「異端の鳥」を観に行ってきました
なんとも言えない映画だったなぁ。いや、「悪い」とか「良くなかった」という意味ではないんだけど、なんて言っていいか分からない。
正直、映画ではほぼなんの説明もされないので(主人公の名前も最後まで分からない)、時代とか時代背景とかそういうことはよく分からない。公式HPを見ると、ポーランドの作家が書いた小説が元になってるらしいので、ポーランドが舞台なのだろう(作中に地名らしき表記がいくつか出てきたけど、どこの国か僕には分からなかった)。と思ったけど、公式HPによれば、舞台となる国や場所は特定のものではないという。それが特定されないように、劇中で使用される言語は、人工言語「スラヴィック・エスペラント語」だという。なるほど、セリフが少なかったわけだ。時代は、初めこそよく分からなかったけど、途中から「ユダヤ人であること」を理由に迫害される描写が出てくるので、第二次世界大戦中だろうと思う。
冒頭から少年が、子どもたちにいじめられたり、鞭打ちに遭ったりする。状況は不明ながら、主人公の少年は、様々な人間に預けられ(あるいは転がり込み)、そして様々な理由でそこを離れなければならなくなる。
少年を襲う状況は、非常に過酷だ。彼は、自身が「家に帰る途中」であると認識しているが、その家がどこにあるのか分からない。彼は、帰る場所を見つけ出すための行動はほとんど取れず、どの場面でも、その瞬間をどうにか生き延びるためにどうすべきかを考えなければならない。
様々な理由で少年と関わることになる大人たちは、時代背景もあって、良い人たちばかりではないし、というかむしろ、少年に厳しく接する者の方が多い。どこにいっても排除され、ただそこにいることさえ困難な少年だが、しかし少年はほとんど顔色を変えることなく、自らが陥ることになった現実の中で諦念と共に生きている。
そんな少年の、ただひたすら逃げ続ける日々を、3時間にわたってモノクロで描き続ける長編大作。
映画を観始めてからしばらくは、何をどう観ればいいのか、正直よく分からなかった。なんだこれ???と思いながら、静寂のまま進んでいく映像をただひたすら眺めていた感じだった。でも徐々に、なんとなくだが状況が理解できるようになってきた。そして、少年の両肩に載せるにはあまりにも過酷すぎる現実を、少年が表情をほとんど変えずに過ごす様に、次第に狂気を感じるようになっていった。そして少年の無表情さは、少年を厳しい状況に追い込んでいく大人たちの残酷さを一層際立てることにもなる。
この映画は、とにかく「言葉」が少ない。10分以上誰もセリフを喋らない、なんて場面は、この映画には随所に存在する。それに、誰かが喋るシーンであっても、それが主人公ではないことがほとんどだ。主人公の少年は、3時間の中で、10センテンスぐらいしか喋ってないんじゃないかと思う。
そして、可能な限り言葉を排除することで、現実の暴力さがより鮮明になっている、という気がする。言葉で説明してもらわないと分からない部分は多々あるのだが、しかし、この映画で描かれる暴力さだけは、言葉を必要としない残虐さがある。そういう状況に至った流れは不明ながらも、少年が置かれている状況の狂気は、まったくもって説明不要だ。そして、何もかもまったく説明されないことで、唯一明確に伝わってくる「暴力さ」の輪郭が鋭敏になっていくのだ。さらに、その過酷な環境において、少年が表情をほとんど揺るがせにしない、という事実は、別の意味での狂気を運んでくる。
さらに、モノクロで展開される映像が、とにかく「美しい」のだ。これも、ありあまる違和感として届く。描いているものは、人間の最も「醜い」姿であるにも関わらず、画面全体は恐ろしく「美しい」。これは、「醜さ」を描く対比としての「美しさ」という意味ももちろんあるだろうけど、同時に、「美しいからまだ観ていられる」という要素にもなる。ヴェネツィア国際映画祭では、描写の過酷さから途中退場者が続出したという(しかし最後には10分間のスタンディングオベーションが起こり、『ジョーカー』以上に話題になったという)。確かに、目を背けたくなるような理不尽で暴虐な現実の連続だ。しかし、映像の美しさが、それを若干緩和してくれていると思う。モノクロにしたのも、同じ理由だろうか(血などが生々しくならないように、みたいな)。いずれにしても、映像はとても美しい。
少年の視点から物語を見ていると、「誰か助けてやれよ」と思う。でも同時に考えるのは、「自分がその場にいたら、助けられるか?」ということ。仮に少年がユダヤ人じゃなかったとしても、戦争中は誰もが自分のことで精一杯だろう。どこの誰とも知らない少年を助ける余裕があったかどうか。しかも彼はユダヤ人だ。自分自身がユダヤ人に対して何の感情も持っていなくても、その時代、周囲の人間があからさまなユダヤ人差別を行っている。話を矮小化すれば、クラスでいじめられてる子を助けられるか、ということなのだけど、そう簡単ではないだろう。そういう意味で、裏の思惑があったとしても少年に手を差し伸べた人間は、差し伸べなかった人間よりマシだったりするのだろうか、などと考えてしまう。その結論に「YES」と答えたくはないが、しかし、何もしなかった人間に批判する余地もないと思う。
人間の醜さは、いつでも現れうるが、戦争のような外的要因によってさらに容易に現れてしまうだろう。自分が「醜く」ならないためにも、やはり、戦争からは遠ざかっていたいと思う。
「異端の鳥」を観に行ってきました
正直、映画ではほぼなんの説明もされないので(主人公の名前も最後まで分からない)、時代とか時代背景とかそういうことはよく分からない。公式HPを見ると、ポーランドの作家が書いた小説が元になってるらしいので、ポーランドが舞台なのだろう(作中に地名らしき表記がいくつか出てきたけど、どこの国か僕には分からなかった)。と思ったけど、公式HPによれば、舞台となる国や場所は特定のものではないという。それが特定されないように、劇中で使用される言語は、人工言語「スラヴィック・エスペラント語」だという。なるほど、セリフが少なかったわけだ。時代は、初めこそよく分からなかったけど、途中から「ユダヤ人であること」を理由に迫害される描写が出てくるので、第二次世界大戦中だろうと思う。
冒頭から少年が、子どもたちにいじめられたり、鞭打ちに遭ったりする。状況は不明ながら、主人公の少年は、様々な人間に預けられ(あるいは転がり込み)、そして様々な理由でそこを離れなければならなくなる。
少年を襲う状況は、非常に過酷だ。彼は、自身が「家に帰る途中」であると認識しているが、その家がどこにあるのか分からない。彼は、帰る場所を見つけ出すための行動はほとんど取れず、どの場面でも、その瞬間をどうにか生き延びるためにどうすべきかを考えなければならない。
様々な理由で少年と関わることになる大人たちは、時代背景もあって、良い人たちばかりではないし、というかむしろ、少年に厳しく接する者の方が多い。どこにいっても排除され、ただそこにいることさえ困難な少年だが、しかし少年はほとんど顔色を変えることなく、自らが陥ることになった現実の中で諦念と共に生きている。
そんな少年の、ただひたすら逃げ続ける日々を、3時間にわたってモノクロで描き続ける長編大作。
映画を観始めてからしばらくは、何をどう観ればいいのか、正直よく分からなかった。なんだこれ???と思いながら、静寂のまま進んでいく映像をただひたすら眺めていた感じだった。でも徐々に、なんとなくだが状況が理解できるようになってきた。そして、少年の両肩に載せるにはあまりにも過酷すぎる現実を、少年が表情をほとんど変えずに過ごす様に、次第に狂気を感じるようになっていった。そして少年の無表情さは、少年を厳しい状況に追い込んでいく大人たちの残酷さを一層際立てることにもなる。
この映画は、とにかく「言葉」が少ない。10分以上誰もセリフを喋らない、なんて場面は、この映画には随所に存在する。それに、誰かが喋るシーンであっても、それが主人公ではないことがほとんどだ。主人公の少年は、3時間の中で、10センテンスぐらいしか喋ってないんじゃないかと思う。
そして、可能な限り言葉を排除することで、現実の暴力さがより鮮明になっている、という気がする。言葉で説明してもらわないと分からない部分は多々あるのだが、しかし、この映画で描かれる暴力さだけは、言葉を必要としない残虐さがある。そういう状況に至った流れは不明ながらも、少年が置かれている状況の狂気は、まったくもって説明不要だ。そして、何もかもまったく説明されないことで、唯一明確に伝わってくる「暴力さ」の輪郭が鋭敏になっていくのだ。さらに、その過酷な環境において、少年が表情をほとんど揺るがせにしない、という事実は、別の意味での狂気を運んでくる。
さらに、モノクロで展開される映像が、とにかく「美しい」のだ。これも、ありあまる違和感として届く。描いているものは、人間の最も「醜い」姿であるにも関わらず、画面全体は恐ろしく「美しい」。これは、「醜さ」を描く対比としての「美しさ」という意味ももちろんあるだろうけど、同時に、「美しいからまだ観ていられる」という要素にもなる。ヴェネツィア国際映画祭では、描写の過酷さから途中退場者が続出したという(しかし最後には10分間のスタンディングオベーションが起こり、『ジョーカー』以上に話題になったという)。確かに、目を背けたくなるような理不尽で暴虐な現実の連続だ。しかし、映像の美しさが、それを若干緩和してくれていると思う。モノクロにしたのも、同じ理由だろうか(血などが生々しくならないように、みたいな)。いずれにしても、映像はとても美しい。
少年の視点から物語を見ていると、「誰か助けてやれよ」と思う。でも同時に考えるのは、「自分がその場にいたら、助けられるか?」ということ。仮に少年がユダヤ人じゃなかったとしても、戦争中は誰もが自分のことで精一杯だろう。どこの誰とも知らない少年を助ける余裕があったかどうか。しかも彼はユダヤ人だ。自分自身がユダヤ人に対して何の感情も持っていなくても、その時代、周囲の人間があからさまなユダヤ人差別を行っている。話を矮小化すれば、クラスでいじめられてる子を助けられるか、ということなのだけど、そう簡単ではないだろう。そういう意味で、裏の思惑があったとしても少年に手を差し伸べた人間は、差し伸べなかった人間よりマシだったりするのだろうか、などと考えてしまう。その結論に「YES」と答えたくはないが、しかし、何もしなかった人間に批判する余地もないと思う。
人間の醜さは、いつでも現れうるが、戦争のような外的要因によってさらに容易に現れてしまうだろう。自分が「醜く」ならないためにも、やはり、戦争からは遠ざかっていたいと思う。
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