「千と千尋の神隠し」を観に行ってきました
しかしジブリ作品は不思議だ。
意味がわからないのに面白い。
先日観た映画が、ちょっと僕には理解できないタイプのものだった。そしてその映画は、僕にとって、「理解できない”から”面白くない映画」という認識になった。
同じように、「千と千尋の神隠し」も、ストーリーは基本的に意味不明だ。なんのこっちゃ、という感じである。でも、同じように理解できない映画だったのに、「千と千尋の神隠し」は「理解できない”けど”面白い映画」という認識になる。
この2つの違いは、一体なんだろう?
映画を観ながら、一つ感じたことは、ストーリー以外の部分の「分かりやすい楽しさ」みたいなものをふんだんに盛り込んでいるからかもしれない、ということだ。釜爺の手の動きとか、湯婆婆のあり得ない頭身とか、両親がブタになっちゃうとか。あるいは、途中から千尋についてくることになる、小さくなった坊とか。ストーリーの部分についても、わけわからない部分は多々ある一方で、千尋とハクの関係性は、割とベタな恋愛っぽく描いている。
基本的には何が描かれてるんだかさっぱりわからないんだけど、要所要所、断片断片での面白さみたいなものはこれでもかっていうぐらいに入れ込んでくる。なんだかよくわからないけど、目の前の場面場面は楽しい感じで展開している、という感覚が連続することで、最後まで楽しく見れてしまうんだろうなぁ、とちょっと思った。
しかし、ストーリーはわけがわからん。でも、考えてみれば、「わけがわからん」と思わせるのも、それはそれで凄いことだと思う。
この映画は、ジャンル分けをするとすれば「ファンタジー」ということになると思うけど、ファンタジーというジャンルは割と、「何が起こってもいい」という世界観で描かれることが多いはずだ。もちろん、その背後に明確な理屈があるという場合もあるだろうが、理屈抜きで不思議なことが展開していく物語なんて、ファンタジーにはいくらでもあるんじゃないかと思う。
でも、ジブリ作品は、「何かあるんじゃないか」と思わせる奥行きがあるように思う。表向きは、「何が起こってもいい」というファンタジーなんだけど、実際はその裏に、何か明確で鋭いメッセージ性があるんじゃないか…。たぶん、そういう推測をしているからこそ、「わけがわからん」という評価になるのだ。純粋に、「何が起こってもいい」というファンタジーとして受け入れるのであれば、「わけがわからん」と思う必要はないからだ。
映画館で再上映されたジブリ作品の内、「もののけ姫」「風の谷のナウシカ」「千と千尋の神隠し」の三作品を観た。最初の2つは、核となるテーマ性は分かりやすい。自然との共生だ。それ以上に、どういうことが描かれているのかは僕にはうまく捉えきれないけど、自然との共生が描かれている、ということは分かる。
でも、「千と千尋の神隠し」の場合、そのレベルの理解も出来ない。核となるテーマは、一体なんなんだろう?「八百万の神が身体を休める油屋」とか「契約すれば名前を失う」とか「仕事をしなければここにはいられない」などなど、色々気になる設定や状況は出てくるのだけど、何を中心軸として捉えるのが正解なのか、よくわからない。まあ、「正解」というのは特には存在しないのかもしれないけど。ジブリ作品のプロデューサーである鈴木敏夫の本を読んだことがあるのだけど、宮崎駿は、どういう展開になるのか自分でもわからないまま絵コンテを描き始め、最終的に鈴木敏夫に「これってどうやって終わらせればいいんだろう?」と相談することもあるという。つまり、宮崎駿自身の内部にも「言語化された正解」というのは存在しないのだろう。もちろん、こういうのを読み解いて言語化するのが得意な人というのはいて、何らかの説明が色々となされているのだろうけど、そういう様々な解釈が許容される、というのがやはり良質な作品なんだろうな、という気がする。
ちなみに、鈴木敏夫の本には、「千と千尋の神隠し」をどんな作品にディレクションするか悩んだと書かれていた。結果的には、今公開されているようなものになったが、当初は、これはマズイんじゃないかと思っていたそうだ。子供にトラウマみたいなものを与える作品になってしまうんじゃないか、と恐れたという。また同じ本の中に、こんなエピソードも書かれていた。「千と千尋の神隠し」の宣伝を、千尋とカオナシのビジュアルで行うことに鈴木敏夫が決めた後、宮崎駿が「どうしてカオナシで宣伝してるんだ?」と飛び込んできたという。鈴木敏夫が、「だってこれ、カオナシの話でしょう?」と宮崎駿に言うと、「そうか、そうだったのか」というようなことを言った、という話だった。面白い話である。
さて、「千と千尋の神隠し」を初めて観たのがいつだったのかまったく覚えていないし、その時自分が何歳だったかもわからないし、当時の感じ方も覚えていない。でも、今日観て強く感じたことは、「冒頭の千尋は、メチャクチャ不安だよなぁ」ということだ。昔の自分がどう感じていたか覚えていないにも関わらず、たぶんこんな感じ方はしていなかったような確信だけはあって、だから、ちょっと年を取ったなぁ、という気分になった。
友達と別れて田舎に引っ越しというまさにその日に、お調子者の両親のせいで変な世界に足を踏み入れてしまう(しかも母親は、「あんまりくっつかないで、歩きにくいから」と言ったり、千尋の歩調に合わせようとしなかったりと、自分の子供へのそこはかとない無関心さが描かれているように僕には感じられた)。両親は、意味不明にブタになり、やってきた道に帰れなくなり、結局なんだかさっぱりわからないまま、化け物みたいな連中と一緒に働くことになるのだ。
メチャクチャ怖いよなぁ、と思った。自分だったら、釜爺のところまではたどり着けるかもだけど、そこから先は無理だったかもなぁ。仮に湯婆婆のところまでたどり着けても、湯婆婆に「さっさと帰れ」みたいに言われたら、粘れないだろうなぁ、と。もちろん千尋としては、両親を助けなきゃという気持ちが強かっただろうし、それで踏ん張れたのはあっただろうけど、いやーよく頑張ったなぁ、なんて視点で冒頭しばらく観てしまった。僕は別に子供はいないんだけど、なんとなく親目線みたいな。
しかし、やっぱり謎だな。あのカオナシってのは、なんなんだ???
「千と千尋の神隠し」を観に行ってきました
意味がわからないのに面白い。
先日観た映画が、ちょっと僕には理解できないタイプのものだった。そしてその映画は、僕にとって、「理解できない”から”面白くない映画」という認識になった。
同じように、「千と千尋の神隠し」も、ストーリーは基本的に意味不明だ。なんのこっちゃ、という感じである。でも、同じように理解できない映画だったのに、「千と千尋の神隠し」は「理解できない”けど”面白い映画」という認識になる。
この2つの違いは、一体なんだろう?
映画を観ながら、一つ感じたことは、ストーリー以外の部分の「分かりやすい楽しさ」みたいなものをふんだんに盛り込んでいるからかもしれない、ということだ。釜爺の手の動きとか、湯婆婆のあり得ない頭身とか、両親がブタになっちゃうとか。あるいは、途中から千尋についてくることになる、小さくなった坊とか。ストーリーの部分についても、わけわからない部分は多々ある一方で、千尋とハクの関係性は、割とベタな恋愛っぽく描いている。
基本的には何が描かれてるんだかさっぱりわからないんだけど、要所要所、断片断片での面白さみたいなものはこれでもかっていうぐらいに入れ込んでくる。なんだかよくわからないけど、目の前の場面場面は楽しい感じで展開している、という感覚が連続することで、最後まで楽しく見れてしまうんだろうなぁ、とちょっと思った。
しかし、ストーリーはわけがわからん。でも、考えてみれば、「わけがわからん」と思わせるのも、それはそれで凄いことだと思う。
この映画は、ジャンル分けをするとすれば「ファンタジー」ということになると思うけど、ファンタジーというジャンルは割と、「何が起こってもいい」という世界観で描かれることが多いはずだ。もちろん、その背後に明確な理屈があるという場合もあるだろうが、理屈抜きで不思議なことが展開していく物語なんて、ファンタジーにはいくらでもあるんじゃないかと思う。
でも、ジブリ作品は、「何かあるんじゃないか」と思わせる奥行きがあるように思う。表向きは、「何が起こってもいい」というファンタジーなんだけど、実際はその裏に、何か明確で鋭いメッセージ性があるんじゃないか…。たぶん、そういう推測をしているからこそ、「わけがわからん」という評価になるのだ。純粋に、「何が起こってもいい」というファンタジーとして受け入れるのであれば、「わけがわからん」と思う必要はないからだ。
映画館で再上映されたジブリ作品の内、「もののけ姫」「風の谷のナウシカ」「千と千尋の神隠し」の三作品を観た。最初の2つは、核となるテーマ性は分かりやすい。自然との共生だ。それ以上に、どういうことが描かれているのかは僕にはうまく捉えきれないけど、自然との共生が描かれている、ということは分かる。
でも、「千と千尋の神隠し」の場合、そのレベルの理解も出来ない。核となるテーマは、一体なんなんだろう?「八百万の神が身体を休める油屋」とか「契約すれば名前を失う」とか「仕事をしなければここにはいられない」などなど、色々気になる設定や状況は出てくるのだけど、何を中心軸として捉えるのが正解なのか、よくわからない。まあ、「正解」というのは特には存在しないのかもしれないけど。ジブリ作品のプロデューサーである鈴木敏夫の本を読んだことがあるのだけど、宮崎駿は、どういう展開になるのか自分でもわからないまま絵コンテを描き始め、最終的に鈴木敏夫に「これってどうやって終わらせればいいんだろう?」と相談することもあるという。つまり、宮崎駿自身の内部にも「言語化された正解」というのは存在しないのだろう。もちろん、こういうのを読み解いて言語化するのが得意な人というのはいて、何らかの説明が色々となされているのだろうけど、そういう様々な解釈が許容される、というのがやはり良質な作品なんだろうな、という気がする。
ちなみに、鈴木敏夫の本には、「千と千尋の神隠し」をどんな作品にディレクションするか悩んだと書かれていた。結果的には、今公開されているようなものになったが、当初は、これはマズイんじゃないかと思っていたそうだ。子供にトラウマみたいなものを与える作品になってしまうんじゃないか、と恐れたという。また同じ本の中に、こんなエピソードも書かれていた。「千と千尋の神隠し」の宣伝を、千尋とカオナシのビジュアルで行うことに鈴木敏夫が決めた後、宮崎駿が「どうしてカオナシで宣伝してるんだ?」と飛び込んできたという。鈴木敏夫が、「だってこれ、カオナシの話でしょう?」と宮崎駿に言うと、「そうか、そうだったのか」というようなことを言った、という話だった。面白い話である。
さて、「千と千尋の神隠し」を初めて観たのがいつだったのかまったく覚えていないし、その時自分が何歳だったかもわからないし、当時の感じ方も覚えていない。でも、今日観て強く感じたことは、「冒頭の千尋は、メチャクチャ不安だよなぁ」ということだ。昔の自分がどう感じていたか覚えていないにも関わらず、たぶんこんな感じ方はしていなかったような確信だけはあって、だから、ちょっと年を取ったなぁ、という気分になった。
友達と別れて田舎に引っ越しというまさにその日に、お調子者の両親のせいで変な世界に足を踏み入れてしまう(しかも母親は、「あんまりくっつかないで、歩きにくいから」と言ったり、千尋の歩調に合わせようとしなかったりと、自分の子供へのそこはかとない無関心さが描かれているように僕には感じられた)。両親は、意味不明にブタになり、やってきた道に帰れなくなり、結局なんだかさっぱりわからないまま、化け物みたいな連中と一緒に働くことになるのだ。
メチャクチャ怖いよなぁ、と思った。自分だったら、釜爺のところまではたどり着けるかもだけど、そこから先は無理だったかもなぁ。仮に湯婆婆のところまでたどり着けても、湯婆婆に「さっさと帰れ」みたいに言われたら、粘れないだろうなぁ、と。もちろん千尋としては、両親を助けなきゃという気持ちが強かっただろうし、それで踏ん張れたのはあっただろうけど、いやーよく頑張ったなぁ、なんて視点で冒頭しばらく観てしまった。僕は別に子供はいないんだけど、なんとなく親目線みたいな。
しかし、やっぱり謎だな。あのカオナシってのは、なんなんだ???
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