「心の傷を癒すということ 劇場版」を観に行ってきました
メチャクチャ良い映画だった。自分の映画を観るスケジュール的に(内容云々ではなく)観ない可能性の方が高かったから、観て良かった。
以前、ブレイク前にベビーシッターと介護をしていたお笑いコンビ(なんとなく名前は伏せる)に関する記事の中で、こんなことが書かれていた。
「お年寄りの介護は、認知症の方もいるし、やったことに対する感謝が返ってこないこともある。だからある種の冷たさがないと出来ない。だから自分は、絶対にベビーシッターの方がいい」
これは、お笑いコンビ本人のインタビューではなく、会話の中で彼からそういう話を聞いたという人物が伝聞情報として書いた記事だったので、どこまで正確な話か分からない(だから名前は伏せた)。でも、「介護はある種の冷たさがないと出来ない」という発言は、シンプルだけど真理をついてるなぁ、と感じた。
この映画の主人公に対しても、同じ印象を抱いた。
と言っても、安和隆が冷たい人間だ、と言いたいわけではない。彼は精神科医として患者から信頼され、誰に対しても穏やかに話しをし、心の憶測にしまわれてしまっている辛い気持ちをどうにか癒そうとしてきた人物だ。
ただ、そんな彼を「優しい」と表現したくない、とも思うのだ。僕の中でどうしてもそれはしっくり来なかった。
嫌な言い方をするが、「優しいだけの人間」なんてたくさんいる。しかし、優しさというのは、ある種の諸刃の剣でもある。使い方を間違えると、優しさだって誰かを傷つけることがある。僕はそういう例を、多少なりとも見てきた。
安和隆は、「優しいだけの人間」ではない。そして僕は、彼の歩いている道を遥か彼方まで延長すると、その先に「冷たさ」があるように感じられる。そして、だからいいのだと思う。
【私は、世の中の役に立つ仕事をしようとは思いません。とにかく、心について知りたいだけなんです。不思議で、興味深いものなんです。ただそれだけの理由で、精神科医を目指すことは間違いでしょうか?】
安和隆は、学生時代に恩師にそう問いかける。ここにもほのかに、彼の「冷たさ」が見え隠れする。もちろん彼は常に、辛く苦しんでいる人に寄り添いたいという気持ちを常に持ち、それを行動に移している人物だ。正直、それで十分すぎるほどである。それが、どんな動機に支えられているかなどということは、正直、どうでもいいことだ。
しかし、彼の行動を支えているものが「愛」だとしたら、恐らく長続きしなかっただろうと思う。それは、ラスト近く、安和隆が病院のベッドの上で恩師と会話を交わす場面で一層強く感じた。この映画の中で、安和隆の激烈な感情が見える場面はそう多くない。そしてこのベッドでの場面は、その数少ない一つだ。もし彼の根底にあるものが「愛」だとしたら、彼の心はきっと、もっと早く決壊していただろう。それでは、多くの人を救うことができない。彼の根底には、恐らく、「愛」以上に強い「好奇心」があり、たぶんそれが、彼の類まれな行動を支えていたのだと思う。
そして、非常に善人である彼は、「好奇心」で駆動している自分のことを恥じる。授賞式でのこと。「震災のことを書いて賞をもらうなんて申し訳ない気がします」というセリフは、自分の行動原理が理解できてしまっているからこその言葉に、僕には感じられた。
しかし、それが実感できる描写は決して多くはなかったけど、やはり大変な仕事だと感じる、精神科医は。また、先程の病室のベッドの場面に戻ろう。彼は今、心身ともにかなり辛い状況にある。しかしその中にあっても、彼は恩師に対して涙ながらに、恩師を気遣うような言葉を掛ける。僕にはそれが、陳腐な言い方をすれば「職業病」のように見えてしまった。
安和隆は、病院で患者を診ていない時も常に「精神科医・安和隆」であるように見えた。妻と一緒にいても、子供たちと遊んでいても、旧友に再会しても。彼は、「精神科医・安和隆」という呪縛の中にいて、そこから抜け出せない人物のように見えた。決してそれが悪いと言いたいわけではない。少なくとも彼のそういう振る舞いは、彼と関わる大勢の人間を救ったことだろう。
けれども僕は、やっぱり、安和隆のことが心配になってしまった。僕自身も、彼ほどではないけど自分自身よりも周囲を優先しがちだし、そういう人をこれまでにも結構目にしてきたので、そういう人こそ救われてほしいという気持ちを強く抱いてしまった。
【弱いって良いことだぞ。弱いからこそ、誰かの弱い部分に気づいて寄り添ってあげられるんだ。おじさんも弱い部分たくさんあるけど、全然恥ずかしいことない】
「弱さを見せる」と「甘えだ」と言われてしまう世の中に僕たちは生きている。しんどいなぁ。でも、安和隆が言うように、弱いからこそ他人の弱さに気づけるのだと僕も普段から感じている。強い人間、自分が正しいと思っている人間は、他人の痛みを理解しない。そういう人間は、厳しい言い方をすれば、ただそこにいるだけで誰かを傷つけうる。そして、誰かを傷つけていることを自覚できない。弱い人間は逆に、自分が誰かを傷つけてしまっているのではないかと過剰に抑制する。それが、そういう行動もまた、誤解される。
安和隆が望んだ世界は、残念ながら実現されていない。
内容に入ろうと思います。
在日韓国人の両親の次男として生まれた安和隆は、子供の頃に自分が「安田」ではなく「安」だと知り、自分の存在に揺らぎを覚える。高校時代、永野良夫という精神科医の著作を読みふけり、医者の道を志す。しかし、「社会や人様の役に立つ仕事をしろ」と常日頃言っている父には、その希望を言い出せずにいた。東大に進んだ兄とは違い、子供の頃から父親に褒められることの少なかった和隆は、ある日意を決して父に精神科医になるという希望を告げ、その道へと進んでいく。
やがて、若くして医局長となった和隆は、結婚し子供も生まれ、充実した人生を歩んでいた。しかし、その日はやってきてしまう。阪神淡路大震災。妻子を大阪の実家に避難させ、彼は神戸の街で、ノウハウも経験もないまま、災害で心に傷を負った人々のケアに徒手空拳で臨んでいく…。
というような話です。
この映画、何が素晴らしかったって、主演の柄本佑が素晴らしい。僕は普段、俳優の演技がどうのこうのというのはあんまりよくわからないし、そういう部分から映画を見たり評価したりすることってあんまりないんだけど、この映画に関してはとにかく、柄本佑が素晴らしかったの一言に尽きる。
今から書くことは、安和隆にとっても柄本佑にとっても悪口では全然ないつもりなのだけど、柄本佑演じる安和隆が、ちょっとロボットのように僕には見えた。どういうことかというと、感情の起伏を「抑えている」という雰囲気を出さずにフラットにしている、ということだ。これは見事だなぁ、と思いました。
この映画における柄本佑の演技って、僕は結構紙一重だと思います。それは、ただ単調なだけ、という風に見られる可能性がある、ということです。柄本佑は、さっきもちらっと書いたけど、この映画の中で感情らしい感情をあまり見せない。そしてそれは、精神科医としてなんとなくリアリティがある感じがしました(精神科医のこと、知りませんけど)。感情をフラットにして、良いも悪いも表に出さずにいることで、相手の「この人になら喋っても大丈夫」という雰囲気を引き出せるんだろうと僕は思っていて、そして柄本佑の雰囲気はまさにそういう感じだった。
そしてそれを、決して単調に見せない。どう工夫しているのか僕には分からないけど、柄本佑は、感情をほぼ出さないフラットな演技をしているのに、全然単調ではない、というかなり難しい調整を、最初から最後までやり続けているという感じがしました。それが凄い。感情を表に出す演技の方が簡単だ、などと分かったようなことを言うつもりはないんですけど、でもやっぱり、抑制した演技の方が難しいんじゃないかと思います。ここには二重の演技があって、まず「安和隆が精神科医・安和隆を演じている」という演技がまずあり、その外側に「柄本佑が安和隆を演じている」という演技がある。柄本佑はある意味で、その二重の演技をしなければならないので、難しいんじゃないかなぁ、という感じがしました。
柄本佑の見事さは、「安和隆の方が辛い状況なのに無理してる感がない」という場面で一番強く感じた。
例えば、自分ががんであることを妻に告げるシーン。泣き出す妻を抱き寄せ、「家に帰ったら(子供がいるから)泣けないよな。ここで泣いてけ」という。
車椅子を押してもらっている時、後輩医師を励まし、そして「じゃ、行こうか」と軽く口にする。
これ、ホントに難しいと思う。「大変だろうな/辛いだろうな」と思われる立ち位置にいる場合、明るく振る舞うとどうしても「痛々しさ」「無理してる感」が出てしまうものだと思う。しかし柄本佑の場合、それが全然ない。凄いなぁ、と思いながら観てた。
とにかく、柄本佑で成立している映画だと感じた。他の人で、同じ作品を成立させられるんだろうか。ホントに見事。良い映画を観たなぁ。
「心の傷を癒すということ 劇場版」を観に行ってきました
以前、ブレイク前にベビーシッターと介護をしていたお笑いコンビ(なんとなく名前は伏せる)に関する記事の中で、こんなことが書かれていた。
「お年寄りの介護は、認知症の方もいるし、やったことに対する感謝が返ってこないこともある。だからある種の冷たさがないと出来ない。だから自分は、絶対にベビーシッターの方がいい」
これは、お笑いコンビ本人のインタビューではなく、会話の中で彼からそういう話を聞いたという人物が伝聞情報として書いた記事だったので、どこまで正確な話か分からない(だから名前は伏せた)。でも、「介護はある種の冷たさがないと出来ない」という発言は、シンプルだけど真理をついてるなぁ、と感じた。
この映画の主人公に対しても、同じ印象を抱いた。
と言っても、安和隆が冷たい人間だ、と言いたいわけではない。彼は精神科医として患者から信頼され、誰に対しても穏やかに話しをし、心の憶測にしまわれてしまっている辛い気持ちをどうにか癒そうとしてきた人物だ。
ただ、そんな彼を「優しい」と表現したくない、とも思うのだ。僕の中でどうしてもそれはしっくり来なかった。
嫌な言い方をするが、「優しいだけの人間」なんてたくさんいる。しかし、優しさというのは、ある種の諸刃の剣でもある。使い方を間違えると、優しさだって誰かを傷つけることがある。僕はそういう例を、多少なりとも見てきた。
安和隆は、「優しいだけの人間」ではない。そして僕は、彼の歩いている道を遥か彼方まで延長すると、その先に「冷たさ」があるように感じられる。そして、だからいいのだと思う。
【私は、世の中の役に立つ仕事をしようとは思いません。とにかく、心について知りたいだけなんです。不思議で、興味深いものなんです。ただそれだけの理由で、精神科医を目指すことは間違いでしょうか?】
安和隆は、学生時代に恩師にそう問いかける。ここにもほのかに、彼の「冷たさ」が見え隠れする。もちろん彼は常に、辛く苦しんでいる人に寄り添いたいという気持ちを常に持ち、それを行動に移している人物だ。正直、それで十分すぎるほどである。それが、どんな動機に支えられているかなどということは、正直、どうでもいいことだ。
しかし、彼の行動を支えているものが「愛」だとしたら、恐らく長続きしなかっただろうと思う。それは、ラスト近く、安和隆が病院のベッドの上で恩師と会話を交わす場面で一層強く感じた。この映画の中で、安和隆の激烈な感情が見える場面はそう多くない。そしてこのベッドでの場面は、その数少ない一つだ。もし彼の根底にあるものが「愛」だとしたら、彼の心はきっと、もっと早く決壊していただろう。それでは、多くの人を救うことができない。彼の根底には、恐らく、「愛」以上に強い「好奇心」があり、たぶんそれが、彼の類まれな行動を支えていたのだと思う。
そして、非常に善人である彼は、「好奇心」で駆動している自分のことを恥じる。授賞式でのこと。「震災のことを書いて賞をもらうなんて申し訳ない気がします」というセリフは、自分の行動原理が理解できてしまっているからこその言葉に、僕には感じられた。
しかし、それが実感できる描写は決して多くはなかったけど、やはり大変な仕事だと感じる、精神科医は。また、先程の病室のベッドの場面に戻ろう。彼は今、心身ともにかなり辛い状況にある。しかしその中にあっても、彼は恩師に対して涙ながらに、恩師を気遣うような言葉を掛ける。僕にはそれが、陳腐な言い方をすれば「職業病」のように見えてしまった。
安和隆は、病院で患者を診ていない時も常に「精神科医・安和隆」であるように見えた。妻と一緒にいても、子供たちと遊んでいても、旧友に再会しても。彼は、「精神科医・安和隆」という呪縛の中にいて、そこから抜け出せない人物のように見えた。決してそれが悪いと言いたいわけではない。少なくとも彼のそういう振る舞いは、彼と関わる大勢の人間を救ったことだろう。
けれども僕は、やっぱり、安和隆のことが心配になってしまった。僕自身も、彼ほどではないけど自分自身よりも周囲を優先しがちだし、そういう人をこれまでにも結構目にしてきたので、そういう人こそ救われてほしいという気持ちを強く抱いてしまった。
【弱いって良いことだぞ。弱いからこそ、誰かの弱い部分に気づいて寄り添ってあげられるんだ。おじさんも弱い部分たくさんあるけど、全然恥ずかしいことない】
「弱さを見せる」と「甘えだ」と言われてしまう世の中に僕たちは生きている。しんどいなぁ。でも、安和隆が言うように、弱いからこそ他人の弱さに気づけるのだと僕も普段から感じている。強い人間、自分が正しいと思っている人間は、他人の痛みを理解しない。そういう人間は、厳しい言い方をすれば、ただそこにいるだけで誰かを傷つけうる。そして、誰かを傷つけていることを自覚できない。弱い人間は逆に、自分が誰かを傷つけてしまっているのではないかと過剰に抑制する。それが、そういう行動もまた、誤解される。
安和隆が望んだ世界は、残念ながら実現されていない。
内容に入ろうと思います。
在日韓国人の両親の次男として生まれた安和隆は、子供の頃に自分が「安田」ではなく「安」だと知り、自分の存在に揺らぎを覚える。高校時代、永野良夫という精神科医の著作を読みふけり、医者の道を志す。しかし、「社会や人様の役に立つ仕事をしろ」と常日頃言っている父には、その希望を言い出せずにいた。東大に進んだ兄とは違い、子供の頃から父親に褒められることの少なかった和隆は、ある日意を決して父に精神科医になるという希望を告げ、その道へと進んでいく。
やがて、若くして医局長となった和隆は、結婚し子供も生まれ、充実した人生を歩んでいた。しかし、その日はやってきてしまう。阪神淡路大震災。妻子を大阪の実家に避難させ、彼は神戸の街で、ノウハウも経験もないまま、災害で心に傷を負った人々のケアに徒手空拳で臨んでいく…。
というような話です。
この映画、何が素晴らしかったって、主演の柄本佑が素晴らしい。僕は普段、俳優の演技がどうのこうのというのはあんまりよくわからないし、そういう部分から映画を見たり評価したりすることってあんまりないんだけど、この映画に関してはとにかく、柄本佑が素晴らしかったの一言に尽きる。
今から書くことは、安和隆にとっても柄本佑にとっても悪口では全然ないつもりなのだけど、柄本佑演じる安和隆が、ちょっとロボットのように僕には見えた。どういうことかというと、感情の起伏を「抑えている」という雰囲気を出さずにフラットにしている、ということだ。これは見事だなぁ、と思いました。
この映画における柄本佑の演技って、僕は結構紙一重だと思います。それは、ただ単調なだけ、という風に見られる可能性がある、ということです。柄本佑は、さっきもちらっと書いたけど、この映画の中で感情らしい感情をあまり見せない。そしてそれは、精神科医としてなんとなくリアリティがある感じがしました(精神科医のこと、知りませんけど)。感情をフラットにして、良いも悪いも表に出さずにいることで、相手の「この人になら喋っても大丈夫」という雰囲気を引き出せるんだろうと僕は思っていて、そして柄本佑の雰囲気はまさにそういう感じだった。
そしてそれを、決して単調に見せない。どう工夫しているのか僕には分からないけど、柄本佑は、感情をほぼ出さないフラットな演技をしているのに、全然単調ではない、というかなり難しい調整を、最初から最後までやり続けているという感じがしました。それが凄い。感情を表に出す演技の方が簡単だ、などと分かったようなことを言うつもりはないんですけど、でもやっぱり、抑制した演技の方が難しいんじゃないかと思います。ここには二重の演技があって、まず「安和隆が精神科医・安和隆を演じている」という演技がまずあり、その外側に「柄本佑が安和隆を演じている」という演技がある。柄本佑はある意味で、その二重の演技をしなければならないので、難しいんじゃないかなぁ、という感じがしました。
柄本佑の見事さは、「安和隆の方が辛い状況なのに無理してる感がない」という場面で一番強く感じた。
例えば、自分ががんであることを妻に告げるシーン。泣き出す妻を抱き寄せ、「家に帰ったら(子供がいるから)泣けないよな。ここで泣いてけ」という。
車椅子を押してもらっている時、後輩医師を励まし、そして「じゃ、行こうか」と軽く口にする。
これ、ホントに難しいと思う。「大変だろうな/辛いだろうな」と思われる立ち位置にいる場合、明るく振る舞うとどうしても「痛々しさ」「無理してる感」が出てしまうものだと思う。しかし柄本佑の場合、それが全然ない。凄いなぁ、と思いながら観てた。
とにかく、柄本佑で成立している映画だと感じた。他の人で、同じ作品を成立させられるんだろうか。ホントに見事。良い映画を観たなぁ。
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