法廷遊戯(五十嵐律人)
堅苦しい法律の話がたくさん出てくる。キナ臭い事件もたくさん起こる。
それなのに、清々しい。
怒涛のどんでん返しも凄かったが、この点が一番見事だと思った。
新人のデビュー作とは思えない骨太の物語だ。
過去は変えられないが、過去の解釈なら変えることができる。
例えば。
本書の主人公の一人である久我清義はかつて、人を刺したことがある。詳しい理由は書かないが、それは、正義を貫くための行動だった。彼は人を刺したことを、「正義のための行動だ」と捉えることもできる。
一方で彼は、傷害事件を起こしたことで鑑別所に入れられたことで、期せずして法律と出会う。【感情が入り込む余地がない学問は、ただひたすらに学んでいて心地良かった】と思った彼は、法律の世界を目指そうと決める。つまり彼は、人を刺したことを、「法律と出会うための行動だ」と捉えることもできる。
「人を刺した」という過去は変えられない。しかし、「人を刺した」という過去をどう解釈するかは、自分次第だ。
そして、自分次第だから難しい。
【生きるためです】
清義が出会った少女は、自分の行動にそう理由付けをする。
【皆が幸せになってるんです。これのどこが悪いことなんですか?】
墓のお供え物を盗んで食べていた男は、清義にそう問いかける。・
「解釈」というのは、いかようにでもすることが出来る。だから、人の数だけバリエーションがあると言っていい。
気をつけなければ、自分にとって都合の良い「解釈」を人間は選んでしまう。「選んだ」という自覚さえないまま、その「解釈」が「現実そのもの」であったかのような錯覚すら、人間にはお手の物だ。
そうなればなるほど、「過去」と「過去の解釈」は乖離していくだろう。そういう意味で、過去の解釈の変更は、慎重になされなければならない。
さて。本作は、「過去の解釈」を変える物語ではない。
「過去」そのものを変えようという物語だ。
タイムマシンなどのSF的な道具立てを一切使うことなしに「過去」そのものを変える。それは、あまりに野心的な試みだと言っていいだろう。そして、その無謀な挑戦に、本書は見事に成功している(誰にとっての成功であるかは、難しい問いだが)。
あまりに無謀なその挑戦を、是非確かめてみてほしい。
内容に入ろうと思います。
久我清義と織本美鈴は共に法都大ロースクールに通っている。底辺ロースクールと揶揄され、過去5年司法試験合格者を出していない。清義も美鈴も成績優秀であるのだが、金銭的な面でこのロースクールを選ぶしかなかった。
最終学年21人は、模擬法廷を使ってよく「無辜ゲーム」を行っている。「無辜ゲーム」が開かれる条件は、「刑罰法規に反する罪を犯すこと」「サインとしての天秤を残すこと」の2つだ。この条件が満たされると、同じ学年の結城馨が審判者となって、「無辜ゲーム」が開かれる。告訴者(被害者)が証人に質問をし、それらを元に罪を犯した人物を指定する。審判者が抱いた心証と告訴者の指定が一致すれば告訴者の訴えが認められ、罪を犯した人物に罰が与えられるというものだ。結城は既に司法試験に合格している秀才であり、こんな底辺ロースクールに在籍している理由ははっきり言って良くわからないが、そんな結城が審判者として裁定するというのが、この「無辜ゲーム」が成立している一つの側面である。
清義は初めて告訴者となった。理由は、彼が「けやきホーム」という児童養護施設で育ったこと、そしてその施設長をナイフで刺したと書かれたチラシが配られたからだ。犯人はまもなく判明するが、この事件は清義に嫌な予感を抱かせた。
しばらくして、同じ施設で育った美鈴に対する嫌がらせが始まることになった。犯人を捉えようと行動する美鈴だったが、結局のところ、その嫌がらせについても、確たることは分からないままうやむやになって終わってしまう。
それから時が経ち、司法修習へと進むことを決めた清義と美鈴。就職活動もし、いよいよ弁護士としての活動が始まろうというその矢先。久々に結城からメールがきた。
「久しぶりに、無辜ゲームを開催しよう-」
そのメールが、清義の未来を大きく変えていくことになる…。
というような話です。
これは凄い物語だった!冒頭でも書いたけど、とてもじゃないけど新人のデビュー作とは思えない作品でした。現実の法解釈の元で、実際に起こってもおかしくはない「殺人事件を扱う裁判での超絶的な大逆転」が描かれるこの作品は、単なる物語ではない。本書で、薄氷を踏むような精緻さで組み上げられた展開は、そのまま、僕らが生きる現実に対する挑戦状でもあると言えるだろう。
そこには、法治国家の根幹への揺らぎ、みたいなものがある。
本書に登場する「無辜ゲーム」が成立する理由は、「誰もが結城の判断を受け入れる」という前提があるからだ。何故受け入れるのか、という理由は書かないが、結城が優等生だから、というだけではない理由がある。
ルールも同じだ。誰もがルールを守るためには、「ルールが定めた判断を誰もが受け入れる」という前提が無ければならない。詳しい法律論は知らないが、これが法治国家の大前提だろう。
しかし、どれほど矛盾を排除しようと努力しても、どれほど完全を目指そうとしても、ルールは完璧には仕上がらない。人間の人間による人間のためのルールである以上、それはどこまで磨き上げたところで歪さは残る。そして、その僅かに残った歪さの落とし穴に落ち込んでしまう人というのは必ず出てくる。
日本の刑法も、そういう歪さを内包している可能性については決して無視してはいない。間違ってその歪さに落ち込んでしまった者に対してどうするか、それもきちんと定められている。しかし、定められている”だけ”と言うことも出来る。
結城がこんな風に言う場面がある。
【僕の前に十人の被告がいるとしよう。被告人のうち、九人が殺人犯で一人が無辜であることは明らからしい。九人は、直ちに死刑に処されるべき罪人だ。でも、誰が無辜なのかは最後まで分からなかった。十人に死刑を宣告するのか、十人に無罪を宣告するのか-。審判者にはその判断が求められる。殺人鬼を社会に戻せば、多くの被害者が生まれてしまうかもしれない。だけど僕は、迷わずに無罪を宣告する。一人の無辜を救済するために】
僕は、迷う。
最終的な結論は同じかもしれない。僕も、一人の無辜を救済するために、十人全員に無罪を宣告するかもしれない。やはり、罪を犯していない人間が不利益を被ることは避けたいと思うからだ。
でも、僕は迷う。本当に、その判断でいいのだろうか、と。人数の問題ではないが、一人の無辜を救済することで、九人の罪人が百人の人間を殺す結果に繋がったら、僕は自分の判断を正しいと信じきれるか、自信がない。
この物語では、徹頭徹尾「ルール」が物を言う。
【俺は、倫理や道徳という曖昧な基準を信用していない】
【それでも、ルールに反していない以上、私は選択しなくちゃいけない】
【有罪判決が確定したときは、憎むことにするよ】
昨日ニュース番組を見ていたら、コメンテーターが「でも、この法律が出来たから、『法律違反』と言うことが出来るようになったんですよ」という発言をしていた。確かにそうだろう。ルールがそもそも存在しなければ、ルール違反も存在しない。
しかし、ルールが生まれることで、ルール違反が生まれてしまうことにもなる。
「赤信号で渡ってはいけない」というルールは、本来的には「歩行者とドライバーの安全を守るため」のルールだ。だから、深夜、まったく車通りのない通りの信号が赤だったとしても、歩行者とドライバーの安全が明らかに確保されているという状態なのだから、ルールを無視することは許されるのではないか、という気持ちが僕の中にある。つまり、「安全」が優位の概念であり、その「安全」を実現するための下位概念として「ルール」が存在するという認識だ。
しかし、「赤信号では渡ってはいけない」というルールが一度生まれると、「安全」よりも「ルール」の方が優位の概念として受け取られやすい。というか、法律論で言えば、それがきっと正しいのだろう。「誰しもがルールを守って行動する」という了解こそが、ルールを真っ当に機能させる唯一の方法だからだ。しかしそれでも、「危険」を回避するために生み出されたルールが「危険」とは無縁の状況下においてもその強さを遺憾なく発揮してくることに、違和感を覚えることはある。
さらに。ルールが明確化されればされるほど、悪用もしやすくなっていく。ルールがはっきりしているほど、そのルールを通り抜けることさえ出来れば、善でも悪でも関係なくなっていく。というか、ルールを通り抜けたものは善である、というシンプルな諒解が、悪を覆い隠すことに役立ってくれる。
ルールというものはそもそも、そういう矛盾を孕んでしまうものだ。
しかし、普段刑法などに直接的に接する機会のない僕らには、そういう矛盾を実感する機会さえあまりないと言っていい。
そういう我々にとって、本書は、ルールの矛盾を鮮やかに見せつけてくれる作品だ。まさに、「ルールを通り抜けたものは善である」という諒解を逆手にとって、法廷にあり得ない情景を現出させる、魔法のような物語なのだ。
僕らが生きている現実は、様々な解釈が許容されるが、法律という名のルールが切り取る解釈は、無条件に上位に置かれる。その問答無用さは、日常生活の中では感じ取ることができない。一般人が法律という名のルールに触れなければならない時、既にその横暴さに蹂躙されてしまっている時だと言っていいだろう。
だから、
【正義の味方になりたいのなら、正しい知識を身に着ける必要があるんだよ】
ということになるのだろう。
今回は、何を書いてもネタバレになってしまうかもしれないと思って、ほぼ内容に触れないまま感想を書いた。聞き慣れない法律の話も多分に登場するし、無味乾燥にしか感じられない法律の世界のことに興味を持てない人もいるかもしれない。しかし本書は、読んでみれば分かるが、乾ききった世界ではない。それどころか、「法律」という、知識のない者にはモノクロ画像にしか見えないようなものが、突然カラー画像に変わったかのような驚きを味わうことが出来る。法廷で、あり得ない劣勢をいかにひっくり返すのかという点は、確かにこの物語の白眉ではある。しかし、「どんでん返しが凄い」から凄いのではない。この作品は、「僕らが生きている世界が立脚している土台の脆さ」みたいなものを、現実を通じてではなく、物語を通じて実感させるという離れ業に挑んでいる作品だから凄いと思うのだ。
「ルールを通り抜けたものは善」という判断だけでは、捉えきれない現実が存在する。日常生活では実感できないこの感覚から遠ざからないでいられるように、この物語の力を借りよう。ド級のエンタメ作品でありながら、社会を両断する切れ味を持つ、この作品の力を。
五十嵐律人「法廷遊戯」
それなのに、清々しい。
怒涛のどんでん返しも凄かったが、この点が一番見事だと思った。
新人のデビュー作とは思えない骨太の物語だ。
過去は変えられないが、過去の解釈なら変えることができる。
例えば。
本書の主人公の一人である久我清義はかつて、人を刺したことがある。詳しい理由は書かないが、それは、正義を貫くための行動だった。彼は人を刺したことを、「正義のための行動だ」と捉えることもできる。
一方で彼は、傷害事件を起こしたことで鑑別所に入れられたことで、期せずして法律と出会う。【感情が入り込む余地がない学問は、ただひたすらに学んでいて心地良かった】と思った彼は、法律の世界を目指そうと決める。つまり彼は、人を刺したことを、「法律と出会うための行動だ」と捉えることもできる。
「人を刺した」という過去は変えられない。しかし、「人を刺した」という過去をどう解釈するかは、自分次第だ。
そして、自分次第だから難しい。
【生きるためです】
清義が出会った少女は、自分の行動にそう理由付けをする。
【皆が幸せになってるんです。これのどこが悪いことなんですか?】
墓のお供え物を盗んで食べていた男は、清義にそう問いかける。・
「解釈」というのは、いかようにでもすることが出来る。だから、人の数だけバリエーションがあると言っていい。
気をつけなければ、自分にとって都合の良い「解釈」を人間は選んでしまう。「選んだ」という自覚さえないまま、その「解釈」が「現実そのもの」であったかのような錯覚すら、人間にはお手の物だ。
そうなればなるほど、「過去」と「過去の解釈」は乖離していくだろう。そういう意味で、過去の解釈の変更は、慎重になされなければならない。
さて。本作は、「過去の解釈」を変える物語ではない。
「過去」そのものを変えようという物語だ。
タイムマシンなどのSF的な道具立てを一切使うことなしに「過去」そのものを変える。それは、あまりに野心的な試みだと言っていいだろう。そして、その無謀な挑戦に、本書は見事に成功している(誰にとっての成功であるかは、難しい問いだが)。
あまりに無謀なその挑戦を、是非確かめてみてほしい。
内容に入ろうと思います。
久我清義と織本美鈴は共に法都大ロースクールに通っている。底辺ロースクールと揶揄され、過去5年司法試験合格者を出していない。清義も美鈴も成績優秀であるのだが、金銭的な面でこのロースクールを選ぶしかなかった。
最終学年21人は、模擬法廷を使ってよく「無辜ゲーム」を行っている。「無辜ゲーム」が開かれる条件は、「刑罰法規に反する罪を犯すこと」「サインとしての天秤を残すこと」の2つだ。この条件が満たされると、同じ学年の結城馨が審判者となって、「無辜ゲーム」が開かれる。告訴者(被害者)が証人に質問をし、それらを元に罪を犯した人物を指定する。審判者が抱いた心証と告訴者の指定が一致すれば告訴者の訴えが認められ、罪を犯した人物に罰が与えられるというものだ。結城は既に司法試験に合格している秀才であり、こんな底辺ロースクールに在籍している理由ははっきり言って良くわからないが、そんな結城が審判者として裁定するというのが、この「無辜ゲーム」が成立している一つの側面である。
清義は初めて告訴者となった。理由は、彼が「けやきホーム」という児童養護施設で育ったこと、そしてその施設長をナイフで刺したと書かれたチラシが配られたからだ。犯人はまもなく判明するが、この事件は清義に嫌な予感を抱かせた。
しばらくして、同じ施設で育った美鈴に対する嫌がらせが始まることになった。犯人を捉えようと行動する美鈴だったが、結局のところ、その嫌がらせについても、確たることは分からないままうやむやになって終わってしまう。
それから時が経ち、司法修習へと進むことを決めた清義と美鈴。就職活動もし、いよいよ弁護士としての活動が始まろうというその矢先。久々に結城からメールがきた。
「久しぶりに、無辜ゲームを開催しよう-」
そのメールが、清義の未来を大きく変えていくことになる…。
というような話です。
これは凄い物語だった!冒頭でも書いたけど、とてもじゃないけど新人のデビュー作とは思えない作品でした。現実の法解釈の元で、実際に起こってもおかしくはない「殺人事件を扱う裁判での超絶的な大逆転」が描かれるこの作品は、単なる物語ではない。本書で、薄氷を踏むような精緻さで組み上げられた展開は、そのまま、僕らが生きる現実に対する挑戦状でもあると言えるだろう。
そこには、法治国家の根幹への揺らぎ、みたいなものがある。
本書に登場する「無辜ゲーム」が成立する理由は、「誰もが結城の判断を受け入れる」という前提があるからだ。何故受け入れるのか、という理由は書かないが、結城が優等生だから、というだけではない理由がある。
ルールも同じだ。誰もがルールを守るためには、「ルールが定めた判断を誰もが受け入れる」という前提が無ければならない。詳しい法律論は知らないが、これが法治国家の大前提だろう。
しかし、どれほど矛盾を排除しようと努力しても、どれほど完全を目指そうとしても、ルールは完璧には仕上がらない。人間の人間による人間のためのルールである以上、それはどこまで磨き上げたところで歪さは残る。そして、その僅かに残った歪さの落とし穴に落ち込んでしまう人というのは必ず出てくる。
日本の刑法も、そういう歪さを内包している可能性については決して無視してはいない。間違ってその歪さに落ち込んでしまった者に対してどうするか、それもきちんと定められている。しかし、定められている”だけ”と言うことも出来る。
結城がこんな風に言う場面がある。
【僕の前に十人の被告がいるとしよう。被告人のうち、九人が殺人犯で一人が無辜であることは明らからしい。九人は、直ちに死刑に処されるべき罪人だ。でも、誰が無辜なのかは最後まで分からなかった。十人に死刑を宣告するのか、十人に無罪を宣告するのか-。審判者にはその判断が求められる。殺人鬼を社会に戻せば、多くの被害者が生まれてしまうかもしれない。だけど僕は、迷わずに無罪を宣告する。一人の無辜を救済するために】
僕は、迷う。
最終的な結論は同じかもしれない。僕も、一人の無辜を救済するために、十人全員に無罪を宣告するかもしれない。やはり、罪を犯していない人間が不利益を被ることは避けたいと思うからだ。
でも、僕は迷う。本当に、その判断でいいのだろうか、と。人数の問題ではないが、一人の無辜を救済することで、九人の罪人が百人の人間を殺す結果に繋がったら、僕は自分の判断を正しいと信じきれるか、自信がない。
この物語では、徹頭徹尾「ルール」が物を言う。
【俺は、倫理や道徳という曖昧な基準を信用していない】
【それでも、ルールに反していない以上、私は選択しなくちゃいけない】
【有罪判決が確定したときは、憎むことにするよ】
昨日ニュース番組を見ていたら、コメンテーターが「でも、この法律が出来たから、『法律違反』と言うことが出来るようになったんですよ」という発言をしていた。確かにそうだろう。ルールがそもそも存在しなければ、ルール違反も存在しない。
しかし、ルールが生まれることで、ルール違反が生まれてしまうことにもなる。
「赤信号で渡ってはいけない」というルールは、本来的には「歩行者とドライバーの安全を守るため」のルールだ。だから、深夜、まったく車通りのない通りの信号が赤だったとしても、歩行者とドライバーの安全が明らかに確保されているという状態なのだから、ルールを無視することは許されるのではないか、という気持ちが僕の中にある。つまり、「安全」が優位の概念であり、その「安全」を実現するための下位概念として「ルール」が存在するという認識だ。
しかし、「赤信号では渡ってはいけない」というルールが一度生まれると、「安全」よりも「ルール」の方が優位の概念として受け取られやすい。というか、法律論で言えば、それがきっと正しいのだろう。「誰しもがルールを守って行動する」という了解こそが、ルールを真っ当に機能させる唯一の方法だからだ。しかしそれでも、「危険」を回避するために生み出されたルールが「危険」とは無縁の状況下においてもその強さを遺憾なく発揮してくることに、違和感を覚えることはある。
さらに。ルールが明確化されればされるほど、悪用もしやすくなっていく。ルールがはっきりしているほど、そのルールを通り抜けることさえ出来れば、善でも悪でも関係なくなっていく。というか、ルールを通り抜けたものは善である、というシンプルな諒解が、悪を覆い隠すことに役立ってくれる。
ルールというものはそもそも、そういう矛盾を孕んでしまうものだ。
しかし、普段刑法などに直接的に接する機会のない僕らには、そういう矛盾を実感する機会さえあまりないと言っていい。
そういう我々にとって、本書は、ルールの矛盾を鮮やかに見せつけてくれる作品だ。まさに、「ルールを通り抜けたものは善である」という諒解を逆手にとって、法廷にあり得ない情景を現出させる、魔法のような物語なのだ。
僕らが生きている現実は、様々な解釈が許容されるが、法律という名のルールが切り取る解釈は、無条件に上位に置かれる。その問答無用さは、日常生活の中では感じ取ることができない。一般人が法律という名のルールに触れなければならない時、既にその横暴さに蹂躙されてしまっている時だと言っていいだろう。
だから、
【正義の味方になりたいのなら、正しい知識を身に着ける必要があるんだよ】
ということになるのだろう。
今回は、何を書いてもネタバレになってしまうかもしれないと思って、ほぼ内容に触れないまま感想を書いた。聞き慣れない法律の話も多分に登場するし、無味乾燥にしか感じられない法律の世界のことに興味を持てない人もいるかもしれない。しかし本書は、読んでみれば分かるが、乾ききった世界ではない。それどころか、「法律」という、知識のない者にはモノクロ画像にしか見えないようなものが、突然カラー画像に変わったかのような驚きを味わうことが出来る。法廷で、あり得ない劣勢をいかにひっくり返すのかという点は、確かにこの物語の白眉ではある。しかし、「どんでん返しが凄い」から凄いのではない。この作品は、「僕らが生きている世界が立脚している土台の脆さ」みたいなものを、現実を通じてではなく、物語を通じて実感させるという離れ業に挑んでいる作品だから凄いと思うのだ。
「ルールを通り抜けたものは善」という判断だけでは、捉えきれない現実が存在する。日常生活では実感できないこの感覚から遠ざからないでいられるように、この物語の力を借りよう。ド級のエンタメ作品でありながら、社会を両断する切れ味を持つ、この作品の力を。
五十嵐律人「法廷遊戯」
- 関連記事
-
- ファインマンさんの流儀 量子世界を生きた天才物理学者(ローレンス・M・クラウス) (2020/05/13)
- 重力とはなにか アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る(大栗博司) (2020/04/24)
- 人財島(根本聡一郎) (2020/09/24)
- アフリカにょろり旅(青山潤)<再読> (2020/01/22)
- シングルファーザーの年下彼氏の子ども2人と格闘しまくって考えた「家族とは何なのか問題」のこと(花田菜々子) (2020/03/30)
- 一門 ”冴えん師匠”がなぜ強い棋士を育てられたのか?(神田憲行) (2020/05/11)
- アストロボール 世界一を成し遂げた新たな戦術(ベン・ライター) (2020/02/26)
- ボクの彼氏はどこにいる?(石川大我) (2020/01/28)
- 大腸菌 進化のカギを握るミクロな生命体(カール・ジンマー) (2020/04/21)
- 世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学(近内悠太) (2020/04/07)
Comment
コメントの投稿
Trackback
http://blacknightgo.blog.fc2.com/tb.php/4007-cb0245e5