「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を観に行ってきました
まず書いておかなければいけないことがある。
僕は、「右翼」と「左翼」がよく分からない。
「保守」と「革新」もよく分からない。
なので、以下で色々書くが、間違っているかもしれない。
しかしそれは、「僕の認識が間違っている」というよりも、「僕がそもそも認識していない」という表現の方が正しい。
その辺りをご理解いただけるとありがたいです。
一応、僕の認識を書いておく。
「右翼」というのは、天皇を崇拝(この表現は適切ではない気がするんだけど、なんて言えばいいかわからない)する人たち。他のイメージは、「愛国」とか「街宣車」とかだ。
で、「左翼」は、「右翼じゃない人」ぐらいの認識しかない。「全共闘」とか「安田講堂の占拠」とか「あさま山荘事件」が、なんとなく「左翼」的なものと関係するようなイメージはあるんだけど、どう関係するのかも知らない。
「保守」と「革新」についても、政治的な意味は全然知らなくて、言葉の意味として、「保守」というのはそれまでのものを守りたいということだろうから、天皇制を支持する(だろう)「右翼」側だろうし、であれば「革新」は「左翼」側なんだろう、ぐらいの認識だ。
さて、そんな僕がこの映画を観てどう感じたか。
面白かった。メチャクチャ面白かった。
正直、途中途中で、議論が難しすぎてついていけなかった部分はある。でも、この映画には、平野啓一郎・内田樹・橋爪大三郎、あるいは元全共闘の人たちや、楯の会のメンバーなどが登場し、解説を加えてくれるから、それでなんとなく理解できた部分もある。
さてそれでは、とりあえずまずは、三島由紀夫と東大全共闘の討論が行われるに至った経緯を、映画で語られた知識のみで、僕なりに書いていこうと思う。
1968年は、「政治の季節」と呼ばれた。日本では全共闘運動が盛んに行われ、またプラハの春や五月革命など、世界中で同時多発的に革命が起こった。日本では、反戦・平和を訴える街頭闘争が繰り広げられ、東京は学生と機動隊による戦争状態だったという。日本でも革命が起こるのではないかという期待と不安が蔓延していた。楯の会の一期生だった篠原裕と宮澤章友は共に、インタビューアーからの「共産主義革命が本当に起こるという恐怖心はあったか?」という質問に対してYESと答えていた。物々しい雰囲気だったと言い、楯の会のメンバーは三島由紀夫に連れられて自衛隊で体験入隊を繰り返す。全共闘がゲバ棒を持ち出しても、こちらが日本刀を抜けば終わりでしょう、という意志を感じたという。同じく楯の会の一期生だった原昭弘は、もう時効だろうからと、当時自衛隊の訓練で、実弾射撃を行ったことがある、と明かしていた。
楯の会というのは、1968年10月に三島由紀夫が立ち上げた組織だ。革命の予感を匂わせる日本の状況を危惧した三島が、大学生らを中心に構成した私的民兵組織だ。反革命、反共産主義を掲げ、いざという時に動けるように日頃から訓練を続けていた。
翌1969年の1月18日・19日には、安田講堂事件が起こる。前年に誕生した東大全共闘はが、暴力も辞さない姿勢を強烈に見せた。しかし、催涙弾と放水によって安田講堂は陥落する。
この後、東大全共闘は、次の一手を考えていた。安田講堂事件の火を消してはならない、ゼロにしてはならないと、「東大焚祭委員会」を立ち上げ、そこで三島由紀夫と討論しよう、ということになったのだ。
1969年の春、三島由紀夫に一本の電話が届く。電話をしたのは、東大全共闘のメンバーであり、討論会では司会を努めた木村修。実は昼間に一度電話しているが、奥さんから、昼間は寝ている、夜になったら執筆を始めるから、と言われて、深夜1時頃に再度電話をしたのだ。60年代に入り、三島は政治的な発言を積極的に繰り返すようになっていた。また当時は、川端康成と日本初のノーベル文学賞を争っている時期でもあり、世界的な知名度も高かった。そんな三島の「文化防衛論」を読んでいた木村は、「日本を論じることをやらないか」と三島に申し込んだのだ。
こうして、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自殺する一年半前の5月13日、三島と、東大全共闘1000人による討論会が開かれることになった。場所は、安田講堂があるキャンパスとは違う、駒場教養学部の大講堂900番教室。学生たちは、討論を告知するポスターにゴリラに模した三島の絵を描き、「近代ゴリラ」と評した。また、「飼育料 100円以上」と記載するなど、場外での挑発をしていた。「舞台上で切腹させてやる」と息巻いているという噂もあったようで、楯の会のメンバーは密かに会場の前席に紛れ込んで見守っていたという。
14:05。後に「伝説の討論」と呼ばれるようになる討論の幕が上がる。討論の模様は、東大全共闘側から唯一呼ばれていたTBS(当時別の取材でTBSとやり取りがあったことからTBSには声を掛けたのだという)が撮影、TBSだけが保管している映像である。
さてこれが、「伝説の討論」に至るまでの過程だ。「右翼」で「保守」の大物である三島由紀夫と、「左翼」で「革新」である東大全共闘1000人。考えただけで一触即発というか、ヤバい雰囲気しか感じない。誰もが、緊迫した雰囲気になるだろうと予想していたという。そりゃあそうだろう。
しかし、実際にはそうはならなかった。個人的な意見では、これは、三島由紀夫の度量によるところが大きいと感じる。
内田樹が、こんなことを言っていた。
【三島は誠実に、1000人を説得しようと思ってるんですよ。それに、相手を困らせてやろうとか、論理矛盾を指摘するなんてことを、一度もやってない】
また、司会を務めていた木村は、冒頭、三島由紀夫のことを「三島”先生”」と呼んでしまい、「”先生”と呼んでしまったのはちょっと問題ではあるんですが」と自己弁護することになるのだけど、これについて現在の木村は、
【語り口が丁寧で、乱暴な言い方なんてまったくしないですよね。それが驚きでした。それで思わず”先生”と言ってしまったんです】
と語っていた。
そう、まずもって三島の語り口が、非常にソフトなのだ。しかもそれは、内心どうだったかは分からないが、「1000人を恐れているから」というわけではなく、僕には、「相手に敬意を払っているから」だと感じた。それは、この映画で使われた映像の中で最も三島と長く討論をしていた芥正彦自身も言っていた。三島と芥は、かなり高度な(というか、僕がまったく理解できなかった)議論を舌鋒鋭く展開し、その議論は平行線のままなのだが、しかし笑顔を絶やさない。芥が、三島のタバコに火をつけてあげる場面は、印象的だった。
また三島は、「近代ゴリラ」などと言った自分に向けられた挑発にも乗らないし、なんならそれを笑いに変えてしまう。さらに、「タバコは工場で作られて自分の手元に届くまでに時間が掛かる」と言った後で、
【こうやってタバコを吸いながら、皆さんの前で努めて余裕を見せているわけですけれども】
なんてことを言って笑わせたりするのだ。三島を討論に呼んだ木村は、この討論にやってくる三島の内心を、「全共闘の人間なんかロクデナシだと思ってただろうし、単身で敵陣に乗り込むような気持ちだっただろう」と推測していた。その推測が正しかったとして、そんな完全アウェーの状況でも、自分を卑下して笑いを取るような余裕がある、ということが、逆に三島由紀夫の大きさを示しているように感じられた。
このような、「乱暴な言葉を使わない」「相手に敬意を払う」という部分もあった上で、さらに僕は、三島が相手の土俵に立って議論をする姿勢に凄さを感じた。
難しすぎて議論の内容は再現も要約も出来ないのだけど、三島と芥が「解放区」について話をしている場面があった。「解放区」というのは、「革命勢力が国家権力の統制を排除して支配する地区」のことで、例えば安田講堂事件の際の安田講堂はまさに「解放区」だった。この議論において三島は、「解放区」の定義を口にした後、「これで合っているか?」と芥に確認をしている。その後も、相手の言葉や価値観を正しく認識した上で、その言葉や価値観を前提として議論を展開する姿勢が見られた。
一方で、芥に限らないが、東大全共闘側の人たちは基本的に、自分の言葉で自分の主張をする、ということに終始していたように感じる。もちろん、映画に使われている映像がすべてではないはずだし、全体を通して見てみなければ確定的なことは言えないが、映画を見た印象としては、三島由紀夫の方が一枚も二枚も上手だったと感じる。単純な年齢差もあるから仕方ないが、三島由紀夫の余裕さはさすがだったと思う。
この「解放区」の話は、その後で「名前」の話に展開する。これも、ちゃんとは理解できなかったが、僕が理解したことを書こう。芥は基本的に、「解放区」はあらゆる関係性(名前で規定される関係性)が剥ぎ取られる場であるべきだ、と考えているようだ。そういう場所が理想であり、革命というのは結局、そういう名前で規定される関係性をひっくり返していくことに意義があるのだ、と。
しかし三島由紀夫は、それに持続性はあるのか?と問う。作家の平野啓一郎によると、この議論は全体の中でも非常に重要だったという。三島は「持続性」にこだわった。それで三島は芥に、「解放区」の定義を聞く中で、「解放区は継続されるべきか?あるいは継続は必須ではないか?」というような問いかけをしている。三島は、持続性こそが大事だと考えていた。そして物事を持続させるためには言葉が必要だと考えていた。言葉(名前)というのは結局、事物に目的を与えるものだ。その名前を剥ぎ取った環境を理想と呼ぶのは自由だけど、でもそれが持続できないならそれに意味はあるのか?と問うわけです。
平野啓一郎がまとめてくれた議論の要点を踏まえつつ、たぶんこういうやり取りをしていたんだろう、という僕なりの解釈を書いてみましたが、間違ってたらすいません。
言葉についてもう少し触れると、三島由紀夫は冒頭10分のスピーチの中で、「言葉の有効性はあるのかもしれないし、ないのかもしれない」と発言している。これを受けて平野啓一郎は、
【三島は、言葉がアクチュアルな機能を果たすのか。反対の立場の人に自分の言葉が通じるのか。三島はその点に関心があり、この討論に臨んだのだろう】
と語っている。
先程触れたことに少し関係するが、東大全共闘の面々(特に芥)の言葉は非常に難解でスッとは理解できない。しかし三島の言葉は、確かに平易な言葉ではないのだけど、分かりやすいと感じる。やはり作家として、大衆に伝わる言葉を熟知している人間の強みなのだろう。途中、観客から、「俺は三島を殴る会があるから来ないかと言われたのに、観念的な議論ばっかりしてるんじゃねぇ!」と野次が飛び、東大生同士での議論となる場面もあった。三島は、笑っていた。
また三島は、東大全共闘の人間に度々共感の意志を示す。一番印象的だったのは、「非合法の暴力を肯定する」という話だ。
【わたくしが行動を起こすとしたら、非合法でやるしかない。一対一の決闘の考えでやるとするなら、それは殺人犯になるということだから、警察に捕まる前に自決でも何でもしようと思っている】
実際に自決する一年半前に、こういう発言をしている。彼はこの、「主義主張のためなら非合法の暴力も厭わない」という点で、東大全共闘の面々と共感する。
また三島は、自身を「反知性主義」と呼び、知性が高い人間が上にいて様々なことを決めたり動かしたりする現実を嫌いだと言う。そして、
【全学連が知識人の鼻を割ったということは認める】
と言っている(僕は「全学連」と「全共闘」の関係が分かりませんけど、ここの発言は「全共闘」って言ってたと思います)
また最後の方では、「君たちの熱量は信じます。他の何を信じなくても、それだけは信じる。そのことだけは分かっていただきたい」とも言う。・
さらに極めつけは、「天皇」に関するこんな発言だ。
【わたくしは、これは大げさに言うのではないが、諸君らが一言「天皇」と言ってくれさえすれば、わたくしは喜んで一緒に立てこもっただろう】
後半は天皇についての話になっていくのだけど、これらの議論を踏まえて内田樹は、
【(三島と東大全共闘の間にあるのが)右翼と左翼の対立が本質なわけじゃないと三島は分かっていた。直感力のある人だから、その本質が反米愛国運動だということに気づいていた。だから三島は、全共闘と共闘できると言っているのだ】
芥も、インタビューアーから、「三島由紀夫と東大全共闘が共通の敵と対峙していたとすればそれは何か?」と問われて、「あやふやな猥雑な日本国」と答えている。
三島は天皇に関してアンビバレントな感情を持っていた、と平野啓一郎は言う。三島は、昭和天皇個人に対しては、批判的な面を持つという(それは「人間宣言」をしたからなんだろうか?) 一方で三島は、昭和天皇とのある個人的なエピソードを様々な場で語っていたという。もちろん東大全共闘との討論の中でも語っていた。それは、学習院高等科を主席で卒業した際に、昭和天皇から銀時計をいただいた時の話だ。3時間、微動だにせず立ち続けた姿に感銘を受けたという話を幾度もしているのだという。三島は、昭和天皇に対する否定的な気持ちを懐きながら、同時に、自身の個人的な経験を否定することは出来ないという感覚を最後まで持ち続けたという。
三島由紀夫は「天皇」という言葉を、かなり自分なりの使い方をしていたようで、それを幾人かが解釈していた。芥は「絶対権力」、宮澤は「日本の文化・伝統の集約的存在」、内田樹は「無意識的エネルギーの源泉」と言った具合だ。三島自身は討論の中で、
【天皇と自己を一体化させることに美を見出すのだ】
と言っている。それに対して芥が、「じゃああなたは、日本人である限界を越えられませんね?」と聞くと、「越えられなくていい。わたくしは日本人の限界を越えたいとは思わない」と返す。
あと、印象的だったのは、三島由紀夫を含む、10代を戦争末期の中で過ごし生き残った、1930年代生まれの人たちの感覚について内田樹が語っていたことだ。当時若者は、戦争で死ぬことを覚悟していた。つまり、国運と個人的な運命が一致していた。しかし終戦により、そこが切り離されてしまった。そうやって生き残った者たちは、国運と個人的な運命が一体になってほしいという欠落感を抱えたまま戦後を生き続けたのではないか、という話だった。そう考えると、なんとなくだけど、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自衛隊員に決起を促したような強硬さも、理解できるような気がする。
映画の最後は、「全共闘の人たちは、あの時代をどう総括しているのか?」という話で終わる。印象的だったのは、芥だ。芥は、「敗北したとも言われているが?」と問われて、こう答える。
【私は敗北したとは思っていない。君たちの国では、敗北ということにしたんだろ。君たちの国には、私はいないからね。私の世界では、敗北していない。】
負け惜しみにも聞こえるが、しかし、三島とやり合っている芥、そしてカメラの前で語る現在の芥、どちらも自信に満ちあふれていて淀みがない。それもあってか、負け惜しみ感はないのだ。
難しい部分は多々あったが、とにかく面白かった。僕は三島由紀夫の作品もほとんど読んだことがないし(「金閣寺」を読んで、よくわかんないな、と思った)、「右翼」も「左翼」もよくわからない人間だけど、そんな人間が見てもメチャクチャ面白かった。知のぶつかりあいを、是非体感してほしい。
「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を観に行ってきました
僕は、「右翼」と「左翼」がよく分からない。
「保守」と「革新」もよく分からない。
なので、以下で色々書くが、間違っているかもしれない。
しかしそれは、「僕の認識が間違っている」というよりも、「僕がそもそも認識していない」という表現の方が正しい。
その辺りをご理解いただけるとありがたいです。
一応、僕の認識を書いておく。
「右翼」というのは、天皇を崇拝(この表現は適切ではない気がするんだけど、なんて言えばいいかわからない)する人たち。他のイメージは、「愛国」とか「街宣車」とかだ。
で、「左翼」は、「右翼じゃない人」ぐらいの認識しかない。「全共闘」とか「安田講堂の占拠」とか「あさま山荘事件」が、なんとなく「左翼」的なものと関係するようなイメージはあるんだけど、どう関係するのかも知らない。
「保守」と「革新」についても、政治的な意味は全然知らなくて、言葉の意味として、「保守」というのはそれまでのものを守りたいということだろうから、天皇制を支持する(だろう)「右翼」側だろうし、であれば「革新」は「左翼」側なんだろう、ぐらいの認識だ。
さて、そんな僕がこの映画を観てどう感じたか。
面白かった。メチャクチャ面白かった。
正直、途中途中で、議論が難しすぎてついていけなかった部分はある。でも、この映画には、平野啓一郎・内田樹・橋爪大三郎、あるいは元全共闘の人たちや、楯の会のメンバーなどが登場し、解説を加えてくれるから、それでなんとなく理解できた部分もある。
さてそれでは、とりあえずまずは、三島由紀夫と東大全共闘の討論が行われるに至った経緯を、映画で語られた知識のみで、僕なりに書いていこうと思う。
1968年は、「政治の季節」と呼ばれた。日本では全共闘運動が盛んに行われ、またプラハの春や五月革命など、世界中で同時多発的に革命が起こった。日本では、反戦・平和を訴える街頭闘争が繰り広げられ、東京は学生と機動隊による戦争状態だったという。日本でも革命が起こるのではないかという期待と不安が蔓延していた。楯の会の一期生だった篠原裕と宮澤章友は共に、インタビューアーからの「共産主義革命が本当に起こるという恐怖心はあったか?」という質問に対してYESと答えていた。物々しい雰囲気だったと言い、楯の会のメンバーは三島由紀夫に連れられて自衛隊で体験入隊を繰り返す。全共闘がゲバ棒を持ち出しても、こちらが日本刀を抜けば終わりでしょう、という意志を感じたという。同じく楯の会の一期生だった原昭弘は、もう時効だろうからと、当時自衛隊の訓練で、実弾射撃を行ったことがある、と明かしていた。
楯の会というのは、1968年10月に三島由紀夫が立ち上げた組織だ。革命の予感を匂わせる日本の状況を危惧した三島が、大学生らを中心に構成した私的民兵組織だ。反革命、反共産主義を掲げ、いざという時に動けるように日頃から訓練を続けていた。
翌1969年の1月18日・19日には、安田講堂事件が起こる。前年に誕生した東大全共闘はが、暴力も辞さない姿勢を強烈に見せた。しかし、催涙弾と放水によって安田講堂は陥落する。
この後、東大全共闘は、次の一手を考えていた。安田講堂事件の火を消してはならない、ゼロにしてはならないと、「東大焚祭委員会」を立ち上げ、そこで三島由紀夫と討論しよう、ということになったのだ。
1969年の春、三島由紀夫に一本の電話が届く。電話をしたのは、東大全共闘のメンバーであり、討論会では司会を努めた木村修。実は昼間に一度電話しているが、奥さんから、昼間は寝ている、夜になったら執筆を始めるから、と言われて、深夜1時頃に再度電話をしたのだ。60年代に入り、三島は政治的な発言を積極的に繰り返すようになっていた。また当時は、川端康成と日本初のノーベル文学賞を争っている時期でもあり、世界的な知名度も高かった。そんな三島の「文化防衛論」を読んでいた木村は、「日本を論じることをやらないか」と三島に申し込んだのだ。
こうして、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自殺する一年半前の5月13日、三島と、東大全共闘1000人による討論会が開かれることになった。場所は、安田講堂があるキャンパスとは違う、駒場教養学部の大講堂900番教室。学生たちは、討論を告知するポスターにゴリラに模した三島の絵を描き、「近代ゴリラ」と評した。また、「飼育料 100円以上」と記載するなど、場外での挑発をしていた。「舞台上で切腹させてやる」と息巻いているという噂もあったようで、楯の会のメンバーは密かに会場の前席に紛れ込んで見守っていたという。
14:05。後に「伝説の討論」と呼ばれるようになる討論の幕が上がる。討論の模様は、東大全共闘側から唯一呼ばれていたTBS(当時別の取材でTBSとやり取りがあったことからTBSには声を掛けたのだという)が撮影、TBSだけが保管している映像である。
さてこれが、「伝説の討論」に至るまでの過程だ。「右翼」で「保守」の大物である三島由紀夫と、「左翼」で「革新」である東大全共闘1000人。考えただけで一触即発というか、ヤバい雰囲気しか感じない。誰もが、緊迫した雰囲気になるだろうと予想していたという。そりゃあそうだろう。
しかし、実際にはそうはならなかった。個人的な意見では、これは、三島由紀夫の度量によるところが大きいと感じる。
内田樹が、こんなことを言っていた。
【三島は誠実に、1000人を説得しようと思ってるんですよ。それに、相手を困らせてやろうとか、論理矛盾を指摘するなんてことを、一度もやってない】
また、司会を務めていた木村は、冒頭、三島由紀夫のことを「三島”先生”」と呼んでしまい、「”先生”と呼んでしまったのはちょっと問題ではあるんですが」と自己弁護することになるのだけど、これについて現在の木村は、
【語り口が丁寧で、乱暴な言い方なんてまったくしないですよね。それが驚きでした。それで思わず”先生”と言ってしまったんです】
と語っていた。
そう、まずもって三島の語り口が、非常にソフトなのだ。しかもそれは、内心どうだったかは分からないが、「1000人を恐れているから」というわけではなく、僕には、「相手に敬意を払っているから」だと感じた。それは、この映画で使われた映像の中で最も三島と長く討論をしていた芥正彦自身も言っていた。三島と芥は、かなり高度な(というか、僕がまったく理解できなかった)議論を舌鋒鋭く展開し、その議論は平行線のままなのだが、しかし笑顔を絶やさない。芥が、三島のタバコに火をつけてあげる場面は、印象的だった。
また三島は、「近代ゴリラ」などと言った自分に向けられた挑発にも乗らないし、なんならそれを笑いに変えてしまう。さらに、「タバコは工場で作られて自分の手元に届くまでに時間が掛かる」と言った後で、
【こうやってタバコを吸いながら、皆さんの前で努めて余裕を見せているわけですけれども】
なんてことを言って笑わせたりするのだ。三島を討論に呼んだ木村は、この討論にやってくる三島の内心を、「全共闘の人間なんかロクデナシだと思ってただろうし、単身で敵陣に乗り込むような気持ちだっただろう」と推測していた。その推測が正しかったとして、そんな完全アウェーの状況でも、自分を卑下して笑いを取るような余裕がある、ということが、逆に三島由紀夫の大きさを示しているように感じられた。
このような、「乱暴な言葉を使わない」「相手に敬意を払う」という部分もあった上で、さらに僕は、三島が相手の土俵に立って議論をする姿勢に凄さを感じた。
難しすぎて議論の内容は再現も要約も出来ないのだけど、三島と芥が「解放区」について話をしている場面があった。「解放区」というのは、「革命勢力が国家権力の統制を排除して支配する地区」のことで、例えば安田講堂事件の際の安田講堂はまさに「解放区」だった。この議論において三島は、「解放区」の定義を口にした後、「これで合っているか?」と芥に確認をしている。その後も、相手の言葉や価値観を正しく認識した上で、その言葉や価値観を前提として議論を展開する姿勢が見られた。
一方で、芥に限らないが、東大全共闘側の人たちは基本的に、自分の言葉で自分の主張をする、ということに終始していたように感じる。もちろん、映画に使われている映像がすべてではないはずだし、全体を通して見てみなければ確定的なことは言えないが、映画を見た印象としては、三島由紀夫の方が一枚も二枚も上手だったと感じる。単純な年齢差もあるから仕方ないが、三島由紀夫の余裕さはさすがだったと思う。
この「解放区」の話は、その後で「名前」の話に展開する。これも、ちゃんとは理解できなかったが、僕が理解したことを書こう。芥は基本的に、「解放区」はあらゆる関係性(名前で規定される関係性)が剥ぎ取られる場であるべきだ、と考えているようだ。そういう場所が理想であり、革命というのは結局、そういう名前で規定される関係性をひっくり返していくことに意義があるのだ、と。
しかし三島由紀夫は、それに持続性はあるのか?と問う。作家の平野啓一郎によると、この議論は全体の中でも非常に重要だったという。三島は「持続性」にこだわった。それで三島は芥に、「解放区」の定義を聞く中で、「解放区は継続されるべきか?あるいは継続は必須ではないか?」というような問いかけをしている。三島は、持続性こそが大事だと考えていた。そして物事を持続させるためには言葉が必要だと考えていた。言葉(名前)というのは結局、事物に目的を与えるものだ。その名前を剥ぎ取った環境を理想と呼ぶのは自由だけど、でもそれが持続できないならそれに意味はあるのか?と問うわけです。
平野啓一郎がまとめてくれた議論の要点を踏まえつつ、たぶんこういうやり取りをしていたんだろう、という僕なりの解釈を書いてみましたが、間違ってたらすいません。
言葉についてもう少し触れると、三島由紀夫は冒頭10分のスピーチの中で、「言葉の有効性はあるのかもしれないし、ないのかもしれない」と発言している。これを受けて平野啓一郎は、
【三島は、言葉がアクチュアルな機能を果たすのか。反対の立場の人に自分の言葉が通じるのか。三島はその点に関心があり、この討論に臨んだのだろう】
と語っている。
先程触れたことに少し関係するが、東大全共闘の面々(特に芥)の言葉は非常に難解でスッとは理解できない。しかし三島の言葉は、確かに平易な言葉ではないのだけど、分かりやすいと感じる。やはり作家として、大衆に伝わる言葉を熟知している人間の強みなのだろう。途中、観客から、「俺は三島を殴る会があるから来ないかと言われたのに、観念的な議論ばっかりしてるんじゃねぇ!」と野次が飛び、東大生同士での議論となる場面もあった。三島は、笑っていた。
また三島は、東大全共闘の人間に度々共感の意志を示す。一番印象的だったのは、「非合法の暴力を肯定する」という話だ。
【わたくしが行動を起こすとしたら、非合法でやるしかない。一対一の決闘の考えでやるとするなら、それは殺人犯になるということだから、警察に捕まる前に自決でも何でもしようと思っている】
実際に自決する一年半前に、こういう発言をしている。彼はこの、「主義主張のためなら非合法の暴力も厭わない」という点で、東大全共闘の面々と共感する。
また三島は、自身を「反知性主義」と呼び、知性が高い人間が上にいて様々なことを決めたり動かしたりする現実を嫌いだと言う。そして、
【全学連が知識人の鼻を割ったということは認める】
と言っている(僕は「全学連」と「全共闘」の関係が分かりませんけど、ここの発言は「全共闘」って言ってたと思います)
また最後の方では、「君たちの熱量は信じます。他の何を信じなくても、それだけは信じる。そのことだけは分かっていただきたい」とも言う。・
さらに極めつけは、「天皇」に関するこんな発言だ。
【わたくしは、これは大げさに言うのではないが、諸君らが一言「天皇」と言ってくれさえすれば、わたくしは喜んで一緒に立てこもっただろう】
後半は天皇についての話になっていくのだけど、これらの議論を踏まえて内田樹は、
【(三島と東大全共闘の間にあるのが)右翼と左翼の対立が本質なわけじゃないと三島は分かっていた。直感力のある人だから、その本質が反米愛国運動だということに気づいていた。だから三島は、全共闘と共闘できると言っているのだ】
芥も、インタビューアーから、「三島由紀夫と東大全共闘が共通の敵と対峙していたとすればそれは何か?」と問われて、「あやふやな猥雑な日本国」と答えている。
三島は天皇に関してアンビバレントな感情を持っていた、と平野啓一郎は言う。三島は、昭和天皇個人に対しては、批判的な面を持つという(それは「人間宣言」をしたからなんだろうか?) 一方で三島は、昭和天皇とのある個人的なエピソードを様々な場で語っていたという。もちろん東大全共闘との討論の中でも語っていた。それは、学習院高等科を主席で卒業した際に、昭和天皇から銀時計をいただいた時の話だ。3時間、微動だにせず立ち続けた姿に感銘を受けたという話を幾度もしているのだという。三島は、昭和天皇に対する否定的な気持ちを懐きながら、同時に、自身の個人的な経験を否定することは出来ないという感覚を最後まで持ち続けたという。
三島由紀夫は「天皇」という言葉を、かなり自分なりの使い方をしていたようで、それを幾人かが解釈していた。芥は「絶対権力」、宮澤は「日本の文化・伝統の集約的存在」、内田樹は「無意識的エネルギーの源泉」と言った具合だ。三島自身は討論の中で、
【天皇と自己を一体化させることに美を見出すのだ】
と言っている。それに対して芥が、「じゃああなたは、日本人である限界を越えられませんね?」と聞くと、「越えられなくていい。わたくしは日本人の限界を越えたいとは思わない」と返す。
あと、印象的だったのは、三島由紀夫を含む、10代を戦争末期の中で過ごし生き残った、1930年代生まれの人たちの感覚について内田樹が語っていたことだ。当時若者は、戦争で死ぬことを覚悟していた。つまり、国運と個人的な運命が一致していた。しかし終戦により、そこが切り離されてしまった。そうやって生き残った者たちは、国運と個人的な運命が一体になってほしいという欠落感を抱えたまま戦後を生き続けたのではないか、という話だった。そう考えると、なんとなくだけど、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自衛隊員に決起を促したような強硬さも、理解できるような気がする。
映画の最後は、「全共闘の人たちは、あの時代をどう総括しているのか?」という話で終わる。印象的だったのは、芥だ。芥は、「敗北したとも言われているが?」と問われて、こう答える。
【私は敗北したとは思っていない。君たちの国では、敗北ということにしたんだろ。君たちの国には、私はいないからね。私の世界では、敗北していない。】
負け惜しみにも聞こえるが、しかし、三島とやり合っている芥、そしてカメラの前で語る現在の芥、どちらも自信に満ちあふれていて淀みがない。それもあってか、負け惜しみ感はないのだ。
難しい部分は多々あったが、とにかく面白かった。僕は三島由紀夫の作品もほとんど読んだことがないし(「金閣寺」を読んで、よくわかんないな、と思った)、「右翼」も「左翼」もよくわからない人間だけど、そんな人間が見てもメチャクチャ面白かった。知のぶつかりあいを、是非体感してほしい。
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