黒夜行

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クスノキの番人(東野圭吾)

僕は、言葉が好きだ。何かを伝える手段として、言葉を、一番信じている。

他の能力がなかった、ということもまああるかもしれない。音楽や絵や演技など、他の伝える手段の才能を感じる機会があったり、それらにのめり込むきっかけがあったとしたら、また違ったかもしれない。けれども僕は、やはり、そういう感覚的な伝達手段よりも、言葉の方が好きだ。

人類は、神話によって大人数を支配するために言葉を生み出した、という話を聞いたことがある。もちろん、何かを記録するためにも言葉は用いられるが、記録のために言葉が生まれたのではなく、生み出された言葉を記録にも使った、という説なのだそうだ。クジラは鳴き声で会話をするだろうし、クジャクは羽の色や大きさで威嚇する。嗅覚でやり取りする生物もいるだろう。しかし、結果的に地球上を支配したのは、言葉を生み出した人類だった。それは、言葉による力が大きかったのではないかと思う。

言葉がなければ、歴史も哲学も数学も生まれない。「知識」というものを言葉によって伝達し続けてきたからこそ、人類は他の生物には不可能な進化を遂げてきたのだろうし、これからも、それが進化と呼べるものかどうかは別として、人類はさらに変化していくことだろう。

僕自身の実感としても、言葉を突き詰めることで物事の解像度が上がる印象が常にある。例えば伝わりやすい例で言えば、虹の色数の話がある。日本では、虹は7色だが、世界各国には、確か4~8ぐらいまで、様々なパターンが存在する。視覚情報としてはまったく同じものを見ているはずなのに、どんな言語体系で育ったかによって、脳内での認識のされ方が異なる。

僕は、フランス語の「パピヨン」の話も好きだ。フランス語では蝶のことを「パピヨン」と呼ぶが、蛾も同じく「パピヨン」だそうだ。日本人からすれば、蝶と蛾はまったく別物だが、同じ言葉で呼んでいるということは、フランス人には蝶と蛾は同じ括りのものとされているということだろう。

こんな風に、言葉の違いによって、世界認識に差が生まれる。言葉にこだわればこだわるほど、世界はより細密に見ることが出来る。それは、伝達に関しても同じだ。こだわればこだわるほど、より細密に相手に伝わる。

しかし、そんな風に、言葉のことが好きだから感じることもある。それは、言葉というのは、どこまで言っても近似値に過ぎないな、ということだ。そしてそのことがもどかしく感じられることも、やはりある。

世の中に存在するモノや概念はすべて、言語によって表現できると言っていいだろう。というか、言語学の世界では、言葉が生まれることで初めてモノや概念は存在するようになる、という。目の前に、何でもいいが動物が一匹だけいれば、ただ「それ(It)」と呼べばいい。しかし、別の動物が現れれば、それらを区別するために名前をつける必要がある。その時に初めて、「犬」や「猫」と言った存在として世の中に誕生する、というのだ。まあそういう細かな話はともかく、世の中のモノや概念はすべて言語化可能だ。

しかしそれらは、正確には表現できない。例えば、自分が飼っている猫がいるとする。それはただの「猫」ではない。「10年飼っている猫」であり「捨てられていたのを拾った猫」であり、「◯月◯日にあんなことをしてくれた猫」である。そういう言葉をいくら積み重ねてみても、まだ足りない何かは残る。

そんなわけで、それがどんなものであれ、言葉によって正確に表現する不可能だ。まあそれは、音楽でも絵でも演劇でも、どんなものでも不可能だろう。結局僕らは常に、近似値でしかやり取りをすることが出来ないのだ。

人類は、不可能を可能にする挑戦を続けることで、ここまで進化し続けてきた。江戸時代の人たちからすれば、僕らが生きている世の中は魔法の国のようなものだろう。そう考えれば、遠い未来、現代を生きる僕らが「魔法の国だ」としか思えない世の中が実現している可能性はありうる。

そうなった時、モノや概念を、僅かな正確性も取りこぼさずに誰かに伝えることが出来るようになっているなら面白い、と思う。そうなった時、人類は歴史上初めて、言葉を手放しうるのではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
直井玲斗は、実に奇妙な状況に置かれていた。彼は今、月郷神社の社務所に寝泊まりをしている。境内の掃除をしたり、大きなクスノキにいたずらをされないように見張ったりするのが日課だ。しかし少し前までは、警察の留置場にいた。紆余曲折を経て、住居侵入や窃盗未遂などの容疑で捕まっていたのだ。
しかし、亡き母の母、つまり祖母のはからいもあって、玲斗はそれ以上警察の厄介になることなく釈放された。見知らぬ弁護士が尽力してくれたのだが、それにしても不思議だ。祖母は、そんなスマートな対応が出来る人ではないからだ。弁護士は、依頼人の指示に従っていると言い、その人物に会いに行くようにと命じた。
それが、ヤナッツ・コーポレーションの顧問である柳澤千舟という老女だった。玲斗には覚えはなかったが、彼女の方は幼い頃の玲斗に何度かあったことがあるという。玲斗はそれまで存在すら知らなかったが、彼女は、玲斗の母・美千恵の異母きょうだいだというのだ。
彼女は、詳しい事情はさほど知らせないまま、玲斗に月郷神社の管理を命じた。断るなら、かかった弁護士費用をすべて負担してもらうという、脅しのような状況だった。しかし、待遇は悪くない。風呂はないが社務所で寝泊まり出来るし、とある事情から臨時収入もある。
彼に与えられた最大の役割は、「クスノキの番人」だ。この神社のクスノキの木は、パワースポットとして有名で、昼間に噂を聞きつけただろう一般客がよくやってくる。しかし、千舟が玲斗に頼んだのは、夜の話だ。
夜、このクスノキには、人びとが集まる。教わっていないので玲斗には彼らがなんの目的でやってくるのか不明だが、彼らはとにかく「祈念」をしているという。しかし「祈念」が何なのかは知らされていない。千舟はとにかく、やってくる者に蝋燭を渡し、きちんと「祈念」が行われるよう管理することが求められた。
まったく何をやらされているのか分からないまま管理人を勤める玲斗だが、「祈念」の管理をする中で彼らと関わりが出来てくるようになる。
一人は、頻繁に「祈念」にやってくる佐治寿明の娘である優美。彼女は、父親の浮気を疑って調べている中で、このクスノキにたどり着いたという。もう一人は、和菓子メーカーの『たくみや本舗』を経営する大場家の跡取りの一人である大場壮貴。彼は「祈念」がうまく出来ないことで焦りと苛立ちを感じている。
「祈念」について少しずつ理解を深めていく玲斗は、一方で、千舟に連れられるまま、ホテル事業を手掛けるヤナッツ・コーポレーションと少しずつ関わるようになるが…。
というような話です。

東野圭吾の作品を読む度に、安定して面白い物語を生み出すものだよなぁ、と感心します。とにかく、物語としてとても良くできている。本書も、読み始めは、一体これがどういう展開になるんだろう、と思ってたのだけど、かなりたくさんの人物が出てくる物語でありながら、人物のついても難なく頭に入ってくるし、結構な分量のある物語なのに、スイスイ読ませてしまう。本書に登場するクスノキの力については、それがどんなものであるのかはっきり分からない序盤の時点で、合理的に解釈できるものではなく、超常現象の類だろうと推察できるんだけど、じゃあそれを物語の中心に据えて一体何をどう展開させようとしてるのかは全然想像がつかないんですよね。一応序盤からしばらくの間は、「玲斗がクスノキの謎を追う」「優美が父親の謎を追う」という軸で物語が進んでいくんだけど、途中から、重要なのはそこではない、ということが分かってきます。もっと大きな枠組みの中で全体が構成されているわけです。

途中で、玲斗が気づく形で、クスノキの力の謎は明らかになるわけですが、しかし物語としてはそこから第二幕が始まる、と言った感じです。そしてそこからさらに、佐治家と大場家の物語が重要になってきます。正直初めは、大場壮貴の物語はそこまで主軸として扱われないだろうと思ってたんですけど、そうでもないんですね。「クスノキの力」が何であるのかが明らかになることによって、佐治寿明と大場壮貴の行動にさらなる不可解さが出てくることになる。そして、それらが明らかになっていくことで、本書の背景に、大きな大きな人間の物語が横たわっていることが明らかになる。こういう構成は見事だなと思いました。

クスノキの持つ力から、佐治寿明と大場壮貴の物語を導き出す、という発想が凄くいいなと思いました。ともすれば本書は、「クスノキの力」を核に据えた、ワンアイデアの物語になってしまいがちだと思います。連作短編集のような構成にして、クスノキに「祈念」にやってくる幾人かの人物を描く、というやり方もあったでしょう。でも本書では、「クスノキの力」を中心に据えることで、様々な人間の想いや願いや希望をかなり壮大に描くことが出来ている。特に、認知症になってしまった母に対して、施設内であるイベントを行うという展開になる佐治寿明の物語は、よく考えたもんだよなぁ、と思いました。「クスノキの力」を、最も絶妙な形で描き出すアイデアと、それを最後のシーンにまで結実するための設定が素晴らしいと思いました。

また本書が良いのは、玲斗の成長物語にもなっている、ということです。本書では、「クスノキの秘密を知らされていない」という意味で、玲斗はある意味部外者的な立ち位置からスタートします。というか、千舟と玲斗はほぼ他人みたいなものだし、玲斗とヤナッツ・コーポレーションはもっと関係ないという状態です。玲斗自身も、水商売で働いていたシングルマザーの母親に育てられ、母親の死後、色々職を転々とするも、些細な不幸が積み重なって結局犯罪に手を染めるところまでいってしまう。玲斗自身は、そういう人生で仕方ないと考えているわけですが、真っ当な社会との接点があまりにも少なかったわけです。

しかし、千舟という、現在では顧問に退いているとは言え、大企業のトップとして辣腕を振るっていた女性と日々関わりを持つことで、少しずつ地に足がつきはじめる。その上、千舟にどこまでその意図があったのか判断が難しいところはあるけれど、玲斗は千舟が想像する以上に、人間として成長を遂げる。そしてその過程に納得感がある。登場時、あと少しで刑務所行きだったという人間が、最後なかなかの大舞台で大演説を振るうまでになるのだけど、そこまでの成長過程に違和感がない。確かに、千舟という女性と普段から関わり、また謎の力を持つクスノキの管理という捉えどころのない仕事をする過程で、こういう変化はあってもいいだろうなぁ、と思わせる説得力がある感じがします。

この物語を成立させるためには、若干特殊な設定が必要で、その辺りで多少の都合の良さみたいなものを感じないわけではないけど、それは重箱の隅をつつくようなツッコミでしょう。謎の力を持つクスノキがあった場合に起こるかもしれない可能性を組み合わせて、一つの大きな世界観を生み出している、非常に良く出来た作品だなと感じました。

東野圭吾「クスノキの番人」

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2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
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5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

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7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
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9位 山本弘「詩羽のいる街
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6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

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