脳と仮想(茂木健一郎)
僕は森博嗣という作家が大好きなのであるが、その作品の中にこのようなセリフが出てくる。
『「美しいと、ビューティフルは、全然違う意味じゃないかな」』
これを読んだ時僕はなるほどと思ったものである。しかしどうなるほどなのかということをちゃんと説明することは難しいと思っていた。
しかしこれは、クオリアというもので説明がつくのだろう、と思った。
クオリアというのは、脳の中で生み出される質感のことである。僕らは目で見たり手で触ったりすることで現実を認識しているけれども、しかしそこで感じているものは現実そのものではなく脳で生み出されるクオリアである。「赤っぽい」とか「ゆらゆらしている」とか「そこはかとなく哀しい」とか、そういう定量化出来ないしかし現実を認識する際に重要な役割を果たすものがクオリアである。
美しいとビューティフルが違う意味だ、ということは、要するに美しいという言葉を聞いた時に生み出されるクオリアとビューティフルと聞いた時に生み出されるクオリアがまるで別物であるということ、もっと言えば、日本人が美しさを感じた時に生み出されるクオリアとアメリカ人がビューティフルさを感じた時に生み出されるクオリアが別物である、ということだ。
僕は英語には詳しくないのでわからないのだけど、ビューティフルという言葉からは直線的な賛美みたいなものを感じる。うまくは説明できないが、分かりやすい美みたいなものを評価しているように思う。
しかし美しいという言葉はもっと複雑で曲線的なものを評価する言葉に僕には聞こえる。「桜」を聞けば日本人であれば誰もが美しいと感じるだろうが、しかし日本人であれば、桜の下には死体が…、という連想も同時に働く。その淫靡さみたいなものもすべて合わせた上での美を評価しているのではないか、という感じがするのだ。これが僕の中で立ち上がる、美しいとビューティフルのクオリアの違いである。
また森博嗣は著作の中でこんなやり取りも書いている。
『「先生・・・、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。』
これもまさしく本作のテーマに沿う見事なやり取りであると思いました。
本作でも、現実とは何か、という話が出てきます。そしてそれは、大きな意味で一種の仮想でしかない、という話になります。
僕らは、現実というものがすぐ目の前にあって、揺るぎなく存在をしているように感じている。それを疑うようなことはないだろう。しかしながら僕らは、決して現実そのものを感じ取っているわけではないのだ。
例えば僕らは目の前にあるコップを見て、コップが現実にそこに存在する、と感じる。しかし僕らが認識しているのはコップそのものではなく、コップを見ることで脳の中で生み出されるクオリアである。もし万が一目の前にコップがなくても、脳の中でコップを見た時に生み出されるクオリアが何らかの形で発生すれば、それは現実にコップがあると認識することになる。幻覚などがそれに近いと思うが、結局僕らは現実そのものではなく、現実そのものを認識することによって脳が生み出すクオリアを感じ取っているだけであって、そういう意味で現実というのも一つの仮想に過ぎない、というのである。
僕は以前どこかの感想の中で、北海道は実在するか、という話を書いた。またその話を書こう。
僕はこれまで一度も北海道を訪れたことがない。もちろん北海道出身であるわけもなく、両親のどちらかが実は北海道出身で、というようなこともたぶんない。誘拐されて北海道まで連れて行かれたことも、あるいは東京だと思って住んでいたところが実は北海道でした、ということもない。
つまり僕にとって、北海道という土地はまだ現実として認識されたことのない場所である。
もちろん、テレビで北海道の雄大な自然を見たこともあるし、北海道のガイドブックも目にしたことがある。北海道出身の友人もいるし、地図にだってちゃんと北海道は記載されている。
しかしそれらはすべて、僕の直接の経験ではない。人から聞いた話だ。僕にとって北海道という土地は、そうした伝聞によって構成される場所、つまり一つの仮説でしかない。北海道は実際あるかもしれない、という仮説が今僕の中にあるだけで、実際あるかどうかまだわからないのである。
しかし一方で、当然のことではあるが僕は別に北海道の存在を疑っているわけではない。間違いなく北海道という場所は存在するだろうし、僕が行ったことがないだけでこれからも存在し続けるだろうと思う。
しかし何故僕は、まだ見たことも足を踏み入れたこともない北海道という土地を、ここまで現実のものとして受け入れることが出来るのか。これが即ち仮想の力であり、僕らの生活がいかにして仮想に満ちているのか、ということを雄弁に語ってくれる一つの事実である。
著者の茂木健一郎は、本作を書くに当たって一つのきっかけがあったと語る。それは空港で何気なく耳にした、ある女の子の言葉である。
「ねえ、サンタさんっていると思う?」
茂木健一郎はこれを聞いて、もう一度真剣に仮想というものの切実さについて考えようと思った。
サンタクロースというのは紛れもなく現実にはいない存在だ。もちろん空港でこの問を発した女の子も、実際のところそれには気づいているだろう。
しかしながら同時に、サンタクロースという存在は僕らの中である明確なクオリアを生み出す。それは姿形にしてもそうだし、夢を運ぶというそのあり方についてでもある。とにかく僕らはサンタクロースと聞くと、「サンタクロースらしさ」というようなクオリアを明確に意識することが出来る。
この問こそがすべての基本なのではないか。いかに仮想というものが脳というものと深く結びつき現実を生きる僕らに作用をするかということの本質なのではないか、と茂木健一郎は考えるのだ。
これまで脳の問題、とりわけ意識や心の問題というのは科学では扱われて来なかった。それは即ち、これまでの科学のやり方では到底扱えないと匙を投げたも同然である。
これまでの科学の解釈では、意識というのは「随伴現象」であるとして片付けてきた。要するに、意識というのはシナプス同士の活動による副産物みたいなものであって、実質のところあってもなくても問題ないものだ。だからこそ科学で扱う必要はない、という立場である。
しかし人間が意識というものを持つ以上、それを何らかの形で解明したいと考えるのも事実である。これまでも科学者は従来の科学の手法で意識について解明しようとしてきたが、しかしそれはまるで無駄であった。いくらシナプスの働きを解明したところで、あるいは脳のそれぞれの部位の働きを解明したところで、何故脳という塊になると意識が発生するのかということはまるで説明が出来なかったのである。
今では、クオリアというものをとっかかりとして、これまでの科学のやり方に頼らない形で脳について研究がされるようになってきた。しかしまだまだ何も分かっていないに等しいというのが現実だ。
僕たちの現実は、すべてクオリアというものによって支えられている。脳の中で生み出されるクオリアを感じることによって物事を認識したり何かに感動したりすることが出来る。そしてまたそうした様々なクオリアの存在により、僕らは仮想を生み出すことが出来る。その仮想によって、僕らの生活は支えられるのだ。
現実もまた仮想の一つである。僕らは現実そのものを認識出来るわけではない。現実を脳が認識した時に生み出されるクオリアを感じることで僕らの脳内で現実が生み出されるのである。世界のすべては脳内にあると言っても言い過ぎではない。
ありとあらゆる意味で、僕らは現実と断絶をしている。分かった気になってもそれは分かっていないのだ。現実を見ているつもりでも現実そのものを見ることは出来ず、また友人について理解したと思っても、それは自分の中で生み出された友人についてのクオリアを理解しているに過ぎないのだ。
脳にとって仮想というものがいかに重要であるか、というものを論じた作品になっています。
なかなかうまく評価することの出来ない作品です。そこまで難しいことが書いてあるわけではないので誰でも読むことは出来ると思うんですが、結局何が言いたかったのかということになると何だかよく分からないな、という感じでした。
茂木健一郎は、芸術や文学やゲームなど様々なものを引き合いに出してこの仮想というものを論じるのだけど、とにかく僕が関心したのが茂木健一郎の博識っぷりです。もちろん理系の人ですけど文学についてもきちんと読んでいるようだし、絵や音楽などの芸術も知っている。芸大でも講師をしたことがあるようでなるほどそれも当然かという感じがしました。
要するに、そうした文学や芸術をどう認識しそれがクオリアや仮想とどう関わってくるのかということを書いているわけですけど、文学や芸術の素養のない僕としてはイマイチよく分からない話も結構ありました。
様々な事例を挙げて認識と仮想について触れているので分かりやすいと言えば分かりやすいのですけど、やっぱり最終的にどういう結論に辿り着いたのかはよく分かりませんでした。
内容はかなり哲学的ではないか、と思います。もちろん脳や意識を扱うというのは科学の分野ではあるんですけど、科学の手法には限界があるわけで、意識や脳について論じるとやはり哲学的になってしまうのかな、と思いました。まあ僕は実際哲学がどういうものかよく分からないですけど、僕が哲学と聞いて浮かび上がるクオリアと本作を読んで脳の中で生み出されるクオリアが近い感じがする、という意味です。
本作は小林秀雄賞というのを受賞しているなかなか評価の高い本のようですが、ちょっとあんまりオススメできないかな、という感じはします。決して悪くはないと思うんですけど、積極的に読むほどでもないような気がしてしまいました。でも意識や脳、あるいはクオリアや仮想について充分深く論じていると思うので、興味があるという人は読んでみたらいいかと思います。
茂木健一郎「脳と仮想」
『「美しいと、ビューティフルは、全然違う意味じゃないかな」』
これを読んだ時僕はなるほどと思ったものである。しかしどうなるほどなのかということをちゃんと説明することは難しいと思っていた。
しかしこれは、クオリアというもので説明がつくのだろう、と思った。
クオリアというのは、脳の中で生み出される質感のことである。僕らは目で見たり手で触ったりすることで現実を認識しているけれども、しかしそこで感じているものは現実そのものではなく脳で生み出されるクオリアである。「赤っぽい」とか「ゆらゆらしている」とか「そこはかとなく哀しい」とか、そういう定量化出来ないしかし現実を認識する際に重要な役割を果たすものがクオリアである。
美しいとビューティフルが違う意味だ、ということは、要するに美しいという言葉を聞いた時に生み出されるクオリアとビューティフルと聞いた時に生み出されるクオリアがまるで別物であるということ、もっと言えば、日本人が美しさを感じた時に生み出されるクオリアとアメリカ人がビューティフルさを感じた時に生み出されるクオリアが別物である、ということだ。
僕は英語には詳しくないのでわからないのだけど、ビューティフルという言葉からは直線的な賛美みたいなものを感じる。うまくは説明できないが、分かりやすい美みたいなものを評価しているように思う。
しかし美しいという言葉はもっと複雑で曲線的なものを評価する言葉に僕には聞こえる。「桜」を聞けば日本人であれば誰もが美しいと感じるだろうが、しかし日本人であれば、桜の下には死体が…、という連想も同時に働く。その淫靡さみたいなものもすべて合わせた上での美を評価しているのではないか、という感じがするのだ。これが僕の中で立ち上がる、美しいとビューティフルのクオリアの違いである。
また森博嗣は著作の中でこんなやり取りも書いている。
『「先生・・・、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。』
これもまさしく本作のテーマに沿う見事なやり取りであると思いました。
本作でも、現実とは何か、という話が出てきます。そしてそれは、大きな意味で一種の仮想でしかない、という話になります。
僕らは、現実というものがすぐ目の前にあって、揺るぎなく存在をしているように感じている。それを疑うようなことはないだろう。しかしながら僕らは、決して現実そのものを感じ取っているわけではないのだ。
例えば僕らは目の前にあるコップを見て、コップが現実にそこに存在する、と感じる。しかし僕らが認識しているのはコップそのものではなく、コップを見ることで脳の中で生み出されるクオリアである。もし万が一目の前にコップがなくても、脳の中でコップを見た時に生み出されるクオリアが何らかの形で発生すれば、それは現実にコップがあると認識することになる。幻覚などがそれに近いと思うが、結局僕らは現実そのものではなく、現実そのものを認識することによって脳が生み出すクオリアを感じ取っているだけであって、そういう意味で現実というのも一つの仮想に過ぎない、というのである。
僕は以前どこかの感想の中で、北海道は実在するか、という話を書いた。またその話を書こう。
僕はこれまで一度も北海道を訪れたことがない。もちろん北海道出身であるわけもなく、両親のどちらかが実は北海道出身で、というようなこともたぶんない。誘拐されて北海道まで連れて行かれたことも、あるいは東京だと思って住んでいたところが実は北海道でした、ということもない。
つまり僕にとって、北海道という土地はまだ現実として認識されたことのない場所である。
もちろん、テレビで北海道の雄大な自然を見たこともあるし、北海道のガイドブックも目にしたことがある。北海道出身の友人もいるし、地図にだってちゃんと北海道は記載されている。
しかしそれらはすべて、僕の直接の経験ではない。人から聞いた話だ。僕にとって北海道という土地は、そうした伝聞によって構成される場所、つまり一つの仮説でしかない。北海道は実際あるかもしれない、という仮説が今僕の中にあるだけで、実際あるかどうかまだわからないのである。
しかし一方で、当然のことではあるが僕は別に北海道の存在を疑っているわけではない。間違いなく北海道という場所は存在するだろうし、僕が行ったことがないだけでこれからも存在し続けるだろうと思う。
しかし何故僕は、まだ見たことも足を踏み入れたこともない北海道という土地を、ここまで現実のものとして受け入れることが出来るのか。これが即ち仮想の力であり、僕らの生活がいかにして仮想に満ちているのか、ということを雄弁に語ってくれる一つの事実である。
著者の茂木健一郎は、本作を書くに当たって一つのきっかけがあったと語る。それは空港で何気なく耳にした、ある女の子の言葉である。
「ねえ、サンタさんっていると思う?」
茂木健一郎はこれを聞いて、もう一度真剣に仮想というものの切実さについて考えようと思った。
サンタクロースというのは紛れもなく現実にはいない存在だ。もちろん空港でこの問を発した女の子も、実際のところそれには気づいているだろう。
しかしながら同時に、サンタクロースという存在は僕らの中である明確なクオリアを生み出す。それは姿形にしてもそうだし、夢を運ぶというそのあり方についてでもある。とにかく僕らはサンタクロースと聞くと、「サンタクロースらしさ」というようなクオリアを明確に意識することが出来る。
この問こそがすべての基本なのではないか。いかに仮想というものが脳というものと深く結びつき現実を生きる僕らに作用をするかということの本質なのではないか、と茂木健一郎は考えるのだ。
これまで脳の問題、とりわけ意識や心の問題というのは科学では扱われて来なかった。それは即ち、これまでの科学のやり方では到底扱えないと匙を投げたも同然である。
これまでの科学の解釈では、意識というのは「随伴現象」であるとして片付けてきた。要するに、意識というのはシナプス同士の活動による副産物みたいなものであって、実質のところあってもなくても問題ないものだ。だからこそ科学で扱う必要はない、という立場である。
しかし人間が意識というものを持つ以上、それを何らかの形で解明したいと考えるのも事実である。これまでも科学者は従来の科学の手法で意識について解明しようとしてきたが、しかしそれはまるで無駄であった。いくらシナプスの働きを解明したところで、あるいは脳のそれぞれの部位の働きを解明したところで、何故脳という塊になると意識が発生するのかということはまるで説明が出来なかったのである。
今では、クオリアというものをとっかかりとして、これまでの科学のやり方に頼らない形で脳について研究がされるようになってきた。しかしまだまだ何も分かっていないに等しいというのが現実だ。
僕たちの現実は、すべてクオリアというものによって支えられている。脳の中で生み出されるクオリアを感じることによって物事を認識したり何かに感動したりすることが出来る。そしてまたそうした様々なクオリアの存在により、僕らは仮想を生み出すことが出来る。その仮想によって、僕らの生活は支えられるのだ。
現実もまた仮想の一つである。僕らは現実そのものを認識出来るわけではない。現実を脳が認識した時に生み出されるクオリアを感じることで僕らの脳内で現実が生み出されるのである。世界のすべては脳内にあると言っても言い過ぎではない。
ありとあらゆる意味で、僕らは現実と断絶をしている。分かった気になってもそれは分かっていないのだ。現実を見ているつもりでも現実そのものを見ることは出来ず、また友人について理解したと思っても、それは自分の中で生み出された友人についてのクオリアを理解しているに過ぎないのだ。
脳にとって仮想というものがいかに重要であるか、というものを論じた作品になっています。
なかなかうまく評価することの出来ない作品です。そこまで難しいことが書いてあるわけではないので誰でも読むことは出来ると思うんですが、結局何が言いたかったのかということになると何だかよく分からないな、という感じでした。
茂木健一郎は、芸術や文学やゲームなど様々なものを引き合いに出してこの仮想というものを論じるのだけど、とにかく僕が関心したのが茂木健一郎の博識っぷりです。もちろん理系の人ですけど文学についてもきちんと読んでいるようだし、絵や音楽などの芸術も知っている。芸大でも講師をしたことがあるようでなるほどそれも当然かという感じがしました。
要するに、そうした文学や芸術をどう認識しそれがクオリアや仮想とどう関わってくるのかということを書いているわけですけど、文学や芸術の素養のない僕としてはイマイチよく分からない話も結構ありました。
様々な事例を挙げて認識と仮想について触れているので分かりやすいと言えば分かりやすいのですけど、やっぱり最終的にどういう結論に辿り着いたのかはよく分かりませんでした。
内容はかなり哲学的ではないか、と思います。もちろん脳や意識を扱うというのは科学の分野ではあるんですけど、科学の手法には限界があるわけで、意識や脳について論じるとやはり哲学的になってしまうのかな、と思いました。まあ僕は実際哲学がどういうものかよく分からないですけど、僕が哲学と聞いて浮かび上がるクオリアと本作を読んで脳の中で生み出されるクオリアが近い感じがする、という意味です。
本作は小林秀雄賞というのを受賞しているなかなか評価の高い本のようですが、ちょっとあんまりオススメできないかな、という感じはします。決して悪くはないと思うんですけど、積極的に読むほどでもないような気がしてしまいました。でも意識や脳、あるいはクオリアや仮想について充分深く論じていると思うので、興味があるという人は読んでみたらいいかと思います。
茂木健一郎「脳と仮想」
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Comment
[2330]
[2331]
そういってもらえると何だか嬉しいですね。まあいつもいつも退屈な文章ばっかり書いているわけですけど、時々いいものがあるみたいです。
クオリアはなんとも捉えにくいものだけど、でもそうね、要するに自分の感じたものを信じる、感じたままに生きるってことなんだろうね…、ん?
森博嗣はホントいいですよ。デビュー作が「すべてがFになる」ってやつなんだけど、ここから始まるシリーズ10作がまず素晴らしい。それから次のVシリーズを読み終えた後に控えている四季シリーズも素晴らしい。そしてスカイクロラシリーズも素晴らしいですよ。とにかく、「すべてがFになる」と「スカイクロラ」を読んでみるのがいいかと思います。でダメならこの作家とは合わないかもしれないな、って思ったらいいかも。「工学部・水柿助教授の日常」ってのもなかなか面白いけどね。
あとはんぺんは、僕は実家にいた頃は黒いのしか知りませんでした。黒はんぺんの秘密はまあまた絵で書くとして(しかし毎回絵が下手過ぎてへこんでるんですけどね)、白いはんぺんがあるって知ったのは東京に来てからです。白いのなら食べれるかもしれません。
クオリアはなんとも捉えにくいものだけど、でもそうね、要するに自分の感じたものを信じる、感じたままに生きるってことなんだろうね…、ん?
森博嗣はホントいいですよ。デビュー作が「すべてがFになる」ってやつなんだけど、ここから始まるシリーズ10作がまず素晴らしい。それから次のVシリーズを読み終えた後に控えている四季シリーズも素晴らしい。そしてスカイクロラシリーズも素晴らしいですよ。とにかく、「すべてがFになる」と「スカイクロラ」を読んでみるのがいいかと思います。でダメならこの作家とは合わないかもしれないな、って思ったらいいかも。「工学部・水柿助教授の日常」ってのもなかなか面白いけどね。
あとはんぺんは、僕は実家にいた頃は黒いのしか知りませんでした。黒はんぺんの秘密はまあまた絵で書くとして(しかし毎回絵が下手過ぎてへこんでるんですけどね)、白いはんぺんがあるって知ったのは東京に来てからです。白いのなら食べれるかもしれません。
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こんばんは。いつになっても、暑さから開放させませんね(泣)。
先日司書さんに薦められた『脳を活かす勉強法』を読みました。マニュアル本には違いありませんが、なるほど!ということが多く、私がもっともっと若いときに書いて欲しかった、などと恨んでいます(笑)。
人間の素晴らしさは想像力にあると思います。ドーパミンが出るような勉強法を身につけることが重要らしいです。茂木さんの勉強法は非常に変わっていますが、例えば英語の場合はまず好きな作品を原書で読み(茂木さんは「赤毛のアン」だったそうです)、意味不明の単語は文章の前後から判断することを行ったそうです。苦しい状態を自分に課し、それを克服したときの感覚(「突き抜ける」と表現しています)をクセにすることが脳を鍛えることに繋がるようです。
集中力に関しては「鶴の恩返し勉強法」を提唱しています。手を使ったり、声に出したり、(恥ずかしくて)人には見せられないような状態になりながら没入する勉強です。
また細切れ勉強法(あるいは読書法)もお薦めのようです。きちんと時間を確保した上で、さぁ始めよう、ではなくその前にやっちゃえ、ということらしいです(笑)。通りすがりさんの読書はこれに近いのでは…と思いました。
またインターネットは知的財産の宝庫とも書いています。弊害ばかりが強調されていますが、この財産を使わない手はないそうです。確かに…ですよね。ネットに対して擁護派の学者さんとお見受けしました。
最後に変人のススメを書いておきます。日本の場合、横並びが良いとされていますが、海外では「変人」でなければ相手にされない大学もあるようです。ケンブリッジのトリニティスクール(ここの出身のノーベル賞受賞者は81人だそうです)では、スーツを着て歩いている人は「あいつはどうせ普通の人だろう」とバカにされるし、穴が空いたセーターを着ている人がぼろぼろの自転車に乗っていると「ああ、あの人はきっと偉い学者に違いない」と尊敬されるそうです。話が長くなりましたが、変人を推奨する雰囲気があるのですね。まぁ外見が全てではないとも思いますが(笑)。「変でいられる自由」が保証されるのは好いですよね。
茂木さんを始めこの学校の人たちは自分の専門性を越えて、文学・音楽・美術などの話題で議論を戦わせていたそうです。通りすがりさんのご感想にもあったように、茂木さんの守備範囲が広いのはこのような経験が原因かも知れませんね。
では、小学生の感想文のような書き込みになってしまいましたが、この辺で。明日は久しぶりに出勤です。気が重いなぁ、と考えると茂木さんに叱られそうですね(笑)。
先日司書さんに薦められた『脳を活かす勉強法』を読みました。マニュアル本には違いありませんが、なるほど!ということが多く、私がもっともっと若いときに書いて欲しかった、などと恨んでいます(笑)。
人間の素晴らしさは想像力にあると思います。ドーパミンが出るような勉強法を身につけることが重要らしいです。茂木さんの勉強法は非常に変わっていますが、例えば英語の場合はまず好きな作品を原書で読み(茂木さんは「赤毛のアン」だったそうです)、意味不明の単語は文章の前後から判断することを行ったそうです。苦しい状態を自分に課し、それを克服したときの感覚(「突き抜ける」と表現しています)をクセにすることが脳を鍛えることに繋がるようです。
集中力に関しては「鶴の恩返し勉強法」を提唱しています。手を使ったり、声に出したり、(恥ずかしくて)人には見せられないような状態になりながら没入する勉強です。
また細切れ勉強法(あるいは読書法)もお薦めのようです。きちんと時間を確保した上で、さぁ始めよう、ではなくその前にやっちゃえ、ということらしいです(笑)。通りすがりさんの読書はこれに近いのでは…と思いました。
またインターネットは知的財産の宝庫とも書いています。弊害ばかりが強調されていますが、この財産を使わない手はないそうです。確かに…ですよね。ネットに対して擁護派の学者さんとお見受けしました。
最後に変人のススメを書いておきます。日本の場合、横並びが良いとされていますが、海外では「変人」でなければ相手にされない大学もあるようです。ケンブリッジのトリニティスクール(ここの出身のノーベル賞受賞者は81人だそうです)では、スーツを着て歩いている人は「あいつはどうせ普通の人だろう」とバカにされるし、穴が空いたセーターを着ている人がぼろぼろの自転車に乗っていると「ああ、あの人はきっと偉い学者に違いない」と尊敬されるそうです。話が長くなりましたが、変人を推奨する雰囲気があるのですね。まぁ外見が全てではないとも思いますが(笑)。「変でいられる自由」が保証されるのは好いですよね。
茂木さんを始めこの学校の人たちは自分の専門性を越えて、文学・音楽・美術などの話題で議論を戦わせていたそうです。通りすがりさんのご感想にもあったように、茂木さんの守備範囲が広いのはこのような経験が原因かも知れませんね。
では、小学生の感想文のような書き込みになってしまいましたが、この辺で。明日は久しぶりに出勤です。気が重いなぁ、と考えると茂木さんに叱られそうですね(笑)。
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こんばんわです。暑いですね、ホント。仕事は休みなんですけど、いろいろ遊んでいるのと、家で仕事をやっているのとで、なかなか本が読めません。次に書くのは、マンガの感想かもしれません。
「脳を活かす勉強法」はかなり売れてますね。ベストセラーと言ってもいいでしょう。マニュアル本は、読んだだけで満足してしまいがちなところに難点がありますね。僕もマニュアル本は時々読みますが、割と純粋な読み物として読むようにしています。僕の場合、絶対に実行には移せないので(笑)
「突き抜ける感覚」を得ようとするのは確かにいいんでしょうけど、これは僕みたいに好奇心の薄い人間にはダメでしょうね。僕も高校時代、シドニィ・シェルダンの「ゲームの達人」を原書で読もうとしましたが、1ページ目で断念しました(笑)
「鶴の恩返し勉強法」は、まあよくやりますよね。声に出すとか、手を動かすとか、やっぱり全身で覚えると覚えやすいですね。
細切れ勉強法は分かるような気がします。電車の中でちょこっと単語を覚えるみたいなことがよかったりするんですよね。これも人によるでしょうけど。僕は何にせよ効率重視の人間なんで、仕事も細切れでやってますけどね。
インターネットは、やっぱり使いこなせる方がいいですよね。僕は現代人とは思えないほどパソコン関係に弱いんでダメですね。
僕も、個人的に変人が大好きで、出来れば自分も変人でいたいと思っていますよ。やっぱり、「普通」ってのは面白くないですからね。特に、傍から見たら明らかに変人なんだけど、その本人はそんなことまるで思っていなくて、自分のことを普通だと思っている、なんていう変人がいいですね。
まあ何にせよ、歴史上で名前の残っている人もかなり変人が多いですからね。数学者とか物理学者とかですけど。まあそういう傾向はあるんでしょうね。
茂木さんは、音楽とか芸術関係の方面でも様々な知識があるのがすごいですよね。だから、何を言っても何となく説得力がある気がします。対照的に、斎藤孝なんかは胡散臭い気がするんですよね(笑)。茂木さんと同じくかなりたくさんの本を出してますけどね。
明日は出勤ですか。頑張ってください!僕はもうすぐ「スカイ・クロラ」の映画を見る予定です。
「脳を活かす勉強法」はかなり売れてますね。ベストセラーと言ってもいいでしょう。マニュアル本は、読んだだけで満足してしまいがちなところに難点がありますね。僕もマニュアル本は時々読みますが、割と純粋な読み物として読むようにしています。僕の場合、絶対に実行には移せないので(笑)
「突き抜ける感覚」を得ようとするのは確かにいいんでしょうけど、これは僕みたいに好奇心の薄い人間にはダメでしょうね。僕も高校時代、シドニィ・シェルダンの「ゲームの達人」を原書で読もうとしましたが、1ページ目で断念しました(笑)
「鶴の恩返し勉強法」は、まあよくやりますよね。声に出すとか、手を動かすとか、やっぱり全身で覚えると覚えやすいですね。
細切れ勉強法は分かるような気がします。電車の中でちょこっと単語を覚えるみたいなことがよかったりするんですよね。これも人によるでしょうけど。僕は何にせよ効率重視の人間なんで、仕事も細切れでやってますけどね。
インターネットは、やっぱり使いこなせる方がいいですよね。僕は現代人とは思えないほどパソコン関係に弱いんでダメですね。
僕も、個人的に変人が大好きで、出来れば自分も変人でいたいと思っていますよ。やっぱり、「普通」ってのは面白くないですからね。特に、傍から見たら明らかに変人なんだけど、その本人はそんなことまるで思っていなくて、自分のことを普通だと思っている、なんていう変人がいいですね。
まあ何にせよ、歴史上で名前の残っている人もかなり変人が多いですからね。数学者とか物理学者とかですけど。まあそういう傾向はあるんでしょうね。
茂木さんは、音楽とか芸術関係の方面でも様々な知識があるのがすごいですよね。だから、何を言っても何となく説得力がある気がします。対照的に、斎藤孝なんかは胡散臭い気がするんですよね(笑)。茂木さんと同じくかなりたくさんの本を出してますけどね。
明日は出勤ですか。頑張ってください!僕はもうすぐ「スカイ・クロラ」の映画を見る予定です。
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なんか、ワタシの日々の泡にある五感をもっと大切にして、感じて、もっと「イマジン」になりたいと思いました・・・、ん。
それと、私は、その森博嗣さんを読んだことがないので、読んでみたくなりましたので、
其方の感想をチラッと盗み見して帰ります。
ありがとうございました。。ペコ^^