「蜜蜂と遠雷」を観に行ってきました
【悔しいけど、俺にもわからないよ。あっち側の世界は】
天才になりたい、とずっと思っている。
そう思っている時点で、天才でもないし、天才にもなれない。
そんなことは十分分かっている。
それでも、天才になりたい、という思いは、自分の中にずっとある。
天才にしか辿り着けない地平がある。
天才にしか見えない景色がある。
僕は、それを知りたいと思う。
天才であることの、天才であり続けることのデメリットをすべて引き受けてでも、
それを知ってみたい、と思ってしまう。
だから、「悔しい」という気持ちが、僕の中にも少しだけある。
少しだけ。
映画を見ながら、「悔しい」と感じる場面がちょこちょこあった。
冒頭の引用のシーンもそうだ。
楽器店店主で、父親でもあるコンクール挑戦者が、天才たちの戯れを目にして言ったセリフだ。
同じコンクールに出場する。
そんなレベルにいる者であっても絶望的な差を感じさせるもの。
それはどれほどの経験だろう。
僕には恐らく、一生経験出来ないんだと思う。
それを経験するためには、圧倒的を通り越した絶対的な努力が必要だからだ。
努力して努力して努力して、それでもなお掴めない、辿り着けない、という絶望。
その絶望さえ感じることが出来ない「悔しさ」も、僕の中にはある。
「天才」をどう定義するかは難しいが、
僕は印象として
「いつ何時でも楽しめる人」
「いつでも戦える人」
という印象を持っている。
どちらかであれば、僕は「天才」だと感じる。
【野原にピアノが置いてあれば、世界中に僕一人しかいなくたって、僕はきっとピアノを弾くよ】
楽しめる人は、強い。何故なら、努力を努力と思っていないからだ。他人から見れば圧倒的な絶対的な努力に見えることが、本人には努力でもなんでもない。むしろ、悦びであり、ギフトなのだ。
そういう人間には、勝てない。勝とうと思って勝てる相手じゃない。そういう天才に、僕はどうしても憧れみたいなものを感じてしまうけど、絶対にそうはなれないことは十分に理解しているから、まあしょうがない。
でも、「いつでも戦える人」にはなれるんじゃないか、とちょっと思っている。「天才」ではないが、「いつでも戦える人」にはなれるんじゃないか、と。僕はしばらくの間、そういう方向性を目指している。
高校時代、天才的に頭が良いやつがいた。進学校だったが、学校中の誰よりもずば抜けて頭が良かった。しかも、勉強している気配がない、という男だ。僕は、必死で勉強をして学力を維持していた人間だから、そういう努力を怠れば、戦いの場に出られない人間に落ちていってしまう。しかしそいつは、たとえ勉強からしばらく遠ざかっていたって、ほんの僅かな準備で戦いの場に出られるだろう。本当に、あいつは天才だったなと思う。
ただ、努力を維持し続ければ、いつでも戦いの場に出られる人で居続けることは出来る。
それは確かに、凄く大変なことだ。とはいえ、世の「天才」たちだって、本人がそれを努力だと思っているかどうかはともかくとして、努力を怠ればきっと戦えない人になってしまうだろう。だったら、天才にはなれないかもしれないけど、努力を継続することで、「いつでも戦える人」でありつづける。
今はそんな風に考えている。
【我々が試されているのだ】
本当に、そう言われるような存在に、なってみたいものだ。
内容に入ろうと思います。
10回目を数える芳ヶ江国際ピアノコンクール。国際的にも評価が高まり、若手の登竜門として注目されているコンクールに成長したが、今年はさらに大きな意味合いを持つコンクールとなった。
音楽会の至宝であるホフマンが亡くなった年なのだ。ホフマンを敬愛するものたちが関わるコンクールでは、今年のコンクールに重々しいものを感じている。
それに呼応するかのように、コンクールの応募者のレベルは例年以上であり、近年まれにみるハイレベルな争いとなった。去年の優勝者でも、今年の最終審査には残れなかったんじゃないか、という程のレベルである。
メインで描かれるのは4人。
栄伝亜夜は、幼い頃から天才少女と呼ばれ、中学生の頃には既に自身のコンサートを行っていたが、7年前、母の死を境にピアノが弾けなくなり、コンサートをドタキャン。以後7年間表舞台に出てくることはなかった。今回のコンクールを最後のチャンスと考えており、優勝できなければピアノから離れる覚悟だ。
マサル・カルロス・レヴィ・アナトールは、ジュリアード音楽院期待の星で、ルックスの良さも相まって、既に多くのファンを獲得している。彼は子供の頃、亜夜の近くに住んでいて、亜夜の母親からピアノを教わった。亜夜の背中を追いかけるようにピアノの練習を続けたという彼は、亜夜との久々の再会を喜んでいる。
高島明石は、岩手県の楽器店で働きながらこのコンクールを目指していた。28歳という年齢制限ギリギリでの挑戦ということで、最後のチャンスと捉えている。「生活者の音楽」というものを考え続けていて、ピアノに詳しくない者や子供でも楽しめるピアノを弾けることを目標にしている。音楽だけを生業にしている人間には出せない、地に足のついた人間にしか出せない音を目指して、家族の協力の元、日々の忙しい仕事の合間を縫って練習に励んできた。
そして、風間塵。映画では詳しく描かれていないが、原作を読んだ知識を合わせて紹介する。彼は4歳で養蜂家である父親の都合でヨーロッパに渡り、あちこちを転々とすることになる。そしてホフマンと出会い、彼からもらった無音鍵盤を使って日々ピアノの練習をしている。コンクールで優勝したら父親がピアノを買ってくれる、というのがコンクール出場の理由の一つであり、音楽を学んできた者たちからすればあまりに異端な道のりを歩んできている。彼はホフマンの秘蔵っ子であり、今回の芳ヶ江国際ピアノコンクールに出場するまで、公式にはピアノを弾いた経験がゼロである。予選で彼のピアノを聞いた審査員の意見は真っ二つに割れ、「あんな弾き方、冒涜だ」と言う者もいれば、「とんでもない才能の持ち主だ」という者もいる。議論は紛糾するが、しかし審査員の元に、ホフマンからの直筆の推薦状が届いていることが判明し、現代の評価軸では収まらない彼も、本線へと駒を進めることになる。
ライバルでありながら、それぞれの人生が緩やかに折り重なってく物語の中で、ピアノというものと様々な形で向き合ってきた者たちの苦悩や悦びが描かれていく。コンクールという、勝敗が明確に決する場が描かれる中にあって、仲間や協調と言った物語が織り込まれていく。
というような話です。
原作も良かったけど、映画も良かったです。ただ、どちらが良かったかと言われれば、やっぱり原作の方が良かったかな。
先にその辺りの話をしましょう。
その理由は、大きく分けて2つあります。
1つ目は、僕の個人的な理由で、「僕が音楽の良し悪しがちゃんと分かる人間ではない」ということ。これは、「羊と鋼の森」の映画を見た時にも、同じ理由で難しさを感じた部分でした。
小説の中では、すべてを言葉で説明してくれるので、登場人物たちが弾いている曲を自分で受け取る必要がなくて、著者の描写を受け入れればいい。けど映画の場合、実際そこに音楽を載せることが出来るわけだから、作り方としては当然、言葉による描写・評価は減ります。それは、音楽に素養のある人間にとっては良いことでしょうけど、音楽に素養のない僕には、逆に難しくなってしまう要因となります。
今回の映画でも、2次審査で、宮沢賢治の「春と修羅」をモチーフにした課題曲が与えられますが、その中で、カデンツァという、奏者自身が作曲するパートが存在します。そこでどういうオリジナリティを出していくのか、ということが審査のポイントになるわけですが、やはり音楽ド素人の僕には、「みんな凄いな~」みたいなふわっとした感想しか持てずに、それぞれの違いみたいなものを、言語化出来るレベルで捉えられないな、と感じました。
あと、同じような話ですけど、原作を読んでいる僕は、「風間塵の音楽は、聴衆に衝撃を与える斬新さだ」ということを、知識として知っています。しかし、やはり音楽になってしまうと、自分の感覚としてはそこに辿り着けないんですね。風間塵が、どう斬新なのか、僕自身では受け取れない。これも、言葉で説明してくれれば、「なるほど、風間塵は斬新なんだ!」と分かりますが、実際の音楽だと自分でそれを受け取らなければいけないんで大変だな、と。
音楽が主軸となる映画の場合、この難しさが僕には常につきまといます。
2つ目は、やはり分量の問題があります。原作の小説は、文庫で上下巻に分かれるくらいのかなりの分量があります。それを2時間に収めようとすれば、やはりかなり大きく削っていかなくてはいけません。この映画の場合、演奏シーンは非常に重要なので、ある程度のボリュームを維持せざるを得ません。となると削られるのは、登場人物たちのエピソードの部分、ということになります。
原作を読んでいる身としては特に、風間塵の背景が描かれなさすぎる、と感じました。というか映画では、栄伝亜夜が主人公、というような形で物語が進んでいく感じがあります。それは別にいいんですけど、ただやっぱり原作を読んで、「風間塵」という異形の存在感が物語の重要な核としてあったと感じたので、その部分はあまり描かれていないことは、正直不満に感じました。もう少し、映画が長くなってもいいから、風間塵という人物を深く描き出すような描写があればよかったなぁ、という感じはします。
とまあ、あれこれ書きましたけど、とはいえ凄く良い映画でした。冒頭で少し書きましたけど、やはり「悔しい」と感じる場面がちょくちょくあって、それと関係するのか、別に泣けるようなシーンでもないのに、ちょっとウルッとしている自分がいました。ここまで真剣に、圧倒的に、そして真っ当に全力でいられることって、いいよなぁ、なんて思ったりしました。
観ていて感じたのは、「好き」からは逃れられないよなぁ、ということ。やっぱり、「好き」というのが何よりも強いな、と思わされました。僕自身は、「好き」と感じる対象がほとんどなくて、昔からそこまで強い感情を持てたことがないんで、「好き」と強く思えること、言葉に出して言えることがそもそも羨ましいな、と思ってしまうのだけど、そういうものと出会えている、ということは、もちろん様々な困難との出会いでもあるのだけど、基本的には、凄く羨ましいことだな、と感じます。
物語とは関係ない部分で感じたことも書いておきます。
この映画は、演技にそこまで詳しくない僕の意見でしかありませんが、「演技してるっぽさ」が凄く少ない、と感じました。というか、役者がみんな「自然体」のままカメラの前にいるような、そんな錯覚を抱かせる映画でした。
僕がそう感じたのは、松岡茉優が好きだから、というのもあるかもしれません。僕は結構、松岡茉優が出ている映画とか見るんですけど、この映画の中の松岡茉優は、「松岡茉優のまんま」という感じがしたんです。もちろん、松岡茉優と知り合いでもなんでもないし、だから「松岡茉優のまんま」をそもそも知ってるわけではないんですけど、僕のイメージの中の「松岡茉優」と、この映画の中の「栄伝亜夜」は、ほぼ同じという感じがしました。
で、そういう視点で映画を見始めたからか、他の役者たちも、なんだか演技をしてる感じに見えないっていうか、役者=登場人物みたいな感じがするなぁ、と思えるようになってきました。
さらにその印象を強めたのが、風間塵を演じた鈴鹿央士です。
テレビで見て知りましたけど、この鈴鹿央士というのは、広瀬アリスがスカウトし、この映画で初主演(というか、たぶん役者が初めて)という人物です。そしてその設定が、「蜜蜂と遠雷」の中の「風間塵」という役柄に、非常に重なるんですね。それまで公式にピアノを弾いたことがない、誰にも知られていなかった男が、突然コンクールに出てきて驚くような演奏をする、というのと、これまで演技の経験もなく、大抜擢された鈴鹿央士、というのがダブるんですね。
で、鈴鹿央士の演技がうまいのかどうなのか、僕にはわかりませんけど、でもなんとなく、「すっごい素の感じっぽいなぁ」って思ったんです。松岡茉優と鈴鹿央士の2人から、「演技してないっぽい感じ」を強く感じたので、それもあって、他の役者たちにも同じような印象を受けたのかもしれません。
「栄伝亜夜という名前だけど、松岡茉優がそこにいる」という感覚、そして「登場人物の設定同様、来歴不明の存在として現れ、登場人物同様、肩の力を抜いて楽しげに演技をする鈴鹿央士」という2人の存在が僕の中では凄く際立っていたので、まるでドキュメンタリーでも見ているような感覚でした。もちろん、カット割りなんかが明らかにドキュメンタリータッチではないんで、ドキュメンタリーと錯覚したなんてわけではないんだけど、役者たちの有り様を見ていると、あれ、ドキュメンタリーなのかなこれ、と感じてしまうような瞬間は何度かありました。なんとなく、「物語に触れている感覚」が凄く薄くて、原作を読んでいるから、明らかに物語だと分かっているのに、僕の中でも不思議な感覚でした。
ドキュメンタリーっぽい、という感覚は、恐らく僕の個人的なものだと思いますけど、そういうものを抜きにしても、物語や人間同士のやり取りなどに非常に打たれる作品だと思います。
「蜜蜂と遠雷」を観に行ってきました
天才になりたい、とずっと思っている。
そう思っている時点で、天才でもないし、天才にもなれない。
そんなことは十分分かっている。
それでも、天才になりたい、という思いは、自分の中にずっとある。
天才にしか辿り着けない地平がある。
天才にしか見えない景色がある。
僕は、それを知りたいと思う。
天才であることの、天才であり続けることのデメリットをすべて引き受けてでも、
それを知ってみたい、と思ってしまう。
だから、「悔しい」という気持ちが、僕の中にも少しだけある。
少しだけ。
映画を見ながら、「悔しい」と感じる場面がちょこちょこあった。
冒頭の引用のシーンもそうだ。
楽器店店主で、父親でもあるコンクール挑戦者が、天才たちの戯れを目にして言ったセリフだ。
同じコンクールに出場する。
そんなレベルにいる者であっても絶望的な差を感じさせるもの。
それはどれほどの経験だろう。
僕には恐らく、一生経験出来ないんだと思う。
それを経験するためには、圧倒的を通り越した絶対的な努力が必要だからだ。
努力して努力して努力して、それでもなお掴めない、辿り着けない、という絶望。
その絶望さえ感じることが出来ない「悔しさ」も、僕の中にはある。
「天才」をどう定義するかは難しいが、
僕は印象として
「いつ何時でも楽しめる人」
「いつでも戦える人」
という印象を持っている。
どちらかであれば、僕は「天才」だと感じる。
【野原にピアノが置いてあれば、世界中に僕一人しかいなくたって、僕はきっとピアノを弾くよ】
楽しめる人は、強い。何故なら、努力を努力と思っていないからだ。他人から見れば圧倒的な絶対的な努力に見えることが、本人には努力でもなんでもない。むしろ、悦びであり、ギフトなのだ。
そういう人間には、勝てない。勝とうと思って勝てる相手じゃない。そういう天才に、僕はどうしても憧れみたいなものを感じてしまうけど、絶対にそうはなれないことは十分に理解しているから、まあしょうがない。
でも、「いつでも戦える人」にはなれるんじゃないか、とちょっと思っている。「天才」ではないが、「いつでも戦える人」にはなれるんじゃないか、と。僕はしばらくの間、そういう方向性を目指している。
高校時代、天才的に頭が良いやつがいた。進学校だったが、学校中の誰よりもずば抜けて頭が良かった。しかも、勉強している気配がない、という男だ。僕は、必死で勉強をして学力を維持していた人間だから、そういう努力を怠れば、戦いの場に出られない人間に落ちていってしまう。しかしそいつは、たとえ勉強からしばらく遠ざかっていたって、ほんの僅かな準備で戦いの場に出られるだろう。本当に、あいつは天才だったなと思う。
ただ、努力を維持し続ければ、いつでも戦いの場に出られる人で居続けることは出来る。
それは確かに、凄く大変なことだ。とはいえ、世の「天才」たちだって、本人がそれを努力だと思っているかどうかはともかくとして、努力を怠ればきっと戦えない人になってしまうだろう。だったら、天才にはなれないかもしれないけど、努力を継続することで、「いつでも戦える人」でありつづける。
今はそんな風に考えている。
【我々が試されているのだ】
本当に、そう言われるような存在に、なってみたいものだ。
内容に入ろうと思います。
10回目を数える芳ヶ江国際ピアノコンクール。国際的にも評価が高まり、若手の登竜門として注目されているコンクールに成長したが、今年はさらに大きな意味合いを持つコンクールとなった。
音楽会の至宝であるホフマンが亡くなった年なのだ。ホフマンを敬愛するものたちが関わるコンクールでは、今年のコンクールに重々しいものを感じている。
それに呼応するかのように、コンクールの応募者のレベルは例年以上であり、近年まれにみるハイレベルな争いとなった。去年の優勝者でも、今年の最終審査には残れなかったんじゃないか、という程のレベルである。
メインで描かれるのは4人。
栄伝亜夜は、幼い頃から天才少女と呼ばれ、中学生の頃には既に自身のコンサートを行っていたが、7年前、母の死を境にピアノが弾けなくなり、コンサートをドタキャン。以後7年間表舞台に出てくることはなかった。今回のコンクールを最後のチャンスと考えており、優勝できなければピアノから離れる覚悟だ。
マサル・カルロス・レヴィ・アナトールは、ジュリアード音楽院期待の星で、ルックスの良さも相まって、既に多くのファンを獲得している。彼は子供の頃、亜夜の近くに住んでいて、亜夜の母親からピアノを教わった。亜夜の背中を追いかけるようにピアノの練習を続けたという彼は、亜夜との久々の再会を喜んでいる。
高島明石は、岩手県の楽器店で働きながらこのコンクールを目指していた。28歳という年齢制限ギリギリでの挑戦ということで、最後のチャンスと捉えている。「生活者の音楽」というものを考え続けていて、ピアノに詳しくない者や子供でも楽しめるピアノを弾けることを目標にしている。音楽だけを生業にしている人間には出せない、地に足のついた人間にしか出せない音を目指して、家族の協力の元、日々の忙しい仕事の合間を縫って練習に励んできた。
そして、風間塵。映画では詳しく描かれていないが、原作を読んだ知識を合わせて紹介する。彼は4歳で養蜂家である父親の都合でヨーロッパに渡り、あちこちを転々とすることになる。そしてホフマンと出会い、彼からもらった無音鍵盤を使って日々ピアノの練習をしている。コンクールで優勝したら父親がピアノを買ってくれる、というのがコンクール出場の理由の一つであり、音楽を学んできた者たちからすればあまりに異端な道のりを歩んできている。彼はホフマンの秘蔵っ子であり、今回の芳ヶ江国際ピアノコンクールに出場するまで、公式にはピアノを弾いた経験がゼロである。予選で彼のピアノを聞いた審査員の意見は真っ二つに割れ、「あんな弾き方、冒涜だ」と言う者もいれば、「とんでもない才能の持ち主だ」という者もいる。議論は紛糾するが、しかし審査員の元に、ホフマンからの直筆の推薦状が届いていることが判明し、現代の評価軸では収まらない彼も、本線へと駒を進めることになる。
ライバルでありながら、それぞれの人生が緩やかに折り重なってく物語の中で、ピアノというものと様々な形で向き合ってきた者たちの苦悩や悦びが描かれていく。コンクールという、勝敗が明確に決する場が描かれる中にあって、仲間や協調と言った物語が織り込まれていく。
というような話です。
原作も良かったけど、映画も良かったです。ただ、どちらが良かったかと言われれば、やっぱり原作の方が良かったかな。
先にその辺りの話をしましょう。
その理由は、大きく分けて2つあります。
1つ目は、僕の個人的な理由で、「僕が音楽の良し悪しがちゃんと分かる人間ではない」ということ。これは、「羊と鋼の森」の映画を見た時にも、同じ理由で難しさを感じた部分でした。
小説の中では、すべてを言葉で説明してくれるので、登場人物たちが弾いている曲を自分で受け取る必要がなくて、著者の描写を受け入れればいい。けど映画の場合、実際そこに音楽を載せることが出来るわけだから、作り方としては当然、言葉による描写・評価は減ります。それは、音楽に素養のある人間にとっては良いことでしょうけど、音楽に素養のない僕には、逆に難しくなってしまう要因となります。
今回の映画でも、2次審査で、宮沢賢治の「春と修羅」をモチーフにした課題曲が与えられますが、その中で、カデンツァという、奏者自身が作曲するパートが存在します。そこでどういうオリジナリティを出していくのか、ということが審査のポイントになるわけですが、やはり音楽ド素人の僕には、「みんな凄いな~」みたいなふわっとした感想しか持てずに、それぞれの違いみたいなものを、言語化出来るレベルで捉えられないな、と感じました。
あと、同じような話ですけど、原作を読んでいる僕は、「風間塵の音楽は、聴衆に衝撃を与える斬新さだ」ということを、知識として知っています。しかし、やはり音楽になってしまうと、自分の感覚としてはそこに辿り着けないんですね。風間塵が、どう斬新なのか、僕自身では受け取れない。これも、言葉で説明してくれれば、「なるほど、風間塵は斬新なんだ!」と分かりますが、実際の音楽だと自分でそれを受け取らなければいけないんで大変だな、と。
音楽が主軸となる映画の場合、この難しさが僕には常につきまといます。
2つ目は、やはり分量の問題があります。原作の小説は、文庫で上下巻に分かれるくらいのかなりの分量があります。それを2時間に収めようとすれば、やはりかなり大きく削っていかなくてはいけません。この映画の場合、演奏シーンは非常に重要なので、ある程度のボリュームを維持せざるを得ません。となると削られるのは、登場人物たちのエピソードの部分、ということになります。
原作を読んでいる身としては特に、風間塵の背景が描かれなさすぎる、と感じました。というか映画では、栄伝亜夜が主人公、というような形で物語が進んでいく感じがあります。それは別にいいんですけど、ただやっぱり原作を読んで、「風間塵」という異形の存在感が物語の重要な核としてあったと感じたので、その部分はあまり描かれていないことは、正直不満に感じました。もう少し、映画が長くなってもいいから、風間塵という人物を深く描き出すような描写があればよかったなぁ、という感じはします。
とまあ、あれこれ書きましたけど、とはいえ凄く良い映画でした。冒頭で少し書きましたけど、やはり「悔しい」と感じる場面がちょくちょくあって、それと関係するのか、別に泣けるようなシーンでもないのに、ちょっとウルッとしている自分がいました。ここまで真剣に、圧倒的に、そして真っ当に全力でいられることって、いいよなぁ、なんて思ったりしました。
観ていて感じたのは、「好き」からは逃れられないよなぁ、ということ。やっぱり、「好き」というのが何よりも強いな、と思わされました。僕自身は、「好き」と感じる対象がほとんどなくて、昔からそこまで強い感情を持てたことがないんで、「好き」と強く思えること、言葉に出して言えることがそもそも羨ましいな、と思ってしまうのだけど、そういうものと出会えている、ということは、もちろん様々な困難との出会いでもあるのだけど、基本的には、凄く羨ましいことだな、と感じます。
物語とは関係ない部分で感じたことも書いておきます。
この映画は、演技にそこまで詳しくない僕の意見でしかありませんが、「演技してるっぽさ」が凄く少ない、と感じました。というか、役者がみんな「自然体」のままカメラの前にいるような、そんな錯覚を抱かせる映画でした。
僕がそう感じたのは、松岡茉優が好きだから、というのもあるかもしれません。僕は結構、松岡茉優が出ている映画とか見るんですけど、この映画の中の松岡茉優は、「松岡茉優のまんま」という感じがしたんです。もちろん、松岡茉優と知り合いでもなんでもないし、だから「松岡茉優のまんま」をそもそも知ってるわけではないんですけど、僕のイメージの中の「松岡茉優」と、この映画の中の「栄伝亜夜」は、ほぼ同じという感じがしました。
で、そういう視点で映画を見始めたからか、他の役者たちも、なんだか演技をしてる感じに見えないっていうか、役者=登場人物みたいな感じがするなぁ、と思えるようになってきました。
さらにその印象を強めたのが、風間塵を演じた鈴鹿央士です。
テレビで見て知りましたけど、この鈴鹿央士というのは、広瀬アリスがスカウトし、この映画で初主演(というか、たぶん役者が初めて)という人物です。そしてその設定が、「蜜蜂と遠雷」の中の「風間塵」という役柄に、非常に重なるんですね。それまで公式にピアノを弾いたことがない、誰にも知られていなかった男が、突然コンクールに出てきて驚くような演奏をする、というのと、これまで演技の経験もなく、大抜擢された鈴鹿央士、というのがダブるんですね。
で、鈴鹿央士の演技がうまいのかどうなのか、僕にはわかりませんけど、でもなんとなく、「すっごい素の感じっぽいなぁ」って思ったんです。松岡茉優と鈴鹿央士の2人から、「演技してないっぽい感じ」を強く感じたので、それもあって、他の役者たちにも同じような印象を受けたのかもしれません。
「栄伝亜夜という名前だけど、松岡茉優がそこにいる」という感覚、そして「登場人物の設定同様、来歴不明の存在として現れ、登場人物同様、肩の力を抜いて楽しげに演技をする鈴鹿央士」という2人の存在が僕の中では凄く際立っていたので、まるでドキュメンタリーでも見ているような感覚でした。もちろん、カット割りなんかが明らかにドキュメンタリータッチではないんで、ドキュメンタリーと錯覚したなんてわけではないんだけど、役者たちの有り様を見ていると、あれ、ドキュメンタリーなのかなこれ、と感じてしまうような瞬間は何度かありました。なんとなく、「物語に触れている感覚」が凄く薄くて、原作を読んでいるから、明らかに物語だと分かっているのに、僕の中でも不思議な感覚でした。
ドキュメンタリーっぽい、という感覚は、恐らく僕の個人的なものだと思いますけど、そういうものを抜きにしても、物語や人間同士のやり取りなどに非常に打たれる作品だと思います。
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Comment
[9678]
[9741]
お久しぶりです~。コメントありがとうございます!
お、2回観に行ったんですね!良い映画でしたよね。そう、やっぱり、原作をかなり削ってるなぁ、とは思いましたけど、忠実に描いていて良かったな、と。
ピアノは、難しいですよねぇ。今日、学園祭に行った時、駅に誰が弾いてもいいピアノが置いてあって、少年が華麗な音を出してました。ついでにその学園祭の場所にもピアノがあって、初めて調律をしている姿を見ました。おぉ、こんな風にやるんだなぁと、しばらく見入ってしまいました。
高島明石はいいですよね。超絶天才たちによる、常軌を逸した(笑)世界が描かれる中で、彼の存在は非常に身近で良かったですよね。
小説もですけど、コミックも「音」を表現するのが難しそうですね。ただコミックの方が、風間塵の描写をもっと上手くやれそうな気もしますね!
ドラさんもピアノと読書に励んで下さい~
お、2回観に行ったんですね!良い映画でしたよね。そう、やっぱり、原作をかなり削ってるなぁ、とは思いましたけど、忠実に描いていて良かったな、と。
ピアノは、難しいですよねぇ。今日、学園祭に行った時、駅に誰が弾いてもいいピアノが置いてあって、少年が華麗な音を出してました。ついでにその学園祭の場所にもピアノがあって、初めて調律をしている姿を見ました。おぉ、こんな風にやるんだなぁと、しばらく見入ってしまいました。
高島明石はいいですよね。超絶天才たちによる、常軌を逸した(笑)世界が描かれる中で、彼の存在は非常に身近で良かったですよね。
小説もですけど、コミックも「音」を表現するのが難しそうですね。ただコミックの方が、風間塵の描写をもっと上手くやれそうな気もしますね!
ドラさんもピアノと読書に励んで下さい~
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http://blacknightgo.blog.fc2.com/tb.php/3826-06447c34
相変わらず、通りすがりの読書量(映画も含む)には圧倒されます❗️ この映画は、私も先週見に行きました。実は2週間前にも、、、。同じ映画を2回見るということは、私にとっては珍しいです。ついでながら、原作も再読しました。
時間的な制約があるので難しいでしょうが、通りすがりさんがお書きのように 、それぞれの登場人物のドラマの部分が物足りなかった気がします。でも、原作に忠実に映画化されたなぁとは感じました。音楽のことはサッパリ(汗)でしたが、ピアノにかける想いの強さは、しっかり伝わりました。私は老後の楽しみとして、2年前からピアノ教室に通っています。息子が使っていたピアノがずっと放置されていて「勿体無いなぁ」と思ったのがキッカケですが、この映画を見た日は、珍しく熱心にピアノを練習しました(笑)。同じようにピアノを始めた友達も、そう言っていました。ピアノは難しい楽器ですが、魅力もありますので、面白いです。調律の方が来てくれて、調律が終わった後で、ちょっとした曲を試しに弾いて下さいますが、このピアノがこんな素敵な音を出すなんて…と毎回感心しています。登場人物の中では、松坂桃李さんが演じた高島明石が好きです。アマチュアのピアニストという感じで、本人もそれで良し❗️と思っている点が素敵でした。しかも作曲部門の菱沼賞を受賞しましたよね。恩田さんの「粋な計らい」と思いました。原作のボリュームからすると、それぞれの登場人物についてそれぞれ映画が1本できるくらいでしたね。見る立場からすると、やや辟易かも、、、ですが(^_^;)
そういえば、書店員さんに言うのも憚れますが、この作品のコミック版が出ていますね。それからサイドストーリーの「祝祭と予感」も。こちらは、昨日購入して読みましたが、あれっこれだけ⁉️という感じで、ちょっとガッカリでした。では、ダラダラ長くなりましたので、この辺で。お元気で読書の秋をお過ごしくださいね。