黒夜行

>>本の中身は(2017年)

成功者の告白 5年間の起業のノウハウを3時間で学べる物語(神田昌典)

正直に言おう。
胡散臭い本なのだと思っていた。

僕は本書を、とある理由から読むことにした。
その理由はここでは書かないが、別に起業しようとか成功者になろうと思って読んだわけではない。読む必要があったから読んだのだ。

だから、自分の中には、本書を読むためのそこまでの積極性はなかった。噛みくだいて言えば、しょーがねーから読むか、というぐらいのスタンスだったのだ。

けれど、冒頭から、本書は面白いかもしれないぞ、という予感を漂わせていたのだ。

『成功に向かう道には、いくつもの地雷が埋まっている。成功が現実のものとなるに応じて、それと等価の困難や障害が用意されていたのだ』

『大きな成功を実現していく過程では、確実に障害が降りかかる。成功だけを持ち逃げできない。私は単なる戒めとしていっているのではない。これは事実なのだ。私が確信できる理由は、短期間に急成長する会社経営者の多くの事例を見てきたからである。』

プロローグに、こんなことが書かれていた。なるほど、これはちょっとよくある自己啓発本とは違うような気がするぞ、と思ったのだ。

しかしとはいえ、まだまだ警戒心を解いたわけではなかった。というのも、「(ビジネス的に)成功すれば、等価の困難や障害がもたらされる」というのは、運不運やバイオリズムの話として説明されてしまうのではないか、という懸念があったからだ。そういう話であれば、面白くもなんともない。しかし、僕のその懸念は、良い意味で裏切られるのだ。

プロローグには、こんなことも書いてある。

『これからあなたに伝えたいことは、地雷を踏むことを回避する方法ではない。残念ながら困難や障害を避けることはできない。しかし上手に乗り越えることはできる』

『根底に流れるテーマは、ビジネスと家庭のバランスを撮りながら、いかに会社をスムーズに成長させるか、ということである』

ビジネス書をそこまで読んでいるわけではないが、ビジネス書という括られる本を読んで、「家庭」の話が出てきたことは、少なくとも僕の経験ではなかったと思う。非常に面白い切り口だと感じた。

そして、こう書かれている。

『物語ではあるが、作り話ではない。特定の人物や会社がモデルになっているわけではないが、この物語は、私に起こった出来事を含め、複数の実話を下敷きにしている。何人もの成功した経営者に出会ってみると、驚くほど似たようなパターンが生じているので、そのパターンから不純物を殺ぎ落としてきた結果、生まれた物語といっていいだろう』

本書は、青島タクという男が、会社を辞め起業し成功するも、その後様々な障害に襲われる、という展開の物語だ。ここで描かれる物語が、本当に色んな成功者が経験した「驚くほど似たようなパターン」であるのかどうか、それは著者の主張を信じるほかないが、これが事実をベースにしていようがいなかろうが、「起業」に関する様々なことを学べる物語だということは間違いないだろう。現代は、生涯同じ会社でサラリーマンとして働き続けることが困難になりつつある世の中と言っていいだろう。そういう世の中だからこそ、自分の人生を見つめ直すためにも、起業する予定などなくても、とりあえず読んでみるのはアリだと思う。

内容に入ろうと思います。
青島タクは、銀行員である父から「安定」を叩き込まれたために大手メーカーに就職したが、その安定から逃げ出したいと思うようになった。そこで、デジウィルというベンチャー企業へと転職した。デジウィルは数ヶ月前まで、その急成長ぶりがマスコミの話題となるほどの注目企業であり、転職したタクは周囲から羨ましがられた。
しかし半年後。タクは転籍(子会社に移り、本社に帰れる予定はなく、給料も減る)させられることになった。生まれてまだ三ヶ月の子どもがいる。どうしたらいいのか…。
転籍させられることを、妻のユキコに話をした。同時にタクは、独立して会社を作る計画を話す。ユキコは、そんなタクの決意を後押ししてくれた。そこからタクは独立へ向けて考え始める。
昼食を食べていると、かつて働いていた大手メーカーで上司だった神崎ヒロシに声を掛けられた。今は独立し、会計事務所とコンサルティング会社を経営している。やり手だ。タクは神埼に、独立する計画があることを話、相談に乗ってもらうことにした。神崎のアドバイスは的確で、タクが有望なビジネスのアイデアを思いついたこともあって、タクの会社は急成長を遂げることになる。
しかし、本題はここからだ。タクは、順調に成長しているはずの会社で、様々なトラブルがあることに気付く。ユキコとの関係もうまくいかない。それを神崎に相談しようとすると、まるで神崎はタクの会社や家庭の内情でも知っているかのように、きっとタクは今こうなっているんだろうね、と指摘する。一体神崎は、何故タクの会社や家庭のトラブルを予測することが出来るのか…。
というような話です。

なんとなくミステリっぽい内容紹介になっちゃいましたけど、別にそういうわけではありません。ただ、物語の展開のさせ方こそミステリ的ではありませんが、神崎が何故タクの会社や家庭のトラブルを予測出来たのか、という話は、まるでミステリの解決編を読んでいるかのような感覚になりました。

そう、タクが経験するトラブルは、きちんと原因や理由があるものであり、それは会社の成長と共に必然的に起こりうるものなのだ、ということを本書では指摘するわけです。

例えば、著者自身が経験したトラブルには、こんなものがある。

・長男が奇病に罹る
・長女が腸閉塞になる
・家に帰ったら妻がおらず、離婚届がポストにある
・社員が立て続けにメニエール病で倒れる
・同志のコンサルタントがうつ病になり、その後自殺

そしてこれらのいくつかは、青島タクが経験したこととして物語の中でも描かれる。

著者はこれらを、起業の成功による副作用のようなものとして原因追求する。もちろん、科学的に立証できるようなものではないが、本書の中で神崎の口を借りて語られるそれらの原因は、非常に納得感がある。なるほど、そういう説明であれば、100%ではないにせよ理解できる、というような説明をするのだ。

その過程で神崎は、「起業」というものをかなり詳細に分割して捉えてみせる。成長する過程で必要な役割、時期ごとの会社のあり得べき状態、起業家の精神状態などなど。そういったことを細かく捉えた上で、その過程のどんな要素がどんなトラブルに繋がっているのか、という説明をしていく。

先程も書いたが、もちろんこれは科学ではない。本書で描かれる説明が、必ずしも合っているとは限らない。しかしその点は、あまり問題にはならない、と僕は感じた。何故なら、起業家の状態や行動(=「行動」と呼ぶ)が「原因」となって「トラブル」が起こると推測しているわけだが、仮にその「行動」が「トラブル」の「原因」でなかったとしても、その「行動」は避けるべきだと感じられるように本書では描かれているからだ。

もう少し具体的に書こう。本書では、「長男が奇病に罹ったこと」(=「トラブル」)の「原因」が、青島タクの「行き過ぎたプラス思考」(=「行動」)にある、と捉えている。もしかしたら、この捉え方は不正解かもしれない。しかし、それは問題ではないのだ。本書を読めば、「行き過ぎたプラス思考」が「長男が奇病に罹ったこと」の「原因」でなかったとしても、「行き過ぎたプラス思考」を抑えるべきだ、と感じられるようになる、ということだ。仮にそれが直接の原因でなかったとしても、それは悪いものであると認識させられる。そこに本書の大きな意味があるのではないかと思う。

だから、「トラブル」の「原因」として指摘した「行動」が理屈に合わない、と仮に感じたとしても、そのことのみによって本書で書かれていることを単純に切り捨てるのはもったいないと思う。僕は理系の人間なので、やはり科学的に証明できないものに全力で寄りかかるのか怖いと思うし、本書で描かれる「原因」の指摘には、そこの関連性は弱い気がするなぁ、と感じるものもあった。それでも、その点をもって本書を非難する気にはならない。因果関係が仮に証明できなかったとしても、「原因」として指摘された「行動」を取るべきではない理由が伝わると思うからだ。

本書を読むと、「そういう視点から起業という行動や会社という存在を見るのか」と感心させられることが何度もある。今まで「起業」など考えたこともなかったし、「会社」というものも真剣に捉えたことがなかったのだけど、様々な形で「起業」や「会社」を単純化して捉えることで、その本質を捉えようとする視点が面白いと感じた。

本書は、「どうビジネスを軌道に乗せるか?」に対する直接的なヒントも様々に散りばめられている。それらのアドバイスも、実に面白い。「どうお客さんを集めるのか」「少数の大手のクライアントに頼るのは危険」「お客さんの声にこそヒントがある」など、ある意味では当たり前かもしれないのだけど、タクが軌道に乗せようとしている実際のビジネスのアイデアの実例と共にそれらが語られることもあって、非常に分かりやすい。

しかしそういう「どうビジネスを軌道に乗せるか?」という話は、恐らく本書でなくても学べるだろう。やはり本書は、「起業すること」や「会社という存在」の捉え方や、それらをどう活かしてトラブルを回避するのか、という点にこそ主眼がある。

『タク、仕事のために、家庭があるんじゃないんだぞ。家庭が幸せになるために、仕事があるんだ。履き違えるんじゃない』

恐らく多くの人が、「そんなこと分かってる」と思いながら起業するのだろう。しかし、分かっていないのだ。行く先にどんな落とし穴が待ち受けているのか、知らないから「分かってる」などと言えるのだ。

「分かっていないのだ」と思って、謙虚に学ぶことが大事なのだろう。本書は、そのスタートラインに立たせてくれる一冊だと思う。

神田昌典「成功者の告白 5年間の起業のノウハウを3時間で学べる物語」

廃校先生(浜口倫太郎)

学校の先生とは、あんまり相性が良くなかったなぁ、と思う。今振り返ってみれば、その理由ははっきり分かる。

僕は今でも、決められたこととかルールみたいなものが嫌いだ。自分の中でしっくり来るような内容であっても、それが「ルール」として定められているということに対してイライラしてしまうことさえある。

そして、まさに学校というのはルールの宝庫だ。「しなければならないこと」も山ほどあるが、「してはならないこと」も山ほどある。

そういう環境が、僕には窮屈だったなぁ、と思う。

子供の頃は表向きとても優等生だったので、ルールに対してさほど抵抗するようなことはなかったような気がする。ただやはり内側では、おかしいと思っていたし、時々どうにも我慢が出来なくなって爆発することもあった。

ルール、というのとはちょっと違うのだが、未だに覚えていることがある。

確か中学の合唱コンクールだったと思う。その時の担任の教師は、僕の中で「先生がなんでも決めてしまう」という見え方をしていた。それに対する反発があったのだろう。教師が、合唱コンクールで歌う歌はこれです、と勝手に決めてきた時に、それはおかしい、と言って反発したことがある。

正直僕にとっては、合唱コンクールで歌う曲なんかなんでも良かったのだけど、やはり「勝手に決められている」ということが凄く嫌だった。それで、選曲を一からやり直すことにしたのだ(まあ、結局、クラス全員で決めた結果、教師が最初に提示した曲に決まったのだけど 笑)。

そういうルールに対する嫌悪感は、やはり教師に向いてしまう。今なら、教師だって「やらされている」のだということは分かる。教育現場のことは詳しく知らないが、恐らく「こうしなければならない」「こうしてはならない」という様々な規則でがんじがらめにされているのだろう。教師にもよるだろうが、必ずしも生徒に押し付けているルールに賛同しているとは限らない。

とはいえ、その辺りのことは子供の頃はよく理解できていなかったのだと思う。ルールを押し付けてくる人=教師、と図式ですべての物事を見ていたのだと思う。だからどうしても、教師という存在を受け入れることが難しかった。時々、この先生はいいな、と思える教師もいたのだけど、数は決して多くはない。

その後僕の人生には、教師の側から子供を見る、などという経験はなかったわけだけど、教師を主人公にした物語を読むことで、少なくとも子供の頃よりは教師のことが理解できるようになったと思う。そうなった今思うことは、やはり教師も迷いながら教えているのだろうなぁ、ということだ。

『やっぱり先生って情熱持った人しかなったらあかん仕事やと俺は思うぞ』

作中にそんなセリフが出て来る。

教師になる理由には様々なものがあるはずだ。全員が、教育に対する情熱を持ち合わせているわけでもないだろう。とはいえ、そういう見られ方をされる、というのもまた一面の事実ではある。特に、子どもを預けている親はそう願ってしまうだろう。自分の教師としてのあり方と、教師の見られ方のギャップに、多くの人は苦労するのではないかと思う。

とはいえ、教え導くことに喜びを見いだせるのなら、天職なのだろう。本書の「よし太」のように。

内容に入ろうと思います。
里田香澄は、面積の96%が山林という、奈良県の十津川村にある谷川小学校の新米教師だ。創立143年の歴史を持つこの学校は、しかし今年度で廃校が決定している。2年生2人、4年生2人、6年生3人に教師が4人という非常にこじんまりした学校だが、生徒への目が行き届き、地域で学校を中心に行事を盛り上げる、という形が悪くないと思っている。しかし一方で香澄は、自分が教師に向いているのかどうか分からないという悩みをずっと抱えている。
香澄は4年生を受け持つが、同僚の仲村よし太が受け持つ6年生の副担任もやっている。地域の代表者であり、よし太の同級生でもある古坂一護の息子で絵の上手い十夢。曾祖母、母の女三人で暮らしながら、アイドル(NMB)に入ることを夢見る美少女愛梨。災害で母を亡くし、家具職人である父と二人で暮らしながら、中学受験を目指している優作。廃校の決定した小学校において、彼らのスタンスはばらばらだ。十夢は、この素晴らしい校舎、そして学校が無くなってしまうなんてあり得ないと考えている。しかし愛梨と優作はそうでもない。どちらも、スカウトされて、受験に受かって、この村を出て行くことを第一の目標としている。
よし太は教師で、当然大人だが、大人とは思えないほどアホだ。子供たちだけで遊んでいるといつも仲間に入りたがるし、いつも鼻をほじっている。勉強だって特別出来るわけでもないから、中学受験を目指している優作には不満だ。香澄にとっても、なんでこんな人が教師をやっているんだろう?と思うような人だったが、しかし子供たちからは絶大な人気がある。
ある意味で地域の中核を成す存在である谷川小学校が無くなることが決定している中で、そこに住む者たちの想い、そこを出たいと思う気持ち、誰かを思って行動する勇気などが丁寧に描かれていく作品。

これは良い物語だったなぁ。スイスイ読めてしまうような結構軽いタッチで描かれている作品なのに、中身はそこまで軽々しくはない。重厚なわけではないけど、穏やかな日常の物語の中に、小学校を中心とした人々の人生が屹立し、どっしりと張られた根っこのたくましさみたいなものをじっと眺めるような、そんな力強さを感じさせる作品だなと思いました。

物語の中心になっていくのは、やはりよし太です。彼はこの物語のキーパーソンだと言っていいでしょう。よし太がいるのといないのとでは、本書はまったく別の物語になってしまうだろうと思います。それぐらい、物語の根幹に関わってくるキャラクターです。

とはいえ、アホであることには変わりありません(笑)。作中でほぼずっと、よし太はアホなことばっかりやっています。まったく教師らしくないですし、教師らしく見せようという気も本人にはないでしょう。

それでも、よし太がやっていることは、まさに「教育」なんだろう、という感じがしました。

本書では、対比の意味を込めてでしょう、香澄が東京の小学校に研修に行く、という場面が描かれる。全校生徒が7人しかいない学校から、生徒数1000人以上の小学校に研修に行くのだ。そのギャップたるや。しかし、その現場は疲弊していた。そこに「教育」と呼べるものがあるのかどうか、判断は難しい。何を持って「教育」とするのか、というのは人それぞれではあるのだろうが、多くの人が最終的に求めてしまう「教育」というのは、よし太が実践するようなものなのではないか、と僕は思うのだ。

よし太の教師としてのあり方を真似するのはかなり難しいだろう。鼻をほじればいいのか、子供にバカにされるような振る舞いをすればいいのか、というとそれは全然違う。形だけ真似してもダメなのだ。そこには、よし太なりの想いと情熱がある。よし太は、それがとても強いのだ。想いや情熱だけでは乗り越えられないものもたくさんある。実際によし太は、教員免許は持っているが教員試験には何度チャレンジしてもダメで、講師という立場で教師をやっている。それでも、想いや情熱で届けることが出来るものもあるのだ、とよし太を見ていると思わされるのだ。

メインで描かれる3人の6年生も実に良い。三者三様であり、村での生活や学校への思い入れなど様々な部分で違っている。関係性がうまく行かなくなってしまうこともあるし、お互いのことが理解できなくなってしまうこともある。それでも、たった3人しかいない同級生との関わり、そしてあらゆるものがない村での生活は、彼らに良くも悪くも様々な経験を与えることになるのだ。

彼らを取り巻く大人たちも良い。大人たちにも物語があり、その多くは「何故十津川村での生活を選択したのか」だ。子供たちには、村での生活に不満がある。しかも親たちは、村での生活から離れられる機会があった、ということさえ知ることもある。じゃあ何故ここでの生活を選んだのか―。それぞれの家族のそれぞれの物語は、「生きる」ということについて大事な何かを伝えてくれるように感じられるのだ。

不覚にも、随所で泣きそうになってしまった。物語の展開としては、かなりベタではある。何度も、先の展開を予測出来た。しかしそれでも、予測通りの展開であることが分かって泣けてくる、という状況さえあった。正直、優しい人間が出て来る優しい物語はそこまで好きではないのだけど、本書はそういう部分に対する抵抗をほとんど感じることなく読むことが出来たし、ベタな展開であっても読ませる力には感心させられた。

こんな学校も、こんな生き方もいいかもしれないな、と思わせてくれる作品だと思います。

浜口倫太郎「廃校先生」

君を一人にしないための歌(佐藤青南)

内容に入ろうと思います。
本書は、一風変わったバンド小説です。何せ、楽器を弾くことも歌を歌うこともなく物語が終わるからです!この小説のテーマは、「バンドメンバー探し」です。
まずは全体の設定から。
中学の頃、ブラスバンド部でドラムを担当していた森尊(通称:モリソン)は、三年間の集大成となるコンクールでドラムスティックを放り投げてしまい、すべてを台無しにしてしまった。そのことがトラウマとなってドラムから遠ざかっていたが、ある日いきなり状況が変わる。同じ学年の見知らぬ少女が、突然モリソンのクラスにやってきて、「おめでとう」と言うのだ。
「選ばれたから。あたしのバンドのメンバーに」
台風のようにやってきて唐突にモリソンをバンドメンバーに引き入れたのは、石塚七海。このバンドのボーカルでありリーダーだ。他に、ベースギターを担当する緒方凛がメンバーとして決まっている。凛のロックに関する知識はかなり深いが、何故かリーダーの七海は、ロックのロの字も知らないようなド素人。何故バンドをやろうと思ったのかもよく分からない。
しかし、とにかくバンド活動を始めるには、あとギタリストを探さなければならない。彼らは、あの手この手でギタリストを探そうとするが、その度に「人助け」のような状況に巻き込まれることになり…。

「Track.1」
インターネットのバンドメンバー募集掲示板で勝手に七海がギタリスト募集を掛けていた。それを見てやってきたのが「ショーン」、本名「宮前匠音(ショーン)」という高校一年生だ。彼は、前のバンドを追い出されそうになっていることに気づいて自分から辞めてやった、と話をした。聞くと、前のバンドのメンバーがこそこそと集まり、別のバンドのギタリストと接触しているのを目撃してしまったのだという。確かにそれは怪しい。とはいえ、彼が本当に辞めさせられるところだったのだとすれば、何か彼に問題があると言うことも出来る。その辺りの事情を彼らは探ろうとするが…。

「Track.2」
応募してきたのは、高校生の志度道康。シド・ヴィシャスのようなパンクロッカーの格好をして、見た目こそバンドマンっぽいが、ギターは最近始めたばかりだという。しかし七海は、技術よりも魂の叫びが大事なんだ、とか、ついさっき凛が講釈した言葉を使って志度を加入させようとする。しかし、志度の加入にはモリソンがまったを掛けた。実はモリソンは、志度のことを小学生の頃から知っている。昔はあんなパンクロッカーみたいな格好はしていなかったし、もっと大人しい奴だった。すると、志度から驚くようなことを聞かされる。もうギターは弾けない、というのだ!

「Track.3」
小林さんは、27歳。高校生バンドに応募してくるにはちょっと年齢が高すぎるが、60万円もしたというヴィンテージギターをいじる手つきは流石で、いっきにバンドのレベルが上がったような感じだ。顔合わせを済ませ、今日は初めて音合わせをする日。入念に音を作る小林さんのこだわりにじれながらも、彼らは待つ。しかし、驚いたことに、トイレに行ってくると言ったきり、小林さんは戻ってこなかったのだ!なんでそんなことをしたのか…。

「Track.4」
初めて女の子の応募だぞ―。七海がそう言った時、誰も予想していなかった。ユウコちゃん(栄村由布子さん)が、まさか42歳のオバサンだなどとは。栄村さんが奢ってくれるというスイーツに釣られている七海と凛を横目に、モリソンは一人栄村さんの話を聞く。なんでも、これまでも高校生バンドに応募しては、断られてきているのだという。探せば同年代のバンドなどいくらでも見つかるだろうに、何故高校生バンドにこだわるのか…。さらに話を聞いていくと、どうも別居することになってしまった娘との関係修復を願ってのことだったようだが…。

「Track.5」
応募してきたのは、一つ年上の倉戸絵理。絵理がやってくる前、七海とモリソンはバンド名で揉めていた。自分の名前から取った「セブンシーズ」で押し切ろうとする七海と、4人を目指しているのに3人しかいない状況を模した「メヌエット」という名前にこだわるモリソンが険悪な雰囲気になっていた。絵理のロックに対する知識が深いために、凛と話が合うのが助かった。七海はいつもとは違って、絵理に対して敵意を剥き出しにするかのような態度を取っていた。音合わせにクラプトンの「いとしのレイラ」を選んだ絵理。その真意は、絵理から一人連絡をもらったモリソンはすぐに知るところとなったが…。

というような話です。

これはなかなか面白い作品でした。大粒な小説なわけではないですが、小粒ながらキラリと光る部分があるという感じの小説で、全体的にとてもうまくまとまっているような印象を受けました。

まず、全体の設定が面白いですね。バンドに限らずですが、スポーツ小説なんかでも、仲間を集めるところから話が始まっていくものは結構あると思います。でも本書の場合は、最後の最後まで、仲間を集めるだけで終わってしまう、というところがなかなか斬新だなと思いました。

連作短編集であり、全編バンドメンバー探しを貫くためには、毎回バンドメンバー探しに失敗しなければなりません。その点をミステリにする、という発想は、非常に面白いと思いました。募集を見てやってくる面々は、何かしら抱えている。彼ら三人は、自分たちのバンドのメンバーを探したいという気持ちは常にあるものの、しかしその一方で、相手の懸念を払拭してあげたい、という思いにも駆られてしまいます。そこがミステリになっていく。

やってくる人たちは、その人なりの理由があって彼らのバンドに応募してくる。小林さんのように、「ギターを弾かずに帰ってしまう」というのであれば話にならないのだけど、そうでもなければ、とりあえずバンドメンバーが決まったということでバンド活動をどんどん進めちゃえばいい。しかし彼らはそうしない。彼らは、その人たちが何故自分たちのバンドに応募することになったのか、ということが何だか気になってしまう。だから、その人たちが抱えている懸念を掘り下げ、あまつさえ解決に乗り出してしまう。しかしそうすることで、その人たちが彼らのバンドに応募してきた理由までなくなってしまうのだから、結局バンドメンバーが決まっていない状態に後戻りしてしまう、ということになる。この物語の構造が、うまく出来てるなぁ、と思いました。

何故彼らは、その人たちの事情を気にしてしまうのか。その詳しい理由は是非本書を読んでほしいのだけど、大きく言えば、彼らもまた傷ついてきた者たちだからだ、と言えるでしょう。モリソンの傷は、冒頭ですぐに描かれる。しかし、七海や凛もまた、それぞれ傷を抱えている。しかもそれが、物語の中でうまいこと絡んでくるのだ。実によく出来ている。七海の傍若無人さも、七海の背景を知れば多少は理解できるようになる…かもしれません(笑)

個人的に好きなのは、やはり「Track.4」と「Track.5」。この二つで、凛や七海の過去の話が明らかにされ、それが物語全体の骨格となっていく。全体的にだが、それぞれの個別の物語が何か突出して良いということはない。登場人物たちのそれぞれの問題は、有り体に言えばよくある話ではある。しかし、その組み合わせ方がなかなか上手いなと思う。

傷ついてきた者たち同士だからこその物語はとても優しい。僕が一番好きなセリフはこれだ(一応誰の誰に対する発言可伏せておく方がまだネタバレにはならないかなと思うので、セリフ中に出てくる名前は伏せてみます)。

『◯◯は私たちにすべてを話すことこそが誠意と思っているのかもしれませんが、それは違います。すべてを告白して相手に判断を委ねることは、相手に負担を強いるということです。私たちは◯◯を好きでいたいのです。だから、そのために必要な情報を与えてくだされば、それでいいのです』

これは凄く好きだなぁ、と思いました。僕の中にも、これに近い感覚があります。
僕の中では、「謝る」というのは、相手に「許容」を強要する行為だな、という感覚があります。謝ってしまえば、状況や相手との関係性にもよりますが、相手は許すしかなくなってしまう。許したくない、と思っていても、表向き許したことにしないわけにはいかない状況に追い込むことになる。だから僕は、どうも「謝る」というのが苦手だ。たぶんこのセリフも、感覚的にはそれに近いことを言っているのではないかと感じる。

傷ついてきた者たちだからこそ他人に優しく出来る。他人に優しく出来るからこそ、自分たちの現状を脇に置いて相手のために行動できる。しかもその優しさは、決して善意の押し売りのようには見えない(七海が傍若無人に振る舞うからこそ、彼らの優しさが100%純粋な優しさに見えない)。そこが良いと思う。

音楽やバンドのことに詳しくなくても、必要な情報は凛が詳しく説明してくれるし、たぶん読者以上に何も知らない七海をベースに物語が展開していくので、誰でも安心して読めます。バンドメンバー探しとミステリをうまく組み合わせた、なかなか読ませる作品だと感じました。

佐藤青南「君を一人にしないための歌」

脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方(ジョン・J・レイティ)

僕はこの本で、変わった読書体験をすることになった。まずその話を書こう。

本書のタイトルは、「脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」だ。このタイトルから僕は、この本は「運動」についての本なのだ、と思った。これは、突飛な発想ではないだろう。色々あって僕は本書を、自分の興味関心から手に取ったわけではない、という事情も絡んでいる。中身をちら見することもなく、「運動」についての本なんだろう、という思い込みだけで読み始めた。

読み始めると、やけに「脳」についての話が多い。まあ、確かに、「運動」によって「脳」を鍛える、という話なのだから、「脳」について触れないはずもないか。しかし…。などと思いながら読んでいた。そして途中で気付いたのだ。

なるほどこの本は、「脳」についての本なのか、と。

それに気付いたところから、「脳」についての本だと頭を切り替えて読めれば良かったのだけど、どうもそううまくは行かなかった。「運動」についての本だと思いながらかなりのページ数読んでいたこともあって、なんとなく自分の中でこの本を読むモチベーションの糸が切れちゃったように感じたのだ。「脳」についての本だと気づいてからは、読みながら、なんだかなぁ、という感覚をずっと拭えないままいた。

僕は理系の人間だったので、脳科学の話も当然大好きだ。これまでも、脳科学についての本は結構読んできたので、「脳」に関する記述が難しいとか、興味がないとか、そういう理由でモチベーションが切れてしまったわけではないはずだ。恐らくだが、脳科学の本だと思って読み始めていれば、また違った読み方が出来たはずだと思う。

少なくとも僕が見る限り、タイトルや帯には、本書が脳科学の本だとはっきり伝えるような表記はないと思う。タイトルなどからは、「どう運動すれば脳が鍛えられるのか」について書かれた本に見えるのに、中身は「運動することでどう脳が鍛えられるのか」についての本だったので、僕は結構戸惑ってしまった。

そういう意味で、タイトルや帯で何を伝えようとするのか、という点は本当に大事だなと思った。

内容に入ろうと思います。
本書は、先程書いたように、「運動することでどう脳が鍛えられるのか」についての本です。かなり硬派な脳科学の本だと思った方がいいでしょう。もちろん、脳科学の知見そのものを伝えることが本書の目的ではありません。あくまでも本書は、運動をすることの良さを伝えることが目的です。その点は間違いありません。本書を読むと、病気や障害や加齢など様々な問題に対して運動がとても有効であるということが伝わるでしょう。しかしそのために脳科学の知見を通らなければならない、というのがちょっとハードルになるようにも感じます。

本書では、運動がどういう事柄に影響を及ぼすとされているのか、ざっと列記してみようと思います。

◯ 学習
◯ ストレス・不安
◯ うつ・注意欠陥障害
◯ 依存症
◯ ホルモンバランス
◯ 加齢

本書ではこれらの事柄について、様々な研究結果、学校や病院での活動実績、著者自身が診た患者の経緯などを交えながら書いていきます。

著者は正直で、確実に立証されているわけではない研究については、そう付け加えた上で記述していきます(当たり前のことなんですが、こういうことが出来ていない本もあるので)。どういう運動をどのくらいやればいいのか、についても、定量的な研究がなされているわけではないからはっきりとしたことは言えないとしながらも、様々な研究結果から、少なくとも、運動をすることで良い風に脳が変化する、ということは間違いないと言えそうです。「良い風」というのが科学的ではありませんが、別にそういう表現が本書で使われているわけではなく、僕が勝手に書いているだけです。

運動によって脳がどう反応し変化するのか、という部分についてかなり詳細にその仕組みを説明していますが、「これから運動したい」「運動したいけどどんなことをすればいいのか分からない」という目的で本書を手に取った人には、求めていることが書かれていなくてなかなかイライラするかもしれません。正直なところ、興味がない人はそういう脳科学的な部分はすっ飛ばしていけばいいんじゃないかと思います。最低限、「どんな具体的な実例があったのか」と「運動の激しさや頻度が効果にどんな影響を及ぼすか」について書かれている部分を読めば、目的は達せられるのではないかと思います。

むしろ僕は、本書は、これまでずっと運動をしてきたけど、それによって色んなことがうまく行っているような気がする、という人が読むといいのかもしれない、という気もします。これから運動したい、という人にとっては本書は不必要な情報が多い本に思えるかもしれませんが、既に運動を習慣に出来ている人には、自分の身体に起こっている変化を知るという好奇心によって、脳科学的な記述も読めてしまうかもしれない、という風に思います。

思っていた以上に学術的な内容で、実用書だと思って手に取った人は面食らうでしょう。書かれていることは興味深いし、なるほどと思わせることも多かったのだけど、「学術書」を「実用書」だと思わせてしまうタイトルや表紙(意図したものかどうかはともかく)が、読者のミスマッチを引き起こしそうな本だなぁ、とも感じました。

ジョン・J・レイティ「脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」

どこの家にも怖いものはいる(三津田信三)

内容に入ろうと思います。
本書は、著者の三津田信三が、作中の登場人物として出て来る作品です。
小説家の三津田信三は、河漢社の三間坂秋蔵と定期的に会っている。仕事の打ち合わせではない。河漢社は専門書の出版社であり、小説を書いている彼が知らなくても当然の出版社だった。
三間坂はかねてより三津田信三のファンだったと言い、是非お会いして話がしたい、と言われ、仕事の打ち合わせだろうかと思いながら出向いていった、というところから、彼ら二人の会合<頭三会>はスタートした。
三間坂は、無類の三津田信三フリークであった。会う度に、お互いの個人的な話はそっちのけで、三津田信三の作品について語りに語った。やがて取り上げるべき作品が尽きてきた頃、三間坂は彼に、怪談は好きですよね?と問うてきた。
作品の多くが実話怪談をベースにしたものであり、またかつて怪談の蒐集をしていた時期もある三津田信三は、もちろん怪談が好きだが、三間坂のそれもまた凄まじいものだった。特に、語りの技術が抜群だった。聞けば、三間坂自身はそういう経験をすることはないという。怪談が集まってきやすい体質、とでも言うしかないだろう。
怪談の話をこれでもかとした後で、三間坂が変なことを言い出した。
「まったく別の二つの話なのに、どこか妙に似ている気がして仕方がない…といううす君の悪い感覚に囚われた経験が、先生にはありませんか」
そう言って三間坂が出してきたのは、二つの話である。一つはとある女性の日記であり、書き手である主婦の家で起こった不可解な出来事について触れている。そして二つ目は、少年の語りを書き記したもの。隣村の外れにある大きな屋敷に期せずして入り込んでしまった少年の体験を綴ったものだ。
時代も経験もまったく違う二つの話に、どことなく奇妙なものを感じた三津田信三は、その違和感を辿ってみることにするが…。
というような話です。

作品としてはそこまで良いとは感じませんでしたけど、短編集の見せ方としてなかなか面白い構成の作品だなと感じました。

本書には、5つの短編に序章・終章がつく、というような構成です。序章は、三津田信三がその5つの物語を読むことになった経緯が、そして終章ではミステリ的に言えば「解答編」が書かれている、という感じの構成です。

5つの短編は、何らかの形で素人が書き記した文章、という体裁を取っています。日記・聞き書き・ネット上の文章・応募されてきた小説のある章・自費出版された本のある章、という形です。だから、文体も雰囲気もバラバラで、そういう雰囲気の設定はうまいと思いました。本当っぽさ、みたいなものをうまく醸し出しているな、と。

三間坂と三津田信三が見つけ出してきた、来歴のバラバラな文章を並べて、それらに共通する違和感を取り出し、何故そんな違和感を醸し出すのかを議論する、という構成はなかなか斬新で、物語全体の構成としてはなかなか良くできている、と感じました。

ただ、僕が怪談的なものにさほど関心がないからでしょう、5つの物語にはどれもそこまで関心を惹かれなかったな、という感じでした。それは、僕が文章を読んでて頭に映像が浮かばないこととも関係があるかもしれません。怖ろしい描写がなされているんでしょうけど、僕にはこの作品で描かれている「異形の者」のイメージが頭の中にさっぱり浮かばない、という部分もあるかもしれません。

あと、「5つの怪談の共通項を探す」という設定は非常に面白いと思いましたが、一応設定としてこの作品は「三津田信三が実際に経験したこと」という体裁を取っているので、であればちょっと作為的に過ぎるなぁ、と思ってしまいました。もちろん、実際には本書は小説なので、僕のこの評価は厳しいかもしれませんが、ただ本書と同じ構成は、「三津田信三が実際に経験したこと」という体裁を取らずとも書けたはずだ、と思います。著者自身を登場させず、あくまでフィクションだ、という体裁で書けば、僕が抱いたような違和感はなかったでしょう。しかし、実話だ、という体裁を取っている以上、ちょっと色んなことが物語に都合よく描かれすぎている、と感じてしまいました。

とはいえ、なかなか良くできた作品だとは思いました。

三津田信三「どこの家にも怖いものはいる」

天盆(王城夕紀)

恩田陸「蜜蜂と遠雷」という小説を読んだ時は驚いた。
何故か。
この小説は、言葉で表現するのは不可能なのではないかと思える「音楽(しかもクラシック音楽)」を、言葉だけの力で描ききっている作品だったからだ。
誰もが知っているわけではない曲を、言葉の力だけで「聴かせる」。このことがどれだけ大変なことか、想像することはなかなか難しい。しかも「聴かせる」だけではない。「蜜蜂と遠雷」はクラシックのコンクールの話だったが、言葉の力だけで読者を、そのコンクールの「観客」に仕立て上げるのだ。その場にいて、その場で音楽を聴いているかのような感覚に、読者を引きずり込んでいく。凄まじい小説だったのだ。

本書も、ちょっと違うのだが、「蜜蜂と遠雷」を読んだ時に近いような感覚を味わった。

タイトルにもなっている「天盆」というのは、蓋という国固有の盤戯、つまりボードゲームである。将棋のルールを知っている人が読めば、概ね将棋に近いルールなのだろう、と想像は付く。しかし本書の中では、明確には「天盆」のルールは説明されない。

つまり読者は、ルールのはっきり分からない「天盆」というゲームについての小説を読むことになるのだ。

もちろん、そこにはプラスの効果もある。将棋ではなく、将棋に似た「天盆」という架空のゲームを設定したことで、「ゲームのルールそのものを知らなくてもこの作品は読めますよ」というメッセージを発することが出来る。「天盆」のルールを明確に設定しなかったのも、そういう意図からだろうと思う。

しかし、いくら将棋に似ているからと言って、ルールのはっきり分からないゲームについて描写することはなかなか困難だろうと思う。将棋のルールを知っている人に向けて将棋の対局を描写するのだってそう簡単なことではないはずだ。ルールを明示しないゲームの対局を描写することはより困難だろう。

しかし著者は、デビュー作にしてその困難をさらりと乗り越えている。確かに「天盆」のルールは分からないし、彼らがどう駒を動かしたのか、そうすることで盤面がどうなったのかなどの状況は分からない。それでも、対局中の熱気や対局に賭ける想い、一手指す毎に変化する観客の様子や息遣いなんかを、実にうまく描き出していく。

ルールを明示しない架空の「天盆」というゲームを設定したことで、「将棋は知らないから…」と尻込みされる可能性を排除出来た。そして、ルールを明示しないゲームの描写を、その筆力によってきっちりと描き出すことで、「天盆」を設定したマイナス部分を見事に補って見せた。その力量に、僕は驚かされたのだ。

内容に入ろうと思います。
蓋の国には、「天盆」と呼ばれる盤戯が昔から親しまれている。国を興した者たちが興じていたことがきっかけだったらしいが、今では天盆の才のあるなしが立身に影響を与えるほど、蓋の国では重要なものとなっている。
蓋の東端に住む少勇は、大工ではあるがあまり仕事をせず、賭け天盆などで日銭を稼ぐ毎日。その妻・静が中心となって「百楽門食堂」を切り盛りして、なんとか生計を立てている。
彼らには、12人の子どもがいる。そしてまさに今日、一人子が増えた。12人の子は皆、12×12のマスで行う天盆にちなんで、1から12までの数字の含んだ名前となっている。しかし13は天盆にはないので、仕方なく「凡天」という名前をつけた。
様々な個性を持つ、5人の兄、7人の姉たちに囲まれながらすくすくと育った凡天。やがて天盆を習うようになるが、天盆とは相性が良かったのだろう、凡天はめきめきと強くなり、やがて「天盆士」を目指して塾に通っている二秀を除いて、兄弟の誰も凡天に勝てなくなってしまった。
夏街祭で行われる天盆の大会に凡天を出すことにしたが、そこで類稀な強さを見せつけたことで、凡天とその家族はちょっとした窮地に陥ることになる。食堂で使う食材を仕入れるのにも事欠くようになっていったが、家族総出で助け合いながらどうにか取り繕う。そんな中でも凡天は、何かに取り憑かれたかのように天盆をし続けるのだが…。
というような話です。

デビュー作とは思えないほどの力強さを持った作品で、冒頭でも書いたように、ルールを明示しない「天盆」をベースにしながら、一人の少年の奮闘を描ききった意欲作だと感じました。

まずはやはり、「天盆」に関する描写が素晴らしいですね。ルールこそ示されないのだけど、蓋の国において天盆がどんな存在であるのか、どんな歴史を持っているのか、天盆が強いとどうなるのか、強い天盆打ちたちがどんなことを考えているのか、というようなことまで深掘りされていきます。日本における「将棋」とは、ルールこそ近いですが、存在としては大分違っていて、蓋の国にとっての天盆は、かつての中国にあった「科挙」と呼ばれる試験のような、そこに才を見出されれば登用される可能性があるというような、そういう重要な存在として描かれていきます。

そういう存在として天盆を描き出すことで、電子デバイスが普及しているわけではないという設定や、民が政治に対してどう感じているかという内実など、実に多くのことを自然に物語の中に登場させている、と感じました。この設定が上手いなと感じました。

前半は、ただ天盆を異常に好きなだけの凡天を中心に描かれる作品ですが、後半になればなるほど、天盆を中心とした蓋の国の歪みみたいなものが浮き彫りになっていく展開になります。架空の国の輪郭を、天盆と呼ばれる架空の盤戯を通じて描き出すことで、蓋という国がリアルに立ち上がってくるような、そんな印象を受けました。

そして、凡天を含めた登場人物たちが実に活き活きと描かれているのも素晴らしい。それほど長くない物語ではあるのだけど、本書は登場人物がメチャクチャ多い。凡天の兄弟からして12人もいて、さらに町の人間、天盆を通じて関わる者、蓋の国を司る者たちなどなど、実に多くの人物が描かれていく。これだけの登場人物を描き分けるのは非常に困難なはずだが、著者は彼らを躍動感溢れる描き方で登場させる。

特に、少勇を中心とする一家の面々は魅力的だ。全員の名前を出すのは面倒なのでやらないが、12人それぞれが家族の中で役割を担い、支え合いながら生きている。天盆ばかりに興じている凡天と、未だに天盆士の夢を諦めずに凡天と共に天盆を指し続ける二秀が、一家の中で稼ぎをもたらさないある意味で穀潰しなのだ。しかし、色んなことが起こりながらも、そんな二人も家族として彼らは受け入れる。

本書は、天盆という盤戯から蓋という国の歴史を描き出す物語ではあるのだが、もう一つ、家族の物語という側面がある。本書は最初から最後まで、「家族とは何か?」と猛烈に問い続ける作品でもあるのだ。13人の兄弟にどんな過去があるのか、ということについてはこの感想の中では触れないが、「家族」であるために彼らがどう振る舞ってきたのか、「家族」というものをどう捉えることでまとまりを成してきたのか、などが随所に描かれていく。「家族」である、ということが決して当たり前ではない環境の中で、それでも「家族」だ、と力強く言う覚悟みたいなものを、兄弟たちがどう気づき身につけていくのか。少勇と静という二人の男女が、いかにして「家族」という輪郭を維持し続けてきたのか。そのことが、強烈に描かれていく作品だ。

「家族」について静が放った言葉には、ハッとさせられる者も多いだろう。

凡天は、ただ無心に、強くなりたい、勝ちたいという想いだけで天盆を指し続けるが、しかしそのことが彼ら家族を結果的に追い詰める場面が頻繁に出てくる。天盆が才あるものを登用するための入り口として用いられている蓋の国ならではだろう。そういう状況の中で、彼ら家族のあり方が問われていく。凡天は、確かに滅法強かった。10歳にして、誰も到達出来ないのではないかと思われるような圧倒的な高みに手を伸ばせる位置にいる。しかし、凡天がその力を最大限に発揮出来たのは、家族がいたお陰だ。凡天は、一人では決して闘えなかった。

本書の中で非常に印象的なセリフがある。

『誰かのために戦う奴に勝てるわけがない』

その通りだと僕も思う。しかし凡天は、さらにその上を行くと僕は思う。凡天は、自分のためでも他人のためでもなく戦う。純粋に、戦うことの高揚を、勝つことの喜びだけを追い求めて戦うのだ。それは、無心であるが故に、圧倒的に強いだろうと思う。

『この期に及んで、この童は、楽しいのか。
何の制約もない。
何の掟もない。
己のすべてを解き放って、ただ、駒を打つだけ』

そして凡天にそれを許容したのが、彼の家族たちだ。凡天は決して、家族のために戦わったわけではなかった。むしろ、家族と共に戦ったという方が正しいだろう。凡天という異能を受け入れ、のびのびと生きさせた。そのことで、奇跡を呼び起こしたのだ。

物語が終盤どう展開するのか、具体的には触れないが、凡天の戦いと同時並行でとある戦いが描かれ、両者が呼応していく。凡天の快進撃は、蓋の国に一つの伝説を打ち立てようとしている。蓋の国ではもう長い間、天盆の実力者にしかなることが出来ない「征陣者」が平民から出ていない。もし凡天が天盆陣で勝ち進めば、平民から「征陣者」が出るという奇跡が生まれることになるのだ。その予感を孕んだ空気が、人々を熱狂させる。そして、凡天と共に別の戦いを挑む者たちもまた、その熱狂の中にいる。

ここでは触れないが、本書の最後の一文は、まさにその熱狂の渦の中にいた者たちを描写したものだ。物語を閉じるのに、これほど素敵な一文はないだろうと思われるほど、この物語に相応しいラストだと思う。

物語全体は、勘の良い人間なら先の展開が読めてしまうかもしれないぐらい、まさに王道と呼べるようなものだ。王道を臆せずに真正面から堂々と描ききる筆力と物語力に溢れた一冊だ。

王城夕紀「天盆」

改革者 蘇我入鹿(町井登志夫)

歴史は勝者の記録だ、というのはよく言われることだ。だから歴史が嫌いだ、などと言うつもりはない。僕は歴史が嫌いだが、嫌いな理由は勝者の記録だからではない。歴史の授業で、「これこれこういうことが起こった」と説明されることが腹立たしかっただけだ。実際にそれが起こったかどうか、分からないではないか。事実、歴史の教科書に乗っている「事実」はどんどん変わっている。歴史の授業で、「こういうことが起こった可能性がある」とか「歴史は物語のようなものだ」みたいに教えてくれたら、こんなに歴史を嫌いにならなかったかもしれない。

まあそれはともかくとして、僕が「歴史」というものを考えるとき、自分では確かめる手段はないが興味深いことがある。それは、「インターネット」というものが出現して以降の「歴史」というのは、どのように記述されるのか、ということだ。

インターネットが誕生してまだ数十年。それは、教科書に載るような過去の出来事ではない。しかし時が経てば、今僕たちが生きているこの時代も、やがて教科書に載るようになるのだろう。

その時、「歴史」はどう記述されるだろうか?

これまでは、「物理的に書き記された記録」だけが歴史を記述する際のほぼ唯一と言っていい物証だった。だからこそ、「歴史」を「勝者の記録」とすることが出来たのだ。

しかし、インターネットが出現して以降は、「電子的に書き記された記録」も登場する。というか、そちらの情報の方が圧倒的に多いだろう。誰が勝者なのかも分からないような戦いがあちこちで繰り広げられ、また敗者であっても電子的な記録を誰でも残せる時代。相反する様々な情報が乱れ飛ぶ中で、一体どれを「正史」として歴史の教科書に載せるのか。

それを、誰が決めるのか?

これまで歴史家と呼ばれる人たちは、発掘したり古文書や古い資料なんかを当たったりして、歴史を紐解こうとしてきた。それには専門的な知識が必要で、そういう一部の人たちが何らかの協議なり議論なりをして、いわゆる「正史」と呼ばれるものが作られてきたのだと思う。

しかしこれからはどうだろう。現実のフィールドでの作業がなくなることはないだろうが、電子データを隅々まで漁ることも、歴史家に要求されるようになるのではないか。そうなった時、「歴史家」と呼ばれるためには何が出来る必要があるのだろうか?

そんなことをつらつら考えながら読んでいた。

内容に入ろうと思います。
西暦645年、飛鳥京大極殿にて蘇我入鹿が殺された。中大兄皇子と中臣鎌足によるこの事件は、「大化の改新」として知られる、歴史に疎い僕でも知っている程有名な歴史的事実である。歴史に疎い僕はそれ以上のことを知らないが、どうやら蘇我入鹿は、「謀反者」として斬り殺されたようだ。そうだったのか。とにかく、勝者(中大兄皇子、中臣鎌足)による記録では、そうなっているようだ。
しかし著者は、そうではないのではないか、と異を唱える。謀反者として斬り殺された蘇我入鹿こそが、倭国の将来を憂え、民のために尽くした権力者だったのではないか―。それが本書の主題である。
大化の改新の17年前、西暦628年。推古天皇が崩御した。問題は後継者だ。推古天皇は、後継者に田村皇子を指名したとされている。しかし、遺言で次の天皇が決まったなどという先例はなく、また様々な条件から本来相応しいのは、あの聖徳太子の息子である山背大兄王だろうということで、揉めているというのだ。蘇我入鹿には下らない、どうでもいい争いにしか思えなかったが、それぐらい世の中が穏やかになっているということだ。かつては大陸の脅威を常に意識し、摂政・聖徳太子、大臣・蘇我馬子、そして推古天皇という三人が完璧な布陣を敷き、大陸への備えを欠かさなかったものだが、今は皆がだれきっている。
そんな中蘇我入鹿は、父の命により、大陸(唐)を見聞してくることとなった。隋はあっけなく滅びたが、唐はどうか、その目で確かめてこい、ということだ。大陸に足を踏み入れた蘇我入鹿は、唐という国の恐るべき底力を目の当たりにする。皇帝である李世民を筆頭に、皆で国を作るのだという若い熱意に満ちあふれている。その途上で出会った高表仁とは敵味方というような単純には割り切れないような関係をその後も続けていくことになる。
幾度も死地を脱しながら唐から戻ってきた蘇我入鹿は、唐の脅威をまざまざと見せつけられ、倭国としてどう振る舞うべきか考え始める。韓半島の三国が緩衝地帯となっており、特に高句麗が落ちなければ倭国は安全だと思うが、しかし…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。しかし、同著者の「爆撃聖徳太子」と比較すると、どうしても差を感じてしまう部分もありました。以降は、「爆撃聖徳太子」との比較の中で本書を捉えてみたいと思います。

本書も「爆撃聖徳太子」もどちらも、歴史をそれまでとは違った捉え方をするという意味では同系統の作品です。本書では、謀反者だとされていた蘇我入鹿が実は改革者だったのではないかと。そして「爆撃聖徳太子」では、聖徳太子が実は奇人変人(しかしきちんと国を憂えた行動をしている)だったのではないかと捉えています。そもそも歴史が得意ではない僕は、蘇我入鹿にしても聖徳太子にしても、本来どう描かれているのかということをほとんど知らないので、実は意外性を感じるのが難しいのですが、しかし「爆撃聖徳太子」という作品はその点をするりと乗り越えたのでした。

何故なら、「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子は、本当に「ヤバイ奴」だったからです。聖徳太子がどんなことをしたのか知らない人でも、聖徳太子は「凄い人」「偉い人」という印象は持っているでしょう。僕も同じです。しかしそのイメージを完全に覆す描き方をしていました。聖徳太子について詳しく知らない人でも、「爆撃聖徳太子」を読めば誰でもギャップを感じられる、そういう内容でした。

しかし本書の場合は違います。僕は、蘇我入鹿がそもそもどういう人なのかという歴史的な描かれ方を知らずに本書を読みましたけど、本書で描かれる蘇我入鹿のどの辺りまでが教科書通りで、どの辺りが教科書から外れているのか、ということが(作品のせいではなく完全に僕のせいではあるんですが)分かりませんでした。だからこそ、本書を読んだだけでは、蘇我入鹿に対してギャップを感じることが難しい、ということになってしまいます。その点が、この作品を楽しむ上で障害になったな、と感じました。

また、そういうギャップを感じるかどうかという点を仮に除いたとしても、「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子と、本書で描かれる蘇我入鹿は、キャラクターとしての魅力度が圧倒的に違います。「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子は、仮にそれが聖徳太子でなくても(という表現は変ですが)、その振る舞い全体で魅力を放つ奇人変人だと思います。しかし蘇我入鹿の方は、基本的には実に真面目な性格で、そういう部分も蘇我入鹿に魅力を感じにくい要因かなぁ、と思いました。

また、「爆撃聖徳太子」では、視点人物が小野妹子だった、という点も非常に重要だったと思います。聖徳太子目線ではなく、聖徳太子にパシリとして使われる小野妹子視点で物語が進むことで、聖徳太子の異常さや、小野妹子のパシラれっぷりが、小説としての魅力を引き立てていると感じました。しかし本書の場合は、視点人物は蘇我入鹿本人。振り回されるような人物がいるわけでもなく、しかも蘇我入鹿の実直で真面目。そこに、小説としての魅力を感じるのは難しかったなと思います。

もちろん、だから本書がダメだ、というわけではありません。「爆撃聖徳太子」という作品があまりにも面白すぎるために、本書が一段低く見えてしまうのです。読む順番が違っていたら感じ方もまた変わっていたかもしれません。

「爆撃聖徳太子」でもそうでしたが、本書も「日本書紀」や「三国史記」の記述をかなり正確に取り入れているようです。とはいえ、そのほとんどが著者の想像の産物でしょうが、1500年近く前の時代の話を、まるで見てきたかのように活き活きと描く様は本当に見事で、歴史にまったく興味のない僕でも惹きつけられるものがありました。特に、大陸に渡った蘇我入鹿が経験する様々な戦闘は、スケールの大きなものから小競り合いまで様々で、面白いと思いました。

大陸の若さと強さを見た蘇我入鹿は、ひとり大陸を脅威に感じるのに対して、倭国の中で小競り合いを繰り広げる輩はもう緩みきっていて、蘇我入鹿が感じている深刻さに共感できない。その気持ちの差が、言動の差に繋がり、結果として価値観の致命的な断絶に繋がっていく。その過程が実に丁寧に描かれる作品で、エンターテインメント小説としてはどうしても「爆撃聖徳太子」に劣るものの、読み物としてはなかなか読ませる作品だと感じました。

町井登志夫「改革者 蘇我入鹿」

真夏の島に咲く花は(垣根涼介)

『楽園は、周りの人間と作り上げていくものだよ。場所なんかじゃない。そしてその人間関係がもたらす心の風景だ、と』

この文章はとても良いなぁ、と感じた。

本書を読むと、「幸せな人生って何だろう?」と考えさせられる。
僕は昔から、金持ちにはなりたくない、と思っていた。金持ちになることで自分が幸せになれるイメージがどうしても出来なかったのだ。
もちろん、お金があることで、日常生活に不自由はなくなるし、何か大きなトラブルが起こった時にも対処しやすくなるし、やりたいことが出来るようになるだろうし…と、色々良い点はあるはずだ。けれど僕には、マイナス面の方が大きいように感じられてしまう。

それは、失うことの恐怖だ。

もともと持っていなければ、失う恐怖を感じることはない。もちろん、どんな人生でも多少なりとも何かしら持っているだろうが、それが小さなものであればあるほど、失う恐怖も小さくて済む。

しかし、大金や大金に付随してまとわりついてくる様々なものは、とても大きなものだし、その大きなものを一度手にしてしまった時、それが失われる恐怖はとても大きなものに感じられてしまうだろうなぁ、と僕はずっとそんな風に感じている。

『何千キロ、何万キロも離れた南の島にやって来ても、仕事のことや、将来のことや、家族のことなどをついあれこれと考え、物思いに沈んでいる。そしてときおり憂鬱そうな表情を垣間見せる。せっかくすべてを忘れて楽しむためにこの島にやって来ているのに、母国に置いてきたはずの日常に引き摺られている。
見ているこちらが、寂しい気分になった。
彼らの心は、どんなところに行っても、常に今ある生活の心配から自由にはなれないのだろう。この島で生まれ育ったフィジー人よりもはるかに裕福で、いろんな物も持っているのに、チョネが生まれ育ったここの住人のようには無邪気に笑えない』

「今ある生活の心配」というのは、僕の言葉で言い直せば「失う恐怖」ということだろう。今自分が手にしているものを失わないために努力し続けなければならない。その努力が出来なくなれば、それはあっさりと自分の手からこぼれ落ちてしまう。そういう恐怖を、みんな抱いているのだろう。

そういう恐怖に自覚的だった僕は、お金に限らず出来るだけ「手放せない何か」を持ちたくない、と思ってこれまで生きてきた。そういう生き方は、ある意味で寂しいものではあるが、プラスの事柄よりもマイナスの事柄の方をより過大に評価してしまう僕には、そういう生き方が合っていると思った。

『勤勉であること。約束を守ること。お互いに助け合うこと。
それらの根底にある思想は、飢えへの恐怖だ。(中略)
つまり、これらの美徳は、植えの回避という要因から発した後天的なものに過ぎない。だが、働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会では、勤勉さや約束遵守の精神はそれほど求められない。』

それ以外の価値観を知らない状態で生きられるなら、そういう「働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会」で生きることが何よりも幸せに繋がるのだろう。そういう中で育むことが出来る人間関係の中にこそ、楽園は存在するのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
物語は、南国の楽園であるフィジーが舞台だ。雑多な人種が暮らすフィジーでは、陽気でおしゃべり好きで働くことにはあまり向かないフィジー人を筆頭に、かつて奴隷として連れてこられたインド人を祖先に持つ者や、日本人・中国人などが暮らしている。
織田良昭(ヨシ)は、親から受け継いだ日本食レストラン「織田」のオーナーであり、フィジーに根ざして生活をしている。学生時代に同級生だったフィジー人のチョネとは、学力や性格の違いを越えて仲が良かったし、父親が観光客向けの土産物屋を営んでいるインド系のサティーとは今交際中だ。ガソリンスタンドで働くチョネには、就労ビザでフィジーに滞在している観光ガイドの塩田茜という彼女がいる。茜は、容姿も条件も良かったインド系のパイロットと付き合うのを蹴って、貧乏なフィジー人であるチョネと付き合っている。日本の文具会社を辞めフィジーにやってきた彼女は、フィジーという国が持つ、茜を惹きつけて止まない魅力が何であるのかを見極めたくて、フィジーに留まっている。
観光で成り立っているフィジーでの生活は、元々貨幣経済に組み込まれていなかったフィジー人にとってはなかなか厳しいが(時給2ドルの仕事ばかりする羽目になる)、勤勉で努力家なインド人や日本人にとっては、きちんとやっていればちゃんと成功できる国だ。ただ、かつて奴隷だったにも関わらず今は成功しているインド人と、フィジーは自分たちの国だという意識が強いフィジー人の間には、長いこと民族的な対立があり、両者がお互いに対して根強い嫌悪感を抱き続けている。
その対立が決定的な形で表に出てしまった。
ジョージ・スペイと名乗る先住民系武装グループが国会議事堂を占拠し、閣僚たちを監禁するという事件が発生した。首都スパで起こった事件は、ヨシやチョネたちが住む町には直接的な影響をもたらさないが、観光客の激減や、最悪な形で露わになった民族的対立が、徐々に彼らの生活に微細なヒビを入れ始め…。
というような話です。

一度読んだ記憶があるんだけどすっかり忘れてて読み直してみましたけど、なかなか面白い作品だと感じました。遠くフィジーを舞台にすることで、日本人にはちょっと遠い景色に見えてしまう可能性もあるのだけど、冒頭でも少し触れたように、フィジーを舞台にすることで、「幸せな人生」とは何か、という問いを追求しやすくなった、ということが出来ると思います。

物質的、金銭的に満たされることをどうしても追い求めてしまう風潮があるのだけど、でも僕は、そういうベクトルの先には幸せはないんじゃないかなぁ、と思ってしまいます。でも、生まれた時から資本主義が程よく成熟した社会に生きている僕らには、それに変わるシステムや努力の仕方というのがなかなかイメージ出来ません。しかし、フィジーという、本質的には働かなくても生きていける国を舞台にすることで、本当の幸せについて考えやすくなるように思います。

またそこに、民族的な対立というのが加わってきます。日本に生きていると、なかなかこういう対立について意識することはないですが、フィジーにおけるフィジー人とインド人の対立というのは、宗教や歴史を背景にしたものというよりは、「どう生きるか」というスタンスの差異から生まれているように僕には感じられました。その点が、お互いにあまりにも食い違っているために、同じ国で生活していながら、日常の中で相容れない部分が出てきてしまいます。フィジー人はそうする必要性をあまり感じないからあまり熱心には働かないし、インド人はそれが当然だと思うから勤勉に働く。その結果当然、フィジー人は貧乏だしインド人は裕福になるのだけど、フィジー人は自分たちの土地に後からやってきたのに裕福になるインド人に苛立ちを隠せないし、インド人は自分たちのお陰で経済が成り立っているのに不満ばかり言うフィジー人に苛立ちを募らせていく。その辺りの描写が実にうまいなと感じました。

そしてそんなフィジー人とインド人の間に、ヨシや茜のような日本人が絡んでいく。日本人としては、性格的には勤勉なインド人に近いが、フィジーまでやってきて働こうと思うような日本人からすれば、陽気でいつも楽しそうなフィジー人に好意を抱く部分もある。なかなか難しい立ち位置の中で、なんとか楽しく生きていくために日々を過ごしている。

貨幣経済だの民族的対立だの難しいことを書いてみたが、小説としてはそんな小難しさを感じる内容ではない。様々な人種の登場人物が、フィジーという国の論理をベースに生活をしている様が実に活き活きと描かれていく。彼らの日常を丁寧に描きながら、遠い首都で起こった出来事がじわりじわりと彼らの生活を侵していく様を上手く描いていく。「楽園というのは場所なんかじゃない」ということが、読み進めていく中で強く実感されるだろう。楽園は場所ではない。人間関係の中にある、というのも正しいが、結局は、そこを楽園にしようという個々人の努力の積み重ねでしかないのだろうと思う。

垣根涼介「真夏の島に咲く花は」

潔白(青木俊)

殺人犯はそこにいる」という作品がある。去年、「文庫X」として注目を集めた作品だ。この作品は、その「殺人犯はそこにいる」を下敷きにしている、と言っても良い作品だ。「殺人犯はそこにいる」で取り上げられたある事件の「その後」という「if」を描いている作品、という風に言える。

この点は、本書の利点でもあるし、欠点でもある。

本書では、「冤罪死刑」を取り上げた作品だ。死刑判決が下され、実際に死刑が執行されながら、それが冤罪である可能性について描く作品だ。本書のベースとなる事件は、実際に存在する。現実には、「冤罪死刑」を追及するような流れは生まれていない。再審の壁は、あまりにも高いからだ。本書では、そのあまりにも高い壁をもし乗り越えることが出来たとしたら、そこにどんな現実が展開する可能性があるのか、という予想を示している。

そして、「殺人犯はそこにいる」を読んだ者であれば、本書で提示された予想が、恐らくほぼ現実のものとなるだろうと感じることが出来るだろう。

『冤罪死刑が認められれば、日本の法曹界は、それこそ天地をひっくり返したような騒ぎになる。法務大臣、最高裁長官、検事総長らのクビが飛ぶ。死刑制度の見直しはもちろん、警察、検察の捜査のあり方、証拠の扱い、裁判の進め方、冤罪の防止策など、刑訴法の改正に話が進む。日本の硬直した司法制度に風穴が開く。その意味はあまりに大きい』

これは、弁護側の述懐だ。その通り。本書で描かれる冤罪死刑が認められれば、司法制度が大きく変わる。それは、普通の感覚で考えれば、とても良いことだ。正しいことが正しい形で通りにくかったこれまでの司法のあり方を変え、正しいことが正しいこととして認められるような、そんな道を進むことが出来るはずだ。

しかし、検察側はそうは考えない。

『いまの検察のあり方には、若手の検事を中心に疑問の声が強い。大阪地検の証拠改竄や裏金問題は、組織への不信として、いまも庁内に澱のように沈殿している。強引な国策捜査への批判は強いし、逆に首相側近の大臣や、東電、東芝といった大企業を不起訴にした姿勢にも、不満が燻っている。
そうした声には高瀬も共感する。しかし、だからといって、検察の威信が傷つき、力が失われてよしという訳では決してない。何といっても、検察庁はこの国の法治の要だ。
冤罪死刑を認めることは、検察を貶め、法治の危機を招来する。
自分も検察の一員なのだ。その権威と権限は、何を置いても守り抜かねばならない』

この感覚を、僕はとても怖いと感じる。

本書は小説だ。だから、上記のような考えを、一般の(あるいは一部の)検察官が実際に持っているのか、それは分からない。しかし、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを読む限り、そう考えている検察官が多いのだろうという推察は合理的ではないかと思う。

そしてもしそうだとした場合、とても厄介だ。

僕はまだ、検察官が、個人の保身を目的に不正を働く方がマシだと思える。少なくともそれは、自分が悪いこと、間違ったことをしているという認識を持っているはずだからだ。しかし、先に引用したような、「検察という組織の権威を守るために不正を働かなければならない」という論理を違和感なく抱いているとすれば、自分が悪いこと、間違ったことをしているという感覚を持っていない可能性さえあると僕には感じられる。それは、とても怖ろしいことだと思う。

先に引用した内容は、一般的な感覚からすれば承服出来ないだろう。「検察庁はこの国の法治の要だ」という点には、恐らく多くの人が賛同するだろう。しかし、「だからこそ冤罪死刑を認めず、それによって権威を維持すべき」という価値観はおかしい。「だからこそ冤罪死刑を認め、誤りを浄化し、過ちが起きないように対策を取る」というのが正しいだろう。それが最終的に、組織を守るということに繋がるはずなのだ。しかし、どうもそういう発想は持てないようだ。

本書の中で検察は、冤罪死刑を認めさせないために、これでもかというほど汚い手を使う。権力を持つ人間が、その権力を最大限利用すれば、大抵のことはねじ伏せることが出来てしまう、ということをまざまざと見せつけられるような作品だ。そして、「殺人犯はそこにいる」を読んでいる者には、本書で描かれる検察の動きが、恐らくそうなるだろうと思わせるような振る舞いなのだ。司法というものへの深い絶望を抱かせるのに十分な作品だ。

さて、本書が「殺人犯はそこにいる」を下敷きにしているが故の欠点にも触れよう。それは、「殺人犯はそこにいる」を読んでいないと、この作品単体では不十分に感じられるだろう、という部分だ。

本書は、260ページぐらいの小説だ。長編小説としては短い部類に入るだろう。その中で、これまで日本で議論されたことのない「冤罪死刑」をリアルの遡上に載せようとする作品なのだ。そのことを考えると、ページ数があまりにも少なすぎると僕は感じる。恐らく意図的にそうしたのだろうと思うが、本書は、読者が「殺人犯はそこにいる」を読んでいるということをある程度以上前提に置いて作品を書いていると思う。そうでなければ、「足利事件」や「MCT118」や「再審請求」などについて、作中でもう少し詳しく触れるのではないかと思うのだ。また、検察や裁判所がどんな風に動くのかという具体性について、それをよりリアルに感じさせるような描写がもっと入ってくると思うのだ。

僕は「殺人犯はそこにいる」を読んでいるから、本書を読んで特に違和感を覚える部分はなかった。しかし読みながら、「殺人犯はそこにいる」を読んでいない人間が本書だけを読んだ時に、この物語にリアリティを感じることが出来るだろうか、と感じてしまった。それは、ちょっと難しいのではないかと思うのだ。それぐらい、本書で描かれている検察や裁判所の動きは、常識的には考えにくい、常軌を逸したものなのだ。

本書の欠点は、まさにこの点にある。「殺人犯はそこにいる」を読んでいない人間に対して親切ではないと僕は思う。本書だけでは、独立した作品と呼ぶことが、ちょっと難しいような気がしてしまうのだ。もちろん、僕はそういう本作りを、意図的なものだと思っている。そういう欠陥が生まれることを理解した上で、こういう造りにしたのだろうと考えている。そういう意味では、戦略とも言えるような欠陥であり、とやかく言うようなことではないのかもしれないが、やはりこの点は指摘しておくべきだろうかと思い書いてみた。

内容に入ろうと思います。
1989年7月に発生した「三村事件」と呼ばれる殺人事件がある。小樽市にあるスナック「美鈴」で経営者の野村鈴子と小学生の娘・優子が絞殺死体で発見された。捜査はなかなか進まなかったが、事件発生から一年八ヶ月後に、同市内で工務店を営む三村孝雄が逮捕された。様々な状況証拠があったのだが、最終的には「MCT118」と呼ばれる、当時の最先端技術を駆使したと喧伝されたDNA鑑定によってDNA型が一致、それにより死刑判決が下された。通常死刑が執行されるまでには判決から10年以上かかる。しかも三村は再審請求の準備を進めていた。再審請求者の処刑は見送られるのが慣例なのだが、三村の場合は何故間、判決からわずか2年での死刑執行となった。
その判決に、納得しない者がいた。三村の娘・ひかりだ。小学生だったひかりは、犯行があったその日の夜、ひかりの部屋で父と二人でずっと一緒にいた。だから、父が犯行を行えたはずがないのだ。そのことを、誰よりもひかりがよく知っている。しかし、身内の証言ということで聞き入れられることはなかった。
ひかりは、父に死刑判決が下って以降、父の冤罪を証明することに人生のすべてを捧げることにした。あらゆる手を尽くしたが、「開かずの扉」と呼ばれる再審への道を切り開くだけの有力な証拠を見つけることは出来ないでいた。
しかし、「足利事件」の冤罪が証明され、事態は少し前進した。「足利事件」でDNA型の鑑定が行われたのは、三村事件と同じ「MCT118」という手法だったのだ。その手法について詳しい、と評される弁護士事務所で森田と出会い、ひかりは一筋の光を求めて再審への道を進んでいくことになるが…。
というような話です。

冒頭でも書いたように、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを大分下敷きにして書かれた作品です。本書で描かれる「三村事件」のモデルとなっているだろう事件は、福岡県で起こった「飯塚事件」だ。無実を訴えながら死刑判決が下され、2年で死刑執行された、という点が共通している。「殺人犯はそこにいる」では、「足利事件」を含む5件の連続幼女誘拐殺人事件の真犯人が、判明しているのに何故逮捕されないのかの理由として、「MCT118」という鑑定法が間違っていたと認定したくないからであり、では何故認定したくないかと言えば、「飯塚事件」でも同じ鑑定法を用いており、「MCT118」の真偽が揺らぐと「飯塚事件」において「冤罪死刑」の問題が取り沙汰されるからだ、と指摘している。

そしてまさに本書は、その「飯塚事件」(本書の中では「三村事件」)における「冤罪死刑」が議論の遡上に乗せられた時、検察や弁護側や世間はどう動くか、ということをリアルに描き出す作品なのだ。

読みながら、「検察や裁判所はこれぐらいのことはやるだろう」と思った。それは、最近読んだ「裁判所の正体」という作品の影響も大きい。元エリート裁判官である瀬木比呂志氏が、裁判所の実態を清水潔に語るような対談本である。「裁判所の正体」の場合、メインで描かれるのは裁判所であるが、ほとんど検察や権力と一体化している現実が描かれている。

『日本人は、裁判官と言えば、大岡越前や遠山の金さんをイメージするがね、大いなる誤解だな。ちなみに、アメリカとも大違いで、アメリカの裁判長は市民の代表、日本の裁判長は公務員、お上の手先…』

と本書「潔白」の中で書かれているが、まさにその通りなのだ。検察も同じだ。

『なるさ。三村事件の再審は、検察量が総がかりで潰すマターです。』

『多くの検事が“割る”ことが、被疑者更生の第一歩だと信じており、“割れる”検事が有能とみなされる。そして“割った”からには、たとえ証拠が完全でなくとも、果敢に“立てる”。』(割る=自白させる、立てる=起訴する)

『有罪率99.9%。
検察は、自分たちの主張が丸呑みされなかった判決を「問題判決」と呼び、猛烈に嫌う』

こういう世界なのだ。

本書は、小説だ。実際に「冤罪死刑」が俎上に載った際、どんな展開が待ち受けているのか、それは誰にも分からない。しかし、「殺人犯はそこにいる」や「裁判長の正体」を読んだ者にしてみれば、本書で描かれる検察・裁判所のあり方にはさほど驚かされないだろう。確かに、そういう振る舞いをするだろうな、と冷製に捉えることが出来るはずだ。それぐらい検察や裁判所は、荒唐無稽であり得ないことを平気でやってくるところなのだ。「法治の要」と言って組織を守る、まさにその組織こそが最も法治から遠い場所にあるという、皮肉な現実を如実に描き出す作品だ。

青木俊「潔白」

ひきこもりの弟だった

生きていたくないなぁと、昔はよく思っていた。今も、まったく思わないわけではないけど、昔よりは大分マシになった。

「俺は普通の人みたいに、普通のことができない」

あぁ、凄くよく分かる。僕もずっと、今でもそう思いながら生きている。

当たり前に出来ることだとされていることを、何の疑問もなく出来る人は、昔は羨ましかった。別に、大したことではない。誰かに良い事が起これば喜び、誰かに哀しいことがあれば哀しみ、家族や友だちを大切にする…みたいなことが、僕にはうまく出来なかった。いや、表向きは、たぶん出来ていたと思う。問題は、僕の心だ。心の中では、ずっと、違和感ばかり募っていた。周りのみんなが何の疑問も持たずにやっている多くのことが、僕には、なんでそんなことをしなきゃいけないのか全然理解できないようなものだった。

大人になる過程で、そういう当たり前から、ちょっとずつ抜け出してみることが出来るようになった。周りの人が当たり前にやっていることを、どうにかしてやらずに人間社会の中で溶け込めるように努力するようになった。そんな風にして、今の僕が出来上がった。昔の自分のことは結構嫌いだったけど、今の自分のことはそれほど嫌いではない。

どうしようもなく生きていることが辛い場合、僕たちはどうすればいいんだろう?
そういう感覚になったことがない人には、そのしんどさはなかなか理解できないだろう。ただ生きていることが辛い、ということが理解できないことだろう。しかし僕は分かる。ただ生きていることが辛いという感覚が。何か酷いことをされたとか、何か具体的に不安なことがあるとか、そういうこととは関係なく、ただ生きていることが辛いという感覚が。

そこから自力で抜け出すのは、本当に大変だ。何せ、生きていることが辛いというのは、具体的な原因があるわけではないからだ。原因があるなら、それを取り除けばいい。しかし、生きていることが辛い、ということの原因を敢えて探すとするなら、それは「生きていること」だ。それを取り除くためには、死ぬしかない。

だから、ひきこもりである兄の気持ちが、まったく分からないわけではない。もちろん、兄の振る舞いには様々な問題がある。そういうすべてを許容するつもりはない。しかし、生きていることが辛くてどうしようもない、という感覚は分かるし、それが絶望的なまでに他人と共有できない感覚だ、という絶望も理解できる。その状態で生きていかざるを得ない中で、言動がねじ曲がっていってしまうことは、ある程度は仕方ないと思う。とはいえ、そういう存在と対峙せざるを得ない人間にとっては、迷惑以外のなにものでもないのだが。

主人公である弟の方にも、理解できる部分が多々ある。

主人公は、ひょんなことから、絶対に無理だと思っていた結婚をすることになった。彼が、自分には結婚は無理だ、と考えていた理由の一部は、僕にも理解できる。例えばそれは、こんな文章から分かる。

『一生を一人でやり過ごすのはやるせない。でも“運命の人”なんか信じない。となると、誰かと一緒になるためには多くの場合、あなたを愛しています、という一定期間の実績なり演技なりが必要だ。』

そういうのがめんどくさい、という感覚は僕の中にもある。本書で主人公がする結婚に至る経緯は、ある意味で僕の理想にとても近い(別に僕は結婚願望はないが、万が一するとしたらこういう形がいいと思う)。まあ、実際にはこんな展開はあり得ないだろうから、そういう意味で僕の人生に結婚なんてものが関係してくることはあり得ないのだけど、もしそういうことが起こったら?という仮定の話は、少なくとも僕にとってはリアルなものに感じられた。

僕の感覚では、いわゆる「イマドキの若者」には、結婚というものに対する絶対的な価値観が薄れているのではないか、と思う。かつては結婚は、しなければおかしいと思われるようなものだった。しかし徐々に、結婚はしたければすればいいししなくてもいい、という風に、さらに、結婚なんかしたって良いことない、という風に変わってきているように感じられる。そういう中でこの物語はどんな風に受け取られ得るのか。

内容に入ろうと思います。
公園で行き倒れのように眠っていた掛橋啓太は、二人組の女性に起こされた。正確には、その内の一方の女性にだ。彼女は啓太に宇都宮のオススメの餃子店を質問した後で、唐突にこう切り出した。
「質問が三つあります」
その三つの質問に答えた啓太は、彼女と結婚することになっていた。妻の名は、大野千草と言う。
二人は、お互いのことなどほとんど知らないまま、お互いの両親にもまともに報告しないまま一緒に住み始めた。その生活は、非常に心地よかった。啓太は、自分が欲しいと望んでいた環境を、通過したくないと思っていた面倒な手続きを経ずに手に入れることが出来て、非常に満足していた。
そんな啓太は、子どもの頃から、ひきこもりの兄の存在に悩まされていた。
小学校の頃からすでに不登校だった兄のことを、まだ小さな頃はおかしいとは思っていなかった。しかし次第に周りから、何故兄は学校に行っていないのかと聞かれるようになり、啓太も疑問を持つようになった。母は完全に兄の味方だった。兄を甘やかすことは兄のためにはならない、と何度力説しても、まだ時期じゃない、と取り合わなかった。やがて啓太は、父親のいない、母と兄の三人での生活の中で、自分の居場所がなくなっていると感じられるようになっていった。
ひきこもりの兄に悩まされる弟として、そしてひょんなことから結婚した夫として、掛橋啓太は過去と現在と未来に思い悩まされる…。
というような話です。

なかなか面白い作品だったと思います。正直なところ、物語的には何が起こるというわけでもなく淡々と話が進んでいくんだけど、出て来る人物が曲者揃いで、現実にいそうな感じがする。こんな奴が周りにいたらしんどいだろうなぁ、と思ってしまうような人間が何人も登場し、主人公である啓太を苦しめていく。そのリアルさみたいなものが惹きつけるんだろうなぁ、という感じがします。

例えば、啓太の会社の同僚である坂巻という男は、本当にろくでなしだ。こんな人間が会社にいたら本当に最悪で仕方ないが、啓太自身でどうにか出来る問題でもない。同じ部署にいる限り関わらなければならないが、どう関わっても自分が損する、という相手は、どこかの会社にそのままいそうな人物だな、と思わせるリアリティがあるなと感じました。

啓太と千草の結婚に至る過程は、逆に非常にリアリティがない。しかしこのリアリティの無さは、現実に起こる可能性が低いというだけで、こうなったらいいなという願望を持つ者は、実は多いのではないかという気がする(さすがにそれは僕の世の中の捉え方が間違ってるでしょうか?)

最近若い人と喋っていると、(僕自身もそうだが)「恋愛」というところに行き着かない人が多い気がする。「出来ない」のではなく「しない」という選択をしている人が多いように思う。「しない」と考えている理由には様々あるだろうが、「他人にさほど興味がない」とか「人と一緒にいるのが苦痛」とか、色々と聞いたことがある。僕も今は恋愛を「しない」という選択をしているが、その理由は説明がめんどくさいし、共感してもらえる可能性は低いのでここでは書かない。

僕は恋愛の先に結婚があるべきだとは考えていないが、しかし多くの場合そういう流れを取る以上、恋愛に行き着かなければ結婚にもなかなか行き着かないということになるだろう。

だから本書で描かれる結婚の経緯は、実際に起こる可能性はほとんどないが、ある種の理想、ある種の願望として、多くの人が共有可能なものなのではないか。僕はそんな風に感じている。

だからこそ、彼ら夫婦がどんな生活をし、どんな展開を迎えるのかを読ませる本作は、ある意味で現代人の期待に応えたものになっているのではないか、という気がするのだ。

彼ら夫婦がどんな生活をし、どんな葛藤を抱え、どんな展開を迎えるのかは、ここでは詳しくは書かない。しかし、彼らは真剣なのだ、ということは、読みながら感じて欲しいように思う。彼らが、「きちんとした結婚」を忌避するのには理由があり、その理由に僕は共感できてしまう。彼らが恐れていることを、同じように恐れる気持ちを持っている。そんな彼らの恐怖を、理解できなかったとしても排除しないで欲しい。そういう苦しみや葛藤と共にしか、「家族」というものと関われない人間がいるのだ、ということを理解して欲しいなと思う。

彼らの様々な選択が正解だったのかどうか、それは読んだ人が決めることだ。分かりやすい正解などない、と認めることでしか、僕たちは現実と対峙することが出来ないのだ。

この本は、帯のコメントが秀逸だ。

『この本を読んで何も感じなかったとしたら、それはある意味で、とても幸せなことだと思う』

僕も、そう思う。

葦舟ナツ「ひきこもりの弟だった」

二千七百の夏と冬(荻原浩)

内容に入ろうと思います。
まさに、「荻原浩にしか書けないだろう」という作品です。
メインとなるのは、縄文時代。ピナイと呼ばれる谷の村に住むウルクという少年が主人公だ。
ピナイに住む者は、典型的な狩猟民族、後の分類では縄文人である。カンジェ・ツチィという長を中心に、男は狩りをし、女は編み物をしたり魚を取ったりする。川の下流の村と交流があり、時々婚姻関係を結んだり、年に一度来る「魚喰い」と彼らが呼ぶ、海の近くで漁をする者たちと交易をすることもある。しかし基本的には、山に入り、獲物を狙い、そうして撃った獲物を神からの贈り物として食べ、暮らしている。
ウルクは、長の娘であり幼馴染であるパナに惚れている。自分の存在をアピールしたいところだが、狩りでも重要な役割はさせてもらえず(それ故分け前も少ない)、またパナがまだ幼い故にウルクのアピールが通じないということもある。それでもウルクは、パナのいる前でははりきってしまう。
幼い頃に父を亡くし、その父を「臆病者」呼ばわりされながら生きてきたウルク。何故父が「臆病者」なのか分からないままだった。一方でウルクは、山に一人で入った時(小さな獲物なら一人で狩りに言ってもいいことになっている)、四つん這いの状態でウルクの背丈ほどもあるクムゥ(※クマのこと)を目撃するが、そんなクムゥいるはずがないと笑われてしまう。
そんな風に、ウルクを中心にして、二千七百年前の、僕ら日本人の祖先の日常を描き出していく。
その一方で、時折2011年の物語が挿入される。東日本大震災からまだそう日が浅くなく、震災に絡めた記事を求められる中で取材を続けなければならないジレンマと戦いながら日々取材に追われる地方支局の新聞記者である佐藤香椰は、ある日縄文人の人骨の発掘現場にいた。入社三年目、記者として満足の行く仕事が出来ているとは言い難い香椰は、なんでも震災に絡めなければ、と感じてしまう自分に嫌気が差していることもあって、この縄文人の発掘を記事に出来ないかと考えている。なかなか簡単には行かなそうだが、しかしやがて驚くべきことが判明する。縄文人男性の人骨の隣に、まるで手を繋いでいるかのように見える、弥生人女性の人骨があることが判明したのだ…。
というような話です。

まず、作品としては、さすが荻原浩、という感じでした。これはまさに、荻原浩にしか書けないだろう作品だと感じました。

僕が感じる、荻原浩の作家としての凄さは、「視点人物の感覚で世の中を捉える」ということです。例えば、子ども目線の時は、子どもの日常に溢れているモノや考え方で世界を切り取る。それを、お年寄り、サラリーマン、主婦などなど、どんな立ち位置の人でもやってのけてしまう、というのが、荻原浩の作家としての凄みだと僕は日々感じています。

そして、本書はまさにその荻原浩らしさが全開に発揮された作品だと僕は感じるのです。今回の視点は、「縄文人」。並大抵の想像力では描けないでしょう。しかし荻原浩はそれを成し遂げるわけです。

『ウルクは頭の中が春の日だまりになってしまい、』

『日から近いはずの山の上のほうが寒いのは、ピナイの知恵者たちも首をかしげる不思議のひとつだ。』

こういう表現はまさに、「縄文人」の視点から世の中を切り取るものだし、そういう表現が随所に存在する。縄文時代にも存在していてもおかしくない概念や価値観のみを使い、彼ら縄文人の思考をトレースするかのような描写を組み上げることで、作品を成り立たせている。縄文時代を舞台にした小説を書ける作家というのは存在するだろうと思う。しかし荻原浩ほど、縄文人の思考をトレースするかのようなやり方で縄文人を描ける作家というのは、まず存在しないだろうと思う。その点は素直に驚きだったし、作品として賞賛に値すると感じる。

とはいえ、だからと言って作品が面白いのかというと、ちょっとそこは違ったりする。これがなかなか難しいところだ。
縄文人の思考をトレースするかのような描写は驚きに満ちているが、しかし同時に、彼らのような物事の捉え方は、現代とはあまりにもかけ離れているために、すんなりと受け入れることが難しい。どうしても読みながら、つっかえてしまう。これは、僕がSF小説やファンタジー小説を読むのが苦手なのとちょっと似ている。物語全体の設定を読みながら頭の中で組み上げていかなければならないので、そういうタイプの小説が苦手な僕にはちょっと辛い部分があった。彼らの日常の物語をスイスイと読んでいくためには、彼らが世の中をどう見ているのかという視点を自分の頭の中にインストールするみたいな意識が必要で、やはり「本を読む」という行為の中ではちょっとレベルが上がる感じがする。難しい。

恐らく、僕が元々SF小説やファンタジー小説を好んで読むようなタイプであれば、この作品での描き方や世界観の作り込み方にもっと衝撃を受け、もっと感じることが多々あっただろうと思う。しかし、僕の好みの問題でそうはならなかった。そういう意味では、ちょっと残念だった。作品の問題というよりは、僕の個人的な趣味の問題なので、気になる方は是非読んでみてください。凄い作品であることは間違いありません。

荻原浩「二千七百の夏と冬」



蒼のファンファーレ(古内一絵)

色んな理由で、僕たちははみ出していく。
「こういうもんだ」と何となく決められているような感じのする人生のレールから、いつの間にか外れている。
僕もずっと、当たり前からはみ出しながら生きていた。
そんな僕自身の感覚からすると、はみ出してしまう人は、ただ当たり前には馴染めなかった人、というだけなのだ。

僕たちは、色んな問題や悩みを抱えながら生きていく。
でも、それらの問題や悩みの多くは、自分自身に接着しているとは限らない。
自分自身と自分がいる環境の間にこびりついているだけであって、自分がその環境から離れれば消えてなくなるものである場合も多いはずだ。
問題は、自分自身に接着しているものなのか、自分自身と環境の間にあるものなのかをはっきり区別することはなかなか難しいということだ。

僕は、人生の色んなことから逃げて逃げて逃げて生きてきた。逃げるという選択肢は常に僕の中にあって、自分の中でどうにもならないと感じられる時は、悩みながらその環境と距離を置いた。そういう行動を取っている頃はまだ、僕が抱えている問題が自分の環境の間にあるものなのだ、ということには気づいていなかった。自分自身に接着しているものだと思っていた。だから、逃げることは、ただの現実逃避みたいなものだった。逃げることで解決すると思っていたわけではないし、ただ嫌なことに蓋をして見ないようにしたいというだけの行動だった。

ただ逃げてみて感じたことは、逃げてしまえば自分が悩んでいた問題の多くは解決する、ということだ。もちろん、逃げたことによって新たな問題が発生することはある。それは避けられないのだが、しかし逃げる経験を何度か繰り返したことで、自分が抱えている問題がどこにあるのか、つまり、自分自身に接着しているのか環境との間にあるのかが、なんとなく分かるようになってきた。

それに気づけるようになると、なんとなく気が楽になってくる。

人間には、居場所がどうしても必要だ。自分はここにいても大丈夫だ、と思える場所が、絶対に必要だ。しかし、そういう居場所をどうしたら見つけられるかについては、簡単な方法はない、としか言いようがないだろう。運良く自分に最適な場所に労せずにいられる人もいるだろうが、ほとんどそれは期待できない。ネット上では気の合う仲間を見つけやすいだろうし、ネット上の関係だけであってもそれを居場所だと感じられる人も昔に比べたら増えているだろうけど、やはりリアルの世界に居場所はあって欲しい。しかしその場合、自分が関われる、あるいはその存在を知ることが出来る場に限りがあるが故に、選択肢は非常に狭い。どんな場所で生まれ、どんな家庭に育ち、どんな才能を持っているかなどによって、関われる場は絞られていく。その狭い選択肢の中から、自分に合う居場所を見つけ出さなければならない。これはなかなか難しい。

だからこそ多くの人が、人間関係で悩み、苦しんでいるのだろう。

その悩みは、自分自身の問題ではなく、自分がいる場との相性の問題なのではないか―。そういう発想を持つことはとても大事なことだ。自分が今いる場所が悪いのだ、という発想は、自分自身を顧みないただの現実逃避である可能性ももちろんあるが、その悩みを解消する糸口が見当たらない場合、逃げるという選択肢を真剣に考えてみてもいいのではないかとも思う。

本書で登場する緑川厩舎の面々は皆、人生で様々な問題を抱え、流れ着いて来た者たちだ。傷つき、傷つけ、やりきれない思いを抱えながら、それでもなんとか必死に生き続けてきた果てに、緑川厩舎にたどり着いた。「藻屑の漂流先」と揶揄されることもある厩舎だが、傷ついた者たちが寄り集まったこの厩舎はまた、傷ついた者たちをお互いに癒やす厩舎でもある。ここでしか生きられない面々が、馬という言葉の通じない動物と共に、中央競馬とは何もかも違う地方競馬の現実に日々直面しながらも奮闘していく物語には、勇気を与えられるのではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、「風のムコウへ駆け抜けろ」に続く、シリーズ第二弾です。
広島県にある鈴田競馬場でもっとも規模の小さな厩舎、それが緑川厩舎だ。そこは「藻屑の漂流先」と言われるぐらい、様々な過去や傷を背負った者たちが流れ着く場所だ。
芦原瑞穂は、地方競馬教養センターを卒業し、請われて鈴田競馬場にやってきたものの、女性騎手の珍しさを広告塔にしようという目論見しか感じられなかった。父が馬の世話をしていたお陰で、本能的に馬と関わる方法を知っている瑞穂は、騎手として評価されたいと願いながらも、女が馬に競走馬に触るなんて不吉だ、という競馬界の男優位の不文律が様々な場面で立ちはだかり、苦杯をなめてきた。
そんな瑞穂が乗る馬が、フィッシュアイズだ。規模の小ささ故に強い馬を持つことが出来ない緑川厩舎が、必死の思いで見つけてきた馬だ。魚目という虹彩の青白い馬であり、元の馬主が不吉だからと言って手放し、その後GI場を育成するための当て馬として限界まで酷使された過去を持つフィッシュアイズは、人間に対する深い絶望を抱いていた。そんな馬を見つけ出して、緑川厩舎は中央への挑戦権を手にした過去もある。
そんなフィッシュアイズを、騎手を乗せられるほどに面倒を見たのが木原誠だ。彼は、幼少期に母親と母親の交際相手から酷い扱いを受けたために、ある時からずっと施設で生活をしており、また心因性失声症に陥っている。そんな誠は、施設で行われていたホースセラピーをきっかけに馬に関心を持ち、今ではフィッシュアイズを落ち着かせることが出来る唯一の厩務員としての重責を担っている。
緑川厩舎のトップである緑川光司は、かつては中央でも活躍した騎手だった。しかし、強い後ろ盾を持たないまま実力だけで上り詰めた男はまた、転落も早かった。八百長に絡んだという不名誉な理由で騎手を続けられなくなり、流れ流れて、父親が経営していた緑川厩舎を引き継ぐことになった。
他にも緑川厩舎に関わる面々は、なかなか難しい人生を背負っている。しかし、前作「風の向こうへ駆け抜けろ」の中で、瑞穂は実力のある騎手として緑川厩舎に受け入れられ、フィッシュアイズはどうにか競走馬としての風格を持てるようになり、さらにGIへの挑戦権も得ることが出来た。経営の厳しい地方競馬を何とか維持していこうと、緑川厩舎として出来ることは何でもやってきた。
さて、ここからが本作の内容である。
緑川厩舎に新しい変化をもたらしたのは、イケメン風水師として人気を博しているワン・ユーティンだ。彼は、ここ数年のGIを総なめにしている種牡馬を親に持つ、鈴田競馬場では絶対にお目にかかれない超良血馬であるティエレンの馬主である。ティエレンは中央のデビュー戦での一勝の後なぜか勝ち星を上げることが出来ず、それでワンは何故か、ティエレンを緑川厩舎に預けると決めたという。ワンの説明によれば、風水で決めた、とのことだったが、意味がわからない。
ティエレンに乗ることになった瑞穂だったが、ティエレンには致命的な欠点があった。それが、手を抜く、ということだ。ティエレンは恐ろしく頭の良い馬だ。恐らくティエレンは、デビュー戦で勝った後急に調教がきつくなったことに気づき、勝てる試合でも勝とうとしなくなったのではないか、と瑞穂は考えた。フィッシュアイズも厄介な馬だったが、力がありながら手を抜くティエレンをどう走らせたらいいのか、瑞穂には見当もつかなかった。
ワンは何故か、フィッシュアイズのことを殊更に気にしている。フィッシュアイズとティエレンを対戦させたがっているようだが、普通に考えればクラスの違う両者が同じレースで走る可能性はない。しかしワンは、預言者のようにそんなレースが近い内に実現すると口にし、実際にそれが実現した。
それが、鈴田市競馬事業局の職員である大泉が企画した、「全日本女性ジョッキー招待競争 アマテラス杯」である。全国にほとんどいない女性騎手を集めてレースを行おうというのだ。そこで、ティエレンとフィッシュアイズは競い合うことになった。
アマテラス杯の企画書を読んだ光司は驚いた。参加騎手の一人に、長らく騎乗していない、「中央競馬の都市伝説」と呼ばれている二階堂冴香の名前が上がっているのだ…。
というような話です。

やっぱり好きな作品だなと思います。シリーズの第二作であり、登場人物たちの様々な過去はシリーズ一作目の「風の向こうへ駆け抜けろ」で描かれているので、是非そちらから読んで下さい。「藻屑の漂流先」と呼ばれる、色んな部分に問題を抱えている面々が、チームとして一つになって勝ちを狙って奮闘する物語は、物語全体の構造こそよくあるスポーツ小説と同じものかもしれないけど、入れ物を「地方競馬」「女性騎手」「手懐けられない暴れ馬」などにしたことで、よくあるスポーツ小説とはまた趣の異なる作品に仕上がっていると思います。

競馬という舞台設定が、まず絶妙だなと思います。
概ねスポーツというのは、男女でそもそも別れている。別れているからこそ、「男社会」「女社会」なんていう話も普通は出てこない。ただ競馬の場合は、男騎手も女騎手も同じステージで戦う。そういう中にあって、古くから競馬の世界は「男社会」なのであって、「女は不吉だから競走馬に触るな」というような考え方がまかりとおっていたりする。

この状況が、主人公である女性騎手・瑞穂の物語をドラマティックに見せる背景として非常によく機能している。純粋に馬が好きで、純粋に勝ちたいと思って厳しい訓練を重ねてきたのに、いざ騎手になれば「女だからって理由で名前を覚えてもらえていいな」「人寄せパンダの女ジョッキー」などと揶揄されて、実力で評価してもらえない。瑞穂がどんな思いで馬と向き合っているかに関わらず、「女である」という事実が瑞穂にとっての足かせになっていくのだ。

しかし瑞穂としても、そういう自分の「女であることの価値」をまったく無視することも出来ない。何せ、中央はともかく、地方競馬はどこも厳しいからだ。騎手として評価されたいと願っても、現実的に勝てなければその思いは空を切るだけだ。そんな時、女としての自分に役割があるのなら…、という葛藤と戦わざるを得なくなる。

また競馬というのは、金が絡むという意味でも特殊だ。多くのスポーツでは、テレビなどの放映料、あるいはスポーツ賭博などでは大金が動くかもしれないが、あくまでもスポーツの勝ち負けが観客のお金と何か直結することはない。しかし競馬は、見ている者の大金が絡んでくる勝負だ。だからこそ、見る方も乗る方も、純粋な勝負に挑む緊迫感だけではないプレッシャーみたいなものを背負うことになる。純粋な勝負とはまた違った形での真剣勝負が繰り広げられる、という意味でも、競馬は面白い題材だ。

シリーズ二作目である本書では、登場人物たちの過去がより掘り下げられていく。一作目では触れられなかったそれらの過去が、物語をより厚くしていく。

光司は、アマテラス杯で二階堂冴香と再会する。一作目で冴香が出てきたのか、僕はもうちゃんとは覚えていないが、彼らは過去恋愛関係にあった。とはいえ、光司が中央の騎手として有名になるにつれて、光司は冴香を顧みなくなる。その後、騎手として没落した光司は、冴香と連絡を取ることも出来ないでいた。光司にとっては苦い過去だが、冴香を想い気持ちは残っている。

二人の久々の再会は、お互いに新たな感情をもたらすことになるが、決してそれだけには留まらない影響も生んだ。詳しくは書かないが、冴香の登場は、様々な意味で波乱を生むことになる。

また、光司に関して言えばもう一点、過去と向き合わなければならないことがあった。こちらに関しては詳しく書かないことにするが、冴香のこと以上に、光司の中にはわだかまりとして残っていることだ。誰が悪いとかそういう次元とは違う部分で受け入れることが出来ない過去と直面せざるを得ない中で、光司は揺れる。しかしある意味でそれは、緑川厩舎全体にとっては、とても良かったことだと言える。

一方で、緑川厩舎全体にとってとても良くない出来事も起こる。誠に関してだ。こちらも詳しくは書かないが、やはり過去を振り切れないでいることが悪循環を生んでしまっている。誠は、緑川厩舎にとって不可欠な存在だ。誠が揺れれば、馬に直接的な影響がある。誰もが辛い過去を持つ緑川厩舎では、傷ついた者に優しい。そんな環境だからこそ、誠はまた立ち上がる意志を持つことが出来る。だからこそだろうか。後半、誠は大きな一歩を踏み出すことになる。

満足の行く環境とはとても言えない中で、ある意味で羽根をもがれた者たちが寄り集まっている。一人ひとりの力は満足の行くものではないかもしれないけど、それでもお互いに足りない部分を補い合いながら奮闘する、その姿がグッとくる作品です。

古内一絵「蒼のファンファーレ」

オーマイ・ゴットファーザー(岡根芳樹)

本書で描かれる父親の考え方に、僕は凄く共感する。

僕自身は、本書の父親のような考え方(それは今の僕を形作っているものとかなり近い)に自力でたどり着いた。人生の色んな場面で違和感を覚え、周りとうまくやっていくことが出来ず、普通の人が普通に出来るはずのことが出来ず、自分の中でかなり苦労しながら生きてきた。そういう自分をなんとか自立させていくために、僕は自分の力で考えなければならなかった。自分が何を良いと感じ、何を悪いと感じるのか。何に喜びを感じ、何に苦痛を感じるのか。そういう様々なデータを収集しながら(別にそういう意識でやっていたわけではないが)、自分がどんな価値観を持っていて、どんな物事に対してどう感じるのかということを少しずつ理解していった。その過程は、世の中の「普通」から外れていく過程でもあったのだけど、でも外れれば外れるほど、僕は生きやすくなっていくのを感じていた。

本書で父親は、子どもたちに対して、様々な形で「あれをするな」「これをしろ」と言う。これだけ聞くと、自分の考えている方向に無理やり誘導しようとする教育に思えるだろう。しかし、本書を読んでみれば分かるが、それはまったくの誤解だ。逆にこの父親は、子どもたちを自由にするために「あれをするな」「これをしろ」と言う。

『しかし真と良樹は進んだ道こそ違いはあるが、どちらも誰かに選ばされた人生ではなく、自分で選んだ人生だから本人たちに悔いはないのだ。たとえ道に迷おうが失敗しようが自分で何とかするしかないし、なんともならなかったとしてもそれはそれでいいのだ。人生はある程度、適当であることが必要である』

僕たちは、何も考えないで生きていると、世間の「常識」とか「当たり前」みたいなものに自然と絡め取られて生きていくことになる。この父親は、それに抵抗する意識と手段を与えるための子育てをしているのだ。「あれをするな」「これをしろ」というのは、確かに何かの方向に誘導しようとしているような感じがするが、そうではなく、そのままにしていたら「常識」とか「当たり前」の方向に流されていってしまうのに抵抗する方向に力を向けることを教え込もうとしているのだ。

『良樹、人生はな、面白いかどうかが大事やぞ。どんな結果であってもやな、面白ければ人生は大成功なんや。
人生で最優先すべきことは、成功でも儲かることでもない。むしろ人生は失敗したほうが面白いんやぞ。変な人と言われることは光栄に思え。
ええか、「変なことをするな」って大人が子どもによく言うやろ。そんな言葉繰り返し聞かされ続けとったら、子どもたちは変なことができんようになるやろ。それはとんでもないことやぞ。
「平凡な人生が一番いい」なんて言う奴がおるが、世の中すべて平凡な人間しかおらんかったらこんなに人類は発展しとらんぞ』

僕は、こういうような発想に、大人になってから自力でたどり着いた。25歳は過ぎていただろう。もしもっと子どもの頃に、こういう考え方を知ることが出来ていたら、僕の人生は大きく変わっていたに違いない。今より良い人生になっていたかどうか、それは分からないが、少なくとも、無駄な苦労はせずに生きられただろう(必要な苦労はした方がいいが)。そういう意味で、子どもの頃どんな教育を受けるかということは、本当に大事だ。

『ずいぶん後で聞いた話だが、あの時比沙子は毎日貧しい食事をして、たまにとんでもない贅沢をするという岡根家の風習が無性に悲しくなり、貧乏ならば無理しないでもっと「普通」の生活がしたかったそうだ』

もちろん、この父親のような教育は、ある意味で劇薬だ。悪い方に作用する可能性もゼロではない。

『この本に含まれた毒は、希望が持てない不安な時代にこそ必要な価値観であり、いつしか精神を鍛え育てる術を無くしてしまった現代の日本の教育に必要な、健全なる哲学である。
その毒は、無難に収まろうとする人生に疑問を投げかけ、奇人変人と呼ばれようが異端児と言われようが、自分というかけがえのない個性に誇りを持って生きるための一つの道標となるだろう』

そう、その通りだと僕も思う。まさに今、「普通」では生きられない時代に突入しているように僕には感じられる。しかし、今の親世代は、子どもに「普通」を与える以外の教育が出来ないだろう。自分たちが、「世間から外れない普通の生き方をしていれば普通の幸せを手に入れられる」という価値観の中で育ってきたからだ。しかし、時代は変わった。あらゆる意味で生きにくい時代になった今、「普通」からどれだけはみ出せるかで人生が大きく変わっていく、そんな時代になっているのだと思う。そういう時代の変化を捉え、これからの世界を生きていく子どもたちに何を教えるべきなのか。それを本書から学ぶことが出来るのではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、著者が自身の父親とのエピソードを書いた「小説」だ。「小説」とカッコで括ったのには理由がある。

『この物語は事実に基づいたフィクションである。フィクションを取り入れたのは、実際には父が酒を飲んだ時以外はあまりに無口だったため物語としては成立しそうにもないからだ。だから実在する岡根徹和の価値観と精神を引き継いだ「岡根哲和」なる架空の登場人物から、本人に代わって大いに教育という観点から物申してもらおう』

だそうである。ちなみに本書には「良樹」という人物が出て来るが、恐らくこれが著者である岡根芳樹氏だろうと思う。フィクションだということで、著者自身も別名で登場する。

本書は冒頭で、

『この物語はそんな「変」な父のでたらめで型破りな子育ての物語である』

と書かれている。まさにその通り、本書で描かれる父親は、ちょっとぶっ飛び過ぎている。
父親のぶっ飛んだ話として、本書の中で最もインパクトがあるのが、良樹が仲間と共にアルバイト先のファミレスに深夜忍び込み食べ物などを勝手に食べていたことがバレた時の話だ。父親は良樹と共に店まで行った。誰もが謝るものだと思ったはずだが、その予想は大きく外れた。父親は、こう言ってのけたのだ。

『お前が経営者か、俺の息子が何したか知らんが、警察に通報して退学でも何でも勝手にしろ!その代わりええか、未成年を夜十時行こう働かせた罪で訴えてこの店潰してやる!』

著者自身、『もちろん百パーセント良樹が悪く、哲和の言っていることは屁理屈であり、社会的にも決して許されることではないだろう』と書いている。そりゃそうだ。ただ、良樹はこの父親の姿を見て、『この人は、社会的とか世間体とかどうでもいいのだ。善も悪も損も得も関係ない。この人は、ただ命懸けで家族を守ろうとしているのだ』と感じ、さらに、『その哲和の強い思いに完全に打ちのめされ、良樹は自分のやった愚かな行動を心から強烈に反省した』と書いている。

こんな風に、この父親の言動は、決して手放しで褒められるようなものではない。しかし、父親の価値観を支えるベースとなる考え方は、厳しい子供時代をなんとか独力で乗り越えてきた父親ならではのシンプルで力強いものであり、完全に同じように子育てするのは無理にせよ、取り入れることが出来る部分はあるのではないかと思う。

僕は結婚するつもりがないが、もし自分に子どもが出来たら、この父親と同じようにしようと思っていることがある。それが、

『子どもを子ども扱いしていないということだ』

という父親のスタンスである。これは、子育てする上で一番重要なスタンスなのではないかと僕は考えている。子どもを一個の人格と認め、「子どもだから甘やかす」「子どもだから怒る」というのではなく、他の大人にするのと同じ判断基準によって子どもへの態度を決めるというのは、とても大事だと思うのだ。

また、

『岡根哲和は、まったく子どもに無関心な男である』

というのも示唆に富むスタンスだ。

『少なくとも関心を持たれなかった岡根家の子どもたちは、変なプレッシャーを受けることもなく、親の被害者になることもなく、のびのびと真直ぐに育つのであった』

『子どもに期待しない』

『親の期待に応えるために人生があるんじゃない』

哲和は、実際には子どもに無関心なわけではない。本書でも、それを示唆するエピソードが載っている。ただ彼は、意識的に関心を持たないようにしていた。自分が関心を持つことで、子どもが進むべき方向性に影響を与えてしまうからだ。それを何よりも恐れていたのだろう。だからこその、無関心なのだ。

また、これは子どもの頃に誰かに教わりたかったと感じたことがある。

『せやから人間の心には、光も大事やけど同じように闇も必要なんや』

これは、僕は本当にもっと早く知りたかったと思う。確かに、その通りなのだ。今ならそのことがよく分かる。でも僕は子どもの頃は、闇を抱えながら、それは捨てたり手放したりしなければならないものなのだ、と思っていた。自分のマイナスな部分を、ダメだと感じてしまっていた。それで、無用な苦しみを抱えることになった。今では本当に思う。人間には、闇が必要なのだ、と。闇だけでは人生は成り立たないが、同時に、光だけでも人生はうまくいかないのだ。

『そんなクジラのようにや、ある時期は好きなだけ引きこもっとってもええやないか。いや、むしろそんな時間が誰にでも必要なんちゃうか。
無理に急いで闇から引きずり出すよりも、闇の中の面白さやら、遊び方やら、光の世界に戻ってくる方法やら、そんなことを子どもに教えてやることの方が重要なんちゃうか』

あぁ、本当にその通りだと思う。特に、「光の世界に戻ってくる方法」を教えるべき、という話には物凄く頷いてしまった。自分が闇に囚われている時、そこから出られるのかどうか、僕はずっと不安だった。光と闇は行き来できるんだ、片道切符ではないんだ、ということを教えてくれる大人がいたら、もっと楽に生きることが出来たのではないかと思う。

他にも、

『ええか、人間は好きなことばかりやっとったらあかん。』

『ええか良樹。勉強でもスポーツでも何かを成し遂げるためにはやな、やせ我慢が必要やぞ。自己責任において何かを犠牲にすることが交換条件ちゅうことや』

『そうやない。(本は)わかるために読むんやない。わからんようになるために読むんや』

など、含蓄に富んだメッセージが次々に放たれていく。今の僕は、これらの考え方をすんなり受け入れることが出来る。でも、子どもの頃、誰かからこういう意見だけを聞いて、「はいそうですね」と言って受け入れることが出来たかどうかは分からない。しかし岡根家では、父が口で言うばかりではなく、態度や行動や環境などによって、口で言ったことが実行されるような状況を可能な限り作り上げている。そこが凄いところだ。例えば岡根家は、つっかい棒が必要なほどのボロ屋だったそうだが、

『しかしそんなハイオク同然の岡根家の茶の間の薄汚れた壁には、カレンダーや画集を切り取ったものではあったが、ゴッホやシャガールやモディリアーニといった有名画家の作品が飾られ、ちょっとした美術館のようであり、いくつもの本棚には百科事典や図鑑や、少年探偵団シリーズ、怪盗ルパンシリーズ、芥川龍之介、夏目漱石、遠藤周作から世界名作分学習、さらにはドストエフスキーやニーチェに至るまで揃っていて、さならが小民間の図書室のようだった。
またステレオの棚んはクラシックやシャンソンやポルトガル民謡やフォルクローレのレコードがずらりと並んでいたり、おまけになぜか顕微鏡や天体望遠鏡まであり、さらには中古だがピアノまであった。
ピアノはいらないから、せめてつっかい棒がない家に住んだ方がいいのではないかと思うのだが、すべて主である哲和の「必需品より嗜好品を優先させる」というこだわりだった』

というように、ある意味では充実した環境を整えていた。父親の凄い点はまさにここで、決して言うだけではなく、それが実行できる状況を作り上げる点にある。それには相当の覚悟と努力が必要となるだろうが、うまく行けば子どもたちに最高の教育を与えることが出来るだろう。

そんな哲和の妻はどうかと言えば、こちらもなかなかぶっ飛んでいる。さすが、哲和と結婚するような女性である。一番好きなエピソードは、哲和が働いていた従兄の会社が倒産し、翌日差し押さえが来るという夜のことである。妻は、「家電まで取り上げられたらかなわん」と考え、一計を案じる。子どもたちにマジックを渡し(子どもたちは倒産のことなど何も知らない)、『今から落書き大会をやるよ!机でもテレビでも箪笥でも好きなだけ落書きしな!』と言ったのだ。これによって、倒産による陰鬱な時間となるはずだった夜は、子どもたちにとってとても印象深い楽しい夜になった。この夫にしてこの妻、という感じである。

本書は、自分の考えなしにただ形だけ真似しても火傷するような、ある種危険な子育ての考え方が描かれている作品だ。しかし、こういう教育こそが、生きづらい世の中を生き抜く子どもを育てることになるのではないかと思う。哲和のように振る舞うことはとても困難だろうが、本書で描かれている考え方を理解した上で、取り入れられそうなものは取り入れてみてはどうだろうか。

岡根芳樹「オーマイ・ゴットファーザー」

土漠の花(月村了衛)

内容に入ろうと思います。
ソマリアでの海賊対処行動に従事するジブチの自衛隊活動拠点に、墜落したCMF(有志連合海上部隊)連絡ヘリの捜索救助要請が入った。活動拠点から70キロの距離だが、ジブチ・ソマリア・エチオピアの三国が至近に接する国境地帯だ。海上自衛隊と共に派遣海賊対処行動航空隊を構成する陸上自衛隊第1空挺団は、ただちに捜索救助隊を編成し、現場へと向かわせた。現場では状況から、3人の乗組員は全員死亡と判断、遺体の回収は明朝ということになった。三台の車輛内で仮眠を取り、翌日に備えることになった。
とそこへ、複数の足音が近付く音。こんな場所で、こんな時間に何が…。やがて、英語で助けを求める女性の声が届く。ビヨマール・カダン氏族のスルタン(氏族長)の娘アスキラ・エルミとその縁者の女性二人は、ワーズデーン小氏族に追われていると話、保護を求めてきた。吉松隊長は、彼女らを避難民として保護することを決めたが、すぐさま襲撃を受け、多数の仲間が命を落とした。僥倖もあり、アスキラと共にその場を逃げ出すことが出来たものは、必死に走った。どうにか敵の追尾をまくことが出来たが、ここはソマリアだ。このままではどうにもならない。なんとか活動拠点まで戻らねば…。
<未だかつて戦ったことのない軍隊>である自衛隊が、ソマリアの氏族間の抗争に巻き込まれ、甚大な被害を負いながらも、不屈の精神で帰還を目指す物語。
というような話です。

これはスケールの大きな作品だったなぁ。実に面白い作品だった。戦闘シーンなんかは正直理解できない部分も多くて、その辺りはちょっと厳しいなと思ったけど、ストーリーが面白いので読まされてしまいました。

本書の読みどころは、とにかく、どう考えてもその状況はもうクリア出来ないでしょう、という状況を、多少の運もありながら、なんとか潜り抜けていく、という展開です。救助活動をするはずだった地点から逃げた彼らにどんな試練が待ち構えているのかは、ここで書いてしまうと面白くないので伏せるのだけど、次から次へとやってくる困難にどうにか立ち向かっていく姿は非常に読ませる。

本書で描かれる困難さの一つは、彼らが自衛隊である、という部分が関わっている。

『我々の任務は海賊対処行動であり、遭難機の捜索救助です。未承認国家の小氏族とは家、他国の紛争に介入することは許されていないはずです』

『我々に許されているのはジブチ国内の拠点警衛任務のみだ。それは海賊対処法でも明記されている。勝手に国境を超えるなど問題外だ。』

ここで、自衛隊の存在の是非なんかについてあーだこーだ書くつもりはない。色々思う所はないではないが、ここでは止めておこう。

代わりに、昔読んだ「アフガン、たった一人の生還」という本について触れよう。この本は、世界最強とも謳われる<米国海軍SEAL部隊>に所属する4人が、アフガニスタンでの作戦従事中にタリバンの兵士に襲われ、4人対数百人という壮絶な死闘の末、内1人だけがアメリカに生きて帰ることが出来た実話だ。

この本では、<交戦規則>というものが繰り返し描かれる。これは、「民間人は殺してはいけない」というアメリカ軍が定めたルールだ。彼ら4人は、一人の羊飼いを見逃したために、数百人のタリバン兵に襲われることになった。羊飼いは民間人だ。しかし彼らは、この羊飼いを見逃せば、羊飼いから話が漏れ自分たちが窮地に陥ることが分かっていた。しかし、<交戦規則>に縛られ、彼らは羊飼いを殺すことができなかった。そのために、世界最強のSEAL隊員の内3名が命を落とすことになったのだ。

そもそも「戦争」というものがいけないのだ、という意見は当然だと思う。しかし、人間の歴史を振り返って見た時に、世界のどこにも戦争がなかった時代の方が珍しいのだ。であれば、ルールに則って戦争をすべし、という発想になるのはやむを得ないことなのだろう。しかし、ルールというのは、現場感覚と基本的にはズレる。国際的に非難されないためにルールに則って戦争を行うのだが、しかしそれによってルールを守る者の命を危うくする。しかし、そのルールを破れば、国際的に非難される。その歪を、現場が丸ごと背負わされているのだ。

これは、自衛隊にしても同じだろう、と感じる。ルールを守らなければならないのは分かる。しかし、ルール通りにやれば自分たちの命さえ危うくなる状況など、戦場では山ほどあるだろう。そうなった時、どう行動すべきなのか。法律や規則は教えてくれない。あくまでも現場で判断し、現場の責任で動かなければならないのだ。その窮屈さは半端なものではないだろうと感じる。その辺りのしがらみも感じながら読んでみるといい。

本書の巻末に参考文献として挙げられているが、僕は以前「謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア」という本を読んだことがある。国家として国際的には認められていない「ソマリランド」に入っていき、その驚異的な国家(ではないのだが)運営を調べ尽くす本なのだが、この本を読んでいたから、ソマリアという遠く離れたアフリカの国にはなんとなく親しみがあった。いくつもの「氏族」と呼ばれるグループが群雄割拠する、まさに日本の戦国時代のような国だったりするのだが、その一方で、長老同士の話し合いによってありとあらゆる紛争が解決されてきた歴史を持つ国でもあり、ソマリランドを取材した高野秀行は、「これこそ究極の民主主義なのではないか」というようなことを書いていたような記憶がある。どちらから読んでもいいが、「土漠の花」を読んでソマリランドに興味を持った方は読んでみても良いと思う。ノンフィクションとしてべらぼうに面白い作品だ。本書の背景には、先進国がアフリカなどの発展途上国を蹂躙し、そこに住む者たちを混乱に陥れている現実が横たわっている。先進国に生きる人間として、ここで描かれている悲劇は、決して無関係ではないのだ。

本書は、物語としてはひたすら逃げて闘ってという話なのだが、その中で、自衛隊員同士の軋轢みたいなものも描かれていく。こちらも、本書の読みどころの一つと言えるだろう。

様々な人間に視点が切り替わる形で物語が進んでいくが、それぞれが生死を分かつような危機的状況にいながら、同時に、個人的な問題や葛藤と闘っている。生き抜くためには、生き残った者たちで力を合わせなければならないが、なかなか難しい。

友永芳彦曹長は、同い年で同じ階級の新開譲曹長に、自分でも言語化出来ないようなわだかまりを覚えている。優れた曹(下士官)を養成するための教育機関である工科学校をトップに近い成績で卒業した新開に対する僻みみたいなものがある。しかし、決してそれだけではない。ジブチ市街で物売りに対して「貧乏人が」と吐き捨てるように呟いた新開の姿を蘇らせる。他の言動も、友永にはどうにも許容出来ないものがある。吉松隊長亡き後、隊の指揮は友永か新開のどちらかが取らねばならないが、自信満々な新開に対して、臆してしまう部分のある友永は、新開のように振る舞えない自分の嫌気が差す部分もある。

友永は、由利和馬1曹と梶谷伸次郎士長の間にわだかまりがあることに気付いている。由利は、生涯安定していると言われる警務隊を自ら途中で辞め、第1空挺団にやってきた変わり者だ。何があったかは知らないが、口数は少なく、周りと打ち解ける雰囲気は感じられなかった。梶谷は機械全般に対する知識が豊富で、状況判断に長けている。この二人に一体何があったというのだろうか。

津久田宗一2曹は、射撃の上級検定で準特級という、警衛隊の中でもトップクラスの射撃の名手として知られていたが、いざ戦場に立つと、銃をまったく撃つことが出来なかった。空挺は活動拠点の警護と管理のために派遣されているだけであり、海賊との戦闘が想定されている海自とは違って、戦闘は想定外だ。しかしそれでも多くの者は、自分の身を守るため、あるいは仲間の身を守るために引き金を引いた。しかし津久田は出来なかった。自分が殺人者になることが、耐えられなかったのだ。津久田が撃っていれば仲間を救うことが出来たはずの場面がある。津久田は、そういう状況でも撃つことが出来ず、自責の念にも駆られる。津久田は、この戦闘中ひたすら自分自身と闘うことになる。

朝比奈満雄1曹や一ノ瀬浩太1士は、これまで挙げた者ほどの葛藤を抱くことはないが、彼らと共に逃げるアスキラの扱いをどうするかは、常に大きな問題だった。アスキラは早い段階で、彼らに隠し事をしていたことが明らかになってしまう。アスキラを信用しても良いのか…そういう葛藤は、隊の面々の中にしこりのようにずっと残っていた。何せ、すべての災厄を引き連れてきた、と言っていいのはアスキラだ。アスキラだって襲撃されて逃げてきた身であり、災厄などと呼ぶべきではないが、しかし彼らの仲間が無残に殺されたのはやはりアスキラがやってきたからだ。その中で、人間としてアスキラを救うべきだという気持ちと、規則として、あるいは自分たち隊員が生き残る確率を高めるためにアスキラを手放してしまいたいという気持ちとで揺れることになる。

こういう様々な思惑が絡み合って、彼らの物語は進んでいく。ソマリアという異国の地で、ほとんど武器を持ち出せずに逃げ出した彼らの決死の闘い、そして戦闘に従事する中で変化していく彼らの人間関係。それらが実にうまく入り混じり、極上のエンターテインメント小説に仕上がっていると感じました。

月村了衛「土漠の花」

鏡の迷宮(E・O・キロヴィッツ)

内容に入ろうと思います。
物語は、三部構成になっている。その内、第一部と、第二部の冒頭だけを紹介しようと思う。
ブロンソン&マターズ社の文芸エージェントを務めるピーター・カッツは、ある日メールの中から、興味深い原稿を発見した。リチャード・フリンという名の男からのもので、その小説は、自分が過去に経験したとある事件の真相に関わるものであるらしい。
1987年に、全米が注目したある殺人事件が起こった。ジョーゼフ・ウィーダーという、プリンストン大学の中でも特に著名な教授が殺害されたのだ。犯罪者の精神鑑定も行う人物であり、恨みを覚えた犯罪者による報復かとも考えられたが、結局犯人が分からないまま迷宮入りした事件だ。フリンという男は、まさにウィーダーが殺される直前まで、彼の蔵書整理を手伝っていたようで、ローラ・ベインズという女性を含めた3人の当時の出来事を、3ヶ月前にあったとある出来事をきっかけにして次々と思い出したために、こうして物語にしたのだ、という。彼は、物語の冒頭だけをカッツに送った。残りはいつでも送付できる、とメールには記されていた。
1987年、フリンはローラという女性と唐突に同居することになった。ローラは、ウィーダーと研究を通じた繋がりがあるようで、フリンのことを紹介したいという。そんな風にフリンは、ローラとウィーダーと知り合うことになった。やがてフリンはローラと恋仲になっていき、またウィーダーの蔵書整理を手伝うことになった。時に彼らは一緒に食事をし、学術的な話やそうでない話をした。ウィーダーは、デレク・シモンズという元患者を手伝いとして雇っていた。デレクの珍しい症例も、彼らの会話の端に上ることがあった。
そんなある日、ウィーダーが死体となって発見された。明らかに、誰かに殴り殺されていた。デレクやフリンは、容疑者として疑われた。ローラは、ウィーダーが殺された翌朝、さよならも告げずにフリンの元を去った。
原稿を読んだカッツは、フリンと連絡を取ろうとしたが、果たせなかった。その理由は、フリンの住所を訪ねてみて分かった。オルセンと名乗ったフリンの妻は、五日前にフリンが死んだことをカッツに告げた。カッツは彼女に、原稿の残りの在り処を知らないかと訪ねたが、知らないという返答だった。
そこでカッツは、この原稿を世に出す可能性を追求するために、友人であるジョン・ケラーに連絡を取った。カッツは、売れない作家であるジョンにフリンの原稿を渡した上で、ウィーダー殺害事件について調べるように言った。そして、フリンが見つからない原稿の中で書いただろう結末を推理し、未完原稿を完成させろ、と…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
設定がなかなか魅力的だと思います。とある原稿があり、その中には20年前の殺人事件の真相が書かれている、と謳われている。しかし存在する原稿は冒頭部分だけであり、書いた本人は死亡、あるはずの残りの原稿は見つからない。じゃあ、推理して見つからない部分を埋めよう、というのが本書の大きな枠組みである。これは、なかなか読み手を惹きつける魅力を持った設定だなと思いました。

普通に考えれば、20年も前の未解決事件の謎を解き明かすなんて不可能である。確かに、登場人物たちはそれを目指して行動するのだけど、この物語の面白さは、その調査の過程そのものではない、と僕は思う。この物語がどう閉じるのか、それはもちろん読んでもらうとして、どう閉じるかが物語の核ではないのだ、と思う。そうではなくて、何故多くの人間がこの謎に惹かれてしまうのか、という部分に面白さがあるように思う。

ウィーダー殺害事件は、こういう表現は適切ではないかもしれないが、20年前に刑事としてこの事件を普通に捜査している立場としては、さほど面白みのある事件とは言えないだろうと思う。犯人こそ分からなかったものの、大きな謎があるわけでも、不可思議な状況にあるわけでもない。よくある、と言ったら語弊があるだろうが、よくある殺人事件だ。被害者がとても有名だった、という点を除けば。

しかし、フリンの原稿に端を発し、ウィーダー殺害事件を調べ始める人間は、20年経ち、またフリンの原稿をスタート地点にしているが故の強い関心を持つことになる。20年の時が経過しているということは、当事者たちの記憶も曖昧になっていておかしくはない、ということだ。また、フリンの原稿を調査のスタートにしているということは、「フリンはどこまで本当のことを書いているのか」という疑念を常に念頭に置きながら調べを進めていかなくてはいかなくなる。フリンの原稿と矛盾する証言があった場合、証言者が嘘をついている、とは単純に判断出来ない。フリンが嘘をついていたり、覚え間違っていたりすることもあるだろう。また、フリンの原稿に登場するローラやウィーダーが、一筋縄ではいかないキャラクターであることも、捜査を難しくする。彼らがどんな人物であり、どんな行動原理で動いていたのか、というところまできちんと精査しなければ、当時の真相にはたどり着けないだろう。

そして、それだけ入念な調査をしたところで、辿り着いた結論が真実であると判断できる可能性は非常に低いのだ。直接的な関係者は、既に死んでいるか、事件に深く関わっていると疑われる人物だ。つまり、死人に口なしか、本当のことを言うとは限らない人物しかいない。どれだけ筋の通った推理であっても、それが真実であるかを確かめる術はない。

そういう状況であるにも関わらず、ウィーダー殺害事件にのめり込んでしまう人間がいる。この事件にはそういう魅力があるのだ、ということが、読んでいるとなんとなく感じられるようになってくる。あの時、一体誰が何をしたのか。そういう関心は最後まで持続しつつ、何故か、この事件を追う者たちの情熱みたいなものに面白さを感じるようになっていくような気がする。

とはいえ、凄く面白かったのかというと、そういうわけでもない。これは趣味の問題だけど、描写がくどいなと感じられる部分が多々あった。恐らく、文化の違いもあるだろう。小説の描写に求めるものが日本人と違うように思えることがある。そもそも外国人作家の作品はあまり得意ではない、というのも、きっとそういう側面があるはずだ。外国人作家全般の特徴かどうかは、僕自身があまり読まないので分からないが、本書には、僕にとってはさほど興味のない余計な描写が多いような気がした。とはいえ、まあこれは好みの問題だろう。

まったく同じ設定の物語を、例えば京極夏彦や森博嗣が書いてくれたりしたら、たぶんずっとずっと好きな物語になっただろう、と思う。そういう意味では残念だったなという感じはする。物語自体は、なかなか魅力的だと思う。

E・O・キロヴィッツ「鏡の迷宮」

まぼろしのパン屋(松宮宏)

これまで読んできた松宮宏の作品群とは、ちょっと違うタイプの作品という感じがした。
これまでは、それが奇想であれ、あるいは日常のドタバタであれ、まずは大風呂敷を広げたところから物語が展開していくようなイメージがあった。ぶっ飛んだ発想を、リアルさを支える様々な現実的な描写で組み上げながら、リーダビリティを生み出す物語を紡いでいくようなイメージだ。

本作は、そういうタイプの作品とはちょっと違った。日常を飛び越える展開も登場するのだが、基本的にはどこにでもありそうな日常を舞台にして話が進んでいく。もちろんそこには、松宮宏らしさみたいなものを感じさせる。こぶりながらよくまとまった作品だという印象である。

内容に入ろうと思います。
本書は、3編の短編が収録された短編集です。

「まぼろしのパン屋」
茨城沼に、開発の波が押し寄せている。地元選出で国土交通大臣になった亀井高雄の悲願だったが、あまりの規模に資金繰りがつかなかった。そこに手を差し伸べたのが大東京電鉄グループの総帥である設楽昇である。茨城沼には、その開発に反対して「サンカノゴイの家」と名付けられた小屋に立てこもっているジャーナリストらがいるが、開発業者は彼らに農薬を撒くなどして徹底抗戦している。
その大東京電鉄で働く高橋は、課長程度で終わるはずだった人生が、玉突き事故のような形で大きく変わった。会社の資産を預かる財務部長に指名されたのだ。自分が優秀だなどと思ってはいない。何かあったら切られる尻尾であると自覚している。最近、妻の久里子がカルチャーセンターのパン職人の講座にハマッている。まあ、結構なことだ。
サラリーマンの常として、日々満員電車での戦いを繰り広げている高橋は、休日出勤しなければならない朝、いつもと違ってガラガラの車内で不思議なおばあさんに会った。何故かそのおばあさんからパンを受け取った。そのことで彼の人生は大きく変わっていくことになるのだが…。

「ホルモンと薔薇」
花隈病院の大腸外科医である村岡久雄は、仕事も休日も腸にまみれている。普段は、日本で三本の指に入ると言われる大腸外科医として、その美しさに感動し、また仕事終わりや休日も何かと腸が絡んでくるのだ。
仕事終わりで「吉田酒店」で飲んでいると、父の久二雄がやってきた。今日は焼肉の会だ。久二雄が主催する焼肉パーティーにはプロの焼肉店さえ店を休んでやってくるほどの人気だ。久雄もその準備のため牛の解体を手伝った。
そこに加奈がやってくる。ひったくりに遭ったのだという。皆で憤るが、どうなるものでもない。とりあえず皆で話を聞き慰めていたが、その後予想もしなかった展開となり…。

「こころの帰る場所」
華井中の荒井と言えば知らぬものはいないヤンキーだった荒井は、はみ出した生き方をしていたが、性根が腐っていたわけではない。人生の都度都度で、生き方を改めようと思ったことはあった。しかし、一度貼られたレッテルはなかなか剥がすことができない。真面目になろうとしたり、でもなりきれなかったりというゆらゆらした人生を続けていた。
一念発起してJRの試験を受け、車掌として真面目に働き始めるが、昔の仲間との縁はそうそう切れるものではなく…。

というような話です。

どの話も、凄く地味ではあるんですけど、スイスイと流れに乗った語りに読まされてしまうし、じわじわと染み込んでくるような物語がとても良い。物語の中で特別な出来事が起こることはなくて、悪い言い方をすればダラダラと話が展開していくんだけど、それでも読ませる力はさすが松宮宏だと思う。

最初の「まぼろしのパン屋」こそ、ちょっと非日常的な部分が出て来るのだけど、その点を除けば、全体的に日常ベースで物語が進んでいく。とはいえ、松宮宏である。普通の話にはならない。登場人物たちが非常に個性的で、わいわいがやがやしているだけなのだけど、なんだかほっこりさせられてしまうのだ。相変わらず不思議な物語を書く作家だ。

どの話にも食べ物が絡んでくるが、より重要なのは、どの話も働く者たちの話だということではないかと思う。特に「まぼろしのパン屋」はそうだ。本書をお仕事小説、と捉えるのは難しいだろうが、働く者の悲哀や哀愁みたいなものも感じ取れる作品なのではないかと思う。

松宮宏「まぼろしのパン屋」

命のまもりびと 秋田の自殺を半減させた男(中村智志)

僕も昔、自殺しようと思ったことがある。住んでいた建物の屋上から飛び降りようと思ったのだけど、結局は出来なかった。その経験以来僕は、「僕に自殺をする勇気はないな」と判断し、人生の選択肢から「自殺」を消した。「死ぬ気になれば何でも出来る」というが、いざ死のうとした時に死ねないのでは「死ぬ気」にもなれない。だから、自分を追い込むような状況にならないよう、注意して生きるようになった。

死にたいと思っていた頃の自分のことを思い出すと、自力ではあの状態から抜け出せなかったな、と思う。とにかく、まともな思考が出来なかった。何か考えようとしても、すべてが悪い風にしか思えなかったし、何をどう考えても結局「死ぬ」という結論に行き着いてしまう。
キツかったなぁ、と思う。

自分がいる状況が変われば、思考も変わってくる。僕は、比較的強制的に環境を変えさせられたので、結果的にはそれが良かったのだと思う。悩んでいる時のまま状況が変わらなければ、恐らくずっとそのままだっただろう。自分がどれだけ理性的できちんとした思考が出来る人間だと思っていても、悩みや不安に冒されている時はそういう自分ではいられないのだと思っておいた方がいい。少なくとも、僕はそうだった。

「死にたい」と思った時、誰かに助けを求めることはとても難しい。周りにいる人間は、「言ってくれさえすれば助けたのに」と感じるだろう。その気持ちは凄くよく分かる。分かるが、しかしそれは簡単ではない。そこには、様々なフェーズがある。

何より一番難しいことは、自分が何に悩んでいるのかを正確に伝えることだ。大抵、死にたいと思うぐらいまで追い詰められている時は、いくつかの複合的な要素が関係している。悩んでいる当人は、もうまともな思考が出来ないので、自分がどんな不安に冒されているのかをきちんと言語化出来ない。言語化出来ていても、それが問題の本質かどうか、自分の中できちんと分析できているか分からない。原因が分かれば対処のしようもあるだろうが、そもそも何が原因なのか悩んでいる本人がきちんと理解することが出来ないのだから、死にたいと思っていると言っても伝わらないだろうと思ってしまう。

また、死にたい理由をきちんと捉えることが出来ていても、「そんなことで悩んでるなんて」と言われることを恐れる気持ちがある。僕にも、この不安はあった。普通の人が当たり前に出来ることが、僕には出来ないという感覚がずっとあった。それを普通の人に話をしても、「そんなことで不安がってないでやってみれば大丈夫だって」みたいなことを言われてお終いだろう、と思った。悩んでいる人間にとっては、そのことはとても重大で深刻な問題なのだけど、その深刻さを理解してもらうことがとても難しいだろうと思えてしまうのだ。

もちろん、「死にたいと思っている人間」として見られることへの抵抗感もある。注目を集めたいだけなんじゃないかという過剰な心配や、あるいは逆に、自分が望む以上の優しさや親切を相手に強いてしまうのではないか、という怖さもある。相談するとすれば自分の周りにいる人間になるだろうが、そういう人からそれまでと同じような見られ方をされなくなってしまうだろう、という怖さがどうしても付きまとう。

他にも周りの人間に相談するのをためらわせる理由は様々に存在するだろうが、そう言った理由から、死にたいと思っていることを周囲に告げることが出来ない人が多くいることには、とても共感できる。

だからこそ、本書で中心的に描かれる佐藤久男のような人物がとても重要になってくるのだ。

『(秋田県の自殺が減ったのは)もちろん、佐藤一人の力ではない。秋田県庁も危機感を抱き、2000年から対策を取りはじめていた。秋田大学の研究者たちも研究と実践をつなぐことに力を注いでいる。県下に続々と生まれた民間団体は、横のつながりを保ちながら、それぞれの場で活動している。そして、「民」「学」「官」の連携。それが秋田の強みであり、「秋田モデル」と呼ばれる。
秋田モデルは自殺者を減らした成功例としてよく知られており、日本の自殺対策を語るうえでは欠かせない。その秋田モデルの中核に、佐藤がいるのだ。』

日本の自殺者はとても多い。1998年に自殺者が初めて3万人を越えた。この数は、東日本大震災と阪神・淡路大震災の犠牲者を合わせた数よりも多いという。どんな死であってもそれは不幸に違いないが、自ら命を断つ者が甚大な被害をもたらした自然災害による犠牲者よりも多いというのは、ちょっと異常ではないかと思う。

そんな中、自身も会社を倒産させ自殺を考えたという佐藤が、地元秋田の地で、主に中小企業の経営者向けの自殺対策を行う「蜘蛛の糸」というNPO法人を立ち上げ、後に「秋田モデル」と呼ばれるようになるスタイルを作り上げていく。

佐藤がしていることは、ある意味では誰でも出来ることだ。何時間でも相手の話をじっくりと聞く。何度でも聞く。そして多くの場合、次の約束をして別れる。時には、経営者だった経験からアドバイスもするが、まずは相手の話を聞くことからだ。

『十年間経って九百社ぐらいの相談を受けてきましたが、私は素人なんですね。でも、プロになろうとは思いません。私は、誰でもやれる平凡な自殺予防、って言うんです。隣のじっちゃんばっちゃんが困ったときに「何したあ。ちょっと話を聞かせてもらえねえか」と手を差し伸ばす活動だからね。みんなでやりましょうって』

確かに「誰にでもやれる平凡な自殺予防」という表現は、決して誇張ではなく、そういう側面はあると思う。ただ、誰にでもできることと、誰にでもできることをやり続けることは、全然違う。それに、誰にでもできることではあるが、誰にでもできるからと言って洗練させなくて良いということにはならない。佐藤は様々な経験をしてきたことで、誰にでもできることを磨いてきた。その積み重ねが、自殺者を減らすという成果に繋がっているのだ。

また佐藤は、中小企業の経営者向け、というスタイルを崩さない。自分がアドバイス出来ること周辺にしか手を伸ばすまい、と決めているのだ。「子どもいじめ相談は受けないのか?」と著者が佐藤に問うた時の反応は、著者をして違和感を覚えたと言わせるほどのものであり、受け取り方に賛否分かれるかもしれないが、それだけ誠意を持って活動を続けているとも取れる。

『もっとも怖いのはね、自分がわからないのに間口を広げて、相手に迷惑をかける相談なんだよね。それなら、やらねえほうがいい』

それでなくても佐藤のスタイルは、時間無制限で話を聞く、というものだ。NPOで、報酬をもらっているわけでもない。じっくり相手に向き合う、という意味で、間口を広げない方がいいということもあるだろう。佐藤一人が多くの人を見るのではなく、佐藤のような人間をたくさん生み出して、彼らに様々な得意分野を見てもらうようにする、という方が自然だ。

佐藤は、決して自殺を否定しているわけではない。

『人間には、自分の命を守る自由と共に、自分で命を絶つ自由もある。俺は、自殺を否定するわけでもないし、自殺がダメだという価値観には立たねえんだ。あくまで個人の命は個人のもの、人間っていうのは死ぬもんだという価値観だから。三島由紀夫のような死は食い止められねえし、死ぬことで評価が定まる人もいる。自殺者が誰もいない社会なんて息苦しいし、小説の半分がなくなっちゃうよ。自殺をゼロにできると考えるのは、不遜なよ、傲慢な人間だと思っている。自分に問いかけてるわけでうよ。あなたは何者なのか、あなたはそんな立派な人間なのか、と。ただ、食い止められる死、避けられる死がいっぱいある。それを防ぎたいと思うわけさ』

このスタンスは、僕は好きだなと思う。僕も、死ぬ自由はあると考えたい人間だ。死ぬ自由を感じられない社会は、窮屈だと思う。けれど、死ぬ必要もないようなことで死にたくなってしまう瞬間というのは必ずある。そういう瞬間は、出来るだけ取り除けるに越したことはない、という考えも共感できる。

本書は、佐藤久男の生い立ちや人となりと合わせて、佐藤がこれまで相談を聞いてきた人たちの人生にも深く触れられていく。

『佐藤はふだん、相談者が立ち直ると、会わなくなる。道ですれ違っても、相手が挨拶をしなければ素知らぬ振りをする。苦悩の日々が「忘れたい過去」になっている場合があるからだ。病気が治ったら患者は医者を必要としない。佐藤は、相談者と自分との関係をそうなぞらえていた。
だから、私が印象深かった過去の相談相手に会いたいと頼んでも、紹介できる人は自ずと限られた。』

それでも本書には、佐藤が関わった事例が様々な形で取り上げられている。

その過程で佐藤は、様々なことを経験し、考えさせられた。うまく行かなかったこともあるし、その後の佐藤の活動の柱となっていったような経験もあった。自分のやっていることに意味などないのではないかと感じられることもあった。しかし佐藤は、ある経験からこんな風に感じる。

『「蜘蛛の糸」の目的な自殺予防である。それなら、相手が生き続けていれば、相談は役に立っているのではないか。直接的に何かをしてあげられなくてもかまわないのではないか。』

そんな様々な葛藤を乗り越え、佐藤は自分にできることを少しずつ積み重ねていった。行動原理に哲学があり、前に進む意志があれば、個人でも大きな壁を壊すことが出来る。そんな実例を目の当たりさせられた作品だった。

中村智志「命のまもりびと 秋田の自殺を半減させた男」

くすぶり亦蔵 秘剣こいわらい(松宮宏)

本当に松宮宏は、どこから物語を創造するんだろうなぁ、と毎回不思議に思わされる。

本作は、「路上喫煙が禁止されているマンハッタンでタバコを吸い、何度も逮捕される無口な日本人」を描く小説だ。何だそりゃ?という感じだろう。でも、要約するとこうなるのだ。

ほとんど、たったこれだけの舞台設定で物語を成立させてしまう。もちろん、その外側では色んなことが起こる。その色んなことが面白いのだが、しかし、物語の中心は「タバコを吸って逮捕されるオッサン」だ。そこにしか中心がない。

普通、たったそれだけの核で、長編一遍を成立させられるなどと考える作家はいないだろう。そういう意味で、松宮宏は頭がイカれているのだと思う。もちろん、良い意味でだ。

松宮宏が描く物語は、「奇想」に支えられていることが多いが、しかしその奇想は、ファンタジーやSFという方向とはちょっと違う。どちらかと言えば、「バカバカしすぎて誰も真剣に考えたことのない発想」という意味での奇想だろう。松宮宏の小説には、そういう意味での奇想がバンバン登場するのだが、しかし松宮宏の広範な知識と描写力によって、あたかもそういうことが実際にあってもおかしくないような錯覚を与える物語に仕上がっている、と僕は感じる。明らかにバカバカしいし、実際には起こり得ないだろう出来事なんだけど、松宮宏の小説からは妙なリアリティを感じるのだ。そういう、物語の成立のさせ方にも、独特なものを感じる。

毎回、どんな作品を生み出してくるのか、実に楽しみな作家である。

内容に入ろうと思います。
樺沢亦蔵は、尋常ではないチェーンスモーカーだ。
『朝起きてすぐに吸い、朝飯の間吸い続ける。
服を着替えながらも吸い、靴を履きながらも吸う。
亦蔵の家から田園都市線溝の口の駅まで、せいぜい歩いて十分であるが、その間に最初のひと箱がなくなる。
それだけ吸うということは、もう、無理やり吸っているとしか言いようがない。
そんな吸い方だ』
そんな男である。
当然、周囲からは顰蹙を買いまくっている。しかし亦蔵は、何を言われても表情一つ変えず、平然としている。無口な男なのである。赤ら顔で毛が濃いが故に、「毛蟹」と呼ばれている。青山通りにある真新しいイメージの会社で現金出納係として働いているのだが、とにかく青山という土地に似合わない男である。
タバコにまつわるトラブルは絶えないが、亦蔵にはこれほどまでにタバコを吸うようになったきっかけがきちんとある。とはいえ、そんなことは周りには関係ないし、そもそも無口な亦蔵は何も喋らないので、周りとしてはただ迷惑なだけの男である。
一方、アメリカでは、タバコ産業が壊滅的な状況に追いやられていた。1998年に、巨大タバコ四社が四十六の州政府に対して、医療保険が喫煙関連の疾患治療のためにこれまでに負担してきた合計二千六十億ドル(約二十五兆円)の医療費を支払うという合意に至った。タバコを争点にした裁判で軒並み敗訴を喫し、喫煙者が社会的にかなり追い詰められている。全米タバコ産業親交協会会長であるデイモン・チェンバレンと、タバコ産業から多大な献金を受け取ってきたアーノルド・グリムショー下院議員(共和党の元締めである)の二人は、事態を静観することぐらいしか出来ないでいる。
亦蔵はたまたま、そんなアメリカの喫煙事情を特集する番組を見た。今や多くの州では自宅以外では喫煙出来ず、都市部では路上喫煙をすると逮捕されるのだという。それを知って亦蔵は決意した。会社を辞めて、アメリカに行こう。
どこでもいいから、とチケットカウンターで言い、ニューヨーク行きのファーストクラスに乗ることになった亦蔵は、テレビで見たプラザホテル前でタバコを吸うことに決めるが…。
刑務所から出る度にタバコを吸い再度逮捕される亦蔵に多くの輩が群がっていく。亦蔵ブームによって息を吹き返したタバコ産業、亦蔵に自社の服や靴を着せようとするファッションブランドなどが亦蔵の登場を歓喜と共に迎え入れ、ほぼ何も喋らない亦蔵は一躍アメリカの寵児に祭り上げられることになる。そこに、21歳の暇な女子大生・和邇メグルはどう絡んでくるのか…。
というような話です。

いやー、今回も面白かったなぁ。冒頭でも書いたけど、松宮宏は本当に奇想が凄い。どっからこんな話思いつくんだ、っていうような舞台設定や構成が本当に凄いんだよなぁ。

とはいえ、今回の作品は、物語の着想はわかりやすいと言えばわかりやすい。どう考えても、「マンハッタンで路上喫煙を繰り返して逮捕される日本人がいたらどうだろう?」という着想から物語を組み立てていったはずだ。だとしても、その日本人である樺沢亦蔵の造型や、亦蔵の振る舞いがニューヨークでどんな反応を引き起こすことになるのか、さらにはこの物語に和邇メグルがどう絡んでくるのか、というような部分まで含めて一つの物語に収めるのは本当に凄いなと思いました。

特に本書では、アメリカの政界の話がかなり描かれている。もちろん、僕はアメリカの政界には全然詳しくないので、本書の記述がリアリティを無視した荒唐無稽なものであるかもしれないのだけど、僕が読む限り、リアリティを感じました。政治の力学みたいなものがどう働くのか、という部分がリアルさを感じさせます。亦蔵という、ただタバコを吸って逮捕されるだけの男に、アメリカの政界が右往左往させられる様子は痛快で、でもその痛快さを演出するためには、アメリカの政界事情をリアルに描かなければならないわけで、その点も実に見事にクリアしていると思いました。

他の作品でも、例えばビジネスの話に精通していたり、食通なのかと感じさせるような記述があったりと、とにかく描像出来る範囲がとても広い。深い知識と描像力に支えられているからこそ、バカバカしいほどの奇想が、ただの荒唐無稽な設定ではなく、リアリティを伴ったバカバカしさを生み出しているのだという感じがします。

どの作品の読んでてもそうなんだけど、松宮宏の作品は、正直なところ、読み終わっても何も残らない。読者に何かを考えさせたり、何か教えを与えたりと言ったようなものとは無縁だ。しかし、その圧倒的な面白さ故に、「こんなに面白い本があるぞ!」と誰かに言い聞かせたくなるような、そんな作品です。超ドストレートなエンタメ作品です。そんじょそこらの小説にはない、ノンストップな奇想が物語を一気に牽引していく作品です。

松宮宏「くすぶり亦蔵 秘剣こいわらい」

ルドヴィカがいる(平山瑞穂)

平山瑞穂、やっぱり好きだなぁ。
作家本人はどうか知らないけど、作品に異様な捻れを感じることはそうそうあるもんじゃない。

言葉に対する感覚が鋭敏であるかどうか、というのは、人間を評価する際に僕にとってとても大事な要素になってくる。言葉を雑に扱う人間は、あまり好きではない。

大げさに言えば、世界は言葉で出来ているのだ、と言っていい。もちろん、言葉なんかなくたって太陽や空気は存在している。そういう観点からすれば、「世界は言葉で出来ている」という捉え方は間違っているだろう。

では、太陽が東から昇り西に沈む、ということについて考えてみよう。もし、言葉というものが存在しない場合、その光景はどう映るだろうか?なかなか想像するのが難しいが、その光景は認識されないのではないか、とも思う。言葉がないということは、概念がないということだ。つまり、「空」「太陽」「東」「西」「昇る」「沈む」と言ったようなことすべてが、分離したものとして捉えられないということではないか。一枚の抽象画を見ているかのように、その絵の中に区別すべき何かを見いだせない、という状態にあるのではないか。

言葉がなければ、目の前にどんな存在があっても抽象画のように見えてしまうとしたら、それは「世界が存在しない」ことと同じなのではないか。大げさかもしれないが、そうなるのではないかと思う。僕たちは、言葉を知っているから、目の前の光景を抽象的なものとしてではなく、個々の意味のある物質や概念の総体として捉えることが出来る。そんな風に、物質や概念の総体として世界が立ち上がることになる。ということは、言葉こそが世界を立ち上げているということになりはしないか?

僕が好きな話がある。このブログでも様々なところで書いた記憶があるが、フランス語では「蛾」と「蝶」を区別せずに、どちらも「パピヨン」と呼ぶ。つまり、フランス語を喋る人間には「パピヨン」として見えているものを、僕ら日本人は「蛾」と「蝶」という別々のものとして捉えることになる。虹の色は、日本では七色だが、外国では国ごとにまちまちだ。まったく同じものを見ているはずなのに、言葉が目の前にある存在の捉え方を変えている、ということがこれらの例から分かるだろう。「パピヨン」とまとめて捉えようが、「蛾」と「蝶」として区別して捉えようが、世界の立ち上がり方は大きく変わりはしないが、世界の捉え方が大きく変わる言葉もある。例えば、「空気」という言葉が生まれるまで、人間は自分たちが「空気」の中にいることに気づかなかったはずだ。「空気」という言葉が生まれたことで、僕たちは初めて「空気」の存在に気付くことが出来る。「空気」という言葉が出来る前に「空気」の存在に気付くことが出来た者(ラボアジェっていう科学者だった気がする。それは「酸素」かな?)は、本当に凄いと思う。

最近、「メッセージ」という映画を見た。この話も、言語を扱う物語だった。ネタバレになるようなことは書かないが、とある特殊な言語体系を持つ異星人の存在が、物語に大きく関係してくる。言語が世界そのものを変える力を持ちうるのだ、ということが鮮やかに示される物語だった。

言葉によって世界が立ち上がるとすれば、言葉に対する感覚が鋭敏であればあるほど、世界をよりクリアに見ることが出来る、ということだろうと思う。言葉に対する感覚が鈍い者も、日常生活に支障を来すことはないだろう。視力の悪い人間が、それでも日常生活を送れてしまうのと同じだ。しかしそういう視力の悪い人間がある日、眼鏡を掛けたら驚くだろう。今まで自分が見ていた世界がなんてぼやけていたのか、ということが一瞬で理解出来ることだろう。同じことが、言葉の鋭敏さについても言えるはずだ。言葉の鋭敏さは、眼鏡を掛けるようには一瞬では強くはならないだろうが、もしそんな魔法のような状況が存在すれば、自分がいかにぼやけた世界の中で生きていたのかが分かるだろう。

言葉の鋭敏さを持ち、世界をクリアに認識出来るようになればなるほど、僕にとっての人間的な魅力は増す。僕には、そういう感覚がある。言葉の鋭敏さの強い人は、やはり普段から見ているものが全然違う。それは、言葉に対する感覚の鈍い人とは、本当に雲泥の差があると感じられる。フランス人を悪く言う意図はまったくないが、言語に対する感覚が鈍い人は、「蛾」と「蝶」が同じに見えるフランス人のようなものだろう(たまたま今回の例ではこうだっただけで、フランス語の方が日本語より捉え方が細分化されているという事例も当然あるだろう)。同じものを見ていても、言語の鋭敏さの程度によって世界は違う捉えられ方をする。そしてそのことは、ある程度以上言葉の鋭敏さを有している人間でないとなかなか気づけないのだ。

平山瑞穂は、言葉の鋭敏さが非常に強い人だと感じる。本書の主人公は、伊豆浜という小説家であり、そんな伊豆浜が蒼井という編集者との会話で多大な違和感を表明する場面があるが、本書の中で蒼井こそが、言葉の鋭敏さが弱い人間として描かれる。そして、そんな蒼井に対する伊豆浜の苛立ちが、僕にはよく理解できる。小説の登場人物と作者を安易に重ねるべきではないと思うのだが、恐らく伊豆浜の蒼井に対する感覚は、著者の平山瑞穂自身の感覚でもあるのではないか、と思う。

言葉の鋭敏さが強いことは、決して良いことばかりではない。見える必要がないものまで見えてしまうこともある。通常紫外線や赤外線は目には見えないが、言葉の鋭敏さが強くなればなるほど、そういう見えないはずのものが見えてくるようになる、ということでもあるのだ(まあ、どれだけ言葉の鋭敏さが強くなっても、紫外線や赤外線は見えないと思うけど)。

本書は、「言葉」というものが一つ大きな要素となっている。不可思議な日本語を操る人物が登場するのだが、言語によって世界の見え方が変わるとすれば、彼らにはどんな風に目の前の物事が見えているのか、非常に興味深い。

内容に入ろうと思います。
小説家の伊豆浜亮平は、ここ5年間ヒットに恵まれることもなく、世間から忘れ去られているばかりか、担当編集者からも新作が特に期待されていないと思われる、そんな小説家だ。もちろん、それでは生きていけないので、伊豆浜は濱田出雲という別のペンネームでフリーライターの仕事も請け負っている。「週刊レディー」という女性週刊誌の仕事で、芸能ネタと、「作家にアタック!」という小説家を取り上げるコーナーだけは勘弁してもらっているが、それ以外ならどんな仕事も引き受けてきた。小説を書く際には、言葉に対する細部のこだわり、小説を生み出す際の緻密な思考があるのだが、フリーライターとしては、求められている文章を求められているように完成させるという職人に徹することにしている。
ある日、書き下ろしの小説の原稿に行き詰まっている時(大体常に行き詰まっているのだが)、「週刊レディー」の担当編集者である蒼井から、「鍵盤王子」と呼ばれている美貌の男性ピアニスト・荻須晶の取材を依頼された。海外を拠点に活動をしており、日本での知名度はほとんどなかったが、何年か前に出た携帯電話のCMで大ブレイクし、女性週刊誌ではよく取り上げられる存在になった。もちろん伊豆浜は荻須には全然詳しくなかったが、通り一遍の情報だけさらって取材に出向いた。
荻須は、インタビューから受ける印象とはまるで違っていた。「王子」と呼ばれるような存在ではなく、父親をけなしたり、ピアノを教えてくれた人をこきおろしたりと散々な言い草だった。しかしそれも、露悪的に振る舞っているというわけではなく、思ったことを素直に口に出しているだけだと見受けられた。外国暮らしが長かったからだろうか、社交辞令的なやり取りはほとんど通じず、言葉にしたことがすべて、というような人物だった。普通なら失礼に感じるようなやり取りもあったが、伊豆浜は何故かこの荻須という男に惹かれる部分を感じていた。
そんな荻須から、別荘に誘われた。確かにインタビューの後の食事の際、そんな話が出た。しかし伊豆浜としては当然、社交辞令的な返答だった。荻須からすれば、伊豆浜が別荘にやってくることは規定事項だったようで、とはいえそういう場は得意ではない。伊豆浜は、以前から付き合いがあり、恋人と呼んでいいのかわからないが時折体の関係もある白石もえを伴って、荻須の別荘を訪れたのだった。
しかしそこで伊豆浜は、奇妙な喋り方をする女性と出会う。
「社宅にヒきに行っている人とその恋人の方ですね。ラクゴはミています」
さっぱり理解できなかった。そして、この女性との邂逅が、伊豆浜を奇妙な現実へと引きずり出して行くことになるのだが…。
というような話です。

面白かったなぁ。実にヘンな物語で、グイグイ惹き込まれた。

物語の冒頭からしばらくは、ごくごく普通に進んでいく。とある作家が、ピアニストのインタビューを担当し、そのピアニストに別荘に誘われるぐらいまでは、ごく普通だ。伊豆浜亮平という人物が、物事や言葉の細部にちょっと厳しくて、それによって伊豆浜のレンズを通した世界の見え方はちょっとずつ歪んでいくんだけど、とはいえそれは、そこまで大きな違和感としては認識されない。物語は、ある程度普通の領域で展開されていく。

しかし、荻須晶の姉の登場により、徐々に違和感は増していく。一気に、畳み掛けるようにして違和感が増大するわけではない。あくまでも、少しずつ少しずつ違和感がましていく。読者は、自分がいつこんな深みに嵌まったのか理解できないまま、いつしか大きな穴に落ち込んでいるのである。

そして、その穴に嵌まり込んでみると、平山瑞穂が少しずつ積み上げてきた物語の世界観が、非常に緻密に作りあげられてきたのだということが分かる。

その一つの効果として見事に機能しているのが、作中作である「さなぎの宿」である。伊豆浜が書き下ろしの小説として書き進めている作品で、不倫関係を指摘された女が失踪し、その女を探す過程で男が奇妙な世界へと足を踏み入れていく、という物語だ。伊豆浜は、荻須のインタビューから向こう、様々な経験をするが、その間中、暇さえあればこの「さなぎの宿」の原稿を書いている。そしてその原稿の一部が、「ルドヴィカがいる」の中にも引用されるような形で登場するのだ。

初め、この二つの物語は、まったく別物として登場する。しかし、作中作が登場する常であるように、この作中作は本編と絡まり合っていく。しかし、この絡まり合い方が実に奇妙で、そこが本書の読みどころの一つでもある。陳腐な例だが、まるでウロボロスの蛇であるかのように、いつの間にか自分自身が呑み込まれてしまっているというような、そういう不可思議な展開になっていくのだ。伊豆浜が生みだした「現実」と、平山瑞穂が生みだした「現実」が干渉し合い、まるで伊豆浜にも平山瑞穂にも制御不能になっているかのような、そんな不可思議な錯覚を抱かせる作品でもある。

僕は、作品のタイプにもよるが、出来るだけ物語は合理的に閉じてほしいと思ってしまうタイプの人間だ。SFやファンタジーならともかく、そういう超越的な世界観を前提としない世界では、出来るだけ物語全体は合理的に閉じて欲しいというのが基本的な願望だ(100%ではないが)。普段の僕であれば、この作品にもそういう合理的な結末を望んだだろう。物語の始まりからしばらくの間は、そういう超越的な設定を必要としない世界観で話が進んでいくのだから。しかし、本作を読み終えて今、僕には特に不快感はないし、実に清々しい。合理的、とはとても言えない終わり方をするにも関わらず、それが至極当然の結末であるかのように受け入れている。平山瑞穂が構築する世界観が強固だからだろう、と僕は考えている。

平山瑞穂の作品は、どうもその良さをうまく言葉で伝えにくいものが多い。デビュー作の「ラス・マンチャス通信」などはその最たるもので、あの妖しげな魅惑はなかなか伝えられるものではない。本作にも、そういう妖しさがちょっと漂っている。そういう雰囲気の似合う作家なのである。

平山瑞穂「ルドヴィカがいる」

ふたつのしるし(宮下奈都)

やっぱり宮下奈都はいいなぁ。
素晴らしい。

昔の僕は、きちんと生きているように見える人のことを、羨ましいとずっと思っていた。みんなに好かれ、何事も努力し、分け隔てなく人と接する。そこまで聖人君子みたいな人でなくても、あぁきちんと生きてるなぁ、と感じられる人というのはどこにでもいて、そういう人を見ると、なんで自分はあんな風にいられないんだろう、なんて思っていた。

でも、大人になるに連れて、そういう人も色んなものを抱えているんだなぁ、ということが分かってくるようになる。きちんと生きているように見えても、それは水面上の白鳥の姿のようなもので、水面下では足をばたつかせながら生きているんだ、みたいなことが分かるようになってきた。

そういうことを、もっと子どもの頃に気づけていたら、色んなことがもっと楽だったんだろうなぁ、という感じはする。

『ぜんぜんちがう。思っていた中学生活とぜんぜんちがう。もっとほんとうのことに近づいてもいいんだと思っていた。うれしいことにも、悲しいことにも、いっぱい揺さぶられながら生きていくんだと思っていた。できるだけ揺さぶられないように、揺さぶられてもそれを気取られないように、縮こまって縮こまって息をしている。
誰がこの空気をつくっているの?誰がこの空気を打ち破ってくれるの?誰が私をここから掬い上げてくれるの?
遥名は口に出さずにそう思った。学校にいると息苦しい。卒業するまでこんな日々がずっと続くんだろうか』

僕も、学生時代はずっと息苦しかった。周りに合わせなきゃ、とずっと思っていて、でも何に合わせたらいいんだか全然掴めなかった。歌人の穂村弘も、エッセイの中で同じことを書いていた。自分には分からないルールが、他の人には当然のものとして理解されているようだ、というような違和感をどこでも覚えてしまうらしい。わかる。僕も、その通りだ。そうやって、その場のルールを違和感なく察知出来る人間が、日常を動かしていくんだなぁ、という感じだ。

『遥名も型が欲しい。今必要なものがどの型か、ひと目でわかればどんなに助かるだろう』

結局、色んなことがよく分からないまんま生きていくしかない。そして、大事なことは、実はほとんどの人がそういう苦しさみたいなものを感じている、ということなんだろうと思うのだ。その場のルールが分かっているように思える人であっても、その大半はよく分からないまま振る舞っているのではないか。僕は、そんな風に感じるようになった。ごくごく一部の、その場のルールを支配している人間がいるだけで、後の人は何がなんだかよく分かっていないのではないかと。

今の僕から考えると、昔の僕がそういうなんだかよく分からないものに振り回されていたのは、馬鹿らしく思える。もし、今の脳みそのまま小学生に戻ることが出来たら、僕はハルに近い振る舞いが出来るのではないかと思う。

『ハルの心は常にそのへんを漂っていて、たまにカチッとピントが合ったときにだけ身体に返ってくる』

ハルの振る舞いは、今の僕には凄く羨ましく感じられる。ハルにとっては、自分の周りの世界や、その世界に根ざしているルールなどどうでもいい。そこに関わらなければならない、という理解がない。自分を動かす衝動が、自分自身の内側からしか湧いてこない、という生き方は、周囲との怖ろしいまでの摩擦を生む。しかし、とても自由だ。

自分の行動を自由にするために自分の心に制約を加えるか、自分の心を自由にするために自分の行動に制約を加えるか。まったく対象的な生き方をしてきた二人を対比的に描き出しながら、立ち止まりながら生きていくことの大事さを描き出す筆力はさすがだ。

内容に入ろうと思います。
柏木温之(ハル)は、幼稚園から「来ないで欲しい」と言われるぐらい、協調性の欠片もない不器用な子どもだった。自分がその場にいること、そしてその場の様々な暗黙の了解に従わなければならないことが理解できなかった。自分に向けられた言葉も、自分に向けられた視線も、ハルにとっては何の意味も持たないものだった。だからずっと、自分が何故怒鳴られたり怒られたりするのか、理解出来ないでいた。
学校には通った。でも、自分が学校にいる意味はよく分からなかった。勉強は、全然出来なかった。ハルの振る舞いに凄みを感じた同級生の健太がハルの宿題を勝手にやってあげたら、そのせいでハルが怒られたこともあった。健太は、自分がこれほどに高く評価しているハルが怒られているのを見るのが苦痛だった。
母親の死をきっかけにして、ハルは家を出た。目的はなかった。どうするつもりもなかった。地図が好きだったから、行けるところまで行こうと考えていた。ふとした出会いから、ハルは錨を見つけたかのようにそこに人生の根を下ろすようになる。
大野遥名は人生をそつなくこなしてきた。頭は良かったが、学校では馬鹿っぽく振る舞った。当たり障りのない反応を返し、その場の雰囲気を瞬時に察して自分の行動を決めた。息苦しさを感じていたけど、そうやって生きていく以外、自分に選択肢はないと思っていた。
地方から勢いをつけて東京の大学に出てきたつもりだった。東京に出さえすれば、翼でも生えるのではないかと思っていた。そんなことはなかった。結局、どこにいても、自分がうまく馴染めないでいることを確認するような毎日でしかなかった。
出会いもあるにはあった。心はときめくが、ときめくばかりもいられない出会いだ。そういう経験を積み重ねた果てに、
二人はあの日を迎える。
というような話です。

やっぱり宮下奈都は上手いと思う。とにかく、人間の輪郭をとても丁寧に描き出していく。よく宮下奈都の小説を読むと、「ストーリーらしいストーリーはないのに読まされてしまう」と感じる。本作も同じだった。確かに、ハルや遥名の人生には、ところどころ大きな出来事が起こりはする。しかし、物語の大半は、自分の半径5メートルぐらいの間の範囲内で、普通に起こってもおかしくはないような、そういう平凡な日常で組み立てられている。それなのに、味わい深く読ませる。いつも思うが、これは宮下奈都のマジックだなと思う。

ハルも遥名も、いちいち色んなことに引っかかりながら生きている。世の中にはたぶん、そんな引っ掛かりを感じずに生きていける人もいるのだろうとは思う。周囲の振る舞いへの違和感だとか、自分の存在への納得できない感じとか、そういうことをまったく感じないままいられる人もいるのだろう。

けれども、多くの人はたぶんそうじゃない。何らかの違和感を覚えてしまう。しかし、それを言語化出来る人もそう多くはないのだ。自分が何らかの違和感を持っていることは気付いているが、それが何なのかをはっきり説明するには、高度な言語化力が必要だ。それは、ある種の才能である。

ハルも遥名も、その言語化力を持っている。というか、宮下奈都の小説の主人公は大体そういう言語化力を持っている。そして、そういう言語化力があるからこそ悩むのだ。

『かわいいとか、すごいとか、素敵だとか、そのひとことで済ませてしまうのは思考停止だと遥名は思う』

凄く共感できる一文だが、でも、正直なところ、こんなこと考えなければもう少し楽にいられるのだ。別に誰かから、「かわいい、なんて使うの、考えてない証拠だよ」なんて言われるわけでもない。ただ自分でそう律しているだけなのだ。でも、そういう言語化力のある人間には、そういう思考を止めることが難しい。宮下奈都の小説に出てくる人物は、こういう思考にぐるぐると絡め取られながら、日常の中で踏ん張っていきている印象がある。

ハルと遥名の人生は、ほとんどすれ違うことがない。まったく別の人生を歩んでいるのだ。しかしある日、唐突に交わる。恐らく、普通なら交わることのなかった線が、あり得ない瞬間に交わった。遥名は学生の頃、「矢がどこへ飛んでいくかは、弓から放たれた瞬間に決まってしまっている」と言われた。あるいは、こうなることは、あらかじめ決まっていたのかもしれない。

後半、どんな風に物語が展開するのかあまり触れたくないので、ぼやぼやっと書くのだけど、最終章が実に良い。タイトルの意味も、最終章でより開けていく感じがするし、親友について語る健太の眼差しがとてもいい。まさか、物語の初めで出てきたあの話が最後に繋がるとは思っていなかったし、最後の「生い立ちの記」の文章も書き手の才気も素晴らしい。

本当に、良い物語を読んだなぁ、という気分に浸れる小説なのだ。

宮下奈都「ふたつのしるし」

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12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)