下山事件(柴田哲孝)
昭和史に関する本というのは、様々に出ている。
そこから僕がイメージできる昭和のイメージは、黒い世界だったのだな、というものだ。
特に、政治を含む世界では。
「ALWAYS」という映画があった。あれは、昭和何年代だか知らないが、東京タワー建設当時の昭和の世界を、当時のままの質感で表現しようとした作品、らしい。まあ、僕は見ていないのでなんともいえないのだけど。ただ、その回顧的な内容が結構評判になったようで、映画賞も軒並み獲っていたような記憶がある。
また最近は、デアゴスティーニをはじめとする、「週刊~」みたいな本で、美空ひばりの歌や戦艦大和の模型など、昭和時代を懐かしむような本が様々に発売されていて、昭和という時代を青春時代として過ごした世代がよく買っていくものだ。
そういう観点からすれば、昭和という時代は、ものすごく平和で哀愁があって、懐かしむような、そんな時代であったことがわかる。確かに僕も、今の電子化されすぎてしまった世の中よりも、缶蹴りやドロケイなどで、外で無駄に走り回って遊んでいる時代の方が、健康的だし面白かったような気もしないでもない。
まあ、昭和のそういう一面とは別に、昭和というのは、様々に黒い噂の飛び交う、殺伐とした時代でもあったようである。
僕は基本的に、歴史の知識には尋常じゃないくらい弱いので、昭和という時代にどんなことがあったのか、まるで知らないわけだけど、でも、戦後という時代が、生易しいものではなかっただろうな、とは想像できる。
何せ、終戦直後は、焼け野原だったのである。もちろん見てきたわけではないけれども、恐らくそうだっただろう。そこから、60年。この60年という時間を長いと見るか短いと見るかは人それぞれだろうけども、僕は短いと思う。たったの60年で、焼け野原から今の日本が出来上がった。それは、日本人の勤勉さがあったかもしれないし、オリンピック景気などの幸運もあったかもしれない。
しかし、それだけでは絶対に説明のつかない成長を、日本という国は遂げていると思う。
それが何なのか、僕にはわからないし、わかる人のほうが少ないだろうと思う。どこでどんなことが行われていたか、国民として知る必要があるかもしれないけど、結果的にいい方向に向かっていけた、という解釈でも、まあ充分だろうと思う。
しかし、さすがに人の生命までそれで片付けてはいけないだろうな、と思う。
昭和という時代、謀略に巻き込まれて命を失った人というのはかなりいることだろう。僕には知識はないが、表ざたになっているものもなっていないものも恐らくあるのだろう。
国のために、誰かが犠牲になることは仕方ないかもしれない、と思う。個人よりも国という組織を優先させなくてはならない、という判断も、時には必要なのだろうと思う。しかしそれでも、国のために人を殺していいか、というと、それは違うだろうと思う。それは、戦争をやっているのと大差はなくなってしまう。
疑惑に彩られ、今なお疑問を残す昭和史という謎。その中でも、昭和史最大の謎の一つに数えられる下山事件を、詳細に検証した本作は、下山事件一つに留まらず、昭和という時代の構造そのものを抉り出すことに成功している、と僕は思う。
というわけで、書いていることがよくわからなくなったので、そろそろ内容に入ろうと思います。
まずはやはり、下山事件について、そのあらましをざっと説明しようかと思います。
昭和24年7月5日朝。普段とは違う行動をとり続ける初代国鉄総裁下山定則は、運転手を待たせたまま、三越南口から店内に入り、そこで消息を断った。
下山総裁が発見されたのは、翌6日。足立区五反野、国鉄常磐線の北千住駅と綾瀬駅の中間地点。最終くだり電車の運転士が、東武線が交差するガード下の線路上に人間の死体らしき肉塊が散乱しているのを目撃。後にこれが下山総裁の死体であると確認された。これがいわゆる「下山事件」である。
その後の経緯についてもざっと触れよう。当初、監察医と警視庁の判断は、他殺だった。しかし、警視庁捜査一課が突然、自殺という見方を示し始めた。一時期、捜査一課は自殺、捜査二課は他殺という二分する考えがあったのだが、上層部からの妨害や圧力のために、捜査二課の捜査はうまくいかず、なし崩し的に自殺として処理された、という経緯がある。
戦後多くの人々が、この「下山事件」の謎に挑んできた。あの推理小説の巨匠、松本清張もその一人である。しかし、これといった決定的な説が出たわけではなかった。
そして本作である。
本作が世に出るまでには、いくつかの経緯がある。
まず、週刊朝日に、森達也というジャーナリストが、「下山事件」に関する記事を載せた。これは、「彼」の大叔母という人物の証言を元に、「彼」への取材を通じて書かれた記事である。
発端は、「彼」の大叔母であるという人物の発言にあった。
「あの事件をやったのは、もしかしたら兄さんかもしれない…」
祖父の23回忌でのことだった。大叔母は突然そんなことを口にする。
以後「彼」は、親族への取材を通じていくつかの証言を得、さらに、森達也が「彼」にインタビューする形でその連載は続いた。
またその後、諸永裕司という週刊朝日の社員記者が出した本「葬られた夏」、また前出の森達也が出した本「下山事件」でも同様に、「彼」への取材を通じての証言によって構成されていた。
しかし、本作の著者は言う。そのいずれに書かれた内容についても、「彼」の証言として描かれている部分は、不備や誇張などがある、というのである。
何故そんなことが言い切れるのか。
それは、「彼」こそが本作の著者柴田哲孝であり、その大叔母から直接話を聞いているのもまた柴田氏だからである。
柴田氏は、人の著作の中ではやはり不十分であると感じ、自らの親族の犯行を暴くことになるかもしれないリスクをおして、知っていることをすべて書こうと決意する。
そうやって生まれたのが本作である。
回りくどい説明をしたが、つまり、本作の著者である柴田氏の大叔母の発言がすべての発端であり、氏の親族が、何らかの形で「下山事件」に関わっているのではないか、という疑惑からスタートしたのが本作なのである。
柴田氏の祖父という人は、一体何者だったのか。
柴田氏の祖父、というところから、今までどの「下山事件」の研究者も辿り着けなかったある一つのキーワードが存在する。
それが、柴田氏の祖父が勤めていたという、「亜細亜産業」だ。
「下山事件」は、この「亜細亜産業」を中心として、いやむしろ舞台として起こった事件なのではないか…。その推測を元に柴田氏は、親族への取材、情報収集、「亜細亜産業」の社長だった矢板玄との接触、などを通じ、昭和史最大の謎である「下山事件」を解き明かしていく…。
という内容です。
本作は、ノンフィクションとして素晴らしいな、と僕は感じました。
まず、「下山事件」について、非常にわかりやすく書かれています。僕が本作を読む前に知っていた「下山事件」についての知識は、
「国鉄の一番偉い人が、何らかの理由で殺された」
というような陳腐なものでしかなかったのだけど、そんな僕でも、「下山事件」というものを非常によく理解することができました。
さらにいえば、僕は昭和史というものについてもほぼ無知で、右翼と左翼の違いも、当時誰が総理だったのかも、GHQと日本の関係も、M資金も、とにかくそうしたこと一切合切知らなかったし、しかも基本的に政治に疎いので、政治に関するあれこれを理解するのは苦手だし、戦争や満州やその付近のあれこれの事件というものも全然詳しくないのだけど、それでも本作を割と理解することができたし、昭和史の構造の一端にもきちんと触れることが出来たような気がします。とにかく、分かりやすく説明をしようと心がけているということが窺える作品です。
本作の面白いところは、その切り口ですね。これはもちろん、柴田氏の祖父が事件に関係していたかもしれない、という、ある意味ラッキーな(こんな言い方は失礼だとは思うけど)出自だったということなのだろうけど、でもその扱いが繊細でいいと思います。
つまり、親族、しかも柴田氏にとって尊敬に値する存在である祖父を糾弾するような内容になるだろう本作の執筆に関して、感情的な部分を一切排除して、とにかくノンフィクションとしての精度を高めようとしていることが伝わってきます。親族であるから、という感情的な部分は基本的に窺うことはできなくて、その絶妙な距離感がいいと思いました。
実際この柴田氏の親族の証言というのは凄まじいものがあって、例えば「亜細亜産業」で一時期事務の仕事をしていたという大叔母は、「亜細亜産業」にどんな人が出入りしていたかと聞かれて、吉田茂・佐藤栄作・三浦義一・白州次郎・児玉誉士夫など、戦後日本の重鎮とでもいうべき人々の名前がごろごろあがる始末だし、また、同じビルの四階の床下に、金の延べ棒が100本以上あったと証言してみたりとか。この金の延べ棒100本は事実であることが、後に矢板玄との会話で明らかになるのだが、その過程ももの凄いものである。
その矢板玄とのやり取りというのが、本作の中で最も緊張感溢れる場面だろう。
あくまでインタビューであり小説ではないので、心象なんかは極力排除して描かれているけども、それでも、そのインタビューをした時の緊迫感というものは如実に伝わってくる。表舞台に現れない矢板玄。今まで誰も取材に来たことすらないというほど恐れられた人物との会談は、その出てくる内容がどれももの凄い話ばかりで、昭和史に明るくない僕でさえもこれほど驚くのだから、昭和史を研究している人が本作を読めば、それこそ驚愕の真実とやらがあちこちに散らばっていることだろうと思う。
例えば、戦後の日本でまことしやかに囁かれた「M資金」というものがある。詳しくは知らないが、戦後にどこからか集まった多額の資金のことで、それを後ろ盾にしての詐欺も横行したようだが、当初からこの「M資金」の「M」はなんだろう、という話になっていた。
矢板玄はこれを、「ウィロビーだよ。ウィロビーのWを逆さまにするとMになるだろ。これは、ウィロビーの裏金と言う意味だ」と言って笑ったという。
柴田氏はこれは、矢板玄のジョークだろうと言っているが、あながち真実なのかもしれないと思う人はいるのではないだろうか。「ウィロビーの裏金」で「M資金」とは、なかなかしゃれているではないか。
「下山事件」はアメリカの謀略か、という柴田氏の問いに対する、矢板玄のこんな言葉が印象的だった。
「そうは言っていない。ウィロビーは事件を利用しただけだ。ドッジ・プランとは何だったのか。ハリー・カーンは何をやろうとしていたのか。それを考えるんだ。アメリカは日本の同盟国だ。東西が対立する世界情勢の中で、日本は常にアメリカと同じ側に立っている。過去も、現在も、これからもだ。もしアメリカじゃなくてソビエトに占領されていたら、どうなっていたと思う。日本は東ドイツや北朝鮮のようになっていたかもしれないんだぞ。それをくい止めたのが、マッカーサーやおれたちなんだ。日米安保条約は何のためにある。アメリカのフリになるようなことは言うべきではない」
本作はこのように、「下山事件」の考察だけに留まらない。いや、「下山事件」の考察のために、他のあらゆる物事の関連性を考えなくてはならない、という方が正確だろうか。とにかく、背景が複雑に入り組んでいる。あらゆる思惑がかみ合って、あらゆる情報が錯綜して、「下山事件」というのは一つの大きな謎になっている。
本作では、「下山事件」に関する偽情報についてもかなりページを割いて検証している。こと「下山事件」に関しては、様々な偽情報が飛び交っている。警察も偽の情報を流し、CIAやGHQもプロパガンダのために偽情報を流し、ジャーナリストは自説を補強するために偽情報を生み出す。こうやって累々と積み重なってきた偽情報を詳しく検証しより分けながら、柴田氏は、「下山事件」という謎の大枠を捉えようとしていく。
僕は正直、ノンフィクションを読み慣れているとはいい難いです。でもそれでも、本作はノンフィクションとして素晴らしい出来だと思います。大抵のノンフィクションは、まず仮説ありきで、そこから自らの仮説を補強する情報を集めていく、という形をとると思います。もちろんそれも、有効な一つの手段ではあると思います。しかしやはりこの方法だと、主観的で恣意的な結論が導き出される恐れがあります。
本作も、もちろん、「亜細亜産業」が関わっているかもしれない、という、スタート段階での仮説はあります。しかし、柴田氏は、それだけに囚われることなく、あらゆる可能性を検証し、あらゆる背景を炙り出そうとし、自説に不利な内容も載せるというやり方で、ノンフィクションとしての質を最高度に保っている、と僕は評価しています。
すばらしい作品だと思います。「下山事件」を知っている人も知らない人も、興味のある人も興味のない人も、読んでみれば恐らく興味を持って読めるだろうと思います。是非読んで欲しいなと思います。
柴田哲孝「下山事件」
そこから僕がイメージできる昭和のイメージは、黒い世界だったのだな、というものだ。
特に、政治を含む世界では。
「ALWAYS」という映画があった。あれは、昭和何年代だか知らないが、東京タワー建設当時の昭和の世界を、当時のままの質感で表現しようとした作品、らしい。まあ、僕は見ていないのでなんともいえないのだけど。ただ、その回顧的な内容が結構評判になったようで、映画賞も軒並み獲っていたような記憶がある。
また最近は、デアゴスティーニをはじめとする、「週刊~」みたいな本で、美空ひばりの歌や戦艦大和の模型など、昭和時代を懐かしむような本が様々に発売されていて、昭和という時代を青春時代として過ごした世代がよく買っていくものだ。
そういう観点からすれば、昭和という時代は、ものすごく平和で哀愁があって、懐かしむような、そんな時代であったことがわかる。確かに僕も、今の電子化されすぎてしまった世の中よりも、缶蹴りやドロケイなどで、外で無駄に走り回って遊んでいる時代の方が、健康的だし面白かったような気もしないでもない。
まあ、昭和のそういう一面とは別に、昭和というのは、様々に黒い噂の飛び交う、殺伐とした時代でもあったようである。
僕は基本的に、歴史の知識には尋常じゃないくらい弱いので、昭和という時代にどんなことがあったのか、まるで知らないわけだけど、でも、戦後という時代が、生易しいものではなかっただろうな、とは想像できる。
何せ、終戦直後は、焼け野原だったのである。もちろん見てきたわけではないけれども、恐らくそうだっただろう。そこから、60年。この60年という時間を長いと見るか短いと見るかは人それぞれだろうけども、僕は短いと思う。たったの60年で、焼け野原から今の日本が出来上がった。それは、日本人の勤勉さがあったかもしれないし、オリンピック景気などの幸運もあったかもしれない。
しかし、それだけでは絶対に説明のつかない成長を、日本という国は遂げていると思う。
それが何なのか、僕にはわからないし、わかる人のほうが少ないだろうと思う。どこでどんなことが行われていたか、国民として知る必要があるかもしれないけど、結果的にいい方向に向かっていけた、という解釈でも、まあ充分だろうと思う。
しかし、さすがに人の生命までそれで片付けてはいけないだろうな、と思う。
昭和という時代、謀略に巻き込まれて命を失った人というのはかなりいることだろう。僕には知識はないが、表ざたになっているものもなっていないものも恐らくあるのだろう。
国のために、誰かが犠牲になることは仕方ないかもしれない、と思う。個人よりも国という組織を優先させなくてはならない、という判断も、時には必要なのだろうと思う。しかしそれでも、国のために人を殺していいか、というと、それは違うだろうと思う。それは、戦争をやっているのと大差はなくなってしまう。
疑惑に彩られ、今なお疑問を残す昭和史という謎。その中でも、昭和史最大の謎の一つに数えられる下山事件を、詳細に検証した本作は、下山事件一つに留まらず、昭和という時代の構造そのものを抉り出すことに成功している、と僕は思う。
というわけで、書いていることがよくわからなくなったので、そろそろ内容に入ろうと思います。
まずはやはり、下山事件について、そのあらましをざっと説明しようかと思います。
昭和24年7月5日朝。普段とは違う行動をとり続ける初代国鉄総裁下山定則は、運転手を待たせたまま、三越南口から店内に入り、そこで消息を断った。
下山総裁が発見されたのは、翌6日。足立区五反野、国鉄常磐線の北千住駅と綾瀬駅の中間地点。最終くだり電車の運転士が、東武線が交差するガード下の線路上に人間の死体らしき肉塊が散乱しているのを目撃。後にこれが下山総裁の死体であると確認された。これがいわゆる「下山事件」である。
その後の経緯についてもざっと触れよう。当初、監察医と警視庁の判断は、他殺だった。しかし、警視庁捜査一課が突然、自殺という見方を示し始めた。一時期、捜査一課は自殺、捜査二課は他殺という二分する考えがあったのだが、上層部からの妨害や圧力のために、捜査二課の捜査はうまくいかず、なし崩し的に自殺として処理された、という経緯がある。
戦後多くの人々が、この「下山事件」の謎に挑んできた。あの推理小説の巨匠、松本清張もその一人である。しかし、これといった決定的な説が出たわけではなかった。
そして本作である。
本作が世に出るまでには、いくつかの経緯がある。
まず、週刊朝日に、森達也というジャーナリストが、「下山事件」に関する記事を載せた。これは、「彼」の大叔母という人物の証言を元に、「彼」への取材を通じて書かれた記事である。
発端は、「彼」の大叔母であるという人物の発言にあった。
「あの事件をやったのは、もしかしたら兄さんかもしれない…」
祖父の23回忌でのことだった。大叔母は突然そんなことを口にする。
以後「彼」は、親族への取材を通じていくつかの証言を得、さらに、森達也が「彼」にインタビューする形でその連載は続いた。
またその後、諸永裕司という週刊朝日の社員記者が出した本「葬られた夏」、また前出の森達也が出した本「下山事件」でも同様に、「彼」への取材を通じての証言によって構成されていた。
しかし、本作の著者は言う。そのいずれに書かれた内容についても、「彼」の証言として描かれている部分は、不備や誇張などがある、というのである。
何故そんなことが言い切れるのか。
それは、「彼」こそが本作の著者柴田哲孝であり、その大叔母から直接話を聞いているのもまた柴田氏だからである。
柴田氏は、人の著作の中ではやはり不十分であると感じ、自らの親族の犯行を暴くことになるかもしれないリスクをおして、知っていることをすべて書こうと決意する。
そうやって生まれたのが本作である。
回りくどい説明をしたが、つまり、本作の著者である柴田氏の大叔母の発言がすべての発端であり、氏の親族が、何らかの形で「下山事件」に関わっているのではないか、という疑惑からスタートしたのが本作なのである。
柴田氏の祖父という人は、一体何者だったのか。
柴田氏の祖父、というところから、今までどの「下山事件」の研究者も辿り着けなかったある一つのキーワードが存在する。
それが、柴田氏の祖父が勤めていたという、「亜細亜産業」だ。
「下山事件」は、この「亜細亜産業」を中心として、いやむしろ舞台として起こった事件なのではないか…。その推測を元に柴田氏は、親族への取材、情報収集、「亜細亜産業」の社長だった矢板玄との接触、などを通じ、昭和史最大の謎である「下山事件」を解き明かしていく…。
という内容です。
本作は、ノンフィクションとして素晴らしいな、と僕は感じました。
まず、「下山事件」について、非常にわかりやすく書かれています。僕が本作を読む前に知っていた「下山事件」についての知識は、
「国鉄の一番偉い人が、何らかの理由で殺された」
というような陳腐なものでしかなかったのだけど、そんな僕でも、「下山事件」というものを非常によく理解することができました。
さらにいえば、僕は昭和史というものについてもほぼ無知で、右翼と左翼の違いも、当時誰が総理だったのかも、GHQと日本の関係も、M資金も、とにかくそうしたこと一切合切知らなかったし、しかも基本的に政治に疎いので、政治に関するあれこれを理解するのは苦手だし、戦争や満州やその付近のあれこれの事件というものも全然詳しくないのだけど、それでも本作を割と理解することができたし、昭和史の構造の一端にもきちんと触れることが出来たような気がします。とにかく、分かりやすく説明をしようと心がけているということが窺える作品です。
本作の面白いところは、その切り口ですね。これはもちろん、柴田氏の祖父が事件に関係していたかもしれない、という、ある意味ラッキーな(こんな言い方は失礼だとは思うけど)出自だったということなのだろうけど、でもその扱いが繊細でいいと思います。
つまり、親族、しかも柴田氏にとって尊敬に値する存在である祖父を糾弾するような内容になるだろう本作の執筆に関して、感情的な部分を一切排除して、とにかくノンフィクションとしての精度を高めようとしていることが伝わってきます。親族であるから、という感情的な部分は基本的に窺うことはできなくて、その絶妙な距離感がいいと思いました。
実際この柴田氏の親族の証言というのは凄まじいものがあって、例えば「亜細亜産業」で一時期事務の仕事をしていたという大叔母は、「亜細亜産業」にどんな人が出入りしていたかと聞かれて、吉田茂・佐藤栄作・三浦義一・白州次郎・児玉誉士夫など、戦後日本の重鎮とでもいうべき人々の名前がごろごろあがる始末だし、また、同じビルの四階の床下に、金の延べ棒が100本以上あったと証言してみたりとか。この金の延べ棒100本は事実であることが、後に矢板玄との会話で明らかになるのだが、その過程ももの凄いものである。
その矢板玄とのやり取りというのが、本作の中で最も緊張感溢れる場面だろう。
あくまでインタビューであり小説ではないので、心象なんかは極力排除して描かれているけども、それでも、そのインタビューをした時の緊迫感というものは如実に伝わってくる。表舞台に現れない矢板玄。今まで誰も取材に来たことすらないというほど恐れられた人物との会談は、その出てくる内容がどれももの凄い話ばかりで、昭和史に明るくない僕でさえもこれほど驚くのだから、昭和史を研究している人が本作を読めば、それこそ驚愕の真実とやらがあちこちに散らばっていることだろうと思う。
例えば、戦後の日本でまことしやかに囁かれた「M資金」というものがある。詳しくは知らないが、戦後にどこからか集まった多額の資金のことで、それを後ろ盾にしての詐欺も横行したようだが、当初からこの「M資金」の「M」はなんだろう、という話になっていた。
矢板玄はこれを、「ウィロビーだよ。ウィロビーのWを逆さまにするとMになるだろ。これは、ウィロビーの裏金と言う意味だ」と言って笑ったという。
柴田氏はこれは、矢板玄のジョークだろうと言っているが、あながち真実なのかもしれないと思う人はいるのではないだろうか。「ウィロビーの裏金」で「M資金」とは、なかなかしゃれているではないか。
「下山事件」はアメリカの謀略か、という柴田氏の問いに対する、矢板玄のこんな言葉が印象的だった。
「そうは言っていない。ウィロビーは事件を利用しただけだ。ドッジ・プランとは何だったのか。ハリー・カーンは何をやろうとしていたのか。それを考えるんだ。アメリカは日本の同盟国だ。東西が対立する世界情勢の中で、日本は常にアメリカと同じ側に立っている。過去も、現在も、これからもだ。もしアメリカじゃなくてソビエトに占領されていたら、どうなっていたと思う。日本は東ドイツや北朝鮮のようになっていたかもしれないんだぞ。それをくい止めたのが、マッカーサーやおれたちなんだ。日米安保条約は何のためにある。アメリカのフリになるようなことは言うべきではない」
本作はこのように、「下山事件」の考察だけに留まらない。いや、「下山事件」の考察のために、他のあらゆる物事の関連性を考えなくてはならない、という方が正確だろうか。とにかく、背景が複雑に入り組んでいる。あらゆる思惑がかみ合って、あらゆる情報が錯綜して、「下山事件」というのは一つの大きな謎になっている。
本作では、「下山事件」に関する偽情報についてもかなりページを割いて検証している。こと「下山事件」に関しては、様々な偽情報が飛び交っている。警察も偽の情報を流し、CIAやGHQもプロパガンダのために偽情報を流し、ジャーナリストは自説を補強するために偽情報を生み出す。こうやって累々と積み重なってきた偽情報を詳しく検証しより分けながら、柴田氏は、「下山事件」という謎の大枠を捉えようとしていく。
僕は正直、ノンフィクションを読み慣れているとはいい難いです。でもそれでも、本作はノンフィクションとして素晴らしい出来だと思います。大抵のノンフィクションは、まず仮説ありきで、そこから自らの仮説を補強する情報を集めていく、という形をとると思います。もちろんそれも、有効な一つの手段ではあると思います。しかしやはりこの方法だと、主観的で恣意的な結論が導き出される恐れがあります。
本作も、もちろん、「亜細亜産業」が関わっているかもしれない、という、スタート段階での仮説はあります。しかし、柴田氏は、それだけに囚われることなく、あらゆる可能性を検証し、あらゆる背景を炙り出そうとし、自説に不利な内容も載せるというやり方で、ノンフィクションとしての質を最高度に保っている、と僕は評価しています。
すばらしい作品だと思います。「下山事件」を知っている人も知らない人も、興味のある人も興味のない人も、読んでみれば恐らく興味を持って読めるだろうと思います。是非読んで欲しいなと思います。
柴田哲孝「下山事件」
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Comment
[1176]
[1177]
初めましてです。
うーむ、もはや本の内容を覚えていないのでなんとも言えないんですけど、でも何で今さら公開されるのかって疑問はありますね。
もしこの件が下山事件に関係していたとしたら、このホームの公開なんかもアメリカが口出ししたりしているはずで(安全上の理由から職員しか入れない、なんて怪しいという見方も出来る)、まあそろそろ下山事件も過去の事件だしいいんじゃない、とアメリカさんが言ったのだろうか。
この本の著者も、このホームの公開に行ったりするでしょうかね。
うーむ、もはや本の内容を覚えていないのでなんとも言えないんですけど、でも何で今さら公開されるのかって疑問はありますね。
もしこの件が下山事件に関係していたとしたら、このホームの公開なんかもアメリカが口出ししたりしているはずで(安全上の理由から職員しか入れない、なんて怪しいという見方も出来る)、まあそろそろ下山事件も過去の事件だしいいんじゃない、とアメリカさんが言ったのだろうか。
この本の著者も、このホームの公開に行ったりするでしょうかね。
[4186]
私がこの本の内容について調べた結果は、以下の様になりました。
http://www.geocities.jp/kosako3/shimoyama/nagashima_nengajo.html
http://www.geocities.jp/kosako3/shimoyama/nagashima_nengajo.html
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http://blacknightgo.blog.fc2.com/tb.php/466-d2e984c9
先日、ネットニュースで銀座線新橋駅の幻のホームが公開されるというのを見て、この本のことを思い出しました。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071107/trd0711071743008-n1.htm
これって、関係あると思いますか?
本にはあのデパートの地下に駅があるといったようなことが書いてあったと記憶しております。