線は、僕を描く(砥上裕將)
僕はずっと、「言葉」を武器にして闘ってきたつもりだ。「闘ってきた」なんて、大げさに言ってみたけど、20代の頃頑張った自分への敬意を込めて。
文章を読んだり、文章を書いたり、フレーズを生み出したりするようなことを散々続けたことで、「言葉」は鍛えられたと思うし、明らかに見える世界が変わったと感じる。「言葉」が未熟であれば、認識できない状況や世界が世の中にはたくさんあって、まったく同じものを見ていても、「言葉」の差によって現実の捉え方はまったく変わってくる。そういうことにハッとさせられる瞬間は、面白いなと思う。
ただ、「言葉」を知れば知るほど、こんな風にも思うようになる。どれだけ「言葉」を磨いても、「言葉」では捉えられない現実は無数にあるのだな、と。
【描こうとすれば、遠ざかる。】
「言語化する」というのは、突き詰めれば突き詰めるほど、「細部を切り落とすこと」だと理解できるようになる。「言葉」は、無限にあるような気がするが、しかしやはり有限だ。そして「現実」というのは、毎時間、毎分、毎秒変化していく。その一秒一秒を、正確に等価に言語に置き換えることなど、不可能だ。
【命としての花も極限のところでは、刻々と姿を変えているのだ。(中略)命とはつまるところ、変化し続けるこの瞬間のことなのだ。】
だからこそ、「現実」の細部を切り落として、なんとか「言葉」の中に押し込めるしかない。豆腐やパン生地のように、柔軟に可変するものがやがて形を整えていくような、そういう「現実」であれば、「現実」の方をうまくこねくり回して「言葉」に合わせられる可能性もあるかもしれない。しかし、そんな「現実」ほとんどないだろう。本来であれば、「現実」のたゆまぬ変化に合わせるようにして、「言葉」の方が変化しなければならないのだが、「言葉」というものが、他者との共通理解のために使われる以上、急には変化しない。だから実際には、「現実」の細部を切り落として「言葉」にはめ込むしかないし、そうすればするほど、「言語化する」ことによって失われる「現実」の質感は大きくなっていく。
【株の根元も、絵では省略して描かれているが、しっかりとした存在感がある。見れば見るほど絵との違いは明らかだ。そして、どちらが間違っているのか、と考えれば、考えるまでもなく絵のほうが間違っているのだ。現物はこちらで、現実はここにある】
僕は、結果的に「言葉」が好きになって、「言葉」で世界を、そして自分自身を捉えようとしてきたつもりだ。そして世の中には、「言葉」以外にも様々な捉え方がある。
本書でのそれは、水墨画だ。
【水墨画はほかの絵画とは少し違うところがあります。(中略)線の性質が絵の良否を決めることが多いということです。水墨画はほとんどの場合、瞬間的に表現される絵画です。その表現を支えているのは線です。そして線を支えているのは、絵師の身体です。水墨画にはほかの絵画よりも少しだけ多くアスリート的な要素が必要です】
僕には、絵を描く素養はない。というかそもそも、映像的なもの全般が得意ではない。大人になってから、自分が人と違うことに気づいたが、僕は映像的な記憶が一切不可能だ。「りんごを頭に思い浮かべてください」と言われても出来ないし、人の顔は、その人が目の前にいなくなった瞬間に思い出せなくなるし、小説を読んでて映像が出てくることは一切ない。子どもの頃は、みんなそうだと思っていたのだが、大人になって、どうやらこういう感覚は珍しいのだと気づくようになった。
そして、僕は「言葉」を通じて、そして主人公は「水墨画」を通じて、「凄い人は凄い」という当たり前の事実に気づくことになる。
【だが、実際に自分が歩み始めると、知っていたはずの当たり前のことにさえ簡単につまずいてしまう。斉藤さんや千瑛さんの顔が浮かんだ。あの人たちはこんな悩みとずっと闘ってきたのだ。眺めているだけでは分からない。実際に手を動かし、描いて、つまずいてみなければ分からないことばかりだ。】
「現実」を捉えるための武器に近づけば近づくほど、「現実」の捉え方を見失っていく。
【我々の手は現象を追うには遅すぎるんだ】
この表現からも分かるように、水墨画というのは他の絵画と比べて、切り取っているものに大きな違いがある。長い時間を掛け、描き直すことも出来る絵画と違い、一気呵成に描き上げ、彩色もせず、描き直しも出来ない水墨画は、そもそもが「時間」を、もっと言えば「瞬間」を切り取ろうとしている。
【水墨画は確かに形を追うのではない、完成を目指すものでもない。
生きているその瞬間を描くことこそが、水墨画の本質なのだ。
自分がいまその場所に生きている瞬間の輝き、生命に対する深い共感、生きているその瞬間に感謝し賛美し、その喜びがある瞬間に筆致から伝わる。そのとき水墨画は完成する】
それは、途方もない挑戦に僕には思える。絵という、3次元ですらない空間に、4次元目である時間を組み入れようとしているのだから。
水墨画にも当然、様々に技法は存在する。しかし本書には、技法の習得や技術の高低ではない本質についての言及が多い。
【手先の技法など無意味に思えてしまうほど、その命の気配が画面の中で濃厚だった】
【けれども『絵を描く』ことは、高度な技術や自分が習得した技術をちらつかせることだけではない。それは技術を伝えてくれた『誰か』との繋がりであって、自然との繋がりではない】
【拙さが巧みさに劣るわけではないんだよ】
そして、究極的にはこの言及だろう。
【才能やセンスなんて、絵を楽しんでいるかどうかに比べればどうということもない】
水墨画、というものにまったく関心も知識もなかった僕だが、本書を読み、水墨画というものを少し理解することによって、水墨画を小説の中心テーマとして扱うことの巧みさも理解できるようになったと思う。水墨画が、「瞬間」を、そして「命」を切り取ろうとしているということ、そしてそれを成し得るのが「線」の良否であるということ。これらを理解することで、タイトルの「線は、僕を描く」という意味を著者の意図に沿って理解できるようになる気がするし、主人公の生い立ちが、「命」を描く水墨画と何故これほどうまく混じり合うのか、ということも理解できるようになる。
【現象とは、外側にしかないものなのか?心の内側に宇宙はないのか?】
水墨画の真髄を言葉で理解しようとすればするほど、それは「絵を描く」という印象から遠ざかって、「哲学する」というのに近づいていく気がした。【絵は絵空事だよ】という言葉など、まさにその最たるものだ。
【この人は、ただ単に技を突き詰めただけの絵師ではない。技を通じ、絵を描くことで生きようとしていた実直な人間なのだと、その瞬間に分かった。】
理解した、などとは到底言えない段階にいるが、水墨画を理解したい、と思わせる強さで漲っているし、その強さが、小説としての魅力にもなっている。
内容に入ろうと思います。
青山霜介は、世の中にあまり関与出来ない大学生だった。高校生の頃、交通事故で突然両親を亡くした彼は、きちんと生きるためのすべての気力を失い、自分の中にあるガラスの内側から外をぼんやりと眺めているような時間を過ごしていた。やがて、強制的に選択肢が提示され、大学に通い、一人暮らしをすることになった。
大学に入った後も、他人や世界とうまく対応できるわけではなかったが、古前という友人が出来たことで少し世界は広がった。常にサングラスを掛けた、恋にうつつを抜かす男だったが、そのシンプルな行動原理には好感が持てたし、彼と一緒にいることで少しずつ他人と関わる時間が増えていくことになった。
そんなある日のことだ。古前から手伝ってくれと頼まれたアルバイトで、人生を変える出会いをしたのは。
「飾り付けのアルバイトだ」と言われて行った青山を含む文化系のひ弱な男子数人は、展覧会の設営のために、自分の背丈よりも高いパネルを50枚以上、パーティションを100枚近く搬入しなければならなくなった。青山以外の面々が一人また一人と逃げ出す中、青山は現場にいたガテン系のお兄さんと仲良くなり、また古前の再度の采配もあって、展覧会の準備はどうにか片付いた。
そこで青山は、篠田湖山と出会う。美術の教科書に登場し、CMに出ていたこともある水墨画であり、日本を代表する芸術家だ。とはいえ、青山はこのおじいちゃんがそんな凄い人物だとは知らなかった。そして、弁当でも食べよう、などと誘われて話をしている内に、何故か湖山の内弟子になる、ということになってしまった。会場で、湖山の孫娘である篠田千瑛(同じく水墨画家だ)と出会った青山は、内弟子などほとんど取ったことがない祖父が、何故彼に目をつけたのか訝っていた。それは、青山自身が一番理解できないポイントだった。彼は別に湖山の前で絵を描いたわけではない。ただ話をしていただけだ。そして成り行き上、千瑛と青山は、来年の湖山賞(青山が手伝っていた展覧会は、まさにこの湖山賞のものだった)で勝負をすることになった。水墨画をまだ始めてもいない一介の大学生と、巨匠の孫娘として長い鍛錬を続けてきた若きエースとの闘いだ。勝負は見えている。しかし湖山は、その勝負を面白がり、勝手にその勝負を受けてしまう。青山にとっては、理解不能な展開ばかりだ。
そんな風にして、篠田湖山の家に通うことになった青山。水墨画のなんたるかも分からないまま、彼は墨をすり、筆を持ち、手を動かした。
そして水墨画の世界は、彼の人生を根底から変えていくことになる…。
というような話です。
主人公のキャラクターは、言ってしまえば弱々しいという感じなのに、そんな主人公がウロウロしながらさまよっている小説が、これほど骨太である、というギャップが新鮮な作品でした。ストーリーやキャラクターでガツンと訴えかける作品ではなく、そういう意味でインパクトが強いわけではない。でも、読んでいると、じわじわ染み込んでくるような意思の強さが感じられる。そしてその強さは、まさに主人公・青山の人間としての強さなのだ。両親の死をきっかけに自らの殻に閉じこもってしまった青山だが、その内側には、外からは見えにくい、そして彼自身も自覚できていなかった強さがある。それが、「水墨画」というものと出会うことでどう見出され、表に出ていくのか。そこにすべての焦点が当てられていて、面白い。
本書では、格言めいたというか、瞬時にその意味を捉えられないような含みを持つ言葉がたくさん登場する。
【まじめというのはね、悪くないけれど、少なくとも自然じゃない】
冒頭でも色々と引用したが、こういうものだ。こういう物言いは、時として雰囲気だけのこともある。何かそれっぽいことを言っている、という雰囲気を醸し出すために使われることもあるという印象だ。しかし本書の場合、そういう印象はない。何故そう感じるのかと言えば、青山らが対峙しているものが「言語では捉えられないもの」だと感じるからだ。
【ですが、湖山先生と私とで意見が一致していることが一つだけあります。それは、水墨画の筆法の本質は『描くこと』だということです】
何を当たり前のことを言っているんだ、という発言だし、主人公もそう感じるのだが、しかしその後で、「減筆」という言葉が出てくる。
【減筆とは端的に言えば描かないことです】
そしてここにこそ、水墨画の最高の技法は隠されている、という話になるのです。
水墨画の本質が『描くこと』であるのに、最高の技法は『描かないこと』にある。なんという矛盾だろう、という話ですが、しかしこれは結局、「水墨画」というものを「言葉」で捉えようとする限界だ、と受け取るべきなのでしょう。水墨画というものを、水墨画の論理・理屈(これは言葉によるものではない)で理解している人からすれば、その人の頭の中では矛盾はない。しかし、それを「言葉」で説明しようとすると限界がある。だから矛盾してしまう。
仏教の本を読んでいて、「悟り」について書かれているものを読んで納得したことがある。それは、「言葉では理解できないことを、自分の体験として捉えること」だと、「言葉」では表現できるだろう。言葉では理解できないのだから、言葉で教えることはできない。だから仏教は、「悟る」ために様々な素っ頓狂な技法を開発してきた。その技法そのものに意味があるわけではない。大事なのは「悟った」という状態であり、そこに行き着く方法は何でもいい。しかし、そこに行き着いたことがない人は、「悟った」という状態にたどり着くための技法に着目し、それを理解しようとしてしまう。しかし、技法そのものを理解したところで、「悟り」にたどり着けるわけではない。
本書でも、まさに同じような理屈が展開される。技量に圧倒的な差がある二人の水墨画家がいて、しかし技量の高い方が良い水墨画家なわけではない。技術というのはあくまでも、水墨画の本質にたどり着くための方法の一つであって、たどり着くための手段は色々ある。技量が高くなくてもたどり着けるし、技量が高くてもたどり着けない人はいる。
【本当はもっといろいろなものが美しいのではないかって思いました。いつも何気なく見ているものが実はとても美しいもので、僕らの意識がただ単にそれを捉えられないだけじゃないかって思って…】
ど素人の初心者である青山が、湖山から見出され、水墨画の力をメキメキとつけていくその理由には、まさにこういう要素がある。まだ本質にたどり着けないでいる人には、そこに行き着くために技術を学び、一歩一歩近づく必要がある。しかし時に、技術がなくてもその本質が見える人がいる。そして本来的には、まさにそのことにこそ価値があるのだ、ということを、本書は強く訴えてくるのだ。
【美しいものを創ろうとは思っていなかったから】
この答えはある意味で、何故青山が「たどり着けたのか」を端的に表すものだろう。
本書は、そういう水墨画の側面を深く深く掘り下げるが故に、必然的に「孤独」の物語でもある。本書の中でそう書かれているわけではないが、水墨画を通して世界を見るためには、孤独にならざるを得ない。それは、言語や技術、常識などの「装備」をつけた状態では不可能なことだからだ。もちろん、「言語化しようとしてもがく」とか「技術を徹底的に磨いて血肉にする」という経験が無意味なわけではない。そういう経験の蓄積によって、可能性が拓けていく。しかしだからといって、言葉や技術そのものでその本質が捉えられるわけではない。いずれ、その外側に出なければならない。そうなればなるほど、自分が持っている様々なもの(持っていると意識していなかったものも含めて)から遠ざかることでしか前に進めなくなってしまう。
そういう意味で青山は最初から強かったといえるだろう。
【僕にも真っ白になってしまった経験があるからです】
彼は最初から「孤独」側にいた。そのことが、水墨画という世界において武器になると気づけなかった彼は、「孤独であるということ」はポジティブなものとして捉えられなかった。そういう懊悩も、本書では描かれていく。青山ほど、社会や周囲から隔絶してしまう感覚を経験することはなかなかないかもしれないが、多くの人が、社会に受け入れられないとか、社会に関わる意思が持てないと感じたことがあるだろう。そういう孤独感みたいなものをネガティブに捉える(それは一般的な感覚だが)青山の姿が描かれていく。
しかし面白いことに、孤独を志向する水墨画に関わることで、結果的に彼は少し孤独感を薄れさせることが出来るようになる。
【二年前、父と母がいなくなったあの夏の終わりから、今日までたくさんの独りぼっちを味わったけれど、気づかないうちにその空気を忘れていることに驚いていた。たぶん僕が、与えられた場所ではなく、歩き出した場所で立ち止まっているからだろう】
説明的なことを書くのは野暮なのだろうけど、僕の解釈はこうだ。水墨画を始める前の彼は、人が多い場所にいて、その場所でガラスの内側にいた。しかし水墨画を始めることで彼は、自然と人が少ない場所に行くことになった(これが、水墨画における「孤独であること」だ)。しかし、その人が少ない場所には、その感覚を理解し合える少数の同志がいた。だからこそ彼は、孤独を志向しながらも、孤独を薄れさせることが出来たのだと思う。
【僕らはたぶんお互いが、自分の想いをそのままうまく口にすることができない人間同士なのだ。僕らはそれほど多くのことを語らないまま生きてきたのだろう。こんなときにお互いの距離を上手に埋める言葉を何一つ持っていないなんてカッコ悪すぎる。】
「言葉」ではうまくやりとりできなかった二人が、「言葉」ではない世界で分かり合うことができる。新たな世界の捉え方を知ることで、景色だけではなく人間の見え方まで変わってくる。墨一色で描かれる水墨画を題材にしながら、本書にはそういう鮮やかさを感じることが出来ると思う。
【あなたはもう独りじゃないわ。語らなくても、こうして描くものを通して、私はあなたを理解できる。私だけじゃなくて、私たち皆があなたのことを信じて、感じていられる。あなたはもう私たちの一員よ】
著者自身、水墨画家であるという。言葉ではないもので未知の領域を切り拓こうとしている人間が、言葉という武器を振り回した時の破壊力を、まざまざと感じさせられる作品だ。
砥上裕將「線は、僕を描く」
文章を読んだり、文章を書いたり、フレーズを生み出したりするようなことを散々続けたことで、「言葉」は鍛えられたと思うし、明らかに見える世界が変わったと感じる。「言葉」が未熟であれば、認識できない状況や世界が世の中にはたくさんあって、まったく同じものを見ていても、「言葉」の差によって現実の捉え方はまったく変わってくる。そういうことにハッとさせられる瞬間は、面白いなと思う。
ただ、「言葉」を知れば知るほど、こんな風にも思うようになる。どれだけ「言葉」を磨いても、「言葉」では捉えられない現実は無数にあるのだな、と。
【描こうとすれば、遠ざかる。】
「言語化する」というのは、突き詰めれば突き詰めるほど、「細部を切り落とすこと」だと理解できるようになる。「言葉」は、無限にあるような気がするが、しかしやはり有限だ。そして「現実」というのは、毎時間、毎分、毎秒変化していく。その一秒一秒を、正確に等価に言語に置き換えることなど、不可能だ。
【命としての花も極限のところでは、刻々と姿を変えているのだ。(中略)命とはつまるところ、変化し続けるこの瞬間のことなのだ。】
だからこそ、「現実」の細部を切り落として、なんとか「言葉」の中に押し込めるしかない。豆腐やパン生地のように、柔軟に可変するものがやがて形を整えていくような、そういう「現実」であれば、「現実」の方をうまくこねくり回して「言葉」に合わせられる可能性もあるかもしれない。しかし、そんな「現実」ほとんどないだろう。本来であれば、「現実」のたゆまぬ変化に合わせるようにして、「言葉」の方が変化しなければならないのだが、「言葉」というものが、他者との共通理解のために使われる以上、急には変化しない。だから実際には、「現実」の細部を切り落として「言葉」にはめ込むしかないし、そうすればするほど、「言語化する」ことによって失われる「現実」の質感は大きくなっていく。
【株の根元も、絵では省略して描かれているが、しっかりとした存在感がある。見れば見るほど絵との違いは明らかだ。そして、どちらが間違っているのか、と考えれば、考えるまでもなく絵のほうが間違っているのだ。現物はこちらで、現実はここにある】
僕は、結果的に「言葉」が好きになって、「言葉」で世界を、そして自分自身を捉えようとしてきたつもりだ。そして世の中には、「言葉」以外にも様々な捉え方がある。
本書でのそれは、水墨画だ。
【水墨画はほかの絵画とは少し違うところがあります。(中略)線の性質が絵の良否を決めることが多いということです。水墨画はほとんどの場合、瞬間的に表現される絵画です。その表現を支えているのは線です。そして線を支えているのは、絵師の身体です。水墨画にはほかの絵画よりも少しだけ多くアスリート的な要素が必要です】
僕には、絵を描く素養はない。というかそもそも、映像的なもの全般が得意ではない。大人になってから、自分が人と違うことに気づいたが、僕は映像的な記憶が一切不可能だ。「りんごを頭に思い浮かべてください」と言われても出来ないし、人の顔は、その人が目の前にいなくなった瞬間に思い出せなくなるし、小説を読んでて映像が出てくることは一切ない。子どもの頃は、みんなそうだと思っていたのだが、大人になって、どうやらこういう感覚は珍しいのだと気づくようになった。
そして、僕は「言葉」を通じて、そして主人公は「水墨画」を通じて、「凄い人は凄い」という当たり前の事実に気づくことになる。
【だが、実際に自分が歩み始めると、知っていたはずの当たり前のことにさえ簡単につまずいてしまう。斉藤さんや千瑛さんの顔が浮かんだ。あの人たちはこんな悩みとずっと闘ってきたのだ。眺めているだけでは分からない。実際に手を動かし、描いて、つまずいてみなければ分からないことばかりだ。】
「現実」を捉えるための武器に近づけば近づくほど、「現実」の捉え方を見失っていく。
【我々の手は現象を追うには遅すぎるんだ】
この表現からも分かるように、水墨画というのは他の絵画と比べて、切り取っているものに大きな違いがある。長い時間を掛け、描き直すことも出来る絵画と違い、一気呵成に描き上げ、彩色もせず、描き直しも出来ない水墨画は、そもそもが「時間」を、もっと言えば「瞬間」を切り取ろうとしている。
【水墨画は確かに形を追うのではない、完成を目指すものでもない。
生きているその瞬間を描くことこそが、水墨画の本質なのだ。
自分がいまその場所に生きている瞬間の輝き、生命に対する深い共感、生きているその瞬間に感謝し賛美し、その喜びがある瞬間に筆致から伝わる。そのとき水墨画は完成する】
それは、途方もない挑戦に僕には思える。絵という、3次元ですらない空間に、4次元目である時間を組み入れようとしているのだから。
水墨画にも当然、様々に技法は存在する。しかし本書には、技法の習得や技術の高低ではない本質についての言及が多い。
【手先の技法など無意味に思えてしまうほど、その命の気配が画面の中で濃厚だった】
【けれども『絵を描く』ことは、高度な技術や自分が習得した技術をちらつかせることだけではない。それは技術を伝えてくれた『誰か』との繋がりであって、自然との繋がりではない】
【拙さが巧みさに劣るわけではないんだよ】
そして、究極的にはこの言及だろう。
【才能やセンスなんて、絵を楽しんでいるかどうかに比べればどうということもない】
水墨画、というものにまったく関心も知識もなかった僕だが、本書を読み、水墨画というものを少し理解することによって、水墨画を小説の中心テーマとして扱うことの巧みさも理解できるようになったと思う。水墨画が、「瞬間」を、そして「命」を切り取ろうとしているということ、そしてそれを成し得るのが「線」の良否であるということ。これらを理解することで、タイトルの「線は、僕を描く」という意味を著者の意図に沿って理解できるようになる気がするし、主人公の生い立ちが、「命」を描く水墨画と何故これほどうまく混じり合うのか、ということも理解できるようになる。
【現象とは、外側にしかないものなのか?心の内側に宇宙はないのか?】
水墨画の真髄を言葉で理解しようとすればするほど、それは「絵を描く」という印象から遠ざかって、「哲学する」というのに近づいていく気がした。【絵は絵空事だよ】という言葉など、まさにその最たるものだ。
【この人は、ただ単に技を突き詰めただけの絵師ではない。技を通じ、絵を描くことで生きようとしていた実直な人間なのだと、その瞬間に分かった。】
理解した、などとは到底言えない段階にいるが、水墨画を理解したい、と思わせる強さで漲っているし、その強さが、小説としての魅力にもなっている。
内容に入ろうと思います。
青山霜介は、世の中にあまり関与出来ない大学生だった。高校生の頃、交通事故で突然両親を亡くした彼は、きちんと生きるためのすべての気力を失い、自分の中にあるガラスの内側から外をぼんやりと眺めているような時間を過ごしていた。やがて、強制的に選択肢が提示され、大学に通い、一人暮らしをすることになった。
大学に入った後も、他人や世界とうまく対応できるわけではなかったが、古前という友人が出来たことで少し世界は広がった。常にサングラスを掛けた、恋にうつつを抜かす男だったが、そのシンプルな行動原理には好感が持てたし、彼と一緒にいることで少しずつ他人と関わる時間が増えていくことになった。
そんなある日のことだ。古前から手伝ってくれと頼まれたアルバイトで、人生を変える出会いをしたのは。
「飾り付けのアルバイトだ」と言われて行った青山を含む文化系のひ弱な男子数人は、展覧会の設営のために、自分の背丈よりも高いパネルを50枚以上、パーティションを100枚近く搬入しなければならなくなった。青山以外の面々が一人また一人と逃げ出す中、青山は現場にいたガテン系のお兄さんと仲良くなり、また古前の再度の采配もあって、展覧会の準備はどうにか片付いた。
そこで青山は、篠田湖山と出会う。美術の教科書に登場し、CMに出ていたこともある水墨画であり、日本を代表する芸術家だ。とはいえ、青山はこのおじいちゃんがそんな凄い人物だとは知らなかった。そして、弁当でも食べよう、などと誘われて話をしている内に、何故か湖山の内弟子になる、ということになってしまった。会場で、湖山の孫娘である篠田千瑛(同じく水墨画家だ)と出会った青山は、内弟子などほとんど取ったことがない祖父が、何故彼に目をつけたのか訝っていた。それは、青山自身が一番理解できないポイントだった。彼は別に湖山の前で絵を描いたわけではない。ただ話をしていただけだ。そして成り行き上、千瑛と青山は、来年の湖山賞(青山が手伝っていた展覧会は、まさにこの湖山賞のものだった)で勝負をすることになった。水墨画をまだ始めてもいない一介の大学生と、巨匠の孫娘として長い鍛錬を続けてきた若きエースとの闘いだ。勝負は見えている。しかし湖山は、その勝負を面白がり、勝手にその勝負を受けてしまう。青山にとっては、理解不能な展開ばかりだ。
そんな風にして、篠田湖山の家に通うことになった青山。水墨画のなんたるかも分からないまま、彼は墨をすり、筆を持ち、手を動かした。
そして水墨画の世界は、彼の人生を根底から変えていくことになる…。
というような話です。
主人公のキャラクターは、言ってしまえば弱々しいという感じなのに、そんな主人公がウロウロしながらさまよっている小説が、これほど骨太である、というギャップが新鮮な作品でした。ストーリーやキャラクターでガツンと訴えかける作品ではなく、そういう意味でインパクトが強いわけではない。でも、読んでいると、じわじわ染み込んでくるような意思の強さが感じられる。そしてその強さは、まさに主人公・青山の人間としての強さなのだ。両親の死をきっかけに自らの殻に閉じこもってしまった青山だが、その内側には、外からは見えにくい、そして彼自身も自覚できていなかった強さがある。それが、「水墨画」というものと出会うことでどう見出され、表に出ていくのか。そこにすべての焦点が当てられていて、面白い。
本書では、格言めいたというか、瞬時にその意味を捉えられないような含みを持つ言葉がたくさん登場する。
【まじめというのはね、悪くないけれど、少なくとも自然じゃない】
冒頭でも色々と引用したが、こういうものだ。こういう物言いは、時として雰囲気だけのこともある。何かそれっぽいことを言っている、という雰囲気を醸し出すために使われることもあるという印象だ。しかし本書の場合、そういう印象はない。何故そう感じるのかと言えば、青山らが対峙しているものが「言語では捉えられないもの」だと感じるからだ。
【ですが、湖山先生と私とで意見が一致していることが一つだけあります。それは、水墨画の筆法の本質は『描くこと』だということです】
何を当たり前のことを言っているんだ、という発言だし、主人公もそう感じるのだが、しかしその後で、「減筆」という言葉が出てくる。
【減筆とは端的に言えば描かないことです】
そしてここにこそ、水墨画の最高の技法は隠されている、という話になるのです。
水墨画の本質が『描くこと』であるのに、最高の技法は『描かないこと』にある。なんという矛盾だろう、という話ですが、しかしこれは結局、「水墨画」というものを「言葉」で捉えようとする限界だ、と受け取るべきなのでしょう。水墨画というものを、水墨画の論理・理屈(これは言葉によるものではない)で理解している人からすれば、その人の頭の中では矛盾はない。しかし、それを「言葉」で説明しようとすると限界がある。だから矛盾してしまう。
仏教の本を読んでいて、「悟り」について書かれているものを読んで納得したことがある。それは、「言葉では理解できないことを、自分の体験として捉えること」だと、「言葉」では表現できるだろう。言葉では理解できないのだから、言葉で教えることはできない。だから仏教は、「悟る」ために様々な素っ頓狂な技法を開発してきた。その技法そのものに意味があるわけではない。大事なのは「悟った」という状態であり、そこに行き着く方法は何でもいい。しかし、そこに行き着いたことがない人は、「悟った」という状態にたどり着くための技法に着目し、それを理解しようとしてしまう。しかし、技法そのものを理解したところで、「悟り」にたどり着けるわけではない。
本書でも、まさに同じような理屈が展開される。技量に圧倒的な差がある二人の水墨画家がいて、しかし技量の高い方が良い水墨画家なわけではない。技術というのはあくまでも、水墨画の本質にたどり着くための方法の一つであって、たどり着くための手段は色々ある。技量が高くなくてもたどり着けるし、技量が高くてもたどり着けない人はいる。
【本当はもっといろいろなものが美しいのではないかって思いました。いつも何気なく見ているものが実はとても美しいもので、僕らの意識がただ単にそれを捉えられないだけじゃないかって思って…】
ど素人の初心者である青山が、湖山から見出され、水墨画の力をメキメキとつけていくその理由には、まさにこういう要素がある。まだ本質にたどり着けないでいる人には、そこに行き着くために技術を学び、一歩一歩近づく必要がある。しかし時に、技術がなくてもその本質が見える人がいる。そして本来的には、まさにそのことにこそ価値があるのだ、ということを、本書は強く訴えてくるのだ。
【美しいものを創ろうとは思っていなかったから】
この答えはある意味で、何故青山が「たどり着けたのか」を端的に表すものだろう。
本書は、そういう水墨画の側面を深く深く掘り下げるが故に、必然的に「孤独」の物語でもある。本書の中でそう書かれているわけではないが、水墨画を通して世界を見るためには、孤独にならざるを得ない。それは、言語や技術、常識などの「装備」をつけた状態では不可能なことだからだ。もちろん、「言語化しようとしてもがく」とか「技術を徹底的に磨いて血肉にする」という経験が無意味なわけではない。そういう経験の蓄積によって、可能性が拓けていく。しかしだからといって、言葉や技術そのものでその本質が捉えられるわけではない。いずれ、その外側に出なければならない。そうなればなるほど、自分が持っている様々なもの(持っていると意識していなかったものも含めて)から遠ざかることでしか前に進めなくなってしまう。
そういう意味で青山は最初から強かったといえるだろう。
【僕にも真っ白になってしまった経験があるからです】
彼は最初から「孤独」側にいた。そのことが、水墨画という世界において武器になると気づけなかった彼は、「孤独であるということ」はポジティブなものとして捉えられなかった。そういう懊悩も、本書では描かれていく。青山ほど、社会や周囲から隔絶してしまう感覚を経験することはなかなかないかもしれないが、多くの人が、社会に受け入れられないとか、社会に関わる意思が持てないと感じたことがあるだろう。そういう孤独感みたいなものをネガティブに捉える(それは一般的な感覚だが)青山の姿が描かれていく。
しかし面白いことに、孤独を志向する水墨画に関わることで、結果的に彼は少し孤独感を薄れさせることが出来るようになる。
【二年前、父と母がいなくなったあの夏の終わりから、今日までたくさんの独りぼっちを味わったけれど、気づかないうちにその空気を忘れていることに驚いていた。たぶん僕が、与えられた場所ではなく、歩き出した場所で立ち止まっているからだろう】
説明的なことを書くのは野暮なのだろうけど、僕の解釈はこうだ。水墨画を始める前の彼は、人が多い場所にいて、その場所でガラスの内側にいた。しかし水墨画を始めることで彼は、自然と人が少ない場所に行くことになった(これが、水墨画における「孤独であること」だ)。しかし、その人が少ない場所には、その感覚を理解し合える少数の同志がいた。だからこそ彼は、孤独を志向しながらも、孤独を薄れさせることが出来たのだと思う。
【僕らはたぶんお互いが、自分の想いをそのままうまく口にすることができない人間同士なのだ。僕らはそれほど多くのことを語らないまま生きてきたのだろう。こんなときにお互いの距離を上手に埋める言葉を何一つ持っていないなんてカッコ悪すぎる。】
「言葉」ではうまくやりとりできなかった二人が、「言葉」ではない世界で分かり合うことができる。新たな世界の捉え方を知ることで、景色だけではなく人間の見え方まで変わってくる。墨一色で描かれる水墨画を題材にしながら、本書にはそういう鮮やかさを感じることが出来ると思う。
【あなたはもう独りじゃないわ。語らなくても、こうして描くものを通して、私はあなたを理解できる。私だけじゃなくて、私たち皆があなたのことを信じて、感じていられる。あなたはもう私たちの一員よ】
著者自身、水墨画家であるという。言葉ではないもので未知の領域を切り拓こうとしている人間が、言葉という武器を振り回した時の破壊力を、まざまざと感じさせられる作品だ。
砥上裕將「線は、僕を描く」
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