「HUMAN LOST 人間失格」を観に行ってきました
冒頭で「原案 『人間失格』」って表示されたけど、人物名とキャラクターの設定ぐらいだろう、参考にしてるのは。いや、「人間失格」をちゃんと読めてない僕的には、物語全体に通底する哲学的な部分まで同じなのかどうかについては、判断出来ないけども。
それにしても、アニメというのは、哲学を語るのに非常に良い器だなぁ、と思う。元々は、SFというジャンルそのものが、哲学と相性が良いのだろうけど、SFがアニメという器と結びつくことで、若い人にも見てもらえる。「哲学」として打ち出すと敬遠されるようなことであっても、「アニメ」として提示すれば受け入れられる、という意味で、アニメというのは非常にうまく使われているな、と思う。この作品で描かれていることも、結局のところは、大昔から議論されている「管理社会」の話だ。テクノロジーが進化することで、それまで人類には不可能だったことまで、選択肢に入ってくるようになった。今まで、「幸福」や「自由」というのは、「元々存在するもの」という扱いだったはずだ。今自分がそれを手に入れられていないとしたら、それは、それらが存在する場所にたどり着けていないからだ、という発想だった。しかし、テクノロジーの進化によって、「幸福」や「自由」は「人間が作り出すもの」になりつつある。
これまでは「元々存在するもの」だったから、「幸福」や「自由」の定義が人それぞれ違っていても問題はなかった。社会全体として目指すべき方向性が規定されることもあるが、そこから逸れることも出来るし、他人とは違う「幸福」や「自由」を追い求めることはいくらでもできた。
しかし、「人間が作り出すもの」になってしまえば、そうはいかない。時間や資源は有限だから、人間は「幸福」や「自由」をきちんと定義し、その定義された一種類を生み出すことに専念するようになる。
これが、「管理社会」という発想を生む。何が管理されるのか、ということは大した問題ではない。少数の人類が規定し、生み出した何かを押し付けられること。それが管理だ。
そして、管理は選別を生む。誰かが生み出した「幸福」や「自由」を否定したければ、「幸福」や「自由」を諦めるしかない。受け入れられる者だけが選ばれ、そうでない者は排除される。
SFなどで描かれる、未来社会の対立は、大体このような構造を持っているように思う。
僕は確実に、誰かに押し付けられる価値観を否定する側に立つだろう。誰かが決めてくれる「幸福」や、誰かが決めてくれる「自由」なんてクソ喰らえだ。だから僕は、「管理社会」を否定するし、そういう世の中になってしまったとすれば、選ばれない側を自ら選択するだろう。
ただ。今の世の中を見ていると、「管理社会」への可能性は益々高まっているなぁ、と感じる。僕がそう感じる理由は2つある。
1つは、これは多くの人が感じていることではあるだろうが、GoogleやFacebookなどの一部の巨大企業がプラットフォームとして世界中を牛耳る体制が出来ている、ということだ。かつては、国営企業でもない限り、企業活動が生活インフラとして扱われることなどなかったはずだ。しかし今は、LINEやamazonなど、民間企業の企業活動が生活インフラとして機能している。そしてこの状況に、多くの人が慣れている。ある意味で、「管理されている状態」への嫌悪感が少ない、ということだ。この感じだと、この映画で登場するような「シェル」が現れても、多くの人はそこまで違和感なく受け入れるのかもしれない、と思えてしまう。
もう1つは、価値観があまりにも分散しすぎている、ということだ。インターネットが登場するまでは、ある種の「大きな物語」をみんなが信じていられた。例えば、「新卒で就職して結婚して子どもをもうけて家を建てる」「みんなが同じテレビを見ていて、次の日その話をする」みたいなことが当たり前の時代もあった。しかし今は、個々人の価値観が多様になりすぎていて、「大きな物語」がまったく意味をなさなくなっていく。この傾向は、益々加速するだろう。
そうなった時、国はどうするか?極端な発想をすれば、方向性は2つある。
1つは、国という概念を諦める、ということ。恐らくこの方向は難しいだろうが、国という制約を取り払い、「地球人類」というような括りが成り立てば、いくら価値観が分散しても困らないだろう。国ではなく、価値観が合う者同士でコミュニティを作り、その中で通用するルールを制定出来るような仕組みがもし出来るなら良いだろう。
もう1つは、国という単位を維持するために、強制的に「大きな物語」に従わせるという方向だ。そしてこれは、まさに「管理社会」そのものだと言える。価値観の分散を食い止めるために、「幸福とはこうである」「自由とはこうである」と定め、それに従えるに人間のみを選別していく、ということを考える人間は、間違いなく出てくるだろう。
価値観が分散すればするほど、「1つにまとめよう」という力学も働きやすくなる。震災やラグビーワールドカップのような、国全体での一体感を共有出来るような経験があると、そのような「大きな物語」を提示しやすくもなるし、そういう「みんなで1つのまとまりを作ろう」というような動きはちょくちょく感じるようになったなぁ、と思う。これはまさに、価値観が分散しているからこそ成り立つ動きだ。みんなが同じ方向を向いている時には、言う必要がない。
この映画では、「幸福」を「死なないこと」と定義する者が登場する。その価値観によって社会が構築され、そして、それに反発する者が登場する、という図式だ。上の世代の人のことは分からないが、僕は、同世代や僕よりも下の世代に話を聞くと、「長く生きたくはない」「五体満足なら長生きしてもいいけど」というような意見を聞くことが多い。だから恐らく、僕らが住んでいるこの現実では、この映画のようなことは起こらないだろう、と思う。長生きしたい、と思う世代が生きている内に、この映画で描かれるようなシステムが作り出せるとは思えないからだ。
とはいえ、まったく別の価値観に基づいた管理や選別が、人知れず行われる、ということは十分にあり得る。それがなんなのか僕には分からないが、なんにせよ、管理社会が到来するんであれば、僕が死んでからにしてほしいと思う。
内容に入ろうと思います。
昭和111年。グランプと呼ばれる四大医療革命によって、人類は医者を必要としない生活を手に入れた。怪我をしてもナノマシンが修復してくれ、病気になっても万能医療薬が治してくれる。人類は、120歳を超えると「合格式」を迎え、合格者となる。合格者は、「健康基準」に組み入れられ、その健康基準を元に、全国民の健康が管理される、という仕組みだ。人類は、死を克服することが出来たのだ。人類の健康は、「シェル」という組織が一括で管理しており、また、「シェル」と共に研究開発を行う「澁田機関」というものが存在する。
しかし、生活は容易ではない。社会は、恵まれた文明を享受できる「環状七号線内(インサイド)」と、そこからあぶれた「環状七号線外(アウトサイド)」に分断され、特にアウトサイドでの生活は厳しい。死なない身体になったとはいえ、一日19時間も働かなければ
ならなかったりするのだ。
一方、インサイドでは、「ロスト現象」と呼ばれる謎の現象が起こっている。まだ頻度は多くないものの、「ロスト現象」は国民には極秘なので、秘密裏に処理しなければならない。人類は死を克服したはずなのだが、何らかの理由によって身体が怪物のように変異してしまうのだ。その原因を作り出しているのが、堀木正雄だと考えられているのだが、ロスト状態になった者を駆除するために特殊部隊が日々待機しており、また、ロスト状態になるかもしれない者をサーチするための役割を、柊美子という女性が担っている。
アウトサイドで一人暮らしをする大庭葉蔵は、日がな一日絵を描いている。友人は、竹一のみだ。ある日竹一が、何度目かになる、インサイドへの突入計画に葉蔵を誘う。爆弾を搭載した霊柩車を護送して、レインボーブリッジの封鎖を突破しよう、というのだ。気乗りしない葉蔵だったが、ついていくことにする。その直前、堀木から薬を渡された竹一と葉蔵。竹一はこれで、本来の姿を取り戻せると意気込んでいたが…。
というような話です。
観ながらずっと感じていたことは、「よくもまあこんな物語を思いつくものだなぁ」ということでした。
管理社会の到来した近未来が舞台で、冒頭からしばらくは、世界観を把握するのが結構難しかったです。未だに、「文明曲線って何がどうなってるんだっけ?」とか「結局アプリカントってなんなんだっけ?」など、きちんと理解できていない部分はあります。ただ、物語を追っていけばちゃんと設定は理解できるように作られているし、理解できればある程度はついていけます。
ただ、結局何と何が対立してるんだっけ?というのが時々ついていけなくなります。
いや、考え方としてはちゃんとわかります。柊美子は、「シェルによって健康が管理され、死を克服できた人類による素晴らしい未来」を追っているし、堀木正雄は「死を奪われたことで生を奪われてしまった人類をやり直す」ことを目指します。ただ、それらを目指すための行動として彼らがやっていることが、なんというのか高度すぎて、この行動が彼らの理想のためになるんだっけ?あれ?と悩んだりしちゃう場面は結構ありました。
そういう意味では、簡単に理解できる物語ではない、という感じはします。
ただまあ、それでいいんだよな、とも思うわけです。この作品のベースになっている価値観は、「文明を維持すべきか否か」ということでもあります。そしてこの問いは、まさに今僕らが直面している問いでもありますよね。温暖化や環境破壊など、僕らは今、自分たちが住む地球を破壊する存在でもあります。文明を維持しようとすれば自然を破壊してしまう、しかし、文明を手に入れてしまった人類がそれを手放すことは難しい、というジレンマは、僕らも今持っているものです。そしてこの作品では、そのための解決として、「文明を延命する」というとりあえずの結論を出します。そして、そのために導入されるのが、四大医療革命であるグランプなわけです。
僕らは今、自然との共生をどうすべきかという部分について、結論が出せていないどころか、そもそも問題を共有することすらままならない、という状態にいます。このように、非常に大きな問題というのはそもそも、容易に結論が出せる類のものではないわけです。この映画では、僕らが生きる現代よりも遥かにテクノロジーが進化している世界を描いているので、同列に比較することは出来ないけれども、僕らが置かれている問題の困難さを映画を通じて理解する、というような見方も出来るだろうな、という気はしました。
登場人物たちのセリフでやはり気になったのは「死」に関係するものですね。
【人間が人間であるためには、死が必要なんだよ】
というのは、本当にその通りだな、と感じます。僕は昔から、長生きに興味がなかったし、むしろ死にたいと思っていた人間です。「いつか死ぬ」とか「何かあったら死ねばいい」というような感覚が、自分を支えてくれていた時期もありました。だから、「死」というものが奪われることの怖さというのは、昔から感じていたと思います。
人間であることを奪われたくないものだな、と思いました。
「HUMAN LOST 人間失格」を観に行ってきました
それにしても、アニメというのは、哲学を語るのに非常に良い器だなぁ、と思う。元々は、SFというジャンルそのものが、哲学と相性が良いのだろうけど、SFがアニメという器と結びつくことで、若い人にも見てもらえる。「哲学」として打ち出すと敬遠されるようなことであっても、「アニメ」として提示すれば受け入れられる、という意味で、アニメというのは非常にうまく使われているな、と思う。この作品で描かれていることも、結局のところは、大昔から議論されている「管理社会」の話だ。テクノロジーが進化することで、それまで人類には不可能だったことまで、選択肢に入ってくるようになった。今まで、「幸福」や「自由」というのは、「元々存在するもの」という扱いだったはずだ。今自分がそれを手に入れられていないとしたら、それは、それらが存在する場所にたどり着けていないからだ、という発想だった。しかし、テクノロジーの進化によって、「幸福」や「自由」は「人間が作り出すもの」になりつつある。
これまでは「元々存在するもの」だったから、「幸福」や「自由」の定義が人それぞれ違っていても問題はなかった。社会全体として目指すべき方向性が規定されることもあるが、そこから逸れることも出来るし、他人とは違う「幸福」や「自由」を追い求めることはいくらでもできた。
しかし、「人間が作り出すもの」になってしまえば、そうはいかない。時間や資源は有限だから、人間は「幸福」や「自由」をきちんと定義し、その定義された一種類を生み出すことに専念するようになる。
これが、「管理社会」という発想を生む。何が管理されるのか、ということは大した問題ではない。少数の人類が規定し、生み出した何かを押し付けられること。それが管理だ。
そして、管理は選別を生む。誰かが生み出した「幸福」や「自由」を否定したければ、「幸福」や「自由」を諦めるしかない。受け入れられる者だけが選ばれ、そうでない者は排除される。
SFなどで描かれる、未来社会の対立は、大体このような構造を持っているように思う。
僕は確実に、誰かに押し付けられる価値観を否定する側に立つだろう。誰かが決めてくれる「幸福」や、誰かが決めてくれる「自由」なんてクソ喰らえだ。だから僕は、「管理社会」を否定するし、そういう世の中になってしまったとすれば、選ばれない側を自ら選択するだろう。
ただ。今の世の中を見ていると、「管理社会」への可能性は益々高まっているなぁ、と感じる。僕がそう感じる理由は2つある。
1つは、これは多くの人が感じていることではあるだろうが、GoogleやFacebookなどの一部の巨大企業がプラットフォームとして世界中を牛耳る体制が出来ている、ということだ。かつては、国営企業でもない限り、企業活動が生活インフラとして扱われることなどなかったはずだ。しかし今は、LINEやamazonなど、民間企業の企業活動が生活インフラとして機能している。そしてこの状況に、多くの人が慣れている。ある意味で、「管理されている状態」への嫌悪感が少ない、ということだ。この感じだと、この映画で登場するような「シェル」が現れても、多くの人はそこまで違和感なく受け入れるのかもしれない、と思えてしまう。
もう1つは、価値観があまりにも分散しすぎている、ということだ。インターネットが登場するまでは、ある種の「大きな物語」をみんなが信じていられた。例えば、「新卒で就職して結婚して子どもをもうけて家を建てる」「みんなが同じテレビを見ていて、次の日その話をする」みたいなことが当たり前の時代もあった。しかし今は、個々人の価値観が多様になりすぎていて、「大きな物語」がまったく意味をなさなくなっていく。この傾向は、益々加速するだろう。
そうなった時、国はどうするか?極端な発想をすれば、方向性は2つある。
1つは、国という概念を諦める、ということ。恐らくこの方向は難しいだろうが、国という制約を取り払い、「地球人類」というような括りが成り立てば、いくら価値観が分散しても困らないだろう。国ではなく、価値観が合う者同士でコミュニティを作り、その中で通用するルールを制定出来るような仕組みがもし出来るなら良いだろう。
もう1つは、国という単位を維持するために、強制的に「大きな物語」に従わせるという方向だ。そしてこれは、まさに「管理社会」そのものだと言える。価値観の分散を食い止めるために、「幸福とはこうである」「自由とはこうである」と定め、それに従えるに人間のみを選別していく、ということを考える人間は、間違いなく出てくるだろう。
価値観が分散すればするほど、「1つにまとめよう」という力学も働きやすくなる。震災やラグビーワールドカップのような、国全体での一体感を共有出来るような経験があると、そのような「大きな物語」を提示しやすくもなるし、そういう「みんなで1つのまとまりを作ろう」というような動きはちょくちょく感じるようになったなぁ、と思う。これはまさに、価値観が分散しているからこそ成り立つ動きだ。みんなが同じ方向を向いている時には、言う必要がない。
この映画では、「幸福」を「死なないこと」と定義する者が登場する。その価値観によって社会が構築され、そして、それに反発する者が登場する、という図式だ。上の世代の人のことは分からないが、僕は、同世代や僕よりも下の世代に話を聞くと、「長く生きたくはない」「五体満足なら長生きしてもいいけど」というような意見を聞くことが多い。だから恐らく、僕らが住んでいるこの現実では、この映画のようなことは起こらないだろう、と思う。長生きしたい、と思う世代が生きている内に、この映画で描かれるようなシステムが作り出せるとは思えないからだ。
とはいえ、まったく別の価値観に基づいた管理や選別が、人知れず行われる、ということは十分にあり得る。それがなんなのか僕には分からないが、なんにせよ、管理社会が到来するんであれば、僕が死んでからにしてほしいと思う。
内容に入ろうと思います。
昭和111年。グランプと呼ばれる四大医療革命によって、人類は医者を必要としない生活を手に入れた。怪我をしてもナノマシンが修復してくれ、病気になっても万能医療薬が治してくれる。人類は、120歳を超えると「合格式」を迎え、合格者となる。合格者は、「健康基準」に組み入れられ、その健康基準を元に、全国民の健康が管理される、という仕組みだ。人類は、死を克服することが出来たのだ。人類の健康は、「シェル」という組織が一括で管理しており、また、「シェル」と共に研究開発を行う「澁田機関」というものが存在する。
しかし、生活は容易ではない。社会は、恵まれた文明を享受できる「環状七号線内(インサイド)」と、そこからあぶれた「環状七号線外(アウトサイド)」に分断され、特にアウトサイドでの生活は厳しい。死なない身体になったとはいえ、一日19時間も働かなければ
ならなかったりするのだ。
一方、インサイドでは、「ロスト現象」と呼ばれる謎の現象が起こっている。まだ頻度は多くないものの、「ロスト現象」は国民には極秘なので、秘密裏に処理しなければならない。人類は死を克服したはずなのだが、何らかの理由によって身体が怪物のように変異してしまうのだ。その原因を作り出しているのが、堀木正雄だと考えられているのだが、ロスト状態になった者を駆除するために特殊部隊が日々待機しており、また、ロスト状態になるかもしれない者をサーチするための役割を、柊美子という女性が担っている。
アウトサイドで一人暮らしをする大庭葉蔵は、日がな一日絵を描いている。友人は、竹一のみだ。ある日竹一が、何度目かになる、インサイドへの突入計画に葉蔵を誘う。爆弾を搭載した霊柩車を護送して、レインボーブリッジの封鎖を突破しよう、というのだ。気乗りしない葉蔵だったが、ついていくことにする。その直前、堀木から薬を渡された竹一と葉蔵。竹一はこれで、本来の姿を取り戻せると意気込んでいたが…。
というような話です。
観ながらずっと感じていたことは、「よくもまあこんな物語を思いつくものだなぁ」ということでした。
管理社会の到来した近未来が舞台で、冒頭からしばらくは、世界観を把握するのが結構難しかったです。未だに、「文明曲線って何がどうなってるんだっけ?」とか「結局アプリカントってなんなんだっけ?」など、きちんと理解できていない部分はあります。ただ、物語を追っていけばちゃんと設定は理解できるように作られているし、理解できればある程度はついていけます。
ただ、結局何と何が対立してるんだっけ?というのが時々ついていけなくなります。
いや、考え方としてはちゃんとわかります。柊美子は、「シェルによって健康が管理され、死を克服できた人類による素晴らしい未来」を追っているし、堀木正雄は「死を奪われたことで生を奪われてしまった人類をやり直す」ことを目指します。ただ、それらを目指すための行動として彼らがやっていることが、なんというのか高度すぎて、この行動が彼らの理想のためになるんだっけ?あれ?と悩んだりしちゃう場面は結構ありました。
そういう意味では、簡単に理解できる物語ではない、という感じはします。
ただまあ、それでいいんだよな、とも思うわけです。この作品のベースになっている価値観は、「文明を維持すべきか否か」ということでもあります。そしてこの問いは、まさに今僕らが直面している問いでもありますよね。温暖化や環境破壊など、僕らは今、自分たちが住む地球を破壊する存在でもあります。文明を維持しようとすれば自然を破壊してしまう、しかし、文明を手に入れてしまった人類がそれを手放すことは難しい、というジレンマは、僕らも今持っているものです。そしてこの作品では、そのための解決として、「文明を延命する」というとりあえずの結論を出します。そして、そのために導入されるのが、四大医療革命であるグランプなわけです。
僕らは今、自然との共生をどうすべきかという部分について、結論が出せていないどころか、そもそも問題を共有することすらままならない、という状態にいます。このように、非常に大きな問題というのはそもそも、容易に結論が出せる類のものではないわけです。この映画では、僕らが生きる現代よりも遥かにテクノロジーが進化している世界を描いているので、同列に比較することは出来ないけれども、僕らが置かれている問題の困難さを映画を通じて理解する、というような見方も出来るだろうな、という気はしました。
登場人物たちのセリフでやはり気になったのは「死」に関係するものですね。
【人間が人間であるためには、死が必要なんだよ】
というのは、本当にその通りだな、と感じます。僕は昔から、長生きに興味がなかったし、むしろ死にたいと思っていた人間です。「いつか死ぬ」とか「何かあったら死ねばいい」というような感覚が、自分を支えてくれていた時期もありました。だから、「死」というものが奪われることの怖さというのは、昔から感じていたと思います。
人間であることを奪われたくないものだな、と思いました。
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