数学する身体(森田真生)
内容に入る前にまず、著者自身について書いてみたい。
著者は現在、独立研究者として、どこの組織や研究室に所属するわけでもなく、数学を研究している。趣味でやっている、という程度ではないだろうし、数学の研究から派生したもので生計を立てている人だと思うので、数学者という職業だと言っていい。
しかし著者は、元々文系学部に所属していたという。文系から東京大学数学科に転向したという異色の経歴の持ち主だ。東京大学に限らず、大学の数学科にいる人間なんか、化け物みたいなのばっかりなのだから、僕からすればとても信じられない。
さて、転向のきっかけになったのが、現在はスマートニュースのCEOとしても活躍する鈴木健氏だったそう。
【森田さんが数学に興味をもったのは、十数年前のクリスマス・イブになぜか二人でバーで飲みながら、カントールの対角線論法を伝えたのがひとつにきっかけになっている。カントールの対角線論法は、私が大学時代にもっとも戦慄した手法だったので、クリスマスプレゼントとして適切だと思ったからだ】
と鈴木氏は書いている。
僕も、「数学で最も好きな理論は?」と聞かれたら、躊躇なくこのカントールの対角線論法を挙げる。これは、数学に馴染みのない人でも、丁寧に論証を追っていけば理解できるもので、「無限の大きさを比較する」という、そもそも何を言ってるんだか分からないようなことに使われるものだ。このカントールの対角線論法について著者の反応は、
【カントールの対角線論法が正しいとは全く納得出来ないと、不快な表情で訴えた】
という感じだったという。しかしそこから数学の道に入るようになり、今では数学に関するイベントを数多く開き、また本書で小林秀雄賞を最年少で受賞するという快挙も成し遂げている。
さて、そんな著者が本書で中心的に扱うテーマは、「身体性」である。数学というものがいかに人間の身体と不可分であったか、そしていかにして人間の身体から切り離していったのか、そしてさらに、身体から切り離された数学がいかにして人間の心の問題に迫っていったのか、ということについて、数学史をざっと概略しつつ、アラン・チューリングと岡潔という二人の数学者を対比させることによって描き出していく。
先に挙げた鈴木氏も解説で、
【『数学する身体』と名付けられた本書は、生命が矛盾を包容するとはどういうことか、そのことがテーマとして貫かれている】
【本書が秀逸なのは、アラン・チューリングと岡潔という「身体性と心」に自覚的なふたりの数学者の思考の来歴を通じて、心の謎に迫るところにある】
と書いている。
また、本書のそういう記述によってさらに、「数学すること」と「生きること」の関係性についても語ろうとする。著者は文庫版あとがきの最後でこう書いている。
【数学とどう付き合うかは、どう生きるかと直結している。いまはそのことを実感している。よく生きるために数学をする。そういう数学があってもいいはずである。この直感に、私は形を与えていきたい。そのためには、いまここにある数学だけでなく、「あり得たかもしれない数学(Math as it could be)」の可能性を探求していく必要がある。それはもちろん、一人でできる仕事ではない。
私は原っぱに一枚の板を立てる代わりに、読者のもとへ、この一冊を贈る。ここに集い、地べたに座るようにして「数学とは何か」「数学とはなんであり得るのか」と、情熱を持って問うすべての読者とともに数学の未来を育んでいきたい。この本は、そんな願いを込めて蒔いた、最初の種子なのである】
それではまず、本書で描かれる数学史についてざっと触れようと思うが、ここでは「身体性」の話のために、数学における「見ること」と「計算すること」の変遷が描かれる。この点について僕は、加藤文元『物語 数学の歴史』という本で理解していた部分も多かった。要するに、「記号が整備されるまでは、数学というのは「見ること」によって行われていたが、記号の整備によって「計算すること」によって進むようになった」というような大きな流れである。本書ではその流れに「身体性」というキーワードを組み込み、「数学が人間の身体の外に出るまでの流れ」を概略していく。
その「身体」に関して、本書で紹介されている人工進化に関するとある実験を紹介しよう。人工知能に、ある機能を持ったチップを作らせる、というものだ。「配線を考える」というタスクを人工進化させ、およそ四千世代の「進化」の後で、目的とする機能を持ったチップが完成した。
しかし、そのチップは、「絶対に不可能な作られ方」をしていた。チップは100種類ほどある「論理ブロック」を組み合わせることで作られるのだが、この人工進化によって生まれたチップはその内の37個しか使っていなかった。これは、人間が設計した場合には不可能な数だという(本来であればもっと多くの論理ブロックを使う必要がある)。さらに、その37個の論理ブロックの内、5個は他の論理ブロックと繋がっていなかったという。繋がっていない論理ブロックは、機能的には何の役割も果たしていないはずだ。しかしそれでも、37個の論理ブロックのどれ一つ取り除いても、目的とする機能は実現しなくなってしまうのだという。
何故そんなことが起こるのか。さらに詳細に調べた結果、人工進化によって生み出されたチップは「電磁的な漏出や磁束」を巧みに利用していたのだという。詳細はともかく、これはどういうことかというと、人間が設計した場合「ノイズ」として取り除かれてしまうものを逆に利用して目的の機能を実現しているのだという。
これが一体なんの話に繋がるのか。
「思考」というものを考える時、誰もが普通「脳」を思い浮かべる。それは、「頭蓋骨という身体の内側に収まった脳という器官が思考を担っている」という認識だ。身体の外側にある環境に存在するものは、基本的に「ノイズ」と判断される。しかし、「思考」という認知のためのリソースは、先程のチップの設計のように、身体の外側にあるノイズだと思われているものも関わっているのではないか。
というようなことを著者は書いている。
そして、「数学」というのは当然「思考」である。だから僕らは普通に、「思考(数学)は脳内にある」と考えてしまうだろう。しかし、身体の外側にも認知のためのリソースが広がっていると考えることは、逆に言えば、思考(数学)は身体の外側に「染み出している」と考えてもいい、ということになるだろう。この視点から、著者はコンピュータの誕生を考察する。
一方、数学と身体に関してはこんな話も書かれている。
【ところで、数学の道具としての著しい性質は、それが容易に内面化されてしまう点である。はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中で想像上の数字を操作するだけで済んでしまうようになる。それは、道具としての数学が次第に自分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。
ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていたときには明らかに「行為」とみなされたことも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである】
つまり、数学というのは、身体の外側にも出ていくし、身体の内側にも入っていく、ということだ。このように「身体」というものを意識することで、「数学」というものをまた違った角度から捉えようとしている。
さてでは、本書で書かれている数学史についてざっと触れよう。
「数学」が「数式と計算」だと思っている人は多いだろうが、それは近代の西欧数学の特徴であるに過ぎない。古代において数学は「見る」ものだった。「+」や「∫」のような記号がまだ整備されていなかった時代には、図で書き表した図形そのものが、数学にとっての研究対象であり、それらを自然言語(日常使うような言葉)で説明していた。しかし17世紀に入ると、今数学の世界で使われているような記号がようやく使われるようになり、そこから計算が主流になっていく。
例えば「作図」というのは、「現実に描けるもの」という制約を持つことになる。つまり、「見る」ことをベースに数学を行うということは、扱える対象が限られているということになる。しかし、記号を使えば、物理的な存在の有無に関わらず数学の対象とすることができる。例えば虚数「i」などは、物理的に存在するものとしては捉えられないが、しかし今では、数学を扱う者であれば、その存在を誰も疑ってはいない。このようにして、記号化というのは強力な武器となっていく。
やがて微分積分が発明され、数学はさらに高度になっていくが、しかし、それまでの「見る」ことをベースにした論証もまだ残っており、特に微分積分は幾何学的直観から自由になっていなかった。そこに危機感を覚える者も出てくるようになる。
また一方で、「無限」に絡む多くの問題が出てくるようにもなる。記号化されるまで、数学者たちは肉眼で数学を見ていたようなものだったが、記号化によって精緻に論証が出来るようになると、まさに顕微鏡で数学を見るような状況になってきた。すると、肉眼では確認できなかった「直感を裏切る現象」が次々と発見されるようになる。
そこで、計算重視の時代から、概念・論証を重視する時代と変わっていき、その中で「集合論」が重視されるようになっていく。同じような概念をまとめて記述出来る集合論は、新しい数学の論証にとって非常に有用だったが、しかしその一方で、その集合論自体にも欠陥が見つかるようになってきて、数学の「基礎」に関わる危機感を多くの数学者が持つようになった。
そういう中で出てきたのがヒルベルトだ。彼が主張したことを簡単に説明することはなかなか難しいが、要するに「数学全体について議論するのを止めよう」という具体的な提案をした、という感じになるだろうか。
恐らく喩えとして正しくはないが、こういう説明をしてみよう。あなたは学生だとしよう。既に夏休み明けで、クラスメートたちの情報も色々知っていて、様々な関係性が生まれている。さて、このクラスでいじめ問題が発生し、ホームルームが開かれることになった。いじめられているAさんや、いじめているB・C・Dくんなどについて話し合いたいのだけど、いじめられているAさんの悪い部分も知っているし、いじめているB・C・Dくんの良いところも知っているから、なかなか「いじめそのもの」の議論をすることが難しい。だから先生は、このクラスのことではなく、どこかの架空のクラスのことについて考えさせることにした。そこには、いじめられているaさんや、いじめているb・c・dさんがいて、彼らがどういう行動をしているのか分かっている。しかし、Aさんとaさんは別人だし、他の人もそうだ。だから単純に、「aさんとb・c・dさんの行為についての議論」がしやすくなる。
ヒルベルトの提案も、ちょっと似ている。彼は、数学というものについて考えると、その意味や内容にみんなが引っかかって、議論が進まないと考えた。だから、自分たちが接している「数学」とよく似た姿を持つ「形式系」というものについて考えようと提案したのだ。「数学」についてはみんな思い入れがそれぞれあるから議論が難しくなるけど、「形式系」だったらそんなことはないから客観的に議論が出来る。で、「形式系」について議論してみて、それが「無矛盾」だったら、「形式系」と似た「数学」のことも「無矛盾」だって思ってもいいんじゃない?という提案をし、それを実行に移そうとした。
実際には、ゲーデルという天才数学者が、「無矛盾な形式系があったとしても、その形式系は自身の無矛盾性を証明できないぜ」ってことを証明してしまったために、ヒルベルトのやろうとしたことは彼の望む形では実現しなかったのだが、しかしその副産物としてコンピュータが生まれた。ヒルベルトがやろうとしたことは、数学から「身体」を削ぎ落とし、物理的直感や数学者の感覚などという曖昧なものから数学を自立させようという動きだったが、その考え方を身に着けたアラン・チューリングが、「計算についての数学」について徹底的に考えを巡らせたことでコンピュータが生まれたのだ。
【その壮大な企ての副産物として、コンピュータが産み落とされた。行為としての「計算」が、身体から切り離され、それ自身の自律性を獲得したとき、それは身体を持たない機械として動き出したのである】
さて、「計算する機械」という発想を生み出したアラン・チューリングは、しかし一方で、人間の「心」に関心を持っていた。というか、「機械」からのアプローチによって「心」に迫れるのではないか、と考えていたという。彼は、「心」という哲学的な対象に迫るために、一枚一枚その皮を剥がしていった。今の人工知能のアイデアを生み出したのもアラン・チューリングであり、「機械」をいかにして「心」に近づけるのか、もっと言えば、いかにして「機械」で「心」を作るのか、という命題に立ち向かうことで、アラン・チューリングはコンピュータや人工知能という革新的な概念を生み出し、【チューリングは数学の歴史に、大きな革命をもたらした】のだ。
しかし著者は、「心」に迫るためのアプローチとして、アラン・チューリングの方法にあまり共感していない。「数学」と「心」という問題を考える上で、著者の中には常に、岡潔という数学者の存在がある。
岡潔は生涯で10編の論文を記した。これは、圧倒的に少ない。しかも、30代後半からは故郷の紀見村に籠もり、数学と農耕だけをしていたという、かなり稀有な数学者だ。しかし彼は、「多変数複素解析関数」という分野で世界を驚かせる大発見をした。彼が発見した「不定域イデアル」という理論は、やがて現代数学を支える最も重要な概念を生むきっかけとなり、これにより、国内でも無名だった岡潔の名前は世界で知られるようになる。
彼は、この「不定域イデアル」の理論を発見した際のことを「情緒型の発見」と呼んでいた。彼にとって「数学」というのは「情緒」によって捉えるものであり、それはまた、人間の「心」に至る道でもあった。アラン・チューリングは、数学を身体から切り離し、客観化された対象を分析的に理解しようとしたが、岡潔は、
【数学と心通わせ合って、それと一つになって「わかろう」とした】
のである。
この感覚の説明のために、岡潔は、道元禅師の
【聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水】
という歌をよく引いたという。この歌について著者はこんな風に書いている。
【外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識にのぼらない。ところがあるとき、ふと我に返る。その刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本島の「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説をする。
自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である】
チューリングは「心」を作ることで理解しようとしたが、岡は「心」になることで理解しようとした、ということだ。
こんな風にして著者は、数学史を概観しながら「身体」の問題を捉えつつ、「数学」によって人間の「心」に迫ろうとした者たちを取り上げる。一般的な数学書とは大分趣の異なる内容で、数学書と思って読むよりは、哲学書と思って読んだ方が読後感は近いかもしれない。
森田真生「数学する身体」
著者は現在、独立研究者として、どこの組織や研究室に所属するわけでもなく、数学を研究している。趣味でやっている、という程度ではないだろうし、数学の研究から派生したもので生計を立てている人だと思うので、数学者という職業だと言っていい。
しかし著者は、元々文系学部に所属していたという。文系から東京大学数学科に転向したという異色の経歴の持ち主だ。東京大学に限らず、大学の数学科にいる人間なんか、化け物みたいなのばっかりなのだから、僕からすればとても信じられない。
さて、転向のきっかけになったのが、現在はスマートニュースのCEOとしても活躍する鈴木健氏だったそう。
【森田さんが数学に興味をもったのは、十数年前のクリスマス・イブになぜか二人でバーで飲みながら、カントールの対角線論法を伝えたのがひとつにきっかけになっている。カントールの対角線論法は、私が大学時代にもっとも戦慄した手法だったので、クリスマスプレゼントとして適切だと思ったからだ】
と鈴木氏は書いている。
僕も、「数学で最も好きな理論は?」と聞かれたら、躊躇なくこのカントールの対角線論法を挙げる。これは、数学に馴染みのない人でも、丁寧に論証を追っていけば理解できるもので、「無限の大きさを比較する」という、そもそも何を言ってるんだか分からないようなことに使われるものだ。このカントールの対角線論法について著者の反応は、
【カントールの対角線論法が正しいとは全く納得出来ないと、不快な表情で訴えた】
という感じだったという。しかしそこから数学の道に入るようになり、今では数学に関するイベントを数多く開き、また本書で小林秀雄賞を最年少で受賞するという快挙も成し遂げている。
さて、そんな著者が本書で中心的に扱うテーマは、「身体性」である。数学というものがいかに人間の身体と不可分であったか、そしていかにして人間の身体から切り離していったのか、そしてさらに、身体から切り離された数学がいかにして人間の心の問題に迫っていったのか、ということについて、数学史をざっと概略しつつ、アラン・チューリングと岡潔という二人の数学者を対比させることによって描き出していく。
先に挙げた鈴木氏も解説で、
【『数学する身体』と名付けられた本書は、生命が矛盾を包容するとはどういうことか、そのことがテーマとして貫かれている】
【本書が秀逸なのは、アラン・チューリングと岡潔という「身体性と心」に自覚的なふたりの数学者の思考の来歴を通じて、心の謎に迫るところにある】
と書いている。
また、本書のそういう記述によってさらに、「数学すること」と「生きること」の関係性についても語ろうとする。著者は文庫版あとがきの最後でこう書いている。
【数学とどう付き合うかは、どう生きるかと直結している。いまはそのことを実感している。よく生きるために数学をする。そういう数学があってもいいはずである。この直感に、私は形を与えていきたい。そのためには、いまここにある数学だけでなく、「あり得たかもしれない数学(Math as it could be)」の可能性を探求していく必要がある。それはもちろん、一人でできる仕事ではない。
私は原っぱに一枚の板を立てる代わりに、読者のもとへ、この一冊を贈る。ここに集い、地べたに座るようにして「数学とは何か」「数学とはなんであり得るのか」と、情熱を持って問うすべての読者とともに数学の未来を育んでいきたい。この本は、そんな願いを込めて蒔いた、最初の種子なのである】
それではまず、本書で描かれる数学史についてざっと触れようと思うが、ここでは「身体性」の話のために、数学における「見ること」と「計算すること」の変遷が描かれる。この点について僕は、加藤文元『物語 数学の歴史』という本で理解していた部分も多かった。要するに、「記号が整備されるまでは、数学というのは「見ること」によって行われていたが、記号の整備によって「計算すること」によって進むようになった」というような大きな流れである。本書ではその流れに「身体性」というキーワードを組み込み、「数学が人間の身体の外に出るまでの流れ」を概略していく。
その「身体」に関して、本書で紹介されている人工進化に関するとある実験を紹介しよう。人工知能に、ある機能を持ったチップを作らせる、というものだ。「配線を考える」というタスクを人工進化させ、およそ四千世代の「進化」の後で、目的とする機能を持ったチップが完成した。
しかし、そのチップは、「絶対に不可能な作られ方」をしていた。チップは100種類ほどある「論理ブロック」を組み合わせることで作られるのだが、この人工進化によって生まれたチップはその内の37個しか使っていなかった。これは、人間が設計した場合には不可能な数だという(本来であればもっと多くの論理ブロックを使う必要がある)。さらに、その37個の論理ブロックの内、5個は他の論理ブロックと繋がっていなかったという。繋がっていない論理ブロックは、機能的には何の役割も果たしていないはずだ。しかしそれでも、37個の論理ブロックのどれ一つ取り除いても、目的とする機能は実現しなくなってしまうのだという。
何故そんなことが起こるのか。さらに詳細に調べた結果、人工進化によって生み出されたチップは「電磁的な漏出や磁束」を巧みに利用していたのだという。詳細はともかく、これはどういうことかというと、人間が設計した場合「ノイズ」として取り除かれてしまうものを逆に利用して目的の機能を実現しているのだという。
これが一体なんの話に繋がるのか。
「思考」というものを考える時、誰もが普通「脳」を思い浮かべる。それは、「頭蓋骨という身体の内側に収まった脳という器官が思考を担っている」という認識だ。身体の外側にある環境に存在するものは、基本的に「ノイズ」と判断される。しかし、「思考」という認知のためのリソースは、先程のチップの設計のように、身体の外側にあるノイズだと思われているものも関わっているのではないか。
というようなことを著者は書いている。
そして、「数学」というのは当然「思考」である。だから僕らは普通に、「思考(数学)は脳内にある」と考えてしまうだろう。しかし、身体の外側にも認知のためのリソースが広がっていると考えることは、逆に言えば、思考(数学)は身体の外側に「染み出している」と考えてもいい、ということになるだろう。この視点から、著者はコンピュータの誕生を考察する。
一方、数学と身体に関してはこんな話も書かれている。
【ところで、数学の道具としての著しい性質は、それが容易に内面化されてしまう点である。はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中で想像上の数字を操作するだけで済んでしまうようになる。それは、道具としての数学が次第に自分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。
ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていたときには明らかに「行為」とみなされたことも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである】
つまり、数学というのは、身体の外側にも出ていくし、身体の内側にも入っていく、ということだ。このように「身体」というものを意識することで、「数学」というものをまた違った角度から捉えようとしている。
さてでは、本書で書かれている数学史についてざっと触れよう。
「数学」が「数式と計算」だと思っている人は多いだろうが、それは近代の西欧数学の特徴であるに過ぎない。古代において数学は「見る」ものだった。「+」や「∫」のような記号がまだ整備されていなかった時代には、図で書き表した図形そのものが、数学にとっての研究対象であり、それらを自然言語(日常使うような言葉)で説明していた。しかし17世紀に入ると、今数学の世界で使われているような記号がようやく使われるようになり、そこから計算が主流になっていく。
例えば「作図」というのは、「現実に描けるもの」という制約を持つことになる。つまり、「見る」ことをベースに数学を行うということは、扱える対象が限られているということになる。しかし、記号を使えば、物理的な存在の有無に関わらず数学の対象とすることができる。例えば虚数「i」などは、物理的に存在するものとしては捉えられないが、しかし今では、数学を扱う者であれば、その存在を誰も疑ってはいない。このようにして、記号化というのは強力な武器となっていく。
やがて微分積分が発明され、数学はさらに高度になっていくが、しかし、それまでの「見る」ことをベースにした論証もまだ残っており、特に微分積分は幾何学的直観から自由になっていなかった。そこに危機感を覚える者も出てくるようになる。
また一方で、「無限」に絡む多くの問題が出てくるようにもなる。記号化されるまで、数学者たちは肉眼で数学を見ていたようなものだったが、記号化によって精緻に論証が出来るようになると、まさに顕微鏡で数学を見るような状況になってきた。すると、肉眼では確認できなかった「直感を裏切る現象」が次々と発見されるようになる。
そこで、計算重視の時代から、概念・論証を重視する時代と変わっていき、その中で「集合論」が重視されるようになっていく。同じような概念をまとめて記述出来る集合論は、新しい数学の論証にとって非常に有用だったが、しかしその一方で、その集合論自体にも欠陥が見つかるようになってきて、数学の「基礎」に関わる危機感を多くの数学者が持つようになった。
そういう中で出てきたのがヒルベルトだ。彼が主張したことを簡単に説明することはなかなか難しいが、要するに「数学全体について議論するのを止めよう」という具体的な提案をした、という感じになるだろうか。
恐らく喩えとして正しくはないが、こういう説明をしてみよう。あなたは学生だとしよう。既に夏休み明けで、クラスメートたちの情報も色々知っていて、様々な関係性が生まれている。さて、このクラスでいじめ問題が発生し、ホームルームが開かれることになった。いじめられているAさんや、いじめているB・C・Dくんなどについて話し合いたいのだけど、いじめられているAさんの悪い部分も知っているし、いじめているB・C・Dくんの良いところも知っているから、なかなか「いじめそのもの」の議論をすることが難しい。だから先生は、このクラスのことではなく、どこかの架空のクラスのことについて考えさせることにした。そこには、いじめられているaさんや、いじめているb・c・dさんがいて、彼らがどういう行動をしているのか分かっている。しかし、Aさんとaさんは別人だし、他の人もそうだ。だから単純に、「aさんとb・c・dさんの行為についての議論」がしやすくなる。
ヒルベルトの提案も、ちょっと似ている。彼は、数学というものについて考えると、その意味や内容にみんなが引っかかって、議論が進まないと考えた。だから、自分たちが接している「数学」とよく似た姿を持つ「形式系」というものについて考えようと提案したのだ。「数学」についてはみんな思い入れがそれぞれあるから議論が難しくなるけど、「形式系」だったらそんなことはないから客観的に議論が出来る。で、「形式系」について議論してみて、それが「無矛盾」だったら、「形式系」と似た「数学」のことも「無矛盾」だって思ってもいいんじゃない?という提案をし、それを実行に移そうとした。
実際には、ゲーデルという天才数学者が、「無矛盾な形式系があったとしても、その形式系は自身の無矛盾性を証明できないぜ」ってことを証明してしまったために、ヒルベルトのやろうとしたことは彼の望む形では実現しなかったのだが、しかしその副産物としてコンピュータが生まれた。ヒルベルトがやろうとしたことは、数学から「身体」を削ぎ落とし、物理的直感や数学者の感覚などという曖昧なものから数学を自立させようという動きだったが、その考え方を身に着けたアラン・チューリングが、「計算についての数学」について徹底的に考えを巡らせたことでコンピュータが生まれたのだ。
【その壮大な企ての副産物として、コンピュータが産み落とされた。行為としての「計算」が、身体から切り離され、それ自身の自律性を獲得したとき、それは身体を持たない機械として動き出したのである】
さて、「計算する機械」という発想を生み出したアラン・チューリングは、しかし一方で、人間の「心」に関心を持っていた。というか、「機械」からのアプローチによって「心」に迫れるのではないか、と考えていたという。彼は、「心」という哲学的な対象に迫るために、一枚一枚その皮を剥がしていった。今の人工知能のアイデアを生み出したのもアラン・チューリングであり、「機械」をいかにして「心」に近づけるのか、もっと言えば、いかにして「機械」で「心」を作るのか、という命題に立ち向かうことで、アラン・チューリングはコンピュータや人工知能という革新的な概念を生み出し、【チューリングは数学の歴史に、大きな革命をもたらした】のだ。
しかし著者は、「心」に迫るためのアプローチとして、アラン・チューリングの方法にあまり共感していない。「数学」と「心」という問題を考える上で、著者の中には常に、岡潔という数学者の存在がある。
岡潔は生涯で10編の論文を記した。これは、圧倒的に少ない。しかも、30代後半からは故郷の紀見村に籠もり、数学と農耕だけをしていたという、かなり稀有な数学者だ。しかし彼は、「多変数複素解析関数」という分野で世界を驚かせる大発見をした。彼が発見した「不定域イデアル」という理論は、やがて現代数学を支える最も重要な概念を生むきっかけとなり、これにより、国内でも無名だった岡潔の名前は世界で知られるようになる。
彼は、この「不定域イデアル」の理論を発見した際のことを「情緒型の発見」と呼んでいた。彼にとって「数学」というのは「情緒」によって捉えるものであり、それはまた、人間の「心」に至る道でもあった。アラン・チューリングは、数学を身体から切り離し、客観化された対象を分析的に理解しようとしたが、岡潔は、
【数学と心通わせ合って、それと一つになって「わかろう」とした】
のである。
この感覚の説明のために、岡潔は、道元禅師の
【聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水】
という歌をよく引いたという。この歌について著者はこんな風に書いている。
【外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識にのぼらない。ところがあるとき、ふと我に返る。その刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本島の「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説をする。
自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である】
チューリングは「心」を作ることで理解しようとしたが、岡は「心」になることで理解しようとした、ということだ。
こんな風にして著者は、数学史を概観しながら「身体」の問題を捉えつつ、「数学」によって人間の「心」に迫ろうとした者たちを取り上げる。一般的な数学書とは大分趣の異なる内容で、数学書と思って読むよりは、哲学書と思って読んだ方が読後感は近いかもしれない。
森田真生「数学する身体」
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