「i―新聞記者ドキュメント―」を観に行ってきました
これは面白かったなぁ!
まず、映画そのものとはまったく関係のない話から始めたいと思う。「働く」ってどうなっていくだろうか、という話だ。
映画を観ながら考えていたことは、「『情熱』を突き詰めることでしか、『仕事』は成り立たなくなるんだろうなぁ」ということだ。
AIが仕事を奪う論が世間をざわつかせてからもう何年も経つ。どの程度人間のしごとが奪われるか、正確に予測することは難しいだろうが、しかし、確実にある程度奪われはするだろう。人間が、「退屈だ」「面倒だ」と感じている作業であればあるほど、AIによって自動化する動機は強くなるし、実際に機械に入れ替わっていくだろう。
そう考えていくと、人間が関われる領域というのは、「私はこれがやりたい!」と強く思うものしか無くなるだろう。もちろん、「やりたい!」と感じることが、機械化によって人間が関わるづらくなる可能性はあるが、しかし、人間の「やりたい!」という情熱は、ファジーな形で人間の心を揺さぶるし、ある意味でそれは、AIには不可能なことだと言える。現象としては機械で再現できることであっても、「やりたい!」という情熱がこもったものに触れたい、というニーズは、おそらく、社会にAIが組み込まれた世の中であっても生き残るんじゃないかと思っている。
そうなると、考えておかなければいけないことは、「仕事と趣味の境界はどこにあるのか?」ということだ。もはや、お金が発生するかどうか、というようなレベルで、その境界線を引くのは難しくなるだろう。お金が発生しなくても「仕事」と呼べるものは、既に様々な領域で存在しているように思うし、その可能性は益々拡大していくだろうと思う。
ではその境界をどこに置くか。やはりそれは、「自分以外の誰かのためになる」という部分しかないだろう、と思うのだ。
そういう意味で、この映画の主人公である望月衣塑子は、未来においても生き残るだろう「仕事」をしているなぁ、と感じる。情熱があり、自分以外の誰かのためになっているからだ。
僕は彼女について、名前は聞いたことはあったが、具体的にどういう人であるのか、明確には理解していなかった。映画を観始めてしばらく経っても、まだ分からなかった。しかし映画を観ていく中でようやく、新聞記者として望月衣塑子の特異性が理解できるようになってきた。
彼女を有名にしているものは、菅官房長官の記者会見における質問である。質問の内容そのものも、足で取材をした事実を元にした、国民側に立った視点からのものであり見事なのだが、彼女の凄さは、質問の内容そのもので判断されているわけではない(語弊がないように書いておくが、質問内容が貧弱だと言いたいわけではない)。
では何故彼女は評価されているのか。それは「菅官房長官の記者会見で質問していることそのもの」である。
どういうことだろうか?
その説明のためには、「政治部記者」と「記者クラブ」について説明しなければならない。どちらも、この映画で詳しく説明されるわけではないので、僕がこれまで色んな本を読んできた知識を元に書くので、間違っている部分もあるかもしれない。
まず新聞社やテレビ局には、「政治部」というものがある(地方では無いところも多いらしい)。一般的に、事件・事故などの取材は社会部の記者が行うが、政治は政治部の記者が担当するのだ。
そして、官邸や警察など公的機関の取材においては、昔からの慣習で「記者クラブ」というものが置かれている。これは要するに、記者たちの集団である。官邸や警察としては、色んな会社の、あるいはフリーランスの記者に個別に対応するのは大変だ。だから、記者の集団である「記者クラブ」というものを作ってもらって、官邸や警察はその記者クラブの代表、あるいは記者クラブの集団の場に対して交渉なり発表なりをする。日本の政治取材においては、この記者クラブに入っているかどうかというのは非常に大きく、記者クラブに入っていなければ、そもそも記者会見の場に入れない(入れても質問できない)のだ。
この「記者クラブ」という仕組みは、日本独特のものだ。この映画の中で、外国人記者が多数望月と話す場面があるが、そこで、日本の政治取材に対する疑問が多数出される。
日本で外国人記者が政治取材をすることは、ほぼ不可能だ。現在、菅官房長官の記者会見に外国人記者が入るためには、何らかの要件を満たした推薦者2人の署名入りの申請書が必要だそうで、さらに、会場に入れても質問は出来ない。欧米では、職能集団のまとまりとして「ギルド」というものが発達しており、ジャーナリストは、取材の許可証を、会社ではなくギルドから発行してもらうのだという。また日本の政治における記者会見では、記者から事前に質問を提出させることが慣習として存在するが、それについても外国人記者は一笑に付す。ある外国人記者は、「日本のメディアは、誠実さについては後退した」というような発言をしている。まあ、そうだろう。政治部の記者は、記者クラブから追い出されたり、政治家との仲が悪くなることを恐れて、斬り込むような質問が出来ない。それをいいことに、官邸は、国民の知る権利を無視したようなやり方を平然と行う。
そういう状況にあって、望月衣塑子は、正面切って菅官房長官に質問するのだ。だからこそ、その特異性が際立つ。
何故そんなことが出来るのかと言うと、理由の一つは、彼女は政治部ではなく社会部の記者だということと関係している。政治部の「なあなあ」のような取材方法は、社会部には存在しない。真正面から斬り込んでいくのが社会部のスタイルだ。彼女は、同じ手法を、官邸の場でやっているだけなのだが、政治の世界ではそのやり方があまりにも異質すぎて目立ってしまうのだ。
とはいえ、政治部の記者が正面切って質問しないのには、政治取材ならではの理由もあるのだという。映画の中で誰かが発言していたが、「記者たるもの、自分が得た情報を、記者会見で質問するみたいな形で面に出すバカはいない」ということらしい。つまり、質問する中で自分が得た情報をオープンにしなければいけないわけだから、それを他社の記者がいるような場で出すのは愚の骨頂だ、ということだ。しかし、そんな風に言われても、彼女は自分のスタイルを崩そうとはしない。
彼女は、菅官房長官への質問の度に、妨害を受ける。官邸の報道室長である上村氏が、望月衣塑子の質問中に何度も、「質問に入ってください」と声を上げるのだ。望月氏は、何故その質問をするのかという経緯を含めて説明しているのに、「質問に入ってください」と露骨に急かされる。また、暗黙の了解として、望月氏は2つまでしか質問をさせてもらえなくなった。望月氏が1つ質問を終えると、毎回、「この後の予定がありますので、質問は次で最後にしていただきます」と上村氏が言うのだ。この点についても改めて菅官房長官に質問をすると、「それは記者クラブの方で調整してください」というような返答が返ってくる。この映画で使われている、菅官房長官の望月氏への反応だけ見ると、とにかく菅官房長官は、望月氏への質問にまともに返答する気がないな、ということがよく分かる。一度など、「あなたにその返答をする必要はありません」と答えている場面もあった。すげぇな。
映画の中で指摘されるのは、「官邸の記者会見の主催者は誰か?」ということだ。なるほど、この問いかけは面白い。本来的には、官邸の記者会見は、記者クラブが主催のはずなのだ。しかし、司会や質問制限などは、官邸側が行う。この、「官邸の記者会見の主催者は誰か?」という点を明確に出来なかったことが、記者クラブのがうまく機能しない理由の一つではないか、と誰かが語っていた。
望月氏の質問に我慢がならなくなったのか、官邸側は異例の発表をする。実名こそ出さなかったが、「特定の記者」と名指し(明らかに望月氏を指している)した上で、「事実に基づかない質問に苦言を呈す」という発表をしたのだ。これはネットも含めて大きくニュースで取り上げられた。この問題は国会でも取り上げられ、野党議員からの質問に、菅氏は自らの言葉で、「事実に基づかない質問を平然と言い放つ。そうしたことは絶対に許されないと思います」と語っている。
しかし、「事実に基づかない質問」ってなんだ?と、映画の中でも疑問が突きつけられる。そもそも記者側は、「これは事実ですか?」や、「これが事実だとしたら責任はどうなりますか?」ということを質問するのだ。当たり前だろう。事実かどうか分からないから質問するのだ。それを、「事実に基づかない質問」と切り捨ててしまっては、記者は何も質問できなくなるし、政治の監視など不可能だ。
この映画を観ていて、その点における、政治家と国民の温度差みたいなものを大きく感じた。
この映画には、元文科省の事務次官だった前川氏も少し登場する。加計学園問題において、圧力となるような文書は存在しないとした官邸に反旗を翻す形で、自らこの資料の共有に携わっているから間違いなく存在する、と資料を公表した人物だ。その公表の数日前に、出会い系バーに通っていることを新聞に書かれたが、その少し前に、この記事を差し止めるから、圧力文書の公表を控えるよう話があった(と明言していたかどうかは覚えていない。そういう話があるんだろうな、という前川氏の想像の話だったかもしれない)という話も興味深かったけど、その前川氏が今の安倍政権について、「安倍政権は基本的に、国民をバカだと思っていると思う」という発言も印象的だった。まあそうだろうな、と僕も感じる。最近も、桜を見る会の名簿のシュレッダー問題の説明があまりにもお粗末すぎて、こんなんで納得する国民がいると思ってるんだろうか、という感じだったが、とにかく、「国民はすぐ忘れるから大丈夫」と思っているんだろうな、と僕も感じる。
菅官房長官の「事実に基づかない質問云々」からも、そういう雰囲気を感じる。過程はともかく、結果さえ整えておけば、過程の部分はみんな忘れてくれるから大丈夫、というような感覚があるんじゃないかなぁ、と思えてしまう。
そういう中で、望月氏は、全力で闘っていく。その姿を、ドキュメンタリー作家である森達也氏が追う、という映画だ。
この映画の撮影時に話題になっていたのは、「辺野古への基地移設」「加計学園問題」「森友学園問題」などである。またこの映画には、伊藤詩織氏も登場する。彼女は、昏睡中に性的暴行を受けたと、防犯カメラの映像やタクシー運転手などの証言を集めた上で被害を訴えた。そして、それを行った男性への逮捕状が請求され、いよいよ逮捕、という直前に、証拠不十分として逮捕が取りやめになったのだ。その背景には、安倍首相への配慮があるのではないか、と考えられている。加害男性(とここでは表記する)はその後、「総理」というタイトルの本を出版した。総理に最も食い込んだ男、という触れ込みだ。そしてそういう本を出す予定の人物が逮捕されたらマズい、という判断から逮捕が取りやめになったのではないか、と憶測されているのだ。
この伊藤氏は、実は、望月氏が官邸に乗り込むきっかけになった人物でもある。伊藤氏の事件を知った望月氏は、明らかにこの状況はおかしいと考え、その疑問を突きつけようと、社会部の記者でありながら、官邸に向かうことにしたのだ。
望月氏のやり方は凄いと思うし、応援したいと思う。その気持ちはちゃんとある。ただ、映画を観ながらやっぱり思ってしまうのは、「政治的な主張をすることの、そこはかとない気持ち悪さ」みたいなものだ。これがどこから湧いてくるのか、僕には良く分からない。頭の中では、「本来的には、政治的な発言をして自らの立ち位置を明確にする方が良い」と思っている。欧米などでは、政治の話が出来ない人は教養がないと判断される、なんていう話もある。欧米では、俳優などの著名人も政治的な発言や活動を良くするし、そのことがそこまで本業に悪影響を与えることはない。
だからこれは日本の特殊性なんだと思う。日本の中では、どうしてか、政治的な発言や活動が「かっこ悪く見えてしまう」なと思う。これは、望月氏のことを言っているのではなく、映画の中に登場する、多くの名もなき市民たちだ。こういう発言が良くないことも頭では分かっている。彼らは、自らの意志で行動しているという意味で、行動しないで遠目に見て文章であーだこーだ言っているだけの僕より全然素晴らしい。素晴らしいんだけど、同時に、あんな風にはなりたくないんだよなぁ、と思ってしまう部分もある。
その感覚は、たぶん、森達也も持っていて、映画の最後で、そうだよなぁ、と思うことをナレーションで言っていた。正確には覚えていないが、「どんな集団に属しているかではなく、一人称単数としての意見が大事なんだ」というような話だった。それがどんなイデオロギーであっても、集団になれば暴走するし、その暴走が社会を後退させることは歴史が証明している。もちろん、政治的な要求を通すためには、ある程度のまとまりが必要なのは確かだし、集団という規模を持たなければ動かない現実はたくさんある。けれど、「集団」というものに取り込まれることで、一人ひとりちょっとずつ違うはずの「主張のトゲ」みたいなものが剥がされて丸まってしまうような印象もある。
望月氏を見ていて感じることは、もちろん彼女も、「東京新聞」という組織に所属しているからこそ出来ることがたくさんあると自覚しているが、しかしそれでも、「個」として戦おうとしている印象を強く感じた。彼女は、自分を支持してくれる人が多数いる場に出向くことがあるが、しかしそこで、徒党を組むようなことはしない。あくまでも彼女にとっては取材対象者であり、現実を知るための存在だ。そして、様々な場に出向き、様々な人に出会うことによって現実を知り、それらを武器として「個」として闘っている。その姿に、凄く良い印象を抱いた。
【社内の闘いが一番キツイですよね】
組織の中で働く以上、なかなか超えられない壁はある。それでも彼女には、ジャーナリストとして、出来る限りのことをしてもらいたいと思う。
さて、撮る側の森達也についても少し触れておこう。森達也のドキュメンタリーらしく、森達也自身も登場する。
彼がこの映画の中でチャレンジしようとしていることの一つは、「官邸で質問する望月氏を撮影する」ということだ。しかしそのハードルは非常に高い。森達也は、あらゆる可能性を考えて官邸に入ろうと努力するが、なかなか難しい。
そして、映画の中で森達也は、何度も官邸周辺に足を運ぶが、その中で警備員から、「警備上の理由で官邸を映すな」と言われたり、駅に向かいたいだけなのに歩道の通行を阻止されたりする(他の通行人は普通に歩いているのに、である)。
こういう対応からも、感覚の乖離を感じる。
普通、ごく一般的な感覚を持っている人であれば、官邸を映すなとか、この歩道を通るなと言ったり、その言ったことが映像で記録されてしまえば、自分だけではなく、官邸サイドにもマイナスに働く、と感じるのではないかと思う。これは、ある種の公権力の拡大利用だからだ。そのことが、プラスに受け取られるはずがない。特に、歩道の通行を阻止するなんていうのは、その周囲を歩いている他の歩行者(阻止されずに普通に歩いている)がいるのだから、明らかに違和感を与える行為だろう。
しかしそういうことを平気でやってしまう。それは、上から指示されているのか、あるいは現場の判断としてやっているのか分からないが、どちらにしても、感覚としてズレていると思う。これもある種の「忖度」なのだと思うが、これらの行動から伝わってしまうのは、「忖度しなければならないほど絶対的な権力を持っていて、それを行使する用意もある」ということと、「激しい忖度は逆に悪影響を及ぼすだけ」ということだ。
僕自身、そこまで政治に強く関心を持っている人間ではないから決して偉そうなことは言えないが、政治が国民感情から乖離しすぎているということへの危惧は、日々ニュースを見ながら感じることだし、このまま行くと、「緩やかな独裁」とでも言うような国になっていくんだろうな、という感じがする。全共闘の闘いや、香港のデモのような、暴力によって現状を変えていくことが正しいのかという議論はあるだろうし、僕としてもそれを是とはしたくないが、しかし、政治家以外で最も政治に近づけるだろう記者でさえ、ナチュラルに排除されつつある現状においては、緊急避難的に、暴力的なやり方でもいいから、この状況を打破する行動を起こすべきなのかなぁ、と思ったりもする。
「i―新聞記者ドキュメント―」を観に行ってきました
まず、映画そのものとはまったく関係のない話から始めたいと思う。「働く」ってどうなっていくだろうか、という話だ。
映画を観ながら考えていたことは、「『情熱』を突き詰めることでしか、『仕事』は成り立たなくなるんだろうなぁ」ということだ。
AIが仕事を奪う論が世間をざわつかせてからもう何年も経つ。どの程度人間のしごとが奪われるか、正確に予測することは難しいだろうが、しかし、確実にある程度奪われはするだろう。人間が、「退屈だ」「面倒だ」と感じている作業であればあるほど、AIによって自動化する動機は強くなるし、実際に機械に入れ替わっていくだろう。
そう考えていくと、人間が関われる領域というのは、「私はこれがやりたい!」と強く思うものしか無くなるだろう。もちろん、「やりたい!」と感じることが、機械化によって人間が関わるづらくなる可能性はあるが、しかし、人間の「やりたい!」という情熱は、ファジーな形で人間の心を揺さぶるし、ある意味でそれは、AIには不可能なことだと言える。現象としては機械で再現できることであっても、「やりたい!」という情熱がこもったものに触れたい、というニーズは、おそらく、社会にAIが組み込まれた世の中であっても生き残るんじゃないかと思っている。
そうなると、考えておかなければいけないことは、「仕事と趣味の境界はどこにあるのか?」ということだ。もはや、お金が発生するかどうか、というようなレベルで、その境界線を引くのは難しくなるだろう。お金が発生しなくても「仕事」と呼べるものは、既に様々な領域で存在しているように思うし、その可能性は益々拡大していくだろうと思う。
ではその境界をどこに置くか。やはりそれは、「自分以外の誰かのためになる」という部分しかないだろう、と思うのだ。
そういう意味で、この映画の主人公である望月衣塑子は、未来においても生き残るだろう「仕事」をしているなぁ、と感じる。情熱があり、自分以外の誰かのためになっているからだ。
僕は彼女について、名前は聞いたことはあったが、具体的にどういう人であるのか、明確には理解していなかった。映画を観始めてしばらく経っても、まだ分からなかった。しかし映画を観ていく中でようやく、新聞記者として望月衣塑子の特異性が理解できるようになってきた。
彼女を有名にしているものは、菅官房長官の記者会見における質問である。質問の内容そのものも、足で取材をした事実を元にした、国民側に立った視点からのものであり見事なのだが、彼女の凄さは、質問の内容そのもので判断されているわけではない(語弊がないように書いておくが、質問内容が貧弱だと言いたいわけではない)。
では何故彼女は評価されているのか。それは「菅官房長官の記者会見で質問していることそのもの」である。
どういうことだろうか?
その説明のためには、「政治部記者」と「記者クラブ」について説明しなければならない。どちらも、この映画で詳しく説明されるわけではないので、僕がこれまで色んな本を読んできた知識を元に書くので、間違っている部分もあるかもしれない。
まず新聞社やテレビ局には、「政治部」というものがある(地方では無いところも多いらしい)。一般的に、事件・事故などの取材は社会部の記者が行うが、政治は政治部の記者が担当するのだ。
そして、官邸や警察など公的機関の取材においては、昔からの慣習で「記者クラブ」というものが置かれている。これは要するに、記者たちの集団である。官邸や警察としては、色んな会社の、あるいはフリーランスの記者に個別に対応するのは大変だ。だから、記者の集団である「記者クラブ」というものを作ってもらって、官邸や警察はその記者クラブの代表、あるいは記者クラブの集団の場に対して交渉なり発表なりをする。日本の政治取材においては、この記者クラブに入っているかどうかというのは非常に大きく、記者クラブに入っていなければ、そもそも記者会見の場に入れない(入れても質問できない)のだ。
この「記者クラブ」という仕組みは、日本独特のものだ。この映画の中で、外国人記者が多数望月と話す場面があるが、そこで、日本の政治取材に対する疑問が多数出される。
日本で外国人記者が政治取材をすることは、ほぼ不可能だ。現在、菅官房長官の記者会見に外国人記者が入るためには、何らかの要件を満たした推薦者2人の署名入りの申請書が必要だそうで、さらに、会場に入れても質問は出来ない。欧米では、職能集団のまとまりとして「ギルド」というものが発達しており、ジャーナリストは、取材の許可証を、会社ではなくギルドから発行してもらうのだという。また日本の政治における記者会見では、記者から事前に質問を提出させることが慣習として存在するが、それについても外国人記者は一笑に付す。ある外国人記者は、「日本のメディアは、誠実さについては後退した」というような発言をしている。まあ、そうだろう。政治部の記者は、記者クラブから追い出されたり、政治家との仲が悪くなることを恐れて、斬り込むような質問が出来ない。それをいいことに、官邸は、国民の知る権利を無視したようなやり方を平然と行う。
そういう状況にあって、望月衣塑子は、正面切って菅官房長官に質問するのだ。だからこそ、その特異性が際立つ。
何故そんなことが出来るのかと言うと、理由の一つは、彼女は政治部ではなく社会部の記者だということと関係している。政治部の「なあなあ」のような取材方法は、社会部には存在しない。真正面から斬り込んでいくのが社会部のスタイルだ。彼女は、同じ手法を、官邸の場でやっているだけなのだが、政治の世界ではそのやり方があまりにも異質すぎて目立ってしまうのだ。
とはいえ、政治部の記者が正面切って質問しないのには、政治取材ならではの理由もあるのだという。映画の中で誰かが発言していたが、「記者たるもの、自分が得た情報を、記者会見で質問するみたいな形で面に出すバカはいない」ということらしい。つまり、質問する中で自分が得た情報をオープンにしなければいけないわけだから、それを他社の記者がいるような場で出すのは愚の骨頂だ、ということだ。しかし、そんな風に言われても、彼女は自分のスタイルを崩そうとはしない。
彼女は、菅官房長官への質問の度に、妨害を受ける。官邸の報道室長である上村氏が、望月衣塑子の質問中に何度も、「質問に入ってください」と声を上げるのだ。望月氏は、何故その質問をするのかという経緯を含めて説明しているのに、「質問に入ってください」と露骨に急かされる。また、暗黙の了解として、望月氏は2つまでしか質問をさせてもらえなくなった。望月氏が1つ質問を終えると、毎回、「この後の予定がありますので、質問は次で最後にしていただきます」と上村氏が言うのだ。この点についても改めて菅官房長官に質問をすると、「それは記者クラブの方で調整してください」というような返答が返ってくる。この映画で使われている、菅官房長官の望月氏への反応だけ見ると、とにかく菅官房長官は、望月氏への質問にまともに返答する気がないな、ということがよく分かる。一度など、「あなたにその返答をする必要はありません」と答えている場面もあった。すげぇな。
映画の中で指摘されるのは、「官邸の記者会見の主催者は誰か?」ということだ。なるほど、この問いかけは面白い。本来的には、官邸の記者会見は、記者クラブが主催のはずなのだ。しかし、司会や質問制限などは、官邸側が行う。この、「官邸の記者会見の主催者は誰か?」という点を明確に出来なかったことが、記者クラブのがうまく機能しない理由の一つではないか、と誰かが語っていた。
望月氏の質問に我慢がならなくなったのか、官邸側は異例の発表をする。実名こそ出さなかったが、「特定の記者」と名指し(明らかに望月氏を指している)した上で、「事実に基づかない質問に苦言を呈す」という発表をしたのだ。これはネットも含めて大きくニュースで取り上げられた。この問題は国会でも取り上げられ、野党議員からの質問に、菅氏は自らの言葉で、「事実に基づかない質問を平然と言い放つ。そうしたことは絶対に許されないと思います」と語っている。
しかし、「事実に基づかない質問」ってなんだ?と、映画の中でも疑問が突きつけられる。そもそも記者側は、「これは事実ですか?」や、「これが事実だとしたら責任はどうなりますか?」ということを質問するのだ。当たり前だろう。事実かどうか分からないから質問するのだ。それを、「事実に基づかない質問」と切り捨ててしまっては、記者は何も質問できなくなるし、政治の監視など不可能だ。
この映画を観ていて、その点における、政治家と国民の温度差みたいなものを大きく感じた。
この映画には、元文科省の事務次官だった前川氏も少し登場する。加計学園問題において、圧力となるような文書は存在しないとした官邸に反旗を翻す形で、自らこの資料の共有に携わっているから間違いなく存在する、と資料を公表した人物だ。その公表の数日前に、出会い系バーに通っていることを新聞に書かれたが、その少し前に、この記事を差し止めるから、圧力文書の公表を控えるよう話があった(と明言していたかどうかは覚えていない。そういう話があるんだろうな、という前川氏の想像の話だったかもしれない)という話も興味深かったけど、その前川氏が今の安倍政権について、「安倍政権は基本的に、国民をバカだと思っていると思う」という発言も印象的だった。まあそうだろうな、と僕も感じる。最近も、桜を見る会の名簿のシュレッダー問題の説明があまりにもお粗末すぎて、こんなんで納得する国民がいると思ってるんだろうか、という感じだったが、とにかく、「国民はすぐ忘れるから大丈夫」と思っているんだろうな、と僕も感じる。
菅官房長官の「事実に基づかない質問云々」からも、そういう雰囲気を感じる。過程はともかく、結果さえ整えておけば、過程の部分はみんな忘れてくれるから大丈夫、というような感覚があるんじゃないかなぁ、と思えてしまう。
そういう中で、望月氏は、全力で闘っていく。その姿を、ドキュメンタリー作家である森達也氏が追う、という映画だ。
この映画の撮影時に話題になっていたのは、「辺野古への基地移設」「加計学園問題」「森友学園問題」などである。またこの映画には、伊藤詩織氏も登場する。彼女は、昏睡中に性的暴行を受けたと、防犯カメラの映像やタクシー運転手などの証言を集めた上で被害を訴えた。そして、それを行った男性への逮捕状が請求され、いよいよ逮捕、という直前に、証拠不十分として逮捕が取りやめになったのだ。その背景には、安倍首相への配慮があるのではないか、と考えられている。加害男性(とここでは表記する)はその後、「総理」というタイトルの本を出版した。総理に最も食い込んだ男、という触れ込みだ。そしてそういう本を出す予定の人物が逮捕されたらマズい、という判断から逮捕が取りやめになったのではないか、と憶測されているのだ。
この伊藤氏は、実は、望月氏が官邸に乗り込むきっかけになった人物でもある。伊藤氏の事件を知った望月氏は、明らかにこの状況はおかしいと考え、その疑問を突きつけようと、社会部の記者でありながら、官邸に向かうことにしたのだ。
望月氏のやり方は凄いと思うし、応援したいと思う。その気持ちはちゃんとある。ただ、映画を観ながらやっぱり思ってしまうのは、「政治的な主張をすることの、そこはかとない気持ち悪さ」みたいなものだ。これがどこから湧いてくるのか、僕には良く分からない。頭の中では、「本来的には、政治的な発言をして自らの立ち位置を明確にする方が良い」と思っている。欧米などでは、政治の話が出来ない人は教養がないと判断される、なんていう話もある。欧米では、俳優などの著名人も政治的な発言や活動を良くするし、そのことがそこまで本業に悪影響を与えることはない。
だからこれは日本の特殊性なんだと思う。日本の中では、どうしてか、政治的な発言や活動が「かっこ悪く見えてしまう」なと思う。これは、望月氏のことを言っているのではなく、映画の中に登場する、多くの名もなき市民たちだ。こういう発言が良くないことも頭では分かっている。彼らは、自らの意志で行動しているという意味で、行動しないで遠目に見て文章であーだこーだ言っているだけの僕より全然素晴らしい。素晴らしいんだけど、同時に、あんな風にはなりたくないんだよなぁ、と思ってしまう部分もある。
その感覚は、たぶん、森達也も持っていて、映画の最後で、そうだよなぁ、と思うことをナレーションで言っていた。正確には覚えていないが、「どんな集団に属しているかではなく、一人称単数としての意見が大事なんだ」というような話だった。それがどんなイデオロギーであっても、集団になれば暴走するし、その暴走が社会を後退させることは歴史が証明している。もちろん、政治的な要求を通すためには、ある程度のまとまりが必要なのは確かだし、集団という規模を持たなければ動かない現実はたくさんある。けれど、「集団」というものに取り込まれることで、一人ひとりちょっとずつ違うはずの「主張のトゲ」みたいなものが剥がされて丸まってしまうような印象もある。
望月氏を見ていて感じることは、もちろん彼女も、「東京新聞」という組織に所属しているからこそ出来ることがたくさんあると自覚しているが、しかしそれでも、「個」として戦おうとしている印象を強く感じた。彼女は、自分を支持してくれる人が多数いる場に出向くことがあるが、しかしそこで、徒党を組むようなことはしない。あくまでも彼女にとっては取材対象者であり、現実を知るための存在だ。そして、様々な場に出向き、様々な人に出会うことによって現実を知り、それらを武器として「個」として闘っている。その姿に、凄く良い印象を抱いた。
【社内の闘いが一番キツイですよね】
組織の中で働く以上、なかなか超えられない壁はある。それでも彼女には、ジャーナリストとして、出来る限りのことをしてもらいたいと思う。
さて、撮る側の森達也についても少し触れておこう。森達也のドキュメンタリーらしく、森達也自身も登場する。
彼がこの映画の中でチャレンジしようとしていることの一つは、「官邸で質問する望月氏を撮影する」ということだ。しかしそのハードルは非常に高い。森達也は、あらゆる可能性を考えて官邸に入ろうと努力するが、なかなか難しい。
そして、映画の中で森達也は、何度も官邸周辺に足を運ぶが、その中で警備員から、「警備上の理由で官邸を映すな」と言われたり、駅に向かいたいだけなのに歩道の通行を阻止されたりする(他の通行人は普通に歩いているのに、である)。
こういう対応からも、感覚の乖離を感じる。
普通、ごく一般的な感覚を持っている人であれば、官邸を映すなとか、この歩道を通るなと言ったり、その言ったことが映像で記録されてしまえば、自分だけではなく、官邸サイドにもマイナスに働く、と感じるのではないかと思う。これは、ある種の公権力の拡大利用だからだ。そのことが、プラスに受け取られるはずがない。特に、歩道の通行を阻止するなんていうのは、その周囲を歩いている他の歩行者(阻止されずに普通に歩いている)がいるのだから、明らかに違和感を与える行為だろう。
しかしそういうことを平気でやってしまう。それは、上から指示されているのか、あるいは現場の判断としてやっているのか分からないが、どちらにしても、感覚としてズレていると思う。これもある種の「忖度」なのだと思うが、これらの行動から伝わってしまうのは、「忖度しなければならないほど絶対的な権力を持っていて、それを行使する用意もある」ということと、「激しい忖度は逆に悪影響を及ぼすだけ」ということだ。
僕自身、そこまで政治に強く関心を持っている人間ではないから決して偉そうなことは言えないが、政治が国民感情から乖離しすぎているということへの危惧は、日々ニュースを見ながら感じることだし、このまま行くと、「緩やかな独裁」とでも言うような国になっていくんだろうな、という感じがする。全共闘の闘いや、香港のデモのような、暴力によって現状を変えていくことが正しいのかという議論はあるだろうし、僕としてもそれを是とはしたくないが、しかし、政治家以外で最も政治に近づけるだろう記者でさえ、ナチュラルに排除されつつある現状においては、緊急避難的に、暴力的なやり方でもいいから、この状況を打破する行動を起こすべきなのかなぁ、と思ったりもする。
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