「ナイチンゲール」を観に行ってきました
日本人が優れている、などと言いたいわけでは決してないが、白人の歴史を知ると、その残虐さに目を覆いたくなる。
もちろん、すべての白人が悪いわけではないし、残虐さを備えていたのはごく一部だろう。それでも、白人が、支配の優位性を笠に着て好き放題やっている姿には驚かされる。
こう書くと、日本人も同じだろう、という矢はきっとどこからか飛んでくる。戦時中、日本人ももちろん酷いことをしてきただろう。それらは同列に語るべきだが、白人の方は、植民地支配に関する長い長い歴史がある。どんなものでもそうだが、「歴史がある」ということは「伝統」へと昇華される。そして「伝統」という名前がつくと、それは当たり前のことなのだと疑問に思われなくなる。別に批難したいわけではないが、男女平等が叫ばれる中で、歌舞伎や相撲の世界である種の「女人禁制」が未だに許されるように感じられるのは、それが「伝統」だからだろう。
「白人」という形で、すべての白人を一括にする議論は良くないのは分かっているが、やはり、「白人は支配を伝統にしている」と感じてしまう。僕は詳しい知識を持っているわけではないが、現代においても、白人による植民地支配の名残が、様々な場面で遺恨のように残されていることだろうと思う。
僕は日本の歴史にも詳しくないので、未だに「藩同士の遺恨が残っている」という事実を知ると驚いてしまう。間違っているかもしれないが、会津藩と薩長とか、南部藩と伊達藩とか、そういう「藩」という単位の遺恨は未だにある(らしい)。
しかし、こういう物語を見ると、遺恨が残るのは当然だ、と感じさせられる。少なくともこの映画では、一方的な、まったく論拠のない暴虐が展開される。そこに、僅かであっても納得が生まれるはずがない。
憎しみは、連鎖せざるを得ない。勇気を持って断ち切ろうとする人間は素晴らしいと思うが、それを強要することは僕には出来ない。憎い、という感情はやはり、何らかの復讐を以ってしか解消の糸口は見いだせないだろう。憎しみの連鎖は、不幸なことだが、僕には否定はできない。
内容に入ろうと思います。
舞台は、19世紀のオーストラリア、タスマニア地方。イギリスによる支配地域だ。ここは流刑囚が送られる島であり、元々黒人が住んでいた土地を奪って切り開いた。アイルランド人のクレアは、けちな盗みを働きこの地に送られていた。美しい容姿から、この地に赴任する英国軍将校ホーキンスに囲われていた彼女は、刑期を終えた後も釈放されずにいた。クレアはエイデンと結婚し、子供も設けたが、自由の身になるためにホーキンスに仮釈放免状を送ってもらえるように頼んでいたが、その内送るとあしらわれ、いつものようにレイプされる。夫エイデンは、ホーキンスに直談判すると言って交渉に臨むが、逆上したホーキンスはエイデンの目の前でクレアを犯し、さらにエイデンと子供を殺してしまう。復讐に燃えるクレアだったが、ホーキンスたちはローンセストンに駐屯する大佐に昇進を直訴するために、鬱蒼と生い茂る原野の森を突っ切る行軍に出たところだった。彼女は、先住民族アボリジニの黒人ビリーに道案内を頼み、ホーキンスを追うことにする。当初ビリー、は嫌々クレアの案内をしていた。彼の家族は白人に殺されてしまっていたからだ。しかしクレアの目的を知るや、ビリ―とは同志のような関係になっていき…。
というような話です。
非常に重苦しい雰囲気で最後まで進む物語で、圧倒されました。復讐は何も生まない、と頭で分かっていても、クレアとビリーが置かれた状況があまりにも悲惨で、復讐のためにホーキンスらを追う彼女たちに肩入れしたくなってしまう、そんな映画です。
主軸となる物語は実にシンプルで、ホーキンスは昇進のためにローンセストンを目指し、クレアはそんなホーキンスを追う、という感じです。しかし、タスマニアの森は深い。原住民の案内なしには絶対に抜けることが出来ない。ホーキンスはもちろんだが、クレアも黒人を忌避している。しかし、彼らの手を借りる以外に目的を果たす方法はない。黒人の方も、もちろん白人を憎んでいる。しかし、生活のため、そして何より自分の命のために、白人に従うしかない。
こういう、まったく協調関係のないところから物語はスタートする。
ホーキンスらは、白人であるという強権を最大限に発揮し、やりたい放題やっている。容赦なく人も殺す。とにかく、ホーキンスに共感できるポイントは一切ない。登場人物は、様々なレベルで悪感情を持ち、悪事を働くが、しかし、観ている側のすべての怒りがホーキンスに向くので、他の人物への不快感はほとんどない。ホーキンスのような人間がいるような状況下では、どんな振る舞いになってしまっても仕方がない、と感じられるのだ。
クレアとビリーの関係性の変化が、一番の見どころだろう。協調関係のなかったはずの2人が、お互いの存在を認め合うようになる。しかしそれは、お互いが抱える憎しみの深さを理解することによって生まれた感情だ。それは、悲しみで繋がっているようなものだ。お互いを必要としつつも、一緒にいることで悲しみの輪郭が強調されるような関係性に、いたたまれなさも感じる。
復讐劇、という単純な言葉では括れない深い穴を感じさせる作品でした。
「ナイチンゲール」を観に行ってきました
もちろん、すべての白人が悪いわけではないし、残虐さを備えていたのはごく一部だろう。それでも、白人が、支配の優位性を笠に着て好き放題やっている姿には驚かされる。
こう書くと、日本人も同じだろう、という矢はきっとどこからか飛んでくる。戦時中、日本人ももちろん酷いことをしてきただろう。それらは同列に語るべきだが、白人の方は、植民地支配に関する長い長い歴史がある。どんなものでもそうだが、「歴史がある」ということは「伝統」へと昇華される。そして「伝統」という名前がつくと、それは当たり前のことなのだと疑問に思われなくなる。別に批難したいわけではないが、男女平等が叫ばれる中で、歌舞伎や相撲の世界である種の「女人禁制」が未だに許されるように感じられるのは、それが「伝統」だからだろう。
「白人」という形で、すべての白人を一括にする議論は良くないのは分かっているが、やはり、「白人は支配を伝統にしている」と感じてしまう。僕は詳しい知識を持っているわけではないが、現代においても、白人による植民地支配の名残が、様々な場面で遺恨のように残されていることだろうと思う。
僕は日本の歴史にも詳しくないので、未だに「藩同士の遺恨が残っている」という事実を知ると驚いてしまう。間違っているかもしれないが、会津藩と薩長とか、南部藩と伊達藩とか、そういう「藩」という単位の遺恨は未だにある(らしい)。
しかし、こういう物語を見ると、遺恨が残るのは当然だ、と感じさせられる。少なくともこの映画では、一方的な、まったく論拠のない暴虐が展開される。そこに、僅かであっても納得が生まれるはずがない。
憎しみは、連鎖せざるを得ない。勇気を持って断ち切ろうとする人間は素晴らしいと思うが、それを強要することは僕には出来ない。憎い、という感情はやはり、何らかの復讐を以ってしか解消の糸口は見いだせないだろう。憎しみの連鎖は、不幸なことだが、僕には否定はできない。
内容に入ろうと思います。
舞台は、19世紀のオーストラリア、タスマニア地方。イギリスによる支配地域だ。ここは流刑囚が送られる島であり、元々黒人が住んでいた土地を奪って切り開いた。アイルランド人のクレアは、けちな盗みを働きこの地に送られていた。美しい容姿から、この地に赴任する英国軍将校ホーキンスに囲われていた彼女は、刑期を終えた後も釈放されずにいた。クレアはエイデンと結婚し、子供も設けたが、自由の身になるためにホーキンスに仮釈放免状を送ってもらえるように頼んでいたが、その内送るとあしらわれ、いつものようにレイプされる。夫エイデンは、ホーキンスに直談判すると言って交渉に臨むが、逆上したホーキンスはエイデンの目の前でクレアを犯し、さらにエイデンと子供を殺してしまう。復讐に燃えるクレアだったが、ホーキンスたちはローンセストンに駐屯する大佐に昇進を直訴するために、鬱蒼と生い茂る原野の森を突っ切る行軍に出たところだった。彼女は、先住民族アボリジニの黒人ビリーに道案内を頼み、ホーキンスを追うことにする。当初ビリー、は嫌々クレアの案内をしていた。彼の家族は白人に殺されてしまっていたからだ。しかしクレアの目的を知るや、ビリ―とは同志のような関係になっていき…。
というような話です。
非常に重苦しい雰囲気で最後まで進む物語で、圧倒されました。復讐は何も生まない、と頭で分かっていても、クレアとビリーが置かれた状況があまりにも悲惨で、復讐のためにホーキンスらを追う彼女たちに肩入れしたくなってしまう、そんな映画です。
主軸となる物語は実にシンプルで、ホーキンスは昇進のためにローンセストンを目指し、クレアはそんなホーキンスを追う、という感じです。しかし、タスマニアの森は深い。原住民の案内なしには絶対に抜けることが出来ない。ホーキンスはもちろんだが、クレアも黒人を忌避している。しかし、彼らの手を借りる以外に目的を果たす方法はない。黒人の方も、もちろん白人を憎んでいる。しかし、生活のため、そして何より自分の命のために、白人に従うしかない。
こういう、まったく協調関係のないところから物語はスタートする。
ホーキンスらは、白人であるという強権を最大限に発揮し、やりたい放題やっている。容赦なく人も殺す。とにかく、ホーキンスに共感できるポイントは一切ない。登場人物は、様々なレベルで悪感情を持ち、悪事を働くが、しかし、観ている側のすべての怒りがホーキンスに向くので、他の人物への不快感はほとんどない。ホーキンスのような人間がいるような状況下では、どんな振る舞いになってしまっても仕方がない、と感じられるのだ。
クレアとビリーの関係性の変化が、一番の見どころだろう。協調関係のなかったはずの2人が、お互いの存在を認め合うようになる。しかしそれは、お互いが抱える憎しみの深さを理解することによって生まれた感情だ。それは、悲しみで繋がっているようなものだ。お互いを必要としつつも、一緒にいることで悲しみの輪郭が強調されるような関係性に、いたたまれなさも感じる。
復讐劇、という単純な言葉では括れない深い穴を感じさせる作品でした。
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