「ノマドランド」を観に行ってきました
観ていて、悲しい気分になった。映画全体のトーンがそうさせている部分もあるのだけど、僕自身の「生きる」ということに対する考え方みたいなのも関係してくるんだと思う。
昔からずっと、「なんで生きてなきゃいけないかね」と思っている。今でも。もちろん、時々「楽しいな」と感じることもある。メチャクチャお金に困ってるとかでもない、虐待とかDVとかのような辛い環境にいるわけでもない。
それでも本当にいつも思ってる。どうして、「生きることを止める」という選択肢は許容されていないんだろうなぁ、と。
先に書いておくと、この映画の主人公は決して「生きることを止めたい人」ではない。むしろ、積極的に生きていたい人だと思う。だから、全然状況は違う。
僕は、今38歳だけれども、いずれ自分の人生がどこかで破綻するだろうなぁ、といつも思いながら生きている。今はまだ大丈夫だけど、「働く」ということをずっとやり続けられるとは思えないし、年金も大してもらえないし(そもそも不払いの期間も長くあるからさらにもらえない)、年を取れば身体にもガタがきて不自由になるだろう。一番はお金的な理由だけど、とにかくなんらかの形で、「あぁ、もう自分の生活はこれから立ち行かなくだろうなぁ」という瞬間を迎えるんだろうな、と思う。
この映画の主人公は、その瞬間を唐突に迎えることになった。エンドロールを観ていたら、どうやら原作がある映画っぽいので、主人公(ファーンという女性)にはモデルがいるのだろうけど、彼女は2011年1月に突如職場と住居を失う。VSジプサム社という会社が保有していた採掘場の閉鎖が決まり、その仕事で成り立っていた町そのものが閉鎖されることになり(なんと、郵便番号まで抹消されることになったそうだ)、夫と社宅に住んでいた彼女は家を失うことにもなってしまう。
そこで彼女は、RV車に生活のための一式を積み込み、季節労働を転々とする生活を始める(どの時点でかは分からないけど、夫は既に亡くなっている)。
彼女の場合、お金ではなく唐突な外的要因によって放り出される形になったわけだが、でも実際、彼女のような立場に置かれる可能性は誰にだってある。現在のウイルスが猛威を振るう世界を予測できた人はいなかっただろうし(どうしても生活困窮者は増えている)、日本には地震や水害も多い。昨日まで当たり前だった生活が今日から当たり前にはできなくなる、というのは、他人事じゃない。
そして僕は、そういう状況になった時、それでもまだ生きていたいと思えるのか、全然自信がない。
日常の中にそこまで楽しいことがなくても、お金が一応回っていて、生活する上で大きな不満や障害が無ければ、その生活をとりあえず続けていく選択をするだろう。何かを決断するのはめんどくさいから、先送りしたい。でも、何らかの理由によって、それまでの日常が維持できないとなった時、「それでも生きていなきゃいけないのか?」とどうしても考えてしまうだろう。
僕は、何年後なのか何十年後なのか分からないけど、自分にそういう瞬間が確実にやってくるだろうと考えているし、そういう瞬間が確実にやってくるだろう未来に対して憂鬱に感じることも多い。これはたぶん、今が楽しくて楽しくて仕方ないという環境であっても、自分の内側から拭い去ることのできない感覚だと思う。ずっと奥歯に何かが挟まっているような不快感と共に生きているなぁ、という実感がある。
彼女は、それまで住んでいた町が消滅したにも拘わらず、その周辺でRV車に乗って生活することにこだわっていた。そこは雪降る寒い地域で、ある人から「せっかく車があるんだから、暖かいカリフォルニアでも行けばいいのに」と言われるがそうしない。ここでは触れないが、彼女がそういう選択をする理由が最後に明かされる。それを知って、なるほどこの女性はちゃんと生きたい人なのだな、家や町を失ったから仕方なくRV車で生活しているという人ではないのだな、ということが分かる。
そしてそこには、「生きること」と「住居」に関する価値観がある、と感じる。
僕は、自分の家がほしいと思ったことはないし、というかむしろ欲しくない。絶対に要らない、と思うほどだ。賃貸にしても、家そのものに特段のこだわりはない(そもそも衣食住に興味がない)。家そのものより、「駅からの距離」や「周辺の環境」などの方が気になる。僕にとって「生きること」の中に「住居」の重要度はほぼ無いと言っていい。
しかしそうではない人もいる。ファーンもそうだ。冒頭で彼女は、元教え子(よく分からないがファーンは何かの先生だったらしい)から「先生はどうしてホームレスになったの?」と聞かれて、こう答える。
【ホームレスじゃなくて、ハウスレス。別物よ】
おそらくノマド(放浪の民)と呼ばれる人がこういう感覚を持っているんだろう(だから冒頭でこういうセリフが出てくるんだろう)と思うのだけど、この言葉には2通りの解釈があると思う。一つは「ホームレスと呼ばれたことを不快に感じた」というものだ。日本でもそうだが、おそらくアメリカでも「ホームレス」という単語は、単に「家がない人」という意味ではなく、「貧しくて生活に困窮してそのために家に住むことができなくなった人」というようなニュアンスがあるんだと思う。そして、そういう見られ方を否定したかった、という捉え方が一つ。
でも僕は、ファーンは違うんじゃないかと感じた。ファーンは、「ホームレス」という見られ方を否定したかったというよりは、「ハウスレス」という見られ方をされたかったのではないかと思う。「ホームレス」と違って「ハウスレス」というのはおそらく、「単に家がないだけの人」というニュアンスなのだろう。そしてこの言葉に、「住居」への思いを感じる。
一方でこんな場面もある。彼女が乗る車のエンジンが掛からなくなり、修理工場で見てもらっている時のこと。ファーンは、「修理代は2300ドル、そしてこの車の中古価格は5000ドルだから、修理するよりこの古い車を売って新しい車を買った方がいい」と言われるのだが、彼女は、
【いや、それはダメ。ただのボロい車に見えるかもしれないけど、長い年月とお金を掛けて改造してきたの。住んでるのよ。私の家なの】
と言って反対するのだ。
もちろん、自分が乗っている車を「車」と捉えるか「住居」と捉えるかは自由だけど、ここで強く「これは家なのだ」と主張していることが、彼女の「住居」に対する思いの強さの現れだと感じた。
アメリカにはそもそも、RV車やキャンピングカーで生活をする人たちが一定数いる。そういう人たちは「ノマド(放浪の民)」と呼ばれている。この映画は非常に変わったやり方で撮られているようで、主人公のファーン以外は、実際にノマド生活をしている人が本人役として登場している(エンドロールでも、役名が本人名として表示されていたと思う)。主人公が、実際のノマド生活者たちのコミュニティに入っていき、そこでの生活のやり取りの中で映画が生まれていく。具体的にどういう撮影をしているのかは分からないが、映像で見る感じでは、カット割りもちゃんとされているし、おそらく台本もあるだろうから、ドキュメンタリーというわけではない。しかしこういう撮影手法を取るぐらいだから、実際のノマド生活者たちの普段の振る舞いからかけ離れたような演技は求めていないだろう。そういう意味では、「ざっくりとした台本や物語の方向性は与えられつつも、ファーン以外の人はできるだけ普段の感じのままでカメラの前にいてもらう」という作り方をしているんじゃないか、と勝手にイメージしている。
映画の中には、RTRと呼ばれるノマド生活者たちの集まりが登場する。そのリーダー的な人物は、「ノマド生活者には高齢者が多い」と言っていた。そう、映画も年配の人が多く登場する(若い人もたまに出てくるけど)。登場人物の一人は、「年金だけでは暮らせないからノマド生活を選んだ」と言っていたけど、リーダー的な人物は「ノマド生活を選ぶ人は悲しみや喪失感を抱えている者が多い」と言っていた。お金だけの問題ではなく、何か事情があってノマド生活を選んだ者も多くいる、ということだろう。
彼らは、何かの作物の収穫など、季節ごとに募集がなされる季節労働を転々としながら生活をしていく。実際のノマド生活が登場していることも関係しているだろうが、その生活の良し悪しを安易に判断させるような言動や描写はほとんどない。それでもやはり、見ていて「これは大変だなぁ」と感じてしまった。
仕事獲得の大変さだけではなく、トラブルへの対応も難しい。この映画には、ファーンの姉(この一家は役者だろう)も登場するが、それは姉の助け無しには乗り越えられなかったトラブルが発生したからだ。この姉がファーンにこう言う場面がある。
【昔からあなたは型破りで変人という風に扱われていたけど、私は誰よりも勇敢で正直なだけだと思ってた】
これを聞いて、なるほどと感じてしまった。社会の中で上手く生きていくには、多少ずるい部分がないといけない。でも、そう振る舞えない人は、社会の縁にギリギリしがみつくか、振り落とされてしまう。ファーンも、多少のずるさを許容できないタイプの人なのだということは、映画を観ていて伝わる。
そういう人こそ、ちゃんと報われてほしいなぁ、と思いながら観ていた。
「ノマドランド」を観に行ってきました
昔からずっと、「なんで生きてなきゃいけないかね」と思っている。今でも。もちろん、時々「楽しいな」と感じることもある。メチャクチャお金に困ってるとかでもない、虐待とかDVとかのような辛い環境にいるわけでもない。
それでも本当にいつも思ってる。どうして、「生きることを止める」という選択肢は許容されていないんだろうなぁ、と。
先に書いておくと、この映画の主人公は決して「生きることを止めたい人」ではない。むしろ、積極的に生きていたい人だと思う。だから、全然状況は違う。
僕は、今38歳だけれども、いずれ自分の人生がどこかで破綻するだろうなぁ、といつも思いながら生きている。今はまだ大丈夫だけど、「働く」ということをずっとやり続けられるとは思えないし、年金も大してもらえないし(そもそも不払いの期間も長くあるからさらにもらえない)、年を取れば身体にもガタがきて不自由になるだろう。一番はお金的な理由だけど、とにかくなんらかの形で、「あぁ、もう自分の生活はこれから立ち行かなくだろうなぁ」という瞬間を迎えるんだろうな、と思う。
この映画の主人公は、その瞬間を唐突に迎えることになった。エンドロールを観ていたら、どうやら原作がある映画っぽいので、主人公(ファーンという女性)にはモデルがいるのだろうけど、彼女は2011年1月に突如職場と住居を失う。VSジプサム社という会社が保有していた採掘場の閉鎖が決まり、その仕事で成り立っていた町そのものが閉鎖されることになり(なんと、郵便番号まで抹消されることになったそうだ)、夫と社宅に住んでいた彼女は家を失うことにもなってしまう。
そこで彼女は、RV車に生活のための一式を積み込み、季節労働を転々とする生活を始める(どの時点でかは分からないけど、夫は既に亡くなっている)。
彼女の場合、お金ではなく唐突な外的要因によって放り出される形になったわけだが、でも実際、彼女のような立場に置かれる可能性は誰にだってある。現在のウイルスが猛威を振るう世界を予測できた人はいなかっただろうし(どうしても生活困窮者は増えている)、日本には地震や水害も多い。昨日まで当たり前だった生活が今日から当たり前にはできなくなる、というのは、他人事じゃない。
そして僕は、そういう状況になった時、それでもまだ生きていたいと思えるのか、全然自信がない。
日常の中にそこまで楽しいことがなくても、お金が一応回っていて、生活する上で大きな不満や障害が無ければ、その生活をとりあえず続けていく選択をするだろう。何かを決断するのはめんどくさいから、先送りしたい。でも、何らかの理由によって、それまでの日常が維持できないとなった時、「それでも生きていなきゃいけないのか?」とどうしても考えてしまうだろう。
僕は、何年後なのか何十年後なのか分からないけど、自分にそういう瞬間が確実にやってくるだろうと考えているし、そういう瞬間が確実にやってくるだろう未来に対して憂鬱に感じることも多い。これはたぶん、今が楽しくて楽しくて仕方ないという環境であっても、自分の内側から拭い去ることのできない感覚だと思う。ずっと奥歯に何かが挟まっているような不快感と共に生きているなぁ、という実感がある。
彼女は、それまで住んでいた町が消滅したにも拘わらず、その周辺でRV車に乗って生活することにこだわっていた。そこは雪降る寒い地域で、ある人から「せっかく車があるんだから、暖かいカリフォルニアでも行けばいいのに」と言われるがそうしない。ここでは触れないが、彼女がそういう選択をする理由が最後に明かされる。それを知って、なるほどこの女性はちゃんと生きたい人なのだな、家や町を失ったから仕方なくRV車で生活しているという人ではないのだな、ということが分かる。
そしてそこには、「生きること」と「住居」に関する価値観がある、と感じる。
僕は、自分の家がほしいと思ったことはないし、というかむしろ欲しくない。絶対に要らない、と思うほどだ。賃貸にしても、家そのものに特段のこだわりはない(そもそも衣食住に興味がない)。家そのものより、「駅からの距離」や「周辺の環境」などの方が気になる。僕にとって「生きること」の中に「住居」の重要度はほぼ無いと言っていい。
しかしそうではない人もいる。ファーンもそうだ。冒頭で彼女は、元教え子(よく分からないがファーンは何かの先生だったらしい)から「先生はどうしてホームレスになったの?」と聞かれて、こう答える。
【ホームレスじゃなくて、ハウスレス。別物よ】
おそらくノマド(放浪の民)と呼ばれる人がこういう感覚を持っているんだろう(だから冒頭でこういうセリフが出てくるんだろう)と思うのだけど、この言葉には2通りの解釈があると思う。一つは「ホームレスと呼ばれたことを不快に感じた」というものだ。日本でもそうだが、おそらくアメリカでも「ホームレス」という単語は、単に「家がない人」という意味ではなく、「貧しくて生活に困窮してそのために家に住むことができなくなった人」というようなニュアンスがあるんだと思う。そして、そういう見られ方を否定したかった、という捉え方が一つ。
でも僕は、ファーンは違うんじゃないかと感じた。ファーンは、「ホームレス」という見られ方を否定したかったというよりは、「ハウスレス」という見られ方をされたかったのではないかと思う。「ホームレス」と違って「ハウスレス」というのはおそらく、「単に家がないだけの人」というニュアンスなのだろう。そしてこの言葉に、「住居」への思いを感じる。
一方でこんな場面もある。彼女が乗る車のエンジンが掛からなくなり、修理工場で見てもらっている時のこと。ファーンは、「修理代は2300ドル、そしてこの車の中古価格は5000ドルだから、修理するよりこの古い車を売って新しい車を買った方がいい」と言われるのだが、彼女は、
【いや、それはダメ。ただのボロい車に見えるかもしれないけど、長い年月とお金を掛けて改造してきたの。住んでるのよ。私の家なの】
と言って反対するのだ。
もちろん、自分が乗っている車を「車」と捉えるか「住居」と捉えるかは自由だけど、ここで強く「これは家なのだ」と主張していることが、彼女の「住居」に対する思いの強さの現れだと感じた。
アメリカにはそもそも、RV車やキャンピングカーで生活をする人たちが一定数いる。そういう人たちは「ノマド(放浪の民)」と呼ばれている。この映画は非常に変わったやり方で撮られているようで、主人公のファーン以外は、実際にノマド生活をしている人が本人役として登場している(エンドロールでも、役名が本人名として表示されていたと思う)。主人公が、実際のノマド生活者たちのコミュニティに入っていき、そこでの生活のやり取りの中で映画が生まれていく。具体的にどういう撮影をしているのかは分からないが、映像で見る感じでは、カット割りもちゃんとされているし、おそらく台本もあるだろうから、ドキュメンタリーというわけではない。しかしこういう撮影手法を取るぐらいだから、実際のノマド生活者たちの普段の振る舞いからかけ離れたような演技は求めていないだろう。そういう意味では、「ざっくりとした台本や物語の方向性は与えられつつも、ファーン以外の人はできるだけ普段の感じのままでカメラの前にいてもらう」という作り方をしているんじゃないか、と勝手にイメージしている。
映画の中には、RTRと呼ばれるノマド生活者たちの集まりが登場する。そのリーダー的な人物は、「ノマド生活者には高齢者が多い」と言っていた。そう、映画も年配の人が多く登場する(若い人もたまに出てくるけど)。登場人物の一人は、「年金だけでは暮らせないからノマド生活を選んだ」と言っていたけど、リーダー的な人物は「ノマド生活を選ぶ人は悲しみや喪失感を抱えている者が多い」と言っていた。お金だけの問題ではなく、何か事情があってノマド生活を選んだ者も多くいる、ということだろう。
彼らは、何かの作物の収穫など、季節ごとに募集がなされる季節労働を転々としながら生活をしていく。実際のノマド生活が登場していることも関係しているだろうが、その生活の良し悪しを安易に判断させるような言動や描写はほとんどない。それでもやはり、見ていて「これは大変だなぁ」と感じてしまった。
仕事獲得の大変さだけではなく、トラブルへの対応も難しい。この映画には、ファーンの姉(この一家は役者だろう)も登場するが、それは姉の助け無しには乗り越えられなかったトラブルが発生したからだ。この姉がファーンにこう言う場面がある。
【昔からあなたは型破りで変人という風に扱われていたけど、私は誰よりも勇敢で正直なだけだと思ってた】
これを聞いて、なるほどと感じてしまった。社会の中で上手く生きていくには、多少ずるい部分がないといけない。でも、そう振る舞えない人は、社会の縁にギリギリしがみつくか、振り落とされてしまう。ファーンも、多少のずるさを許容できないタイプの人なのだということは、映画を観ていて伝わる。
そういう人こそ、ちゃんと報われてほしいなぁ、と思いながら観ていた。
「ノマドランド」を観に行ってきました
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