黒夜行

>>本の中身は(2017年)

水曜の朝、午前三時(蓮見圭一)



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僕らは、これまで歩んできた人生すべてを「思い出す」ことは出来ない。もしかしたら人によっては、これまでの人生すべてを「記憶している」人はいるかもしれない。ただ、それでもすべてを「思い出す」ことは出来ないだろう。何故なら、すべてを思い出すためには、これまで歩んできた人生と同じだけの時間が掛かるからだ。

だからこそ僕らは、自分の人生を振り返って「思い出す」時、思い出すことを限定しなければならないはずだ。

僕らは、どんなことを「思い出す」ことが多いだろう?

僕は、過去を振り返ることがほとんどない。そもそも覚えていない、ということもあるのだが、昔のことなんか振り返っても仕方ない、という感覚もある。その過去が、現在やあるいは未来に何らかの関係を持ちそうなのであれば、振り返ってみることはあるかもしれない。しかし、少なくとも僕の場合は、どこかの時点でピリオドが打たれた出来事については思い出す機会はほとんどない。

そんなことを書きながら、僕は、世の中の人のスマホの中に入っている写真のことを連想した。人によっては、料理を食べる前に写真を撮ったりする。あの写真は、その後見られる機会があるのだろうか?と僕はいつも思ってしまう。もちろん、食べ歩きを生業や趣味にしている人や料理人、あるいはダイエットをしている人なんかは、必要があってそういう写真を見返す機会もあるかもしれない。しかし、記念日でも特別な料理でもない、ただ毎日同じように食べている料理の写真を、その日インスタに上げた後、一度でも見る機会があるのだろうか、と思ってしまう。

僕たちはきっと、そういう料理の写真のことは思い出さない。現在や未来に繋がらない、ピリオドが打たれてしまったものだからだ。

ただ、そう考えながら、僕はこんな風にも思う。僕たちの人生の輪郭を形作っているのは、むしろそういうピリオドが打たれたものなのではないか、と。記念日に食べる料理や見たことのない料理なんかは「特別」なもので、「特別」であるが故に思い出される可能性も高まる。しかし、そういう「特別」は、僕らの人生の中では例外に近いものがある。僕たちの人生の輪郭を作り出すのは、そういう「特別」ではなく、むしろ、撮ったら忘れてしまうような毎日の料理の方だろう。

話はいきなり飛ぶが、ビジネス書や自己啓発本などを読んで違和感を覚えることがある。いわゆる「成功者」たちが書くことの多いジャンルの本であり、そういう「成功者」たちは、自分が成功した「要因」を、自分の人生の中から取り出してみせる。

確かに、彼らが挙げた「要因」は、成功の一角を成しているかもしれない。しかし、それは、振り返ってみて思い出せる、という点でやはり「特別」なのだと僕は感じる。そうではなくて、振り返っても思い出せないような「特別」から外れたものの方にこそ、本質的な成功の「要因」があるのではないか―。僕はそんな風に感じてしまう。

話をダイエットに置き換えると、もう少し分かりやすいかもしれない。ある人が2ヶ月で10キロ痩せた、それは毎朝リンゴを食べ続けたからです、と主張したとしよう。しかし、実際は、毎朝リンゴを食べるようになったのと同時に、それまで10年間毎朝食べ続けていたゆで卵を止めたからかもしれない。そういうことはいくらでもあり得る。

思い出せることは、自分の人生の輪郭にはならなかったのではないか―。この主張は極論だと理解してはいるが、時々こういうことを考えて、自分を形作ったかもしれない、今の僕には思い出すことが出来ないものについてふと考えてみる。

内容に入ろうと思います。
僕は、妻・葉子の母・四条直美が、病室で吹き込んだテープの存在を知っている。
直美は、1992年の年明けに脳腫瘍の告知を受けがんセンターに入院、その年の秋に45歳で死んだ。彼女は翻訳家であり、かつ少しは名の知れた詩人だった。僕と葉子とは小学校からの同級生であり、それもあって僕は、子どもの頃から直美のことを知っていた。
僕は直美のことが好きだった。
直美は、自らの死を意識してこのテープを残した。テープは、ニューヨークに留学していた葉子の元へと送られた。そしてその内容は、直美が家族に秘していた過去のある出来事についてだった。葉子は子どもの頃から、時々母親が京都に行くことを訝しんでいた。どうやらこのテープは、そのことと関係あるようだ。
A級戦犯を祖父に持つ直美は、許嫁がおり、大学を出て就職をしたら、早い段階で結婚して家庭に入ることを両親から望まれていた。直美は、そんな生き方は嫌だった。せめて先送りにしたいと、直美は大阪万博でのコンパニオンの仕事を見つけてきた。両親を無理矢理説得して大阪に向かった直美は、そこで人生を揺さぶる出会いを経験する…。
というような話です。

丁寧な物語だな、という印象でした。人物の造形や情景の細部がきっちりと描かれていて、人間や物語が立ち上がっているという感じがする。翻訳家であり詩人でもあった女性の語り、という設定に負けないように、言葉や思考がシャープな感じで、印象的な文章が多かった感じがします。

本書の特徴は、母親が娘に語った物語だ、ということ。普通の小説であれば、物語は「作者→読者」という形で届きますが、この物語は「母親→娘」を覗き見している、というような形で届きます。だから、直美の語りのあらゆる部分で、「何故彼女は娘にこれを語っているのか」と問うことが出来る。そういう問いかけに作品が耐えきれているのか、という点は各自で判断して欲しいのだけど、自分だったら同じ状況で何を語るだろうか、という想像も含めて、物語を受け取れそうだなと感じました。

個人的には、物語そのものにはさほど興味は持てなかったのだけど、場面場面での直美の思考や、直美が捉える時代観、その時代を生きる人たちの価値観や行動原理みたいなものが面白いなと感じました。特に直美の、両親や、あるいは大阪万博で一緒に働いていたコンパニオンなどを観察し言葉で捉える力みたいなものが結構好きでした。辛辣に、直截に、でも拒絶するわけではないという、なかなか絶妙なバランスで他人を捉えるスタンスが、いいなぁ、と思いました。

たぶん、僕も直美に直接会う機会があったら、好きになりそうな気がします。

蓮見圭一「水曜の朝、午前三時」

ぐうたら旅日記 恐山・知床をゆく



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内容に入ろうと思います。
本書は、エッセイストであり、「プロの無職」(という表現が適切に思える人なのだ)でもある著者が描く旅日記です。基本的に旅は嫌いらしいんだけど、嫌いなのは準備したり手配したりすること。それらをすべて免除され、自由気ままに好きなように行動し、いつでも酒を飲みまくる著者は、なかなか楽しく旅をしている感じがします。

本書の内容をざっくり紹介するとすれば、著者の文庫版あとがきを引用するのが適切でしょう。

『自分で言うのもなんだが、「勇気あふれる書」だと思う。
土地の風景や人との出会いや食べ物など、いわゆる旅の醍醐味についてほとんど書いてはいないくせに、堂々「旅日記」と称する勇気。
せっかく遠く離れた地へ出向いても、家にいる時と同じようにテレビを観ながらビールを飲んで過ごす勇気。
黙っときゃいいのに、わざわざ「あとがき」で「続編」に触れる勇気。
この本は勇気にあふれている』

まあ、そういうことである。

副題に「恐山・知床をゆく」と書いてあるが、本書を読んでも恐山や知床のことはよく分からない。よく分かるのは、著者やその仲間たちがいかにアホアホしいか、ごく僅かにいる有能な幹事役にいかに支えられた旅であるか、著者の妄想がいかに自由奔放か、ということぐらいである。

まあしかし、面白いのはさすが北大路公子という感じである。碌でもない旅だし、読んでて得られるものは特に何もないが、それでも、これほど気を抜いて読める本も珍しいというぐらい、力を入れずに読める。この力の入れ無さ具合はなかなか驚異的である。

しかし、ちょっと真面目なことを言えば、要するに、目の前にある光景から何を切り取るのか、ということが表現(の一つ)なのであって、それを言葉や絵や音楽で行う。著者は、目の前にある光景から、誰もが切り取りたくなるようなものはほぼ排除し、誰も拾わなそうなもので文章を書く。これは非常に高度な技量が必要だと言えるだろう。

さらにそこに著者は、謎の妄想を混ぜ込む。この妄想がなかなか良くできていて、秀逸だ。本書には、三つのお題から物語を作る、というルールで作られた短い小説が5編載っているが(何故載っているかは不明)、この小説を読んで、この著者の想像力は並外れているなと感じたものだ。僕はこの5編の小説を、どんなお題を元に作ったのか想像しながら読んだが(お題は、各小説の最後に載っている)、予想はことごとく外れた。「そんなお題からこの物語を考えたのか!」という驚きが楽しめる作品たちだった。

話を戻すが、著者の妄想力はなかなかのものだ。酒を飲みすぎて、現実と空想の区別がつかなくなってしまっているのかもしれない。そう考えると、著者が「妄想ではない」という体で書いている部分も怪しい。実はそこもすべて、著者の妄想なのではないだろうか?というか、コパパーゲ氏とかみわっちとかハマユウさんとかは本当に実在するのか?ってか、著者は本当に旅に行ったのか?みたいなところまで疑おうと思えば疑えてしまうのです。秀逸な想像力を見せつけることが、現実の描写も不安定にさせる、という凄技である。

などと書いてはいるが、こういうのはすべてただの曲解であり、著者はただ著者なりの旅を素直に書き記しているだけなのだろう。「オッカムの剃刀」を持ち出す必要はないのである。

まあ色んなことを書いてはみたが、とにかく脱力系のエッセイであり、こんな風に生きられるのって才能だよなと思わされるような、なんとも面白くて羨ましい旅日記であり人生なのである。

北大路公子「ぐうたら旅日記 恐山・知床をゆく」

ふたご(藤崎彩織)



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僕には持論がある。
辛い境遇にいる者ほど、言葉が豊かなのだ、と。
言葉に惹かれる僕は、だからそういう人に惹かれる。

『愛や恋。私の中でそれらは、突然の豪雨みたいなものかもしれない。予期せぬ雨の中で、降り注ぐ感情の中で、私はいつもびしょ濡れになってしまう。身を守る屋根を見つけなくてはならなくて、それが私にとっては言葉なのだ』

『ピアノに向かうのが苦しかった時、自分と月島の関係に悩んだ時、私が迷子にならないように助けてくれたのは、いつも言葉だった』

辛い境遇にいる時、僕たちは孤立してしまうことが多い。誰かとの関係がうまくいかなかったり、ある状況で失敗してしまったりする中で、僕らは突然に、あるいは少しずつ孤立していく。

まず、自分が置かれたそういう状況を認識するために、言葉が必要とされる。言語学の世界では、言葉というのは、区別する必要が生じた際に生まれるという説があるらしい。犬が一匹いるだけなら、その犬を指して「あれ」というだけで事足りる。しかし、目の前に犬と猫がいる場合には、それらを区別するために名前が必要になる。これは、価値観や概念でも同じことだ。だから、周囲と相容れない状況に陥るということは、その時点で言葉を多く獲得できる可能性が高まる。

さらに、どうにかして「みんな」の輪の中に入ろうとする場合、「みんな」のルールと自分のルールを言葉で認識しなければならない。「みんな」同士は、言葉なんか使わなくても集団のルールが理解できているみたいだけど、自分は違う。だからそれを理解するために、言葉でそれを捉えなくてはならない。

こういう経験を日々積み重ねていくことで、言葉というのは豊かになっていくのだと僕は思っている。また、辛い境遇にいる時、自分にピッタリくる感情や考えを探すために、たくさんの言葉(本でも音楽でも映画でも)を取り込みたくなるだろう。そんな風にして、言葉によって自分を支えていくのだ。

先入観を与えるようで申し訳ないが、本書は、「SEKAI NO OWARI」のピアニストである著者と、ボーカルの深瀬慧の実際の話を元に書かれているようだ(著者本人がそう明言しているわけではないようですが)。つまり、本書の中でずっと苦しんで苦しんで苦しんでいる主人公・西山夏子は、著者自身ということなのだろう。

この作品は、言葉の力がとても強い。これだけの言葉は、傷ついて傷ついて傷ついて来た者だからこそ獲得し得たものだと僕には感じられる。だからこそ西山夏子が著者自身であると、僕にはすんなり信じることが出来るのだ。

「ふたご」というタイトルは、西山夏子と月山悠介の関係を象徴するものだ。

『彼は、私のことを「ふたごのようだと思っている」と言った』

そんな一文から始まる本書は、人と人とが同じ時間を過ごすことの、絶望的な孤独を描き出している。

『もしこれ以上、二人がひとつの感情を共有してしまえば、私たちは、もう一緒にいられなくなるかもしれない。一緒に悲しんで、一緒に泣いて、お互いを舐め合うような関係に、未来なんてない』

二人はずっと、名前の付かない関係のままでいた。最初は、中学生の先輩・後輩として出会った。しかし出会った時からもう、先輩・後輩という関係は存在しなかった。ただの友達でもない、恋人なわけでもない、もちろん家族でもない。しかし二人は、長い時間を共有し、お互いの価値観をぶつけ合い、その存在を必要とし、不可欠なものとみなした。まるで「ふたご」のように。

『どうしてなのか、大切にしようと思えば思う程、私たちはお互いを蝕んでいってしまう』

西山は月島のことが好きだった。振り向いて欲しかった。女として見て欲しかった。でも、月山はそんな風に自分のことを扱ってはくれない。月山のことを一番理解し、一番濃密な時間を過ごし、月山にとって必要な人間であるはず、という風には思える。しかしそれでも、西山は月山の「特別」になれないでいる。

『自分が誰かの特別になりたくて仕方がないことを、私は「悲しい」と呼んでいた。誰かの特別になりたくて、けれども誰の特別になれない自分の惨めさを、「悲しい」と呼んでいた』

西山は、自分が何を求めているのかだんだん分からなくなっていく。少なくとも、物理的にはずっと一番近くにいられる。自分が月山のことを特等席で見ることは出来る。でも、月山は自分の方を見ていない。見ていないと感じられてしまう。
でも、じゃあ自分を見てくれたら満足出来るのか。女として扱ってくれたら嬉しいのか。そこがもうグチャグチャになってしまう。

『女としての生活を捨てたからこそ、私はここにいられる。そう信じていた。その確信が私の自信だった』

西山のグチャグチャした葛藤は、まったく同じものではないだろうけど、僕にも分かるような気がする。僕は、自分が恋愛に向いていないという自覚があるが、何故そう思うかと言えば、僕自身の中に相反する二つの感覚があるからだ。それは、「好きになった人に関心を持ってもらいたい」という気持ちと、「好きになった人に関心を持ってもらいたくない」という気持ちだ。自分の中で、この二つのまったく異なる感情が同時に存在している。そしていつも、自分のことがよくわからなくなる。

きっと西山も、同じような感じで、自分のことがよく分からなくなっていっただろう。

『たとえ他の女の子の話だとしても、月島に話を聞いているのが、楽しかった。異性としての好意が自分に向けられていなくても、結局自分のところに帰ってきて、いつまでも話をしている月島のことが好きだった』

分かるなぁ、こういう感覚、凄く。

『いっそのこと、本当にふたごのようであったら、こんな風にいつまでも一緒にはいなかったのだと思う。いや、はっきり言おう。私たちがふたごのようであったら、絶対に、一緒にいることは出来なかった。
確かに、私は人生の大半を彼のそばで送ってきた。晴れた日も雨の日も、健やかな日も病める日も、富めるときも貧しきときも、確かに、私は彼のそばにいた。
そしてその大半は、メチャクチャに振り回された記憶ばかりだ。』

西山を振り回す月島の考え方には、賛同できてしまうことが多い。

西山と月島はよく、言葉の意味を考えるゲームをする。「ルール」「恋」「正解」など、色んな言葉について考えていることを語り合う。西山はいつも、月島の物事の捉え方に感心する。西山は、西山一人でいる時には「普通」とか「当たり前」を乗り越えられない。物事を、常識的な範囲で考えてしまいがちだ。しかし月島は、全然違う。ひらりと、軽々と、「普通」「当たり前」を飛び越えていく。月島は、自分にとっての大事さによって物事を判断しようとする。

『でも俺はまず、こんな気持で学校に行ってどうするんだよって思った。今高校を止めることよりも、学校にこのまま二年も行くほうが、ずっと絶望的だと思った。』

『明日もあさっても、こんな場所で何の目的もないままに生きて行くなんて、考えただけでゾッとするんだよ』

問題は、月島には、自分にとって何が大事なのかが全然分からなかった、ということだ。自分にとって大事ではないものはすぐに分かる。けれど、何が大事なのかは分からない。だから月島は、常に無気力な青年に見えた。やりたくないと駄々をこねているだけの若者に見えてしまった。

月島のこの感覚は、僕にも分かる。僕もずーっと、自分が生きている原動力みたいなものをうまく掴めないままいる。生きている理由なんて、別にない。ないんだけど、自分を前に進ませるためには、何か原動力がないと無理だ。でも、それが何なのか、自分でもよくわかっていない。時々、そのことに絶望する。特に、平均年齢から考えれば、自分はまだその折り返し地点にさえたどり着いていないのだ、と思うような時にはなおさらである。

『頑張れた方が良いに決まってるじゃないか』

ホントそうだよなぁ、と思う。
僕も、気を抜くとすぐに頑張れなくなってしまう、と思っている。だから、気をつけている。どう気をつけているのかというと、継続する、というやり方をしている。やるぞ、と決めたことはとりあえず継続する。「継続すると決めた自分」に嘘をつかないために、僕は毎日なんとか前に進んでいるんだろうと思う。

それは、西山のこんな感覚に近いものがある。

『実際、ピアノを練習したいと思って練習するのは、三日に一度ぐらいあればいい方だ。ほとんどの日は、遊びに生きたいと思いながら、弟とテレビを見たいと思いながら、自室にこもってピアノを弾く。どうしても弾く気分になれない日は、ただ自室にこもっているだけの時もあるけれど、やりたくないからと言って、ピアノから逃げ出すことは考えられない』

そんな西山に、月島はこう返す。

『逃げることにだって、勇気は要るんだよ』

うん、分かる。分かるよ、月島。

『自分の世界の中で何かが、変わった。完璧に変わった。それがありありと分かってしまった。あたりを見渡すと、周りには誰もいない。私は実感した。月島は、もういない』

月島の不在に対して、西山はこう感じる。

『離れることは出来ないのかもしれない。それでも、近づきすぎてしまえば絡まり合ってしまうことを分かっている。その苦しみを、もう充分に分かっている。
私たちは、これ以上近づいてはいけないのだ』

月島との距離感について、西山はこう感じる。

『もしそうなれば名前のつかない私たちの関係に、遂に名前がつくことになる。でも、バンドメンバーという名前は、本当に私たちの関係にふさわしい名前なのだろうか?』

月島との関係性について、西山はこう感じる。

『頭では分かっていた。それなのに月島が私のことを恋人と呼ぶとき、その言葉を胸の中に大切にしまってしまう』

月島と関わることの痛みを、西山はこう表現する。

『お前はいつも、正しいことが正解だと思い過ぎなんだよ』

かつて月島からそう言われた少女は、月島に出会い、憧れ、後ろをついていき、同志となり、性別を越え、痛みを内在させ、思考がグチャグチャになり、どこにも辿り着けず、
それでも月島の隣にいた。

本書は、その壮絶な記録なのである。

内容に入ろうと思います。
14歳の少女・西山夏子は、学校の吹き抜けの階段でその少年をよく見かけた。一学年先輩の、月島悠介。気づいたら声を掛けていて、それから西山は、よく月島と一緒にいるようになった。
何をするでもない。レンタルビデオ屋に行って何も借りずに帰ってきたり、電話で言葉の意味を考えるゲームをしたりする。友達でも恋人でも家族でもないような距離感のまま、でも西山はずっと月島への恋心を抱き続ける。
学校に行かず、やりたいこともない、無気力にしか思えない月島に苛立ちを隠せなくなることもあった。やがて月島の環境が大きく変わることになり、月島の喪失に備えて西山も準備をする。
結果的にその変化が、月島を追い詰めることになったのかもしれない。月島は、壊れてしまった。
長く苦しい月島の“リハビリ”期間をギリギリの忍耐で耐え続けた西山は、ある日自分が月島の変な計画に組み込まれていることを知る。バンドをやる―そう決めた月島は、無謀とも思える形で、後にメジャーデビューすることになるバンドを形作っていくことになるが…。
というような話です。

ホントに良い小説だったなぁ。正直、他人から「良いらしいよ」という評価を聞かなければ読まなかっただろう。芸能人が書いた本だし、という先入観を持ってしまってたな。これはホントに、新人のデビュー作という意味でも、芸能人が書いた本という意味でもずば抜けているし、純文学寄りの中堅作家の作品と言われても全然通用するような作品だと思います。

ストーリーに関しては、正直うまく評価できない。ここで描かれている内容がどこまで藤崎彩織・深瀬慧の話と同一なのか、それにもよる。基本的な事実をそのまま物語のベースにしているとすれば、著者は物語を生み出したわけではないだろう。ある程度以上創作が入っているというのであれば、また評価は変わる。この点は、僕が持っている知識量ではうまく評価は出来ない。

ただ、事実ベースであれ創作ベースであれ、どのみち凄い展開であることは間違いない。これが事実ベースなのだとしたら、ちょっとイカれてると感じるほどだ。前半の、西山と月島の関係性については、まあまだいい。こういう表現は好きではないが、いわゆる「共依存」的な関係性なのだろうし、日本全国どこかを探せば、現在進行系でも起こりうることではあるだろう。しかし後半の、バンド結成からの展開は、ちょっとムチャクチャだと思う。そして、ムチャクチャだと思うからこそ、恐らくこの部分はかなり事実ベースなのだろうと思う。成功するかどうか分からないバンドに、これだけのお金と時間と情熱を投資出来るというのは、奇跡に近いのではないかと思う。

本書は、物語は一旦置いておくにしても、観察眼や表現力が素晴らしいので、その部分だけでも充分読ませてくれる。西山は、普通に生きていれば感じない感情や、直面しない状況に度々襲われることになる。そしてそれらは、僕らにとって非日常であるが故に、伝えることがとても難しいはずだ。しかし著者は、その優れた観察眼と表現力で、あまりの非日常を、読者にも想像できる形に変換する。この力がとても高いと僕には感じられる。

特に、人間を捉える眼差しが素敵だ。西山夏子=藤崎彩織なのだとすれば、著者は深瀬慧(=月島悠介)を日々観察することで、何を考えているのか、自分をどう見ているのか、何をしたいのか、ということを読み取ろうとしていただろう。いなくなれば自分の世界が崩れるほどの存在感があり、女として見られていなくても近くにいたいと思える存在でありながら、どれだけ近くで見ていても全然理解できない男を観察し続ける経験が、人間を捉える眼差しを強くしたのだろうと思う。

西山は、自分のふがいなさや自分に対する嫌悪感を隠そうとしない。人間を捉える眼差しの強さは同時に、自分自身を暴き立て、責め立てる力にもなる。西山は、自分の内側からいとも簡単に悪意や嫉妬や後悔を探し出してみせる。そうやって、月島に近づくための何かを見つけようとする。あるいは、月島との適切な距離を保つ方法を見つけようとする。でも、全然うまくいかないし、傷ついてばかりだ。

『みんなから嫌われてるやつのこと、俺、嫌いじゃないよ』

月島は西山にそう言う。これも、分かる。僕も、同じだ。西山は月島から、自分のことしか考えていないから嫌われるんだ、と言われる。そうなのかもしれない。西山には自覚はなかったけど、でも考えずにはいられないのだから仕方ない。自分のことを考え続けないと前に進んでいけないのだから仕方ない。僕にも、そういう時期はあった。その時期は、辛かったな。

『お前は自分で選んだ人生を生きているのか?』

西山は月島の言葉からそんな質問を読み取る。そんな月島こそが、西山を縛り付けているのだから、皮肉なものだ。

『ふたごのようにずっと隣で時間を共にしてきた月島は、私のことをひとりぼっちにもしたけれど、ずっと一緒に夢を見ていられる友達を作ってくれた。
帰る、と言うことの出来る居場所を作ってくれた』

本書を読んで強く感じた。著者はこれを「書かなければならなかったのだ」と。きっかけは深瀬慧の一言だったという。小説でも書いてみれば、という一言。しかし、そうやって書き始めた小説は、きっと、少しずつ藤崎彩織を縛り付けていたものを溶かしたことだろう。「書く」ということは、不正確かもしれないけど一番近い言葉を選び続けることだ。そして、頭の中にある、まだ言葉になっていないものたちは、言葉になることで、僅かに正確さを失いながらも、輪郭がはっきりとする。「書く」ことで、自分の気持ちが露わになる。そういう経験は、僕もしたことがある。

結果的に著者は、言葉の人だった。西山夏子を通して、彼女はこう書いている。

『曲を作りたいと、心から思ったことは一度もない。
燃えるような恋心を歌に乗せたいと思ったこともないし、オーディエンスに大合唱されるメロディを自分が作れるとも思えなかった』

彼女にとって、自分の内側にある“コレ”を表現する手段は歌ではなかった。それは、絵でもダンスでもなかったのだろう。彼女は、言葉の人だった。だから彼女は“コレ”を小説の形にした。

勝手な意味合いを押し付ける必然性はいささかもないのだが、しかし本書を書くことは、彼女にとってある種の鎮魂だったのだ、と捉えることで、僕にとってこの小説は、より深い意味合いを持つことになる。

『ここで生きて行くには、走るしかない』

僕も走ろう。

藤崎彩織「ふたご」

スケートボーイズ(碧野圭)



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内容に入ろうと思います。
大学四年生の伏見和馬は、久々に柏木豊コーチの元に戻ってきた。大学二年の12月、フィギュアスケートの全日本選手権の直前の追い込み練習で軽い怪我をした。コーチなどから焦るなと言われたが、焦ったがために今度は大怪我をしてしまった。1年以上もリンクから離れ、合コンに行ったり就活をしたりしていたが、どうにも気持ちの整理がつかず、また戻ってきた。
幼馴染の川瀬光流とまた滑りたい―そんな気持ちもあった。共に柏木コーチの元で教わったが、今では川瀬はアメリカを拠点に活動するトップスケーターだ。今では、それまで絶対王者と言われ続けてきた神代琢也を追い越す勢いだ。川瀬も出場する全日本選手権に間に合わせたい―それまでになんとか、四回転ジャンプを。
井出将人は、和馬と同じ大学の新聞部員だ。もう四年生であり、就活もあって土日の潰れる取材には出たくないのだが、まだ後輩が育っていないからと頼まれている。一人で複数のスポーツを担当しなければならないルールで、井出はフィギュアスケートも担当していた。
今日は、大学に入ってからフィギュアスケートを始めた鍋島佳澄と、復帰した伏見和馬の取材が目的だ。伏見の復活は、周囲にとってはなかなかの驚きだった。あの怪我だ、あのまま引退するものだとみんな思っていた。まだ本調子ではないようだが、さすが伏見だ、華のある滑りを見せる。
選手生命が短く、若い時でなければ活躍できないフィギュアスケートで、1年もブランクのある和馬の復帰を軸に、彼の周囲の人間模様を浮かび上がらせていく物語。

なかなか面白い作品でした。僕個人としては、フィギュアスケートにはまったく興味はないけど(とはいえ、羽生結弦とか宇野昌磨とかは凄いと思う)、そんな超ド素人が読んでも十分面白く読める作品でした。

ストーリー的には、王道のスポーツ物語という感じで、特別何かがあるというわけではありません。ライバルがいて、でもいろいろわだかまりもあって、挫折があって、そこからの復活、そして大舞台―というような感じです。

とはいえ、扱われているスポーツが、フィギュアスケートという、あまり小説として描かれることがないスポーツである、という点が、本書を面白くしている一つの要因だろうとは思います。

スポーツ小説で描かれるのは、チームスポーツであることが多いけど、フィギュアスケートは個人戦だし、練習場所が「スケートリンク」しかないという非常に大きな制約があるので、学校に所属していても、練習場所のスケートリンクでの繋がりの方が強い。技術だけではなくて「表現」までもが採点に反映されるというのは、小説で描かれるスポーツとしてはなかなか珍しいでしょう。また、フィギュアスケートの不可思議さの指摘で最も面白いと思ったのが、「プロよりもアマチュアの方が技術がある」ということ。確かにその通りだけど、そんな風に見たことはなかったので驚きました。

野球やサッカーと言った、よく小説の題材となるスポーツと違った特徴を持つフィギュアスケートが描かれているという点が、本書をただの王道スポーツ小説にしていないな、という感じがしました。描こうとしてもチームの一体感は描けないし、技術力ではない部分はお金の掛け方によって大分差が出てしまいもする。そういう条件の中では、むしろ「王道スポーツ小説」を描く、ということがなかなか難しいという側面もあるかもしれません。

物語のメインとなるのは、和馬と光流と柏木コーチの関係だ。この三人がどのようにこれまで練習を積み重ねてきて、そしてどんな理由によりバラバラになったのか。そこが物語を支える核になっている。和馬にとって光流は、幼馴染でもあり、かつてのライバルでもあり、そして信頼するコーチがわだかまりを解消できないでいる相手でもある。そういう複雑え絡み合った感情の中で、和馬は純粋に光流ともう一度滑ることを望む。本書では光流についての描写はあまり多くはないが、光流がどんな人間であるのかちゃんと分かっているからこその複雑な葛藤みたいなものもあって、勝負の世界で生きていくことの難しさみたいなものを感じさせてくれる。

また一方で、1年間フィギュアスケートから離れていた和馬には、フィギュアスケートの外の友人というのも少しは出来た。そこのかかわり合いみたいなものも多少描かれる。和馬にとって彼らとの関係は、「フィギュアスケートを外側から見る」という経験になった。ある意味ではその経験があったからこそ、和馬はリンクに戻る決断をした、とも言えるかもしれない。

また、競技者である和馬だけではなく、取材者である井出も、フィギュアスケートを外から見る人物として魅力的に描かれる。特別フィギュアスケートが好きなわけではない井出は、フィギュアスケートという競技を非常に奇妙なスポーツだと捉えている。井出が抱く違和感は、フィギュアスケートが特別好きなわけではない人間の視点に寄り添うものなので、井出の感覚には共感できる部分が多い。それでいて、取材者としてはまっとうでありたいという気持ちを持つ井出の熱意や振る舞いみたいなものからは、人間としての魅力が滲み出る。競技に真剣に取り組むものとどう関わっていくべきか―その真剣さが感じ取れるからこそ、井出の存在感はとても大きい。

物語の本筋とはあまり関係ないが、興味深いと思ったのは、フィギュアスケートが以前と比べて格段に人気スポーツになったが故のひずみみたいなものが描かれる部分だ。世間の認識と競技者側の認識のズレがかなり大きく、その差みたいなものに和馬が違和感を覚えるような箇所がいくつかある。(もちろん僕を含めた)世間は、それがどんな物事であれ、ごくごく一部だけを見てあれこれ言う。その背後にどんな広がりがあるのか想像してみる機会はあまりない。仕方ないとはいえ、その辺りの感覚の差にどうしても落胆してしまう部分はあるだろうなぁ、と感じた。

全体的にとても読みやすく、また、ニュースで大きく取り上げられるけど実のところよくは知らないフィギュアスケートの世界をざっと教えてくれる、なかなか面白い作品でした。

碧野圭「スケートボーイズ」

最後の証人(柚月裕子)



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正義の物語である。
そして、正義はいくつも同時に存在しうることを示す物語でもある。

正しいこと、というのは決して一つではない。
何故なら「正しさ」というのは、ある「軸」に対しての評価でしかないからだ。同じ物事であっても、違う「軸」で評価すれば、「正しさ」は変わる。

正しい行動が、常に正しさを導くわけではない。より正確に言えば、自分の「軸」にとって正しい行動が、誰の「軸」にとっても正しいなどということはあり得ない。

「正しさ」は常に複数あるからこそ、法律という「軸」を決め、その「軸」に則って「正しさ」を判断するというやり方を、人間は社会の中で採用するようになった。それが、裁判だ。

このやり方は、理想的に実行されれば、社会を運営していく上で間違いのない方法だと僕には感じられる。あらかじめ「軸」を定めておく。そして、その「軸」に沿って常に正確に善悪を判断する。人によって「正しさ」が違う、という前提を受け入れれば、そういう異なる「正しさ」を持つ者同士で社会を作るとすれば、こういうやり方しかあり得ないだろう。

しかし問題は、理想的に実行されているのかどうか、という点だ。どれほど素晴らしい仕組みであっても、きちんとした運用がなされなければ無用の長物だ。

これは、原発の議論に似ている。僕は、原発についての賛否を聞かれたら、こう答える。「技術には賛成だが、運用する人間には反対だ」と。原発を支える科学技術は、理想的に使われるなら有用のはずだ。どんな技術であっても危険性はゼロにはならないし、起こりうる悪影響も起こる前にはっきりと捉えることは難しい。危険なものであればあるほど、科学技術はその安全を確保するための何かを導き出すし、理想的に使われるのであれば、危険性はかなり低く抑えることが出来るはずだ。

しかし、いくら科学技術が優れていても、それを利用する人間がお粗末では意味がない。福島第一原発事故を僕は、技術の敗北とは捉えていない。そうではなくて、人間の愚かさが引き起こしたものだと思う。特に原発の運用には、政治が絡んでくる。科学で制御出来るかもしれないものが、政治の介入によって制御不可能になる、という想定は容易い。

法律や裁判も、理想的に実行されれば素晴らしい仕組みだが、しかし理想的でない使い方をする者が必ず出てくるからこそ、正義であるはずのものから不正義が生まれることになるのだ。

不正義と直面した時、僕らはどうするべきだろうか?

理想的な「正しさ」で言えば、僕らは正義の側に立ち続けてその不正義を糾弾し続けなければならないだろう。そのことを否定するつもりは毛頭ない。しかし、不正義は時に、正義を貫くべき者によっても生み出される。そして正義を貫くべき者が不正義を起こした場合、その不正義は隠匿される可能性が高い。

そういう場合、僕らに出来ることはあるだろうか?

それでも正義を貫くべきだ、と言葉で言うことは簡単だ。誰にだって出来る。しかし、そうはいられないからこそ、様々な悲しみが生み出されるのだ。

本書には、「正義を貫くべきだ」と考える3組の面々が登場する。彼らは、それぞれ立場も状況も違う中で、ある場所で垣間見えることになる。それぞれが、それぞれなりの正義の貫き方をぶつけ合い、そうすることで始めて、闇に葬られたかに思えた真実に光が射すことになる。

やはり「正義」や「正しさ」は難しい…と、本書を読んで改めて感じらせられるのだった。

内容に入ろうと思います。

中野に事務所を構える佐方貞人は、都内から新幹線で二時間ほど離れた地方都市である米崎市のホテルで起こった事件の弁護を担当することとなった。被害者は胸にナイフが突き刺さった状態で発見された。被害者には防御創があり、爪からは依頼人の皮膚が検出された。脱ぎ捨てられたバスローブには、被害者の血がついており、また内側からは依頼人の汗などが検出された。
現場の状況は、不倫関係にあった男女の間で諍いが起こり、依頼人が被害者をナイフで刺してしまった―そのことに疑いの余地はないと思われた。
佐方は、弁護を引き受けた。金銭の多寡ではなく、事件が面白いかどうかで弁護するかどうかを決める佐方には、この事件には惹かれるものがあった。確かに現場の状況は明らかに依頼人に不利だ。普通なら、裁判に勝てるはずがない。しかし―佐方の嗅覚は、この事件から何かを嗅ぎ取った。
一方で、ある夫婦の過去が描かれていく。高瀬光治・美津子夫妻は、幸せな日々を過ごしていた。光治は、周りから反対されながらも勤務医を若くして辞め独立、自身のクリニックが順調に進んでいる。美津子は家庭をしっかりと守ってくれるし、一人息子の卓にも恵まれた。幸せを体現している家族だ。
しかしそんな彼らに不幸が訪れる。事故で卓を喪ってしまうのだ。悲しみにくれる二人。しかし、どん底に突き落とされるのはまだこれからだった。卓と一緒に塾から帰っていた友人が、「運転手は信号無視をし、さらに酒臭かった」と証言したにも関わらず、卓を轢き殺した男は不起訴となった。どう考えてもおかしい。光治は、犯人が公安委員長であったことを突き止め、警察が仲間をかばうために不正を働いたと判断したが…。
というような話です。

これは面白い作品だったなぁ。ただの法廷ミステリではなく、ミステリの枠組みを使ってどこまで深く人間を描けるかにチャレンジしているような、そんな印象を抱かせる作品でした。

冒頭から、「これは何かあるぞ」と思わせる書きぶりや設定でした。詳しくは書かないけど、この作品は「何かやろうとしているな」(変な表現ですけど)という感じが凄くしてくるんです。もしかしたら、どこかのタイミングで分かる方もいるかもしれません。でも僕は、なるほどそういうことか!と最後まで読んで思いました。

正義を追い求める人間が3組登場する、という話を書いた。この3組について詳細に書いてしまうと、ネタバレを避けることが出来なくなるので止めるけど、その内の一人が正義に対してどういう感覚を持っているのか、という部分だけ抜き出してみたいと思います。

『自分が味わった理不尽な苦しみを、誰にも与えたくない。どのような理由であれ、罪を犯した人間は裁かれるべきだ。それが平等ということだ。それが社会の秩序を守り、ひいてはわが身を守ることになる、そう強く思った』

他の2組についても、置かれている状況は様々に違うが、彼らなりに正義を希求する気持ちを持ち、それをベースに行動している。正義を追及する、と言ってもなかなか難しい。いくつかの正義がぶつかり合い、正しさを主張する時、どれかの正義しか存続できないような気がしてしまう。

しかし、本書で描かれるのは、正義同士の戦いではない。物語上そう見えるのだが、実は違うということが後々理解できる。正義を問うための「正しい問い」を見つける戦い、と表現すればいいだろうか。

あまり物語に詳しく触れるとネタバレになってしまう、というのがなかなか難しくてモヤモヤした書き方をするしかないのだが、本書はミステリという物語の枠組みを借りることで、人間はどれほど絶望出来るのか、人間はどこまで正義を貫けるのか、人間はどこまでズルくなれるのか、人間はどれほど確信を持つことが出来るのか…など、様々な側面から人間を描き出そうとしている、と感じます。そこがこの物語の最大の魅力だと僕は感じました。

本書は、佐方という元検事の弁護士が物語の中心にいるはずなのだが(僕の知識が正しければ、本書は佐方を主人公とするシリーズの第一作目だと思う)、本書において佐方はほとんど出てこない。最後の最後、目の前の裁判をひっくり返すところでの出番はもちろん多いが、それまではあまり出番はない。それもなかなか珍しいタイプの小説だろうと思います。

そんな佐方が、時折口にする言葉が結構好きです。

『罪は代替できるものじゃない。その人間が犯した罪で裁かれなければ意味がない』

『誰でも過ちは犯す。しかし、一度ならば過ちだが、二度は違う。二度目に犯した過ちはその人間の生き方だ』

彼らの物語を通して、「正しく生きていく」とはどういうことか、そしてそれがいかに難しいのかを感じさせてくれる、そんな深みを持つ作品です。

柚月裕子「最後の証人」

おめでたい女(鈴木マキ子)



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『今からあの人を心配しない練習をするのだ。そう決めた時から、心の中で離婚が始まりました』

自由に生きて行く、というのはなかなか難しいことだ。

僕はなんとなく、自由に生きるためには、大前提として二つのことが重要だと思っている。

1. 人に迷惑を掛けないこと
2. 自由であることを望むこと

前者は分かりやすいでしょう。どれだけ自由を追い求めようとも、それが他人の迷惑や実害になったりするのであれば、それは世の中から受け入れられる生き方にはならないでしょう。自由であるということは、他人の自由も尊重する、という前提に立たなければ成り立たない、と僕は思っています。

問題は後者です。自由に生きたいと思っている人が、本当に自由に生きることを望んでいるのか。これは案外難しい問題だろうなぁ、と思います。

自由というのは、近づいてみればみるほど理解しやすくなりますが、案外不自由なものです。矛盾するようですけど、そう思います。世の中には、縛られている自由、制約されている自由、というのも確実にあって、何かに囚われたままの自分でいる方が結果的に楽、ということもあり得ます。自由を求めているつもりでも、何かに囚われた生活に慣れている人は、自分を縛り付けるものの外側に出ていくことを本能的に恐れるのではないか―そんな風に感じることがあります。

『今ならわかる。やめてもいいことは、やめればいいだけです。それを選んだ時の自分は馬鹿だった、と認めれば済む。そして、この先も、馬鹿でいるのは嫌だと決めればいいのです。やっと自分の馬鹿に気が付いたのに、その馬鹿を直さないのが一番の馬鹿で怠け者です。わたしは預金通帳の残高を、九百二十三円にされたところで、そう思えたのでした。全く高くついたものです』

客観的に見れば、その状況はおかしいんじゃないか、そこから離れた方がいいんじゃないか、と感じられる環境にあっても、そこから逃れることはなかなか難しい。そしてそういう状況に置かれている人は、結構多いのではないかと思う。

DV、いじめ、虐待など、日常の隙間に隠されているような悲惨な状況下に置かれている人は、その環境から逃れる手段がない(あるいはないように思える)が故にその状況に甘んじるしかない。そうしてそこに居続けることで、そこから逃れられないという状態が当たり前のものになってしまうのだろう。

自由を求める人の多くは、「今ここではないどこか」を求めているのであって、それは「自由」でなくてもいいのだろうと思います。ただ、自分が今いる状況以外の「今ここではないどこか」をリアルに想像出来ないからこそ、「自由」という、漠然とした、しかし明らかに「今ここではないどこか」であろう場所を望むのだろうな、と思います。

本書の主人公は決して、「自由」を望んでいたわけではありません。破天荒(と一言で要約出来ない人物ですが)な夫との生活の中で様々な辛いことがありながら、主人公はなお夫との生活を続けたい、と考えます。明らかにそれは、「自由」でも、「今ここではないどこか」でさえもありません。そういう意味で、ここまでで「自由」についてあーだこーだ書いてきたことはある意味では的外れでもあります。しかし、僕は本書を、「自由」に気づくまでの物語、だと感じるのです。求めていたわけではない「自由」にたどり着くまで、そしてたどり着いてからを描く小説です。

主人公は、子どもの頃は母親から「あんたなんか産まなきゃ良かった」と言われ、酔った父親からは殴られました。そして、17歳年上の破天荒な映画監督と出会い一緒に生活するようになってからは、お金のことも含めてあり得ない程のしんどい状況に何度も直面することになりました。ある意味で、自由に生きることを理解できないままずっと生きてきたと言えるかもしれません。ずっと暗闇の中にいた人が急に陽の光の元に出てきたように、自由を知る由もなかった人が自由と出会った時、それまでの人生を振り返ってどう感じるのか。それをおさらいしていくような小説なんだろう、と感じました。

僕はこの物語が、実話を基にしていることを知っている。どこまで事実なのか分からないが、細部はともかく物語の大筋は恐らく事実を基にしているだろう。だからこそ、主人公の感覚がリアルなものなのだと、余計に感じることが出来る。

内容に入ろうと思います。
五十嵐豊子は、映画監督の夫と離婚して、娘の宝子と二人暮らし。長男の昇太は、父親についていった。
才能ある映画監督として評価されている夫は、しかし人間としてはダメだった。少なくとも、夫としては。特にお金のことは大変だ。豊子は、映画監督という仕事はお金が入ってこない時期もあることは理解していたし、そもそも養ってもらおうという意識がないから生活はすべて自分で稼いだお金で成り立たせていた。それだけなら全然良かった。しかし夫は、金策に困ると泣きついてきて、その度に百万円単位のお金を要求した。豊子が離婚を決意したのは、マンションを買った残りの197万円、子どもの養育費や生活費のために取っておいたそのお金をすべて無断で飲み食いに使ってしまったことだった。勝手に使っておきながら悪びれもしない。もう無理だと思った。
夫の仕事のことは尊敬しているし、散々酷い目に遭わされても夫のことを完全に嫌いになることは出来ない。しかし、『わたしは、この人の妻であることが心底恥ずかしかった』という気持ちは拭えなかった。だから離婚を決めた。
とはいえ、離婚を決めてからも、ちゃんと離婚した後も、やっぱり夫は迷惑で愛すべき存在なのだった…。
というような話です。

僕自身は、本書で書かれていることが実話を基にしているんだということを知っているので、書かれていることを受け取ることが出来る。しかし僕は思う。本書を、実話を基にしているわけではない、純粋な小説として読んだ場合、どんな風に読まれるんだろう、と。そこが僕にはちょっと想像が出来ない。

豊子の判断や行動は、少なくとも傍から見れば非常に不合理で、何でそんなことしてるんだろう?と思えてしまうようなものだ。それは、豊子自身も自覚している。自覚していて、でもそうしてしまうのは、やはり夫に対するひとかたならぬ感情があるからだ。

『わたしは、夫には、なんとしてでも勝って欲しかった。このまま終わっていい人ではないからです』

『わたしは、あの人が困っているのを見るのが嫌でした。困っているから助けたかった。ただそれだけです』

『わたしは、あの人に買物をするのが好きでした。シャツや小物も変わった物、癖のある物を見つけると「似合うだろうな、喜ぶだろうな」と思って買うのが楽しかった。そして、実際よく似合うのでした』

この感情にどう名前を付けたらいいのか、本書を読んだ人はなかなか悩むだろうと思います。とても広い意味での「愛」と呼ぶことは出来るのだけど、純粋な愛情なのかと言うとそうではない。ここでは具体的には書かないけど、本書の中で主人公は、夫に対してこれでもかと罵詈雑言を繰り出します。しかし、そう思う一方で、夫に対する親愛の気持ちもあるのです。ありきたりですけど、やはりこれは「情」と呼ぶようなものなのかなと思いました。

この主人公の感覚を、どこまでリアルなものとして捉えることが出来るのか。そこのイメージがなかなか掴めないなと思います。主人公と似たような状況に置かれている人、置かれた経験のある人であれば凄く共感できるでしょう。しかし、そうではない場合、この主人公の言動にどこまで理解が及ぶのだろう、と考えさせられてしまいました。

主人公が色んなことをスパスパっと切り取っていく様は面白いと思います。主人公は、主人公なりの論理で、世の中の普通や当たり前を斬り、乗り越えていきます。価値判断を他者や集団ではなく、自分はどうか、という部分で判断していくというのは、なかなか出来ることではありません。主人公は、「普通の家族」や「当たり前の日常」みたいなものからいつの間にか逸脱してしまったわけで、その環境で生きて行く中で、その日常を肯定するために、普通や当たり前の方を変えていくしかなかったんだろうと思います。本書を読むと、僕らが普段当たり前だと思っていることが、案外当たり前のことでもないのだ、ということが理解できるでしょう。

本書の中でもう一つ興味深い話がありました。

『夢を持つということは、人間にとっていいことなのかどうか、わたしにはわかりません。夢なんてなくても人は、ちゃんと生きていけるのです。派手な夢がかなった人だけ、「夢は必ずかなう」と言いますが、わたしは夢がかなわなかった人を、たくさん知っています。夢より大事なことは、生きていくのに必要なお金を自分で稼ぐこと、やらなければならないことを一生懸命することだと思っています』

夢を持つことが、逆に生き方を制約するのだ、というのは僕も昔からずっと考えていました。夢が叶わなかった場合の人生までまるごと許容できるなら夢を追ってもいいでしょうけど、そうでもないなら、一つのことに自分の行く道を集中させない方がいいだろうと思います。また、夢を持つことで、夢が叶わなかったら不幸だ、という考えが生まれてしまうことにもなるでしょう。そんなものない方が、全体的には幸せになれるのではないかと持っています。

本書では、主人公の夫の周りに、俳優になりたいという夢を持った人が大勢集まります。彼らは、そんな夢を持ってしまったが故に、「夫の世話をする」という不毛な時間を過ごさざるを得なくなります。他人の善意を一片の呵責もなく受け取れる人間に対して奉仕することの無意味さみたいなものを、感じ取ることが出来る作品でもあります。持っている夢を捨てろとまでは思わないけど、夢なんか追わなくても生きていけるという考えを持つことは大事だろうなとは思います。

一人の女性が「自由」までたどり着き、しかし「自由」に生きることの難しさを体感する物語です。彼女ほど極端ではないにせよ、僕を含め多くの人が何かに囚われながら生きていることでしょう。そこからいかにして逃れるのか、そしてそもそも逃れることが正解なのか―そういうことを考えさせる物語だと感じました。

鈴木マキ子「おめでたい女」

重力波は歌う アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち(ジャンナ・レヴィン)



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物理学という学問は、大きく二つに分けることが出来る。一つは、理論物理学、もう一つは実験物理学である。名前の通り、前者は理論を考える、そして後者は実験して証明するのだ。両方やる物理学者もきっといるんだろうけど、大体はどちらかがメインになってくる。

そして本書は、実験物理学者たちの奮闘の物語だ。だから、「重力波」に関する学問的な説明や、何故そういう予測が生み出されたのか、という背景的な話はほとんど出てこない。本書は、「レーザー干渉計重力波観測所(LIGO)」という超巨大施設が重力波を観測するまでの、実験物理学者たちの人間模様が描かれる作品だ。そういう意味で本書は、文系の人でも読める本だ(ところどころ、難しい話はあるし、イメージ出来ない実験施設の話が続くが)。

個人的には、理論がどう生まれたのか、という話の方が好きなので、そういう意味で僕の中ではちょっと劣る作品ではありました。けど、物理学の実験規模の変遷を考えた場合、こういうゴタゴタした人間模様は不可避なんだろうなということが感じられて面白いと思いました。かつて物理学の実験は、一人で自作出来るレベルのものだったのだけど、今では多数の科学者が寄り集まって協力して一つの成果を追い求めなければならなくなった。少し前に話題になった「ヒッグス粒子」も、そういう多数の科学者の協力の元で発見されたものだ。物理学者に限らず、科学に携わる人間は、その圧倒的な才能と比例するようにして個性の強い者も多い。そういう人間をいかに統合し、統合しようとして出来ず、あらゆる衝突や論争を繰り返しながら、それでも科学に携わる者として真実を掴み取る成果は得たいという共通認識がなんとか彼らを一つにしていく過程みたいなものが面白いと思いました。

本書で書かれている流れにざっと触れてみましょう。

まず、本書の副題にもあるように、「重力波」という概念はアインシュタインによって生み出されました。彼が発表した相対性理論の帰結として、「重力波」という存在をアインシュタインは予測したのです。説明は難しい(僕もちゃんと理解していない)ですが、僕はこんなイメージで捉えています(正しいかは分かりません)。大きな布をピーンを張った状態を想像してください。四隅の角を持って引っ張ってるイメージです。でその布に、屋上から大きな鉄球を落とす。すると、鉄球は布の上を何度かバウンドしながらやがて止まります。そのバウンドしている間、布は上下に揺さぶられます。この上下の揺れを「波」と捉えたものが「重力波」です。

このイメージを使うと二つのことが理解できます。一つは、鉄球が大きければ波も大きく、小さければ波も小さいということ。つまり、大きなエネルギーを持っているものがそのエネルギーを放出するような現象の際に、「重力波」は大きく発生するということです。またもう一つは、鉄球が落ちた場所から遠ければ遠いほど波は小さいということ。つまり、地球から遠く離れた現象であればあるほど、地球に届くまでに「重力波」は小さくなる、ということです。

さて、実際にはどれぐらいの大きさのエネルギーの現象の時に、地球にやってくる「重力波」はどういう挙動をするでしょうか。

まず、二つのブラックホールが衝突する場合のことを考えてみます。この時に放出されるエネルギーは、『太陽10億個分の一兆倍を上回る』そうです。では、そんな天体現象から発生した「重力波」が地球に届いたらどんなことが起こるのか。こちらの説明としては、「LIGO」がどれぐらいの精度で測定が出来るのか、という記述を引用してみます。『(L字の)片方の移動距離がたとえば陽子の大きさの一万分の一長いか短いかすると、移動時間に一兆分の一の一兆分の一の一〇〇〇分の一秒(10の27乗分の一秒)の差が出る』 「重力波」が、どれほど検出しにくいか、イメージしてもらえるでしょうか?

アインシュタインは、理論的に「重力波」は予測できるが、あまりにも小さすぎて測定することは不可能だろう、と言ったそうです。結局これが、相対性理論に関してアインシュタインが残した最後の予測ということになりました。

この「重力波」に、様々な人間が様々な形で関わります。その代表的な人物が、ライナー・ワイス、キップ・ソーン、ロン・ドレーヴァーの三人です。ワイスは「重力波」を検出するための「俳句のようなシンプルな干渉計」を思いつき、ソーンは「重力波」を理論的な側面から攻め、ドレーヴァーはお金の掛からない独創的で天才的な実験を次々に生み出していました。彼らは、「重力波」どころか、ブラックホールすらまだ実在が懐疑的とされていた時代に、いかにして「重力波」を検出するかをそれぞれ独自にアプローチしていきます。しかし、「重力波」がもし存在するとしても、あまりの小ささに規模の小さな実験施設では検出は不可能であると判断し、ワイス、ソーン、ドレーヴァーの三人は「手を組む」ことにします。しかし、この三人のチームワークは最悪だった。とにかく色んな人間関係のゴタゴタが起こったが、辞めさせられたり辞めたり新しく引っ張ってきたりというような形で、不本意な形で「LIGO」から手を引かざるを得なくなる者も出てきた。

そうやって「LIGO」は超巨大プロジェクトとしてなんとか体裁を整えていくのだけど、しかしこの「重力波」プロジェクトには忘れられがちな先駆者がいる。ジョー・ウェーバーである。ウェーバーは、かなり不遇の研究者人生を送ってきた。世紀の大発見にあと一歩のところまで近づきながら逃した、という経験を何度もしているのである。研究者としては非常に優秀だったが、運に恵まれていなかった。
そんなウェーバーは、独自に「重力波」の研究を進め、なんと「LIGO」の建設が始まる遥か以前に「重力波」を検出した、と発表したのだ。しかしこの成果は、すぐさま物理学の世界で受け入れられなかったどころか、非難が集中することになった。実際のところ、ウェーバーが観測したものが何だったのか、今となっては確かめようがない。しかし、「重力波」である可能性は低かったのではないか、と考えている者が多いようだ。僕も、そう考えるのが妥当な気がする。2億ドル以上のお金を掛け、1000人以上の科学者が関わる実験装置(LIGOのことだ)でようやく検出出来たものが、それがどれほど秀逸なものであっても、たった一人で組み立てた実験装置で検出出来たと考えるのはなかなか難しい。

ウェーバーが「重力波」を検出した、と発表したことは、実は「LIGO」の建設にも支障を来すこととなった。「LIGO」はあまりにもお金の掛かるプロジェクトであるが故に、予算を獲得するために政治と関わらざるを得なかった。しかし、ウェーバーの発表は、物理界のみならず、政界においても「重力波」への不信感を増すこととなった。「LIGO」建設には、こういう様々な障害が待ち構えていた。科学者が真理を求めて実験する、というだけではどうにもならないような、あらゆる種類の戦いに挑まなくてはならなかったのだ。

しかし、その成果は報われた。2015年、アインシュタインの相対性理論が発表された1915年からちょうど100年後に、「重力波」は検出された。これによって、今までは間接的にしかその存在が証明されていなかったブラックホールも実在が証明されることとなった。

「重力波」がこれから天文学をどう変えていくのか。新しく生まれる「重力波天文学」では、これまでは見ることが出来なかった宇宙の姿を見ることが出来るかもしれない。これまでは、「光」によって宇宙を捉えていた。望遠鏡などの観測装置は、すべて「光」を捉える仕組みである。しかし、ブラックホールなど、光では捉えられない天体も存在する。宇宙の全質量の94%は、「ダークマター」「ダークエネルギー」という「光では捉えられないもの」だという話もある。「重力波」は、「光」が通り抜けることが出来ない場所もすり抜けることが出来るので、「重力波」を使うことで僕らは新たな「目」を手に入れることが出来ると期待されているのだ。

こういう奮闘が、僕たちの世界を押し広げていくのだ。「重力波」が何に役に立つのか、という問いは愚問だ。例えば、アインシュタインの相対性理論だって、相対性理論に並ぶ重要性を持つ量子論だって、生まれた当初は現実の役に立つものではなかった。しかしやがて、相対性理論はカーナビの技術に、量子論はテレビの技術に不可欠なものだと分かってきた。数学の世界で言えば、誰もが学校で習うあの因数分解が、僕らの日常を支える暗号技術に応用されているのだ。「重力波」も、今はまだその真価を理解できないかもしれないが、いつか僕らの生活にも関わってくる日が来るのではないかと思う。

ジャンナ・レヴィン「重力波は歌う アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち」

奇跡の人(原田マハ)



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常々僕は、「伝える」ということは「変換」だと思っている。当たり前だ、と思う人もいるかもしれないが、世の中を見ていると、そのことが理解できていないように思える人を結構見かける。

僕には、「伝える」を「頭の中のものを言語化する」ということだと思っている人が多いように感じられる。もちろん、その側面はある。というか、頭の中にあるものを言語化しなければ、何も伝わらないのは事実だ。しかし、それでは絶対的に足りない。

「伝える」というのは、相手の関心や知識不足に応じて、「頭の中のものを言語化して、さらに変換することだ」と。

例えば、子どもに勉強をさせたいと思っている親がいるとする。親は、自分の頭の中に「勉強をさせたい」という思いがあるから、それをそのまま「勉強しなさい」という風に言語化する。しかし、これでは相手には届かない。子どもが勉強しないのは、勉強したくないからであって、そんな子どもに「勉強しなさい」とだけ言って勉強するようになるはずもない。

さて、もしその子どもがゲームが大好きで、将来ゲームを作る人になりたい、と思っているとしよう。もしそうであれば、僕はその子に「数学」と「英語」に関心を持ってもらえるような話が出来るかもしれない。

以前ネットで、恐らく世界的に有名なプログラマーなのだろう人が、「プログラマーになるにはどんな勉強をしたらいいか?」という問いに答える記事を見かけたことがある。そのプログラマーは、「何を措いても数学と英語を勉強しろ」と回答していた。何故か。

まず、最先端のプログラミングには、確実に数学的な知識が必要になってくる。プログラミング言語は扱えるけど数学は不得意、というのは、例えていうなら、人物を描くのは得意だけど背景を描くのは苦手、みたいな感じだろうが。マンガであればその辺りは分業でやる仕組みが整っているが、プログラミングは限りなく個人的なものなので、独力で完成させることが多い。その時、自分の内側に数学的な知識がなければ、トップを狙うようなプログラミングは組めない、ということだった。

英語については、もっと話はシンプルだ。プログラミング言語というのは日進月歩で、日々新しいものが生まれる。それらは日本で誕生することもあるが、これまで生まれたプログラミング言語もほとんどは欧米で生まれている。となれば、プログラミング言語に関する最新の情報を手に入れるためには、英語が読めなければ話にならない、という理由だ。

子どもにこういう説明をして、「一流のプログラマーになるには、何が何でも数学と英語が出来ないとダメだ」と伝えれば、もしかしたら子どもは勉強をするようになるかもしれない。

僕は、これを「伝える」ことだと思っている。

僕は日々仕事で、「伝える」ことを意識しなければならない状況にいる。もちろんこれは、広い意味で捉えれば、働いている人の多くがそういう状況にいることだろう。上司への報告、部下への指示、クライアントへの説明、顧客へのアピール…。「伝える」ことが求められる状況というのは多岐に渡る。

その時に、「変換」という意識があるかないかで大きく結果が変わってくるだろう。「自分が何を伝えたいのか」を意識することはもちろん大事だ。しかしそれ以上に、「それを伝えるためにどう変換しなければならないか」ということが最も大事なのだ。

そして、それをするために、相手のことを知り、想像する意識を持たなければならない。

相手に自分の言いたいことが伝わらない時、相手の理解力のせいにしたがる人がいる。しかし、ほとんどの場合、それは言いがかりだ。100%とは言わないが、ほとんどの場合は、伝える側の能力に問題がある。

読みながら、そんなことを考えさせられる作品だった。

内容に入ろうと思います。
「重要無形文化財」の制定前夜、文部省の役人二人は猛吹雪の中青森にいた。重要無形文化財の制定のために尽力した男が、その人のためにこの法整備をしようと思い立ったのだ、と熱弁を振るう三味線弾きがいる。キワという老婆は、しかし彼らの前で三味線を弾こうとしない。もう自分は弾くのをやめたのだ、と。しかし一人が、“あの人”が望んでいるとしたら?と耳打ちする。途端、キワの反応が変わる。
“あの人”―「奇跡の人」と称された、三重苦を背負ったれんである。
去場安は、明治4年の岩倉使節団の留学生として、9歳でアメリカに渡った。日本初の女子留学生である。幼い頃から弱視であった安を心配した父が、アメリカで教育を身につけることで安の将来を照らそうとしたのだ。22歳で帰国した安は、自分が学んだすべてを日本の女子に学んで欲しい、そのためには人生を捧げてもいい、と考えていたが、日本では未だ「女はしょせん子供を産み育てるために存在するもの」と捉えられており、安の理想を実現できるような場はどこにもなかった。
そんな折、父が安を留学生として推挙した伊藤博文から、安の元へと手紙が届いた。そこには、青森県に住む一人の少女のことが綴られていた。その少女は、目が見えず、耳も聞こえず、口も利けないのだという。こんな少女の教育に、興味がおありですか?
伊藤博文からのそんな申し出に、安はすぐに飛びついた。そして6日掛けて青森までやってきたのだ。
青森でも有数の富豪である介良家は、当主・貞彦を筆頭に大きな屋敷住まいである。そこに、れんはいた。奥の座敷に幽閉されるようにして、獣のような扱いを受けていたのだ。
れんを救ってみせる―。安は、途方もない道のりを予感しながら、れんの教育へと身を投じていく…。
というような話です。

これは素晴らしい小説だったなぁ。いや、一点、捉え方の難しい問題があるのだけど、そこを気にしなければ凄く良い物語だと思いました。

その問題について先に触れておきましょう。本書は、「去場安」「介良れん」という名前からも分かるように、あきらかに「サリバン先生」「ヘレン・ケラー」をモデルにした小説です。そして僕が感じる難しさというのは、本書の素晴らしさというのは結局、ヘレン・ケラーの素晴らしさなのであって、小説としての素晴らしさではないのではないか、という点です。

ここは正直、読む人によって評価は分かれそうな気もします。僕は正直、ヘレン・ケラーの話はあまり詳しく知らないので、本書を通じて、いかに「三重苦」と呼ばれた困難を乗り越えていったのかを知った、というところがあります。だから、純粋に楽しめました。しかし、ヘレン・ケラーの生涯について比較的知識を持っている人からすれば、ヘレン・ケラーは確かに凄いけど、その生涯を舞台を日本に変えて書いただけでしょう、と思うかもしれません。これはあくまでも僕の予想でしかないので、実際にヘレン・ケラーを詳しく知っている人がどう反応するのかは不明ですが、その点はもしかしたら違和感を覚えてしまう人もいるかもしれない、と感じました。

しかし、僕としては凄く良い小説だなと思いました。ヘレン・ケラーがどんな環境で育ったのか僕は知りませんが、本書ではれんが非常に厳しい環境に置かれています。1歳になる直前に高熱で生死の境を彷徨ったれんは、その時を境に三重苦を抱えてしまう。以来、物を壊したり暴れたりを繰り返し、ついには蔵に押し込められ、いないものとして扱われてしまう。とはいえ、人の口に戸は立てられないもの。れんの存在が障害となり、長男の縁談がことごとく破談になってしまう、ということを繰り返していた。そういう意味でも、れんは厄介者でしかなかったのだ。

そんなところに、安はやってきた。安にとっては、れんとの関わりは試練の連続だった。もちろん、れん自身にも手を焼かされた。初めは、暴れ、噛みつき、ひっかき、というようなことを繰り返した。安も生傷の絶えない日々を過ごした。しかし、そのことには安は落胆しなかった。れんは、見えない聴こえない喋れないという真っ暗闇の状態の中で、女中からいじめを受けながらもなんとかここまで生き延びてきたのだ。9歳で一人でアメリカに生かされた安でさえ、耐えられるとは思えないような状況であり、そんな状況に置かれたれんが粗暴な振る舞いをしてしまうのも仕方ない、と思ったからだ。

安を絶望させたのは、介良家の面々である。れんに酷い振る舞いをしていた女中たちのみならず、当主の貞彦は、れんがあの高熱で死んでしまえば良かったというような発言をし、また、れんが長男の縁談の邪魔にならないような振る舞いをさせてくれさえすればいいのだ、という、安の目標からすればとてつもない低い期待しかしていないのだ。屋敷で働く女中たちには派閥があり、自身も弱視である安自身も嫌がらせを受けることがあった。れんの母・よしに対してさえ、安は憤りを抱く場面がある。

三重苦を抱える少女の教育というだけでもとてつもない労力なのに、屋敷の人間が協力的でないということがさらに安を苦しめていく。この辺りの描写は、当時の日本ならではという感じだろう。安は、アメリカで教育を受け、「自由」という言葉を理解して使える女性だ。しかし、当時の日本はまだ家父長制が強く、また青森という地方においては古い因習も捨てきれない。そういう土地で、安のようなしがらみのなく理想を追求しようとする女性は、とてつもない窮屈を味わうことになるのだ。

しかし安は、どれほど状況が厳しくても諦めなかった。それは、れんのことを信じていたからだ。教育を始めた当初から、安はれんの聡明さを感じ取っていた。彼女は、見えない聴こえない喋れないだけで、人間として持っているべき当然の能力は持ち合わせているのだ、と。であれば、あとは彼女に、三重苦であるが故に自然には身につかない様々な事柄を根気よく教えていきさえすればいい。先に希望が見えていたからこそ、安は諦めることがなかったのだ。

物語的に良いなと感じる場面はいくつもあったが、やはり一番印象的だったのは、長男の縁談の関係で、名家の家長が屋敷にやってきた時の話だ。この時に何が起こったのか、詳しいことはここでは書かないが、幾人もの人間が持つ暖かさみたいなものがすべて良い方向に作用し、類まれな結果を生み出した場面だった。素晴らしいと思います。

そして大事なことは、本書は超特殊な事例を扱った小説ではあるのだけど、「伝える」という観点からすれば誰にでも有用だろうと思われる知見を自然と与えてくれる作品だということだ。冒頭で書いたように、「伝える」というのは「変換」だ。安は、どう変換すればれんに伝わるのかを考え続けた。そして、その努力の積み重ねが奇跡を生み出した。「伝える」ことの難しさに行き詰まっている人は、そういう観点からも楽しめる作品ではないかと思う。

原田マハ「奇跡の人」

警視庁特別取締官(六道慧)



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内容に入ろうと思います。
星野美咲は、ある理不尽な理由から警視庁捜査一課から交番勤務へと格下げされた。捜査一課にいた頃は「謎解きマイスター」と呼ばれていたにも関わらずだ。その後また捜査の現場に戻ってくることが出来た。
しかしそれは、美咲と、年若い上司二人のみの、「警視庁分室特別取締班」という小さな所帯だ。上司で鷹木晴人は、生物学者兼獣医という警視であり、警視庁の屋上に設けられたオフィスは半分が温室である。「プレハブ造りの天空捜査室」の他の住人は、キナコとサスケという二匹の猫たちである。
特別捜査官である二人は、『世の中の、すべての悪を取り締まる!』をモットーに、主に動物虐待などの方面から犯罪を掬い上げていくのを目的としている。
ある日、通報があった。住人から、隣家のインターホンを押しても応答がない、何かあったのではないかというものだ。通報者の佐竹絹江は、隣家の寺西家とは懇意にしているとのこと。猫を多頭飼いしているということで、彼らに話が回ってきた。
寺西家の中は悲惨といっていい状況だった。猫の糞などがあちこちに付着し、片付けもまったくされていない。そしてその中で、主の幸輔氏が倒れており、そしてその妻・真梨子氏が亡くなっていた。
状況に不審なものを感じた美咲は、真梨子の司法解剖を依頼、また独自に捜査を進めていくことにした。そしてその過程で、幸輔・真梨子の息子である寺西英輔と出会う。英輔氏は大麻所持の現行犯で逮捕された。英輔には、妻・小雪との間に子どもがおり、それでいて夫婦ともに働いている気配がない。生活保護や育児手当などで生活しているようだが…。
というような話です。

全体的には、まずまず面白い、と言ったところです。とても読みやすいので、スイスイ読める感じはします。

しかし、本書を読みながら一番困惑したのは、謎の中心となっているものが何なのかうまく捉えきれなかった、ということです。というか、美咲が一体何に不審さを感じて捜査を続けているのか、イマイチ掴めなかった、という感じです。

上記の内容紹介では、幸輔・真梨子夫妻の家での不審な状況から物語がスタートします。しかし、あくまでもここは、謎の起点でしかありません。本当の謎は、英輔・小雪夫妻にあります。しかし、なかなかそこにたどり着かない。物語の構造は、

「① 幸輔・真梨子夫妻の家で変な状況がある」

「② その後、色々ある」

「③ 英輔・小雪夫妻の謎がなんとなく明らかになる」

という過程を経るのだけど、まず①から③にたどり着くのに時間が掛かる。さらに最終的に③について物語を展開させたいのは分かるのだけど、①②の段階で英輔・小雪に疑惑の目を向ける積極的な理由がないように思えてしまう。さらに、①と③が正直あんまり関係がないから、③を描きたかったのは分かるんだけど、①を起点にする意味あった?と感じてしまいました。

この辺りのことは、気にならない人は全然気にならないかもしれないけど、僕はちょっと気になってしまいました。なんかちょっと違うんだよなぁ、という感覚を拭えないまま読み終わりました。

とはいえ、全体的に面白く読めたのは、一つには鷹木晴人の造形がなかなか秀逸だったということがあります。生物学者兼獣医で警視という、正直意味不明な設定なのだけど、その意味不明さを物語の中にうまく取り込んでいる。美咲と晴人がコンビを組んでいるからこそこじ開けることが出来る扉というのがいくつもあって、特異すぎて物語に絡ませるのが難しそうな晴人の設定を実にうまく取り込んでいるなと感じました。

また、美咲の過去の事実を知ると、なんとなく美咲を応援せざるを得なくなっていく。正直に言って許しがたいだろう状況に美咲は置かれているはずだが、そんな自分の境遇を過大に嘆くでもなく、自分がやるべき眼の前のことに注力していく様は、なかなか良い。晴人と美咲のキャラクターで読ませる小説だなと感じました。

正直、ストーリー的にはちょっと難ありという感じではあるが、設定や人物描写がなかなか秀逸だと思ったので、トータルではなかなか面白く読める作品だったなと思います。

六道慧「警視庁特別取締官」

満天のゴール(藤岡陽子)



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誰かが死ぬことについて、そして、自分が死ぬことについて、特に何も感じることが出来ない。ずっと。たぶん僕の内側にある何かが壊れているんだろう、と思っている。

多少なりとも、身近な人間の死を経験したことがある。その度に、自分の心がぴくりとも動かなくて焦った。「誰かが死んで悲しい」とか「誰かが死んで辛い」というような感情を自分が持つことがあるのか、今でも疑問に思っている。

自分が死ぬということにも、あまり何も感じることがない。僕は時々、自分が癌になったらどうするかを考える。癌が判明した年齢に関わらず、僕は治療や手術をしないのではないか、と思う。昔、自殺しようとして出来なかったことがあった。自分で自分の命を断つのは無理だな、とそれ以来思っている。しかし、癌を放置することは、ある意味で「緩やかな自殺」みたいなもので、そんな風に死んでいくのはアリなのではないか、とよく思う。

自分が死ぬということについて今の僕が関心があるのは、いざ死に直面した際に、今抱いているこの考えが変わるかどうか、だけだ。変わるかもしれないが、あまり期待は出来ない。

人生は死を迎えるまでの長い長い暇つぶし、というようなことを誰かが言っていた(松尾スズキだったかな?)。僕も、人生をそんな風に捉えている。暇つぶしをこれ以上しなくて済む、という意味で、死を迎えることは悪くないような気がしてしまう。

だからだろう。「死」というものをどうも、真剣には捉えられない。

時代によって、「死」の捉えられ方は変わっている。「死」が当たり前の時代もあった。「死」を再生と捉える宗教観もある。その時代時代の「死」の捉えられ方が、当然文学にも反映される。

僕は、周りの人間がよく「長生きはしたくない」と言うのを耳にする。僕も同感だからこそ、そういう声が集まってくる、という可能性もあるが、恐らく一昔前よりも、「長く生きること」に価値を置かない人が増えてきているように思う。そういう世の中で描かれる文学を、先取りして読みたい気持ちになることはある。

内容に入ろうと思います。
川岸奈緒は、10歳になる息子・涼介を連れて、京都の海辺にある実家に戻ってきた。母が亡くなって実家を飛び出して以来、二度と戻ってこないつもりだったのに。奈緒は、ちょっとしたきっかけで夫・寛之の浮気を知ってしまった。問い詰めると、結婚するつもりだから別れてくれと開き直られた。対抗するために、涼介を連れて実家に身を寄せたのだ。
実家には、年老いた父が一人で暮らしていた。父には離婚の危機であることは言わず、涼介の夏休みの間、少し寛之を困らせるだけの滞在のつもりだったが、着いて早々状況が変わる。父が事故に遭い入院することになったのだ。比較的近くに住んでいる兄夫婦も来られないと分かり、奈緒は結果的にしばらく実家に腰を据えることになってしまった。
父の事故の際に助けてくれた海生病院の医師・三上と、実家の近くに一人暮らしをしている老女・早川と知り合いになった。結局離婚を決意することになった奈緒は、かつてとって看護師資格を活かして海生病院で働くことにした。そこで奈緒は、三上が過疎地域で地域医療に奮闘している姿を知る。また、度々体調を崩して倒れる早川は、これまでも、そしてこれからも特に何もない人生を歩むことへの諦念みたいなものを会話の中ににじませる。
奈緒・涼介・三上・早川。この四人の関わりが深まった時、一つの奇跡が起こる…。
というような話です。

冒頭で書いたように、どうにも僕には「死」というものをうまく捉えられない性質があるので、「死」をテーマにした小説というものに何かを感じることがなかなか難しい。前提として「死ぬことが悲しいことだ」と思っていないし、前提として「死ねるなら早く死にたい」と思っているので、一般的な感覚でこういう小説を受け取ることがなかなか難しい。

もちろんこの作品は、決して「死」だけを扱った作品ではない。しかし、冒頭の奈緒の離婚のドタバタは置いておくとして、本書はやはり最初の方から、「死」の匂いをまとったもので物語を牽引していく。それ以外にも何か物語の原動力があればまた読み方は変わったかもしれないが、あまり強くはその要素を感じることが出来なかった。

個人的には、奈緒と寛之の離婚のドタバタの方が気になった。寛之というのはかなり自己中心的な男で、開き直っておきながら自分の正当性を主張して離婚を迫ろうとする。専業主婦で、財布の紐も握られていた奈緒には、為す術もない、という状況だ。結果的には奈緒は比較的早く離婚する決断をして、寛之は物語から退場してしまうのだけど、そちらの話も継続して物語に関わってくれたら良かったな、と思いました。

僕の本書に対する感じ方がまともだとは思っていません。普通は、「死ぬことは悲しいこと」だと思っているでしょうし、「出来るだけ長く生きたい」と思っているでしょう。そういう前提を持った人が読めば、彼ら4人を中心とした物語は胸に迫ってくるものがあるのだと思います。僕にはどうしてもそういう感じ方が出来ないので、こういう物語をうまく消化できないのが残念だなと思います。

こういう物語をちゃんと受け止められる人間に生まれたかったな、と思います。

藤岡陽子「満天のゴール」

自信 心を強くするのは、それほど難しくない(加藤諦三)



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ちょっと不思議な本だった。
というのは、凄く読みにくい本だったからだ。

加藤諦三氏の本は初めて読んだが、なんとなく読む前のイメージでは、読みやすい文章を書く人なのだと思っていた。というのも、この著者は出す本が軒並みベストセラーみたいな人だからだ。

けど読んでいて、どうにもスイスイ読めないと思った。僕の受け取り方的には、「文章が下手だなぁ」という感じだった。もうちょっとどうにかならんもんかな、と。

本書は、「自信」「不安」「依存」と言ったようなことについてあれこれ掘り下げている本だ。6つの章があり、それぞれの章の中でも小見出しで記述が分かれているのだけど、とにかく記述にまとまりがない。個人的な印象では、もっと構成をすっきり変えられるはずだ。例えば、

「自信を持てない人が生み出される環境にはどういうものがあり、そこでどういうやり取りが行われているかを、「友人」「家族」「会社」など具体的な環境毎に分けて書く」

「そういう環境に置かれている、自信の持てない人が、具体的にどんな思考で物事を捉えているのかをさらに掘り下げる」

「自信がないがそのことを認められない人への対処法、自信がなくそのことを認識できている人への対処法、そして自信がない人が周りにいる人への対処法などに分けて対処法を書く」

みたいに内容を分けて、本書の中でバラバラにあちこちに書かれている事柄を再編させれば、もっとすっきりするのではないかと思う。

とにかく読んでいて、著者が今から何の話をしようとしているのかが全然分からないので、ついていけない。さらに、説明していない用語がポーンと出てきたり、ある事柄とある事柄を繋ぐ理屈がすっ飛んでるように思える箇所もあって、読者が共有出来ていない前提を踏まえないで書いてしまっているように感じた。

書かれている内容には共感できる部分が多かったので、なおのこと、この読みにくさは不思議で仕方なかった。

中身としては、あちこちに色んなことが書かれているのでちょっとうまくまとめられないが、大雑把にこんな風に要約できるだろう。

「自信のない人は、依存性の強い人に操作されてしまう。自信がないからこそ操作され、操作されるから自信を無くす、という悪循環が生まれる。そしてその原因は、自己主張をしない、あるいは封じられてきたからだ」

こういうようなことについてあれこれ書いている。

本書に書かれているような人には、思い当たるフシがある。本書では「自信のない人」を二種類捉えている。一つは「自信がなく、表向きもそう見える人」、そしてもう一つは「自信はないが、それを隠すために攻撃的になる人」だ。どちらも、現実世界で当てはまる人を思い浮かべられる。

僕としては、前者の方が、自身の抱えている問題を認識しやすいはずなので、まだ対処のしようがある。「自信がなく、自信がなさそうに見える人」というのは、「自信がない」という自分の状態を受け入れているので、その原因を指摘されたりしても感情的にならない可能性が高い。

でも後者のような人は、自信がないということを認識できていないから難しい。そういう人に、自信のなさの原因を指摘しても、受け入れないだけじゃなくきっとキレるだろう。こっちのタイプの人の方が、対処が困難だ。

本書では、自信がない人に向けて、「逃げない」「自己主張する」「自分を偽らない」など色んなアドバイスをするのだけど、正直現実的じゃないよなぁ、という気はする。そんなことが出来る人なら、今のような状態になってないだろ、と思ってしまう。ちょっとモヤモヤする。

あと、もう一つモヤモヤするのは、推測が多すぎるということ。著者は心理学者で、恐らく自分が関わったケースについては守秘義務的なことがあって具体的なことが書けなかったりするのだろうが、それにしても「~だろう」という表現がメチャクチャ多い。心理学者ならもう少し根拠を示してくれてもいいのになぁ、と。あと、根拠がなくても推測にならない話としては、自分自身のことというのもあるが、自分自身の話も少なかったので、結局他者に対する推測ばかりになってしまう。この点も、ちょっとなぁ、という感じがしました。

良いことが書いてあると思うので、ちゃんと再編集して出し直したらいいと思うんだけどなぁ。

加藤諦三「自信 心を強くするのは、それほど難しくない」

屍人荘の殺人(今村昌弘)



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新人のデビュー作とは思えない、かなりレベルの高い作品だった。
鮎川哲也賞は、去年の「ジェリーフィッシュ~」も相当レベルが高かった。
賞全体のレベルが上がっているのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
神紅大学に入学した葉村譲は、ミステリ研究会に入ろうとしたが、所属しているメンバーが古典的なミステリ作品を全然読んでおらず断念。そんな折に知り合ったのが、ミステリ愛好会の会長である明智恭介だ。会長と言っても部員は彼だけ、しかしミス研なんかとは比べ物にならない知識量であり、葉村はミステリ愛好会に入ることになった。そこで、勝手に学食にいる生徒の昼食を推理する、などという無益なことをしている。
明智は、謎解きに魅入られているようなところがあって、空気も読まずにあちこち首を突っ込んでは探偵役を張り切っている。とはいえ、大した活躍はしていない。そんな明智が、映画研究部の夏合宿の話を聞き及んできた。何でもOBの親が持つペンションをただで開放してくれるとのこと。事件の匂いがするから是非参加したいと言って聞かないのだが、映画研究部の部長である進藤に何度頼んでも断られている。
そんなある日、喫茶店でお茶をしていると、美女が二人の元にやってきた。剣崎比留子と名乗った彼女は、是非とも映画研究部の合宿に潜り込みたい、自分と一緒ならOKしてもらえるはずだから、という奇妙な話を持ちかけてきた。すぐさま明智はその話に乗り、葉村と剣崎の三人で合宿へと向かった。
ペンションに集まった男女は、どことなく歪な感じであった。部長の進藤が美しい彼女を連れてやってきたのはいいとして、それ以外の女性メンバーも、タイプこそ違うが美女揃いだ。一方で、OBとその友人だという三人は、なんとも嫌な雰囲気を醸し出していた。去年の合宿でトラブルがあったらしい、という話を葉村たちは聞いている。きっとこのOBたちに関係しているのだろう。
ともかく合宿は始まった。ショートフィルムの撮影、バーベキュー、そして肝試しと進んだところで、とんでもない事態が勃発した。誰もが予想だにしなかったある状況により、彼らはペンション内部に隔離されるような形になってしまったのだ。
今すぐというわけではないが、確実に命の危険にさらされている彼らは、なんとかこの状況を生き延びるために協力することにした。恐怖から自室に立てこもってしまったペンションオーナーの息子である七宮はともかくとして、どうにか生き残った葉村たち、部員たち、管理人の面々は、長い長い夜を過ごしていた。
翌朝、事態はさらに急展開を迎える。なんと部長の進藤が部屋で何者かに殺されていたのだ。これは奴らの仕業なのか…。しかしそう考えるのにも不自然だ。ではペンション内部の人間の仕業なのか…。しかしそれもおかしい。
彼らは、究極的なクローズドサークルの中で、不可能な殺人を犯す者と共に生き残りを掛けたサバイバルを行うが…。
というような話です。

これはよく出来たミステリだな、と思いました。これから読む人のために、彼らが何故「クローズドサークル」にいる状況に陥ってしまったのか、その理由はここでは書かないのだけど、ここで書けないことが残念なくらい、ちょっとぶっ飛んだ状況が描かれます。

しかも、大抵のミステリで描かれる「クローズドサークル」というのは、警察の介入を防ぐための役割しか担っていないことが多いです。しかし本書では、この「クローズドサークル」下でなければ起こり得ない殺人が描かれていくわけです。これがとても上手い。ただ単に「クローズドサークル」を作り出すためにこれだけのモチーフを持ち出してきたのであればさすがにそれはやり過ぎというか、必然性がなさすぎるでしょう。しかし本書の場合は、「クローズドサークル」の原因が殺人と見事に結びついている、という点が見事だと思いました。

物語の作り方的には、西澤保彦の作品群に近いものがあります。人格が転移するとか、時間を繰り返してしまうなど、西澤保彦の作品にはそういうメチャクチャな状況下で起こる事件が描かれます。それらを、その世界の論理に沿って謎解きしていく、という形。本書も構造としてはそれに近いのだけど、しかし大きく違うのは、SF的な設定に逃げていない、ということです。いや、本書もSFと言われればSFかもしれないのだけど、起こりうるかどうかで言えば、起こりうると思えてしまうものです。少なくとも、西澤保彦の作品よりは格段に起こりうるといえるでしょう。ほぼあり得ないが、現実世界で絶対に起こらないとも言い切れない状況を作り出すことで、作品にリアリティが生み出されているように感じました。

ペンション内部でどんなことが起こるのかは、是非本書を読んで欲しい。「クローズドサークル内における殺人」というミステリの定型を微妙に外してくるような設定とか、外的要因があまりにも異常過ぎて、「殺人」という状況にあまり過敏に反応できていない様子などは面白く描かれていると思います。探偵役の体質とか、葉村と剣崎のやり取りとか、葉村の吐いた嘘とか、そういう要素も全体的に凄くよく描けているなぁ、という感じがしました。

全体的に凄く良かったのだけど、とてもとても細かなところでちょっと残念だったところがあります。ミステリの場合、最終的に犯人や犯行状況を絞り込むために色んな設定が必要になってくるんだけど、それらの一部がちょっとこなれていない感じがしました。一例を挙げると、「七宮は潔癖症」という情報が比較的最初の方で出て来るんだけど、これは後々、ある状況を排除するための条件として使われます。なるほど、ここで絞込みをするために、七宮には潔癖症という設定が必要だったのか、と思えてしまったのが残念でした。仕方ないとはいえ、そういう描写が多少目につくと、「物語にとっての駒」みたいな見え方になってしまうように思うので、そこだけちょっともったいないかなという感じがしました。

とはいえ、まあこんなのは難癖レベルの些細な話で、全体の完成度はとても高かったと思います。何よりも、繰り返しになるけど、「クローズドサークル」の原因がペンションで起こる殺人と密接に関わってくる、という状況設定が見事でした。そして、決して設定の妙だけで押し切るような作品ではなく、状況や人間の描き方もとても上手かったと思います。読んで満足できる一冊です。

今村昌弘「屍人荘の殺人」

デーモンロード・ニュービー~VRMMO世界の生産職魔王~(山和平)



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内容に入る前に、僕自身のことを。
僕は、ゲームというゲームをほとんどやったことがない。
僕が自分の中で「プレイしたことあるなぁ」と思うゲームは、「マリオカート」「パワフルプロ野球」「ストリートファイターのどれか」「64のマリオ」「ゲームボーイのマリオ」ぐらいではないだろうか?「ポケモン」も「ファイナルファンタジー」も「ドラゴンクエスト」も、やったことがないどころかソフトに触ったこともプレイ画面を見たこともない。「RPGっていうのは、なんで攻略本を見てやるような人間がいるんだろうか?それ、面白いのか?」みたいに思っちゃうような人間で、とかくゲームとは縁がない。

そんなわけで、そもそも本書の副題にある「MMO」ってのがなんなのか分からない。なんとなく僕が捉えたイメージを書いてみよう。「RPG」っていうのが、基本的なストーリーがあるゲームで、「MMO」の方は基本的なストーリーはなく設定だけがあり、禁止されていること以外であればそのゲーム内でどう遊んでもいい、というもの、という感じだ。合ってるだろうか?

そんな僕が、ちょっとした理由があって本書を読んでみたのだけど、結論から言うと、なかなか面白かった。僕のような、筋金入りの「ゲーム初心者(というかゲーム未経験者かな)」が読んでも、分からない部分はそれなりにあったものの、全体的には面白く読めた。僕は、実際のゲームをやることなく、本書を通じていわゆる「ネットのRPGゲーム」の理解をしたつもりでいるんだけど、本書を読む限り、なるほど、きっと面白いのだろう、というイメージが出来た。どんな遊び方をしてもいい、というのは、「RPGを攻略本を読んでプレイすることに違和感を覚える」僕には、面白い発想だなぁ、と思いました。まあ、きっと実際にプレイする機会はないと思いますけどね(どう考えても、楽しむには時間がかかりすぎる、というのが最大の難点)。

本書の場合は「VRMMO」、つまりバーチャルリアリティによって自分がその世界の中にいるような感じでプレイできるゲーム、という設定になっている。恐らく、そこまでのゲームはまだ現実には存在しないだろうが、バーチャルリアリティが少しずつ世の中に出始めている以上、いずれ登場するのでしょう。確かにそれは面白くなりそうだなぁ、と思いました。

内容に入ろうと思います(上述した通り、ゲームについてはまったく分からないので、不正確な表現があっても許してください)。

主人公である高校生の「俺」は、ハードゲーマーの妹・里緒奈と二人で生活している。仕事で両親は離れて暮らしているため、中学生の妹と二人暮らしなのだ。
すべての始まりは、エアコンが壊れたこと。福引券を大量にもらった兄妹は、「鬼ヅモ」を持つ兄にすべてを託した。結果、引き当てたのは「VR型MMORPG対応の個人用マシン」だ。「ダブルワールド・オーバークロス(WWOX)」というゲームで、第一次生産が予約でパンクするほどの人気だという。ベータ版でプレイしていたという妹は、当たったマシンで兄にもゲームをやってもらい、一緒にプレイしたい、と言ってきたのだ。妹の頼みなら断れない。
「WWOX」の一番の特徴は、10人の魔王が一般プレーヤーから選ばれること。抽選なのかランダムなのか運営の意志なのか、はっきりはしないが、とにかく登録した者の中から10名が自動的に魔王としてプレイすることになる。兄妹は、妹の得意なプレイスタイルに合わせて、兄がそれを保管するような形で登録を済ませた。
そしていざ正式オープンの日。驚くべきことに俺は魔王に選ばれたのだった!さすが「鬼ヅモ」。しかもそれだけではない。基本的に性別を変えたプレイは出来ないはずの「WWOX」で、何故か俺は女性の格好をしていた。しかも、衣装の露出が激しすぎる!まったく理解できなかったがとりあえずその混沌とした状況を受け入れた俺は、10人いる他の魔王の一部と知り合いとなった。

鍛冶系魔王 オギレウス(フルフェイスの鎧)
建築系魔王 エマ・グレコ(魔女風のマーメイドラインのドレス)
魔法系魔王 ミュミュ(踊り子のような衣装のツインテール)
戦闘系魔王 シゲン(二足歩行の人型竜)

ちなみに俺は、農業系の魔王で、アキカという名前である。
彼らは、それぞれの特色を活かしながら魔王としてプレイしていく。オギレウスとエマはベータ版からの経験者だが、アキカ・ミュミュ・シゲンは正式オープンからの参加者。それぞれゲームに対するスタンスが違うが、とにかくお互いに足りないものを補いながら、情報を交換し合いながら、プレイを進めていく。
妹は、兄と一緒にプレイ出来なくなったことを嘆くが、しかしその一方で気合も入っている。
皆が近い内に、「魔王討伐イベント」が起こると予想していたのだ…。

というような話です。

繰り返しますが、なかなか面白かったです。ストーリー展開は、たぶん読み始めれば誰でもこうなるんだろうと予測できる感じで、だからこそ物語の(というかゲームの)細部の設定を楽しむ、というのがこの小説の読み方なんだろうと思います。専門用語(と表現するのも違うのかもだけど)を織り交ぜながらの説明は、理解できない部分もありましたけど、ゲームが様々な調整によってバランスが保たれていることや、あまりに自由度が高いためにプレイスタイルが独特になる場合もあること、そしてゲーム内のルールは「運営」という人間が作っている以上シンプルであり、それ故に現実世界以上にルールの裏をかいて暗躍することが出来る、というようなことを理解することが出来ました。

僕が本当に驚いたのは、自由なプレイスタイルの部分です。ゲームをクリアすることだけが目的ではなくて、色んな目的を持ったプレイスタイルを取ることが出来る。こういう自由度が、今現実に存在するゲームでどれぐらい組み込まれているのか分からないのだけど、恐らく組み込まれているのでしょう。そもそも主人公の俺がゲームをやろうと思った理由は、ゲーム内なら大規模農場が作れるから、というものでした。そんな理由が成立するぐらいの自由度は、なかなか魅力的な感じがしました。

兄と妹の関係は、「ザ・ラノベ」という感じではありましたけど、面白く読めました。本書は、岩手県の食べ物が色々出てくるんですけど、あとがきによると「一つだけフィクションのメニューがある」そうです。岩手県の人ならすぐ分かるんでしょうけど、それを探しながら読んでみるのも面白いかもしれません(僕的には、二つぐらい怪しいかなというのがありました)。

ゲームをやったことのない人には理解できない記述もそれなりにはありますけど、全体的に文章が読みやすくて説明が平易なので、ゲーム未経験者でもそこまで辛いということはないと思います。むしろ、ハードゲーマーは本書をどう読むんだろうなぁ。本書の記述の内のどの程度が「ハードゲーマーにとって当たり前のこと」なのかが僕には掴めないから、その辺りの判断は出来ないな、と思いました。なかなか面白く読めました。

山和平「デーモンロード・ニュービー~VRMMO世界の生産職魔王~」

宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか(ルイーザ・ギルター)



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超絶面白かった!

まずは、僕なりの言葉で「量子論」について説明をしてみよう。恐らく、間違った解釈・言葉の使い方をしている部分も多々あるだろうけど、あくまでも以下で書くのは「僕が理解している量子論を、僕が使える言葉の上限で可能な限り表現しようとしていること」だと思って欲しい。たぶん不正確な部分が多々あるので、正確な記述を期待しないでください。


量子論のスタートは、ある困った現象から始まった。それは、「古典的な波動理論では説明出来ない結果」だった。古典的な波動理論では、原子などを「粒子」として扱っている。しかし、原子などを「粒子」だと考えた場合にはあり得ない結果が出てしまったのだ。

この現象を説明するために「量子論」は生み出された。そしてその過程で、原子などの物質には「粒子」としての性質だけではなく、「波」としての性質もある、ということが判明した。有名なのは、アインシュタインが「光は光子という粒子でもある」と証明したことだ。アインシュタインはこの成果でノーベル賞を受賞している(有名な「相対性理論」で受賞したわけではない)。

ちなみに、この文章を書いている現時点においても、原子などが「粒子でもあり波でもある」という状態を具体的にイメージ出来る人は世界中に誰もいないので、何を言っているのか理解できなくても全然問題ない。

こんな風に生み出された量子論は、全体的にとてもうまくいった。発見のきっかけになった現象もうまく説明できたし、他にも様々な発見があり、量子論の創始者の一人であるボーアを始め、多くの物理学者が量子論は世界を記述する理論だと実感するようになって行った。

しかし、量子論には大きな大きな問題があった。それを明確に指摘したのが、あのアインシュタインである。しかし、その説明に入る前に、もう少し量子論を深掘りしよう。

量子論は「波動関数」と呼ばれる方程式で記述される。問題は、この波動関数を解いた結果が、現実の何と対応しているのか、イマイチ分からない、ということだ。波動関数を解いて出て来る解は、「粒子がそこにある確率」を示している、と解釈するしかなかったのだが、これは一体何を意味しているのか?

僕たちは、「物がそこにある」ということを理解できる。例えば、机の上に鉛筆が置いてあれば、「机の上に鉛筆がある」と認識できるし、当然、自分が机に背を向けて直接鉛筆を見ていなくても、「机の上に鉛筆がある」と主張できる。しかし、量子論によるとそうではない。量子論においては、「波動関数を解くこと」は「原子を観測すること」と同じようなものである。波動関数は、「原子がその場所で観測される確率」を示しており、つまりそれは、「観測する以前の原子の振る舞いについては何も分からない」と言っているのと同じことだ。

もう少し分かりやすく書こう。先程の鉛筆の例で言えば、量子論が言っていることは、「机を観測した時には、鉛筆がある場所に鉛筆が観測されるが、机を観測していない時には鉛筆が机の上のどこにあるのか(あるいはないのか)は確率的にしか分からない」ということだ。観測した時にあった場所をA点と呼ぶとすれば、机に背を向けた時にも鉛筆がA点にあるかは判然とせず、A点にある確率がどれぐらい、A点以外の場所にある確率がどのぐらい、という情報しか分からない、と言っているのだ。

アインシュタインは、「そんなバカな!」と言った。有名な、「神はサイコロを振らない」という言葉がそれだ。アインシュタインは、波動関数が観測していない状態について記述出来ないことは理解していたが、それは量子論が「不完全だからだ」と考えていた。普通に考えれば、物質は「観測」していようがしていなかろうが「実在」しているはずであり、それについて記述出来ない量子論には何かが足りないのだ、と考えていた(結局のところ、量子論を巡る混乱というのは、「観測」や「実在」をどう定義するか、という問題に行き着くことになる)。

しかし、ボーアはアインシュタインのその指摘をイマイチ理解できないでいた。ボーアというのは、かなり入り組んだ思想を交えながら話をする人だったようで、難解な用語を新しく生み出しながら、量子論の独自の解釈を貫いた。

量子論に対する当時の物理学者たちのスタンスはいくつかあったが、代表的なのが二つだ。一つはアインシュタインの「量子論は不完全であり、物質の実在について振る舞いを記述する何かが欠けているのだ」とする立場。もう一つが、ボーアを中心とする「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるもので、「量子論というのは、観測する前の振る舞いについては何も語れないのであって、決して不完全なわけではない」という立場だ。

さて、アインシュタインは、自身が抱いていた量子論に対する違和感を明確にするために、ある思考実験を考えだした。これは後にEPR論文と呼ばれ、アインシュタインが指摘した量子の奇妙な振る舞いのことを、後にシュレディンガーが「もつれ」と呼んだ。そして、この「もつれ」を理解することこそ、量子物理学最大の難問だったのだ。

『もつれについて語ることは、量子物理学そのものについて語ることである。物理学者が初めてもつれの問題に直面したのは20世紀であった。それまで何世紀もの間、物理学は世界を完璧に理解しようとがむしゃらに進んできた。20世紀の初頭、量子論の気味悪さを疑うところからもつれの物語が始まった。その20世紀の夜明けは、我々にニュースをもたらした。物質と光の両方を探索すればするほど、謎が立ち現れたくるのだ、と。』

本書は、この「もつれ」という難問がどんな経緯を経て解き明かされていくのかを描いていく。この「もつれ」に触れる前に、量子論がいかに難しいかということを示す、量子論の創始者の一人であるボーアのこんな言葉を引用しておこう。

『もし量子論について考えているときに目がくらむことがないのなら、本当に理解できてはいないのだ』

さて、それでは「もつれ」について、僕なりに理解できていることについて触れようと思う。少し長いが、アインシュタインらが「EPRパラドックス」として提示した思考実験を、(正確さは欠くが)僕なりに分かりやすく(したつもり)の説明でチャレンジしてみよう。

二つのボールがある、と想像して欲しい。この二つのボールには、ある関係がある。それは、「どちらかが青色なら、もう片方は赤色だ」という関係である。

さて、僕らの一般的な感覚で言えば、ボールの色はあらかじめ決まっている。仮に青色のボールをA、赤色のボールをBと名付けよう。このボールは、僕らが観測していようがいまいが青色・赤色である。こう考えるのが、アインシュタインの立場である。

一方、ボーアのコペンハーゲン解釈では違う。二つのボールは、観測されるまで赤色なのか青色なのか決まっていない。僕らが観測して初めて色が決まる、というのだ。ここで重要なことは、この二つのボールには、「どちらかが青色なら、もう片方は赤色だ」という関係があるのだから、どちらか一方のボールの色を観測すれば、もう一方のボールの色も自動的に決まる、ということである。

さて、このボールを使ってこんな「実験」を考えてみる。二つのボールが空を猛スピードで飛んでいるとする。あまりにも早いので肉眼ではその色が分からない。特殊なカメラで撮影すると色が分かる、としよう。またこの二つのボールは、正反対の方向に飛んでいるので、二つのボールを同時にカメラに収めることは出来ない、ということにしよう。

さてこの状態で、片方のボールをカメラで撮影する。仮に青色だとしよう。そうすると、カメラで撮影していない方のボールの色は自動的に赤色、ということになる。

さて、これでEPRパラドックスについて説明する準備が整った。いや、もう一つ付け加えておかなければならないことがある。それは、アインシュタインが提唱した相対性理論についてだ。相対性理論は様々なことを主張する理論だが、その中でもかなり大事な主張が、「どんなものも、光より早く移動することは出来ない」というものだ。これは、量子論が議論されていた当時も、絶対的な原理原則として捉えられていた。

さて、これで今度こそ準備は万端。EPRパラドックスに進もう。

先程の「実験」は、アインシュタイン的な捉え方をすれば何の問題もない。二つのボールはあらかじめ色が決まっている。だから、観測したボールが青色であれば、もう片方はなんの問題もなく赤色である。

しかし、コペンハーゲン解釈を採用すると、困った問題が起こる。コペンハーゲン解釈では、「観測するまではボールの色は決まっていない」としている。「観測できないが、色は決まっている」のではなく、「観測するまで、赤色でも青色でもない」と主張するのだ。さて、その状態で、カメラで撮影をする。撮影した方のボールが青色だった、ということは、「観測することで青色になった」ということを意味する。そして、撮影した方のボールが青色だと分かったのと同時に、撮影しなかった方のボールが赤色であると決定するのだ。

さて、ここでアインシュタインはこんな疑問を突きつけた。撮影しなかった方のボールは、どうやって相方のボールが青色だと「知った」のか、と。

意味が分かるだろうか?ここで大事なのが、相対性理論の原理原則である「どんなものも、光より早く移動することは出来ない」である。

例えば、この二つのボールが100兆光年離れている、としよう。光の速度で進んでも100兆年も掛かる距離だ。しかし、それだけ離れていても、片方のボールの色が青色だと決まれば、その瞬間に、もう片方のボールの色が赤色だと決まるのだ。光より早く進むものは存在しないのに、この二つのボールは、光の速度を遥かに越えて「通信」しているように見える。ボールは撮影するまで色が決まっていないのだから、片方のボールが青色と決まった、という情報がもう片方のボールに届かない限り(通信しない限り)、もう片方のボールは赤色になれないはずなのだ。そしてそれは、相対性理論の原理原則により不可能だ。しかし、量子論は、その不可能なことをやってのけているように思える。これは矛盾ではないだろうか?

そう言ってアインシュタインは、量子論の不完全さを指摘したのである。

EPRパラドックスで指摘された二つの量子(僕の例では二つのボール)が置かれている状況は、やがて「もつれ」と呼ばれるようになる。そしてまさにこの点こそが、量子論の不可思議さの真骨頂であり、また量子論が実用に活かされるポイントでもあったのだ。

さてここからは、本書で描かれている「もつれ」の物語のざっとした概略に触れていこう。

まず、量子論が生まれた。波動関数が生み出され、「観測するまで原子の振る舞いは記述できない」という奇妙な結果が得られた。アインシュタインはそのことを不服としてEPRパラドックスを突きつけた。これによって、後に「もつれ」と呼ばれることになる現象が捉えられたことになるが、しかしこの「もつれ」がすぐに物理学者たちを熱狂させたわけではない。

「もつれ」が物理学の表舞台に出てくるまでに、数多くの人間が関わったが、その中でも重要だったのがボームとベルの二人である。

ボームは、マンハッタン計画の中心人物だったオッペンハイマーの教え子であり、色々あって監視される立場に置かれてしまった。そんなボームは、EPR論文を読み、そこから刺激を受けてとある論文を書いた。これは、「隠れた変数理論」と呼ばれるものに関わる理論である。「隠れた変数理論」とは、アインシュタイン的な立場、つまり観測するかどうかに関係なく物質は実在する、という立場の一つであり、試みとしては、量子論に観測する以前の実在性を組み込むもの、と言っていいだろう。

ボームの書いた論文は、かつてド・ブロイが書いたものに近いものがあった。大雑把に言えば、「物質に粒子と波の両方の性質があるのではなく、「未だ観測されていない未知の波(ガイド波やパイロット波などと呼ばれた)」に粒子が乗っているのだ」というような解釈をするものだった。ボームはなんとかして、量子論を完璧なものにしたくて「隠れた変数理論」についての論文を書いた。

ちなみに、この「隠れた変数理論」については、フォン・ノイマンが「あり得ないと証明した」ことがあった。当時誰もが、「フォン・ノイマンが間違えるはずがない」と考え、その証明を受け入れていたが、アインシュタインら幾人かの人間が、フォン・ノイマンが置いている前提に誤りがあることを見抜いていた。しかし、何度かそういう発見がありながら、フォン・ノイマンの誤りは表沙汰になることがなかった。

さて、実際のところ「隠れた変数理論」は現在では否定されているが、その当時も「異端な考え」だと思われていたようだ。ボーアのコペンハーゲン解釈に異を唱えることは間違っている、というような風潮があったようだ。だからボームの論文も取り沙汰されることはなかった。

しかし、ボームの論文を読んだ無名の物理学者であったベルは感銘を受けた。彼もまた、「隠れた変数理論」を信じていた一人であり、『ボームは、ベルが夢見ていた理論に到達していた―それは、実験者の行為に関係なく実在する実体に関する理論でありながら、量子力学と同一の結果をもたらすものであった』と捉えたのだ。

そうやってベルは、「趣味として」量子論に関わるようになったが(深入りするとマズイ、と考えていたようだ)、やがてベルは「ベルの不等式」と呼ばれる画期的なアイデアにたどり着く。「ベルの不等式」を簡単に説明するのは難しいけど(そもそも僕がちゃんと理解していない)、大雑把に言えば、「二つの粒子の関係性がある制限以内なら古典的な振る舞いをするが、その制限を超えると量子論が予言する奇妙な振る舞いが現れる」というものだった。別の言い方をすれば、もし二つの粒子の関係性がある制限以内であれば「隠れた変数理論」で説明をつけることが出来るが、制限を超えるなら「隠れた変数理論」は諦めて量子論が予言する奇妙な振る舞いを受け入れなければならない、ということだ。

「ベルの不等式」は、『21世紀初めまでにベルの論文が物理学に激変をもたらしたのは間違いない』とまで言われ、またベルの論文によって正当な評価を与えられたEPR論文は、『同論文は世界を揺るがしたアインシュタインの輝かしいすべての業績のなあでもずば抜けて引用回数の多い論文となり、また20世紀後半の物理学の主要誌「フィジカル・レビュー」で最も多く引用された論文となったのである』。

さて、ここでようやく実験物理学者の出番となった。物理学者は大きく「理論物理学者」と「実験物理学者」に分かれる。理論を考える者と、実験をする者だ。それまで「もつれ」の議論というのは思考実験によって展開されていた。実際に実験を行えるような状況が生まれえなかったのだ。しかし「ベルの不等式」がその状況を変えた。ベルの示した不等式を見た実験物理学者たちは、「これは実験によって証明できる」と考え、それぞれが独自の実験を計画し検証に乗り出した。そしてついに、「ベルの不等式」が破られる(制限を超える)ことが実験によって示され、アインシュタイン的な立場ではなく(つまり「隠れた変数理論」ではなく)、コペンハーゲン解釈が正しかったことが証明されたのだ。

さて、「もつれ」の物語はまだ終わらない。アインシュタインの指摘によって見出され、ベルが証明の可能性を見出し、実験物理学者たちが証明してみせた「もつれ」は、それまではずっと学問上の対象でしかなかった。量子論が「十分な理論」であるのか、あるいは「不十分な理論」であるのかを議論するための要素の一つでしかなかった。しかし「もつれ」は今、実用化への模索が進められている。

それが「量子コンピュータ」である。量子コンピュータの基本的な原理は、まさに「もつれ」を利用したものである。実用に足る量子コンピュータはまだ作成されていないが、原理を実証するような実験室レベルのものは既に生み出されており、量子コンピュータにおけるアルゴリズムも既に作られている。

もし量子コンピュータが実現すれば、僕らの生活に直結することになる。僕らが生きている世界で使われている様々なセキュリティ(何かにログインする時のパスワードみたいなものを想像して欲しい)は、RSA暗号と呼ばれるものである。これは、「因数分解には、コンピュータの力を借りても膨大な時間が掛かる」という特性を利用した暗号であり、普通のコンピュータではまず破られることがない。しかし、もし量子コンピュータが登場すれば、このRSA暗号は一瞬で解読出来てしまう。それぐらい、量子コンピュータは信じがたい計算能力を持っているのだ。

インターネットがこれほどまでに広がった現代、RSA暗号の恩恵を受けていない人の方が少ないと言っていいだろう(銀行口座の暗証番号もたぶんRSA暗号で出来ている)。そのRSAを一瞬で破る量子コンピュータの登場は、社会を激変させるだろう。しかも、今この瞬間にも、量子コンピュータが開発され、誰かがRSA暗号を破っているかもしれない。量子コンピュータは、「暗号を破った」という痕跡を残さずに暗号を解読できるので、仮に解読されていたとしても気づけないのである。

創始者ボーアがその存在を意識できず、気づいたアインシュタインでさえも捉え間違えた「もつれ」が今、物理の理論という枠組みを超えて僕らの実生活を脅かそうとしている。本書はそういう、壮大な物語なのである。

ルイーザ・ギルター「宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか」

コンビニ人間(村田沙耶香)



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うわぁ、すげぇ分かる、と思った。
古倉さんと僕とでは、まったく振る舞いは違うんだけど、根っこは同じだ。
そして、なるほど、この物語は「あなたにとっての『コンビニ』とは何か?」と問い続ける物語なのだ。

『ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった』

古倉さんは、そうやって18年間もコンビニでアルバイトしている。自分が「こうだ」と思った通りの行動をすると、どうしてもズレてしまう。周囲を困惑させる。でも、何が悪いのか分からない。だから古倉さんは、小学生の頃から『皆の真似をするか、誰かの指示に従うか、どちらかにして、自ら動くのは一切やめた』という。

この感覚は、僕にはすごくよく分かる。昔の僕が、こうだった。

子どもの頃の僕は、周囲の人間が「何故そうしているのか?」がよく理解できないことが多かった。何故笑っているのか?何故泣いているのか?何故怒っているのか?…。でも、みんな疑問を感じていないようだった。みんなが笑っている時にみんな笑い、泣いている時に泣き、怒っている時には怒っていた。

昔の僕は、みんなから外れるのが怖かった。だから、周囲を観察して、みんながどういう時にどういう感情を持つのか学んだ。僕には、本当にこういう感覚がある。こういう時に笑えばいいのだなと感じた時に笑うようにしていた(泣くとか怒るとかは、そういう意識でやった記憶があまりないけど)。別に面白いわけではないんだけど、笑うべきタイミングで笑わないのは、どうにも都合が悪い気がした。だから、予想して笑っていた。

けど、あくまでも予想でしかないし、しかもその予想も瞬間の判断でしなければならないから、時々外した。みんなが笑っていない時に僕一人だけ笑っている時があって、そういう時はとても困った。困ったけど、でもそういう気まずさを時々味わうにしても、予想して笑う方が色々と便利だった。

穂村弘「蚊がいる」というエッセイの一文を今でも思い出す。

『文化祭でもキャンプでも大掃除でも会社の仕事でも、いつも同じことが起きる。全ての「場」の根本にある何かが私には掴めないのだ。現実世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなルールがみえない。何のための穴なのかよくわからないままに、どこまでも掘ってしまう。だが、わかっていないということは熱心さではカバーできないのだ』

穂村弘が言っていることは、すごく分かる。みんな、その「場」のルールを、誰に教わるわけでもなく理解しているように見える。でも、僕にはそれはイマイチよく分からない。だから「場」のルールを外して、トンチンカンな行動を取ってしまったりするのだ。

『私の身体の中に、怒りという感情はほとんどない』

僕は、さすがにここまで極端ではないけど、似たような感覚はある。まあ、僕は、時期ごとに結構違った人間だったので、「怒っているばかりいる時期」というのもあった。だからずっとそうなわけではないのだけど、少なくとも今は、「怒りという感情」が湧くことはあまりない。怒ることが無駄だなと思うから怒らない、という説明をすることがあるのだけど、一般的には「怒り」という感情は自然と湧き上がってくるものだから、僕の言っていることは大抵理解されない。

また、「悲しい」という感情も、人より鈍いと思う。特にそれを実感するのは、人が死んだ時だ。僕は、人が死んで悲しいと思ったことが人生で一度もない。比較的近い関係の人も亡くなっているのに、である。そういう時に、自分のズレみたいなものを強く感じる。

だから、本書の主人公である古倉さんには、もの凄く共感できてしまう。古倉さんは、あり得たもう一人の自分かもしれないなぁ、と感じながら読んでいた。

しかし、古倉さんと僕とでは、振る舞いはまったく違う。

僕は、子どもの頃はみんなに合わせようと自分なりに努力していたのだけど、次第に無理だと感じられるようになってきた。やはり、しんどい。常に、赤外線センサーの張り巡らされた空間を行き来しているみたいな感じだった。赤外線センサー(みんなのルール)に触れるようなことをすると面倒なことになるのだけど、僕にはどうしてもそれが見えない。だから、周りの人の動きを真似しながら、どうにか見えてるフリをして生きていたのだけど、やはりそれはもの凄く神経を使うのだ。

だから僕は、そういう生き方を諦めた。で、変な人だと思われるように努力するようになった。自分自身を、「無害だし悪い人間ではないけど、でも変」という風に見せることで、「こいつなら何をしてても仕方ない」と思われるように振る舞うようにしたのだ。そうやって少しずつ自分の変さを周囲に感じてもらいながら、その状態で受け入れられるように振る舞ってみた。僕には、そういう生き方の方が合っていたようだ。今では、とても楽に生きられている。

古倉さんは、違った。古倉さんの取った戦略は、僕とは真逆だ。古倉さんがしたことは、「やることが完璧に決まっている環境に身を置く」ということだ。マニュアルがあり、どういう人間であるべきかが明確で、その指針に沿った思考以外をする必要がない環境。そういう環境ならば、一度ルールを覚えてしまえば、頻繁に更新する必要がなくなる。そのルールを身体に染み込ませてしまえば、後はちょっと微調整をし続けるだけで受け入れてもらえる。古倉さんは、そういう環境を見つけた。

コンビニだ。

『「いらっしゃいませ!」
私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、たしかに誕生したのだった。』

『泉さんと菅原さんの表情を見て、ああ、私は今、上手に「人間」ができているんだ、と安堵する。この安堵を、コンビニエンスストアという場所で、何度繰り返しただろうか。』

コンビニは古倉さんを「人間」にしてくれる場所だ。いや、違うか。古倉さんは、それ以上の捉え方をしている。

『私は人間である以上にコンビニ店員なんです』

『早くコンビニに行きたいな、と思った。コンビニでは、働くメンバーの一員であることが何よりも大切にされていて、こんなに複雑ではない。性別も年利も国籍も関係なく、同じ制服を身に付ければ全員が「店員」という均等な存在だ』

古倉さんは、「店員」になることで生き延びることが出来た。あぁ、良かった、と僕は思った。古倉さんにコンビニがあって良かった。

じゃあ、あなたにとっての「コンビニ」とは何か?

本書を読むということは、否が応でもこの問いと向き合わなければならないということでもある。

古倉さんは、何も考えずに、就活も結婚もせず、ただのんべんだらりとコンビニのアルバイトを続けている人、というような見られ方をされてしまうが(その状況は色々と問題を生じさせるので、それなりの言い訳を用意してはいるが)、本当は古倉さんはかなり意識して、自分を生き延びさせるために「コンビニ」という選択をしている。コンビニという環境が、自分にとって最適である、という判断を下しているからこそ、古倉さんはコンビニに居続けているのだ。

恐らく、そんな風に考えて自分のいる場所を選択している人はそう多くはないだろう。今いる場所が、自分にとって最適だ、という検討の末に選択している人はそう多くはないはずだ。であれば、僕らのほとんどが、古倉さんよりもレベルの低い選択をしているということになるだろう。

もちろん、自分で何かを選び取った、という人もいることだろう。そういう人は、じゃあ「何」を選び取ったのかと問わねばならない。

古倉さんは、「コンビニ」を選んだことで、「自分の意志を介入させない環境」を選び取った。あなたが選んだものの本質は、一体なんだろうか?その本質を掴めていなければ、「選んだ」とは言えないだろう。

『朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった』

本書に登場する、古倉さん以外の「正常」な人間が、僕には「異常」に見えて仕方がない。自分に何が必要で、何が不要で、それが得られる環境を自らの意志できちんと選び取った古倉さんの方が、僕にはよほど「正常」な人間に思えてしまう。

内容に入ろうと思います。
子どもの頃から、周囲から「突飛」だと思われる言動をしていた私(古倉恵子)は、大学一年生の時にたまたま見つけたオープニングスタッフ募集の案内を見てコンビニのアルバイトを始めた。これまでの人生では、いつどういう環境でどう振る舞うべきか、誰も指示してくれなかったから、どう行動すべきか全然分からないままだった。しかし、その点コンビニは安心だ。完璧なマニュアルがあり、いつどういう環境でどう振る舞うべきか、すべて決められている。決められていることをきちんとこなすことは得意だ。そうやって私は、コンビニの店員として「生まれた」。
それから18年。就職も結婚もしないまま、私はコンビニの店員を続けた。店長は8代目、当然働き始めた当初のスタッフは誰も残っていない。私は、コンビニにいない時でも今売り場がどういう状態になっているのかを想像し、「いらっしゃいませ!」という自分の寝言で起きることもあった。『全てを、コンビニにとって合理的かどうかで判断していた』私は、コンビニの店員であり続けられることが嬉しかった。
しかし、平穏だったそんな環境が、あることをきっかけに少しずつ軋み始めてしまう。きっかけは、白羽という名のやる気のないアルバイトスタッフが入ってきたことだった…。
というような話です。

いやー、これは面白かったなぁ。芥川賞を受賞してベストセラーになったことで、「まあ読まなくてもいいか」と思っていた本だったんだけど、読んで良かった。これは面白い。

古倉さんについては冒頭でかなり書いたので、ここからは古倉さんの周りにいる「正常」な人間の話をしようと思う。

「正常」な人たちは、古倉さんを「異常」な枠にはめ込みたがる。就職も結婚もしない、ずっとコンビニでアルバイト、恋愛もしたことがない、というのは、「正常」な人には理解不能で、何かおかしいんじゃないか、と思いたくて仕方がないのだ。

しかし、僕には「正常」な彼らの方が「異常」だと思えてしまう。

例えばこんなことを考えてみる。本書で描かれている「正常」な人たちが、戦時中に生きていたらどうだろうか?想像するのは簡単だ。彼らは恐らく、「お国のために節約し、特攻に向かう息子を勇敢だと褒め、大本営発表の日本が優勢という報告を信じながら、竹槍の訓練をする」ような生き方を「正常」だと考えて生きただろう。誤解のないように言っておきたいが、僕はカッコで書いたような生き方を否定したいわけではない。当時の社会通念では、そういう生き方が「正常」だとされていたし、正しかった。

僕がここで言いたいことは、本書で「正常」な人間として描かれる人たちは、結局、その時代その時代の「当たり前」に従っているだけだ、ということだ。同じ人間なのに、自分がどんな環境にいるかによって生き方が変わってしまう。僕にはそのことの方が「異常」に感じられる。

古倉さんはどうだろうか?古倉さんは恐らく、戦時中でも、本書で描かれているのと同じ違和感を抱くことだろう。そして、自分にとってどういう環境が最適であるのかを考え、選び取るだろう。古倉さんの方が、「自分」をベースに生きていると僕には感じられる。「環境」によって生き方が変わるのは、「自分」というものがないのと同じに思えてしまう。

意図してのことだろうが、本書の中では古倉さん以外の「正常」な人間は、皆大差ないのっぺりとした人間として描かれる。古倉さんと白羽以外の人物は、誰と誰が入れ替わっていても分からないような、そういう交換可能な人格として描かれている。古倉さんの妹や、白羽の義姉など、多少印象に残る人物もいるが、しかし発言や行動はやはり交換可能に思える。

彼らが「正常」なのだとしたら、「正常」の基準がおかしいと思う。

もちろん、古倉さんは自分が何故コンビニを選びとったのか、その理由を周囲に説明していないから、古倉さんの行動原理を周囲が理解できていないということは仕方がないことではある。しかし、じゃあ仮に古倉さんが自分の考えを周囲に開陳したとして、「正常」な人たちはその理屈を受け入れるだろうか?まあ無理だろう。余計、古倉さんを「異常」な枠に入れたくなるだけだ。そのことが分かっているからこそ、古倉さんも自分の考えを表に出さない。

古倉さんの造形は、かなり極端ではある。ある種のデフォルメと考えていいだろう。恐らくではあるが、ここまで極端に振り切れている人間は、そこまでは多くはない。

しかし、本書で古倉さんを極端にデフォルメして描くことで、本書は「当たり前って何?」という本質的な問いを投げかける作品になった。

また、舞台が「コンビニ」という、画一的で均質な世界というのも対比が利いていて面白い。コンビニはそういうのっぺりとした環境だと捉えられているが、そんな環境で働き続ける古倉さんこそが、自らの生き方をきちんと捉え、最適な環境としてコンビニを選び取っている。そして、コンビニという画一的な世界の外側にいる、就職や結婚をして「正常」に生きている人たちこそが、自分の人生を選びそこねているように僕には見えてしまう。「コンビニ」を舞台にすることで、本書で抉り出そうとしている事柄が、さらにくっきりとする印象があって、そういう面からも本書は実に面白い作品だと感じた。

白羽についてはほぼ触れていないが、そこは是非読んでみて欲しい。白羽がいかにして古倉さんの日常を激変させていったのかは、なかなか読み応えがある。古倉さんにとっての「日常」は社会にとっての「非日常」であり、白羽はそんな古倉さんに「社会にとっての日常」を与えるかもしれなかったのだが、しかしそれはやはり仮初めでしかなかった、という感じだ。いやはや、面白い。

古倉さんにどの程度共感できるかで、本書の読み味はまったく変わってくるだろう。古倉さんに共感できなければ出来ないほど、本書は恐ろしくつまらなく感じられることだろう。そして、ある意味でそれは、とても幸せなことだ。本書をつまらなく感じられれば感じられるほど、その人は今の社会における「正常」に近い、と判断できる。そういうバロメーターとしても、本書は実に良く機能するのではないかと思う。

あぁ、面白い本だった。そう感じる僕は、「正常」とは程遠いのである。

村田沙耶香「コンビニ人間」

女たちの避難所(垣谷美雨)



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何でも分かってると思っているつもりもないし、僕が男である以上、見えていない部分も多々あるのだということは十分分かった上で言うのだけど、女性というのは本当に生きていくのが大変だろうな、と感じる。やはりどうしても、社会が「男目線」で作られているからだ。

僕はどちらかと言えば男の方が苦手なので、男のダメな部分というのは多少は分かるつもりだ。いちいちここで言語化することはしないが、男の狭量な考え方が、女性を生きづらくしているのは間違いない。

そして問題なのは、男がそのことにまったく気づいていない、どころか、自分は女性のためになるような行動をしている、と思っている節さえある、ということだ。この点が、実に致命的だ、と思う。もちろん、僕自身もそういう振る舞いをしてしまっているかもしれないということは常に意識するようにはしているし、自分だけはその罪から逃れられていると思っているわけでは全然ないのだけど。

僕は、働くという点では、女性の方が有能だと感じる機会が多かった。誰に聞いたのか忘れてしまったが、知り合いが自社の採用面接の際にあった話が印象的だった。その人曰く、純粋に絶対評価で点をつけると、面接を受けに来た女性ばかりが残ってしまうのだ、と。人事から、女性ばかりだと都合が悪いから男も残してくれ、と言われたという話をしていた。

もちろん、有能さというのは数値などで客観的に測れるものではないが、少なくとも、男の方が明白に有能だ、ということを示すデータも存在しないだろう。であれば、管理職が男ばかりという会社が多い現状にはやはり問題があるだろう。

また、色んな夫婦から漏れ聞こえてくる話(当然それらは女性側から聞くのだが)からも、女性の息苦しさを感じることが多々ある。特に、僕よりも上の世代だと、夫の言うことは絶対という、僕からすれば信じがたいような振る舞いをしている男がまだまだたくさんいるらしい。

いや、こう考えることも出来るかもしれない。DVの問題は、昔からあったのだろうが、僕の勝手な印象では、上の世代よりも若い世代に多い気がする。上の世代の場合、「夫の言うことは絶対」というような謎の了解がまだ世間の通念として漂っていて、だから男は暴力を振るわずとも妻を支配することが出来た。しかし、時代の変化によってそういう了解が薄れていく。男は、自分の父親がそうしていたように家庭で強権的に振る舞いたいのだが、時代の風潮がそれを許さない。だから暴力に訴えて妻を支配しようとするのではないか、と。そうであれば、上の世代であろうが若い世代であろうが、問題の本質は変わらず男の振る舞いにある、ということになる。

そしてこの問題は、世代だけではなく、地域によっても差が出る。都会であれば、男尊女卑のような価値観は、表向きは減っているだろう(巧妙に隠れているのだ、と指摘することも出来るのだろうが)。しかし地方だと、女性が窮屈な状況に置かれることが未だに当たり前とされることもある(本書で描かれているのは、まさにこの点だ)。

決して女性に限らないのかもしれないが、若い世代の女性があまり結婚を望んでいなかったり(少なくとも早く結婚することを望んでいなかったり)、あるいは就職してもすぐに辞めてしまったりする背景には、こういう、「男社会」であるが故の窮屈さみたいなものがあるだろうと思う。

先程も書いたが、致命的なのは、男がその状況をまるで理解できていないという点だ。もちろん、男の側にもそれぞれなりの立場があり、その立場に沿った発言をしなければならない、という事情はあるのだろうが、それにしても、女性がどんなことを嫌だと感じているのか、どんな苦しみを持っているのか、それらを何故相談できないのか、というような現状を、全然理解していない。

僕だって、女性から色んな話を聞かなければ分からなかったことは多々ある。外から見て分かることはほとんどなくて、大体、色んな人からちょっとずつ打ち明けられた様々な話を繋ぎ合わせるようにして、女性の置かれた状況をなんとなく理解できるようになっていったのだ。

本書の内容を象徴するような一文を抜き出してみる。

『今まであった問題が明るみに出ただけなのかもしれない』

本書は、3.11の震災を、3人の女性の視点から描き出す作品だ。それは確かに、震災の物語ではある。しかし本書は、より本質的には、僕らが生きている社会に根を下ろす様々な問題をあぶり出す作品なのだ。震災そのものを描くのではない。本書にとって震災は、音を増幅させるアンプみたいな装置なのだ。日常的に女性が置かれている苦しい状況が、震災というアンプを通すことによって増幅され、目に見えやすくなる。それこそが、この作品の持つ大きな意味なのだ。

内容に入ろうと思います。
椿原福子は、職場であるナガヌマ酒店の奥さんに頼まれた買い物中に、スーパーで震災に遭遇した。55歳、体力があるわけではないが、水が侵入した車からなんとか抜け出し、濁流に飲まれながらも、なんとか一命を取り留めた。流されてきた少年をなんとか救い、家族とはぐれたという昌也というその少年とともに、なんとか避難所にたどり着いた。
きっと夫は死んだだろう。そう思うと嬉しくて、そんな風に感じている自分に唖然とした。
漆山遠乃は生後6ヶ月になる息子・智彦と共に、家で震災に遭った。夫の実家であり、義理の両親と共に暮らしている。28歳の遠乃は、家での発言権はほぼなく、舅の指示には逆らえない。余震が来るから逃げた方がいいという遠乃に舅は、この家は安普請ではないから大丈夫だと怒鳴り動こうとしない。なんとか理由をつけて家を出た遠乃は、高台に逃げなんとか助かった。夫は、公務員になるために地銀を辞め勉強中、今は図書館にいるはずだ。あそこなら大丈夫。子どもを抱えて避難所に向かうが、若くて美しい遠乃は、避難所でもの凄く目立ってしまう。
山野渚は、5年前に離婚し故郷に戻ってきた。40歳になったばかりで、小学生の息子がいる。渚は生きるためにスナックを経営し、なんとか生活を成り立たせていた。口さがない声があるのは知っていたが、生きていくのに必死だ。自宅で被災した渚は、津波に飲まれそうになったが、どうにか助かった。息子がいる小学校は、災害時は親が迎えに来るまでは学校で保護してくれる。大丈夫なはずだ。渚も避難所へとたどり着く。
何もかも失ったが、命だけは助かった―。しかし、辛いのはここからだった。

『生き残ったことが、果たして幸せだったんだろうかと渚は思った』

三者三様の悩みを抱えながら、彼女たちは避難所での生活をなんとか堪え、未来の自分を思い描こうとする…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。面白いというか、興味深い、という感じがしました。小説としてどうか、という点よりもまず、こういう現実があったのか、という点に関心が向きました。そして、なるほど、本書は確かに小説であることに意味があるな、と感じました。ノンフィクションとして実際にあった出来事を描くのももちろん大事だが、小説の登場人物の言動を通じて描き出すことで、読み手がより認識しやすい形で事実を提示出来ているように僕には感じられました。

三人の女性は、それぞれの苦しみの中に身を置きます。彼女たちがどんな状況の中に置かれているのか、という点については、あんまり書きすぎると後半の方の展開も透けて見てしまうような気がするので止めておきますが、引用したように、「今まであった問題が明るみに出た」という状況です。今までは、現実を成り立たせるために、彼女たちが色々と我慢したり調整したりして表向き上手いことやってきた。しかし震災によって、成り立たせる対象である「現実」が無くなってしまった。そうすることで、今まで我慢や調整によって明るみに出ることがなかった問題が浮き彫りになっていくわけです。

興味深いのは、男はあれだけの震災があって、「現実」が消失してしまったというのに、まだ震災以前の「現実」のルールの中で生きようとする、ということです。これはある意味で当然かもしれません。男は、それまでの「現実」が、女性の我慢や調整によって成り立っていた、という事実を認識できません。だからこそ、自分の振る舞いが、震災後も通用する、という判断になってしまうのです。

さらに、もっと恐ろしい状況さえ生まれます。それは、「女性に負担が掛かるのは当然」という意識を持った男にしか繰り出せない理屈です。

避難所のリーダーが、こんなことを言う場面があります。

『そらあ家も流され仕事もなくしで男だづも苛々しでっがらね。そういうごどがあっでも仕方ねえだろうね。だがら女性のみなさんも勘弁すてやってね。男っでものはどうしようもねえ動物だがらね』

何のことについて言っているか、理解できるだろうか?これは「緊急避妊用ピル」を配る際の言葉で、つまりこのリーダーは、「男はどうしようもないからレイプされても許してやってくれ」と言っているのだ。

これが、どこかの避難所で実際に口に出された言葉なのかどうか、それは僕には分からないが、言う人間がいてもおかしくない、と感じる。女性を一段も二段も低いものとしてしか見れない男というのはいるのだ。

このリーダーは他にも、「仕切りようのダンボールを使わない」という決断をする。避難所の面々は家族であり、連帯感を強めなければならない、というのがその理由だ。この台詞は、実際に避難所で発せられたという。あとがきによると、著者はその事実を知ったことで、本書を書く構想が生まれたという。

どんな価値観を持っても自由だが、それは「他人に迷惑を掛けない」「他人にその価値観を押し付けない」という前提がある場合だ。自分の理屈でしか物事を見れない人というのは男女ともにいるが、「男社会」の中では男の理屈がはびこり、女性が苦労することになる。そのことを、本書の隅々から感じることが出来るだろう。

また、女性の苦しみは、「対男」だけから生まれるとは限らない。例えば「食事作り」の問題などは、女性同士の間での問題だ。以前から様々な場面で感じることだが、女性というのは、男からは理解されず、さらに女性同士も立場の違いによって共闘することが出来ないという、本当に厳しい状況に置かれている。普段は、女性側の努力によってあまり表立って問題化することのない様々な事柄を、震災というアンプが増幅していく。

また、女性の苦しみという点に限らない描写も様々にある。贅沢を言ってはいけないという雰囲気を感じ取ったり、ボランティアスタッフとの微妙なすれ違いがあったり、義援金を巡る悲喜こもごもがあったりと、震災という様々な側面を捉える作品でもある。

福子のこんな言葉が印象に残った。

『努力すればなんとかなるっていうんなら身を粉にして働く覚悟はあるけんども、考えれば考えるほど、先が見えないってごどがはっきりしてきてしまっで、そうなると死にたぐなる』

この作品では、綺麗事は描かれない。生々しい醜悪さが描かれていく。震災直後は、「絆」「がんばろう」という言葉で様々な場所が埋め尽くされた。しかし、そんな綺麗事の陰には、表に出てこない様々な問題があった。

その問題は、震災が生みだしたものではない。震災前からあったものが浮き彫りになっただけだ。

だからこそこれは、被災地だけの物語ではない。現実を生きる僕らに投げかけられた、大きな大きな問いなのだ。

垣谷美雨「女たちの避難所」

この世でいちばん大事な「カネ」の話(西原理恵子)



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この本を読んで、つくづく思ったことがある。

世の中には、「成功するための本」は山ほどある。「成功」をどんな風に捉えるかで本の中身も変わってくるんだけど、基本的には「こうすればうまく行くよ!」って方法が書かれた本。そういう本は、本屋に行けばたくさん見つけられる。

でも、本当に大事なのは、「しなくていい失敗を避けるための本」なんだろうな、と凄く思った。

僕たちは子どもの頃、学校で色んなことを習う。でも、どうも学校で習うことって、直接的には人生に役立ってくれない。もちろん、まったく役に立たないわけじゃない。僕は数学をちゃんと勉強したお陰で論理的に考える力が身についたと思っているし、歴史や化学や英語なんかも、役立ちレベルはともかくとしても、全然役に立たないわけじゃない。けどやっぱり、生きて行く上でどうしても必要な知識じゃないな、と思う。

本書で書かれてるみたいなことこそ、誰しもが生きて行く中で知っておかなきゃいけないことだろうと思う。しかしなかなか、こういうことを教えてくれる大人はいない。

それはある意味で仕方ないことではあるのだろうと思う。学校の成り立ちや、家庭で教えるべきことの変化などから考えれば仕方ないのだと思う。

昔は、みんなが学校に行けるわけではなかった。一部の、ある種特権的な人たちが通う場所だった。つまり、エリート養成所だ。学校というのは、元々の前身を考えればそういう性質があるわけで、だからこそそこでは、普通に生きて行くための知恵ではなく、高度な学びが展開されるのだ。

また、かつては身分によって就ける職業が違っていたはずだ。だから家庭では、自分たちが属する世界のしきたりさえ教えておけば事足りた。しかし時代は変わり、今は(表向き)身分によっての差別はない。そうすると、かつて家庭で教えていたレベルの教育では足りなくなってくるだろう。自分たちが属する世界だけではなく、どこに行っても恥ずかしくない、通用する知識を教えなければならない。なかなか家庭でそこまでやれないという背景もあるだろう。

学校という場は「生活のための知識を得る場ではない」という性質があり、家庭という場では「教えなければならない生活のための知識が多すぎる」という問題がある。それ故に、僕らが社会に出るまでに本当であれば知っておかなければならない知識を身につける場が実際には存在しない、ということになってしまう。

実際僕たちは、「お金」について学ぶ機会というのが本当に少ない。学校の授業で習った記憶はないし、少なくとも僕は、お金について親から何か言われた記憶はない。家庭によっては、そういうお金の教育をするところもあるだろうが、それは個々の家庭の判断に任されている。

お金だけではない。社会に出る前にどんな準備をしておくべきか、働く上で大事なことは何か、家族を持つ時に何を考えるべきか…こういう、人生を構成するとても大きな事柄について、僕らは基本的なスタンスを学ぶことなく、社会に出ることになってしまう。

もちろん、それらは「生き方」に直結する話だし、であれば、他人の意見が邪魔になる、という可能性だって十分にあるだろう。とはいえ、考え方を押し付けるのではないやり方で、子どもの内からそういう事柄について考えさせるような教育はきっと出来るはずだと思う。

西原理恵子は、恐ろしく貧しかった子ども時代から這い上がり、やがて絵一本で食えるようになって行くが、しかしその後麻雀で5000万円以上のお金を失うという、お金に絞ってみてもなかなかハードな人生を送っている人だ。特殊な生き方から普遍性を持つ考え方が生まれるのかどうかはその時々だろうが、僕は本書を読んで、著者が提示する様々な考え方は、西原理恵子のような特殊な生き方をしていない人にもきっと当てはまるだろう、と感じた。

タイトルには「カネ」とあるが、決してお金だけの話ではない。本書で描かれているのは、「いかにして生きるのか」という、その覚悟や手段なのだ。

内容に入ろうと思います。

『「貧困」っていうのは、治らない病気なんだ、と。』

高知の港町で生まれ育ち、「初めて触ったお金には、魚のウロコや血がついていた」と語る西原理恵子。周囲の皆が貧しくて、貧しいが故に心が荒んだり、悪い道に走っていってしまう人をたくさん見てきた。

『貧しさの中でぼろぼろになっていく女の子たちを見ながら、わたしは、いつか、自分もああなるんじゃなかって、ずっとおびえていたから。そうして貧しさが土砂崩れのように何もかもをのみこんでいくこの町で、とうとう、お父さんが死んだ』

父親は、自殺だった。ギャンブルにハマり、作ってしまった借金を返せなくなっての自殺だった。死の直前まで、父親は母親に「お前が持っている土地を売れ」と言い続けたらしいが、母親は頑として首を縦に振らなかったという。

『貧しさは、人からいろいろなものを奪う。人並みの暮らしとか、子どもにちゃんと教育を受けさせる権利とか、お金が十分にないと諦めなければいけないことが次から次に、山ほど、出て来る。それで大人たちの心の中には、やり場のない怒りみたいなものがどんどん、どんどん溜まっていって、自分でもどうしようもなくなったその怒りの矛先は、どうしても弱いほうに、弱いほうにと向かってしまう』

そういう中で著者は、ちょっと変わった事情から大学を目指すことになった。ならば東京に。母親があちこちからかき集めた全財産140万円の内100万円を著者に渡し、「これで東京に行ってきなさい」と言った。西原理恵子は、腹を括るしかなかった。東京でちゃんと一人で生きていけるようにならなかったら、またこの生活に逆戻りだ…。
好きだったけど、決して上手かったわけではない絵を武器に、最下位の闘い方で突き進んでいった著者の奮闘記だ。

本書の土台となっているのは、やはり「カネ」ではある。貧しい子ども時代、金を稼ぐのに必死になった美大時代、仕事が軌道に乗ってきてからのギャンブルへのハマり方などなど、西原理恵子がお金とどう関わり、どう向き合ってきたのかという体験が、本書のベースとなっている。

しかし、本作全体として見た場合、やはり本書は「生き方」、しかも「働く」ということを背景にした「生き方」を描く内容だと感じる。

『「いいじゃない。お金にならなくても」ってやってるうちは、現実にうまく着地させられない。それこそ、ふわふわした、ただの夢物語で終わっちゃう。
そうじゃなくて「自分はそれでどうやって稼ぐのか?」を本気で考えだしたら、やりたいことが現実に、どんどん、近づいてきた』

著者は美大時代、恐ろしいほどの才能を持ちながら、仕事を選り好みしたり、あるいは仕事をしようとしなかったりする学生をたくさん見てきた。西原理恵子は、客観的に見て絵が下手だった。美大に入るための予備校では、デッサンの成績が最下位だった。しかし、自分が最下位だとわかっていれば、闘い方がある。

『最下位の人間に、勝ち目なんかないって思う?
そんなの最初っから「負け組」だって。
だとしたら、それはトップの人間に勝とうと思っているからだよ。目先の順位に目がくらんで、戦う相手をまちがえちゃあ、いけない。
そもそも、わたしの目標は「トップになること」じゃないし、そんなものハナからなれるわけがない。じゃあ、これだけは譲れない、いちばん大切な目標は何か。
「この東京で、絵を描いて食べていくこと」
だとしたら肝心なのは、トップと自分の順位をくらべて卑屈になることじゃない。最下位なわたしの絵でも、使ってくれるところを探さなくっちゃ。最下位の人間には、最下位の戦い方がある!』

西原理恵子がどうやって絵だけで食べていける漫画家になったのか、それは本書を読んで欲しいが、それを実現するための考え方が少なくとも本書に二つ書かれている。

『「才能」っていうのは、そんなふうに、自分だけじゃわからない、見えてないものだと思う。自分で「こうだ」と思い込んでることって、案外、的外れだったりするからね。
何でも仕事をはじめたら、「どうしてもこれじゃなきゃ」って粘るだけじゃなくて、人が見つけてくれた自分の「良さ」を信じて、その波に乗ってみたらいい』

これはまったく同じことを僕も考えている。「才能」というのは結局誰かに見つけてもらうもんで、自分で思い込んでいる「才能」なんてくそくらえだって。そういう意識を持てれば、自分に求められていることを提供する、という形で、社会の中で自分の立ち位置を作り出していけるかもしれない。

『この仕事で食べていくことができなかったら、またあの場所に逆戻りだと思うから、どんな仕事だって引き受けることができた。しんどいとき、落ち込んだときもそう。引き返せないんだもの。だから目の前のハードルを体当たりでいっこいっこ、乗り越えていくしかない。ここで踏ん張らなかったらまたあの貧しさにのみこまれてしまう。だから、足は止めちゃいけない。前へ、前へ。
わたしの生い立ちは、わたしに、決して振り返らない力をくれたと思う』

だから、良かったとは思わないけど、辛かった子ども時代のことも決して悪かったわけじゃない、と西原理恵子は書いている。

前へ進め、とだけ言われることは、辛いこともある。けど西原理恵子は、『競争社会から落ちこぼれたっていい。日本を出ちゃっても、ぜんぜん、かまわない。いまいるところがあまりにも苦しいのであれば、そこから逃げちゃえ!』とも書いている。この感覚は、まさに僕と同じだ。僕も、どうにもならなくなったら逃げようと思っている。そういう意識を持っているから、前進出来るのだと思う。

こういうことって、子どもの頃に知りたかったなと思う。大人の社会に放り込まれる前に知りたかったな、と。もちろん、こういうことをちゃんと知ってて言語化出来る大人がそもそも少ないんだから、こういうことを子どもが教われないのも当たり前っちゃあ当たり前。だからこそ、こういう本で子どもの内から学べるチャンスがあるっていうのは、とても羨ましいことだと思う。

これから大人になっていく子どもたちにはもちろん読んで欲しい。でもそれだけじゃなく、大人になりきれてないと実感している大人とか、ちゃんと大人であり続けたいと思っている大人とかにも読んで欲しい。

そして本書を読んだ大人は、ちゃんとこういうことを子どもに伝えて欲しいと思う。

西原理恵子「この世でいちばん大事な「カネ」の話」

日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る(青山透子)



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これまで、色んなノンフィクションを読んできた。
その中には、未解決事件のノンフィクションも多くある。歴史に名を残すような有名な事件のノンフィクションが多いが、様々な謎が残され未だ解決の糸口すら見えない事件というのは多く存在する。

しかし、それらは「事件」であると認識されている。

本書を読んで驚いたことは、「事故」だと認識されていることが、実は「事件」だったかもしれない、ということだ。

『この三十二年間、墜落に関する新聞記事等の膨大な資料を、現在から墜落時まで時系列にさかのぼって読み込んでいくと、そこに見えてきたものは、これは未解決事件であるということだ』

もちろん、今パッとは頭に浮かばないが、「事故」だと思われていたものが実は「事件」だった、という本も読んだことがあるだろう。しかし、しかしである。「日航機墜落事故」は、リアルタイムでその事件を知らなくたって、普通に生きていればまず耳に入ってくるだろう、昭和史における重大事故だ(だからこそ、本書の中で、早稲田大学の学生がこの事件を「知らなかった」とレポートに書いている事実を知って驚いた)。

そんな重大事故が、実は「事件」だったかもしれない…。本書は、そう強く訴えかけている。

本書にどんな具体的な事実が書かれているのか、それは後で触れよう。何よりも重大なことは、あれだけの「事故」がもし本当は「事件」だったとしたら、そんな隠蔽を実行に移すためにはとてつもない力が働いていたと想像するのに難くない、という点だ。政府レベルで隠蔽工作が行われているのでなければ、絶対に不可能だ。

僕は、そのことが一番怖い。

「殺人犯はそこにいる」という作品を読んでそのことを強く実感したが、僕たちが生きている社会は、様々な欺瞞の上に成り立っている。公権力が、その権力を利用して、不都合な事柄を隠そうとする、そういう動きが恐らく存在する。日航機墜落事故においてその力が働いたのか、それはもちろん定かではないが、本書を読む限り、その可能性は決して低くはないだろうと思わされる。

ごくごく一般的な人生を歩んでいられるのであれば、この点はさほど大きな問題にはならない。実際のところ。警察や裁判所や軍や永田町などと、どんな形であれ一生関わらずに生きられるのであれば、特に支障はない。しかしそれらと、期せずして対立する形になってしまった場合、社会が持つこの性質は、一気に僕らの人生に襲いかかり、すべてを破壊していくだろう。

問題は、それらと関わるかどうか、僕らの意志ではどうにもコントロール出来ない、ということだ。日航機墜落事故にしたって、乗客たちは自らの意志でこの事故(あるいは事件)に遭ったわけではない。僕らが普通に生きている中で、いつ何時そういう自体に巻き込まれるのか分からない。

だからこそ僕らは、僕らが生きている社会が孕んでいる欺瞞や、隠蔽を生み出す構造などをあらかじめ知っておかなければならないのだ。知っていたとしても、必ずしも対処出来るわけではない。しかし、知らないで遭遇するよりは、ずっとマシだ。

日航機墜落事故を知らなくても、そこまで関心が持てなくても、社会の底が抜けているのだということを確認するためにも、読んだほうがいい一冊だ。

内容に入ろうと思います。
本書は、元日本航空客室乗務員であった著者が、日航機墜落事故に関する資料を読み、様々な人に話を聞き、その中で抱いた疑問や仮説などについて書いている作品です。

本書は僕の中で、全体的には高評価の作品ですが、先に1点、もっとこうだったら良かったのに、という点を挙げておきます。

それは、著者がノンフィクション作家だったらもっと良かっただろうな、ということです。

著者が元日本航空の客室乗務員である、という点は、作品にある種の厚みを加えている点であることは間違いありません。本書の中では、日航機墜落事故で亡くなった客室乗務員と著者との関わりが描かれます。そういう描写が組み込まれることで、亡くなった方々をよりリアルに感じられる、という点は本書の強みだと思います。

しかし一方で、これは厳しい見方かもしれませんが、本職のノンフィクション作家ではないが故に、すべき取材が出来ていなかったり、文章の構成がそこまで上手くなかったりするな、ということも感じました。

本書を書く上で著者は、「これまでの資料を読み込む」かつ「HPを通じての情報提供(提供者から直接話を聞くこともある)」という二つをメインにしています。もちろん、著者自身も取材に出ることはあるのですが、やはりそこは本職のノンフィクション作家と同じようにというわけにはいかないでしょう。取材のノウハウみたいなものはやはりあるはずで、だからこそノンフィクション作家には、新聞記者や雑誌記者だった方がなることが多いんだと思います。恐らく本職のノンフィクション作家であれば、もっと多方面に取材しただろう、と本書を読んで僕は感じました。

また、全体の構成的にも、ちょっとノンフィクションとして弱いかな、という印象を受けました。具体的にどうすればいいのか、という提案は出来ませんが、もう少し構成をすっきりさせることが出来るような気がしました。

この辺りが、僕としてはちょっと不満ではありました。

とはいえ、内容的にはかなり驚かされるものでした。副題にもあるように、本書では「目撃証言」にかなり重点を置いています。著者は資料を読み込むことで、埋もれてしまった様々な「目撃証言」を拾い出していきます。そして、それらの目撃証言から想像しうる仮説を導き出しています。

日航機墜落事故に関してどんな目撃証言が存在したのか。すべてではありませんが、ざっと挙げてみます。

◯ 墜落現場周辺の人が墜落現場を特定し政府関係者や県に連絡していたが、テレビなどではいつまでたっても「墜落現場不明」と報道されていた
◯ 日航機は超低空飛行していた。そしてその腹の部分には、赤色の楕円形の何かが見えた
◯ 墜落現場一帯に、ジェット燃料とは違う種類の臭いが充満していた
◯ 窓から外を写した写真を解析したところ、オレンジ色の物体が飛行機に近づいていることが分かった
◯ 墜落前の日航機を、2機のファントムが追尾していた

これらの目撃証言を、著者は様々な形で入手する。小学校の文集の中から、HPを通じて会いに来てくれた人の証言から、様々な報告書などから…。もちろん人間には見間違いや記憶違いもあるだろうが、それぞれの目撃証言は一人や二人の話ではない。かなり大勢の人間によって目撃されているのだ。集団で幻覚を見たというのでもなければ、見間違いなどということはあり得ないだろう。

また、目撃証言ではないが、日航機墜落事故に関する様々な状況も著者は拾い集めていく。米軍や自衛隊が、出動準備が整っていたにも関わらず待機を命令された、日本航空の社長が首相官邸に行ったら殺されると怯えていた…などである。これらの証言も、何か大きな力の関与を想像させる。

もちろん、著者の仮説には、それを支える積極的な証拠はない。目撃証言や状況証拠から考えて、「これまで原因とされていたものでは説明がつかないこと」が多いことを示し、さらに「自分が集めた証言や状況をうまく説明するためにはこう考えるのが妥当なのではないか」という想像を書いているにすぎない。もちろん、これは著者を責めているというのではない。冒頭でも触れたが、もし日航機墜落事故に政府を含めた巨大な力が働いているとすれば、公にされている事実を覆すような何かを個人がえぐり出していくことはほとんど不可能だろう。しかもこの件には、米軍が絡んでいるのではないかという推測もある。であれば、真相の究明はなおさら困難だろうし、推測の域を出なくても仕方ないと思う。しかし、やはりノンフィクションとして見た場合には、弱さを感じる。

隠蔽を完全に証明できるような物証が出て来ることは、恐らくないだろう。であれば、もし著者の推測通りのことが起こっていた場合には、隠蔽に関わった人物からの告発がなければ真相の解明は不可能だろう。それが実現する可能性があるとすれば、僕らがずっと関心の持ち続けることが一番だろうと思う。そういう意味でも僕らは、この事故のことを忘れてはいけないのだ、と改めて感じさせてくれた一冊だった。

青山透子「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」

政治的に正しい警察小説(葉真中顕)



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内容に入る前に一つだけ。
本書は6編の短編が収録された短編集なのだけど、基本的には1作も警察小説はない。だから、タイトルに惑わされないようにして欲しい。

内容に入ろうと思います。

「秘密の海」
出会いはネットのブログだった。彼女は「トラヴィス」と名乗り、男の振りをしていた。世の中のあらゆる事柄を憎み、自殺をほのめかすその内容に思わずコメントした。そこからやり取りが始まり、会うようになった。そして縁がないと思っていた結婚をした。子どもが出来たからだ。
僕は両親に虐待されながら育った。それでも、両親のことが好きだった。けれど両親はある日突然いなくなった。僕は施設で育ち、それからも不遇の人生を歩んできた。そんな僕に子どもが出来た。不安はよぎる。自分はこの子を虐待せずにきちんと育てられるだろうか?
僕は時々思い出す。両親が連れて行ってくれたあの「秘密の海」のことを…。

「神を殺した男」
私は、「将棋年鑑」という書物に、紅藤清司郎の奇跡を振り返る記事を書くことになった。26歳の年齢制限までに奨励会を抜け出してプロになることが出来なかった私は、今はライターとして糊口を凌いでいる。
紅藤清司郎は、将棋界に燦然と輝くスーパースターだ。12歳でプロ棋士となり、17歳で七冠制覇という異形の強さを誇っていた。プロの中で強いと言われる者であっても勝率は6割台、ごく稀に7割に届く者がいる、という中で、紅藤清司郎の通算勝率は9割7分。他の追随を許さないとはまさにこのことだ。
しかしそんな紅藤清司郎は25歳でこの世を去った。なんと、同じくプロ棋士であり、紅藤清司郎に次ぐ実力を持つとまで言われていた黒縞治明によって殺されてしまったのだ。同じ部屋で自殺していた黒縞治明は遺書で、「紅藤がいる限りどのタイトルも獲れない。だから神を殺す」と書いていた。将棋界ではこの話はタブーであり、もちろん将棋年鑑の取材で紅藤の妻・毬子に取材をする際も、事件のことなど聞くつもりはなかった。
しかし、毬子さんから話しだしたのだ。本当に黒縞は、紅藤がいたらタイトルが獲れないなどという理由で殺したのだろうか、と…。

「推定冤罪」
浦川克巳は、無事釈放された。漫画家仲間であり、浦川の才能を高く評価しているナガサワタクトらの声掛けにより支援者の輪が生まれ、ここまでこぎつけたのだ。ナガサワタクトの方が一般に知られた漫画家だが、彼は浦川の方が漫画家としての表現力などは圧倒していると考えている。
浦川の自宅近くで、少女が無残な姿で殺されていたのがことの発端だ。不運というかなんというか、その事件は、浦川が少し前に発表していたマンガと近いものがあったのだ。事件に酷似した絵を、現場の近くにいる漫画家が描いていた―浦川は、ただそれだけの理由で疑われ、拘束された。
物証や目撃証言などは存在せず、弁護士もこの状況で起訴まで持ち込めるはずがない、と楽観視していた。しかし、想定外の事態が起こり…。

「リビング・ウィル」
松山千鶴は母から、祖父が意識不明の重体だと連絡を受け病院に向かう。行動的で、感性も若くて、千鶴は仲良くしていた。しかし、同じように祖父にかわいがってもらっていた従姉妹の早苗はまだ来ていない。早苗は昔とは大きく変わってしまった。
祖父はこのまま植物状態になるかもしれない―そう言われた時、千鶴は祖父がかつて言っていたことを思い出した。自分が植物状態になったら延命はしないで欲しいと言っていた。しかし…

「カレーの女神様」
一人の青年が、たまたまオープンしたばかりのカレーショップ<CURRY SHOP VISHNU>にやってきた。カレーと言えば思い出すのは母親が作ってくれたカレーだ。秘密の隠し味を入れたというとびきりのカレーを食べさせてくれた翌日、母親は姿を消した。それからは、親戚の家で育ててもらった。
カレーショップで恐ろしく美人な店員さんに出してもらったカレーは、驚くことに、母親が最後に作ってくれたのと同じ味がした。まさか…。

「政治的に正しい警察小説」
小説家の浜名湖安芸は、フリーの編集者である郭公鶴子と喫茶店で会った。何度投稿しても落ち、これで最後と決めて最大の力を込めた作品でデビュー。デビュー作が高く評価され、その後作品も順調に出版している浜名湖ではあるが、それまでの作風をなぞっているだけのような気がして、自分なりに行き詰まりを感じている。鶴子から連絡があったのはそんなタイミングのことだった。
鶴子は浜名湖に、警察小説を書いて欲しいという。どんな依頼かと思えば警察小説か、と思った浜名湖だったが、鶴子の依頼は少し違った。それは、「政治的に正しい警察小説」を書いて欲しいというものだったのだ。その時代その時代の「当たり前」が無自覚に差別的な表現となっている事例は多々ある。それらをすべて排除し、どんな方向から見ても先入観も差別的な視点もない「政治的に正しい警察小説」を書いてくれないか、というのだ。
なるほどこれは面白そうだ、と思った浜名湖は早速挑戦する。案外するすると書けてしまったが…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。かなりバラエティに富んだ作品で、一冊で色んなタイプの物語を楽しめます。とはいえ全体的には、ちょっとブラックだったり皮肉っぽかったりするような話が多いと思います。

個人的に好きなのは、「カレーの女神様」と「政治的に正しい警察小説」です。

「カレーの女神様」は、なるほどそう来るか!という感じでした。最後まで読んで、なるほどこれはよく出来てるなぁ、という感じがしました。具体的に書けることは少なくて、こういうボヤッとした感想になってしまうんだけど。味覚に自信のない僕としては、「大分昔に食べたカレーの味を覚えているのか?」みたいな些末な疑問を抱いてしまったんですけど、全体的には好きです。一気に物語のテイストが変わるところとか、素晴らしいなと思いました。

「政治的に正しい警察小説」は、なんというか実にシュールな物語だなと思いました。なんとなく筒井康隆を彷彿とさせる感じです(とはいえ、筒井康隆の作品はそこまで読んだことありませんが 笑)。著者なりの「政治的に正しい(PC)」小説を書くのだけど、ことごとく鶴子氏にダメ出しをされる。そのダメ出しの仕方が、主人公の浜名湖と同じく、なるほど確かに即答では反論出来ないようなものが多いなぁ、という感じがしました。鶴子の指摘は明らかに過剰だし、そんなことを言っていたら小説なんかまるで書けなくなっちゃうんだけど、それならどの程度まではいいんだ?みたいなところを考え始めるとドツボにはまりそうだな、と。

「政治的に正しい(PC)」という概念をこの小説で初めて知ったんだけど、これはなかなか面白いなと思いました。本書では「十五少年漂流記」の例が引き合いに出されているのだけど、なるほど分かりやすい。確かに、100年後200年後の視点から現代を見るのはほぼ不可能に近いんだろうけど、可能な限りそういう視点を排除していくというのは、小説という創作でやるべきかどうかはともかく、生きて行く上で持っていた方がいいだろうなと思いました。

その他の話についてもざっと
「秘密の海」は、巧いなと思いました。「神を殺した男」は、理屈では理解できるけど、推測のみでこれを結論とする終わらせ方はちょっと厳しい気がしました。「推定冤罪」は、現実が歪んでいく感じが面白いですけど、個人的にはあと一歩という感じがしました。「リビング・ウィル」は、なんとなく予想通りだったかなという感じです。

葉真中顕の作品を全部読んでいるわけではないんだけど、基本的には「社会はミステリー」と呼ばれる作品を書いています。そういう意味では、本書のような小説は結構珍しいだろうと思います。葉真中顕の新しい一面が見れる作品ではないかなと思います。

葉真中顕「政治的に正しい警察小説」

レッツ!!古事記(五月女ケイ子)



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内容に入ろうと思います。
本書は、あの「古事記」をちょーユルユルに解釈して、コミックエッセイのような感じで描き出す作品です。

僕は「古事記」については、どんな感じの作品なのかまるで知識がなかったので、そういう僕みたいな人間にはなかなか面白い作品でした。
ヤマタノオロチの話とか、天の石屋戸の話とか、因幡の白兎の話とか、個別には知ってたけど、なるほどそれって「古事記」に載ってる話だったんだ!というぐらいの知識量でした。そんな僕にとは、ほぉなるほどぉ、と思うような話が多くて、結構楽しく読めました。

作品自体は基本的に絵なんですけど、各ページの下の方に、「五月女ケイ子氏」と「オロチ博士」という二人が登場し、作品に対してツッコミを入れていきます。たぶん、絵だけだったら理解できない部分も多かったでしょう。このツッコミが、なかなかいい感じだったと思います。

「天照大御神を天の岩屋戸から出すためにドッキリ作戦を行った」
「因幡の白兎はオオナムジにオーディションを行った」
「歌は呪力を持つ表現とされていたから、ここぞという時に歌う→つまりミュージカルみたいなもの」

みたいな感じで、相当くだけた感じで解説をしてくれます。

「古事記」の話は、ただ普通に読んでいると、「何その超展開」みたいなことがよくあります。でも、その当時の価値観や習俗を説明してもらった上だと理解できる部分も出てきます。まあ超展開であることには変わりないんですけど、置いてけぼり感みたいなのはなくなる、という感じがします。

本書は、「入門書を読むための入門書」という感じがしました。「古事記」についてちょっとでも多少なりとも知識や関心がある人は入門書などから読んで大丈夫だと思います。本書は、そのもっと手前、「コジキって何?美味しいの?」みたいなレベルの人には、かなり面白く読めるんじゃないかな、と思います。たぶん、著者の独自の解釈みたいなのも含まれてる気がするので、どこまで本書の記述を受け取っていいのか微妙なところはありますが、面白く読めると思います。

しかし、「古事記」って、読みにくいから理解しにくいんだと思ってる部分もあったけど、読みやすくなっても理解しにくいんだなぁ、と(笑)。超展開すぎる!

五月女ケイ子「レッツ!!古事記」

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プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
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著者名で記事を分けています

あ行
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ま行
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乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
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国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



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本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)