「ビバリウム」を観に行ってきました
変な話だったなぁ。
嫌いじゃないし、物語の設定的に「説明されない部分が残る」ことには納得がいっているけど、それでも、もうちょい説明があると良かったなぁ、という映画だった。
まずざっと内容を。
保育園で働くジェマと庭師のトムは、一緒に住む家を探しているがまだ見つかっていない。その日も、ふと見かけて入った不動産屋で物件を物色していると、マーティンという名の不動産屋が、素敵で便利でお手頃で、終の棲家にぴったりな物件がある、と紹介をしてくる。強引なアプローチに怪しむが、とりあえず見るだけということにしてさっさと終わらせよう、と考えた。不動産屋は、「Yonder(ヨンダー)」と名付けられた、同じ外観の建売住宅が端から端まで永遠に連なっているような住宅地に案内する。9番の家を案内されるが、庭の見学をしている最中、マーティンの姿が消える。このタイミングで帰ってしまおうと決めた二人は、車でこの住宅地を出ようとするが…。
どの道をどう進んでも、9番の家に戻ってきてしまう。日が高い内に動き始めたのに、暗くなってもまだ抜け出せず、最終的にガス欠で断念することとなった。
仕方なく、9番の家に戻る二人。すると家の前にはダンボールが。中には食料品などが詰められている。よく分からないが、ここに住む限り、食料などは与えられるということだろう。トムは、最後の手段とばかりに9番の家に火をつけ、盛大に燃やしてしまう。家の前で眠った二人は翌朝…。
家の前にダンボールを発見する。中には、誰の子供か分からない、生まれたばかりの赤ん坊。箱には、「育てれば解放する」の文字。そして、9番の家は、まったく燃えた形跡もない、完璧な状態で復元されていた…。
というような話です。
とにかく、設定がメチャクチャ面白そうな映画ですよね。設定で興味を引きつける、という意味では完璧だと思いました。これ、こっからどうなるのよ…、みたいな期待感を持って観てたんですけど、観ても観ても、ずっと「こっからどうなるのよ…」状態のままなんですよね。で、ほぼ最後までその状態で終わってしまう映画でした。
まず書いておくと、もしかしたらこの映画は、全体が何かの暗喩になってるのかもしれません。調べてないけど、「Yonder」という単語には何か背景を示唆するような意味が込められているかもしれないし、資本主義社会とかそういう何かを皮肉っているような意味合いがあったりするかもです。ただ、僕にはそういう受け取り方は出来ませんでした。何かの暗喩が込められているのであれば、また違った軸でこの物語を評価できると思うけど、僕にはちょっとそれは無理でした。
以下ではちょっと、普段の僕の基準では、こういう感想を書く場で明かすべきではないよな、と感じること(要するにネタバレ)に触れながら書こうと思うので、これからこの映画を観ようと思っている方は読まない方がいいかもしれません(ただ、それを示唆する場面はかなり序盤で出てくるので、そこまでネタバレではないかもしれませんが)
ダンボールに入れて届けられた赤ん坊は、次のシーンではもう小学生ぐらいになっていました。もの凄い年月が経過したな、と思ったんですけど、そうではありません。その少年が最初に登場するシーンで、身長を測って柱に記録するっていう場面があるんですけど(欧米でもあるんですね、あの習慣)、その描写からその日が、彼らがYonderにやってきてから98日目だということが判明します。
つまり、たった98日で、赤ん坊から小学生ぐらいまで成長するわけです。この描写自体はかなり冒頭に出てくるもので、ここから、この子供は明らかに「人間ではない」ということがはっきりします。とりあえず「宇宙人」としておきましょう。
また、この子供は、ジェムとトムの言動をそっくりそのまま真似する機会が多くあります。で、これだけだとまだはっきり分かりませんが、最後の展開を考えると、この宇宙人の表層的な目的ははっきりします。
つまり、「人間に子供を育てさせることによって、人間らしい言動を行える子供に育てること」が彼らの目的なわけです。
そう考えた時、かなり冒頭で登場した「No, not yet(いない、まだいないわ)」の場面も納得いくな、という感じがします。
しかし、「表層的な目的」と書いた通り、Yonderという奇妙な街を作り、そこに人間をおびき寄せて子供を育てさせることそのものの目的は理解できたけど、「じゃあ、なんのためにそんなことしてるのか?」というさらなる理由は謎のままです。
もしかしたらそれを解く鍵が、映画の後半で登場した、道路をペロッとめくってからの展開にあるのかもしれないのだけど、このシーン、僕にはさっぱり意味不明でした。どういうことなんだろうなぁ。
あと、意図的にそういう風にしたんだろうとは思うのだけど、あまりにも外界(これは、空間的にも時間的にも)との接点が無さすぎて、それが作品の異様さを引き立てる魅力になっていることは理解できる一方で、ジェマとトムの心情みたいなものを上手く捉えきれなかった部分もあるな、と思います。
どういうことか。例えばジェマもトムも、かなり早い段階でYonderにやってくるので、どういう友達がいて、家族とどういう繋がりがあって、みたいな背景的なことが全然分からない。冒頭でそういう紹介が無いから、映画の展開の中でも、「誰々に会いたい」とか「誰々は今どうしてるだろうか」と思いを馳せる描写は一切ない。ジェムとトムを閉じ込める側は、それまでの来歴が謎な「宇宙人」なのだけど、実はジェムとトムの方も、どういう背景を持つ人物なのかまったく分からない人物としてこの映画の中では置かれている。
彼らは当然この奇妙な世界から脱したい。でも、彼らに背景の物語がないから、「こんな変なところにはいたくない」という理由しか表面化しない。もっと切実な、家族や友人や職場の人に会いたいとか、今頃保育園ではこんな行事をしているだろうとか、そういう外との繋がりを意識した理由みたいなものが無さすぎて、彼らの切実さがちょっと伝わりにくい気がする。
もちろん、先程も書いた通り、外界との接点を完全に排除しているが故に、この映画の奇妙な雰囲気は醸し出されていると思う。だから、どっちを取るかという話ではあるのだけど、映画を観ながらあまりの物語の動かなさにちょっと退屈さを感じてしまう時間もあったので、僕は、もう少し外界との接点を物語に組み込んでも良かったのかな、と感じました。
「ビバリウム」を観に行ってきました
嫌いじゃないし、物語の設定的に「説明されない部分が残る」ことには納得がいっているけど、それでも、もうちょい説明があると良かったなぁ、という映画だった。
まずざっと内容を。
保育園で働くジェマと庭師のトムは、一緒に住む家を探しているがまだ見つかっていない。その日も、ふと見かけて入った不動産屋で物件を物色していると、マーティンという名の不動産屋が、素敵で便利でお手頃で、終の棲家にぴったりな物件がある、と紹介をしてくる。強引なアプローチに怪しむが、とりあえず見るだけということにしてさっさと終わらせよう、と考えた。不動産屋は、「Yonder(ヨンダー)」と名付けられた、同じ外観の建売住宅が端から端まで永遠に連なっているような住宅地に案内する。9番の家を案内されるが、庭の見学をしている最中、マーティンの姿が消える。このタイミングで帰ってしまおうと決めた二人は、車でこの住宅地を出ようとするが…。
どの道をどう進んでも、9番の家に戻ってきてしまう。日が高い内に動き始めたのに、暗くなってもまだ抜け出せず、最終的にガス欠で断念することとなった。
仕方なく、9番の家に戻る二人。すると家の前にはダンボールが。中には食料品などが詰められている。よく分からないが、ここに住む限り、食料などは与えられるということだろう。トムは、最後の手段とばかりに9番の家に火をつけ、盛大に燃やしてしまう。家の前で眠った二人は翌朝…。
家の前にダンボールを発見する。中には、誰の子供か分からない、生まれたばかりの赤ん坊。箱には、「育てれば解放する」の文字。そして、9番の家は、まったく燃えた形跡もない、完璧な状態で復元されていた…。
というような話です。
とにかく、設定がメチャクチャ面白そうな映画ですよね。設定で興味を引きつける、という意味では完璧だと思いました。これ、こっからどうなるのよ…、みたいな期待感を持って観てたんですけど、観ても観ても、ずっと「こっからどうなるのよ…」状態のままなんですよね。で、ほぼ最後までその状態で終わってしまう映画でした。
まず書いておくと、もしかしたらこの映画は、全体が何かの暗喩になってるのかもしれません。調べてないけど、「Yonder」という単語には何か背景を示唆するような意味が込められているかもしれないし、資本主義社会とかそういう何かを皮肉っているような意味合いがあったりするかもです。ただ、僕にはそういう受け取り方は出来ませんでした。何かの暗喩が込められているのであれば、また違った軸でこの物語を評価できると思うけど、僕にはちょっとそれは無理でした。
以下ではちょっと、普段の僕の基準では、こういう感想を書く場で明かすべきではないよな、と感じること(要するにネタバレ)に触れながら書こうと思うので、これからこの映画を観ようと思っている方は読まない方がいいかもしれません(ただ、それを示唆する場面はかなり序盤で出てくるので、そこまでネタバレではないかもしれませんが)
ダンボールに入れて届けられた赤ん坊は、次のシーンではもう小学生ぐらいになっていました。もの凄い年月が経過したな、と思ったんですけど、そうではありません。その少年が最初に登場するシーンで、身長を測って柱に記録するっていう場面があるんですけど(欧米でもあるんですね、あの習慣)、その描写からその日が、彼らがYonderにやってきてから98日目だということが判明します。
つまり、たった98日で、赤ん坊から小学生ぐらいまで成長するわけです。この描写自体はかなり冒頭に出てくるもので、ここから、この子供は明らかに「人間ではない」ということがはっきりします。とりあえず「宇宙人」としておきましょう。
また、この子供は、ジェムとトムの言動をそっくりそのまま真似する機会が多くあります。で、これだけだとまだはっきり分かりませんが、最後の展開を考えると、この宇宙人の表層的な目的ははっきりします。
つまり、「人間に子供を育てさせることによって、人間らしい言動を行える子供に育てること」が彼らの目的なわけです。
そう考えた時、かなり冒頭で登場した「No, not yet(いない、まだいないわ)」の場面も納得いくな、という感じがします。
しかし、「表層的な目的」と書いた通り、Yonderという奇妙な街を作り、そこに人間をおびき寄せて子供を育てさせることそのものの目的は理解できたけど、「じゃあ、なんのためにそんなことしてるのか?」というさらなる理由は謎のままです。
もしかしたらそれを解く鍵が、映画の後半で登場した、道路をペロッとめくってからの展開にあるのかもしれないのだけど、このシーン、僕にはさっぱり意味不明でした。どういうことなんだろうなぁ。
あと、意図的にそういう風にしたんだろうとは思うのだけど、あまりにも外界(これは、空間的にも時間的にも)との接点が無さすぎて、それが作品の異様さを引き立てる魅力になっていることは理解できる一方で、ジェマとトムの心情みたいなものを上手く捉えきれなかった部分もあるな、と思います。
どういうことか。例えばジェマもトムも、かなり早い段階でYonderにやってくるので、どういう友達がいて、家族とどういう繋がりがあって、みたいな背景的なことが全然分からない。冒頭でそういう紹介が無いから、映画の展開の中でも、「誰々に会いたい」とか「誰々は今どうしてるだろうか」と思いを馳せる描写は一切ない。ジェムとトムを閉じ込める側は、それまでの来歴が謎な「宇宙人」なのだけど、実はジェムとトムの方も、どういう背景を持つ人物なのかまったく分からない人物としてこの映画の中では置かれている。
彼らは当然この奇妙な世界から脱したい。でも、彼らに背景の物語がないから、「こんな変なところにはいたくない」という理由しか表面化しない。もっと切実な、家族や友人や職場の人に会いたいとか、今頃保育園ではこんな行事をしているだろうとか、そういう外との繋がりを意識した理由みたいなものが無さすぎて、彼らの切実さがちょっと伝わりにくい気がする。
もちろん、先程も書いた通り、外界との接点を完全に排除しているが故に、この映画の奇妙な雰囲気は醸し出されていると思う。だから、どっちを取るかという話ではあるのだけど、映画を観ながらあまりの物語の動かなさにちょっと退屈さを感じてしまう時間もあったので、僕は、もう少し外界との接点を物語に組み込んでも良かったのかな、と感じました。
「ビバリウム」を観に行ってきました
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