具体的な何かがあったわけではない。ただとにかく、学校という閉鎖的な空間が嫌だったし、他人と関わることが嫌だったし、教師の言うことに従わなければならない状況が嫌だった。

眼の前の現実から逃げたくなる状況というのは、ある。誰にでもあるのか、それは分からないが、どれだけ恵まれているように見える人だって、そういう状況に陥ることはあるだろう。

今ならば、僕は、逃げてしまえ、と思える。今の思考のまま、学生時代を過ごせたとしたら、全然違っただろう。全然違ったと思う。闘う必要なんてないし、逃げたって何もかもすべてが失われるわけでもないし、我慢して得することなんてほとんどない。でも、やっぱり、あの当時の僕には逃げることはとても難しかった。僕は、その時の自分が取りうる可能な限りの最良の選択肢を進みながら、なんとか生きのびてきた、という感覚がある。

「生きのびてきた」などと大袈裟に書いたが、目に見えるような、誰かにはっきり伝えられるような分かりやすい何かは、別にずっとなかったのだ。今だって、昔の自分が何に辛さを感じていたのか、きちんと言語化出来るとは言えない。でも、僕の思考の片隅には常に「自殺」というのはあったし、そうする可能性だって決してゼロではなかった。

『私には、戦ってるように見えた』

逃げるしかないほど絶望的で圧倒的な現実があるなら、逃げる自分を肯定するしかない。僕は、長い時間を掛けて、そういう自分を確保出来た。良かったな、と思う。今逃げている人にも、あるいは逃げたくても逃げられないと思っている人にも、逃げる自分を肯定できるようになって欲しいと思う。『いつも独りになる恐怖を抱え、誰かに必要とされたくてやまない』なんて、たぶんみんなそうだ。だから逃げられないんだ、なんて卑下する必要なんてない。今いる場所が辛かったら、全力で逃げろ。とにかく僕が多くの人に伝えたいと本当に思っていることは、これぐらいしかない。

内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。

「アクロス・ザ・ユニバース」
山梨に住む高校生の智佳は、ちょっとしたこと(服のボタンが取れている、程度のこと)で不機嫌になり、家族の平穏を脅かす父と、そんな父に服従するようにしか生きられない母親との三人暮らし。両親に嘘をついて飛び乗った長距離バスには、最悪なことに、同級生の森本優亜が乗り込んできた。接点はほぼない。智佳は学年トップクラスの成績で、優亜はギャルだ。何故か道中を共にすることになった。智佳は、東京の芸術大学で行われる、憧れの映画監督・水沢隆秀の講演会に出るのが目的だった。しかしその後、何故か優亜の予定につきあわされ…。

「春のまなざし」
智佳の母親である雪子は、子供の頃からずっと独りだった。母親は、雪子と目を合わせようとしなかった。兄と姉ばかりを見て、雪子はいないも同然の扱いだった。その母が危篤だと言うので、気乗りはしなかったが新潟の実家へと向かった。雪子は親戚一同の中でも問題児扱いで、所在なく家の片隅にいるしかなかったが、兄嫁に話しかけられ、雪子は少し心が軽くなったように感じる。

「空のあの子」
銀行への就職が決まり、さて卒業まで遊び倒すぞ、と思っていた矢先に付き合っていた彼女に振られた翔馬。医学部の奴に乗り換えたと聞き、やるせなさが募る。友人に誘われる合コンに出るもイマイチ気合は入らず、家で動画を見ているときに、GAMIの存在を知った。「LUCY」というタイトルの動画の撮影場所が、明らかに近所だったのだ。さらに同じ大学のバンドのミュージックビデオも作っているらしい。ホラーを基調とした映像に魅せられた翔馬は、製作者であるGAMIの名前を覚えた。そしてなんとそのGAMIは、同じ大学の、しかも同じ銀行に就職する同期である坂上智佳だった。翔馬はふとしたことでそれに気付き、それ以来坂上の映像制作を手伝うことになったが…。

「さよなら苺畑」
名古屋にいる伯母を頼り、美容師になった森本優亜は、東という、ゲイだと睨んでいる先輩から丁寧に仕事を教わっていた。過去の出来事のせいで、男が全般的に怖くなっている優亜は、東はゲイのはずだと安心していた。しかし友人との会話で、そうではないかもしれないという疑念が持ち上がった。さらに自身が働く美容室にやってきた男性客からの振る舞いによってフリーズしてしまった優亜は、色んなことが信じられなくなっていく。

「黒い鳥飛んだ」
智佳は疲弊していた。入社したテレビの制作会社での、昼も夜も、休日も何もないような怒涛の日々に、消耗していた。青柳伸太郎という、カルト的な人気を持つ映画監督の20年ぶりの新作に関わらせてもらっているのは非常にありがたいのだけど、そのせいで社内での風当たりがキツくなっているし、そもそも期待してもらえるほどの何かを自分の内側から出せるわけでもない。自分がなんのためにここまでやってきたのか、わからなくなる。それでも、何かを悩んだり考えたりする余裕など一切ない怒涛の毎日は、智佳の日常を凄まじい勢いで押し流していく。

というような話です。

「女による女のためのR-18文学賞」を受賞した作品で、つまり新人のデビュー作だ。新人のデビュー作とは思えない、非常に重厚でしっかりとした作品だ。

坂上智佳という女性と、その周囲にいる人々を描き出す物語だが、誰もがやるせなさみたいなものを感じている。それぞれが直面している「現実」は違う。それは、人だったり過去だったり現在だったりするのだけど、その囚われている「現実」にどう関わっていくのか、ということが実に巧く切り取られていく。

『安全圏でうまくやれるならいいじゃない。そこで頑張ることがなぜダメだと思うの?”みんな危険を冒しても外に向けて挑戦するべき”みたいに言う人は信用できないよ。結果的に自分が成功したからって無責任だなって思う。伝わるのは夢を叶えた人の話ばっかり。その百倍とか千倍とかいるはずの、どんなに頑張ってもどうしても叶えられなかった人は、なかったことにされてる』

大体、多くの人に届く物語というのは、叶えられた人の話だ。そうじゃない人が山ほどいる、という現実を、多くの人が知る機会は少ない。極端な事例を「成功」だと思わされ、そこを目指すべき、と追いまくられるような生き方に、いつの間にか僕らは慣れてしまっている。

智佳は、そういう人とは違う人種だ、と僕は思う。智佳には、確固たる何かがある。そこに向かうべきだという確信がある。それがあるからこそ、智佳は戦うことが出来る。そこには、漠然と夢を追う人間には持ちえないような切実さがある。

そのために智佳が乗り越えなければならない「現実」の壁は、非常に大きい。直面する「現実」は人それぞれ違うし、だからこそ物語も変わってくるが、智佳の物語を読んで、なにがしかの勇気をもらえる、という人は少なくないだろう。

しかし、智佳にとっての最初の、そして最大の壁である父親は、僕には本当に許容できない存在だ。こういう人間がいる、というだけで苛立ちを覚える。それは、森本優亜にとっての壁となった男に対しても同じ感覚を抱く。他人のことを許容せず、理解もしない人間というのは、社会の中での存在価値などないのではないかと思えてしまう。

常に現実というのは、残酷さを内包している。いつ何時、その残酷さに絡め取られるか、誰にも分からない。何もないまま人生を終えることが出来れば、それは本当に幸運だろう。しかし、そんな幸運を当てにするのも怖い。というか、逃げる以外選択肢がないような現実が身に降り掛かってくる状況を許容するには、この経験が後々役に立つはずだ、と思い込む以外にはないじゃないか、といつも思う。

白尾悠「いまは、空しか見えない」

走れ、健次郎(菊池幸見)

いやぁ、面白いじゃないの!
正直、ちょっとナメてたけど、ちょっとこれ、面白いじゃないの!

内容に入ろうと思います。
岩手県盛岡市で、マラソンの国際大会が開かれることになった。
きっかけはこうだ。まず知事が、新スタジアムの建設を公約に掲げて選挙を勝った。老朽化した県営運動公園陸上競技場を取り壊し、Jリーグを目指すサッカーチームの後押し(必要条件を満たしたスタジアムが必要なのだ)となるよう、新スタジアムが求められた。しかし厳しい財政の中、なかなか話は進まない。そんな時に盛岡市長に当選した男が、日本を代表するスポーツ用品メーカー「ミズオー」の協賛を取り付ける形で、建設の直談判に来た。そうしてようやく新スタジアムの建設が決まったのだ。
そして、「ミズオー」の社長の肝いりで、マラソンの国際大会が行われることになったのだ。
みちのく放送アナウンサーの桜井剛は、この盛岡国際マラソン大会のメイン実況を担当することになった。普通なら、地方局のアナウンサーが国際大会のメイン実況を務めることなどありえないが、上層部がキー局と粘り強い交渉をして、なんとかもぎ取った。かつて、その実況の腕を買われキー局へ声を掛けられたこともある桜井は気合十分である。また、この国際大会の運営のために「ミズオー」から派遣された世良和久ら社員たちも、運営をつつがなく終えて本社への復帰を目論んでいる。
地元の広告代理店で働く高倉健次郎は、嘘が大嫌いな妻・奈穂美と娘の美冴に見られながら家を出た。今日も、ゴルフだと嘘をついて。今日のために、膨大な時間を準備に注ぎ込んできた。やりきるしかない。
参加資格に2時間27分という、トップレベルのタイムを設けたこの大会は、国内外の一線級の選手しかいない。スタートし、順調に実況を進める桜井だったが、しかし何かがおかしい。その違和感に、やがて気づくことになる。
なんと、マラソンコースの沿道に沿って走っている男がいるのだ。ゼッケンはつけているが、真っ白だ。選手ではないらしい。しかし、速い。スタートからずっと走っているとしたら、とんでもない逸材だ。しかし、これだけ走れる男が、何故大会に出ていないのか…。
というような話です。

正直、ナメてました。アナウンサーが書いた小説だということで油断してたんですけど、これはよく出来た小説でした。

正直、ストーリー的に意外な展開は一つもありません。基本的には、マラソンがスタートし始めてからは特に、読者の予想通りに物語が展開していくと言っていいでしょう。すべて、想定の範囲内の展開です。

ただ、そんな想定の範囲内の物語が、想定外の感動を生むんですね。これはビックリでした。ホント、最後の最後とか、ポロッと泣きましたからね。自分でもビックリでした。

いや、あまりにもストレートな、予想外の展開なんてない物語だから、特にここで書くことってないんですよね。だから、なんでこんなに感動するのか、イマイチよくわかんないんだけど、やっぱ健次郎がいいんだよなぁ。

誰もが予想する通り、沿道を走ってるのは健次郎で、健次郎は多くの人から注目を浴びることになります。健次郎は、ただただ走ってるだけ(目立とうとか、誰かに勝ってやろうとかではなくて、とにかくただ走ってるだけ)なんだけど、そんな姿を見て、多くの人が勇気をもらったりワクワクしたりする。いや、そりゃあそうよ。だって、沿道を走るっていう、実際のランナーと比べたら明らかに悪条件の中、世界中のトップ選手に打ち勝ってるんだから。悪条件ならさらにたくさんあって、給水が出来ない(だから、水分補給用のボトルを腰から下げて走ってる)、運営本部の妨害が入る(不確定要素を放置して大会運営に支障が出たら本社に戻れないと不安視しているから)、などなど。正直言って、まともに勝負になるはずがないのだ。しかしそれが(物語とは言え)まともな勝負になっているのだ。それがワクワクする。

前に「コンテンツの秘密」という本の中で印象的な記述を見かけた。著者は、ニコニコ動画の創業者で、ジブリの鈴木敏夫に弟子入りしていた時期があった。著者は鈴木敏夫から、「魔女の宅急便のキキが何故飛べるようになったか、作中で説明がない」と言われます。さらに、「それでも観客が違和感を覚えないのは、観客の多くがキキに飛んで欲しいと願っているからで、その願いが叶ったから観客は満足する」と説明していた。

本書でも同じ原理が働いているのではないか、と僕は感じる。恐らく、現実には、健次郎のようなこと(沿道を走り、かつトップ選手に勝っちゃうようなこと)は無理だと思う。ただ、読者は健次郎のファイトを応援したいと思ってしまうし、なんなら健次郎に勝って欲しいと思っている。だから、たぶん読者も(あり得ない設定だな)と分かっているんだけど、それでも感情移入して読めちゃうのではないか、という気がします。

とにかく、物語はメチャクチャシンプルです。こうなるだろう、と思った通りに展開する、と思ってもらっていいと思います。でも、それなのに感動する。これは凄いよなぁ、と思う。現実にはほぼほぼあり得ないだろう設定・展開なんだろうけど、目頭が熱くなるし、たぶんみんな、健次郎を応援したくなっちゃうと思う。よく出来た小説だと思う。

菊池幸見「走れ、健次郎」

「BPM ビート・パー・ミニット」を観に行ってきました

何か変えなければならないことがある場合、「何もしない人間」と「暴力的な行動を含む活動をする人間」とでは、どちらの方がよりダメだろうか?
みたいなことを考える。

これまでも、世の中の色んなことを変えるために、戦ってきた人たちがいる。でも、僕はどうしても、そこに暴力的な行動が含まれてしまうと、ちょっと引いてしまう。仮に、その活動によって、素晴らしい達成が短い期間でなされたとしても、その過程にはやはり、暴力的な行動が含まれていてほしくない、と思ってしまう。

まあそれはきっと、あまりにも理想主義的な発想なのだとは思うのだけど。

僕は別に、異なる価値観の人間でも話し合えば必ず分かり合えると思っているわけでもないし、暴力的な行動による被害よりもそれによる達成から生まれる成果の方が圧倒的に多いのであれば、価値を認めざるを得ないと感じることもあると思う。けど、僕はやはり、恥じ入るべきだ、とは思っている。仮に暴力的な行動によって素晴らしい達成が得られたとしても、それを成した者はその成果を恥じるべきだ、と。

この映画のことを非難しているのではなく、一般論だが、やはり暴力的な行動による達成を美談にしてはいけない、と僕は感じてしまう。

内容に入ろうと思います。
「アクトアップ」とは、1989年にNYで発足したエイズ患者の権利を守るためのゲイコミュニティだ。それは世界中に広まり、パリでも生まれた。
「アクトアップ=パリ」に所属するショーンは、会の発足メンバーの一人だ。会をまとめるリーダー的存在とは頻繁に意見が対立する。「アクトアップ=パリ」は、様々な活動をしており、内部に多くの委員会を持っている。無策な政府をあげつらうような抗議行動もすれば、製薬会社との折衝もする。
「アクトアップ=パリ」に入ったナタンは、活動を通じてショーンに惹かれていく。エイズは確実にショーンの身体を蝕んでいく。エイズ患者を取り巻く環境は、遅々として進まない…。
というような話です。

調べてはいませんが、恐らくこの「アクトアップ」という団体は、実際に存在したんだろうと思います(と判断したのは、映画の中で、当時の実際の映像らしきものが流れたからです)。確かに日本でも、エイズが社会問題になってた時期があって、恐らくそれぐらいのタイミングの話なんだろう、と思いました。

映画を見ていて僕が感じたことは、やはり冒頭で書いたように、暴力的な行動によって何かを変えようとすることの難しさでした。映画自体は決して、アクトアップの活動を賛美するような内容ではなくて、時代や政治に翻弄されながらも、抗えない宿命と戦う若者たちを描いているのだけど、なんとなく僕はアクトアップのやり方に違和感を持ってしまったし、共感しにくいなぁ、と感じました。当時の社会状況の中で、エイズ患者にはあまり選択肢は多くなかったかもしれないけど(実際に映画の中でそういう発言もあった)、それでも僕は、この会には入りたくないなぁ、と思ってしまいました。

で、きっとそのアクトアップの活動になかなか共感できなかったからこそ、映画全体にもなかなかうまく入り込めなかったのかな、という感じがしました。映画の性質上、アクトアップの活動と、その中で活動する彼らの話を分離しては捉えられないので。別に僕は、共感できない作品は良くない、などと言いたいわけではないのだけど、自分の中でうまく、彼らの物語を追おう、という感覚になれなかったなと思いました。

「BPM ビート・パー・ミニット」を観に行ってきました

未来(湊かなえ)

内容に入ろうと思います。
佐伯章子は、20年後の自分から手紙を受け取った。パパが死に、人形のように無気力なママと二人だけで生活していかなくてはならなくなった小学生の章子には、その手紙は勇気を与えてくれるものだった。だから章子は、“大人章子”への返信という形で、日々の日記を書くことにした。
クラスメイトとの関係、母親との関係、突然現れた祖母との関係―章子の日常は、様々な問題に満ち溢れている。そういう中で、絶えず未来の自分の存在に問いかけ、自分の行く末を見つめようとしていくが…。
というような話です。

正直、何に焦点を当てているのかイマイチよく分からない物語でした。群像劇なら群像劇でいいのだけど、群像劇と言うには章子がメインであり過ぎる。しかし、章子が主人公であると言うには、章子以外の人物が語られる部分が多いように思う。いや、別にそんなことが問題なわけではないのかもしれないけど、なんとも良さを捉えるのが難しい作品だった。

読めば読むほど、物語がどんどん拡散していくようなイメージだった。大体、物語というのは、読めば読むほど収束していくものだ。収束の仕方や、どこに収束するのか、あるいは収束していると思われた二つの物語が実は…など、様々な形はあるが、収束するという基本的な方向性は変わらないはず。ただこの物語は、どんどん拡散していく。それを狙っている、というのであれば著者の狙い通りということなのかもしれないけど、どうなんだろう、そうだとしても、あまり成功しているようには感じられない。

読み終わってすぐこの文章を書いている。書きながら、印象的な人物のことを思い出そうとするが、パッと出てこない。それこそ、物語の最後の最後に出てくる森本という男のインパクトが今ちょっと残っているぐらいだ。誰の何をメインで描きたかったのか、僕にはうまく掴むことが出来なくて、最後まで捉えどころがないまま物語を読み終えた。

湊かなえ「未来」

「ハッピーエンド」を観に行ってきました

この映画のなんとも言えない不穏さは、結構好きだ。
その最たるものが、エンドロールだった。なにせ、無音のままエンドロールが流れるのだ。そんな映画、僕の記憶ではこれまで見たことがない。
映画の中でも、音楽はほとんど使われていなかったと思う。カットバックもほとんどなく、ワンカットで撮った映像を繋いでいくような映像は、カットバックに慣れた現代人にはやはり不穏さを感じさせるのではないかと思う。しかも頻繁に、遠景のままで、何を喋っているのか、何をしているのか分からないままの映像が続く場面もある。

そもそも映画の最初から、状況や人間関係に関する説明がほぼない。今何が起こっているのか、そこにいる人間たちがどんな関係性なのかをほぼほぼ描くことなく、話が進んでいく。
その描き方が、「彼ら」の「本当の日常」に「透明なカメラ」が持ち込まれたような、そんなリアルさを感じさせる。観客に向けられた描写はほぼほぼなく、「彼ら」の日常に潜り込んでいるかのような、映画を見ているんだかなんなんだか分からないような異質さに引きずり込まれる。

肝心な描写が描かれないことも不穏さを増す。例えば、比較的最初の方で、一家の長が車で事故を起こす。しかし、それが観客に伝わる直接的な描写はない。突然、家族が不安そうな表情を見せ、バタバタした雰囲気が漂い、「彼ら」のやり取りから少しずつ、誰かが事故を起こしたのだ、ということが伝わる。

映画の様々な場面から伝わるそうした不穏さは、見ていてなんだか清々しかったし、割と好きだと感じた。しかし正直なところ、ストーリー的にはさっぱり意味不明で、ほぼ理解できなかった。そもそも、「彼ら」の関係性を把握するのも困難で、中盤過ぎてからもなかなか理解できないままだった。

たまにしかやらないが、あまりにも理解できなかったので、この映画についてはネットで色々調べた。

一番意外だったのが、この映画が「移民問題」をテーマの一つに据えている、という点だ。それは、映画を見ていて全然理解できなかった。いや、それはその通りなのだ。監督自身が、移民問題を直接的に描く意図がなかったというのだから。「移民問題」というのは要するに「現実の世界で目の前で起こっている関心を持つべき問題」の一つとして登場するのであり、そしてそれに無関心なままネットの世界に“引きこもる”人々の姿を描く、というのがこの映画のテーマの一つのようです。

ストーリーについては、自分の力では要約出来ない(というか、そもそも理解できていない)ので、ここでは書きません。ストーリーがほぼほぼ理解できず、テーマもきちんと捉えきれなかったにも関わらず、見終わった感想がそんなに悪くないというのは僕としては結構意外で、そういう意味ではなかなか稀有な映画だと思います。

「ハッピーエンド」を観に行ってきました

限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭(ジェレミー・リフキン)

本書を読んで、改めて思った。
僕らは、実に面白い時代に生きているんだな、と。

変化の只中にいると、その変化に気づきにくいものだが、今僕らを取り巻く環境は大きく変わろうとしている。それは、第三次産業革命と呼べるものであり、資本主義が完全になくなることはないにせよ、新たなパラダイムに敗北するということでもある。

本書の冒頭に、確かに考えてみればその通りだな、と思う記述があった。まずはそれを抜き出してみる。

『だが、資本主義の経済理論の指針となるこうした前提(※製品が生まれれば需要が高まり、より製品を安く作れるようになる、という前提)を、その論理的帰結まで突き詰めたとしよう。こんな筋書きを想像してほしい。資本主義体制の稼働ロジックが、あらゆる人の想像を絶するまでの成功を収め、この競争過程の結果としてこれ異常ないというほどの「極限生産性」に、そして経済学者が「最適一般福祉」と呼ぶものに至るとする。それは、資本主義経済の最終段階において、熾烈な競争によって無駄を極限まで削ぎ落とすテクノロジーの導入が強いられ、生産性を最適状態まで押し上げ、「限界費用(マージナルコスト)」、すなわち財を1単位(ユニット)追加で生産したりサービスを1ユニット増やしたりするのにかかる費用がほぼゼロに近づくことを意味する。言い換えれば、財やサービスの生産量を1ユニット増加させるコストが(固定費を別にすれば)実質的にゼロになり、その製品やサービスがほとんど無料になるということだ。仮にそんな事態に至れば、資本主義の命脈とも言える利益が枯渇する』

そう、すべてはこの矛盾から始まるのだ。

本書には、資本主義経済がどんな風に生まれ、どんな風に成熟していったのかの過程を描くパートもあるが、資本主義というものが生まれ運用されるようになった頃は、「限界費用」がほぼゼロに近づくなどという想定はあり得なかっただろう。本書にかなり詳しく描かれているが、第一次・第二次産業革命は、財を生み出すための費用が恐ろしく高い時代だった。石油や電力や道路など、圧倒的な資金力を必要とするものを生み出すのに、垂直統合型の巨大資本が生まれ、そういう少数の大企業が経済を牛耳っていく、という流れは、ある意味で必然だったのだ。僕らは、そういう資本主義しか知らないで生きてきたから、限界費用がほぼゼロになる想定などしてこなかった。

しかし、インターネットが生まれて世界中を繋ぎ、さらに「IoT(モノのインターネット)」が登場したことで、状況が一変した。

その状況について触れる前にまず、インフラについて考えてみよう。著者も参加したある会議で、「歴史上あらゆるインフラ・システムに共通なものは何か」と尋ねた時の返答がこうだ。

『インフラには三つの要素が必要で、そのそれぞれが残りの二つと相互作用し、システム全体を稼働させる。その三つとは、コミュニケーション媒体、動力源、輸送の仕組みだ』

第一次・第二次産業革命においては、この三つの要素それぞれに革命が起き、その相互作用によって産業革命が進んでいったのだということが本書で描かれていく。

そして、第三次産業革命の真っ只中にある現在において、その三つの要素とは何なのか。「コミュニケーション媒体」は当然インターネット。「動力源」は、再生可能エネルギーを分散型のシステムで繋いだスマートグリッド。そして「輸送の仕組み」については、輸送の必要など一切必要な3Dプリンタを挙げることが出来る。これらはすべて、インターネット、IoTによるものであり、やはりインターネットの登場が、限界費用ゼロの社会を生み出すきっかけとなったと言える。

さて、本書は決して、第三次産業革命の具体例を挙げていくだけの本ではない。本書は、資本主義の根幹にある大きな矛盾が現実のものとなることで資本主義が終焉を迎え、その代わりに「協働型コモンズ」と呼ばれる新たな経済の仕組みによって社会が動いていくだろうと予測している。本書は、日本語訳は2015年、原初は2014年の発売だ。そして2018年の今、まさに本書で予測したような世の中が生まれている、と感じる。

そもそも、「コモンズ」とは何か?

『現代のコモンズは、生活の最も社会的な側面にかかわる場であり、何十億もの人々が関与している。それはたいがい民主的に運営される、文字どおり何百万もの自主管理組織から成り、慈善団体や宗教団体、芸術団体や文化団体、教育関連の財団、アマチュアスポーツクラブ、生産者協同組合や消費者協同組合、信用組合、保険医療組織、権利保護団体、分譲式集合住宅の管理組合をはじめ、公式あるいは非公式の無数の機関がそれに含まれ、社会関係資本(社会における人々のネットワークや信頼関係)を生み出している』

そして、「協働型コモンズ」に関して、こんな風に書いている。

『資本主義史上は私利の追求に基づいており、物質的利益を原動力としているのに対して、ソーシャルコモンズは協働型の利益に動機づけられ、他者と結びついてシェアしたいという深い欲求を原動力としている』

まさにこれは現代社会のことを言っていると感じられるだろう。もちろん、まだまだ変化の過渡期であり、物質的な欲求もまだまだ完全には廃れてはいない。しかし書店で本を売っている立場の人間としても、モノが売れなくなったという実感はあるし、所有するのではなく、みんなでシェアしてアクセス権だけ確保する、というあり方は、今や普通の感覚になったと言っていいだろう。

本書は、システムの変化が人間をどう変えているか、あるいは人間の意識の変化が現実をどう動かしているのか、という観点からも様々なことが描かれていく。

例えば、人間の意識の変化が現実を動かしている例として、発電の話がある。現在世界の多くの国で、クリーンエネルギーの固定価格買取制度がある。これは、地方の行政体や中央政府が、再生可能エネルギーを一定以上の金額で買い取るという制度だ。原発や火力発電など、環境にも悪くコストも掛かる発電方法から脱しようとする多くの人がこの固定価格買取制度に関わったことで、『世界の風力発電の三分の二近くと、太陽光発電の八七%が、固定価格買取制度による後押しを受けたものだ』という状態になっているのだ。

本書には、そんな例が様々に載っている。これまでは、限界費用が高すぎたせいで、垂直統合型の巨大資本にしか出来なかった様々なことが、様々なテクノロジーの進化によって限界費用が驚異的に下がったために、個人レベルで出来るようになった。しかも、その個人同士を繋ぐコミュニケーションツールも発達しているために、資本主義経済では不可欠だった中間業者を一掃出来、さらにコストを下げることが出来る。一人ひとりがプロシューマー(生産もするし消費もする)となり、ピア・トゥー・ピア(個人同士のやり取り)によって流通する世の中が、巨大資本を脅かすまでになっている、という事例が、様々に存在するのだ。

もちろん今はまだ資本主義の方が強い。しかし、本書を読むと、資本主義がどこまで持ちこたえられるかは怪しいと感じられる。少なくとも今、資本主義経済にとって何か明るいニュースがあるかと言えば、それはないだろうと思う。垂直統合型の巨大資本が、今の状態のまま生き残れる可能性はとても低い。

とはいえ、協働型コモンズがなんの問題もなく広まっていけるのかと言えば、そう単純でもない。本書には、考えてみれば当然の、こんな問いかけがある。

『協働型コモンズでは、売り手と買い手に代わってプロシューマーが登場し、所有権はオープンソースのシェアにその座を譲り、所有はアクセスほど重要ではなく、市場はネットワークに取って代わられ、情報を作成したり、エネルギーを生産したり、商品を製造したり、学生に教えたりする限界費用はほぼゼロとなる。そこで肝心の問いが浮かんでくる。これらをすべて可能にする新しいIoT(モノのインターネット)インフラの資金はどうやって調達されるのだろうか?』

まあ確かにその通りだ。いくら限界費用がゼロだとはいえ、例えば3Dプリンタを設置したり、発電用の何かを設置したりしなければならず、そのインフラ整備のお金は必要だ。しかしその答えの一部は、既にこの文章の中でも提示した。固定価格買取制度によって風力発電と太陽光発電のインフラがかなり大規模に整備されているのだ。それと同じように、IoTを実現するためのインフラは、急速に整備されていくだろう、と著者は見ているようだ。

また本書では、これまでは封建制度と不可分だと思われてきたコモンズというシステムが、現在でも世界の多くに散見され、確実な成功を収めていると指摘した経済学者の話も登場する。コモンズという名前だとなかなかイメージが湧かないが、「生協(生活協同組合)」「農協(農業協同組合)」という言い方をすれば馴染み深いものになるだろう。資本主義経済の中ではなかなかその成果が適正に評価されることがなかったコモンズという形態こそが、これからのIoT時代を担うシステムであり、今まさに多くの人がコモンズのような、利益ではないものを追求する組織で働くようになっている、と指摘している。

本書は実に幅広い分野について描かれる作品で、正直ちゃんと消化しきれないまま読んだという感覚がある。全部を理解できたとはとても言えないが、しかし一つはっきり分かったことは、僕が死ぬまで(今僕は35歳です)の間に、社会は劇的に変化するだろう、ということだ。その事実は単純に、僕をワクワクさせる。正直なところ僕は、共感をベースにした人間関係(SNSなどで繋がり合うような関係)は得意ではなくて、協働型コモンズの中でうまく立ち回れるような気はしないんだけど、それはそれとして、これからの社会がどうなっていくのかは興味があります。本書には巻末に、著者が日本版にオリジナルで書き起こした「岐路に立つ日本」という章があります。要約すると、「日本やべぇぞ、早く気づけよ、気づけば日本は世界をリードする存在になれるんだからな」という内容で、世界の状況の中での日本の立ち位置を理解させてくれる文章でした。

ジェレミー・リフキン「限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭」

「ダンガル きっと、つよくなる」を観に行ってきました

この映画のポスターに、確か板垣恵介だったと思うんだけど、「予想をほぼ裏切らない展開!でもそれがいい」みたいなコメントがあって、それが、この映画をまさにピタリと言い当てているなぁ、と強く感じました。

内容に入ろうと思います。
インドの片田舎に住むマハヴィルは、かつてインドの全国代表にまでなったレスリングの選手だ。自身では果たせなかった、国際大会で金メダルを獲るという夢を自分の息子に託す―その夢を抱いて生きてきた。しかしマハヴィルの元に生まれる子供は皆女の子ばかり。四人目も女の子だったことで、マハヴィルはその夢を諦めた。
しかし、上の娘二人、ギータとバビータが、男の子との喧嘩で圧勝したのを見て、マハヴィルは彼女たちを鍛える決心をする。夢のために娘の人生を犠牲にするのか、村で笑い者になる、お金はどうするのか―そんな妻の心配をよそに、1年間だけ試しにやる、お前も一年心を葬ってくれ、と言われ、妻も引き下がるしかなかった。
朝5時に起こされ、男子でも音を上げるだろうトレーニングが始まった。あまりの辛さに不満を抱えるギータとバビータだったが、父は揺るがない。女がレスリングなんかやってと、村中から非難されたが、マハヴィルは動じなかった。
嫌々トレーニングをやらされていた二人だったが、あることをきっかけに父の愛情を理解し、自らトレーニングに精を出すようになる。やがて男子ばかりのレスリングの大会で次々優勝をかっさらうようになるのだが…。
というような話です。
なかなか面白かったです。本当に、予想外の展開というのは全然なく、きっとこうなっていくんだろうなと予想できるような王道のストーリーでしたけど、父の熱血と、娘たちの奮闘ぶり、そして立ちはだかる様々な障害など、ストーリー的に非常に良く出来ていたので、面白かったです。

まあそれはそうでしょう。映画の冒頭で、「この映画は、マハヴィルとギータとバビータの実話を脚色しており、他の登場人物はすべて架空です」という注意書きが出てきた。どこまで脚色されているのかは判断のしようがないけど、この映画のストーリー通りに物事が展開していったというわけではないのだろう。マハヴィルとギータとバビータは存在していて、彼らが国際大会で金メダルを獲った、というのは事実だし、そこに至る過程の描写にも実際に起こった出来事が多数盛り込まれているんだろうけど、それでもこの映画はフィクションだと思った方がいいんだろうな、と受け取りました。

フィクションだからこそ、これほど物語として面白い展開なのだろうな、と思います。恐らく事実はここまでドラマティックではなかったんだろうけど、ただ恐らくこの映画には、インド人たちが感じたドラマティックさが込められているんだろうなという気がしました。レスリングという競技においてインドに初めて金メダルをもたらしたギータという選手の存在感、しかもそれまでの国際大会で初戦敗退という結果を残せないでいた中(恐らくそれは事実なんだろうと思ったけど)、インド国内で行われた国際大会で優勝するという快挙を成し遂げたギータへの、インド人が感じたハイテンションが映画に込められているのではないかな、と思いました。

個人的に一番好きなシーンは、最後ギータが優勝した時に国歌が流れる場面です。あれは凄く良かったなぁ。

あともう一つ好きだったのは、決勝戦の前日、ギータが父親に翌日の試合の戦略を聞く場面。「戦略は一つしかない」と言った父親が、ギータに語った内容が、凄く良かったなと思います。

超分かりやすいどエンタメですけど、王道をひたすら突き詰める映画なので、誰が見ても面白く観れるんじゃないかなと思います。

「ダンガル きっと、つよくなる」を観に行ってきました

「娼年」を観に行ってきました

どうも僕には理解できないが、「女性にも性欲がある」ということが社会的に受け入れられていないように感じられる(あくまでも「社会的に」だ)

それを一番強く感じるのは、不倫報道だ。僕は、不倫やら浮気やらは自由にやればいい、と思っている人間で、不倫をあそこまで大々的に報道する理由がイマイチよく分からないのだけど、まあそれは本題ではない。僕が言いたいことは、男が不倫した場合より、女性が不倫した場合の方がより非難が多いように感じられることだ。

僕はネットをあまり見ないので、不倫報道があった時にネット上でどんな反応が出ているのかよく知らないが、イメージではこんな反応なのではないかと思う。男が不倫した場合は「しょうがないなぁ」となり、女性が不倫した場合は「あり得ない」というような。その、社会的な雰囲気が、ニュースや週刊誌などによる不倫報道に影響を与えているように思う。

そして僕は、女性が不倫した場合の「あり得ない」という反応(もし多くの人の反応がそうなのだとしたら、ではあるが)の背景にあるのが、「女性にも性欲があるという事実を認めない」という暗黙の了解に思えるのだ。

もちろん、女性も色々なわけで、性欲の程度も様々だ。つまり、女性にも「必ず」性欲がある、という主張をしたいわけでもない。僕はタイミングがあれば、女性に性欲の話を聞いてみるのだけど、「まったくない」という人から「凄くある」という人まで、色んなパターンを耳にしたことがある。もちろん、質問の内容が内容だし、それに男の僕が聞いているという点もあるので、相手の返答の信憑性をどこまで信じるかという問題はつきまとう。とはいえそれは、「ない」側の返答をした人に対しての話で、「ある」側の返答を疑う理由はない。そういう意味で僕は、「女性にも、好きな人とセックスをする、という以外の性欲がある人がいる」ということは、それなりには理解しているつもりだ。

だから僕にも、この映画の主人公のように、女性の性欲の奥深さとか幅広さみたいなものへの興味はある。まあ僕は残念ながら娼婦(男の場合も「婦」かな?)ではないのでそこまで深入り出来る機会は少ないのだけど、そういう機会(別に「娼婦になる機会」という意味ではないが)が降って湧いてくることがあれば、分け入ってみたい気持ちはある。

異性の性欲の話に限らないが、僕は、相手が隠したいと思っている事柄に興味がある。それは、弱さやコンプレックスや傷など、様々な呼ばれ方をするが、それらは本人の中で、積極的に誰かに話したり、表に出したりすることが出来ない領域に存在する。それを、まあこいつになら話してみてもいいか、と思ってもらえるように相手と関わるのが僕の基本的なスタンスだ。そういう意味で言えば僕は、娼婦的な生き方をしていると言えるかもしれない。

内容に入ろうと思います。
大学生の森中領は、碌に大学にも行かず、バーテンダーのアルバイトをしながら日々を無為に過ごしている。ある日、中学の同級生でホストをしている男がバーにやってきて、新しい金づるを見つけたと言ってきた。それが、後に領が深く関わることになる御堂静香との出会いだった。静香と短い会話を交わしながら、領は、「女なんてつまんないよ」とぼそぼそと喋る。
そして仕事が終わり、どこが気に入られたのか、領は静香の運転で自宅に連れて行かれた。そこで、さくらという喋れない女の子とセックスするように言われる。「セックスなんて、手順が決まった面倒な運動です」と言った領は、試験だったらしいそのセックスを経て、静香が経営するボーイズクラブ「パッション」で働くことになった。
「女の欲望の深さに圧倒されるはず」と静香に言われた通り、領が出会うことになる女性の欲望は様々だった。領は、母親が37歳で亡くなったのを一つのきっかけにして年上の女性への親愛の情が深くなっていて、それもあって「パッション」の中でグングン人気を上げていくことになるが…。
というような話です。

なかなか面白い映画でした。
正直なところ、ストーリー的にどうこうという映画ではないと思います。単純にストーリーだけ取り出してみれば、別に大したことを描いているわけではないし、特別面白いわけでもない。ただ、「松坂桃李という配役」と「気怠い諦念をまとった雰囲気」が凄く良かったと思います。

この映画の主人公の配役として、松坂桃李は絶妙だったなぁ、と思います。これは「気怠い諦念をまとった雰囲気」にも関わってくる話なんだけど、やる気がなさそうにボソボソ喋る感じとか、女性たちと関わる際の不器用なんだか大胆なんだかよく分からない感じとか、セックスをしているシーンの「観れる感」(汚くない感じ)とかが凄く絶妙だなと思いました。最初から最後までギラギラした感じは出なかったし、「探究心」みたいなところから娼婦の仕事にのめり込んでいるのだ、という設定に凄く説得力を持たせられる俳優だなと思いました。もちろん、他にも同じことが出来る人はいるのかもしれないけど、松坂桃李が凄くハマっていたので、他の人はちょっと想像出来ないなぁ。

特に、「探究心」からのめり込んでいる、と見せられるという部分は凄く大事だと思いました。ちょっと話は飛ぶけど、ちょっと前にイチローが選手兼フロントという立場になると発表した時の記者会見で、「自分を研究材料として、最低でも50歳まで選手としてやっていきたい」みたいな発言をしていました。これ、イチロー以外の野球選手が言ったとしたら、「は?」って思われそうな気がするんですよね。なんとなく、イチローだから成立する発言だと思うんです。それと同じように、松坂桃李が醸し出す雰囲気が、「探究心」からのめり込んでいるのだという設定に説得力を与えている、と感じられました。そこが凄く良かった。

映画全体の気怠さみたいなのも好きでした。どの役者も、結構気合の入らない喋り方をするんですね。まあそれはそうかもしれません。性欲という隠したい話をしているのだから。しかも、「社会的に」性欲があることを封じられている女性には、社会から外れない形で性欲を満たすことへの諦念みたいなものがあるんじゃないかと僕は思っているんですけど、この映画では、その諦念がちゃんと捉えられていた感じがしました。諦めているからこそボーイズクラブを利用している、という側面はあるんだろうし、そういう諦めをきちんと描き出しているところが、良かったなと思いました。

一箇所どうしても見れなかった場面があります。領が「何かお返しできることはないかな?」と言ってやった行為なんだけど、演技だと分かっていても、ちょっと正視に耐えなかったなぁ。まあ、そう感じさせるくらい、リアルだったということなんだろうけど。

あと、これはこの映画に限らない話で、最近映画を観ていて不思議に思うことなんだけど、日本映画の場合割と、主人公クラスの人たちの役名の漢字表記が映画の中で映されるな、と。この映画でも、パッションのオーナーである御堂静香の名刺や、主人公の森中領の学生証などが映し出されます。他の映画でも、表札とか手紙の宛名とか、とにかく色んな形で主役級の人たちの漢字表記が映し出される場面があるんだけど、なんでなんだろうなぁ。僕が想像出来るのは、SNSに書き込んでもらう用かな、ぐらい。不思議だなといつも思っています。

「娼年」を観に行ってきました

「今」を生きるためのテキスト 14歳からの哲学入門(飲茶)

いやはや!相変わらず!超絶!面白い!!!!
「哲学」という難しそうなジャンルを、これほど面白く、これほど分かりやすく、これほど興味深く紹介してくれる書き手はなかなかいないだろうと思う。
(哲学者が書く哲学の本、というのもいくつか読んだことはあるが、面白いは面白いんだけど、やっぱり難しいのだ。その点本書の著者は、本職の哲学者ではない(はず)だ。そこが良い)

本書には、「哲学」とは何かについて、こんな文章がある。

【(14歳というのは)それゆえに自分でものを考えて「自分なりの価値観」を構築していくべき時期でもあるわけだが、実は、こうした時期において一番学ばなくてはならないものが「哲学」である。なぜなら哲学とは、
「古い常識を疑って今までにないものの見方を発見し、新しい価値観、世界観を創造する学問」
であるからだ。】

【ともかく、そうした一連の行為―旧世代の価値観を疑い、新しい価値観を生み出すこと―それこそが「哲学する」ということだと本書(著者)は強く訴えたい】

そして、まさに本書は、そのことが明快に分かる作りになっている。本書は、こんな風に展開していく。

「あることをデカルトは言った」→「そのデカルトを否定するようなことをヒュームは言った」→「そのヒュームを否定するようなことをカントは言った」→「その…」

こんな感じで最後まで続いていく。

哲学に関する本を読んでいて難しいなと思うのは、何故その考えが生まれたのかという背景をちゃんと理解することだ。これは、古典文学作品を読む場合も同じ。何故その作品が生まれたのか、ということを理解せず、現代の価値観で作品を読んでいても理解できないことが多いだろう(というか、だからこそ僕は古典を読むのが苦手だ)。哲学にも同じようなところがある。ある哲学者の主張を理解しようとしても、「えっ、なんでこの人、こんなハチャメチャなこと突然言い出したわけ?頭イカれてるの?」みたいな感じになってしまうのだ。

しかし本書では、そんな風になることはない。個別で見れば、どの哲学者も「やべぇ」ことを言っている。こいつらマジで正気の頭でこんなこと考えてるのか?とツッコミたくなるようなことを言っている。しかし、彼らの主張は、その前の哲学(価値観)を受ける形で誕生し発展しているのだ、ということが理解できれば、読み方が変わる。もちろんそれでも、頭のイカれたことを主張しているという事実に変わりはないわけなんだけど、少なくとも、何故そんなことを言おうと思ったのかという部分は理解できるようになるので、受け入れやすくなる。

さて、僕はここまでで、哲学者を頭のイカれた人呼ばわりしているが、本書の文脈に沿えば、その主張は決して言い過ぎではない。というのは、本書にはこんなことが書かれているからだ。

【ただ勘違いしないでほしい。それほどの哲学を生み出せたのは、彼らが特別賢かったからではない。実際はその逆。彼らの多くは「十四歳レベルの発想」の持ち主であり、むしろそうであったからこそ当時の常識を乗り越えることができたのだ】

なかなか大胆な主張である。でも、確かに言っていることは分かるような気もする。本書を読めば分かるが、本当に取り上げられる哲学者たちは、ぶっ飛んだ、中二病的なことを言っているのだ。著者が噛み砕いて噛み砕いて提示してくれる、著名な哲学者たちの主張の核を知ると、「なんだよ、哲学ってもっと難解なものだと思ってたけど、意外と核の部分は難解ってほどでもないな」と感じられるのではないかと思う。

そして、タイトルにある「14歳」の意味も、まさに本書の文脈に沿って解されるべきなのだ。それは、「本書で伝えたいこと」について触れたこんな文章からも理解できる。

【本書で語りたいことはまさにここにある。本書は、いわゆる十四歳本のひとつであるが「十四歳のあなたたちがこれから生きていくために有用な哲学を教えますよ」という本ではない。また、「十四歳向けという名目で難解な哲学を子供でもわかるレベルまで噛み砕いて書きました、どうぞ十四歳以上の方も安心して読んでください、ていうか何歳だろうと買え」という本でもない。本書が伝えたいことは、すべての哲学は、十四歳レベルの発想、誤解を恐れずに言えば、「極端で幼稚な発想」からできているということ。どんな哲学書も難解そうに見えて、その「難解な部分(あらゆるツッコミを想定して専門家向けに厳密に書かれた部分)」を取り払ってしまえば、根幹にあるのはこの程度のものにすぎないということだ。
本書は、歴史に名だたる偉大な哲学者たちを十四歳の子供と同レベルだと断ずる本である。それは、哲学のハードルを下げて「哲学って本当は簡単なんですよ」などと言うためではない。哲学とは、もともと、幼稚な発想や誇大妄想のコジツケを「臆面もなく主張する」ことによって成り立っているものであり、十四歳頃に誰もが味わう「常識の崩壊」を乗り越えるためのものであるということを強く訴えたいからである】

タイトルの「14歳」が「14歳向け」という意味ではなく、「哲学とはそもそも14歳レベルの発想で出来ているんだ」という意味を込めているというのは、非常に新しいというか、少なくとも僕は同種の主張をしている本を見たことがない。もちろん本書は、14歳ぐらいから読める内容だと思う。難解で理解できない、というような文章は(デリダという哲学者の「難解さ」を紹介するために引用された文章以外は)ない。ごくごく一般的な語彙や考え方を起点に、どういう方向にどんな考えを極端に引き伸ばしたのか、という部分が詳しく語られるので、哲学について全然知識がない人(僕もそうだ)でも、ついていける内容になっていると思う。

個人的には、本書で描かれている哲学的な話についても、ここでガンガン書いてしまいたいのだけど、そうすると引用しまくって全体の流れを全部書きたくなってしまうので、それは自重しよう。本書で扱われている哲学者たちが、どんな主張をしていて、また誰のどんな主張によって打ち倒されてしまっているのかは、是非読んでみて欲しい。

個人的に特に興味深かったのは、「デカルトとペンローズの関係」「カントの哲学史上に残る偉大な洞察をDVDで喩える箇所」「ヘーゲルがどんなウルトラCで認識論の哲学を終わらせたのか」の三つ。もちろん、全編に渡って非常に興味深い内容だったのだけど、今挙げた三つは特に印象深かった。

最後に、「哲学」が終わってしまった現代において、これからどんな哲学が現れるべきか、という話が展開されるのだけど、そこにはこんな文章がある。

【(ある価値観の外側に出るためには)結局、どこかで誰かが、古い時代の価値を「お話にならない」としてポーンと捨て去ってしまわなくてはならない(言葉を重ねて論理的に否定するのではなく)。そして、誰かが、今の常識では極端で稚拙に思えるかもしれない、新しい考え方、新しい価値観を提示しなくてはならないのだ】

そう、これこそが本書の中で散々見せつけてきた「哲学」という営みである。そして現代において、この「古い時代の価値観をポーンと捨て去ってしまっている」人の一例として、著者は「ニート」の存在を挙げる。「働かなければダメだ」という、誰もが信じている絶対的な価値観に全力に逆らい抵抗し続ける存在であるニート。彼らこそ、これからの新しい哲学を生み出す存在なのかもしれない。

なにせ、あの偉大な哲学者であるニーチェも、ニートだったのだから。

【が、その試みははっきりいって分不相応と言える。だって、彼はただのニート(無職)にすぎなかったからだ。】

僕も、別の本を読んで、ニートが新しい才能や価値観を生み出す可能性がある、と考える人間の一人だ。社会はまだまだニートに厳しいが、もしかしたらいずれ、彼らニートこそが、現実の難問に直面した人間たちに予想もしなかった方向から新しい価値観をもたらす「哲学者」となるかもしれない。

飲茶「「今」を生きるためのテキスト 14歳からの哲学入門」

オックスフォード&ケンブリッジ大学 世界一「考えさせられる」入試問題 「あなたは自分を利口だと思いますか?」(ジョン・ファーンドン)

驚いた。
個人的には、メチャクチャつまらない本だったからだ。

普段僕はこんな風に単刀直入に「つまらない」とは言わない。自分が感じる面白さ、つまらなさが他人にも当てはまるわけがないし、どれほどつまらない作品であっても、どうにか面白い部分を見つけようと思いながら読んでいるからだ。

しかしなぁ…本書はちょっとダメだと思う。そして、その理由をどんな風に説明しようかと思いながら本書を読んでいた。

本書は、タイトルからも想像できるように、オックスフォード大学とケンブリッジ大学で出題されたことがある入試問題が扱われている本だ。タイトルにある「あなたは自分を利口だと思いますか?」も、入試問題の一つ。この二つの大学では、入試の面接でこんな質問を投げかけるのだ。

そして本書は、(誰がセレクトしたのかは知らないが)60の質問を選び、それらについて著者が著者なりの解答をする、という形式をとっている。

さて、本書における一番の価値は、当然だが、入試問題そのものだ。目次を見れば、どう答えたらいいか悩んでしまうだろう質問が様々に並ぶ。いくつか抜き出してみよう。

「あなたはクールですか?」
「自分の腎臓を売ってもいいでしょうか?」
「なぜ、昔、工場の煙突はあれほど高かったのですか?」
「誠実は法律のどこにおさまるでしょうか?」
「木を描くとします。その木は現実のものですか?」
「なぜ海には塩があるのですか?」
「チェーホフは偉大でしょうか?」
「古典学部が焼け落ちたらどうなるでしょうか?」

こんなのに、パッと答えなきゃいけないんだから、学生たちは大変だ。

まあそんなわけで、本書の価値は、これらの質問にある。質問にしかない、と言っていいだろう。

これは、本書の著者の解答に価値がない(=つまらない)という意味ではない。いや、確かに、個人的にはつまらなかったのだけど、そういう意味ではない。本書のように、二大学の入試問題を扱うのであれば、「解答」にではなく、もっと「質問」そのものに焦点を当てなければダメだろう、と僕は思うのだ。これが、僕が主張したい、「本書の価値は、質問にしかない」の意味だ。

質問に焦点を当てた場合、どういう内容になるべきか。例えば、出題者がこの質問をどんな意図で出したのか、という点は是非知りたいところだ。何を聞きたかったのか、どんな返答を想定していたのか、想定していなかった斬新な返しは何だったのか、などなど、質問そのものや、質問者に焦点を当てていけば、少なくとも僕にとってはより面白い作品になっただろうと思う。

本書の場合、作品のメインが、誰だかも分からない人(著述家であり、300冊以上本を出しているらしい)による「解答」なのだ。いや、解答者が誰であるか、ということはほぼほぼ関係ない。誰か一人が解答している、という構成は、僕にはまったく面白いとは思えなかった。

仮に「解答」に焦点を当てるのであれば、僕なら、複数の人間(著名人でも著名人でなくてもよい)を集め、彼らに議論をしてもらう形にするだろう。ある質問に対する解答は、それがどんな質問であれ多様なものとなる。まして、この作品で扱われている質問は、議論が百出しそうなものばかりだ。こういう質問に対して、専門的な知識を持っている人、専門的な知識はないが経験を積んでいる人、学校の教師や生徒、政治家や高校生などなど、様々な人たちを集めて話させる方が、圧倒的に面白いと思う。

本書では、「たった一人の解答者」が質問に対して答えてしまっているために、「質問」に焦点が当たらずに、本書の最も価値の高い要素をうまく活かしきれていないように感じられてしまった。著者はかなり博覧強記のようで、解答の中に書かれている知識の中には、知らなかったものや面白かったものもある。とはいえ、「オックスフォードとケンブリッジの質問に解答する」という意味での面白さはそこまで感じられなかった。著者は冒頭で、『だいたいのところ、私は読者が好きなだけ創意工夫を凝らせる余地を残して答えたつもりだ』と書いているので、そういうスタンスが解答をあまり面白くしなかったのかもしれない。

ちょっとこれはないだろー、と久々に感じてしまった作品でした。

ジョン・ファーンドン「オックスフォード&ケンブリッジ大学 世界一「考えさせられる」入試問題 「あなたは自分を利口だと思いますか?」」

「ホース・ソルジャー」を観に行ってきました

そうだよなぁ、アメリカが日本を守ってくれるわけないよなぁ、とこの映画を観て思った。というか、戦争映画を観ると、よくそう思う。

アメリカ軍の兵士たちは、何のために戦っているのか。もちろん、いろいろあるだろう。しかし、彼らの中には、確実に何かはある。その何かは、「上官から命令されたから」だけではない、もっと個人に根ざした何かだ。

自国を守るためという大きな気持を持つ人もいるだろうし、家族のためというより個人的な理由である者もいるだろう。そういう何かがあるから、彼らは、絶望的な状況でも戦うことが出来る。はっきりと、守るべきものが見えているからこそ、彼らは戦うのだ。

ニュースなどで、日米同盟や自衛隊の話が出る。日本は、アメリカの核の傘の下にいなければならないのだ、と。まあそうなのかもしれない。そもそも日本の場合は島国だから、兵士たちが日本の地で地上戦を展開する、という展開はあまり想像しにくい。だから、この映画からの類推で日本の現状を語るのも間違っているのだろう。日本がアメリカに守られるという場合、それは長距離弾道ミサイルを撃ち落とすというような、ボタン一つで行うことが出来、アメリカ側に直接的な被害が出なさそうな状況を指すのだろうから。うん、そうであれば、アメリカも、何か日本がピンチに陥った時に助けてくれるかもしれない。

でもなぁ、と思う。確かにそれは、技術的には可能だけど、感情的にはどうなんだろう、と思う。

日本は、憲法9条を前面に出して、戦闘に関わらない国であると謳う。それは良いことだと思う。しかしそのためには、日本は、世界から戦争をなくす努力を積極的にしなければならないだろう、とも思う。それをしない、ということは、「どっかで戦争してるの知ってるけど、ウチは関わらないよ」と言っているだけになってしまう。まさに、絵に描いた餅ではないか。

もちろん、戦争というのは様々な理由で起こり、原因は複雑に絡み合っている。戦争以外の問題解決手段を模索すべきだと、恐らく世界中の多くの人が考えているはずだが、それでも戦争はなくならない。

戦争という問題解決手段は最悪手だと思う。思うが、しかし、現実にそれは起こっているのだし、誰が始めたにせよ、そこには犠牲者が多く生まれている。

そういう中で、戦いに身を置くことを選ぶ者が多くいるのがアメリカという国であるように思う。もちろん、アメリカが仕掛けたり、アメリカが原因だったりする戦争も山程あるだろう。そういう意味では自業自得とも言えるのかもしれない。しかし、手段としての善悪はともかくとして、少なくとも世界の戦争に対して、自らの身を以って立ち向かうことを選ぶ国民が、アメリカにはたくさんいる。

そういう中にあって日本は、自国民を戦争に参加させない。是非の問題ではなく、そういう態度をアメリカの国民を良いと考える理由が僕には思い浮かばない。技術的には可能でも、感情的に「日本人を助けたくない」と考える国民が多くいても、僕は不思議だとは思わない。

戦争映画を観ると、そういう気持ちが強くなる。彼らが立ち向かっている現実は、少なくとも、現代を生きる僕ら日本人には想像出来ないものだ。確かに、一昔前とは戦争のルールが大きく変わった。現代では、戦闘機や基地からピンポイントで爆撃することが出来る。彼らも、その支援は受けている。しかしそれでも彼らは、銃弾や砲弾が飛び交う中を馬に乗って全力疾走するという、戦国時代に近いような肉弾戦を繰り広げているのだ。

戦争の良し悪しの問題は置いておいて、現実に戦争というものがそこにあるのだから、なんとかするしかない。そしてその「なんとかする」に、日本人はほとんど関わることがないのだ。そのとてつもない差を、映画を観ながらずっと感じていた。

内容に入ろうと思います。
アメリカは度々、ビンラディンによるテロ攻撃にさらされてきた。そしてあの日、2001年9月11日、世界貿易センタービルに航空機が突っ込んだ。訓練中、そのテロのことを知ったネルソン大尉は、すぐさま陸軍へと戻り、現場復帰を申し出た。しかし、デスクワークを希望したのはお前だと言って却下される。しかし、ソマリアの内戦や湾岸戦争をくぐり抜けてきた歴戦の猛者が間に入り、ネルソンは仲間と共にアフガニスタンへと飛んだ。
そこで彼は、タリバンに占拠されているマザーリ(マザーリシャリーフ)を奪還する作戦を命じられる。ネルソンが率いるアメリカ陸軍特殊部隊チームODA595のメンバーは12人。彼らは北部同盟の一角を担うドスタム将軍と合流し、彼の信頼を勝ち得て作戦行動を共にするように言われる。ドスタム将軍らとタリバン兵の拠点に接近し、その座標を伝えることで航空支援によって爆撃する。そんな風にして、険しい山岳地帯を馬で移動しながら、マザーリ奪還を目指すのだ。
上官から6週間と言われたが、ネルソンは3週間でと返した。というのも、同地域で戦ったソ連軍が、冬の時期は山岳地帯の移動が困難になると何かで書いていたのを読んでいたからだ。陸軍の作戦立案者は、マザーリの奪還に2年掛かるだろうと想定していた。それを、たった3週間で。
必ず帰る、と妻と約束したネルソンは、出発前日の夜、手紙を書かないことに決める…。
というような話です。

このODA595というのは実在したようで、長らく機密扱いになっていた事実だそうです。ただ今では、世界貿易センタービルの跡地に、彼らの異形を称える銅像が立っているのだとか。

凄い話でした。実話を元にした話というのは、「実話である」という説得力しかなくて、物語としてはさほど面白くないことが多いです。まあ、それは当然と言えば当然で、現実なのだから物語のように分かりやすく起伏があったりするわけがありません。ただこの映画は、もちろん「実話である」という説得力の強さの他に、映像的な強さがあり、映画としても十分楽しめる作品でした。どこまでが事実なのか、こういう映画を観る度に判断が難しいですが、戦闘シーンの迫力や残虐さみたいなものは、当然実際の方がさらに上なのだろうと思います。

とはいえ、戦闘シーンの迫力は凄まじいものがありました。こういう戦争とか戦闘の映画を観る度に、どうやって撮ってるんだろうなぁ、と思うことが多いですが、この映画でもやはりそう感じました。僕の目には、本当に戦ってるようにしか見えなかったです。しかもその戦闘を、アフガニスタンの険しい山岳地帯でやるわけです。映像に惹き込まれてはいるんだけど、同時に、馬は本物だよなとか、これホントに中東で撮影してるのかなとか、そんなことを考えてしまいました。

とにかく物語としての要素は単純で、一歩も引かない「勇敢さ」と戦闘の「壮絶さ」がほとんどで、あとは家族との関わりとか、仲間の助け合いなんかが描かれていきます。物語としては、特にトリッキーな要素はありませんが、やはり「実話である」という説得力と、戦闘シーンの迫力でグイグイ惹き込まれていく映画だなと思いました。

僕は、戦争になったら可能な限り逃げようと思うし、誰かを殺してまで生き延びようとも思っていません。だからそんな人間が言うべきことではないわけですが、しかし映画を観てやはりこうも思いました。日本も、自国は自国で守れないとマズイんじゃないかなぁ、と。少なくとも、その意志ぐらいは持てる国民であるべきなんじゃないか、という気はしました。いや、戦争には関わりたくないし、僕は率先して逃げますけどね。

「ホース・ソルジャー」を観に行ってきました

「サバービコン 仮面を被った街」を観に行ってきました

不穏な空気は凄く良かったんだけど、えー、そんなところに話がまとまっちゃうのかー、という残念さがあった。悪くはなかったんだけど、ちょっとなぁ。

内容に入ろうと思います。
1947年に生まれた街・サバービコンは、数軒の家からスタートして12年、現在は6万人に迫る住民が住んでいる。そこに、マイヤーズ一家が引っ越してきたからさぁ大変。マイヤーズ一家は、黒人なのだ。住民たちは「隣人を選ぶ権利」を主張し、マイヤーズ家の排斥に力を入れることになる。
その隣に住むガードナーの家に強盗が入った。強盗はガードナー家の面々を縛り上げ、クロロホルムで意識を失わせた。ガードナーの一人息子であるニッキーは病院で目を覚ましたが、そこで母のマギーが亡くなったことを知る。クロロホルムを吸引しすぎたのだという。助かったのは、ガードナーとニッキー、そしてマギーの姉でありニッキーの伯母に当たるローズだ。
ニッキーは母を失った悲しみを抱えるが、その一方で、父と伯母が何かを隠していることを知る。隣家では、マイヤーズ家に対する嫌がらせが日増しに強くなっていく。
一体、何が起こってるんだろう?
というような話です。

冒頭からしばらくの間は、凄く面白かった。それは何故かというと、謎しかなかったからだ。サバービコンで起こっていることも、ガードナーの秘密も、強盗たちの行動も、何もかもが謎だった。正直、全然状況が理解できず、何だなんだ、何が起こってるんだ、というワクワクするような気持ちで観ていた。

けどしばらくして状況が少しずつ明らかになっていくと、僕の中でちょっとずつテンションが下がっていってしまった。あまり詳しくは書かないが、一つだけ書くとすれば、ガードナーの秘密と、サバービコンで起こっている出来事が、直接的には関係ないと分かるからだ。

僕は勝手に、そこはいずれ結びついてくるんだろう、と思っていた。そしてそこがどう結びつくのか、サバービコンという街は一体どんなところなのか、という興味で映画を観ていたのだ。しかし、そこが無関係だと分かってきて、サバービコンで起こっていることとガードナーが抱えている秘密が別個のものだと分かると、なーんだ、という気持ちになってしまった。どうしても個人的には、そこはリンクして欲しかったし、そのリンクのさせ方こそがこの映画の肝だと思い込んでいたから、僕の勝手な思い込みが外れたというだけで映画を低く評価するのは正当ではないかもしれないけど、なんとなくガッカリ感を味わってしまった。

映画全体の、異様な、何が起こるのかまるで想像がつかないような雰囲気は結構好きだ。さらにストーリーも好きになれたら良かったな、と思う。

「サバービコン 仮面を被った街」を観に行ってきました

ダークマターと恐竜絶滅(リサ・ランドール)

いやはや、やはりメチャクチャ難しい!メチャクチャ面白いけど、メチャクチャ難しい。

難しいというのは、「僕が理解できているけど説明が難しい」という意味では全然なくて、「そもそも僕が理解できていないから説明も難しい」という意味だ。難しいので、無理そうなところはなんとなく読むしかないのだけど、それでも面白いのだからさすがである。

本書には様々に刺激的なことが書かれているが、僕が一番驚いた記述は、実はこれである。

『2010年3月に、古生物学、地球化学、気候モデル研究、地球物理学、堆積学の各分野の専門家41名が集まって、この20年以上のあいだに積み重ねられていた衝突―大量絶滅仮説のさまざまな証拠を検討した。その結論として、チクシュルーブ・クレーターをつくったのもK-Pg絶滅を生じさせたのも、確実に6600万年前の流星物質の衝突であり、そしてその最大の被害者が、かの偉大なる恐竜だったという見解に落ち着いた』

これは超短く要約すると、「恐竜が絶滅したのは隕石のせいだ」ということだ。

いや、驚いた。僕は、そんな結論、もっとずっと以前に出ているんだと思っていた。本書によると、その結論が最終的に下されたのが、今からたった8年前だという。もちろん、可能性としてはそれ以前から存在していたはずだから、話としてはもっと前から耳にしていただろうが、とはいえ、本書にはこんな記述もある。

『1973年には地球化学者のハロルド・ユーリーが、溶けた岩石からできるガラス質のテクタイトを根拠に、流星物質の衝突がK-Pg絶滅の原因だったと提唱したが、その時点でもまだ大半の科学者はユーリーの考えを無視した』

『しかしながら、そうした先見の明のある鋭い考えも、アルヴァレズの説が発表されるまでは基本的に無視されていた。宇宙からの飛来物の衝突が絶滅を引き起こすという考えは、1980年代になってもなお過激と見なされ、ちょっと頭がおかしいのではないかという第一印象さえ持たれかねなかった』

ほえ~、という感じだ。なんとなく今では常識みたいな扱いになってる考え方のはずなのに、今からたった30年ほど前には過激な説だったのだ。そもそも『宇宙から飛来した物体が地球にぶつかるなんていう奇妙な減少は、とても信じがたいことのように思えるものだ。実際、かつての科学界はそんな主張をまったく真実だとは思わなかった』『隕石が宇宙由来であるという考えがようやく正式に認められるにいたったきっかけは、1794年6月、シエナのアカデミーに不意にたくさんの石が落ちてきたことだった』と書かれている。宇宙から何かが地球にやってくる、という考えが受け入れられるようになったことが、そもそも最近のことのようだ。

さて本書は、まさにタイトルの通り「ダークマター」と「恐竜絶滅」の話だ。著者のリサ・ランドールは世界的に著名な物理学者であり、検証可能な物理モデルを構築することを生業とする素粒子物理学者だ。「ワープした余剰次元」という仮説を打ち立てたことで世界的に話題となり、第一線の研究者と見なされている。そんな著者が見出したテーマが、「ダークマター」と「恐竜絶滅」なのだ。

一見関係がなさそうな…と書こうとして、そもそも一般的には「ダークマター」というものが知られていないだろうから、関係がありそうかどうかも判断できないだろう。というわけでまず、ダークマターについて少し書こう。ダークマターという存在については、本書を読む前からざっくりとは知っていた。

科学は、色んな観測やら観察やらを駆使して、凄いことに気付いた。なんと、宇宙の全エネルギーの内、僕らが知っている物質(「通常の物質」と呼ぼう)が担っているのはわずか5%程度だというのだ。残りの95%は、正体不明なのである。そしてその正体不明の存在に、「ダークマター」と「ダークエネルギー」という名前がつけられている。

「ダークエネルギー」についてはここでは触れないが、これは基本的に物質ではない。しかし「ダークマター」は物質だ。しかし、僕らは「ダークマター」を見ることも観測することも触れることも出来ない。何故なら「ダークマター」は重力としか相互作用しない(とされている)からだ。僕らが何か物を見る時には、光(というか、何らかの電磁波)と相互作用してくれなければならない。しかし、光とは相互作用しない(とされている)ダークマターは、どんなことをしても見ることは出来ないのだ。重力以外には相互作用しない(とされている)ので、僕らのすぐ傍にダークマターが存在していたとしても、僕らには見ることも触れることも出来ないのだ。

ホントにそんな物質が存在するのだろうか?科学者は、色んな理由から(本書にその色んな理由が書かれているが、僕にはちゃんと理解できないので割愛)存在すると考えている。目には見えないが、ダークマターは確実に存在する、と考えられている。しかしその性質はほとんど分かっていない。

誤解されやすいのは、ダークマターをブラックホールと混同することだ。ブラックホールが見えない理由は、光をすべて吸収してしまうからであって、ダークマターとはまったく別物だ。

さて、そんな謎の物質である「ダークマター」と、6600万年前に隕石によって引き起こされた「恐竜絶滅」は、一見なんの関係もなさそうだが、著者はこの二つを結び付ける。

リサ・ランドールのデビュー作である「ワープする宇宙」は、最終的に著者の「ワープする余剰次元」という仮説が提示される作品だが、その前段階として、20世紀物理学が辿ってきた道筋を可能な限り分かりやすく噛み砕いて説明をした。本書も同じだ。本書でも著者は、最終的に「ダブルディスク・ダークマター(DDDM)理論」を提示するが、それを理解するためには、ダークマターやビッグバン、銀河系や太陽系の成り立ちなどを理解しなくてはいけないし、一方で、絶滅とはどういう状態を指すのか、いかにしてK-pg絶滅と隕石が結び付けられたのか、などと言った知識が必要だ。本書では、ここ50年ほどで急速に理解されるに至った、宇宙と古生物学に関する知見が、著者の好奇心と分かりやすい説明に乗せて非常に軽快に描かれていく(とはいえ、それらの説明も、決して容易ではない)。

本書全体を簡単に紹介するのは僕には不可能だが、著者が「DDDM理論」を考えつくに至った過程をざっと書くことは出来る。

まず著者と共同研究者らは、世界中の研究者が着目したある数値が気になったのだという。結果その数値は、後々間違いであると判明するのだが、著者らは、その数値がまだ正しいかもしれないと思われていた頃に、これが成り立つ可能性があるモデルを構築出来ないか、と考えた。何故ならその特異な数値は、もしかしたらダークマターが対消滅したことによって生じたものかもしれないと目されており、そうだとすればダークマターを捉えるのに非常に有効な発想が出来るのではないかと考えたからだ。

本書には、ダークマターの可能性として、現在挙げられている様々な仮説の内有力なものがいくつか挙げられている。「WIMP」「非対称ダークマター」「アクシオン」「ニュートリノ」など様々な可能性が考えられていたのだが、著者らはそれらの仮説から無意識に排除されている可能性があることに気付いた。

それは、「ダークマターは一種類ではないかもしれない」という可能性だ。

「通常の物質」は現在、標準モデルという非常に精緻な理論によって説明がつけられている。クォークという素粒子に様々な性質があり、それぞれのクォーク毎にどんな力と相互作用するのかしないのかということが決まっている。つまり、僕らの世界を構成する「通常の物質」は、決して一種類の素粒子から成り立っているのではなく、いくつもの性質を持つ素粒子から成り立っているのだ。

だとすればダークマターも、いくつかの性質を持つ複数のダークマター素粒子から成り立っているのではないか、と考えるのは妥当だろう。

著者らはその前提で思考を進めることで、「ダークディスク」という、これまで誰も想定しなかった構造物が銀河系に存在しうることに気がついた。このダークディスクが存在するかどうかは、観測可能であり、なんと著者らが論文を発表した数ヶ月後に、「DDDM」の正否が判定可能な、まったく別の目的で行われる実験がスタートするという超幸運があった。まだ結果は出ていないみたいだが、「DDDM」が正しいかどうかは、もうしばらくすれば観測によって判断される。

さて、ここまでのところ、まだ「恐竜絶滅」と結びついていない。その通り、著者らは最初から「恐竜絶滅」のことを考えていたわけではない。「DDDM」の原型となるアイデアを話すためにとあるディスカッションに参加した際、主催者が彼女に、「もしかしたらそのDDDMが恐竜絶滅のきっかけになったかもしれない」と聞いたことがきっかけだったという。その時まで彼女は、その方面に関する具体的なことはまったく知らなかったが、地球上の生物の絶滅にはある一定の周期があるように観察される、という見方が存在していたのだ。その周期は、彗星や小惑星によってしか説明し得ないが、しかし、既存のどんなモデルでも、生物の絶滅の周期をうまく説明できていなかった。

著者らはそれらの論文を精査することで、状況をきちんと把握した。つまり、「生物の絶滅に周期があるという見方が間違っている」か、あるいは「まだ誰も捉えることが出来ていない現象によって生物の絶滅の周期を説明できる」ということだ。そして著者らが構築した「DDDM」は、その候補になり得そうだった。

そこで著者らは、「DDDM」と「恐竜絶滅」の可能性を検討し、その結果、「DDDM」が生物の絶滅の周期を説明しうる、という結論に達したのだ。後は観測によって、「DDDM」の正否が判定されるのを待つだけだ。

実際には本書は、もっともっと刺激的なことがたくさん書かれた本なのだけど、僕がそれなりに説明できそうなのはこの程度のことしかない。内容が結構高度で、ついていくのがやっとという感じだった。

最後に。意外だと感じた記述についてもう少し触れて終わりにしよう。それは「絶滅」という考えについてである。

『絶滅という概念は比較的新しい。フランスの博物学者で、のちに貴族にもなったジョルジュ・キュヴィエが、完全にこの惑星から消えてしまっている種があるという証拠に気づいたのが、ようやく1800年代初めのことだ。キュヴィエ以前にも、過去の動物の骨が発見されてはいたが、発見者は決まってそれらを現存する種と結びつけようとした。もちろん当時としては、まずそう考えるのが常識だったのだろう。たしかにマンモスとマストドンとゾウは別のものだが、それほど大きく違っているわけでもないのだから、最初はそれらを混同してもおかしくないし、少なくともそれらの化石を結びつけたくなるに違いない。これを解きほぐしたのがキュヴィエであって、彼の研究により、マストドンとマンモスは現在生きているどんな動物の直径祖先でもないことが実証された。キュヴィエは引き続き、ほかの多くの絶滅種も特定した。
だが、絶滅の概念はいまでこそしっかり確立しているが、種全体が消滅して二度と戻ってこないという考えは、最初は多くの抵抗にあった。』

冒頭で書いた「恐竜絶滅」も同じだが、その時代において進歩的な考え方は、後に正しいと認められるかもしれないが、やはり最初は大きな抵抗に遭うようだ。そう考えると、現在否定されている仮説や理論も、いつ肯定されるか分からない、ということにもなる。科学という学問は、間違いを間違いと認め、現実と照らし合わせて正しいものを最終的には選び取っていく、というところがいいなと思う。

そして絶滅に関してはもう一つ、非常に意外な記述があった。

『現在、多くの科学者は、現在まさに第六の大量絶滅が進行しつつあると考えている。しかも今回の絶滅は、もともと人間が引き起こしたものなのだ。(中略)推定は確定ではないが、現在のペースではことによると平均の何百倍も速い』

そうなのか、と思う。隕石の衝突による絶滅、というのは、まあ仕方ない感じもする。避けようがない。しかし、僕ら人間がいることによって他の種が大量に絶滅の危機に瀕している、というのは、あまり穏やかな話ではない。そういう加害者の一人ではいたくない、と思うところである。

リサ・ランドール「ダークマターと恐竜絶滅」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)