「屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ」を観に行ってきました
生きていることや存在していることの意義みたいなものが感じられるかどうか。
人生を成立させられるかどうかは、やっぱりこの1点に掛かっているんだろうなぁ、と思う。
どれだけ恵まれなくても、どれだけ貧しくても、存在意義を感じられるなら、たぶん生きられる。でもそうでなくなった時、自分の手元にどれだけたくさんのものがあっても、満足出来ないだろうな、と。
存在意義は大体、誰かとの関係で生まれるものだと思う。
自分一人だけいても、なかなかそれを感じることはできない。
どういう理由でか、誰かに自分の存在を認めてもらえると、生きている価値を感じることができる。自分が望んだ形で自分の存在を認めてもらえれば、なお良い。
こういう考えは当たり前だと思うが、しかし、当たり前すぎて、きちんと認識できなくなってしまうと、いろいろ難しくなっていくだろう。
そしてその認識は、やはり、自分が人生の何に重点を置いているのかによっても変わってくる。
家族との関係を大事にしていれば、家族に認められたいと思う。異性との関係が深まることを望んでいれば、異性に認められたいと思う。自分が理想とする認められ方が、現状と大きく違えば違うほど、人生の困難さが増す。
その困難さと直面した時にどう振る舞うのか。結局、誰もがそういう問いにぶつかりうるし、そこでの決断が、人生を大きく変えることになるかもしれない。
内容に入ろうと思います。
舞台は、1970年代ドイツ。集合住宅の屋根裏部屋に住むフリッツ・ホンカは、日々、売春街にある「ゴールデングローブ」というバーにいた。酒浸りで、いつでも酒を飲んでいる。またそのバーは、女性が男から酒をおごってもらうとSEXをする、という合意となるような店で、年配の太った女性の多い店内で、ホンカは酒を奢ろうとして断られる。ホンカは、猫背で顔もブサイク、女性からなかなか好ましく思われる人間ではない。しかし、帰る家がなさそうなゲルダという女性に酒を奢り、二人はホンカの家へと向かう。
仕事から戻る前までに姿を消していろ、と言われていたゲルダは、部屋の掃除などをして結局ホンカが帰ってくるまで家にいる。ホンカはゲルダから、30歳になる娘がいるという話を聞き出し、会わせるという条件でしばらくゲルダを家に置くことにしたが…。
というような話です。
ドイツに実在した連続殺人犯をモデルにした映画です。とにかく映画全体が、こういう言い方は良くないかもしれないけど、「醜い」感じで進んでいく。ホンカの家も、ホンカの容姿も、ホンカの家にやってくる女性たちも、非常に「醜く」描かれている。当時のドイツにおける、かなり下層な階級の人たちの生活をリアルに切り取っているんだろうと思うけど、映画のほぼ全編が、こんなに「醜い」感じで大丈夫だろうか、と思くらいでした。
でもその「醜さ」が、物凄いリアルさを生み出していることもまた事実だなと感じます。
この映画では、割と色んなことが説明されずに展開していく。特に、人間の行動の理解出来なさみたいなものは結構ある。作中の登場人物たちは、その場面で、どうしてそういう行動になるんだろうなぁ、というのが、スッと理解できないと感じる場面は結構あった。
でもそういうものも、映画全体を貫く「醜さ」が、納得感を与えている感じはあります。要するに、「自分とは一線を画する世界の話だ」というラインが、その「醜さ」によって引かれるような感じがするんですね。だから、理解できないことに対するもどかしさみたいなものをそこまで感じないのかもしれない、と思う。
この映画では、とにかくホンカが、躊躇なく人を殺す。葛藤も感じさせないまま、あっさりと人を殺す。ホンカの内面が表に見えてくる場面があまりなく、殺人という行為を、ホンカが「悪いこと」だと感じているかどうかさえ、よく分からない。たぶん監督は、そういう存在としてこの殺人鬼を描くことにしたんだと思う。だからこそ、この映画には、必然的に「理解出来なさ」みたいなものが漂うことになる。理解ということを拒んでいるように見える作品において、この「醜さ」が、ある意味でこの作品を成立させているなぁ、と思う。
この映画を観てずっと感じてたのは、主演の俳優の凄さだ。
映画を観る前に事前情報を調べないので、この映画の場合も、主演がこんなに若いイケメンだとは知らなかった。毎回特殊メイクに3時間掛かるという。
この映画のホンカは、確かに見た目も良くないのだけど、それ以上に、振る舞いに問題がある。基本的には、アルコール中毒なのだろう。飲むと自分を抑えられなくなってしまう。しかも、飲んでいない時でも、女性に向ける視線がギラギラしている。常にSEXのことを考えているようで、ヤれればなんでもいい、というような感じがある。
一方で、ホンカが分かりやすい狂気を発揮するのは、屋根裏部屋でだけだ。もちろんそこ以外の場所でも、誰かをじっと見つめたり、後をつけたりと、変な行動はしているのだけど、売春街ではさほどそういう行動も目立たない、のだと思う。ホンカは、少なくとも屋根裏部屋以外では、あからさまに目をつけられるようなことはしない。一方、屋根裏部屋では、感情のブレーキがどこか壊れてしまっているかのような、脈絡というものを完全に逸したような行動を取る。
そういう振る舞いのすべてが、変な言い方だけど、様になっている。実際のフリッツ・ホンカという人間がどういう人だったのかもちろん知らないが、「映画の中に存在するフリッツ・ホンカ」として、この役者は、驚異的な存在感を醸し出すことに成功している。「正当性」のまったくない行為に対して、そこに正当性があるかのような強引さ、傲慢さみたいなものを自然と体現していく有り様は、観ていて凄みを感じた。
この映画を見ると、「人間の理解出来なさ」が理解できる。フリッツ・ホンカというのは、その「理解出来なさ」が極限まで高まり、外側にも漏れ出してしまった人だが、外側に漏れ出すかどうかはともかくとして、誰もが、「理解出来なさ」は抱え持って生きているのだと思う。それを自覚して制御出来るかどうか。
この映画におけるホンカの存在感があまりにも強かったために、ホンカのような存在はどうにでも生まれうると感じさせられる。ホンカの存在そのものよりも、その事実の方がより怖く感じさせられる。
「屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ」を観に行ってきました
人生を成立させられるかどうかは、やっぱりこの1点に掛かっているんだろうなぁ、と思う。
どれだけ恵まれなくても、どれだけ貧しくても、存在意義を感じられるなら、たぶん生きられる。でもそうでなくなった時、自分の手元にどれだけたくさんのものがあっても、満足出来ないだろうな、と。
存在意義は大体、誰かとの関係で生まれるものだと思う。
自分一人だけいても、なかなかそれを感じることはできない。
どういう理由でか、誰かに自分の存在を認めてもらえると、生きている価値を感じることができる。自分が望んだ形で自分の存在を認めてもらえれば、なお良い。
こういう考えは当たり前だと思うが、しかし、当たり前すぎて、きちんと認識できなくなってしまうと、いろいろ難しくなっていくだろう。
そしてその認識は、やはり、自分が人生の何に重点を置いているのかによっても変わってくる。
家族との関係を大事にしていれば、家族に認められたいと思う。異性との関係が深まることを望んでいれば、異性に認められたいと思う。自分が理想とする認められ方が、現状と大きく違えば違うほど、人生の困難さが増す。
その困難さと直面した時にどう振る舞うのか。結局、誰もがそういう問いにぶつかりうるし、そこでの決断が、人生を大きく変えることになるかもしれない。
内容に入ろうと思います。
舞台は、1970年代ドイツ。集合住宅の屋根裏部屋に住むフリッツ・ホンカは、日々、売春街にある「ゴールデングローブ」というバーにいた。酒浸りで、いつでも酒を飲んでいる。またそのバーは、女性が男から酒をおごってもらうとSEXをする、という合意となるような店で、年配の太った女性の多い店内で、ホンカは酒を奢ろうとして断られる。ホンカは、猫背で顔もブサイク、女性からなかなか好ましく思われる人間ではない。しかし、帰る家がなさそうなゲルダという女性に酒を奢り、二人はホンカの家へと向かう。
仕事から戻る前までに姿を消していろ、と言われていたゲルダは、部屋の掃除などをして結局ホンカが帰ってくるまで家にいる。ホンカはゲルダから、30歳になる娘がいるという話を聞き出し、会わせるという条件でしばらくゲルダを家に置くことにしたが…。
というような話です。
ドイツに実在した連続殺人犯をモデルにした映画です。とにかく映画全体が、こういう言い方は良くないかもしれないけど、「醜い」感じで進んでいく。ホンカの家も、ホンカの容姿も、ホンカの家にやってくる女性たちも、非常に「醜く」描かれている。当時のドイツにおける、かなり下層な階級の人たちの生活をリアルに切り取っているんだろうと思うけど、映画のほぼ全編が、こんなに「醜い」感じで大丈夫だろうか、と思くらいでした。
でもその「醜さ」が、物凄いリアルさを生み出していることもまた事実だなと感じます。
この映画では、割と色んなことが説明されずに展開していく。特に、人間の行動の理解出来なさみたいなものは結構ある。作中の登場人物たちは、その場面で、どうしてそういう行動になるんだろうなぁ、というのが、スッと理解できないと感じる場面は結構あった。
でもそういうものも、映画全体を貫く「醜さ」が、納得感を与えている感じはあります。要するに、「自分とは一線を画する世界の話だ」というラインが、その「醜さ」によって引かれるような感じがするんですね。だから、理解できないことに対するもどかしさみたいなものをそこまで感じないのかもしれない、と思う。
この映画では、とにかくホンカが、躊躇なく人を殺す。葛藤も感じさせないまま、あっさりと人を殺す。ホンカの内面が表に見えてくる場面があまりなく、殺人という行為を、ホンカが「悪いこと」だと感じているかどうかさえ、よく分からない。たぶん監督は、そういう存在としてこの殺人鬼を描くことにしたんだと思う。だからこそ、この映画には、必然的に「理解出来なさ」みたいなものが漂うことになる。理解ということを拒んでいるように見える作品において、この「醜さ」が、ある意味でこの作品を成立させているなぁ、と思う。
この映画を観てずっと感じてたのは、主演の俳優の凄さだ。
映画を観る前に事前情報を調べないので、この映画の場合も、主演がこんなに若いイケメンだとは知らなかった。毎回特殊メイクに3時間掛かるという。
この映画のホンカは、確かに見た目も良くないのだけど、それ以上に、振る舞いに問題がある。基本的には、アルコール中毒なのだろう。飲むと自分を抑えられなくなってしまう。しかも、飲んでいない時でも、女性に向ける視線がギラギラしている。常にSEXのことを考えているようで、ヤれればなんでもいい、というような感じがある。
一方で、ホンカが分かりやすい狂気を発揮するのは、屋根裏部屋でだけだ。もちろんそこ以外の場所でも、誰かをじっと見つめたり、後をつけたりと、変な行動はしているのだけど、売春街ではさほどそういう行動も目立たない、のだと思う。ホンカは、少なくとも屋根裏部屋以外では、あからさまに目をつけられるようなことはしない。一方、屋根裏部屋では、感情のブレーキがどこか壊れてしまっているかのような、脈絡というものを完全に逸したような行動を取る。
そういう振る舞いのすべてが、変な言い方だけど、様になっている。実際のフリッツ・ホンカという人間がどういう人だったのかもちろん知らないが、「映画の中に存在するフリッツ・ホンカ」として、この役者は、驚異的な存在感を醸し出すことに成功している。「正当性」のまったくない行為に対して、そこに正当性があるかのような強引さ、傲慢さみたいなものを自然と体現していく有り様は、観ていて凄みを感じた。
この映画を見ると、「人間の理解出来なさ」が理解できる。フリッツ・ホンカというのは、その「理解出来なさ」が極限まで高まり、外側にも漏れ出してしまった人だが、外側に漏れ出すかどうかはともかくとして、誰もが、「理解出来なさ」は抱え持って生きているのだと思う。それを自覚して制御出来るかどうか。
この映画におけるホンカの存在感があまりにも強かったために、ホンカのような存在はどうにでも生まれうると感じさせられる。ホンカの存在そのものよりも、その事実の方がより怖く感じさせられる。
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