黒夜行

>>本の中身は(2017年)

宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか(ルイーザ・ギルター)



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超絶面白かった!

まずは、僕なりの言葉で「量子論」について説明をしてみよう。恐らく、間違った解釈・言葉の使い方をしている部分も多々あるだろうけど、あくまでも以下で書くのは「僕が理解している量子論を、僕が使える言葉の上限で可能な限り表現しようとしていること」だと思って欲しい。たぶん不正確な部分が多々あるので、正確な記述を期待しないでください。


量子論のスタートは、ある困った現象から始まった。それは、「古典的な波動理論では説明出来ない結果」だった。古典的な波動理論では、原子などを「粒子」として扱っている。しかし、原子などを「粒子」だと考えた場合にはあり得ない結果が出てしまったのだ。

この現象を説明するために「量子論」は生み出された。そしてその過程で、原子などの物質には「粒子」としての性質だけではなく、「波」としての性質もある、ということが判明した。有名なのは、アインシュタインが「光は光子という粒子でもある」と証明したことだ。アインシュタインはこの成果でノーベル賞を受賞している(有名な「相対性理論」で受賞したわけではない)。

ちなみに、この文章を書いている現時点においても、原子などが「粒子でもあり波でもある」という状態を具体的にイメージ出来る人は世界中に誰もいないので、何を言っているのか理解できなくても全然問題ない。

こんな風に生み出された量子論は、全体的にとてもうまくいった。発見のきっかけになった現象もうまく説明できたし、他にも様々な発見があり、量子論の創始者の一人であるボーアを始め、多くの物理学者が量子論は世界を記述する理論だと実感するようになって行った。

しかし、量子論には大きな大きな問題があった。それを明確に指摘したのが、あのアインシュタインである。しかし、その説明に入る前に、もう少し量子論を深掘りしよう。

量子論は「波動関数」と呼ばれる方程式で記述される。問題は、この波動関数を解いた結果が、現実の何と対応しているのか、イマイチ分からない、ということだ。波動関数を解いて出て来る解は、「粒子がそこにある確率」を示している、と解釈するしかなかったのだが、これは一体何を意味しているのか?

僕たちは、「物がそこにある」ということを理解できる。例えば、机の上に鉛筆が置いてあれば、「机の上に鉛筆がある」と認識できるし、当然、自分が机に背を向けて直接鉛筆を見ていなくても、「机の上に鉛筆がある」と主張できる。しかし、量子論によるとそうではない。量子論においては、「波動関数を解くこと」は「原子を観測すること」と同じようなものである。波動関数は、「原子がその場所で観測される確率」を示しており、つまりそれは、「観測する以前の原子の振る舞いについては何も分からない」と言っているのと同じことだ。

もう少し分かりやすく書こう。先程の鉛筆の例で言えば、量子論が言っていることは、「机を観測した時には、鉛筆がある場所に鉛筆が観測されるが、机を観測していない時には鉛筆が机の上のどこにあるのか(あるいはないのか)は確率的にしか分からない」ということだ。観測した時にあった場所をA点と呼ぶとすれば、机に背を向けた時にも鉛筆がA点にあるかは判然とせず、A点にある確率がどれぐらい、A点以外の場所にある確率がどのぐらい、という情報しか分からない、と言っているのだ。

アインシュタインは、「そんなバカな!」と言った。有名な、「神はサイコロを振らない」という言葉がそれだ。アインシュタインは、波動関数が観測していない状態について記述出来ないことは理解していたが、それは量子論が「不完全だからだ」と考えていた。普通に考えれば、物質は「観測」していようがしていなかろうが「実在」しているはずであり、それについて記述出来ない量子論には何かが足りないのだ、と考えていた(結局のところ、量子論を巡る混乱というのは、「観測」や「実在」をどう定義するか、という問題に行き着くことになる)。

しかし、ボーアはアインシュタインのその指摘をイマイチ理解できないでいた。ボーアというのは、かなり入り組んだ思想を交えながら話をする人だったようで、難解な用語を新しく生み出しながら、量子論の独自の解釈を貫いた。

量子論に対する当時の物理学者たちのスタンスはいくつかあったが、代表的なのが二つだ。一つはアインシュタインの「量子論は不完全であり、物質の実在について振る舞いを記述する何かが欠けているのだ」とする立場。もう一つが、ボーアを中心とする「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるもので、「量子論というのは、観測する前の振る舞いについては何も語れないのであって、決して不完全なわけではない」という立場だ。

さて、アインシュタインは、自身が抱いていた量子論に対する違和感を明確にするために、ある思考実験を考えだした。これは後にEPR論文と呼ばれ、アインシュタインが指摘した量子の奇妙な振る舞いのことを、後にシュレディンガーが「もつれ」と呼んだ。そして、この「もつれ」を理解することこそ、量子物理学最大の難問だったのだ。

『もつれについて語ることは、量子物理学そのものについて語ることである。物理学者が初めてもつれの問題に直面したのは20世紀であった。それまで何世紀もの間、物理学は世界を完璧に理解しようとがむしゃらに進んできた。20世紀の初頭、量子論の気味悪さを疑うところからもつれの物語が始まった。その20世紀の夜明けは、我々にニュースをもたらした。物質と光の両方を探索すればするほど、謎が立ち現れたくるのだ、と。』

本書は、この「もつれ」という難問がどんな経緯を経て解き明かされていくのかを描いていく。この「もつれ」に触れる前に、量子論がいかに難しいかということを示す、量子論の創始者の一人であるボーアのこんな言葉を引用しておこう。

『もし量子論について考えているときに目がくらむことがないのなら、本当に理解できてはいないのだ』

さて、それでは「もつれ」について、僕なりに理解できていることについて触れようと思う。少し長いが、アインシュタインらが「EPRパラドックス」として提示した思考実験を、(正確さは欠くが)僕なりに分かりやすく(したつもり)の説明でチャレンジしてみよう。

二つのボールがある、と想像して欲しい。この二つのボールには、ある関係がある。それは、「どちらかが青色なら、もう片方は赤色だ」という関係である。

さて、僕らの一般的な感覚で言えば、ボールの色はあらかじめ決まっている。仮に青色のボールをA、赤色のボールをBと名付けよう。このボールは、僕らが観測していようがいまいが青色・赤色である。こう考えるのが、アインシュタインの立場である。

一方、ボーアのコペンハーゲン解釈では違う。二つのボールは、観測されるまで赤色なのか青色なのか決まっていない。僕らが観測して初めて色が決まる、というのだ。ここで重要なことは、この二つのボールには、「どちらかが青色なら、もう片方は赤色だ」という関係があるのだから、どちらか一方のボールの色を観測すれば、もう一方のボールの色も自動的に決まる、ということである。

さて、このボールを使ってこんな「実験」を考えてみる。二つのボールが空を猛スピードで飛んでいるとする。あまりにも早いので肉眼ではその色が分からない。特殊なカメラで撮影すると色が分かる、としよう。またこの二つのボールは、正反対の方向に飛んでいるので、二つのボールを同時にカメラに収めることは出来ない、ということにしよう。

さてこの状態で、片方のボールをカメラで撮影する。仮に青色だとしよう。そうすると、カメラで撮影していない方のボールの色は自動的に赤色、ということになる。

さて、これでEPRパラドックスについて説明する準備が整った。いや、もう一つ付け加えておかなければならないことがある。それは、アインシュタインが提唱した相対性理論についてだ。相対性理論は様々なことを主張する理論だが、その中でもかなり大事な主張が、「どんなものも、光より早く移動することは出来ない」というものだ。これは、量子論が議論されていた当時も、絶対的な原理原則として捉えられていた。

さて、これで今度こそ準備は万端。EPRパラドックスに進もう。

先程の「実験」は、アインシュタイン的な捉え方をすれば何の問題もない。二つのボールはあらかじめ色が決まっている。だから、観測したボールが青色であれば、もう片方はなんの問題もなく赤色である。

しかし、コペンハーゲン解釈を採用すると、困った問題が起こる。コペンハーゲン解釈では、「観測するまではボールの色は決まっていない」としている。「観測できないが、色は決まっている」のではなく、「観測するまで、赤色でも青色でもない」と主張するのだ。さて、その状態で、カメラで撮影をする。撮影した方のボールが青色だった、ということは、「観測することで青色になった」ということを意味する。そして、撮影した方のボールが青色だと分かったのと同時に、撮影しなかった方のボールが赤色であると決定するのだ。

さて、ここでアインシュタインはこんな疑問を突きつけた。撮影しなかった方のボールは、どうやって相方のボールが青色だと「知った」のか、と。

意味が分かるだろうか?ここで大事なのが、相対性理論の原理原則である「どんなものも、光より早く移動することは出来ない」である。

例えば、この二つのボールが100兆光年離れている、としよう。光の速度で進んでも100兆年も掛かる距離だ。しかし、それだけ離れていても、片方のボールの色が青色だと決まれば、その瞬間に、もう片方のボールの色が赤色だと決まるのだ。光より早く進むものは存在しないのに、この二つのボールは、光の速度を遥かに越えて「通信」しているように見える。ボールは撮影するまで色が決まっていないのだから、片方のボールが青色と決まった、という情報がもう片方のボールに届かない限り(通信しない限り)、もう片方のボールは赤色になれないはずなのだ。そしてそれは、相対性理論の原理原則により不可能だ。しかし、量子論は、その不可能なことをやってのけているように思える。これは矛盾ではないだろうか?

そう言ってアインシュタインは、量子論の不完全さを指摘したのである。

EPRパラドックスで指摘された二つの量子(僕の例では二つのボール)が置かれている状況は、やがて「もつれ」と呼ばれるようになる。そしてまさにこの点こそが、量子論の不可思議さの真骨頂であり、また量子論が実用に活かされるポイントでもあったのだ。

さてここからは、本書で描かれている「もつれ」の物語のざっとした概略に触れていこう。

まず、量子論が生まれた。波動関数が生み出され、「観測するまで原子の振る舞いは記述できない」という奇妙な結果が得られた。アインシュタインはそのことを不服としてEPRパラドックスを突きつけた。これによって、後に「もつれ」と呼ばれることになる現象が捉えられたことになるが、しかしこの「もつれ」がすぐに物理学者たちを熱狂させたわけではない。

「もつれ」が物理学の表舞台に出てくるまでに、数多くの人間が関わったが、その中でも重要だったのがボームとベルの二人である。

ボームは、マンハッタン計画の中心人物だったオッペンハイマーの教え子であり、色々あって監視される立場に置かれてしまった。そんなボームは、EPR論文を読み、そこから刺激を受けてとある論文を書いた。これは、「隠れた変数理論」と呼ばれるものに関わる理論である。「隠れた変数理論」とは、アインシュタイン的な立場、つまり観測するかどうかに関係なく物質は実在する、という立場の一つであり、試みとしては、量子論に観測する以前の実在性を組み込むもの、と言っていいだろう。

ボームの書いた論文は、かつてド・ブロイが書いたものに近いものがあった。大雑把に言えば、「物質に粒子と波の両方の性質があるのではなく、「未だ観測されていない未知の波(ガイド波やパイロット波などと呼ばれた)」に粒子が乗っているのだ」というような解釈をするものだった。ボームはなんとかして、量子論を完璧なものにしたくて「隠れた変数理論」についての論文を書いた。

ちなみに、この「隠れた変数理論」については、フォン・ノイマンが「あり得ないと証明した」ことがあった。当時誰もが、「フォン・ノイマンが間違えるはずがない」と考え、その証明を受け入れていたが、アインシュタインら幾人かの人間が、フォン・ノイマンが置いている前提に誤りがあることを見抜いていた。しかし、何度かそういう発見がありながら、フォン・ノイマンの誤りは表沙汰になることがなかった。

さて、実際のところ「隠れた変数理論」は現在では否定されているが、その当時も「異端な考え」だと思われていたようだ。ボーアのコペンハーゲン解釈に異を唱えることは間違っている、というような風潮があったようだ。だからボームの論文も取り沙汰されることはなかった。

しかし、ボームの論文を読んだ無名の物理学者であったベルは感銘を受けた。彼もまた、「隠れた変数理論」を信じていた一人であり、『ボームは、ベルが夢見ていた理論に到達していた―それは、実験者の行為に関係なく実在する実体に関する理論でありながら、量子力学と同一の結果をもたらすものであった』と捉えたのだ。

そうやってベルは、「趣味として」量子論に関わるようになったが(深入りするとマズイ、と考えていたようだ)、やがてベルは「ベルの不等式」と呼ばれる画期的なアイデアにたどり着く。「ベルの不等式」を簡単に説明するのは難しいけど(そもそも僕がちゃんと理解していない)、大雑把に言えば、「二つの粒子の関係性がある制限以内なら古典的な振る舞いをするが、その制限を超えると量子論が予言する奇妙な振る舞いが現れる」というものだった。別の言い方をすれば、もし二つの粒子の関係性がある制限以内であれば「隠れた変数理論」で説明をつけることが出来るが、制限を超えるなら「隠れた変数理論」は諦めて量子論が予言する奇妙な振る舞いを受け入れなければならない、ということだ。

「ベルの不等式」は、『21世紀初めまでにベルの論文が物理学に激変をもたらしたのは間違いない』とまで言われ、またベルの論文によって正当な評価を与えられたEPR論文は、『同論文は世界を揺るがしたアインシュタインの輝かしいすべての業績のなあでもずば抜けて引用回数の多い論文となり、また20世紀後半の物理学の主要誌「フィジカル・レビュー」で最も多く引用された論文となったのである』。

さて、ここでようやく実験物理学者の出番となった。物理学者は大きく「理論物理学者」と「実験物理学者」に分かれる。理論を考える者と、実験をする者だ。それまで「もつれ」の議論というのは思考実験によって展開されていた。実際に実験を行えるような状況が生まれえなかったのだ。しかし「ベルの不等式」がその状況を変えた。ベルの示した不等式を見た実験物理学者たちは、「これは実験によって証明できる」と考え、それぞれが独自の実験を計画し検証に乗り出した。そしてついに、「ベルの不等式」が破られる(制限を超える)ことが実験によって示され、アインシュタイン的な立場ではなく(つまり「隠れた変数理論」ではなく)、コペンハーゲン解釈が正しかったことが証明されたのだ。

さて、「もつれ」の物語はまだ終わらない。アインシュタインの指摘によって見出され、ベルが証明の可能性を見出し、実験物理学者たちが証明してみせた「もつれ」は、それまではずっと学問上の対象でしかなかった。量子論が「十分な理論」であるのか、あるいは「不十分な理論」であるのかを議論するための要素の一つでしかなかった。しかし「もつれ」は今、実用化への模索が進められている。

それが「量子コンピュータ」である。量子コンピュータの基本的な原理は、まさに「もつれ」を利用したものである。実用に足る量子コンピュータはまだ作成されていないが、原理を実証するような実験室レベルのものは既に生み出されており、量子コンピュータにおけるアルゴリズムも既に作られている。

もし量子コンピュータが実現すれば、僕らの生活に直結することになる。僕らが生きている世界で使われている様々なセキュリティ(何かにログインする時のパスワードみたいなものを想像して欲しい)は、RSA暗号と呼ばれるものである。これは、「因数分解には、コンピュータの力を借りても膨大な時間が掛かる」という特性を利用した暗号であり、普通のコンピュータではまず破られることがない。しかし、もし量子コンピュータが登場すれば、このRSA暗号は一瞬で解読出来てしまう。それぐらい、量子コンピュータは信じがたい計算能力を持っているのだ。

インターネットがこれほどまでに広がった現代、RSA暗号の恩恵を受けていない人の方が少ないと言っていいだろう(銀行口座の暗証番号もたぶんRSA暗号で出来ている)。そのRSAを一瞬で破る量子コンピュータの登場は、社会を激変させるだろう。しかも、今この瞬間にも、量子コンピュータが開発され、誰かがRSA暗号を破っているかもしれない。量子コンピュータは、「暗号を破った」という痕跡を残さずに暗号を解読できるので、仮に解読されていたとしても気づけないのである。

創始者ボーアがその存在を意識できず、気づいたアインシュタインでさえも捉え間違えた「もつれ」が今、物理の理論という枠組みを超えて僕らの実生活を脅かそうとしている。本書はそういう、壮大な物語なのである。

ルイーザ・ギルター「宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか」

コンビニ人間(村田沙耶香)



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うわぁ、すげぇ分かる、と思った。
古倉さんと僕とでは、まったく振る舞いは違うんだけど、根っこは同じだ。
そして、なるほど、この物語は「あなたにとっての『コンビニ』とは何か?」と問い続ける物語なのだ。

『ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった』

古倉さんは、そうやって18年間もコンビニでアルバイトしている。自分が「こうだ」と思った通りの行動をすると、どうしてもズレてしまう。周囲を困惑させる。でも、何が悪いのか分からない。だから古倉さんは、小学生の頃から『皆の真似をするか、誰かの指示に従うか、どちらかにして、自ら動くのは一切やめた』という。

この感覚は、僕にはすごくよく分かる。昔の僕が、こうだった。

子どもの頃の僕は、周囲の人間が「何故そうしているのか?」がよく理解できないことが多かった。何故笑っているのか?何故泣いているのか?何故怒っているのか?…。でも、みんな疑問を感じていないようだった。みんなが笑っている時にみんな笑い、泣いている時に泣き、怒っている時には怒っていた。

昔の僕は、みんなから外れるのが怖かった。だから、周囲を観察して、みんながどういう時にどういう感情を持つのか学んだ。僕には、本当にこういう感覚がある。こういう時に笑えばいいのだなと感じた時に笑うようにしていた(泣くとか怒るとかは、そういう意識でやった記憶があまりないけど)。別に面白いわけではないんだけど、笑うべきタイミングで笑わないのは、どうにも都合が悪い気がした。だから、予想して笑っていた。

けど、あくまでも予想でしかないし、しかもその予想も瞬間の判断でしなければならないから、時々外した。みんなが笑っていない時に僕一人だけ笑っている時があって、そういう時はとても困った。困ったけど、でもそういう気まずさを時々味わうにしても、予想して笑う方が色々と便利だった。

穂村弘「蚊がいる」というエッセイの一文を今でも思い出す。

『文化祭でもキャンプでも大掃除でも会社の仕事でも、いつも同じことが起きる。全ての「場」の根本にある何かが私には掴めないのだ。現実世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなルールがみえない。何のための穴なのかよくわからないままに、どこまでも掘ってしまう。だが、わかっていないということは熱心さではカバーできないのだ』

穂村弘が言っていることは、すごく分かる。みんな、その「場」のルールを、誰に教わるわけでもなく理解しているように見える。でも、僕にはそれはイマイチよく分からない。だから「場」のルールを外して、トンチンカンな行動を取ってしまったりするのだ。

『私の身体の中に、怒りという感情はほとんどない』

僕は、さすがにここまで極端ではないけど、似たような感覚はある。まあ、僕は、時期ごとに結構違った人間だったので、「怒っているばかりいる時期」というのもあった。だからずっとそうなわけではないのだけど、少なくとも今は、「怒りという感情」が湧くことはあまりない。怒ることが無駄だなと思うから怒らない、という説明をすることがあるのだけど、一般的には「怒り」という感情は自然と湧き上がってくるものだから、僕の言っていることは大抵理解されない。

また、「悲しい」という感情も、人より鈍いと思う。特にそれを実感するのは、人が死んだ時だ。僕は、人が死んで悲しいと思ったことが人生で一度もない。比較的近い関係の人も亡くなっているのに、である。そういう時に、自分のズレみたいなものを強く感じる。

だから、本書の主人公である古倉さんには、もの凄く共感できてしまう。古倉さんは、あり得たもう一人の自分かもしれないなぁ、と感じながら読んでいた。

しかし、古倉さんと僕とでは、振る舞いはまったく違う。

僕は、子どもの頃はみんなに合わせようと自分なりに努力していたのだけど、次第に無理だと感じられるようになってきた。やはり、しんどい。常に、赤外線センサーの張り巡らされた空間を行き来しているみたいな感じだった。赤外線センサー(みんなのルール)に触れるようなことをすると面倒なことになるのだけど、僕にはどうしてもそれが見えない。だから、周りの人の動きを真似しながら、どうにか見えてるフリをして生きていたのだけど、やはりそれはもの凄く神経を使うのだ。

だから僕は、そういう生き方を諦めた。で、変な人だと思われるように努力するようになった。自分自身を、「無害だし悪い人間ではないけど、でも変」という風に見せることで、「こいつなら何をしてても仕方ない」と思われるように振る舞うようにしたのだ。そうやって少しずつ自分の変さを周囲に感じてもらいながら、その状態で受け入れられるように振る舞ってみた。僕には、そういう生き方の方が合っていたようだ。今では、とても楽に生きられている。

古倉さんは、違った。古倉さんの取った戦略は、僕とは真逆だ。古倉さんがしたことは、「やることが完璧に決まっている環境に身を置く」ということだ。マニュアルがあり、どういう人間であるべきかが明確で、その指針に沿った思考以外をする必要がない環境。そういう環境ならば、一度ルールを覚えてしまえば、頻繁に更新する必要がなくなる。そのルールを身体に染み込ませてしまえば、後はちょっと微調整をし続けるだけで受け入れてもらえる。古倉さんは、そういう環境を見つけた。

コンビニだ。

『「いらっしゃいませ!」
私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、たしかに誕生したのだった。』

『泉さんと菅原さんの表情を見て、ああ、私は今、上手に「人間」ができているんだ、と安堵する。この安堵を、コンビニエンスストアという場所で、何度繰り返しただろうか。』

コンビニは古倉さんを「人間」にしてくれる場所だ。いや、違うか。古倉さんは、それ以上の捉え方をしている。

『私は人間である以上にコンビニ店員なんです』

『早くコンビニに行きたいな、と思った。コンビニでは、働くメンバーの一員であることが何よりも大切にされていて、こんなに複雑ではない。性別も年利も国籍も関係なく、同じ制服を身に付ければ全員が「店員」という均等な存在だ』

古倉さんは、「店員」になることで生き延びることが出来た。あぁ、良かった、と僕は思った。古倉さんにコンビニがあって良かった。

じゃあ、あなたにとっての「コンビニ」とは何か?

本書を読むということは、否が応でもこの問いと向き合わなければならないということでもある。

古倉さんは、何も考えずに、就活も結婚もせず、ただのんべんだらりとコンビニのアルバイトを続けている人、というような見られ方をされてしまうが(その状況は色々と問題を生じさせるので、それなりの言い訳を用意してはいるが)、本当は古倉さんはかなり意識して、自分を生き延びさせるために「コンビニ」という選択をしている。コンビニという環境が、自分にとって最適である、という判断を下しているからこそ、古倉さんはコンビニに居続けているのだ。

恐らく、そんな風に考えて自分のいる場所を選択している人はそう多くはないだろう。今いる場所が、自分にとって最適だ、という検討の末に選択している人はそう多くはないはずだ。であれば、僕らのほとんどが、古倉さんよりもレベルの低い選択をしているということになるだろう。

もちろん、自分で何かを選び取った、という人もいることだろう。そういう人は、じゃあ「何」を選び取ったのかと問わねばならない。

古倉さんは、「コンビニ」を選んだことで、「自分の意志を介入させない環境」を選び取った。あなたが選んだものの本質は、一体なんだろうか?その本質を掴めていなければ、「選んだ」とは言えないだろう。

『朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった』

本書に登場する、古倉さん以外の「正常」な人間が、僕には「異常」に見えて仕方がない。自分に何が必要で、何が不要で、それが得られる環境を自らの意志できちんと選び取った古倉さんの方が、僕にはよほど「正常」な人間に思えてしまう。

内容に入ろうと思います。
子どもの頃から、周囲から「突飛」だと思われる言動をしていた私(古倉恵子)は、大学一年生の時にたまたま見つけたオープニングスタッフ募集の案内を見てコンビニのアルバイトを始めた。これまでの人生では、いつどういう環境でどう振る舞うべきか、誰も指示してくれなかったから、どう行動すべきか全然分からないままだった。しかし、その点コンビニは安心だ。完璧なマニュアルがあり、いつどういう環境でどう振る舞うべきか、すべて決められている。決められていることをきちんとこなすことは得意だ。そうやって私は、コンビニの店員として「生まれた」。
それから18年。就職も結婚もしないまま、私はコンビニの店員を続けた。店長は8代目、当然働き始めた当初のスタッフは誰も残っていない。私は、コンビニにいない時でも今売り場がどういう状態になっているのかを想像し、「いらっしゃいませ!」という自分の寝言で起きることもあった。『全てを、コンビニにとって合理的かどうかで判断していた』私は、コンビニの店員であり続けられることが嬉しかった。
しかし、平穏だったそんな環境が、あることをきっかけに少しずつ軋み始めてしまう。きっかけは、白羽という名のやる気のないアルバイトスタッフが入ってきたことだった…。
というような話です。

いやー、これは面白かったなぁ。芥川賞を受賞してベストセラーになったことで、「まあ読まなくてもいいか」と思っていた本だったんだけど、読んで良かった。これは面白い。

古倉さんについては冒頭でかなり書いたので、ここからは古倉さんの周りにいる「正常」な人間の話をしようと思う。

「正常」な人たちは、古倉さんを「異常」な枠にはめ込みたがる。就職も結婚もしない、ずっとコンビニでアルバイト、恋愛もしたことがない、というのは、「正常」な人には理解不能で、何かおかしいんじゃないか、と思いたくて仕方がないのだ。

しかし、僕には「正常」な彼らの方が「異常」だと思えてしまう。

例えばこんなことを考えてみる。本書で描かれている「正常」な人たちが、戦時中に生きていたらどうだろうか?想像するのは簡単だ。彼らは恐らく、「お国のために節約し、特攻に向かう息子を勇敢だと褒め、大本営発表の日本が優勢という報告を信じながら、竹槍の訓練をする」ような生き方を「正常」だと考えて生きただろう。誤解のないように言っておきたいが、僕はカッコで書いたような生き方を否定したいわけではない。当時の社会通念では、そういう生き方が「正常」だとされていたし、正しかった。

僕がここで言いたいことは、本書で「正常」な人間として描かれる人たちは、結局、その時代その時代の「当たり前」に従っているだけだ、ということだ。同じ人間なのに、自分がどんな環境にいるかによって生き方が変わってしまう。僕にはそのことの方が「異常」に感じられる。

古倉さんはどうだろうか?古倉さんは恐らく、戦時中でも、本書で描かれているのと同じ違和感を抱くことだろう。そして、自分にとってどういう環境が最適であるのかを考え、選び取るだろう。古倉さんの方が、「自分」をベースに生きていると僕には感じられる。「環境」によって生き方が変わるのは、「自分」というものがないのと同じに思えてしまう。

意図してのことだろうが、本書の中では古倉さん以外の「正常」な人間は、皆大差ないのっぺりとした人間として描かれる。古倉さんと白羽以外の人物は、誰と誰が入れ替わっていても分からないような、そういう交換可能な人格として描かれている。古倉さんの妹や、白羽の義姉など、多少印象に残る人物もいるが、しかし発言や行動はやはり交換可能に思える。

彼らが「正常」なのだとしたら、「正常」の基準がおかしいと思う。

もちろん、古倉さんは自分が何故コンビニを選びとったのか、その理由を周囲に説明していないから、古倉さんの行動原理を周囲が理解できていないということは仕方がないことではある。しかし、じゃあ仮に古倉さんが自分の考えを周囲に開陳したとして、「正常」な人たちはその理屈を受け入れるだろうか?まあ無理だろう。余計、古倉さんを「異常」な枠に入れたくなるだけだ。そのことが分かっているからこそ、古倉さんも自分の考えを表に出さない。

古倉さんの造形は、かなり極端ではある。ある種のデフォルメと考えていいだろう。恐らくではあるが、ここまで極端に振り切れている人間は、そこまでは多くはない。

しかし、本書で古倉さんを極端にデフォルメして描くことで、本書は「当たり前って何?」という本質的な問いを投げかける作品になった。

また、舞台が「コンビニ」という、画一的で均質な世界というのも対比が利いていて面白い。コンビニはそういうのっぺりとした環境だと捉えられているが、そんな環境で働き続ける古倉さんこそが、自らの生き方をきちんと捉え、最適な環境としてコンビニを選び取っている。そして、コンビニという画一的な世界の外側にいる、就職や結婚をして「正常」に生きている人たちこそが、自分の人生を選びそこねているように僕には見えてしまう。「コンビニ」を舞台にすることで、本書で抉り出そうとしている事柄が、さらにくっきりとする印象があって、そういう面からも本書は実に面白い作品だと感じた。

白羽についてはほぼ触れていないが、そこは是非読んでみて欲しい。白羽がいかにして古倉さんの日常を激変させていったのかは、なかなか読み応えがある。古倉さんにとっての「日常」は社会にとっての「非日常」であり、白羽はそんな古倉さんに「社会にとっての日常」を与えるかもしれなかったのだが、しかしそれはやはり仮初めでしかなかった、という感じだ。いやはや、面白い。

古倉さんにどの程度共感できるかで、本書の読み味はまったく変わってくるだろう。古倉さんに共感できなければ出来ないほど、本書は恐ろしくつまらなく感じられることだろう。そして、ある意味でそれは、とても幸せなことだ。本書をつまらなく感じられれば感じられるほど、その人は今の社会における「正常」に近い、と判断できる。そういうバロメーターとしても、本書は実に良く機能するのではないかと思う。

あぁ、面白い本だった。そう感じる僕は、「正常」とは程遠いのである。

村田沙耶香「コンビニ人間」

女たちの避難所(垣谷美雨)



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何でも分かってると思っているつもりもないし、僕が男である以上、見えていない部分も多々あるのだということは十分分かった上で言うのだけど、女性というのは本当に生きていくのが大変だろうな、と感じる。やはりどうしても、社会が「男目線」で作られているからだ。

僕はどちらかと言えば男の方が苦手なので、男のダメな部分というのは多少は分かるつもりだ。いちいちここで言語化することはしないが、男の狭量な考え方が、女性を生きづらくしているのは間違いない。

そして問題なのは、男がそのことにまったく気づいていない、どころか、自分は女性のためになるような行動をしている、と思っている節さえある、ということだ。この点が、実に致命的だ、と思う。もちろん、僕自身もそういう振る舞いをしてしまっているかもしれないということは常に意識するようにはしているし、自分だけはその罪から逃れられていると思っているわけでは全然ないのだけど。

僕は、働くという点では、女性の方が有能だと感じる機会が多かった。誰に聞いたのか忘れてしまったが、知り合いが自社の採用面接の際にあった話が印象的だった。その人曰く、純粋に絶対評価で点をつけると、面接を受けに来た女性ばかりが残ってしまうのだ、と。人事から、女性ばかりだと都合が悪いから男も残してくれ、と言われたという話をしていた。

もちろん、有能さというのは数値などで客観的に測れるものではないが、少なくとも、男の方が明白に有能だ、ということを示すデータも存在しないだろう。であれば、管理職が男ばかりという会社が多い現状にはやはり問題があるだろう。

また、色んな夫婦から漏れ聞こえてくる話(当然それらは女性側から聞くのだが)からも、女性の息苦しさを感じることが多々ある。特に、僕よりも上の世代だと、夫の言うことは絶対という、僕からすれば信じがたいような振る舞いをしている男がまだまだたくさんいるらしい。

いや、こう考えることも出来るかもしれない。DVの問題は、昔からあったのだろうが、僕の勝手な印象では、上の世代よりも若い世代に多い気がする。上の世代の場合、「夫の言うことは絶対」というような謎の了解がまだ世間の通念として漂っていて、だから男は暴力を振るわずとも妻を支配することが出来た。しかし、時代の変化によってそういう了解が薄れていく。男は、自分の父親がそうしていたように家庭で強権的に振る舞いたいのだが、時代の風潮がそれを許さない。だから暴力に訴えて妻を支配しようとするのではないか、と。そうであれば、上の世代であろうが若い世代であろうが、問題の本質は変わらず男の振る舞いにある、ということになる。

そしてこの問題は、世代だけではなく、地域によっても差が出る。都会であれば、男尊女卑のような価値観は、表向きは減っているだろう(巧妙に隠れているのだ、と指摘することも出来るのだろうが)。しかし地方だと、女性が窮屈な状況に置かれることが未だに当たり前とされることもある(本書で描かれているのは、まさにこの点だ)。

決して女性に限らないのかもしれないが、若い世代の女性があまり結婚を望んでいなかったり(少なくとも早く結婚することを望んでいなかったり)、あるいは就職してもすぐに辞めてしまったりする背景には、こういう、「男社会」であるが故の窮屈さみたいなものがあるだろうと思う。

先程も書いたが、致命的なのは、男がその状況をまるで理解できていないという点だ。もちろん、男の側にもそれぞれなりの立場があり、その立場に沿った発言をしなければならない、という事情はあるのだろうが、それにしても、女性がどんなことを嫌だと感じているのか、どんな苦しみを持っているのか、それらを何故相談できないのか、というような現状を、全然理解していない。

僕だって、女性から色んな話を聞かなければ分からなかったことは多々ある。外から見て分かることはほとんどなくて、大体、色んな人からちょっとずつ打ち明けられた様々な話を繋ぎ合わせるようにして、女性の置かれた状況をなんとなく理解できるようになっていったのだ。

本書の内容を象徴するような一文を抜き出してみる。

『今まであった問題が明るみに出ただけなのかもしれない』

本書は、3.11の震災を、3人の女性の視点から描き出す作品だ。それは確かに、震災の物語ではある。しかし本書は、より本質的には、僕らが生きている社会に根を下ろす様々な問題をあぶり出す作品なのだ。震災そのものを描くのではない。本書にとって震災は、音を増幅させるアンプみたいな装置なのだ。日常的に女性が置かれている苦しい状況が、震災というアンプを通すことによって増幅され、目に見えやすくなる。それこそが、この作品の持つ大きな意味なのだ。

内容に入ろうと思います。
椿原福子は、職場であるナガヌマ酒店の奥さんに頼まれた買い物中に、スーパーで震災に遭遇した。55歳、体力があるわけではないが、水が侵入した車からなんとか抜け出し、濁流に飲まれながらも、なんとか一命を取り留めた。流されてきた少年をなんとか救い、家族とはぐれたという昌也というその少年とともに、なんとか避難所にたどり着いた。
きっと夫は死んだだろう。そう思うと嬉しくて、そんな風に感じている自分に唖然とした。
漆山遠乃は生後6ヶ月になる息子・智彦と共に、家で震災に遭った。夫の実家であり、義理の両親と共に暮らしている。28歳の遠乃は、家での発言権はほぼなく、舅の指示には逆らえない。余震が来るから逃げた方がいいという遠乃に舅は、この家は安普請ではないから大丈夫だと怒鳴り動こうとしない。なんとか理由をつけて家を出た遠乃は、高台に逃げなんとか助かった。夫は、公務員になるために地銀を辞め勉強中、今は図書館にいるはずだ。あそこなら大丈夫。子どもを抱えて避難所に向かうが、若くて美しい遠乃は、避難所でもの凄く目立ってしまう。
山野渚は、5年前に離婚し故郷に戻ってきた。40歳になったばかりで、小学生の息子がいる。渚は生きるためにスナックを経営し、なんとか生活を成り立たせていた。口さがない声があるのは知っていたが、生きていくのに必死だ。自宅で被災した渚は、津波に飲まれそうになったが、どうにか助かった。息子がいる小学校は、災害時は親が迎えに来るまでは学校で保護してくれる。大丈夫なはずだ。渚も避難所へとたどり着く。
何もかも失ったが、命だけは助かった―。しかし、辛いのはここからだった。

『生き残ったことが、果たして幸せだったんだろうかと渚は思った』

三者三様の悩みを抱えながら、彼女たちは避難所での生活をなんとか堪え、未来の自分を思い描こうとする…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。面白いというか、興味深い、という感じがしました。小説としてどうか、という点よりもまず、こういう現実があったのか、という点に関心が向きました。そして、なるほど、本書は確かに小説であることに意味があるな、と感じました。ノンフィクションとして実際にあった出来事を描くのももちろん大事だが、小説の登場人物の言動を通じて描き出すことで、読み手がより認識しやすい形で事実を提示出来ているように僕には感じられました。

三人の女性は、それぞれの苦しみの中に身を置きます。彼女たちがどんな状況の中に置かれているのか、という点については、あんまり書きすぎると後半の方の展開も透けて見てしまうような気がするので止めておきますが、引用したように、「今まであった問題が明るみに出た」という状況です。今までは、現実を成り立たせるために、彼女たちが色々と我慢したり調整したりして表向き上手いことやってきた。しかし震災によって、成り立たせる対象である「現実」が無くなってしまった。そうすることで、今まで我慢や調整によって明るみに出ることがなかった問題が浮き彫りになっていくわけです。

興味深いのは、男はあれだけの震災があって、「現実」が消失してしまったというのに、まだ震災以前の「現実」のルールの中で生きようとする、ということです。これはある意味で当然かもしれません。男は、それまでの「現実」が、女性の我慢や調整によって成り立っていた、という事実を認識できません。だからこそ、自分の振る舞いが、震災後も通用する、という判断になってしまうのです。

さらに、もっと恐ろしい状況さえ生まれます。それは、「女性に負担が掛かるのは当然」という意識を持った男にしか繰り出せない理屈です。

避難所のリーダーが、こんなことを言う場面があります。

『そらあ家も流され仕事もなくしで男だづも苛々しでっがらね。そういうごどがあっでも仕方ねえだろうね。だがら女性のみなさんも勘弁すてやってね。男っでものはどうしようもねえ動物だがらね』

何のことについて言っているか、理解できるだろうか?これは「緊急避妊用ピル」を配る際の言葉で、つまりこのリーダーは、「男はどうしようもないからレイプされても許してやってくれ」と言っているのだ。

これが、どこかの避難所で実際に口に出された言葉なのかどうか、それは僕には分からないが、言う人間がいてもおかしくない、と感じる。女性を一段も二段も低いものとしてしか見れない男というのはいるのだ。

このリーダーは他にも、「仕切りようのダンボールを使わない」という決断をする。避難所の面々は家族であり、連帯感を強めなければならない、というのがその理由だ。この台詞は、実際に避難所で発せられたという。あとがきによると、著者はその事実を知ったことで、本書を書く構想が生まれたという。

どんな価値観を持っても自由だが、それは「他人に迷惑を掛けない」「他人にその価値観を押し付けない」という前提がある場合だ。自分の理屈でしか物事を見れない人というのは男女ともにいるが、「男社会」の中では男の理屈がはびこり、女性が苦労することになる。そのことを、本書の隅々から感じることが出来るだろう。

また、女性の苦しみは、「対男」だけから生まれるとは限らない。例えば「食事作り」の問題などは、女性同士の間での問題だ。以前から様々な場面で感じることだが、女性というのは、男からは理解されず、さらに女性同士も立場の違いによって共闘することが出来ないという、本当に厳しい状況に置かれている。普段は、女性側の努力によってあまり表立って問題化することのない様々な事柄を、震災というアンプが増幅していく。

また、女性の苦しみという点に限らない描写も様々にある。贅沢を言ってはいけないという雰囲気を感じ取ったり、ボランティアスタッフとの微妙なすれ違いがあったり、義援金を巡る悲喜こもごもがあったりと、震災という様々な側面を捉える作品でもある。

福子のこんな言葉が印象に残った。

『努力すればなんとかなるっていうんなら身を粉にして働く覚悟はあるけんども、考えれば考えるほど、先が見えないってごどがはっきりしてきてしまっで、そうなると死にたぐなる』

この作品では、綺麗事は描かれない。生々しい醜悪さが描かれていく。震災直後は、「絆」「がんばろう」という言葉で様々な場所が埋め尽くされた。しかし、そんな綺麗事の陰には、表に出てこない様々な問題があった。

その問題は、震災が生みだしたものではない。震災前からあったものが浮き彫りになっただけだ。

だからこそこれは、被災地だけの物語ではない。現実を生きる僕らに投げかけられた、大きな大きな問いなのだ。

垣谷美雨「女たちの避難所」

この世でいちばん大事な「カネ」の話(西原理恵子)



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この本を読んで、つくづく思ったことがある。

世の中には、「成功するための本」は山ほどある。「成功」をどんな風に捉えるかで本の中身も変わってくるんだけど、基本的には「こうすればうまく行くよ!」って方法が書かれた本。そういう本は、本屋に行けばたくさん見つけられる。

でも、本当に大事なのは、「しなくていい失敗を避けるための本」なんだろうな、と凄く思った。

僕たちは子どもの頃、学校で色んなことを習う。でも、どうも学校で習うことって、直接的には人生に役立ってくれない。もちろん、まったく役に立たないわけじゃない。僕は数学をちゃんと勉強したお陰で論理的に考える力が身についたと思っているし、歴史や化学や英語なんかも、役立ちレベルはともかくとしても、全然役に立たないわけじゃない。けどやっぱり、生きて行く上でどうしても必要な知識じゃないな、と思う。

本書で書かれてるみたいなことこそ、誰しもが生きて行く中で知っておかなきゃいけないことだろうと思う。しかしなかなか、こういうことを教えてくれる大人はいない。

それはある意味で仕方ないことではあるのだろうと思う。学校の成り立ちや、家庭で教えるべきことの変化などから考えれば仕方ないのだと思う。

昔は、みんなが学校に行けるわけではなかった。一部の、ある種特権的な人たちが通う場所だった。つまり、エリート養成所だ。学校というのは、元々の前身を考えればそういう性質があるわけで、だからこそそこでは、普通に生きて行くための知恵ではなく、高度な学びが展開されるのだ。

また、かつては身分によって就ける職業が違っていたはずだ。だから家庭では、自分たちが属する世界のしきたりさえ教えておけば事足りた。しかし時代は変わり、今は(表向き)身分によっての差別はない。そうすると、かつて家庭で教えていたレベルの教育では足りなくなってくるだろう。自分たちが属する世界だけではなく、どこに行っても恥ずかしくない、通用する知識を教えなければならない。なかなか家庭でそこまでやれないという背景もあるだろう。

学校という場は「生活のための知識を得る場ではない」という性質があり、家庭という場では「教えなければならない生活のための知識が多すぎる」という問題がある。それ故に、僕らが社会に出るまでに本当であれば知っておかなければならない知識を身につける場が実際には存在しない、ということになってしまう。

実際僕たちは、「お金」について学ぶ機会というのが本当に少ない。学校の授業で習った記憶はないし、少なくとも僕は、お金について親から何か言われた記憶はない。家庭によっては、そういうお金の教育をするところもあるだろうが、それは個々の家庭の判断に任されている。

お金だけではない。社会に出る前にどんな準備をしておくべきか、働く上で大事なことは何か、家族を持つ時に何を考えるべきか…こういう、人生を構成するとても大きな事柄について、僕らは基本的なスタンスを学ぶことなく、社会に出ることになってしまう。

もちろん、それらは「生き方」に直結する話だし、であれば、他人の意見が邪魔になる、という可能性だって十分にあるだろう。とはいえ、考え方を押し付けるのではないやり方で、子どもの内からそういう事柄について考えさせるような教育はきっと出来るはずだと思う。

西原理恵子は、恐ろしく貧しかった子ども時代から這い上がり、やがて絵一本で食えるようになって行くが、しかしその後麻雀で5000万円以上のお金を失うという、お金に絞ってみてもなかなかハードな人生を送っている人だ。特殊な生き方から普遍性を持つ考え方が生まれるのかどうかはその時々だろうが、僕は本書を読んで、著者が提示する様々な考え方は、西原理恵子のような特殊な生き方をしていない人にもきっと当てはまるだろう、と感じた。

タイトルには「カネ」とあるが、決してお金だけの話ではない。本書で描かれているのは、「いかにして生きるのか」という、その覚悟や手段なのだ。

内容に入ろうと思います。

『「貧困」っていうのは、治らない病気なんだ、と。』

高知の港町で生まれ育ち、「初めて触ったお金には、魚のウロコや血がついていた」と語る西原理恵子。周囲の皆が貧しくて、貧しいが故に心が荒んだり、悪い道に走っていってしまう人をたくさん見てきた。

『貧しさの中でぼろぼろになっていく女の子たちを見ながら、わたしは、いつか、自分もああなるんじゃなかって、ずっとおびえていたから。そうして貧しさが土砂崩れのように何もかもをのみこんでいくこの町で、とうとう、お父さんが死んだ』

父親は、自殺だった。ギャンブルにハマり、作ってしまった借金を返せなくなっての自殺だった。死の直前まで、父親は母親に「お前が持っている土地を売れ」と言い続けたらしいが、母親は頑として首を縦に振らなかったという。

『貧しさは、人からいろいろなものを奪う。人並みの暮らしとか、子どもにちゃんと教育を受けさせる権利とか、お金が十分にないと諦めなければいけないことが次から次に、山ほど、出て来る。それで大人たちの心の中には、やり場のない怒りみたいなものがどんどん、どんどん溜まっていって、自分でもどうしようもなくなったその怒りの矛先は、どうしても弱いほうに、弱いほうにと向かってしまう』

そういう中で著者は、ちょっと変わった事情から大学を目指すことになった。ならば東京に。母親があちこちからかき集めた全財産140万円の内100万円を著者に渡し、「これで東京に行ってきなさい」と言った。西原理恵子は、腹を括るしかなかった。東京でちゃんと一人で生きていけるようにならなかったら、またこの生活に逆戻りだ…。
好きだったけど、決して上手かったわけではない絵を武器に、最下位の闘い方で突き進んでいった著者の奮闘記だ。

本書の土台となっているのは、やはり「カネ」ではある。貧しい子ども時代、金を稼ぐのに必死になった美大時代、仕事が軌道に乗ってきてからのギャンブルへのハマり方などなど、西原理恵子がお金とどう関わり、どう向き合ってきたのかという体験が、本書のベースとなっている。

しかし、本作全体として見た場合、やはり本書は「生き方」、しかも「働く」ということを背景にした「生き方」を描く内容だと感じる。

『「いいじゃない。お金にならなくても」ってやってるうちは、現実にうまく着地させられない。それこそ、ふわふわした、ただの夢物語で終わっちゃう。
そうじゃなくて「自分はそれでどうやって稼ぐのか?」を本気で考えだしたら、やりたいことが現実に、どんどん、近づいてきた』

著者は美大時代、恐ろしいほどの才能を持ちながら、仕事を選り好みしたり、あるいは仕事をしようとしなかったりする学生をたくさん見てきた。西原理恵子は、客観的に見て絵が下手だった。美大に入るための予備校では、デッサンの成績が最下位だった。しかし、自分が最下位だとわかっていれば、闘い方がある。

『最下位の人間に、勝ち目なんかないって思う?
そんなの最初っから「負け組」だって。
だとしたら、それはトップの人間に勝とうと思っているからだよ。目先の順位に目がくらんで、戦う相手をまちがえちゃあ、いけない。
そもそも、わたしの目標は「トップになること」じゃないし、そんなものハナからなれるわけがない。じゃあ、これだけは譲れない、いちばん大切な目標は何か。
「この東京で、絵を描いて食べていくこと」
だとしたら肝心なのは、トップと自分の順位をくらべて卑屈になることじゃない。最下位なわたしの絵でも、使ってくれるところを探さなくっちゃ。最下位の人間には、最下位の戦い方がある!』

西原理恵子がどうやって絵だけで食べていける漫画家になったのか、それは本書を読んで欲しいが、それを実現するための考え方が少なくとも本書に二つ書かれている。

『「才能」っていうのは、そんなふうに、自分だけじゃわからない、見えてないものだと思う。自分で「こうだ」と思い込んでることって、案外、的外れだったりするからね。
何でも仕事をはじめたら、「どうしてもこれじゃなきゃ」って粘るだけじゃなくて、人が見つけてくれた自分の「良さ」を信じて、その波に乗ってみたらいい』

これはまったく同じことを僕も考えている。「才能」というのは結局誰かに見つけてもらうもんで、自分で思い込んでいる「才能」なんてくそくらえだって。そういう意識を持てれば、自分に求められていることを提供する、という形で、社会の中で自分の立ち位置を作り出していけるかもしれない。

『この仕事で食べていくことができなかったら、またあの場所に逆戻りだと思うから、どんな仕事だって引き受けることができた。しんどいとき、落ち込んだときもそう。引き返せないんだもの。だから目の前のハードルを体当たりでいっこいっこ、乗り越えていくしかない。ここで踏ん張らなかったらまたあの貧しさにのみこまれてしまう。だから、足は止めちゃいけない。前へ、前へ。
わたしの生い立ちは、わたしに、決して振り返らない力をくれたと思う』

だから、良かったとは思わないけど、辛かった子ども時代のことも決して悪かったわけじゃない、と西原理恵子は書いている。

前へ進め、とだけ言われることは、辛いこともある。けど西原理恵子は、『競争社会から落ちこぼれたっていい。日本を出ちゃっても、ぜんぜん、かまわない。いまいるところがあまりにも苦しいのであれば、そこから逃げちゃえ!』とも書いている。この感覚は、まさに僕と同じだ。僕も、どうにもならなくなったら逃げようと思っている。そういう意識を持っているから、前進出来るのだと思う。

こういうことって、子どもの頃に知りたかったなと思う。大人の社会に放り込まれる前に知りたかったな、と。もちろん、こういうことをちゃんと知ってて言語化出来る大人がそもそも少ないんだから、こういうことを子どもが教われないのも当たり前っちゃあ当たり前。だからこそ、こういう本で子どもの内から学べるチャンスがあるっていうのは、とても羨ましいことだと思う。

これから大人になっていく子どもたちにはもちろん読んで欲しい。でもそれだけじゃなく、大人になりきれてないと実感している大人とか、ちゃんと大人であり続けたいと思っている大人とかにも読んで欲しい。

そして本書を読んだ大人は、ちゃんとこういうことを子どもに伝えて欲しいと思う。

西原理恵子「この世でいちばん大事な「カネ」の話」

日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る(青山透子)



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これまで、色んなノンフィクションを読んできた。
その中には、未解決事件のノンフィクションも多くある。歴史に名を残すような有名な事件のノンフィクションが多いが、様々な謎が残され未だ解決の糸口すら見えない事件というのは多く存在する。

しかし、それらは「事件」であると認識されている。

本書を読んで驚いたことは、「事故」だと認識されていることが、実は「事件」だったかもしれない、ということだ。

『この三十二年間、墜落に関する新聞記事等の膨大な資料を、現在から墜落時まで時系列にさかのぼって読み込んでいくと、そこに見えてきたものは、これは未解決事件であるということだ』

もちろん、今パッとは頭に浮かばないが、「事故」だと思われていたものが実は「事件」だった、という本も読んだことがあるだろう。しかし、しかしである。「日航機墜落事故」は、リアルタイムでその事件を知らなくたって、普通に生きていればまず耳に入ってくるだろう、昭和史における重大事故だ(だからこそ、本書の中で、早稲田大学の学生がこの事件を「知らなかった」とレポートに書いている事実を知って驚いた)。

そんな重大事故が、実は「事件」だったかもしれない…。本書は、そう強く訴えかけている。

本書にどんな具体的な事実が書かれているのか、それは後で触れよう。何よりも重大なことは、あれだけの「事故」がもし本当は「事件」だったとしたら、そんな隠蔽を実行に移すためにはとてつもない力が働いていたと想像するのに難くない、という点だ。政府レベルで隠蔽工作が行われているのでなければ、絶対に不可能だ。

僕は、そのことが一番怖い。

「殺人犯はそこにいる」という作品を読んでそのことを強く実感したが、僕たちが生きている社会は、様々な欺瞞の上に成り立っている。公権力が、その権力を利用して、不都合な事柄を隠そうとする、そういう動きが恐らく存在する。日航機墜落事故においてその力が働いたのか、それはもちろん定かではないが、本書を読む限り、その可能性は決して低くはないだろうと思わされる。

ごくごく一般的な人生を歩んでいられるのであれば、この点はさほど大きな問題にはならない。実際のところ。警察や裁判所や軍や永田町などと、どんな形であれ一生関わらずに生きられるのであれば、特に支障はない。しかしそれらと、期せずして対立する形になってしまった場合、社会が持つこの性質は、一気に僕らの人生に襲いかかり、すべてを破壊していくだろう。

問題は、それらと関わるかどうか、僕らの意志ではどうにもコントロール出来ない、ということだ。日航機墜落事故にしたって、乗客たちは自らの意志でこの事故(あるいは事件)に遭ったわけではない。僕らが普通に生きている中で、いつ何時そういう自体に巻き込まれるのか分からない。

だからこそ僕らは、僕らが生きている社会が孕んでいる欺瞞や、隠蔽を生み出す構造などをあらかじめ知っておかなければならないのだ。知っていたとしても、必ずしも対処出来るわけではない。しかし、知らないで遭遇するよりは、ずっとマシだ。

日航機墜落事故を知らなくても、そこまで関心が持てなくても、社会の底が抜けているのだということを確認するためにも、読んだほうがいい一冊だ。

内容に入ろうと思います。
本書は、元日本航空客室乗務員であった著者が、日航機墜落事故に関する資料を読み、様々な人に話を聞き、その中で抱いた疑問や仮説などについて書いている作品です。

本書は僕の中で、全体的には高評価の作品ですが、先に1点、もっとこうだったら良かったのに、という点を挙げておきます。

それは、著者がノンフィクション作家だったらもっと良かっただろうな、ということです。

著者が元日本航空の客室乗務員である、という点は、作品にある種の厚みを加えている点であることは間違いありません。本書の中では、日航機墜落事故で亡くなった客室乗務員と著者との関わりが描かれます。そういう描写が組み込まれることで、亡くなった方々をよりリアルに感じられる、という点は本書の強みだと思います。

しかし一方で、これは厳しい見方かもしれませんが、本職のノンフィクション作家ではないが故に、すべき取材が出来ていなかったり、文章の構成がそこまで上手くなかったりするな、ということも感じました。

本書を書く上で著者は、「これまでの資料を読み込む」かつ「HPを通じての情報提供(提供者から直接話を聞くこともある)」という二つをメインにしています。もちろん、著者自身も取材に出ることはあるのですが、やはりそこは本職のノンフィクション作家と同じようにというわけにはいかないでしょう。取材のノウハウみたいなものはやはりあるはずで、だからこそノンフィクション作家には、新聞記者や雑誌記者だった方がなることが多いんだと思います。恐らく本職のノンフィクション作家であれば、もっと多方面に取材しただろう、と本書を読んで僕は感じました。

また、全体の構成的にも、ちょっとノンフィクションとして弱いかな、という印象を受けました。具体的にどうすればいいのか、という提案は出来ませんが、もう少し構成をすっきりさせることが出来るような気がしました。

この辺りが、僕としてはちょっと不満ではありました。

とはいえ、内容的にはかなり驚かされるものでした。副題にもあるように、本書では「目撃証言」にかなり重点を置いています。著者は資料を読み込むことで、埋もれてしまった様々な「目撃証言」を拾い出していきます。そして、それらの目撃証言から想像しうる仮説を導き出しています。

日航機墜落事故に関してどんな目撃証言が存在したのか。すべてではありませんが、ざっと挙げてみます。

◯ 墜落現場周辺の人が墜落現場を特定し政府関係者や県に連絡していたが、テレビなどではいつまでたっても「墜落現場不明」と報道されていた
◯ 日航機は超低空飛行していた。そしてその腹の部分には、赤色の楕円形の何かが見えた
◯ 墜落現場一帯に、ジェット燃料とは違う種類の臭いが充満していた
◯ 窓から外を写した写真を解析したところ、オレンジ色の物体が飛行機に近づいていることが分かった
◯ 墜落前の日航機を、2機のファントムが追尾していた

これらの目撃証言を、著者は様々な形で入手する。小学校の文集の中から、HPを通じて会いに来てくれた人の証言から、様々な報告書などから…。もちろん人間には見間違いや記憶違いもあるだろうが、それぞれの目撃証言は一人や二人の話ではない。かなり大勢の人間によって目撃されているのだ。集団で幻覚を見たというのでもなければ、見間違いなどということはあり得ないだろう。

また、目撃証言ではないが、日航機墜落事故に関する様々な状況も著者は拾い集めていく。米軍や自衛隊が、出動準備が整っていたにも関わらず待機を命令された、日本航空の社長が首相官邸に行ったら殺されると怯えていた…などである。これらの証言も、何か大きな力の関与を想像させる。

もちろん、著者の仮説には、それを支える積極的な証拠はない。目撃証言や状況証拠から考えて、「これまで原因とされていたものでは説明がつかないこと」が多いことを示し、さらに「自分が集めた証言や状況をうまく説明するためにはこう考えるのが妥当なのではないか」という想像を書いているにすぎない。もちろん、これは著者を責めているというのではない。冒頭でも触れたが、もし日航機墜落事故に政府を含めた巨大な力が働いているとすれば、公にされている事実を覆すような何かを個人がえぐり出していくことはほとんど不可能だろう。しかもこの件には、米軍が絡んでいるのではないかという推測もある。であれば、真相の究明はなおさら困難だろうし、推測の域を出なくても仕方ないと思う。しかし、やはりノンフィクションとして見た場合には、弱さを感じる。

隠蔽を完全に証明できるような物証が出て来ることは、恐らくないだろう。であれば、もし著者の推測通りのことが起こっていた場合には、隠蔽に関わった人物からの告発がなければ真相の解明は不可能だろう。それが実現する可能性があるとすれば、僕らがずっと関心の持ち続けることが一番だろうと思う。そういう意味でも僕らは、この事故のことを忘れてはいけないのだ、と改めて感じさせてくれた一冊だった。

青山透子「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」

政治的に正しい警察小説(葉真中顕)



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内容に入る前に一つだけ。
本書は6編の短編が収録された短編集なのだけど、基本的には1作も警察小説はない。だから、タイトルに惑わされないようにして欲しい。

内容に入ろうと思います。

「秘密の海」
出会いはネットのブログだった。彼女は「トラヴィス」と名乗り、男の振りをしていた。世の中のあらゆる事柄を憎み、自殺をほのめかすその内容に思わずコメントした。そこからやり取りが始まり、会うようになった。そして縁がないと思っていた結婚をした。子どもが出来たからだ。
僕は両親に虐待されながら育った。それでも、両親のことが好きだった。けれど両親はある日突然いなくなった。僕は施設で育ち、それからも不遇の人生を歩んできた。そんな僕に子どもが出来た。不安はよぎる。自分はこの子を虐待せずにきちんと育てられるだろうか?
僕は時々思い出す。両親が連れて行ってくれたあの「秘密の海」のことを…。

「神を殺した男」
私は、「将棋年鑑」という書物に、紅藤清司郎の奇跡を振り返る記事を書くことになった。26歳の年齢制限までに奨励会を抜け出してプロになることが出来なかった私は、今はライターとして糊口を凌いでいる。
紅藤清司郎は、将棋界に燦然と輝くスーパースターだ。12歳でプロ棋士となり、17歳で七冠制覇という異形の強さを誇っていた。プロの中で強いと言われる者であっても勝率は6割台、ごく稀に7割に届く者がいる、という中で、紅藤清司郎の通算勝率は9割7分。他の追随を許さないとはまさにこのことだ。
しかしそんな紅藤清司郎は25歳でこの世を去った。なんと、同じくプロ棋士であり、紅藤清司郎に次ぐ実力を持つとまで言われていた黒縞治明によって殺されてしまったのだ。同じ部屋で自殺していた黒縞治明は遺書で、「紅藤がいる限りどのタイトルも獲れない。だから神を殺す」と書いていた。将棋界ではこの話はタブーであり、もちろん将棋年鑑の取材で紅藤の妻・毬子に取材をする際も、事件のことなど聞くつもりはなかった。
しかし、毬子さんから話しだしたのだ。本当に黒縞は、紅藤がいたらタイトルが獲れないなどという理由で殺したのだろうか、と…。

「推定冤罪」
浦川克巳は、無事釈放された。漫画家仲間であり、浦川の才能を高く評価しているナガサワタクトらの声掛けにより支援者の輪が生まれ、ここまでこぎつけたのだ。ナガサワタクトの方が一般に知られた漫画家だが、彼は浦川の方が漫画家としての表現力などは圧倒していると考えている。
浦川の自宅近くで、少女が無残な姿で殺されていたのがことの発端だ。不運というかなんというか、その事件は、浦川が少し前に発表していたマンガと近いものがあったのだ。事件に酷似した絵を、現場の近くにいる漫画家が描いていた―浦川は、ただそれだけの理由で疑われ、拘束された。
物証や目撃証言などは存在せず、弁護士もこの状況で起訴まで持ち込めるはずがない、と楽観視していた。しかし、想定外の事態が起こり…。

「リビング・ウィル」
松山千鶴は母から、祖父が意識不明の重体だと連絡を受け病院に向かう。行動的で、感性も若くて、千鶴は仲良くしていた。しかし、同じように祖父にかわいがってもらっていた従姉妹の早苗はまだ来ていない。早苗は昔とは大きく変わってしまった。
祖父はこのまま植物状態になるかもしれない―そう言われた時、千鶴は祖父がかつて言っていたことを思い出した。自分が植物状態になったら延命はしないで欲しいと言っていた。しかし…

「カレーの女神様」
一人の青年が、たまたまオープンしたばかりのカレーショップ<CURRY SHOP VISHNU>にやってきた。カレーと言えば思い出すのは母親が作ってくれたカレーだ。秘密の隠し味を入れたというとびきりのカレーを食べさせてくれた翌日、母親は姿を消した。それからは、親戚の家で育ててもらった。
カレーショップで恐ろしく美人な店員さんに出してもらったカレーは、驚くことに、母親が最後に作ってくれたのと同じ味がした。まさか…。

「政治的に正しい警察小説」
小説家の浜名湖安芸は、フリーの編集者である郭公鶴子と喫茶店で会った。何度投稿しても落ち、これで最後と決めて最大の力を込めた作品でデビュー。デビュー作が高く評価され、その後作品も順調に出版している浜名湖ではあるが、それまでの作風をなぞっているだけのような気がして、自分なりに行き詰まりを感じている。鶴子から連絡があったのはそんなタイミングのことだった。
鶴子は浜名湖に、警察小説を書いて欲しいという。どんな依頼かと思えば警察小説か、と思った浜名湖だったが、鶴子の依頼は少し違った。それは、「政治的に正しい警察小説」を書いて欲しいというものだったのだ。その時代その時代の「当たり前」が無自覚に差別的な表現となっている事例は多々ある。それらをすべて排除し、どんな方向から見ても先入観も差別的な視点もない「政治的に正しい警察小説」を書いてくれないか、というのだ。
なるほどこれは面白そうだ、と思った浜名湖は早速挑戦する。案外するすると書けてしまったが…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。かなりバラエティに富んだ作品で、一冊で色んなタイプの物語を楽しめます。とはいえ全体的には、ちょっとブラックだったり皮肉っぽかったりするような話が多いと思います。

個人的に好きなのは、「カレーの女神様」と「政治的に正しい警察小説」です。

「カレーの女神様」は、なるほどそう来るか!という感じでした。最後まで読んで、なるほどこれはよく出来てるなぁ、という感じがしました。具体的に書けることは少なくて、こういうボヤッとした感想になってしまうんだけど。味覚に自信のない僕としては、「大分昔に食べたカレーの味を覚えているのか?」みたいな些末な疑問を抱いてしまったんですけど、全体的には好きです。一気に物語のテイストが変わるところとか、素晴らしいなと思いました。

「政治的に正しい警察小説」は、なんというか実にシュールな物語だなと思いました。なんとなく筒井康隆を彷彿とさせる感じです(とはいえ、筒井康隆の作品はそこまで読んだことありませんが 笑)。著者なりの「政治的に正しい(PC)」小説を書くのだけど、ことごとく鶴子氏にダメ出しをされる。そのダメ出しの仕方が、主人公の浜名湖と同じく、なるほど確かに即答では反論出来ないようなものが多いなぁ、という感じがしました。鶴子の指摘は明らかに過剰だし、そんなことを言っていたら小説なんかまるで書けなくなっちゃうんだけど、それならどの程度まではいいんだ?みたいなところを考え始めるとドツボにはまりそうだな、と。

「政治的に正しい(PC)」という概念をこの小説で初めて知ったんだけど、これはなかなか面白いなと思いました。本書では「十五少年漂流記」の例が引き合いに出されているのだけど、なるほど分かりやすい。確かに、100年後200年後の視点から現代を見るのはほぼ不可能に近いんだろうけど、可能な限りそういう視点を排除していくというのは、小説という創作でやるべきかどうかはともかく、生きて行く上で持っていた方がいいだろうなと思いました。

その他の話についてもざっと
「秘密の海」は、巧いなと思いました。「神を殺した男」は、理屈では理解できるけど、推測のみでこれを結論とする終わらせ方はちょっと厳しい気がしました。「推定冤罪」は、現実が歪んでいく感じが面白いですけど、個人的にはあと一歩という感じがしました。「リビング・ウィル」は、なんとなく予想通りだったかなという感じです。

葉真中顕の作品を全部読んでいるわけではないんだけど、基本的には「社会はミステリー」と呼ばれる作品を書いています。そういう意味では、本書のような小説は結構珍しいだろうと思います。葉真中顕の新しい一面が見れる作品ではないかなと思います。

葉真中顕「政治的に正しい警察小説」

レッツ!!古事記(五月女ケイ子)



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内容に入ろうと思います。
本書は、あの「古事記」をちょーユルユルに解釈して、コミックエッセイのような感じで描き出す作品です。

僕は「古事記」については、どんな感じの作品なのかまるで知識がなかったので、そういう僕みたいな人間にはなかなか面白い作品でした。
ヤマタノオロチの話とか、天の石屋戸の話とか、因幡の白兎の話とか、個別には知ってたけど、なるほどそれって「古事記」に載ってる話だったんだ!というぐらいの知識量でした。そんな僕にとは、ほぉなるほどぉ、と思うような話が多くて、結構楽しく読めました。

作品自体は基本的に絵なんですけど、各ページの下の方に、「五月女ケイ子氏」と「オロチ博士」という二人が登場し、作品に対してツッコミを入れていきます。たぶん、絵だけだったら理解できない部分も多かったでしょう。このツッコミが、なかなかいい感じだったと思います。

「天照大御神を天の岩屋戸から出すためにドッキリ作戦を行った」
「因幡の白兎はオオナムジにオーディションを行った」
「歌は呪力を持つ表現とされていたから、ここぞという時に歌う→つまりミュージカルみたいなもの」

みたいな感じで、相当くだけた感じで解説をしてくれます。

「古事記」の話は、ただ普通に読んでいると、「何その超展開」みたいなことがよくあります。でも、その当時の価値観や習俗を説明してもらった上だと理解できる部分も出てきます。まあ超展開であることには変わりないんですけど、置いてけぼり感みたいなのはなくなる、という感じがします。

本書は、「入門書を読むための入門書」という感じがしました。「古事記」についてちょっとでも多少なりとも知識や関心がある人は入門書などから読んで大丈夫だと思います。本書は、そのもっと手前、「コジキって何?美味しいの?」みたいなレベルの人には、かなり面白く読めるんじゃないかな、と思います。たぶん、著者の独自の解釈みたいなのも含まれてる気がするので、どこまで本書の記述を受け取っていいのか微妙なところはありますが、面白く読めると思います。

しかし、「古事記」って、読みにくいから理解しにくいんだと思ってる部分もあったけど、読みやすくなっても理解しにくいんだなぁ、と(笑)。超展開すぎる!

五月女ケイ子「レッツ!!古事記」

図書館の魔女(高田大介)



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本書の感想を書くことは、「日本の感想を書くこと」に近いものがある。

日本について何か感想を書いてくれ、と言われた場合、そこには山ほどの切り口が存在する。観光・歴史・言語・方言・地域性・食…などなど、「日本」というテーマをどう切るかというのはいくらでも設定しうるし、その切り口が曖昧なままでは文章をうまく書くことはままならない。

本書についても、まったく同じだ。著者は、切り口が無限にあるように感じられる「世界」を丸ごと作り上げてしまったのだ。

確かに、SFやファンタジーというジャンルは、僕らが普段生活しているのとは違ったルールで動いている世界を作り上げるところからスタートすることが多い。魔法が使えたり、時間旅行が出来たり。とはいえ、そうやって組み上げた世界には、ちゃんと見ようとしなくても空白地帯がたくさんあるということに気づくはずだ。主人公たちが住んでいる隣の国はどうなっているのか、自分たちが住んでいる国の言語の変遷がどうなっているのか、彼らが住んでいる町がどんな風に成り立っているのか…。SFやファンタジーというジャンルにしても、物語の進行上必要な部分は濃密に設定し、それ以外の部分についてはそこまで明確に決めてしまわずに小説を書いていくのではないかと思う。

本書を読むと、著者は世界の細部の細部まで何もかもすべて組み立ててしまっているのではないか、と感じさせられてしまう。本書に描写されていない部分についても、「これこれの部分はどうなっているんですか?」と著者に問えば、瞬時に答えが返ってくるのではないか、と思わされる。

本書はそれほどまでに、すべてが濃密に描かれる凄まじい作品だ。

僕らが「日本」というもの全体について文章を書くことが困難なように、本書についても、物語全体を要約したものを提示する、などということはほとんど不可能だ。何らかの切り口を設定して、その断面はどんな風になっていますよ、という形でしか本書を紹介することが出来ない。これから本書についてあれこれ書いていくつもりだが、いくつか切り口を提示しながら内容に触れていこうと思う。

まずは、非常に大雑把な設定だけ書いておこう。
舞台となるのは、西大陸と海峡を挟んで向かい合う、東大陸に位置する一ノ谷、そこに高く聳え立つ図書館である。「高い塔」と呼ばれるこの図書館にはかつて、タイキ様と呼ばれる図書館のトップ、通称「図書館の魔法使い」と呼ばれる者がいて、その類まれな手腕によって、争いや小競り合いの絶えなかった周辺諸国の和平を陰から実現に導いた経験から厳然たる支配力を有している。一ノ谷においても、王宮や議会に強い影響力を持ち、武力も政治力も持たないはずの、ただ書物を収集し収蔵しているだけの図書館が、国の中枢として力を持っている。
そして、タイキ様から禅譲され、今では「図書館の魔女」と呼ばれているのが、マツリカだ。彼女の姿を直接目にする者は少ないが、見た者は必ず驚かされることになる。何故ならマツリカは、まだ幼い少女だからだ。しかしそれでいて、いくつもの言語を解し、驚異的な戦略力を持つ、まさに「魔女」という名に相応しい存在だ。
マツリカには、もう一つ、「図書館の魔女」というイメージからは想像もつかないとある特徴がある。それは、「喋ることが出来ない」というものだ。彼女は、手話によって自身の考えを他人に伝えることしか出来ないのだ。
一方。一ノ谷の山奥で人知れず修行をし続けていたキリヒトは、「先生」の指示によって慌ただしく里へと降りることになった。キリヒトは、山奥に篭っていてもその名が聞こえてくる「高い塔」に自分が行くのだと理解した。マツリカ様と出会ったキリヒトは、その博識や高い伝達能力に驚かされた。そして、「文字を知らない」自分が、マツリカ様の元で図書館の業務を行うことが出来るのだろうか、と不安になる。マツリカは、先代のタイキからキリヒトを勧められたが、まさか文字が読めないとは思ってもいなかった。これでは、図書館の業務などとても任せられない。しかし、タイキにはタイキなりの遠望があるのだろう。キリヒトに何が出来るのか分からないが、とりあえず手話通訳としてマツリカの声となるべく鍛え上げることにする。
こうして、やがて周辺諸国にその名を轟かせることになるマツリカとキリヒトは出会ったのだった。
という、冒頭の冒頭の部分だけ説明して、内容の紹介は終わろうと思います。書こうと思えばいくらでも書けるんですけど、いくら書いてもキリがないので、最初の最初だけで終わっておきます。

さて、本書の切り口の一つは、「言語あるいは書物」です。
著者は言語学者であるようで、本書では殊更に「言語」あるいは「書物」についての思索がふんだんに盛り込まれていきます。それらはかなり刺激的で、読んでいてクラクラしてくるような話として展開されていきます。なるほど、物事を突き詰めて考えるというのはこういうことなのかと、そして、物事を突き詰めて考えるとこんな風に本質が浮き彫りになってくるのだ、ということが、主にマツリカの鋭い思考によって描かれていきます。

『書かれた瞬間に、それは言葉だった。読まれようその時に、それは言葉であるだろう。人は文字を通して、言葉を書き、言葉を読む。文字が言葉なのではないんだよ。おなじく声が言葉なのではない、手振りが言葉なのではない。言葉はその奥にある。言葉自体は目には見えない、言葉自体は耳には聞こえない』

『お前質は言葉を手段か何か、道具のようなものと考えていたんだろう。(中略)言葉はなにかを伝えるためにあるんじゃないよ。言葉そのものがその何かなんだ。言葉は意思伝達の手段なんじゃない。言葉こそ意思、言葉こそ「私」…』

図書館についても、マツリカはこんな風に言います。

『未だ知りえぬ世界の全体をなんとか窺おうとする者の前には、自分が自ら手にした心覚えと、人から学んだ世界の見方とがせめぎ合い領分を争ってやまない。そしておのれ自身の認識と余人から預かる知見が、ほかのどこにも増して火花を散らしてせめぎ合うのが、ここ図書館だ。図書館は人の知りうる世界の縮図なんだ。図書館に携わるものの驕りを込めて言わせてもらえば、図書館こそ世界なんだよ』

マツリカの思索がすべて理解できるわけではないし、本書で書かれている言説にはついていけない部分ももちろん多々あるのだけど、脳みそが沸騰しそうな程の濃密な議論や思索は、非常に刺激的でした。

また本書において「言葉」というのは、ただ思索の対象というだけではありません。本書は、剣でもなく魔法でもなく、まさに「言葉」によって世界を切り拓いていくファンタジーなのです。

と言っても、イメージは全然出来ないでしょう。僕も、そのイメージを短い説明で掴んでもらう手段を持っているわけではありません。ただ、例えばこんな一文を引用してみましょうか。

『たった一言の台詞から、一ノ谷の政界に暗躍する陰謀の具体的な部分がほぼ明らかなものとなり始めていた』

その一言というのも書いてしまいましょう。『こんなに嵐がひどくなると知りたらましかば…』です。このたった一言から、マツリカは政界の陰謀を暴くわけです。他にもこういう場面はいくつも出てきます。本書では、武力でも政治力でも人脈力でもなく、「言葉」をどう蓄積し、どう知り、どう捉え、どう使うのかによって目の前の現実を動かしていく、その手腕こそが作品の眼目となっています。普通のミステリのように、読者にすべての情報が提示されているわけではないから、ミステリを読むようにはいきません。読者がマツリカのような推理を展開できる余地はありません。その点を批判する感想をチラッと目にしたことがあるので今それに反論するようなことを書いているわけですが、その点は全然問題ないでしょう。少なくとも本書は、ミステリとして謳われているわけではないのだから。「九マイルは遠すぎる」のような作品とはまた違いますが、とはいえやはり、マツリカの慧眼に驚かされるのではないかと思います。

僕が本書について触れておきたいもう一つの切り口は、「マツリカとキリヒト」です。本書は、色んな切り取り方の出来る作品ですが、ボーイミーツガールとしても非常に面白い作品です。

本書を読み終わった時、マツリカとキリヒトの出会いの場面を思い出して欲しいと思います。そこにどれほどの落差があることか。マツリカとキリヒトは最初、決して良いパートナーではありませんでした。その後、お互いに良いこと、悪いことを繰り返して行きながら、二人の関係性はどんどんと変化していきます。そしてそれは、様々な揺れ動き方を見せながら、分かちがたい、離れがたい関係へと進んでいくわけです。

このマツリカとキリヒトの変化も、読みどころの一つです。
マツリカとキリヒトの物語というだけに区切ってみても、さらに様々な切り取り方が出来るのだけど、作品の中盤に出てきたことがラストに繋がっているな、と感じさせられる箇所があるので、ちょっと引用してみます。

『この子は私と一緒だ。私が望んで図書館の番人の家に生まれてきたのではないように、望んで特殊な教育を受けてきたのではないように、この子だってキリヒトの出る家系とやらに望んで生まれついたわけではないだろう。私が高い塔の魔女であることが私の選んだことではないように、この子がキリヒトであることは彼が選んだことではない』

『図書館においで。お前の意志で。つとめではなく、宿世ではなく、先生の命令によってではなく、お前自身の意志で図書館を選びなさい。私がそのために道をあけてやる。』

マツリカが何故こんなことを考え、あるいはキリヒトに言わなければならなかったのか。それは是非本書を読んで欲しいのだけど、とにかく彼らの関係性は、彼らの間に起こったやまほどの激動によって大きく揺れ動き、形を変え、その過程で二人は一つになった。特殊な生き様を強いられた二人がどう生き、どう選択し、どう行動したのか。その一つひとつを是非追っていって欲しい。

そして本書は、全体的に「駆け引き」の物語である。基本的に政治や軍事を背景にした展開が物語全体を支えている。様々な根深い対立構造を抱える周辺地域をどうとりまとめるのか。その方策や道筋のために、様々な形で間諜を放ち、情報を分析し、戦略を練る。それは、高い塔がこれまでもずっとやり続けてきたことではあったのだけど、そこにキリヒトという不確定要素が入り込むことで、それまで存在しなかった新しい未来を切り拓いていくことが出来るようになった。そしてそれはやがて、誰もが想定もしていなかった形で、周辺諸国の火種を取り除いていくことになる。その手腕は、見事としか言いようがない。

駆け引きという点で、僕が非常に印象的だった場面がある。これも詳しくは書かないのだが、ある重要な部品が壊れたことで一ノ谷側が窮地に追い込まれる場面だ。ここは、素晴らしかった。マツリカのマツリカたる対応には、きっと誰もが痺れることだろう。

さて、あれこれ書いたが、僕がここで書いたことは、本書の魅力の1万分の1にも満たないだろう。僕のこの文章を読んで、もしかしたらちょっと面白そうかもと思ってくれた方、その1万倍面白いので、是非読んで下さい。半年掛かってもいいから読んで欲しい一冊です。

高田大介「図書館の魔女」







崩れる脳を抱きしめて(知念実希人)



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内容に入ろうと思います。
神奈川の葉山にある富裕層向けの超高級病院で研修を行うことになった碓氷蒼馬は、28歳にしてグリオブラストーマという最悪の脳腫瘍を患った女性を担当することになった。名字ではなくユカリと呼んで、と語るその女性は、もはや手術が不可能であり、脳内に爆弾を抱えたままいつ破裂するか分からない状態で病室にいる。
蒼馬は、浮気して出奔した父のせいで極貧の生活を余儀なくされた。まだ借金も多く残っており、それもあって、アメリカで心臓外科医になることを目標にしていた。とにかく、稼げるようにならなければならない。そのために寸暇を惜しまずに勉強していたのだが、あてがわれた部屋の室外機が殊の外うるさく、ひょんなことからユカリさんの病室で勉強をすることになった。
これまでほとんど誰にも話したことのない父の話などをユカリさんに話す内に、二人は次第に打ち解けていく。とある事情により病室から出られないと思っているユカリさんと、父と金という呪縛から逃れられない蒼馬。二人は患者と医師という関係を越えて、お互いの存在に惹かれ合っていく。
二人は心を通わせながら、少しずつお互いを溶かしていく。ユカリさんは外に出られないという思い込みを捨て、蒼馬は父の出奔の原因を探る勇気を得た。
やがて蒼馬の研修期間が終わり、別れの時を迎えるが…。
というような話です。

全体的には、悪くはないなぁ、という感じの作品でした。ただ、どうもイマイチのめり込めない。何でだろうなぁ、と考えている中で、こんなことを考えた。

この物語は、あるべき答えに向かって進んでいるんだろうなぁ、と感じてしまったからではないか、と。
これはちょっと説明が難しい。

別にこれは、ラストどうなるのか早い段階で分かった、という意味ではない。そういう話をするのであれば、確かにところどころ不自然さを感じる部分があり、なんとなくそういう感じなのかな、と思いながら読んではいたのだけど、しかしそれがイマイチな理由ではない。

僕の中で、物語を読んでいる時は比較的、その描写が行われている『今』だけに焦点を当てている。先がどうなるのか、みたいなことはあまり考えずに、今その場面がどうなっているのか、という部分をメインで捉えている。

ただ本書の場合、『今』ではなく、物語が進んでいく『レール』に焦点が当たってしまったような、そんな印象がある。説明しにくいのだけど、例えば「電車」という存在を知らない人が、ふと目覚めたら電車の中にいた、ということを想像してみてほしい。電車に乗っている間は、線路が見えるだろう。先々までは見えないから、その線路の行き着く先までは見通せないのだけど、線路は見える。その時きっと僕らは、電車というものが何か知らなくても、「この乗り物は、この線路の上をずーっと進んでいくんだろうなぁ」と感じるだろう。

僕が本書を読みながら感じていたことも、それに近い。どこに行き着くのか、正確には分からない。けど、今自分が何かのレールの上にいることは分かるし、ここから外れることはないのだろう、という風に感じたのだ。

それは、普段僕が物語を読みながら『今』に焦点を当てている読み方とはちょっと違う。『今』に焦点を当てる読み方は、ふと目覚めたら大草原で車に載っている、というのに近い。大草原だから、道らしい道はない。自分が乗っている車(誰か別の人が運転している)がどこに向かうのか、予測することは困難だろう。必然的に、今自分がどこにいるのか、ということに焦点が当たるだろう。

この感覚の差が、何によって生まれたのか、それは定かではないのだけど、伏線の張り方とかなのかなぁ、という感じはする。もうちょっとうまくやってくれれば、レールの存在を気にせずに読めたかもしれないけど、なかなかそうは行かなかった。繰り返すけど、どこに行き着くのかは分からないけど、この線路の上を進んでいくんだなぁ、という感覚が、ちょっと好きになれなかった、というのが本書の僕の読後感です。

とはいえ、決して悪い作品ではないと思います。死を目前にした人の厭世観や、そういう人とどう向き合っていくのか、という部分は、やはり現役医師ならでは、という感じはするし、ユカリさんと蒼馬がお互いがお互いの存在によって変化していく過程はなかなか良いと思います。また、ミステリでは良く「謎だとは認識していなかった事柄が解決する」みたいなパターンってありますけど、本書もちょっとそういう側面がある気がしました。後半、明らかに解かれるべき謎の他に、なるほどそれも解決するんだ、と感じた箇所がありました。

さらっと読むにはなかなか良い作品かもしれません。

知念実希人「崩れる脳を抱きしめて」

お金がずっと増え続ける投資のメソッド―アイドルの私でも。(高山一実+奥山泰全)



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本を読んだ後の感想としては実に変だけど、僕は「乃木坂46を好きになって良かった」と思った。
何故なら、この本を読めたから。
本書は、乃木坂46の高山一実が共著の一人だ。ただそれだけの理由で、本書を手にとって読んでみた。
でもこれ、マジで凄い本でした。
読みながら、乃木坂46がどうとか関係なく、メチャクチャ良い本に出会ったな、と思いました。
それぐらい凄いです。

どう凄いのか。
本書には、「ほぼ確実に負けない投資法」が書かれているから凄いのです。
…なんて書くと、「胡散臭い」「騙されてるんじゃないか」みたいに思われるだろうな、と思います。
本書で書かれている「ほぼ確実に負けない投資法」には、一つ条件があります。
それは、「根気よく何年も毎日同じことを繰り返すこと」です。
つまり本書では、「根気よく何年も毎日同じことを繰り返しさえすれば、ほぼ確実に負けない投資法」が書かれている、となります。

たぶん人によっては、「根気よく何年も毎日同じことを繰り返すこと」って難しいんだろうと思います。僕は、結構自信ありますけど。とにかく本書に書かれている投資法を実践するには、根気が必要です。最初にある程度まとまった軍資金も必要なんですが、それさえ用意出来るなら、あと必要なものは根気だけです。でも、根気さえあれば、ほぼ負けません。そういう意味で、凄い投資法だなと僕は感じました。

やることは単純です。具体的な手法ではなく、抽象的な表現になるのだけど、本書に書かれていることをそのまま抜き出してみます。

『安くなればなるほど少しずつ買い足していく。
高くなればなるほど少しずつ売っていく。
安いときほどたくさん持っていて、高いときほど少ししか持っていないようにすればいい。』

これだけじゃ何も分かりませんけど、本書で書かれている投資の基本はたったこれだけです。これをベースに、本書では、実際に何をしたら良いのかを具体的に書いています。さらに、なぜこのやり方でお金を増やすことが出来るのかも。

本書を読み終わった今、僕はたぶんまだ完全には理解しきれていません。お金が増えていく仕組みは、なんとなくわかったような気になっているんですけど、他人に説明できるほどは理解できていません。なにせ、お金が増える仕組みを読んでいると、凄く不思議なんです。なんでこれの繰り返しでお金が増えていくのか…。分かるような分からないような、凄く不思議な気分になります。ただ、具体的にしなければならないことがあまりにも単純で分かりやすいので、「とにかくやってみよう」と思えます。その点でも本書は、投資の初心者が読むべき本だなと思います。

この感想では、本書で描かれている投資法を具体的には説明しません。それは、先程書いたように、僕がまだ完全には理解していない、ということもあります。しかしそれ以上に、本書で説明されているよりも簡単に説明することは無理だろうなと思うからです。なので、具体的なやり方を知りたい人は是非本書を読んで下さい。

ここで奥山泰全氏についてちょっと書いておきましょうか。著者は現在、とある投資系の会社の代表取締役社長という立場です。本書の中で高山一実が投資を実際に行うサイトも、奥山氏に会社が作っているものです。個人投資家時代に、8年で資金を400倍にしたことで「伝説の相場師」と呼ばれ、日経平均に投資出来るシステムを最初に作ったのも奥山氏だそう。なかなか凄そうな人ですね。

そんな著者は、高山一実に聞かれて、「何故投資法を色んな人に教えるのか」という質問に答えます。

『僕が投資について教える理由、日本人がもっとお金について勉強するべきだと思う理由はそこにあります。「お金よりも大事なものがある」「お金がすべてではない」と言えるために、もっとお金について学ぶべきだと思うのです。』

僕も、お金の勉強はしたいな、と思いながらなかなかできません。なかなかきっかけがないんですよね。投資のやり方を教わっていないから、投資=ギャンブルにしか思えないし、自分のお金を動かさないで紙の上だけで勉強しても、なかなかお金のことって分からない。けど、本書に書かれているやり方なら、とりあえず始めることが出来る。もちろんやっていく中で、本書に書かれていない問題やトラブルなんかが出てくるでしょう。でも、そこでまた勉強すればいい。とりあえず、一旦始めてみる、という意味で本書はそのハードルをかなり下げてくれる本だなと思います。

Amazonのレビューをちら見してみたら、「税金などの投資に掛かるその他コストに触れられていない」みたいな話があって、確かにそうだな、と。僕はファイナンシャルプランニング技能士の勉強をした時にその辺の話を一通り勉強したんだけど(あんまり覚えていないけど)、確かに投資したら何らかの形で税金が掛かるはずです。そういう点だけ取ってみても、本書は完璧な本ではないでしょう。でも、繰り返しますが、とりあえず始めてみるというスタートのハードルを下げるという意味では凄く良い本だなと思うわけです。

投資はやってみたいし、勉強もしてみたいんだけど、何から始めたらいいか分からない、という人は読んでみてください。ある程度まとまった軍資金が用意できることが前提になっているので、その前提をクリア出来ない人にはなかなか厳しい本ですが(僕もそこは頑張らないと)、そこさえクリア出来れば根気さえあれば誰でも出来る方法です。本書に書かれていない問題に直面したら、その都度勉強していきましょう。そういう感じで、とにかく投資を実際にスタートさせてみる、という意味で非常にオススメできる本です!僕も真剣に、本書に書かれていることをベースに投資をしてみたいなと思います。

高山一実+奥山泰全「お金がずっと増え続ける投資のメソッド―アイドルの私でも。」

賢く生きるより辛抱強いバカになれ(稲盛和夫+山中伸弥)



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本書の中で、一番印象的で共感できて、そして多くの場面で役に立つのではないかという発言がある。

山中伸弥「私自身には独創性はあまりないんですね。何か独創的な実験をしてくださいと言われても、たぶん世界中で10人は考えているようなことしか出てこない。ただ、結果的に独創的だと言われる実験ができたのは、独創的でない実験をして、予想していなかった独創的な結果が出てきたときに、そこでやめてしまわずに、独創的な結果のほうの研究をやりだしてしまう。そうやって研究テーマがころころ変わってしまったのですが」

本書は、「京セラ」「第二電電(現KDDI)」などを創業し、「JAL」の再建にも携わった経営者・稲盛和夫氏と、iPS細胞の発見によりノーベル賞を受賞し、生物学研究の世界的トップランナーとして活躍する研究者・山中伸弥氏の対談だ。

二人の縁は、稲盛氏が創設した「京都賞」を山中氏が受賞したことにある。実際にはその6年前、山中氏が稲盛財団から研究助成金を受けた時に関わりが出来たのだが、実質的には京都賞からだ。京都賞は、「人のため、世のために役立つことをなすことが、人間として最高の行為である」という考えの元、優れた研究者や芸術家を顕彰する賞であり、現在ではノーベル賞の登竜門となる国際賞のひとつとして認知されている。山中氏を初め、京都賞を受賞した後にノーベル賞を受賞した研究者は6名もいるという。

そんな二人が、様々なテーマについて語り合う。本書のタイトル「賢く生きるより辛抱強いバカになれ」は非常に秀逸だと僕は感じる。決してそういう内容の話ばかりしているわけではないのだが、この対談全体を通じて感じることは、まさにこのタイトル通りのことだ。冒頭の引用も、その一つだ。

「独創的ではない実験で独創的な結果を得て研究テーマが変わる」というのは、山中氏がiPS細胞を発見した経緯にある。

山中「私の場合はiPS細胞を発見するまで紆余曲折がありました。というのも、血中コレステロールの研究をしていたら癌派生に関係する遺伝子を見つけてしまい、この癌に関係する遺伝子を研究していたときに発見した新しい遺伝子がじつは万能細胞であるES細胞の重要な遺伝子だったことがわかりました。このような予想外な結果に興味を持ってしまって、そのまま追いかけていったら、最終的にiPS細胞にたどり着いたという流れなんです」

ごく普通の研究者であれば、自分が行った実験が自分の研究テーマに沿わない結果を生んだ時、止めてしまうことも多いそうだ。あくまでも、テーマに固執し、そのテーマに関係する実験を新しく考えてやる。しかし山中氏は、テーマの方を捨てることにした。山中氏は自身のことを「独創性がない」と表現し、それはある側面では正しいのかもしれないが、「独創的な結果を追うためにテーマを捨てる」という選択は、研究者にとってはなかなか独創的な選択だったのだろうと思う。

iPS細胞の発見には、山中氏が共に研究をしていた高橋和利氏が大きな貢献をした。彼の面白いアイデアによって、iPS細胞に必要な4つの遺伝子を絞り込むことが出来たのだけど、山中氏の研究室にやってきた高橋氏は正直、学校の成績が高くない、決して優秀とは言えない生徒だったという。しかも彼は、工学部出身。分子生物学の知識はほとんどない、という状態だった。けど、結果的にはそれが良かった。先入観なく実験結果を見ることが出来たから。

著者は当初この実験を、別のメンバーにやってもらっていたらしい。そのメンバーと高橋氏を比較したこんな発言も、まさに本書のタイトルを象徴するようなエピソードだろうと思う。

『実際、このプロジェクトを奈良先端大のラボで始めたとき、もっと経験のある他のメンバーにやってもらったんです。でも彼はものすごく頭が良かったのですが、手が動かないんです。このプロジェクトはうまいこといくわけないからと、気がつくと違うことをやっている。それで京大に移ることになったときに話し合って、彼は留学することになったので、代わりに高橋君にやってくれるかと。そのとき、私が高橋君にこっそり言ったのは、このプロジェクトはたぶんうまいこといかないと思う。でも人に言うなよと。これで結果が出なかったから、僕はもう研究者ではいられなくなると思うし、君も当然いられなくなる。しかし大丈夫だと。僕には一応医師免許があるから、どこかで小さなクリニックでもやって高橋君を受付として雇うから心配はいらないと。』

この発言に対し高橋氏は、『ほんとうに僕がやってもいいんですか』と喜んだという。頭の良し悪しでは判断できない部分に能力や適正がある、という話だ。

これは、稲盛氏も同じようなことを言っている。自身が創業した京セラも、幹部は『辛抱強いバカばっかりが残ったな』と稲盛氏が評するような、一流大学卒ではない者ばかり。能力だけある人間はさっさと転職していったという。また、JALの再建に際しても、一流大学卒の優秀な幹部たちの意識を変えることが大変だったと語る。『80前のじいさんが何を言ってるんだ』と顔に書いてある面々に対して懇々と自身の哲学を説き続け、改革をしていったという。

稲盛氏は、『人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力』と捉えていると語る。並び順は、重要度であり、つまり「能力」は最も重要度が低い。「熱意」と「能力」は「0点~100点」、そして「考え方」は「-100点~100点」で判断する。そして、仮に「能力」が低くても、「考え方」と「熱意」があれば、「能力」だけ高い人間よりも優れた成果を残すことが出来るのだ、という方程式だ。僕の感覚としてもこれは分かる。地頭の良さが得意な範囲というのは、確かにあるのだけどそう広いわけではない。「能力」以外に何が必要なのかというのは色んな意見があっていいと思うけど、「能力」だけでは決して成果を生み出すことは出来ないだろうな、という感じはする。

稲盛氏の言葉も、非常に力強いし響くものがあるんだけど、冷静に考えると「自分には無理だよなぁ」と思えてしまう。ちょっとハードルが高い。例えば稲盛氏は、『やると決めたら悩まない』と発言する。そしてそこには明確な理由がある。

稲盛『私心は不純物ですから、いくら大義はあっても、そこに私心があればうまくいかない。私心がなく動機が善であれば結果は気にしなくても自ずとついてくる。私はそう信じています』

著者は、大義があればどんな困難にも立ち向かえる、と語る。第二電電(KDDI)の創立も、JALの再建も、周囲が「絶対に無理だ」というほどの高いハードルだった。しかし著者は、そこに大義を見出し、さらに、自分の中に私心がないことを繰り返し確認する。決断する前にそういう過程を経ているからこそ、一度決断して進み始めたら悩まないのだ、という。

凄いなぁ、と思うのだけど、これは真似出来ないなぁ、と思ってしまう。本書の中で稲盛氏は、京セラや第二電電という会社が生まれた過程や、JALの再建のために何をしたのか、という具体的な話をし、さらにそれに邁進出来る自身の哲学みたいなものも語るのだけど、そのどれもがハードルの高さを感じさせてしまうものだった。そういう意味で言えば、山中氏の言葉の方がより親しみを感じることが出来ると思う。

本書では山中氏が、研究の楽しさと厳しさを語る。臨床医から研究者になった山中氏は、マニュアル通りにやらなければならなかった臨床医とは違い、何をやっても良い自由度がある研究者という仕事に楽しみを見出した。しかし、「苦しんでいる人を救いたい」という気持ちから臨床医になった著者としては、研究者として日々自分が少しずつ積み重ねている成果が果たして患者さんを救うことになるのか、と思い悩んだ日々もあったという。そういう経験を踏まえ、山中氏は今、『研究者や職員たちがモチベーションを維持しやすくすること、それが今自分がするべき仕事だと考えています』と語る。かつては自身もトップランナーとして研究していたが、現在は一歩引いた立場で、チームの監督として全体を見回し、自分が走るのではなく他人を走らせる役割を担おうと考えている。

また、日本の研究者の地位の低さや、有期労働契約に縛られ安定的な雇用が望めないなど、環境面での厳しさも語る。日本の研究者のレベルは間違いなく世界トップクラスだが、研究職に魅力を感じて身を投じてくれる若い人がいなくなれば先細りになる。そういう危機感を山中氏だけではなく、多くの研究者が感じているという。

本書は、経営者と研究者という立場の違いはありながらも、どちらも世界のトップランナーとして走り続け偉業を成し遂げてきた者が様々なテーマで語り尽くす。本書から何を感じ取るかは読む人次第だろうが、経営者でも研究者でもない人にも意味のある対談だろうと思う。本書は、究極的には「人としてどう生きるか」を問う内容になっていると思うからだ。

稲盛和夫+山中伸弥「賢く生きるより辛抱強いバカになれ」

銀河鉄道の父(門井慶喜)



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内容に入ろうと思います。
本書は、宮沢賢治の生涯を、宮沢賢治の父である宮沢政次郎視点から描く物語です。
宮沢家は、祖父・喜助が興した質屋で堅実な商売を続ける地元の名士であった。弱き農民から金をまきあげているかの如く言われることもあるが、宮沢家は家業に誇りを持っている。今は政次郎の代となり、幼い頃から優秀ではあったが、「質屋に学問は必要ない」と言われ、妻・イチと共に家業を堅実に盛り立ててきた。
彼らの間に生まれたのが、長男の賢治だ。時は明治。父親は家族の中で威厳ある存在でなければならぬ、とされていた時代であり、政次郎は賢治をあやしたい気持ちを、『家長たるもの、家族の前で生をさらすわけにはまいらぬ。つねに威厳をたもち、笑顔を見せず、きらわれ者たるを引き受けなければならぬのだ』とこらえて律する。
政次郎の心づもりでは当然、長男である賢治に家業である質屋を継がせるつもりでいた。血筋なのか、賢治も秀才ぶりを発揮していたが、かつて喜助から言われていたように、賢治も小学校を卒業したら家業をやらせるつもりでいた。
しかし、政次郎は自覚している。自分は、賢治のことを父親として愛しすぎている、と。政次郎自身がどうさせたいかではなく、賢治自身がどうしたいかを汲み取ってしまうのだ、と。

『理解ある父になりたいのか、息子の壁でありたいのか。』

政次郎はあらゆる場面で思い悩む。自分は一体父親として、どう振る舞うべきだろうか、と。賢治のことを想うが故に、どうしたらいいか分からなくなっていく父親の葛藤から、宮沢賢治を描き出していく。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
先に書いておくと、僕は宮沢賢治の作品を一作も読んだことがないと思います。教科書には何か載っていたのかもしれないけど、国語の授業は嫌いで、基本的に教科書は読みたくなかったので、読んだ記憶がありません。「雨ニモ負ケズ」みたいな有名なフレーズを多少知っているぐらいで、宮沢賢治のことはほとんど知りません。

だから、本書で描かれている宮沢賢治像がどこまで事実に沿っているのか、そういうことも僕には判断できません。そういう僕の知識量から見た場合、本書で描かれる「宮沢賢治」はちょっと意外でした。なんとなくイメージでは、貧しい者のために生きた高潔な人、っていう感じでしたけど、本書を読む限りでは決してそういうだけの人間ではなかったみたいです。っていうか、結構ダメ人間じゃん、と思いました。今でいう、パラサイトシングルみたいな感じの人みたいですね(笑)。

宮沢賢治像ということで言うと、本書には、創作をする者としての宮沢賢治はほとんど描かれません。童話や詩を書くような描写は、ラスト近くになってからで、それまでは創作とは縁遠い生活をしていたようです。本書は、宮沢賢治を父親視点で描く物語ということで、ある程度宮沢賢治のことを知っていないといけないような気になるでしょうが、「創作者・宮沢賢治」ではなく「生活者・宮沢賢治」を描く物語なので、基本的に宮沢賢治の著作を読んでいなくても全然問題ないな、という感じがします。

本書の主眼は、タイトルにある通り「父」です。死後に高く評価された天才的な国民作家を、「父」としてどう育てどう接していったのか。物語の核はまさにその点にあります。

政次郎の、非常に面白く、また本書全体を貫くだろう実感が書かれている箇所があるので引用してみます。

『ため息をついた。われながら、愛情をがまんできない。父親になることがこんなに弱い人間になることとは、若いころには夢にも思わなかった』

この点こそが、父・政次郎の葛藤の根幹なわけです。

政次郎は、「どうあるべきか」と「どうありたいか」の狭間で葛藤する。現代では、過程での「父」の役割は以前と比べて大分低迷しただろうが、この時代は家父長制度(があったのか、その名残が残っていたのか知らないけど)によって、一家の長である「父」の力がとても強かった。強いが故に制約もあり、「どうあるべきか」という要請に抗うことはなかなか難しい。しかし一方で、初めての子である賢治のことを、慣用句を使えば「目に入れても痛くない」ほどに感じている。息子に対して「どうありたいか」という気持ちが、あらゆる場面で浮かび上がってくる。

この「どうあるべきか」と「どうありたいか」の葛藤というのは、なかなか現代の小説では描きにくいものではないだろうか。現代では未だに、「母親はどうあるべきか」という根強い思い込みみたいなものが残っている印象はあるが、「父親はどうあるべきか」についてのコンセンサスみたいなものはほとんどないと言っていいだろう。「どうあるべきか」と「どうありたいか」の葛藤を現代小説で描くとすれば、母親目線にするしかない。本書は、父親目線でそれを描き出した、という点が非常に斬新で面白い、と僕は感じる。

政次郎の振る舞いは、彼の内面を知った上で見ると非常に滑稽だ。「こうあるべき」という父親像に引き摺られて、思うようには行動できない。現代の目からすれば、別にいいじゃん、と思ってしまうようなことも、当時は家長である父がすべきではない、と思われていたのだ。そういう中で政次郎が場面場面においてどういう選択をしてきたのか。そういう読み方をすると面白く読めるだろう。

『この子はこの家に生まれて幸せだとつくづく思った。自分ほど理解がある父親がどこにあるか。子供の意を汲み、正しい選択をし、その選択のために金も環境もおしみなく与えてやれる父親がどこにあるか。』

賢治と接する中で、政次郎自身が変化していく。それはもちろん、時代の流れや要請による部分もあるのだろうが、賢治という、その時代の規格に収まりきらない息子と接することによる影響というのももちろん多分にあるだろう。かなり破天荒だったと言わざるを得ない「生活者・宮沢賢治」と生涯関わり続けた政次郎が、父子の関わりの中で何に気づき何を得ていったのか。確かに本書は宮沢賢治の話ではあるが、より普遍的な父子の物語として捉えられるべきだろう。

『お前は、父でありすぎる』

喜助からそう言われた政次郎の「父」としての有り様を読んでみてください。

門井慶喜「銀河鉄道の父」

持たない幸福論(pha)



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本書の中で、僕にとって最も重要な部分をまずは抜き出してみよう。

『大切なのは、周りに流されずに「自分にとって本当に必要なのは何か」「自分は何によって一番幸せになるか」という自分なりの価値基準をはっきり持つことだ』

人生にとって最も大事なことはこれぐらいだろう、と僕も思う。

昔は僕も、生きているのがしんどいなと思っていた。今でもまったく思わないではないんだけど、ほとんどそう感じることはなくなった。自分の考え方を、長い時間を掛けて変化させてきたからだ。
そう、「幸せ」というのは案外、考え方の変化によって単純に手に入る。

著者は、

『今の日本は物質的にも豊かで文化も充実していて治安もいいのに、こんなに生きるのがつらそうな人が多いのはちょっと変じゃないだろうか』

と問題提起する。僕もそう思う。実におかしい。とはいえ、僕も昔はそういう人の中にいたので、気持ちは分かる。そう、生きるのは辛い。何よりも辛かったのは、自分が何故生きづらさを感じているのかがよく分からなかったからだ。

生きづらさを感じる理由を、著者はこう書く。

『要は、多くの人が普通にこなせないものを「普通の理想像」としてしまっているから、みんなその理想とギャップで苦しむのだ』

これも、まさにその通り。僕は徐々にそのことに気づくことが出来た。自分を苦しめているものの正体を見極めることが出来た。だからそこから逃げ出して、自分なりの生き方をゼロから組み立てることが出来るようになったのだ。

多くの人が「普通の理想像」として抱いている、普通にはこなせないものを挙げてみよう。

「正社員になる」「結婚する」「子どもを育てる」「子どもに良い教育をさせる」「老後の蓄えをする」「家を買う」「病気にならない」…などなど。

こういうものを皆、「自分の人生で出来て当たり前だ」と感じている。しかし、こうやって挙げたものすべてを実現できる人って、人口の何%ぐらいいるだろう?分からないけど、間違いなく半分以下だろうし、もしかしたら1/4以下かもしれない。

僕たちは、そういう「多くの人が実現できない未来」を「当たり前にやってくるはずの理想」と捉えている。何故なら、一昔前はそれが当たり前だったからだ。しかし、時代は凄まじい勢いで変化する。僕らは、親世代とはまったく違う社会を生きている。そういう中で、過去の価値観にしがみついて自分の人生を設計することは危険すぎるのだ。

まず僕たちは、そういう認識を持たなくちゃいけない。僕も、時間は掛かったけど、どうにか自力でそういう考えにたどり着く事ができた。

そして、その地点に立つことさえ出来れば、現代というは過去どんな時代よりも自由に満ちあふれていると感じる。

『今は、そうした「人を包括的に支える大きなメインシステム」は崩れて、何を頼ればいいかはっきり分からない時代になった。それは不安定でどう生きていったらいいかが分かりにくいということでもあるけれど、いろいろと試行錯誤しながらたくさんある選択肢の中から選ぶことができるようになったということでもある。不安定だけどそこには自由さがある。だから基本的に僕は今が今までで一番良い時代だと思っている』

凄くよく分かる。理解してもらうために、もう少し整理しよう。

一昔前は、先程挙げたような「普通の理想像」が、特に苦労しなくても実現できる時代だった。しかし同時に、その「普通の理想像」から外れた生き方はなかなか許容されにくい世の中でもあった。結婚しないと一人前ではないと思われていたはずだし、家も買うべきものだと捉えられていただろう。一昔前というのは、そういう「人を包括的に支えるメインシステム」に沿っていれば安定した人生を送ることは可能だったが、しかしそれ以外の生き方をする場合の抵抗力がもの凄く高い時代でもあった。

一方で現代は、「普通の理想像」は簡単には実現できない。一部の人にとっての特権的なものになっている。そういう意味ではとても厳しい時代だ。しかし一方で、「普通の理想像」が崩壊しているという感覚が徐々に共有されていくことで、「普通の理想像」ではない生き方をする流れが出てきた。頑張っても理想に辿り着けないなら、そんなの目指さないで好きにやるわ、というような人が少しずつ出てきたのだ。そうすることで、「普通の理想像」から外れた生き方をする抵抗力が低くなった。つまり、自分にとって快適で落ち着ける生き方を自分でデザイン出来る時代、ということなのだ。

そういう意味で現代は、非常に自由な時代だな、と僕は感じるのだ。

一昔前の当たり前だった「普通の理想像」が、今は手の届かない高い理想になっている、だからそこを無理して目指さない方が充実した人生を送れる可能性が高い、ということに気づくことが出来さえすれば、そこがスタート地点になる。そしてそこから、自分にとってどの方向が快適であるのかということを自問自答しながら、自分で道を作っていくようにして進んでいけば、自分にとって生きやすい人生を選びとることが出来る。

これが、冒頭で引用した、

『大切なのは、周りに流されずに「自分にとって本当に必要なのは何か」「自分は何によって一番幸せになるか」という自分なりの価値基準をはっきり持つことだ』

ということの意味だ。

『ただ、「こんな生き方やこんな考え方もありなんだ」という選択肢の多さを紹介することで、この社会に漂っている「人間はこう生きるべきだ」という規範意識のプレッシャーを少し弱らせて、みんなが自分自身の生き方にも他人の生き方にも少しだけ寛容になって、生きることの窮屈さが少しマシになればいいなと思いこの本を書いた。』

著者がまえがきで書いているように、本書は「こんな風に生きたらいいよ」という、読者が進むべき方向性を示してくれる作品ではない。そうではなく、「そんな風に生きない方がいいよ」ということを示すことによって、今まで読者の視界に入っていなかった様々な価値観や考え方に目を向けさせるための本なのだ。

だから、本書を読んでも、読んだ人間がどう生きるべきかは分からない。当たり前だ。「自分なりの価値基準」を持たなければならないのだし、そのためには自分で考える時間が絶対に必要だ。本書は、そうやって自分なりの生き方を考える動機や、どんな風に考えたらいいのかという指針を与えてくれる。

著者は、こうも書いている。

『僕が何故本やブログを書いているかというと「知識は人を自由にする」と思っているからだ』

『本というのは「自分がぼんやりと気づきかけていることをはっきりと言葉にして教えてくれるもの」だ。本を読んで知識を得ることで、頭の中が整理されたり、考え方の選択肢を増やすことができたり、自分の周りの世界で当たり前とされていることを相対化して観ることができるようになったりする。本を読むことで僕は生きるのが楽になった』

僕も、似たようなことを考えている。僕は、「知識」もだが、「考える力」も人を自由にすると思っている。「知識」と「考える力」というのは関係があって、僕の中では、「考える力」の土台や材料となっているものが「知識」だ。「知識」だけでは考えられないが、「知識」がなければ考えられない。本を読み、考えるということを繰り返してきたこれまでの膨大な時間が、僕を色んなしがらみから解放してくれたなと本当に実感する。

本書では様々な考え方が描かれる。「働かない」「家族を作らない」「お金に縛られない」の三つをベースとしながら、著者なりの考え方が書かれていく。本書を読む上で重要なのは、そういう著者自身の考え方そのものに共感できなくても構わない、ということだ。本書は、「読者が囚われている理想を目指す必要がない」ということを説く内容だ。決して、著者自身の考えに読者を誘導しようという本ではない。仮に著者の考え方に共感できなくても、本書を読めば、自分が今理想だと考えている生き方以外にも道はあるのだ、ということを体感できるだろう。そのことが、何よりも大事なのだ。

比較的自由に生きている僕の目から見ても、著者は自由すぎる(笑)。それで生きていられるのだから凄いと感じるけど、著者と同じことは出来ないしやりたくないなと思う。しかし、それで全然いい。むしろ、「著者がこう書いているんだから、自分もまったく同じことを実践しよう」と考える方が怖い。それは結局、「社会が要請する理想」ではなく「著者が提示する理想」を盲信すると決めたというだけの話であって、「自分なりの価値基準」はそこに存在しない。いかに「自分なりの価値基準」を持つか。本書を読んで、そのことの大事さを実感してほしいと思う。

pha「持たない幸福論」

幻の黒船カレーを追え(水野仁輔)



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タイトルから想像出来るように、本書は「カレー」についてのノンフィクションだ。基本的に本書に書かれていることは、「カレー」のことだけである。しかし本書を読んで僕はまず、「カレー」ではない事柄に触れたい。

それは「情熱」についてだ。

僕は正直、「情熱」のない人間だ。身体の内側から湧き上がってくるような、抑えようもないような、そういう「情熱」を感じたことがない。

たぶん僕の内側にも、アクセルはあるはずだと思う。でも僕は、アクセルを踏むと同時にブレーキも踏んでいる。ブレーキを踏まずにアクセルだけ踏む自分、というのが想像できない。常に未来に対して悪いことを想像し、あらゆることについてうまく行かない可能性を考えてしまう。そんな人間が、アクセルだけを全開に踏めるはずがない。結果、ブレーキで押さえられた後の熱量しか意識されないので、自分には「情熱」がない、と感じられるのだろう。

著者は、カレーのルーツを探るために会社を辞めた。妻も子どももいるのに、である。それを許容する妻も凄いと思うが、やはり会社を辞めてまで調べたい、知りたいことがあるという「情熱」を身体の内側に抱え持っている著者にこそ、僕は凄みを感じてしまう。

本書を読むと、作品の隅々から、著者の「情熱」を感じることが出来る。もちろん著者にも、「カレー」以外のことをしている時間だってあるはずだ。家族もいて、働いてもいて(調査の期間中、ずっと無職だったわけではない)、その隙間を縫って「カレー」について調べているのだ。本書での記述は、そうして縫い上げた時間を凝縮しているに過ぎない。本書の記述を丸々受け取って、「この人は四六時中ずっとカレーのことしか考えていないんだ」と捉えるのは間違っている。しかし、自分が自由に使えると判断した時間すべては「カレー」に費やしている、と言っても言い過ぎではないだろう。それぐらい、「カレー」のことしか頭にないようだ。

著者にしても、子どもの頃から「カレー」バカだったわけではない。著者がカレーにハマったきっかけは、社会人になって間もない頃に始めた、週末に公園でカレーを作って食べる集いだ。それはどんどん規模が大きくなり、やがて「東京カリ~番長」というグループを作り、カレーを作るために各地に出張していたら、いつの間にかカレーにのめり込んでいた、というのだ。

子どもの頃からずっと、というならまだしも、大人になってから、しかも社会人として働きはじめてから、そこまで猛烈にのめり込めるものに出会える、ということが僕にはとてもうらやましく感じられる。

しかも、こう言ってはなんだが、著者の抱いた疑問は、世の中的にはどうでもいいものだ。これが「数学の歴史を変える定理を見つける」とか、「時効になってからも殺人事件を追い続ける」みたいな話であれば、世の中的に価値を見いだせる可能性がある。しかし、「カレーのルーツを探る」というのは、あまりにも世の中的に意味がない。だからこそ、それを追い求めることの純粋さが強調されもするし、そんなまったく社会に貢献しないことに時間とお金と労力を掛けられる「情熱」の強さ、みたいなものが際立つということもある。

そういう人の生き方を見ていると、今の自分には絶対に無理だし、積極的にそうなりたいわけでもないけど、でもやっぱり憧れる部分はあるなぁ、と思ってしまう。

内容に入ろうと思います。
本書は、先程も書いたように「カレーのルーツを探る」ことに取り憑かれた著者が、会社を辞めてまで真実を追い続けるノンフィクションです。
まず、日本のカレーの来歴をざっとおさらいしておきましょう。
日本のカレーは、インドからイギリスを経由してやってきた(これは、カレー関係者には常識だが、一般にはさほど知られていない)。イギリスから日本にカレーがやってきたのは1870年代前半。そして、インドからイギリスにカレーがやってきたのは1770年代前半だ。
さて、僕らは今でもインドに行けば、インドカレーを食べることが出来る。つまり、インドからイギリスに伝わったカレーは、現存するのだ。では、イギリスから日本に伝わったカレーはどうだろう?ここが著者の疑問だ。著者は、約150年前にイギリスから日本にやってきたカレーを「黒船カレー」と命名し、その黒船カレーを必死に追い求めるのだ。黒船カレーがどんな味だったのか、それをどうしても知りたい。
日本のカレーは、インドのカレーとは別物なのだ。例えば、以下のような調理過程は、日本のカレーでしか重視されていないという。

◯ 長時間煮込んでブイヨンをひく
◯ スパイスを30~40種類混ぜわせる
◯ 隠し味をいれる
◯ 一晩寝かせる
◯ 玉ねぎをあめ色になるまで炒める

黒船カレーがどんなカレーだったかを知ることが出来れば、これらの調理法がどこで生まれたのかが分かる。つまり、黒船カレーの時点でそういう調理法がなされていたのか、あるいは日本にカレーがやってきてからこれらの調理法が発明されたのか。
著者は、仕事の合間を縫って、まずは国内で調査を開始する。文明開化の折、黒船が日本にやってきた場所はただ一つ、当然「港」である。そこで著者は、商用に開港した「函館・新潟・横浜・神戸・長崎」と、海軍用に開港した「室蘭・横須賀・舞鶴・呉・佐世保」の10個の港であらゆることを調べ回った。
日本で出来る限りのことをやり尽くした後は、もうイギリスに行く以外の選択肢はなくなった。しかし著者は勤め人、まとまった休みなど取れるはずもない。そんなことをぼやいていた著者に、妻から衝撃の一言が。
『そんなに探したいものがあるなら、いますぐ会社を辞めて、3ヶ月ぐらい言ってきたらいいじゃない』
妻の男気溢れる一言に背中を押された著者は、本当に会社を辞め、3ヶ月ロンドンに滞在し、まさに日本のカレーの中継地であるイギリスでの調査を開始するのだが…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。正直に言えば、調査の間中、めぼしい発見はほぼありません。著者は繰り返し、『見つからないことを見つけに行く旅』というような表現を使うのだけど、著者は明らかに何もないだろうと思うところにまで、「ないことを確認するため」に行く。あらゆる場所に調査に向かうが、本当にほぼ空振りである。調査取材、という意味で言えば、本書で描かれているほぼすべての描写が「失敗」だと言えるだろう。

しかしそれでも、作品全体としては面白い。それは、著者の物事の捉え方がちょっと面白いからだと思う。そしてそれを、上手く文章に変換できている。調査取材という意味ではほぼ何も起こらないのに、それでも著者が自身の旅を語る内容はなかなか面白い。こんな奇妙な読後感をもたらすノンフィクションは、高野秀行以来かもしれない。高野秀行のノンフィクションの中にも、高野秀行自身にはほぼ何も起こらないまま調査取材が終わる、というものがあった(ウモッカという幻の魚を探しに行く話だったと思う)。

そしてやはり冒頭でも書いたように、著者の「情熱」の凄まじさに圧倒される部分もある。正直に言ってしまえば、よくもまあこれほど「どうでもいいこと」にのめり込めるものだ、と感じる。しかし、彼の「情熱」は、実に多くの人を動かす。確かに、『僕が真面目に日本のカレーのルーツに対して語れば語るほど、周囲の反応は冷ややかになっていく』という反応もあるのだが、しかしやはり著者の「情熱」に感化される者もいる。著者の妻だって、いつも間近で夫の「情熱」を見ていなければ、会社辞めばなんて提案をするはずがないだろう。その「情熱」の強さが、作中のあちこちら鬱陶しいぐらいほとばしっているので、そこもやはり読みどころだと感じる。

本書を「ノンフィクション」と捉えてしまうと、もしかしたら肩透かしを食らうかもしれない。というのも、これは書いてしまうが、本書は「日本のカレーのルーツの調査はまだまだ続く」という、「to be continued」的な終わり方をするのだ。「ノンフィクション」としては、ちょっとあり得ないかもしれない。本書は「エッセイ」として読んだ方がいいだろうし、一時期流行った「エンタメノンフ」という括りでもいいかもしれない。とにかく、凄まじい情熱をまるで無駄な方向に費やし続ける男の物語である。しかし、こういう人がいるからこそ、人類の叡智ってのは蓄積されるし広がっていくんだよなぁ、とも思わされるのである。

水野仁輔「幻の黒船カレーを追え」

木洩れ日に泳ぐ魚(恩田陸)



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物語全体に大きく関わると言えば関わるし、関わらないと言えば関わらない部分なのだが、本書の主人公の一人である「ヒロ」の自己認識に、共感できてしまう部分がある。

『だが、更に嫌らしいことに、僕は今感じている自己嫌悪が単なるアリバイ作りに過ぎないこともちゃんと分かっているのだった。僕の計算高い部分が、ここで自己嫌悪を感じておくべきだと判断しているので、僕は自己嫌悪を感じているふりをしているだけなのだ。そうすることで、世間や他人に対する免罪符を手に入れたと安堵しているに過ぎない。
本当の僕は、罪悪感も自己嫌悪も感じていない。
何も感じていない―そう、何も。たぶん。』

この文章は、僕には凄く強烈だった。メチャクチャ理解できると思った。そう、そのとおり。僕はその時々の計算で、自分をどう見せるべきかを調整している自覚がある。悪いと思っていないことでも、ずっとそう感じていたかのように見せることが出来てしまう。たぶん。うまく繕えていると、自分では思っているに過ぎないのだけど。

他にもある。

『酷薄なら酷薄になりきれればそれなりに筋が通るものを、どこかに弱さがある。自分一人の胸にしまっておけなくて、ぎりぎりまではなんとか持ちこたえられるものの、最後の詰めが甘い。あと少しのところで他人に決断を丸投げしてしまい、結局は人のせいにする。僕はそういう奴だ。』

これも、僕自身のことを言っているのかと思った。その通り。酷い人間である自覚があるなら、それを貫き通すべきなのだけど、それをどうにもやりきれない。それで行き詰まると、あらゆる理屈を駆使してなんとか相手のせいにしてやろう、と思うのだ。まあ、こういう部分は、ある年齢ぐらいからちゃんと自覚出来るようになって、最近では自分なりにある程度抑制できていると思ってはいるのだけど、さてどうだろう。

『自分は将来、実沙子を傷つけるだろう。実沙子が知らなかった僕の醜い部分でさんざん彼女を傷つけ、やがては彼女を泣かせ、萎縮させて彼女の人生を台無しにするのだ。
そんな暗い直感が、それこそ『こころ』の一節のように全身を貫いた。
しかも、まずいことに、その直感が正しいであろうことを、僕はこの瞬間痛いくらいに確信していたのだ』

これも、僕の感覚の中にある。僕は、他人との距離が近くなればなるほど、普段自分が抑えている(と思っている)醜い部分が表に出てくるようになる。そうなってからの僕は、相手をただ傷つけるマシーンのような存在になってしまう(まあ、ちょっと誇張したけど)。それを自覚しているから、なるべく他人との距離を縮めようとしないように意識している。

主人公の一人がこういう性格だったから、こういう物語が成立した、という捉え方は出来る。そういう意味で、今引用したような文章、そしてそこから類推される「ヒロ」の人格などは物語全体に関わってくる。しかし、この部分が、ストーリー展開に直接関係あるわけではない。だから本書を読む人にとっては瑣末な部分であると思うのだが、僕は「ヒロ」の人格の部分にちょっと引っかかってしまった。うん、凄く理解できる。僕の中には間違いなく「ヒロ」がいるなぁ。

内容に入ろうと思います。
とはいえ、本書についてはあまり多くを書くことは出来ない。
引越し業者がやってくるのを翌日に控えたとある晩、一組の男女がガランとした部屋の中にいる。彼らにとっては、最後の夜だ。今日を境に、別々の道を生きていく。部屋にあるものや、日常生活の中での細々としたことは、少しずつ整理してきた。そうやって今日を迎えた。しかし、一つだけ二人の間で解消されていないことがある。
あの男の死に関わっているのだろうか?
お互いがお互いに対して、そういう疑惑を抱きながら、彼らは最後の夜を過ごしている。明日、別れる前までに、ずっと拭いきれなかったこの疑問を相手にぶつけることが出来るだろうか?
というような話です。

最小限の内容紹介に留めた理由は、本書を読めば理解してもらえると思います。どんな本もすべからくそうだと言えますが、本書の場合は特に、物語についてほとんど何も知らないまま読み始める方がいいでしょう。彼らの会話や回想を通じて少しずつ、彼らの関係性や過去が明らかになっていく。その過程そのものを楽しんでいく作品だと僕は感じます。

今、「過程そのものを楽しんでいく作品」と書きましたが、まさにそうで、過度などんでん返しみたいなものを期待しないで読むのがいいんじゃないかなと思います。どこに物語が着地するのか、という部分も確かに本書の読みどころではあるのだけど、どのようにその着地点まで向かうのかという過程に注目する方がより楽しめるのではないか、という感じがしました。

個人的な意見ですが、恩田陸は「風呂敷を畳まない系の作品」が多いと感じます。恩田陸の作品は、「夜のピクニック」と「チョコレートコスモス」と「蜜蜂と遠雷」がもの凄く好きで、凄い作品を書く作家だと思ってかなり色々読んでみたんですけど、先に挙げた三作以外は比較的、物語が上手く着地していないというか、広げた風呂敷を畳みきれていないような印象を持っていました。

そういう意味で言うと本書は、ちゃんと風呂敷が畳まれているタイプの作品だと思うので、安心して読んでもらっていいと思います。

物語がどう展開し、彼らがどんな過去を抱えているのかという部分ももちろん面白いですが、それらに対して彼らがどう思考し、どう感じ、どう対処しようとしているのかという心理的な部分も面白いと思うので、そういう部分もチェックしてみてください。

恩田陸「木洩れ日に泳ぐ魚」

機龍警察(月村了衛)



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凄まじい作品だった。
これがデビュー作とは…。月村了衛、恐るべしである。


『世界中で戦争をしているんじゃない、世界中が戦場なのだ、と。
それがテロという名の憎悪が拡散した現在の戦争だ。いや、違う。戦争の現在形だ。』

「傭兵代理店」という単語を目にしたことがある。確か、小説のタイトルだ。詳しくは知らないが、要するに戦場に派遣する傭兵を調達する代理店なのだろう。

そう、戦争は今や、フリーの契約で動く「傭兵」によって成り立っている。その方面のノンフィクションをあまり読んだことがないので、聞きかじった情報でしかないが、恐らく間違いない。

かつて戦争は、何らかの意見や価値観の対立を持つ集団同士で起こっていたはずだ。その根底にあるのが宗教なのか、経済なのか、政治なのかは様々だろうが、戦争によって対立している集団は、その集団の中で同一の価値観を有している(あるいはそうみなされる)というのが大前提だったはずだ。

しかしいつの頃からか、その前提は大きく崩れてしまった。

現在の戦争も恐らく、戦争を始めるごく少数の者たちは、かつてと同じように何らかの意見や価値観の対立でまとまる集団なのだと思う。しかし戦争が始まってしまえば、後はビジネスとなる。どんな思想を持っているかによらず(完全に関係ないとは言えないだろうが)、強い兵士を金で引っ張ってきて戦わせる。今では、戦争によって対立している集団内で、戦争のきっかけとなった事柄に関する価値観が共有されているわけではない。彼らは、ただ契約に則って、ビジネスライクに戦争をするのだ。

『変わったのは法律だけじゃない、世の中です。世の中の犯罪と人の心です』

そんな世の中に生きていれば、人の在り方は大きく変わっていくだろう。幸いにも、日本はまだ具体的な「テロ」や「戦争」に巻き込まれてはいない。かつては国内で、全共闘運動に代表されるような思想の対立があり、「テロ」と呼ぶべき争いも多々あっただろうが、恐らく日本では、「地下鉄サリン事件」以降、「テロ」と呼ぶべき事態は起こっていないのではないかと思う。

しかし、もし「テロ」が日常茶飯事の世界に生きなければならないとしたら…。

僕達は、生活スタイルや人生に対する考え方を大幅に変える必要に迫られることだろう。

本書で描かれるのは、そうした世の中になる一歩手前の日本だ。「テロ」の危険性は常にあるし、実際「テロ」も起こる。しかし頻発しているわけではない。

その状況で、国を守る責務を負う警察は、どう立ち回るべきか。

本書では、僕らが近いうちに迎えるかもしれない、現在よりもさらに殺伐とした世界における「警察」の存在意義みたいなものを突きつけてくる作品だ。そういう意味で本書は、既存の警察小説とは一線を画する作品だ。

『警察内で孤立する特捜部の専従捜査員は、皆筆舌に尽くし難い苦労を強いられている。彼らは全国の警察から引き抜かれた刑事だが、元の同僚からしてみれば、裏切り者以外の何者でもない。それでなくても特捜部は警察内部の異分子と見なされている。偏狭な体質を持つ警察組織が、特捜部に滅多なことでは情報を渡そうとしないのも当然と言えた。
それだけではない。時には悪意に基づく情報を意図的に伝えてくることがある。明白な嫌がらせであり、捜査妨害である。特に公安部にその傾向が顕著であった。』

本書の設定では、警視庁に新たに「特捜部」という部署が出来たということになっている(ありそうな部署名だが、現在は存在しないという)。その「特捜部」は、既存の警察組織では不可能な組織運営と機動力を有しており、「今のままの警察組織ではマズイ」という考えを共有している。「特捜部」の存在や捜査手法を手放しで受け入れてもいいのか、そこは様々な議論があるだろうが、本書で描かれている社会まで世の中が進んでいってしまっているのならば、やむを得ないのではないか、という感じもする。

変革は、時代によらず、様々な場面で常に起こっている。問題は、変革の最中は、それが未来を良くするものであるのかどうか、誰にも判断できないということだ。だから多くの人は、それまでのやり方にしがみつこうとする。しかし、そういう在り方ではもう、国境など関係なく繋がってしまった世界の中で、スピード感のある変化には対応しきれない。時に「特捜部」のような、変革の最中には批判を浴びるようなやり方こそ、未来を切り拓いていく可能性を持つのだ。

本書は、「警察組織」という、世の中の組織の中でも最上級にお固い組織を舞台に、それを内側からぶち壊すかのような「特捜部」という設定を組み込むことで、変革と変革に付き物の抵抗を描き出す、そんな一面も持っている作品だ。

内容に入ろうと思います。
警察法、刑事訴訟法、警察官職務執行法の改正によって、警視庁内に特殊部局が設置されることになった。「特捜部」あるいは「SIPD(Special Investigators, Police Dragoon)」と呼ばれる、刑事部・公安部などいずれの部署にも属さない特殊セクションだ。「機龍警察」とも呼ばれている。日本警察の悪夢とも称される「狛江事件」により、警察内部の抵抗勢力は封じられ、通常ではありえないセクションが誕生することになった。
その特捜部を率いるのは、元外務省の官僚である沖津旬一郎だ。彼は全国の警察から優秀な、しかも特捜部の理念に共感する者を集めると同時に、警察外部の人間もリクルートしている。

姿俊之:その世界では非常に有名な、金で契約をして戦争に従事する傭兵
ユーリ・オズノフ:元モスクワ警察の刑事。かつて指名手配されていた経歴を持つ。
ライザ・ラードナー:最悪のテロ組織と名高いIRFに所属していた元テロリスト

警察組織が雇うにはあまりに拒絶反応が高そうな彼らの経歴は程よく隠されている。とはいえ、そもそも警察組織が外部の人間をリクルートする、ということそのものに拒絶反応を示す者も多い。警察内部では、特捜部は同じ警察組織の人間とは見なされず、探偵に毛嫌いされているのが現状だ。
ある朝、住民からの通報によりパトカーが向かった廃工場から、人体を模して設計された全高3.5メートル以上に及ぶ二足歩行型軍用有人兵器「機甲兵装」3機が現れた。後に「ホッブゴブリン(第二種機甲兵装「ゴブリン」の密造コピー)」であると判明した3機は街中を逃走。人々を混乱に陥れながら、地下鉄有楽町新線千田駅構内で、ちょうど到着した列車の車内にいた人間を人質にしながら立てこもった。警察は、SATの出動を決定。SATが所有する9機の機甲兵装で鎮圧する計画を立てた。特捜部は、SATの後方支援を命じられた。機能で言えば、機甲兵装よりも遥かに性能の高い「機龍兵」を所有する特捜部は、機龍兵搭乗要員である姿・ユーリ・ライザの三人に指示を出し、計画の進展を見守る。
しかし…事態は思いがけず最悪の展開を見せた。甚大な被害を被った警察は捜査を開始、特捜部も独自に情報を収集する。
千田駅で起こった最悪のテロ。その背後では巨大な組織がうごめいているが…。
というような話です。

凄い物語でした。月村了衛の作品は2作ほど既に読んでいて、そのレベルの高さを知っていたんですけど、デビュー作である本書からこれほどのクオリティだったのかと、改めて驚かされました。

著者がどういう経緯でデビューしたのかは知らないが(少なくとも経歴を読む限り、新人賞を受賞してのデビューではないようだ)、本書は最初からシリーズ化することが想定されて書かれている。かと言って、単体の作品として劣るかというとそんなことはない。本書は、シリーズ作品の1作目としても、単体の作品としてもレベルの高い作品だ。まずそのことに驚かされる。

作品は、近未来を舞台に、これまでの警察小説とはちょっと違う描き方をする物語だ。ロボットと組織の対立という意味で言えば、『エヴァンゲリオン』×『踊る大捜査線』みたいな作品、と言えるかもしれない。様々な登場人物の過去が、世界観や物語に複雑な影響を与えている、という意味でも、『エヴァンゲリオン』の雰囲気を感じさせもする。

解説によれば、著者は、【警察が傭兵(しかも一人はテロリスト)を雇う、という状況をリアルなものにするために、機甲兵装という設定を考えだした】と語っているという。ロボットが登場する警察小説を書きたかったわけではなく、警察が傭兵を雇う物語を書きたかった、ということだ。その設計思想一つ取ってみても、本書の凄さが分かろうというものだ。普通は、「警察小説にロボットを登場させよう」と発想するだろう。

警察が傭兵を雇う物語を描きたかった、というだけあって、「特捜部」という特殊セクションの設定や、「特捜部」がいかに警察全体から嫌悪されているのかという、「特捜部」を取り巻く環境の描写は見事だ。「特捜部」の面々は、自分たちのやり方でなければ対処不可能な犯罪が目の前にあり、だからそれに全力で取り組むべきだと考える。しかし旧来の警察組織は、体面や前例などを重んじ、組織のあらゆる常識から逸脱する「特捜部」を排除しようとする。どちらが正しいか、などという議論をするつもりはないが、個人的には「特捜部」に肩入れしたくなる。

「特捜部」がそういう厳しい環境に置かれているからこそ、「特捜部」に属する面々の人間性がより色濃く浮かび上がってくる。警察組織全体から疎まれながらも、志願して「特捜部」入りした面々は、自分たちの行動が未来の日本を良くすると信じている。もちろんそう思っているのは、「特捜部」以外の警察の面々もきっと同じだろう。とはいえ、迫害されているからこそ、その意思がより強固に発揮され、小さな集団の中で連帯感が生まれていく、ということはあるだろう。

しかし、かといって「特捜部」は、完全には一枚岩にはなれない。何故なら、「特捜部」内でも、外部から招聘した傭兵に対する考え方は様々だからだ。しかも、「特捜部」の切り札である「機龍兵」は、「特捜部」の創設と同時に存在していた。つまり、「機龍兵」を誰がどのように作ったのか、ということを知る者がほとんどいないのだ。「特捜部」内でも情報が秘されているという事実は、組織を一枚岩にしようとする上で大きな障害となるだろう。

先程も書いたが、本書はシリーズの第一作目だ。本書で出てくる様々な伏線は、本書内で回収されるとは限らない。姿・ユーリ・ライザの三人を始め、登場人物たちの様々な過去が描かれていく。例えば、「機龍兵」の整備責任者である鈴石緑は、彼らの内の一人と浅からぬ因縁がある。姿が所属していたという「ディアボロス」という奇跡と賞賛される組織についても謎だ。そもそも、何故沖津が外務省の官僚から「特捜部」の部長になったのかも不明だし、「フォン・コーポレーション」という、香港財閥系企業のCEOが何を狙っているのかも不明だ。そもそも、千田駅でのテロ事件の真相は、本書では明らかにならない。本書のメインであるはずの事件を解決に導かない、なんてことをデビュー作からやってのけてしまう、ということが、やはり凄まじいなと感じるのだ。

本書ではないが、本シリーズは「日本SF大賞」と「吉川英治文学新人賞」を受賞している。同一シリーズで、SFの賞とミステリの賞を受賞した例というのは、あまり多くないのではないか。ジャンルの区分けなどまるで意味をなさないほど縦横無尽に様々な要素が組み込まれる本作は、小説の新たな未来を切り拓いていく力を持つ作品なのではないかとも思わされた。

月村了衛「機龍警察」

読者(ぼく)と主人公(かのじょ)と二人のこれから(岬鷺宮)



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物語の登場人物が現実に現れたら…というのは、誰しもが抱いたことがある妄想かもしれない。自分が物語の世界に入り込む、というパターンもあるだろうけど、そっちはなんかかなりハードルが高そうな気がする。けど、登場人物の一人だけでもいいからこの世界のどこかにいる―そんな風に妄想するのは、イメージしやすいかもしれない。

僕は子どもの頃からマンガはあまり読まないし、ゲームもしない。小説はそこそこ読んでいたけど、小説を読んで頭に映像が浮かばない人間なので(今でもそうだ)、特定の誰かに憧れた、という経験があまりない。

けど、振り返ってみて、「エヴァンゲリオン」の綾波レイは一時凄く好きだったな、と思う。

綾波レイが目の前に現れたら、テンション上がるだろうなぁ。「エヴァンゲリオン」を見たのは大分前でちゃんと覚えていないから、そんな事態になるなら見返しておかないといけないけど、それを予測出来るなら、綾波レイについて情報を得て、どんな話をしようか、とか考えるんだろうなぁ。

みたいなことが、現実に起こってしまった高校生男子を主人公とした物語なわけです。SFでもファンタジーでもなくこの設定を作り上げているので、これは、規模の大小はあれど、僕たちにも起こりうる話なのだ。

最近ネットのニュースで、「日本に一度も来たことがない外国人が、渋谷の写真を見て『懐かしい』と言うのは何故か」というような記事を見た。これは、海外での多くプレーされているゲームの舞台が渋谷であることが多く、その再現レベルが実際の渋谷の風景にかなり忠実であるが故にそういう状況が生まれるのだそうです。

ある意味で本書も、それに近いと言えなくはないかな、という感じはしました。

内容に入ろうと思います。
都立宮前高校一年の細野晃は、中学時代のある時から他人に心を閉ざすようになり、本ばかり読んで過ごしている。他人と関わることで、相手を傷つけてしまう―そのことを恐れているのだ。彼は、「十四歳」という小説を愛読していた。十四歳の少女の日常を綴っただけの物語なのだが、『自分と同じことを考えている「誰か」が、ページの向こうにいる―』と感じられるほど、主人公の「トキコ」に共感できてしまう。折りに触れ読み返していたために、表紙がボロボロになっている。
クラスで自己紹介が始まる。自分の前に座っていた女の子が壇上に上がり自己紹介をした時、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
「トキコ」だ。「トキコ」がいる。
柊時子と名乗ったその少女は、立ち居振る舞いや言動のすべてが、「十四歳」に出てくる「トキコ」そのものだった。そんなまさか。小説の主人公が目の前に現れるなんて―。
その疑問は、しばらくして氷解することになる。なんと「十四歳」は、時子の姉が時子をモデルに描いた小説だ、というのだ。
やっぱり間違いなかった。「トキコ」だったのだ。
僕は、なかなか周囲の会話に入れない時子のサポートらしきことを続けていた。それを感じ取った時子は、これからもそうしてもらえると嬉しい、と僕のやり方を受け入れてくれた。
こうして、他人を拒絶し続けてきた少年と、小説から抜け出してきた少女は、細野の旧友である須藤伊津佐と広尾修司も巻き込みながらお互いの存在を強く意識するようになっていくが…。
というような話です。

いわゆるライトノベルと呼ばれる作品ですが、ライトノベルを普段読まない人にも面白く読める作品だと思いました。異世界や魔法やロボットなんかは一切出てこず、純粋な学園小説という感じです。もちろん、ライトノベルの特性上若い世代にもわかりやすく書かれているので、小説としてはちょっと甘い部分はあるかな、という感じはします。もどかしいなぁ、という感じのするラブストーリーなので、そういう話が苦手な人にも合わないかもしれません。でも、ライトノベルだという偏見を除けば、かなり読める作品じゃないかなと思います。

細野の臆病さがもうちょっとちゃんと描かれていると良かったな、という点が残念ではありますが(うまく説明できないんだけど、本書における細野の臆病さの描写は、ちょっとわざとらしいというか、もうちょっと上手く書けるよなぁ、という感じがします)、時子が必死に周囲に溶け込もうとする感じや、憧れの小説の登場人物と出会えた細野の喜び、また須藤や広尾の関わり方など、全般的に良かったなという感じがします。特に、須藤と広尾は、細野とは違ってコミュ力がとても高いのだけど、そんな二人が細野に対して「何故他人と関わるのか」を語る場面は、かなり良かったなという感じがしました。

また本書では、「時子が小説の主人公である」という部分が障害になっていく、という点も描かれていて良かったなと思います。憧れと現実が入り混じった時にどういう変化が起こり、どういう選択を迫られるのか、という部分の描写は、本書においてはやはり重要な部分で、そこがラスト付近で大きな意味を持ってくる、という展開は良かったなと思います。

ネット上ならともかく、リアルでは距離を詰めるのが苦手な人が多くなっているように感じられる時代には、彼らのもどかしい振る舞いは共感してもらえる部分があるのではないかと感じた。

岬鷺宮「読者(ぼく)と主人公(かのじょ)と二人のこれから」

QJKJQ(佐藤究)



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久々に興奮させられる作品だった。
これが新人のデビュー作とは、信じがたい。


『「正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体」市野桐清はわたしにかまわず話し続ける。「それは何のことか?国家のことだ。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの言葉だ」』

そう、僕たちは「国家」という幻想を共有している。
普段、あまりそういうことを意識することはない。「国家」などというものについて考えることはないからだ。考えなくても生きていける。

しかし、実際には「国家」などというものは存在しない。

それは、「国境線」などというものが実際には存在しないのと同じような意味だ。ここが国境だ、というような場所に言っても、僕らはそこに実際の「線」を見るわけではない。線でなくてもいい。何か、国と国とを分かつようなもの(それこそ、トランプ大統領が作ろうとしている国境の壁のようなもの)があるわけではない。「国境線」というのは、僕らの頭の中にしかないのだ。

それは、つまり妄想、ということだ。しかしそれが妄想であったとしても、大多数の人間がそれを承認していれば、それは「現実」と呼ばれる。

「国家」も同じようなものだ。「リンゴ」のように何か実体を持つわけではない。もちろん、実体の有無で存在非存在を判断するのはおかしい。例えば、「虹」は実体があるとは言えないだろう。しかし、現象としては確実に存在するといえるだろう。

では、存在非存在を分ける要素は何なのか?何故「国家」は存在しないと言えるのか?

これは僕なりの定義だが、僕は、「人間がいなくてもそこにあるもの」は「存在している」と言っていいと思う。「リンゴ」も「虹」も、人間がいるかどうかに関わらず、そこにあるだろう。

では、「国家」は?「国家」は、人間がいなくても存在しうるだろうか?

いや、しないだろう。人間がいなくなれば、「国家」など簡単に消滅してしまう。それは、太平洋に浮かぶ細長い島が「日本」でなくなるとか、そういう話ではない。「国家」という概念そのものが消滅してしまうということだ。

つまり、「国家」というのは、人間の幻想によって支えられている、ということだ。

こういうものは、他にもある。有名なのは「貨幣」だ。「貨幣」には硬貨や紙幣といった実体がある。しかし、実体があっても、「貨幣」は人間の想像の産物なのだ。何故か。こんな風に考えてみればいい。タイムマシンが存在するとして、僕らが使っている千円札を持って江戸時代に行って買い物できるかやってみよう。まず無理だろう。実体100%に対して価値があるならば、千円札は江戸時代でも使えるはずだ。使えないのは、「貨幣」というのが実体だけではなく、人間の幻想によっても成り立っているものだからだ。皆がそれに価値がある、と思い込んでいるからこそ、「貨幣」は「貨幣」としての価値を持ちうるのだ。

普段「国家」や「貨幣」などについて考えることはないが、考えてみるとそれが幻想であることが分かる。となれば、僕らが普段真剣に考えていない様々な事柄が、実は幻想であってもおかしくはない。僕だって、「国家」や「貨幣」が幻想によって成り立っているなどと、自分の思考によってたどり着いたのではないと思う。何か本を読むなりして、なるほど言われてみれば確かにそうだな、と思ったということだ。

また、幻想によって生み出される現実は、人間という共同体すべてにおける大多数である必要はない。ある集団における大多数によっても生み出され得ると思う。

例えば宇宙論の世界ではかつて、「エーテル」という物質の実在が信じられていた。これは、宇宙空間すべてを満たしている物質、として考えられていた。当時、光は何もない空間(=真空)を進むことは出来ないと考えられていた。だから、真空に思える宇宙にも、きっと何かで満たされているはずだ、と物理学者は考えた。それは観測されてはいなかったが、実在するはずだ、という多数の物理学者の幻想によって、「エーテル」という物質が仮定されたのだ。

結局、エーテルは実在しないことが証明された。それを証明した実験は、物理の教科書に載るほど有名だし、また「何もないはずの空間を何故光は進めるのか」という疑問の答えを見出したのは、あのアインシュタインである。

さて、僕は何が言いたいのか。仮にエーテルの不在が実験によって証明されていなかったとしよう。そうしたら僕らは、物理学者たちがそう考えている、という理由によって、エーテルという物質の存在を信じることになるだろう。エーテルは誰も観測したことがない物質だが、エーテルは実在するはずだ、という物理学者たちの幻想がその実在を強く意識させることになった。そして、エーテルが実在することを前提に、科学が進んでいた可能性はゼロではない。その場合ロケットや人工衛星の設計は今とは違ったものになったのではないか。

地球上の全人口に対する物理学者の数は非常に少ないだろうが、その少ない人数が幻想を抱くことによっても、現実に大きな影響を及ぼす可能性があるのだ。

そういうことが、僕らの現実に起こっていないとは、誰にも言い切れないだろう。

この作品は、ある「もしも」を描き出す。もしも、ある少数の人間たちが抱く幻想によって、僕らの生きる現実が「改変」されているとしたら…。いや、これでは表現として正確ではない。僕らの生きる現実の「意味合い」が「改変」されているとしたら…。

恐らく、本書で描かれていることは、現実にはあり得ないだろう。でも、もしかしたら…という僅かな可能性を捨てきれない。それぐらい、あり得そうに感じさせるのだ。

現実が解体されていくかのような経験を味わった者たちの物語である。

内容に入ろうと思います。
市野亜李亜。高校生。17歳。普段からスマホの電源はつけず、防犯カメラから身を隠すようにして生活している。何故か。殺人鬼だからだ。人気のない寂しい路地で声を掛けてきた男。男の車に乗ってドライブ。キスを受け入れて、ベストの内ポケットから取り出したペーパーナイフで男を切り裂く。家に帰ると、母に言われる。「どうして部屋でやらなかったの?」と。
家には<専用部屋>がある。人を殺す専用の部屋だ。母はそこに若い男を連れ込んで、シャフトで殴って殺す。兄は若い女性を連れ込んで、あごの力で喉を噛み切る。父が人を殺している姿は、一度しか見たことがない。しかし、その光景はあまりに衝撃的なものだった。抜いた血を口から飲ませて殺していたのだ。
そう、私の家族は全員猟奇殺人鬼だ。そういう秘密を抱えながら、普通の家族のように生活している。
ある日、驚きの光景を見つけてしまう。さらに、理解できない状況。父親の視線の変化から、長い間気づかずにいた秘密を知るや、父親を問い詰めた。答えは、理解できないものだった。
『誰でも目の前のものを見ずに生きている。現実を他人に教えられても信じない。それで結局、自分で向き合うこととなる』
家から離れ、現実を知ろうとする。しかし、その第一歩で早速つまづいてしまう。自分の住民票の写しを見ることが出来ない…。
というような話です。

凄い物語でした!久々にこんなとんでもない物語を読んだな、という感じです。しかも、これが新人のデビュー作というのは、ちょっと破格過ぎるだろう、と思います。びっくりしました。

正直、本書を読んだ人間なら誰でも感じるだろうけど、本書の内容については詳しく触れたくない。1/3を過ぎた辺りからの果てしない混沌、混沌を分け入って少しずつ集める情報、そして認めたくない現実。これらの衝撃的な展開を是非味わって欲しいなと思うからです。

だから、この感想の冒頭で書く話も、僕なりにはかなり気を遣ったつもりです。読み終わった人なら、僕が際どい部分を避けながらなんとかこの作品の本質的な部分を拾い上げようとしているのを感じ取ってくれるかもしれません。

もちろん僕は、本書の「現実が解体されていく感じ」も凄く好きなんですけど、それ以上に感心したのが、本書の中で「アカデミー」と呼ばれているものについてです。詳しくは書かないのだけど、僕はこの実在を100%否定出来ないなと思います。もちろん、理性的に考えれば、あり得ません。ただ、本書で繰り出される「アカデミー」の存在理由については、理解できるとは言わないまでも、そういう論理的には成り立つと思うし、賛同する人がいても不思議ではない、と感じます。もしそれを理念として掲げる人物がどこかの時代に存在したとすれば、後は様々な現実的な要素を照らし合わせながら可能か否かという話になるでしょう。人間が人類史の中で行ってきた様々な事柄を考え合わせれば、決して不可能ではないように僕には感じられます。だからこそ、あり得ないと思いつつ、完全には否定できないなと思えてしまいます。

もちろん、現実の世界で「アカデミー」が実在するのかどうか、という論点と同時に、物語の中に「アカデミー」を登場させていいのか、という問題も、また別の問いとして存在しうるとは思います。どういうことなのか、というのは本書を読めば(あるいは巻末の選評を読めば)きっと理解できると思うのでここでは書かないのだけど、僕はあまりその点は気になりませんでした。「アカデミー」を登場させるかどうかの是非よりも、登場させて場合にどう料理するかの部分が大事だと思うし、その調理法は非常に見事なものだったと思うからです。これが下手な料理人によるものであれば感じ方も変わったでしょうが、作者の「アカデミー」を取り扱う様が絶妙だったと僕は感じるので、全体としてよくまとまっていたな、と感じました。

巻末に載っていた江戸川乱歩賞の選評も読みましたけど、僕は辻村深月の評が好きだ。本作が持つ魅力と欠点を、実に巧く描き出していると思う。もちろん、応募時点での原稿から手が加わっているだろうから、辻村深月の指摘が本書に対してどこまで的確であるのか、本書しか読んでいない僕らには分からないのだけど、なるほどと感じさせる評でした。

実は僕は、この著者の二作目である「Ank」という作品から先に読みました。こちらもまた常軌を逸した素晴らしさを持つ作品です。是非読んでみてください。しかしホントに、凄い新人作家が現れたものだよなぁ、と思います。

佐藤究「QJKJQ」

響きの科学 名曲の秘密から絶対音感まで(ジョン・パウエル)



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内容に入ろうと思います。
本書は、「音楽」というものを科学的に捉え、しかも数式やグラフや楽譜などを基本的に使わずに説明する、という作品です。音楽を「科学する」というのが、恐らくイマイチ想像出来ないんじゃないかと思いますけど、例えば冒頭に、本書はこんな疑問を解き明かします、と出てきたものを書いてみます。

『音楽の音と雑音のちがいは何なのか』
『なぜバイオリン十台の音の大きさが、一台の音の二倍しかないのか』

この疑問は、なるほど、と感じさせられました。確かに、「音楽」と「雑音」の差って、説明しろと言われてもなかなか出来ません。また、面白いと思ったのは後半の疑問で、確かにそうかもな、と。僕はバイオリン十台の音なんて聞いたことないですけど、でもオーケストラとかでバイオリンがたくさん並んでいるのを見ることはあります。想像してみる時、バイオリンが十台あった時、それがバイオリン一台の時の10倍の音だとしたら、想像を絶する大きさでしょう。でも、たぶんそんなことにはならない。オーケストラの人たちが力強くバイオリンを弾いているように見えても、10倍の音にはならないだろうな、と思います。それは何でだろう?そういう、「音楽」というものを取り巻く色んな理論や状況や不思議を、科学の視点から解説していく、という作品です。

また本書は、音楽の歴史的な話もちょくちょく出てきます。個人的に意外だったのは、ピアノの歴史です。

『ピアノは1709年にバルトロメオ・クリストフォリという流麗な名前をもつイタリア人楽器製作家によって発明され、その後100年以上もかけて改良が続けられた。』

何が意外だったかというと、ピアノってもっと歴史が古いものだと思っていたんです。それこそ500年とか1000年くらいの歴史があるんだと思ってました。まだ300年ぐらいの歴史しかないんですね。それがホントに意外でした。

また、楽譜に書かれている音が時代によって違う、という話も面白かったです。その事実は、別の本でも読んだような記憶があるんですけど、より具体的に書かれていて面白かったです。

『こうした歴史上の事情があるために、世の音楽学者たちは頭を悩ましている。学者の典型的な見解に、モーツァルトの音楽は、書かれたとおりに演奏すべきだというものがある。もうひとつ、モーツァルトの音楽は、楽譜に書いたときに彼の頭のなかで聞こえていたとおりに演奏しなければならないという、これもまたもっともな見解もある』

これは一体どういうことか。かつては国ごとに、あるいは町ごとに、楽器の音は異なっていた。同じ「ド」でも、違う音だったのだ。ここまではなんとなく僕も知っていた。

じゃあ、いつ音は統一されたのか。これが結構意外だった。

『専門的な議論(口論とたいして変わらない)が何度ももたれた後、1939年のロンドンでの会合で、今日使われている音が決定された。それで現在、世界中で、フルートをはじめ、バイオリンやクラリネット、ギター、ピアノ、木琴などの西洋楽器には、標準的な音の集まりがあるのだ』

これもびっくりでした。むしろ、1939年まで音が統一されていなかった、ということに驚きました。1939年以前の音については、色んなところで当時音楽家が使っていたメトロノームが見つかっているために、今の音とは違うということがわかっているそうです。であれば、モーツァルトが「聞いていた」通りに演奏するべきだろうと思うんだけど、そうなると楽譜を書き換えないといけなくて大変なんでしょうね。

歴史の話で言えばもう一つ面白いと思った話があります。
現在音楽には「長調」と「短調」という音階方式がありますが、紀元前から続く音楽の歴史の中では、様々な音階方式が生まれては消えていったそうです。そこからどんな風にして「長調」と「短調」の二つに収斂していったのか。

『西ローマ帝国皇帝のカール大帝は、教会旋法を広く普及させようとして、これらを使わないと死罪に処すと聖職者たちを脅かした。そうして教会旋法はあまねく行き渡った。
教会旋法は数百年にわたり広く用いられたが、そのなかでも流行り廃りはあった。最終的に、十八世紀に入るころには、もとの七つの旋法のうち二つしか使われなくなっており、この二つが長調と短調として広まっていった』

やっぱりキリスト教の教会ってのはホントに色んなところに出てくるな、と思わされました。しかし、教会旋法を使わなかったら死罪って、メチャクチャだよなぁ。教会、怖っ。

科学の話で言えば、こちらも興味深い話はいくつかあります。ただ、一部を抜き出して説明するのがなかなか難しいですね。

たとえば、ギターの弦をはじく場合。ギターを弾いた経験のある人はもちろんわかっているでしょうけど、弦の中央をはじいた場合と弦の端の方をはじいた場合では音が違う。実は、どちらの場合でも、音の基本周波数は同じなのだ。しかしそれでも、音は変わる。その理由を非常にわかりやすく説明してくれている。

また、実際にはスピーカーから出ていない音を人間の耳に聞こえさせる方法も非常に面白い。例えば、90Hz以下の周波数にはあまり強くないスピーカーがあるとする。このスピーカーから55Hzの周波数の音を出したい。普通に考えればはっきりした音は出ないのだけど、方法がある。実は、55Hzの倍音の周波数、つまり110Hz・165Hz・220Hz・275Hzをスピーカーに送り込めば、55Hzがはっきりと聞こえてくる。実際にスピーカーには55Hzの周波数の音は送り込まれていないのに、である。

また、現在の西洋の音階方式の基本である「等分平均律」の話もなかなか面白い。
我々が使っている音階というのは、基本的にこういう発想で作られている。
「オクターブを12段階に分割し、その内の7つの音を使う」
僕は正直うまくイメージ出来ていないのだけど、1オクターブをまず12個の音に分割するらしい(何故12なのかは不明。書いてあったのかもしれないけど)。で、その12個の音の中から7個を選んで、それに「ドレミファソラシ」と名前をつければ、僕らが使っている音階になる、というわけだ。

1オクターブというのは、例えば弦の話で言えば、弦の長さが半分になることを意味する。つまり、1mの長さの弦をはじいた時に「ド」の音が出るとすれば、そのちょうど半分である50cmの弦をはじけば1オクターブ上の「ド」の音が出る、ということだ。つまり、1m-50cm=50cmの長さを12に分割することが求められている。その12の音それぞれが他の音と何らかの関係性を持つようにすると、音同士がうまく調和するのだという。

その理想的な形は「純正律」と呼ばれる。しかし純正律は、実は使いにくいのだという。バイオリンやチェロなど「音が固定されていない楽器」のみであれば純正律でもハーモニーを生み出せるらしいのだけど、ピアノやフルートなど「音が固定された楽器」と合わせようとすると、純正律だと不調和な音が生まれてしまうのだという。

そこで妥協の産物として等分平均律が生まれた。これは、先の例で言えば、弦の長さ50cmをそれぞれの音が同じ間隔で配置されるように12に分割するものだ。一見すると簡単そうだが、これがなかなか難しかったのだという。このやり方にたどり着いたのは、ガリレオ・ガリレイの父であるヴィンチェンツォ・ガリレイ(1581年発見)と、中国の学者である朱載◯(◯は土偏に育)(1580年発見)の二人だが、どちらも音楽界からは無視され、1800年代に入るまで普及しなかったという。可哀想やねぇ。

科学の話とはちょっと違うけど、音の大きさを測る「デシベル」の話も面白かった。デシベルという単位について全然詳しくなかったのだけど、これは「絶対的な音の大きさ」を測るものではなくて「相対的な音の大きさ」を測るものだそうです。知らなかった。

デシベルという単位は、例えば「二つの音の差が10デシベルなら、大きい方の音は小さい方の音の2倍大きい」ということらしい。だから、20デシベルは10デシベルの2倍の大きさだし、93デシベルは83デシベルの2倍の大きさだそうだ。変な単位だ。その不便さを解消するために、人間にどう聞こえるかという主観的な音の大きさを基準とする「ホン」という単位があるそうだが、デシベルがあまりにも広く使われているために「ホン」が普及しないのだという。本書の説明を読むと、「ホン」という単位の方がメチャクチャ使いやすいんだけどなぁ。

あと、著者が断言してて面白いと思ったのが、「調は特定の気分を持つ」という音楽家の意見は思い込みだ、というものだ。例えば「イ長調」は「明るく陽気」、「ハ長調」は「中間的で純粋」というような、調による気分を多くの音楽家が感じているのだという。しかし著者曰く、科学的にはそれらに違いはない、ということだそうだ。あくまでも、調の変化が重要なのだという。また、調に気分があると信じる音楽家が、それぞれの調に「合う」と感じる楽曲を多く作るから、余計その思い込みが助長されるのだ、というような説明もしていた。

とまあこんな感じで、音楽を題材に様々な事柄が描かれている作品です。難しかったりややこしかったりする記述がまったくないとは言わないけど、概ね面白く読めるんじゃないかなと思います。

ジョン・パウエル「響きの科学 名曲の秘密から絶対音感まで」

さぎ師たちの空(那須正幹)



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内容に入ろうと思います。
物語は、広島から家出してきた少年が、大阪にたどり着いたところから始まります。地元の不良中学生グループ・友和会から抜け出した島田太一は、警察から職務質問を受け、スポーツバッグと現金10万円を置いて逃げた。仕方ない、食い逃げでもするか、と思って入ったラーメン屋で、先程の警官に出くわしたのだ。いや、警官ではなかった。ただのおっさんだった。つまり太一は、騙されて10万円を奪われた、ということだ。金とバッグは返す、というおっさんを見返してやりたいと思って、食い逃げするためにとある仕込みをしたのだが、そのせいで店主らからボコボコにされてしまった。結局、おっさんに連れて行かれることになった。
おっさんは、アンポという名前らしい。状況はイマイチよくわからないが、どうやら太一の怪我を利用して、ラーメン屋から金をふんだくる算段をしているらしい。要するに、詐欺師の集団だ。太一は、成り行きから彼らの詐欺に関わることになり、その後も、大掛かりな仕掛けを用意する彼らの騙しの現場に加わることにした。政治家に似た男を利用して大金をふんだくる詐欺、ホテルに幽霊が出るという噂を流して金を取ろうとする詐欺、そしてついにはヤクザまで…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。詐欺、という犯罪を扱う作品なんですけど、全体的に凄くユーモラスに話が展開していきます。こういう物語の場合、詐欺という犯罪を正当化するために、詐欺を働く相手は悪人、つまり「清水の次郎長」みたいな感じの設定になることも多いと思うんだけど、本書では別にそんなこともなく、ただ金になりそうな案件を見つけたら、みんなで楽しそうに計画を練るわけです。なんだか、学園祭の準備でもしているような雰囲気で、みんな楽しそうです。

個人的にちょっと思うのは、何故アンポが詐欺をしているのか、という部分がイマイチよく分からなかったということです。いや、恐らく、著者的にはちゃんと理由を書いているつもりなんだと思うんです。本書では、アンポが「共産党宣言」という本を教材に、周辺住民に共産主義について勉強会をしているシーンが描かれます。そして、アンポの発言として、「金持ちから金を奪って分配するんだ」みたいなのもありました。恐らくアンポは、共産主義的な世界を実現する手段として詐欺という手法を選んでいるんだ、というような描き方なんだろうな、と思います。

ただ、そう描くには、さっきもちょっと書きましたけど、詐欺を働くターゲットの選別が甘いと思うんです。もし、富める者から貧しいものへの分配、というのが詐欺のテーマであるなら、あくどいことをして儲けている金持ちのみをターゲットにした方がいいと思うんですよね。その方が、その詐欺のテーマがはっきりと描き出せると思うんです。でも本書は、そういう感じではない。あくまでも、詐欺で金がふんだくれそうなターゲットが現れたら即座に反応する、というような感じでターゲットが決まっている、という印象を受けました。そこが弱いなぁ、と。そして、もし分配が詐欺のテーマでないとするならば、アンポが詐欺に注力する理由は明確には描かれていない、ということになります。個人的には、物語をうまくまとめるにはその辺りの描写が欲しかったかな、という感じはしました。

詐欺の中身は、なかなか面白いです。もちろん、実際にこんなにポンポンうまく行くのか、という疑問はあるだろうけど、どの詐欺も一手二手先まで周到に考えられています。しかも、「金をふんだくる」みたいな感じではなくて(最初のラーメン屋に対する詐欺は、ちょっとそういうテイストですけど)、あくまでも金を相手が自発的に出すように仕向ける、というようなやり方で仕掛けを進めていきます。特に、政治家に似た男を登場させる仕掛けでは、鮮やかだったなぁ、という感じがします。まさに、自発的に金を出させる、というのが上手くはまっているな、と。

詐欺は犯罪だけど、彼らと一緒なら、ちょっと面白そうだし、混ざって一緒にやりたいな、と思わされてしまう作品でした。

那須正幹「さぎ師たちの空」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)