ハイパーハードボイルドグルメリポート(上出遼平)
たまたまテレビを見ていたら、とんでもない番組に出くわした。
そう、それが、本書の元となった「ハイパーハードボイルドグルメリポート」だ。
マジでヤバい番組だった。
こんなの放送して大丈夫なんだろうか、と思うほどに。
適当にチャンネルを回していて見つけたその番組を「見よう」と思った理由はちゃんとは覚えていない。
ただ、想像は出来る。
画面の隅の表示されていた番組タイトルの「グルメ」という単語と、映っている映像が、あまりにも乖離していたのだ。
僕が見たのは、ケニアのゴミ山で暮らしている少年だった。
そう、本書の一番最後に収録されている話だ。
【僕たちが目指すのは、ナイロビ中のゴミが一挙に押し寄せる「ダンドラ・ゴミ集積場」だ。
犯罪都市として悪名高いナイロビの中でも、とりわけ危険と言われるエリアが三つある。ひとつは、銃の密輸入と転売で荒稼ぎするソマリア人居住区の「イースリーエリア」。もうひとつは”パンガニ6”なるギャングが権勢を振るう「パンガニエリア」。そして最後がこのゴミ集積場を擁する「ダンドラエリア」である。アフリカ屈指の危険都市ナイロビにあって、その地を踏むのがどれほど危険かは推して知るべしというところか】
そもそも、向かおうとしている場所がヤバすぎるのだ。現地のガイドでさえ、このゴミ集積場には近づかないようにしていた、というほどだ。
「ダンドラエリア」に近づくと、こうなる。
【しかし、ほどなくして、そこはかとなく車内に臭気が漂った。
もしかしてと、試しに窓を少し開ける。直後、暴悪な刺激が目鼻を突いた。目を開けてはならぬ、息をしてはいけない、五感がそう訴えかけてくる。それはあまりにも凶猛で、実際僕にはそのにおいの色が見えた。うっすらと黄土色をしたにおいの粒子がわずかに開けた窓の隙間からするりと入り込んで充満したのだ。
それほど、これまでの人生で経験したことがないほど、臭いのだ。】
当たり前と言えば当たり前だ。このゴミ集積場は25ヘクタールにも及ぶ広大な土地があり、一日に850トンものゴミがやってくるのだ。尋常ではない。
さて、そんな場所に来てこの著者(というか番組ディレクターか)は何をしようとしているのか。
【「ヤバい世界のヤバい奴らは何食ってんだ?」
番組の掲げる旗印はたった一つ。普通は踏み込めないようなヤバい世界に突っ込んで、そこに生きる人々の飯を撮りに行く。いかにも粗暴、いかにも俗悪。
しかし、実際に見たヤバい奴らの食卓は、ヤバいくらいの美しさに満ちていた】
著者はこんな風に言っているが、画面越しに見ているだけでも、著者が相当にぶっ飛んだ橋を渡っていることは理解できる。
例えば、このゴミ山には家畜がいる。ゴミ山には養分がたくさんあるからと言って連れてくるのだ。このゴミ山で飼育されている豚は、他の地域の豚と比べて血中の鉛濃度が35倍だという。人間は、鉛を摂取すると、脳を始め様々な器官に悪影響をもたらす。
ということを知った上で著者は豚を食べる。
【この豚の血液が、鉛に侵されているのだ。
食ってみたい―。
鉛に侵された豚の味を確かめてみたい。】
マジで何なんだコイツは、と思う。はっきり言ってこの著者が一番ヤバいのかもしれないと思う。
こんなヤバい話はいくらでもある。同じくゴミ山の取材の際には、警察の同行を断っている。
【ゴミ山に踏み込む幾らか手前で、鈍く銀色に光る自動小銃を下げた男たちが我々を待ち受けていた。武装した警官と落ち合ったのだ。
それがここを取材する際のルールだとディボゴ(※現地ガイド)は言った。踏み入る前に隣接する警察署に申請し、話を通しておくこと。それ自体には大いに賛成だ。いざという時の助けがあるのは心強い。問題だったのは、彼らが我々の護衛について回ると言って聞かないことだ。警察官に言わせれば、今まで護衛なしでこのゴミ山に入ったメディアは存在していないのだからその通例に従えということだった。至極真っ当な話である。しかし僕はそれを断じて撥ね除けなければならなかった。仮にこのゴミ山の先でよき出会いがあったとする。その僕のうしろに四丁も五丁も自動小銃が構えられている中で、僕はどうしてその者と話ができようか。その人は僕に飯を一口恵んでくれるだろうか。くれたとしても、それはほとんど恐喝ではないか。そんな横柄ずくでは何も撮れない。
だから僕は彼らの同行を断るために、情理を尽くして説得をした】
もちろん、著者の言い分も理解できる。理解できるが、しかし、100人いれば98人ぐらいは、警官の言っていることが正しい、と言うだろう。どう考えたって、著者の方が間違っている。このゴミ山の取材でも、他の取材でも、まさに一触即発、命が奪われるかどうかというギリギリのやり取りをしている。バケモンだと思う。
映像では、「警官の同行を断った」みたいな説明は、たぶんされていなかったはずだ。でも、見ていれば分かる。ただ映像を見ているだけで伝わる、圧倒的なヤバさに溢れていた。どう見ても、ヤバい。こんなところでカメラを回して「飯を食わせてくれ」とか言っている日本人がいるという事実がヤバすぎた。
そういう、画面越しにはみ出してくる圧倒的なヤバさに引きずられて、その番組をずっと見続けてしまった。
【東北にも沖縄にも電波の届かぬ”東京ローカル局”にあって、この番組に限ってはありとあらゆる言語に翻訳され、世界中で観られている】
まあそうだろう。こんなイカれた番組、普通は作ろうと思わないし、作れない。
【台本をなぞるようなテレビとは決別して、今ここに我々が本来やるべきことがある】
【この刃が僕たちの肉を切るのは時間の問題に思えた。
自分の生命が今脅かされている。しかし、その切迫した恐怖よりもこの瞬間の僕を苛んでいたのは、目の前の男たちにどうにか因果を含め、この場所を撮って帰らねばならぬという、ディレクターとしての責務の感覚だった。
カメラがなければ逃げ出していたかもしれないし、逃げようとすれば背を切られたかもしれない】
【ロケはスポーツだ。瞬間の判断の積み重ねがVTRを紡いでいく。カメラのモニターは観ずとも思った画が撮れなければ単独のロケは難しい。僕がこの日カメラを持つのは実に1年ぶりだった。そのブランクは大きい。それで僕は本丸のゴミ山に行く前の肩慣らしとして、銃取引の中心地へと向かったのだ】
こんな感覚を持っている著者じゃなければ、不可能な番組だっただろう。
本書で扱われている4つの物語をざっと紹介しておこう。詳しい内容は、是非読んでほしい。百万言を費やしても語れない凄さが本書にはあり、さらにそれを超えるだろう映像が待ち構えているのだから。
リベリアでは、「人食い少年兵」を探す。血で血を洗う内線が続いていたこの国では、両親を殺された少年が兵士として駆り出されていく。その中に、人を食った者がいる、という噂がある。そんな人物を探し出すために著者は動き出す。リベリアは、エボラ出血熱で多数の死者を出した国だが、しかし先進国に騙され続けたこの国の人たちは、「エボラ出血熱 など存在しない」「エボラ出血熱を治すと言って渡される薬で皆死んでいく」という陰謀論が当たり前のようにまかり通っている。
「元少年兵」たちが住むという、いくつかのヤバい地域に足を踏み入れていく。そこで、囲まれ、脅され、生命の危機に直面するが、著者は気力で踏み込んでいく。元政府軍兵士も、元反乱軍兵士も共に暮らすという異常な環境の中で、「元兵士」という理由で職に就けず、極貧生活を強いられている彼らは、しかしたくましく、日々を生きている。
台湾では、マフィアの飯を撮影する。裁判中だから映さないでくれという大物もいる、緊迫感溢れる状況で、「人を殺したことがあるんですか?」など、ギリギリの質問をしていく。台湾マフィアの複雑な関係性と、彼らがどのようなシノギをしているかなど、「質問は料理のことだけにしてくれ」と言われているにも関わらず突っ込んでいく。
ロシアでは元々、ロシアで最も汚染された都市であるノリリスクの取材をする予定だった。ニッケルの精錬過程で生まれる有害物質によって破滅的な環境汚染が引き起こされている土地で人々が何を食べているのか知ろうとした。しかし、ノリリスクにたどり着く前に諦めざるを得なかった。その後著者は、「カルト村」と呼ばれる場所の取材が出来ることになる。シベリアの森の奥深くにある、ヴィッサリオン教を信奉する人たちが大半を占める村で、警察官を辞めた男が教祖である。1990年に設立された新しい宗教団体で、世界中に信者は約5000人。その内、この村には2000人が住んでいる。著者はここで、ある取材の困難に直面する。宗教団体の人が、様々な家庭を案内してくれ、飯を食わせてくれるのだが、それらはすべて「キレイ」なのだ。教団は、良い部分だけを見せようとしている。なんとか、もっと彼らの裏側を見られないだろうか、と奮闘する。
そして最後が、冒頭で紹介したケニアのゴミ山である。
本書の帯に、King Gnuの井口理がこんなコメントを寄せている。
【グルメリポートと銘打ちながら「生きるってなんだろう」「人間ってなんだろう」と問いかけてくる番組が今まであったでしょうか。貧しくても、罪人でも、女でも男でも、みんな等しく平等に食べて生きている。おれたちみんな血の通った人間なんだと教えてくれる。すげー。】
まさに、という感じコメントである。
著者も冒頭でこう書いている。
【彼らの食卓に、我々は何を見るのか。世の中に黙殺されているヤバいものの蓋を剥ぎ取って、その中身を日本の食卓に投げつける。自分とは無関係の、裏の世界を見ているはずなのに、いつしかそこに自分自身の姿がたち現れる。そんな体験がここにはある】
そうなのだ。僕は、番組を見ていて印象的だと感じたシーンに、本書で再開した。
著者は、行く先々で、取材に応じてくれた人に、「ここでの生活は幸せ?」という質問をする。もちろん返答は様々なのだが、ゴミ山の少年の返答は非常に印象的だった。
【「ジョセフは今、幸せ?」
ジョセフはニコッと笑うと顎を上げてこちらを示して言った。
「あなたに会えたから幸せだよ――」】
僕はこの場面をテレビで見ていたけど、その時も凄いなと思ったし、改めて本で読んでまた凄いなと思った。
そんなこと、言えるような環境じゃないのだ。ジョセフは、ゴミ山に暮らしている。ゴミ山でゴミ山を拾う人はメチャクチャたくさんいるが、しかしそういう人たちもゴミ山そのものではなく、ゴミ山の周囲のスラム街に住んでいる。ゴミ山に住んでいる人物は、ジョセフともう一人ぐらいしかいない。
ジョセフは長男で、妹が2人、弟が3人いる。自分以外の妹弟は皆両親と共に暮らしているはずだ、という。彼だけが、ゴミ山で暮らしているのだ。14歳までは学校に通っていて、地域のサッカークラブでミッドフィルダーと活躍していたという。しかし、18歳の今、悪臭が漂い、アスベストに肺を汚染され、トラックの上でゴミを頭から被りながら生活をしているのだ。
そんな彼が、「あなたに会えたから幸せだよ」という。もはや、それが本心かどうかなんてことはどうでもいいのだ。この状況下で、本心であろうがなかろうが、そんなことを口に出来る、その精神力の高さに、僕は度肝を抜かれたのだ。「いつしかそこに自分自身の姿がたち現れる」。まさに。僕は、同じ状況で、同じことが言えるだろうか、と考えてしまった。
ジョセフの取材中、著者はこんな思いに駆られる。
【彼が頭からゴミを浴びるたび、その屈辱感を僕は痛いほど感じた。涙が出そうだった。
僕は取材をするときに、誰かを哀れむようなことだけはすまいと思っていた。実際、これまでのどんな取材でも、それは一度としてなかった。僕が僕自身と交わした牢固たる取り決めだった。しかしこの瞬間、僕は自分の中に憐憫の感情が湧き上がるのを抑えられなかった。】
そう、本書は、著者自身を描き出す作品でもある。
別の取材が終わった後、著者はこう感じる。
【彼らをここに残して、僕はこうしてひとり安全圏に戻ろうとしている。
けれど僕はもう知っていた。
この国には命が燃える美しさがある。いつもすぐそこに死がある状況で、彼らは地を這うように生きている。自分の境遇と折り合いをつけた者も、いつまでも折り合いのつかない者もいる。それでも彼らは今日もどうにか生きながらえて、飯を食う。飯を燃料に、彼らの命は萌えている。食うものは多様だ。その状況も多様だ。しかしそのさきでめらめらと揺らめく命の炎はどれも一様に赤く激しく美しい。風が吹けば千切られ、雨が降れば衰え、砂を被せれば失われる。しかしその砂の中でチカチカと生きながらえるように、この国の命は燃えている】
エボラ出血熱から生還した少女に、「何か変わりましたか?」と聞いて、「何も変わらない」という返答が返ってきたとき、こう感じる。
【命があれば幸せ。命さえあれば幸せ。何があっても命拾いしたからとても幸せ。
「不運+命拾い=幸せ」
日本ではそれが定型だ。
だから僕の「エボラから生還して何か変わった?」という質問には「はい。辛いことも悲しいこともたくさんあるけれど、でも生きているだけで幸せだって、改めて思っています」という答えが当然想定されていた。なぜならそれが日本の、もしくは日本のテレビをはじめとしたエンターテインメントの決まりごとだから。
しかし彼女は相変わらず不幸だった。生まれた時からずっと不幸だった。
自ら命を絶つこともんばく、ずっと不幸だった。
彼女が経験している現実は、僕たちが期待した都合のいい答えなんか露ほども寄せつけない。それほどに不幸だった】
「カルト宗教」と言われている教団内部を取材中、ガツンと頭を殴られたような経験をすることもあった。
【しかし、と彼は続けた。
「私はカルトが間違っていると言うつもりもありません。なぜなら、他人の正しさを私が判断するべきではないからです。あなたの正しさを私は判断すべきではないし、私の正しさをあなたが判断すべきでもない。それは大事なことなのです。」
人の正しさをあなたが判断するべきではない―
なんだか、予期せぬ角度から真理を打たれたような気がして、軽く目眩がした】
「正しい」という言葉の意味が、より一層分からなくなることもある。
【初めから僕の中の「正しさ」は曖昧だった。
「正しさ」が移ろいゆくことこそ真理だと考えていた。
そんな曖昧模糊とした「正しさ」でさえも、僕の中で改めて瓦解を始めていた】
著者は、このヤバい取材を通じて、どんどんと本質的な何かに近づいているように感じる。それは、日本にいては気づけない。日本にいて、日本の常識で日本人の振る舞いを見ているだけでは絶対に到達出来ない何かに、彼は触れようとしている。実際に、触れているかもしれない。しかし著者は、触れるギリギリで立ち止まる人だと思う。
何故なら、彼はきちんと理解している人だからだ。
【取材は暴力である。
その前提を忘れてはいけない。
カメラは銃であり、ペンはナイフである。
幼稚に振り回せば簡単に人を傷つける。・
カメラは万引きの瞬間を撮ることができるし、ペンは権力の不正を暴くことができる。
それがジャーナリズムの使命だと誰もが言うだろう。それはそうだ。
けれど、万引き犯も、権力者も、人間である。
僕らと同じ、人間である。
取材活動がどれだけ社会正義に即していようと、それが誰かの人生をねじ曲げるのであれば、それは暴力だと僕は思っている。どれだけの人を救おうが、その正しさは取材活動の免罪符にはなるけれど、暴力であることから逃してはくれない】
もちろん、本書には都合の悪いことは書いていないだろうし、番組でも都合の悪い部分は編集しているだろう。それを理解していることを前提に書くが、番組でも本書でも、不快感を抱かずに済むのは、著者のこのスタンスがあるからだろうと思う。著者は、ギリギリの生活をしている人たちのところにほとんど土足で入り込んでいって、人間の根源的な活動である「食べる」という行為を撮ろうとする。確かにそれは、暴力的だ。それでも、著者の奮闘は、不快感を与えない。
【けれどひとつだけ、僕の行いが許された気持ちになる瞬間がある。
「また来てね」
「あなたに会えてよかった」
別れ際、そう言ってくれる人たちがいる】
著者は、全身全霊で相手を理解しようとする。どんなにヤバい環境であっても、相手が食べているものを躊躇なく食べることが出来るのも、理解したいという気持ちの賜物だろうと思う。そのことが伝わる、ということが、この本や番組の、一番驚嘆すべき点かもしれない。
上出遼平「ハイパーハードボイルドグルメリポート」
そう、それが、本書の元となった「ハイパーハードボイルドグルメリポート」だ。
マジでヤバい番組だった。
こんなの放送して大丈夫なんだろうか、と思うほどに。
適当にチャンネルを回していて見つけたその番組を「見よう」と思った理由はちゃんとは覚えていない。
ただ、想像は出来る。
画面の隅の表示されていた番組タイトルの「グルメ」という単語と、映っている映像が、あまりにも乖離していたのだ。
僕が見たのは、ケニアのゴミ山で暮らしている少年だった。
そう、本書の一番最後に収録されている話だ。
【僕たちが目指すのは、ナイロビ中のゴミが一挙に押し寄せる「ダンドラ・ゴミ集積場」だ。
犯罪都市として悪名高いナイロビの中でも、とりわけ危険と言われるエリアが三つある。ひとつは、銃の密輸入と転売で荒稼ぎするソマリア人居住区の「イースリーエリア」。もうひとつは”パンガニ6”なるギャングが権勢を振るう「パンガニエリア」。そして最後がこのゴミ集積場を擁する「ダンドラエリア」である。アフリカ屈指の危険都市ナイロビにあって、その地を踏むのがどれほど危険かは推して知るべしというところか】
そもそも、向かおうとしている場所がヤバすぎるのだ。現地のガイドでさえ、このゴミ集積場には近づかないようにしていた、というほどだ。
「ダンドラエリア」に近づくと、こうなる。
【しかし、ほどなくして、そこはかとなく車内に臭気が漂った。
もしかしてと、試しに窓を少し開ける。直後、暴悪な刺激が目鼻を突いた。目を開けてはならぬ、息をしてはいけない、五感がそう訴えかけてくる。それはあまりにも凶猛で、実際僕にはそのにおいの色が見えた。うっすらと黄土色をしたにおいの粒子がわずかに開けた窓の隙間からするりと入り込んで充満したのだ。
それほど、これまでの人生で経験したことがないほど、臭いのだ。】
当たり前と言えば当たり前だ。このゴミ集積場は25ヘクタールにも及ぶ広大な土地があり、一日に850トンものゴミがやってくるのだ。尋常ではない。
さて、そんな場所に来てこの著者(というか番組ディレクターか)は何をしようとしているのか。
【「ヤバい世界のヤバい奴らは何食ってんだ?」
番組の掲げる旗印はたった一つ。普通は踏み込めないようなヤバい世界に突っ込んで、そこに生きる人々の飯を撮りに行く。いかにも粗暴、いかにも俗悪。
しかし、実際に見たヤバい奴らの食卓は、ヤバいくらいの美しさに満ちていた】
著者はこんな風に言っているが、画面越しに見ているだけでも、著者が相当にぶっ飛んだ橋を渡っていることは理解できる。
例えば、このゴミ山には家畜がいる。ゴミ山には養分がたくさんあるからと言って連れてくるのだ。このゴミ山で飼育されている豚は、他の地域の豚と比べて血中の鉛濃度が35倍だという。人間は、鉛を摂取すると、脳を始め様々な器官に悪影響をもたらす。
ということを知った上で著者は豚を食べる。
【この豚の血液が、鉛に侵されているのだ。
食ってみたい―。
鉛に侵された豚の味を確かめてみたい。】
マジで何なんだコイツは、と思う。はっきり言ってこの著者が一番ヤバいのかもしれないと思う。
こんなヤバい話はいくらでもある。同じくゴミ山の取材の際には、警察の同行を断っている。
【ゴミ山に踏み込む幾らか手前で、鈍く銀色に光る自動小銃を下げた男たちが我々を待ち受けていた。武装した警官と落ち合ったのだ。
それがここを取材する際のルールだとディボゴ(※現地ガイド)は言った。踏み入る前に隣接する警察署に申請し、話を通しておくこと。それ自体には大いに賛成だ。いざという時の助けがあるのは心強い。問題だったのは、彼らが我々の護衛について回ると言って聞かないことだ。警察官に言わせれば、今まで護衛なしでこのゴミ山に入ったメディアは存在していないのだからその通例に従えということだった。至極真っ当な話である。しかし僕はそれを断じて撥ね除けなければならなかった。仮にこのゴミ山の先でよき出会いがあったとする。その僕のうしろに四丁も五丁も自動小銃が構えられている中で、僕はどうしてその者と話ができようか。その人は僕に飯を一口恵んでくれるだろうか。くれたとしても、それはほとんど恐喝ではないか。そんな横柄ずくでは何も撮れない。
だから僕は彼らの同行を断るために、情理を尽くして説得をした】
もちろん、著者の言い分も理解できる。理解できるが、しかし、100人いれば98人ぐらいは、警官の言っていることが正しい、と言うだろう。どう考えたって、著者の方が間違っている。このゴミ山の取材でも、他の取材でも、まさに一触即発、命が奪われるかどうかというギリギリのやり取りをしている。バケモンだと思う。
映像では、「警官の同行を断った」みたいな説明は、たぶんされていなかったはずだ。でも、見ていれば分かる。ただ映像を見ているだけで伝わる、圧倒的なヤバさに溢れていた。どう見ても、ヤバい。こんなところでカメラを回して「飯を食わせてくれ」とか言っている日本人がいるという事実がヤバすぎた。
そういう、画面越しにはみ出してくる圧倒的なヤバさに引きずられて、その番組をずっと見続けてしまった。
【東北にも沖縄にも電波の届かぬ”東京ローカル局”にあって、この番組に限ってはありとあらゆる言語に翻訳され、世界中で観られている】
まあそうだろう。こんなイカれた番組、普通は作ろうと思わないし、作れない。
【台本をなぞるようなテレビとは決別して、今ここに我々が本来やるべきことがある】
【この刃が僕たちの肉を切るのは時間の問題に思えた。
自分の生命が今脅かされている。しかし、その切迫した恐怖よりもこの瞬間の僕を苛んでいたのは、目の前の男たちにどうにか因果を含め、この場所を撮って帰らねばならぬという、ディレクターとしての責務の感覚だった。
カメラがなければ逃げ出していたかもしれないし、逃げようとすれば背を切られたかもしれない】
【ロケはスポーツだ。瞬間の判断の積み重ねがVTRを紡いでいく。カメラのモニターは観ずとも思った画が撮れなければ単独のロケは難しい。僕がこの日カメラを持つのは実に1年ぶりだった。そのブランクは大きい。それで僕は本丸のゴミ山に行く前の肩慣らしとして、銃取引の中心地へと向かったのだ】
こんな感覚を持っている著者じゃなければ、不可能な番組だっただろう。
本書で扱われている4つの物語をざっと紹介しておこう。詳しい内容は、是非読んでほしい。百万言を費やしても語れない凄さが本書にはあり、さらにそれを超えるだろう映像が待ち構えているのだから。
リベリアでは、「人食い少年兵」を探す。血で血を洗う内線が続いていたこの国では、両親を殺された少年が兵士として駆り出されていく。その中に、人を食った者がいる、という噂がある。そんな人物を探し出すために著者は動き出す。リベリアは、エボラ出血熱で多数の死者を出した国だが、しかし先進国に騙され続けたこの国の人たちは、「エボラ出血熱 など存在しない」「エボラ出血熱を治すと言って渡される薬で皆死んでいく」という陰謀論が当たり前のようにまかり通っている。
「元少年兵」たちが住むという、いくつかのヤバい地域に足を踏み入れていく。そこで、囲まれ、脅され、生命の危機に直面するが、著者は気力で踏み込んでいく。元政府軍兵士も、元反乱軍兵士も共に暮らすという異常な環境の中で、「元兵士」という理由で職に就けず、極貧生活を強いられている彼らは、しかしたくましく、日々を生きている。
台湾では、マフィアの飯を撮影する。裁判中だから映さないでくれという大物もいる、緊迫感溢れる状況で、「人を殺したことがあるんですか?」など、ギリギリの質問をしていく。台湾マフィアの複雑な関係性と、彼らがどのようなシノギをしているかなど、「質問は料理のことだけにしてくれ」と言われているにも関わらず突っ込んでいく。
ロシアでは元々、ロシアで最も汚染された都市であるノリリスクの取材をする予定だった。ニッケルの精錬過程で生まれる有害物質によって破滅的な環境汚染が引き起こされている土地で人々が何を食べているのか知ろうとした。しかし、ノリリスクにたどり着く前に諦めざるを得なかった。その後著者は、「カルト村」と呼ばれる場所の取材が出来ることになる。シベリアの森の奥深くにある、ヴィッサリオン教を信奉する人たちが大半を占める村で、警察官を辞めた男が教祖である。1990年に設立された新しい宗教団体で、世界中に信者は約5000人。その内、この村には2000人が住んでいる。著者はここで、ある取材の困難に直面する。宗教団体の人が、様々な家庭を案内してくれ、飯を食わせてくれるのだが、それらはすべて「キレイ」なのだ。教団は、良い部分だけを見せようとしている。なんとか、もっと彼らの裏側を見られないだろうか、と奮闘する。
そして最後が、冒頭で紹介したケニアのゴミ山である。
本書の帯に、King Gnuの井口理がこんなコメントを寄せている。
【グルメリポートと銘打ちながら「生きるってなんだろう」「人間ってなんだろう」と問いかけてくる番組が今まであったでしょうか。貧しくても、罪人でも、女でも男でも、みんな等しく平等に食べて生きている。おれたちみんな血の通った人間なんだと教えてくれる。すげー。】
まさに、という感じコメントである。
著者も冒頭でこう書いている。
【彼らの食卓に、我々は何を見るのか。世の中に黙殺されているヤバいものの蓋を剥ぎ取って、その中身を日本の食卓に投げつける。自分とは無関係の、裏の世界を見ているはずなのに、いつしかそこに自分自身の姿がたち現れる。そんな体験がここにはある】
そうなのだ。僕は、番組を見ていて印象的だと感じたシーンに、本書で再開した。
著者は、行く先々で、取材に応じてくれた人に、「ここでの生活は幸せ?」という質問をする。もちろん返答は様々なのだが、ゴミ山の少年の返答は非常に印象的だった。
【「ジョセフは今、幸せ?」
ジョセフはニコッと笑うと顎を上げてこちらを示して言った。
「あなたに会えたから幸せだよ――」】
僕はこの場面をテレビで見ていたけど、その時も凄いなと思ったし、改めて本で読んでまた凄いなと思った。
そんなこと、言えるような環境じゃないのだ。ジョセフは、ゴミ山に暮らしている。ゴミ山でゴミ山を拾う人はメチャクチャたくさんいるが、しかしそういう人たちもゴミ山そのものではなく、ゴミ山の周囲のスラム街に住んでいる。ゴミ山に住んでいる人物は、ジョセフともう一人ぐらいしかいない。
ジョセフは長男で、妹が2人、弟が3人いる。自分以外の妹弟は皆両親と共に暮らしているはずだ、という。彼だけが、ゴミ山で暮らしているのだ。14歳までは学校に通っていて、地域のサッカークラブでミッドフィルダーと活躍していたという。しかし、18歳の今、悪臭が漂い、アスベストに肺を汚染され、トラックの上でゴミを頭から被りながら生活をしているのだ。
そんな彼が、「あなたに会えたから幸せだよ」という。もはや、それが本心かどうかなんてことはどうでもいいのだ。この状況下で、本心であろうがなかろうが、そんなことを口に出来る、その精神力の高さに、僕は度肝を抜かれたのだ。「いつしかそこに自分自身の姿がたち現れる」。まさに。僕は、同じ状況で、同じことが言えるだろうか、と考えてしまった。
ジョセフの取材中、著者はこんな思いに駆られる。
【彼が頭からゴミを浴びるたび、その屈辱感を僕は痛いほど感じた。涙が出そうだった。
僕は取材をするときに、誰かを哀れむようなことだけはすまいと思っていた。実際、これまでのどんな取材でも、それは一度としてなかった。僕が僕自身と交わした牢固たる取り決めだった。しかしこの瞬間、僕は自分の中に憐憫の感情が湧き上がるのを抑えられなかった。】
そう、本書は、著者自身を描き出す作品でもある。
別の取材が終わった後、著者はこう感じる。
【彼らをここに残して、僕はこうしてひとり安全圏に戻ろうとしている。
けれど僕はもう知っていた。
この国には命が燃える美しさがある。いつもすぐそこに死がある状況で、彼らは地を這うように生きている。自分の境遇と折り合いをつけた者も、いつまでも折り合いのつかない者もいる。それでも彼らは今日もどうにか生きながらえて、飯を食う。飯を燃料に、彼らの命は萌えている。食うものは多様だ。その状況も多様だ。しかしそのさきでめらめらと揺らめく命の炎はどれも一様に赤く激しく美しい。風が吹けば千切られ、雨が降れば衰え、砂を被せれば失われる。しかしその砂の中でチカチカと生きながらえるように、この国の命は燃えている】
エボラ出血熱から生還した少女に、「何か変わりましたか?」と聞いて、「何も変わらない」という返答が返ってきたとき、こう感じる。
【命があれば幸せ。命さえあれば幸せ。何があっても命拾いしたからとても幸せ。
「不運+命拾い=幸せ」
日本ではそれが定型だ。
だから僕の「エボラから生還して何か変わった?」という質問には「はい。辛いことも悲しいこともたくさんあるけれど、でも生きているだけで幸せだって、改めて思っています」という答えが当然想定されていた。なぜならそれが日本の、もしくは日本のテレビをはじめとしたエンターテインメントの決まりごとだから。
しかし彼女は相変わらず不幸だった。生まれた時からずっと不幸だった。
自ら命を絶つこともんばく、ずっと不幸だった。
彼女が経験している現実は、僕たちが期待した都合のいい答えなんか露ほども寄せつけない。それほどに不幸だった】
「カルト宗教」と言われている教団内部を取材中、ガツンと頭を殴られたような経験をすることもあった。
【しかし、と彼は続けた。
「私はカルトが間違っていると言うつもりもありません。なぜなら、他人の正しさを私が判断するべきではないからです。あなたの正しさを私は判断すべきではないし、私の正しさをあなたが判断すべきでもない。それは大事なことなのです。」
人の正しさをあなたが判断するべきではない―
なんだか、予期せぬ角度から真理を打たれたような気がして、軽く目眩がした】
「正しい」という言葉の意味が、より一層分からなくなることもある。
【初めから僕の中の「正しさ」は曖昧だった。
「正しさ」が移ろいゆくことこそ真理だと考えていた。
そんな曖昧模糊とした「正しさ」でさえも、僕の中で改めて瓦解を始めていた】
著者は、このヤバい取材を通じて、どんどんと本質的な何かに近づいているように感じる。それは、日本にいては気づけない。日本にいて、日本の常識で日本人の振る舞いを見ているだけでは絶対に到達出来ない何かに、彼は触れようとしている。実際に、触れているかもしれない。しかし著者は、触れるギリギリで立ち止まる人だと思う。
何故なら、彼はきちんと理解している人だからだ。
【取材は暴力である。
その前提を忘れてはいけない。
カメラは銃であり、ペンはナイフである。
幼稚に振り回せば簡単に人を傷つける。・
カメラは万引きの瞬間を撮ることができるし、ペンは権力の不正を暴くことができる。
それがジャーナリズムの使命だと誰もが言うだろう。それはそうだ。
けれど、万引き犯も、権力者も、人間である。
僕らと同じ、人間である。
取材活動がどれだけ社会正義に即していようと、それが誰かの人生をねじ曲げるのであれば、それは暴力だと僕は思っている。どれだけの人を救おうが、その正しさは取材活動の免罪符にはなるけれど、暴力であることから逃してはくれない】
もちろん、本書には都合の悪いことは書いていないだろうし、番組でも都合の悪い部分は編集しているだろう。それを理解していることを前提に書くが、番組でも本書でも、不快感を抱かずに済むのは、著者のこのスタンスがあるからだろうと思う。著者は、ギリギリの生活をしている人たちのところにほとんど土足で入り込んでいって、人間の根源的な活動である「食べる」という行為を撮ろうとする。確かにそれは、暴力的だ。それでも、著者の奮闘は、不快感を与えない。
【けれどひとつだけ、僕の行いが許された気持ちになる瞬間がある。
「また来てね」
「あなたに会えてよかった」
別れ際、そう言ってくれる人たちがいる】
著者は、全身全霊で相手を理解しようとする。どんなにヤバい環境であっても、相手が食べているものを躊躇なく食べることが出来るのも、理解したいという気持ちの賜物だろうと思う。そのことが伝わる、ということが、この本や番組の、一番驚嘆すべき点かもしれない。
上出遼平「ハイパーハードボイルドグルメリポート」
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