世界屠畜紀行(内澤旬子)
日本人からすると、欧米人による「クジラを食べるな」という主張には、「???」と感じてしまうだろう。確かにクジラは魚類ではなく哺乳類だし、知能も魚たちより高いのかもしれない。しかし、だからと言って、どうして「魚」は良くて「クジラ」はダメなんだ?別に、現代ではクジラをそこまで食べているわけではないから、「欧米人がワーワー言ってるけど、まあ別にいいか」程度で流すことが出来る話ではあるのだけど、しかしそれにしても不思議な話だ。
しかし、日本でも、不思議だなぁ、と感じる騒動があった。地名は忘れたけど、東京の高級住宅地に「児童相談所を作るな」という反対騒動が持ち上がった。あの時も、意味不明だなと思った。当時の報道のされ方を見ると、「児童相談所の建設に反対している上流階級の人たち」への不快感を示す人の方が多かったような印象はある。自分の感覚を過信するわけではないが、恐らくあの騒動に対しては「何言ってるんだ…」と感じた日本人の方が多かったんじゃないかなと思う。
この2つのケースを取り上げて、僕が主張したかったことは、「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」である。
僕は、「生理的に受け付けない」という感覚は、どうにもしようがない、と考えている。それは、本人にしか感じられない感覚だし、他人と比較しようがないからだ。例えば、世の名的には「カワイイ」の代表格と言ってもいい猫だって、毛嫌いしている人はいるはずだ。そういう人に、「どうしてこんなにカワイイのに」と言ったところで意味がない。その人的には、どうしたって感覚的に「ムリ」なのだから。それがどれほど「正しい(この場合は、多数決的な意味で、と思ってください)」としても、「生理的に受け付けない」という主張は、どんな場合にも受け入れられる必要がある、と思う。
しかしだ。本来であれば「生理的に受け付けない」とだけ言えば済むはずのことに理屈をつけようとするから、様々な場面でややこしくなっていく、と僕は考えている。
何故理屈をつけたくなるのか。その理由は明白だ。それは、「賛同者を増やして、反対側の勢力を大きくするため」である。
「生理的に受け付けないんです!!!」といくら声高に主張したところで、他人は動かない。「あっそ」で終わりである。心優しい人なら話を聞いてくれるだろうけど、大きな勢力にはならない。であれば、物事を動かすことができなくなる。だから理屈をつけるのだ。自分の生理的な嫌悪感はともかくとして、「これこれはこういう理由で間違っている」と理由付けをする。そこに理屈をつければ、少なくとも生理的な嫌悪よりは話を聞いてもらえると、個人の話ではなく社会の問題だということに出来る。だから理屈をつけるのだ。
もちろん今ここで書いた話は、微妙な問題も孕んではいる。例えば「ブラック企業」について考えてみる。長時間労働やパワハラなどが常態化している職場があるとして、しかし「長時間働きたい」という人だって中にはいるはずだし、パワハラだって「厳しさの優しさを感じられる」という人だっているだろう。もちろん、「長時間働きたくない」人もいるし、「厳しさの中に優しさなんか感じられるか」という人もいる。後者のような人からすれば、ブラック企業は「生理的に受け付けない環境」と言える。職場の多数の人が同じような感覚を持っていれば、多数決的な意味でそれは正しい感覚になるし、そうであれば総意として労働環境の改善を目指すべきだと思う。しかし、「働く」とか「上司との関係」において、それぞれの人はまだらの感情を持っているだろうし、そうであればあるほど「正しさ」というのは明確な基準を持たなくなる。いくら自分が、自分のいる会社を「ブラック企業」だと感じていても、そう感じていない人がいれば、やはりそれは「生理的に受け付けない」という主張しか出来ないことになってしまう。
上記で僕が書いた「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」という問題は、「是正されるべきことであっても、関わる人の多数が同じような感覚でない限り、生理的な不快が改善されない」ということになるし、そういう状況に苦しんでいる人だっているだろう。だから、「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」みたいなものを、常に絶対的な正義として振り下ろそうと思っているわけではない。しかし感覚的に、クジラとか児童相談所の問題に対しては、多くの人が「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」を感じてくれるのではないかと思う。
そして、僕にとってそういうものの一つが「屠畜(屠殺)」である。これは、本書の中で著者が繰り返し書く感覚が非常に近いので引用しよう。
【「ねえ、ベさん、私が本当に一番知りたいのは、食べるために動物を殺す行為じたいを、どうしてみんなが嫌なことだと『感じている』のか、なんです」】
【最近、東京の屠畜場を取材させてもらうようになって、ますます感じるようになってきた疑問がある。動物を食べるために殺すことは残酷なことなんだろうか?なぜ多くの人がそれに対して「怖い」といった感覚を抱くんだろう?】
【―革の仕事は楽しいけれど、肉体的には辛い。8時間びっしりやれば、おそらく翌日は起きられない。だから自分が勤める自信はない。でも、この仕事を私は好きだ。この仕事を特別に嫌う人たちがいるのは、どうかんがえてもおかしい、わからない】
もう少し簡潔にまとめた文章は、解説の佐野眞一氏が書いている。
【この本の底流に流れている問題意識は、みんな肉を食べているのに、なぜ動物を屠畜する人を差別し、忌避するのだろうかという、誰でも抱くごくあたりまえの疑問である】
もしかしたらこの問題について理解できない人もいるだろうから、ざっと書いておくと(僕も詳しいわけではないけど)、日本では、屠畜とか皮をなめしたりする仕事は、かつては部落出身の人がやらされる仕事だったという。僕は静岡出身だけど、少なくとも僕は子どもの頃などに、周りの「部落」の話は聞いたことがない。「部落」というものをちゃんと理解したのは、大人になって本を読むようになってからだったと思う。大阪都知事だった橋下徹が部落出身だった云々、というニュースを目にしたような記憶もあるんだけど、定かではない。でも、少なくとも「部落」というものについて、テレビのニュースで取り上げられる機会はほとんどないような気がする。本を読んでなんとなく理解してはいるものに、「部落問題」というものについて正直全然詳しくないし、何が問題なのかよく分からない。よくわからないが、未だに「部落」出身だと分かると、結婚などで障害が出る場合があるという。「部落」だと何がマズイんだ?と思ってしまうが、とにかく現に差別はまだ存在しているという。
本書の中にも、木下川という皮革業者が集まる地域が取り上げられるが、ここは「部落」差別の残る場所らしい。そこで皮革業に携わっている人が、こんなことを言っている。
【「ぼくらの時代は、部落の出だとわかると勤め先で嫌がらせを受けて、親の会社に戻って来ることがよくありました。弟も京都に勤めていましたが、帰って来ました。なにも言わなかったかもしれないけど、辛い思いをしているんです。一時期は、臭気を含めた環境を良くすれば、差別もなくなるかと思ったけど…。」
きれいになっても差別はなくならない、と市田さんは苦笑いとともに締めくくった】
とにかくこういう風に、屠畜と部落というのは結びついているらしい。そういう嫌悪感、みたいなものもやはり根強く残っているようだ。
しかし著者は、むしろそうではない感覚の方にこそ注目している。
【この仕事を怖がる人は、私が思ったよりも確実に多かった。私と同じように部落差別について何も聞かされずに育ち、いまだに知る機会も興味も持たずとも、動物をつぶす、殺す現場に対して忌避感を強く持つ人は多い。自分の感覚がずれていて、動物を殺すことをとにかくかわいそうと思う方が、今の社会では「自然」なのだろうか】
著者は、何故こういう感覚が日本にはびこっているのかを知りたくて、世界の、そして日本の屠畜の現場に入り浸るのだ。その記録が、本書である。
先ほど書いたように、僕自身は「生理的に受け付けない」という感覚は、仕方ないものだと思っている。しかし本書では、品川駅近くにある芝浦屠場について、
【今、芝浦屠場のある品川駅港南口は、再開発で、ぴかぴかの高層ビルが立ち並ぶ地域に変身した。高層マンションの住人から、移転要求が出はじめているという。嫌がらせの匿名の手紙のような、「部落だから、穢れているから」という論法ではない。移転要求の根本にあるのは、「肉を作っているのはわかるけど、すぐ隣で動物が殺されているのは嫌」という意識だ】
という話が載っていて、僕はこういう感覚には違和感を抱いてしまう。
僕たちは、大体の人が肉を食べている。だから屠場で肉を捌いてくれている人は「ありがたい存在」のはずだ。彼らがいなければ、肉を食べられないのだから。一方でそういう仕事に対して「生理的に受け付けない」という感覚を抱いてしまうのは仕方ないと思う。そういう場合、僕自身の感覚では、「大事なことだと分かっているのに、生理的に受け付けないと思ってしまうこと」に対して、申し訳無さを感じると思う。
例えとして適切ではないだろうが、こんな場面を考えてみる。奥さんが子供のオムツを替えた後で料理をする時、夫が「オムツ替えた手で料理なんかするなよ」と言ったら、奥さんとしては、「はぁ?だったらお前がオムツを替えるか料理を作れや!」という感じだろう。「オムツを替えた手で料理をする」ということに対して、仮に「生理的に受け付けない」という感覚を抱いたとしても、それは「そう感じてしまう自分を申し訳なく思う」べきなんじゃないかと僕は思うのだ。
屠畜にしても同じではないか。完全に肉を食べず、動物を殺すことで生み出される製品一切を使用していない、という人がそういう主張をするのであればもちろん筋は通るだろうが、そんな人が今の世の中にどれぐらいいるというのか。そうでないなら、「生理的に受け付けないと感じてしまう自分を申し訳なく思う」というのが筋だと思うのだ。
しかしそうはならず、「肉を作っているのはわかるけど、すぐ隣で動物が殺されているのは嫌」と言えてしまうということは、屠畜というものを何段も低く見ている、ということだろう。自分だって肉を食べているにも関わらず、である。その感覚は、僕には理解できない。
【案内をしてくださった沖縄県北部食肉協業組合専務理事の上原政英さんは、私の差し出した雑誌『部落解放』のタイトルを見て、「肉ってのは最高の食べ物なんだよ。それを作っている人を差別するなんて、沖縄県では笑いもんだよ。よくも平気で肉を食べられるね。そんなのは時代遅れだよ。ヤマトは後進国だね」としきりに憤っていた】
僕もそう思う。僕自身は、屠畜の現場を見たことがないし、見たらどう感じるか分からない。もしかしたら「生理的に受け付けない」と感じてしまうかもしれない。でも、だからと言って、屠畜そのものを悪く捉えることはないだろう。家の隣でやっててくれてもOKだと思う。そりゃあ、その仕事をやれと強要されたらそれはしんどいと思うけど、そうじゃないなら、やってくれてサンキュー、ってなもんである。
著者は、そういう感覚を抱きながら、世界中様々な国の屠畜の現場を見に行く。著者はそもそも、屠畜というものに興味があり(それはそれで珍しいし、世界中あらゆる屠場で珍しがられた)、自らの関心に沿ってこの取材を続けている。そういう中で著者は、あからさまな差別を見たり、あるいは目には見えないけど微妙な線引がされているのを見たり、あるいはむしろ屠畜に携わる人が敬意を払われている状況を目にすることになる。また、著者が取材をしていた当時は、BSE問題が取り沙汰された後で、世界中で屠畜をクリーンに行うように設備や法律が改正されているところだった。そしてその余波を受ける形で、個人が屠畜することが禁じられる流れが見えてきたりもした。そうなることで、個人の技能も失われるし、さらに、「命をいただいている」ということを子供が実感できる場がなくなってしまう。モンゴルの遊牧民でさえ、貨幣文化が流れ込むことでそういう風潮から逃れることができなくなり、世界各国で屠畜というものが結果的に人目に触れない形になってしまっている現状も明らかにしていく。
著者はあとがきでこう書いている。
【本書をお読みいただければわかるように、私はただひたすら無手勝流に、不躾に、おもしろい、おもしろい、おもしろいじゃん、この仕事!!なんで嫌われてるの??と、時には顰蹙を書いながら国内外を見て回り、文化人類学の亜流的立場(のつもり)でこの本を書きはじめた。そして、現場を回るうちにだんだんと、屠畜という営みが、畜産はもちろんのこと、公衆衛生、獣医学、動物福祉、都市学などとも密接にかかわるものだということに気付かされていく。気付きはじめたところで、本書の紙数は尽きるのである。
皮肉なことに、本を出したあとで、本を書いていたときよりもたくさんの出会いが続いていくことで、「もういいや」のはずだった、私の屠畜への見識と興味は、当人比ながらどんどん広がり、それなりの奥行きも出てきてしまった。孤立感も当然ながら薄まった】
著者の「おもしろいじゃん!!」という感覚は、読んでいればブワーッと伝わってくる。本当に、興味・関心と愛を持って屠畜の現場を見ているのだなと思う。なにせ、芝浦屠場には、半年以上通ってスケッチをしたというから尋常ではない。やはり、「好き」がベースになっているノンフィクションは面白いよなぁ、ということを再確認させられた作品でもありました。
内澤旬子「世界屠畜紀行」
しかし、日本でも、不思議だなぁ、と感じる騒動があった。地名は忘れたけど、東京の高級住宅地に「児童相談所を作るな」という反対騒動が持ち上がった。あの時も、意味不明だなと思った。当時の報道のされ方を見ると、「児童相談所の建設に反対している上流階級の人たち」への不快感を示す人の方が多かったような印象はある。自分の感覚を過信するわけではないが、恐らくあの騒動に対しては「何言ってるんだ…」と感じた日本人の方が多かったんじゃないかなと思う。
この2つのケースを取り上げて、僕が主張したかったことは、「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」である。
僕は、「生理的に受け付けない」という感覚は、どうにもしようがない、と考えている。それは、本人にしか感じられない感覚だし、他人と比較しようがないからだ。例えば、世の名的には「カワイイ」の代表格と言ってもいい猫だって、毛嫌いしている人はいるはずだ。そういう人に、「どうしてこんなにカワイイのに」と言ったところで意味がない。その人的には、どうしたって感覚的に「ムリ」なのだから。それがどれほど「正しい(この場合は、多数決的な意味で、と思ってください)」としても、「生理的に受け付けない」という主張は、どんな場合にも受け入れられる必要がある、と思う。
しかしだ。本来であれば「生理的に受け付けない」とだけ言えば済むはずのことに理屈をつけようとするから、様々な場面でややこしくなっていく、と僕は考えている。
何故理屈をつけたくなるのか。その理由は明白だ。それは、「賛同者を増やして、反対側の勢力を大きくするため」である。
「生理的に受け付けないんです!!!」といくら声高に主張したところで、他人は動かない。「あっそ」で終わりである。心優しい人なら話を聞いてくれるだろうけど、大きな勢力にはならない。であれば、物事を動かすことができなくなる。だから理屈をつけるのだ。自分の生理的な嫌悪感はともかくとして、「これこれはこういう理由で間違っている」と理由付けをする。そこに理屈をつければ、少なくとも生理的な嫌悪よりは話を聞いてもらえると、個人の話ではなく社会の問題だということに出来る。だから理屈をつけるのだ。
もちろん今ここで書いた話は、微妙な問題も孕んではいる。例えば「ブラック企業」について考えてみる。長時間労働やパワハラなどが常態化している職場があるとして、しかし「長時間働きたい」という人だって中にはいるはずだし、パワハラだって「厳しさの優しさを感じられる」という人だっているだろう。もちろん、「長時間働きたくない」人もいるし、「厳しさの中に優しさなんか感じられるか」という人もいる。後者のような人からすれば、ブラック企業は「生理的に受け付けない環境」と言える。職場の多数の人が同じような感覚を持っていれば、多数決的な意味でそれは正しい感覚になるし、そうであれば総意として労働環境の改善を目指すべきだと思う。しかし、「働く」とか「上司との関係」において、それぞれの人はまだらの感情を持っているだろうし、そうであればあるほど「正しさ」というのは明確な基準を持たなくなる。いくら自分が、自分のいる会社を「ブラック企業」だと感じていても、そう感じていない人がいれば、やはりそれは「生理的に受け付けない」という主張しか出来ないことになってしまう。
上記で僕が書いた「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」という問題は、「是正されるべきことであっても、関わる人の多数が同じような感覚でない限り、生理的な不快が改善されない」ということになるし、そういう状況に苦しんでいる人だっているだろう。だから、「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」みたいなものを、常に絶対的な正義として振り下ろそうと思っているわけではない。しかし感覚的に、クジラとか児童相談所の問題に対しては、多くの人が「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」を感じてくれるのではないかと思う。
そして、僕にとってそういうものの一つが「屠畜(屠殺)」である。これは、本書の中で著者が繰り返し書く感覚が非常に近いので引用しよう。
【「ねえ、ベさん、私が本当に一番知りたいのは、食べるために動物を殺す行為じたいを、どうしてみんなが嫌なことだと『感じている』のか、なんです」】
【最近、東京の屠畜場を取材させてもらうようになって、ますます感じるようになってきた疑問がある。動物を食べるために殺すことは残酷なことなんだろうか?なぜ多くの人がそれに対して「怖い」といった感覚を抱くんだろう?】
【―革の仕事は楽しいけれど、肉体的には辛い。8時間びっしりやれば、おそらく翌日は起きられない。だから自分が勤める自信はない。でも、この仕事を私は好きだ。この仕事を特別に嫌う人たちがいるのは、どうかんがえてもおかしい、わからない】
もう少し簡潔にまとめた文章は、解説の佐野眞一氏が書いている。
【この本の底流に流れている問題意識は、みんな肉を食べているのに、なぜ動物を屠畜する人を差別し、忌避するのだろうかという、誰でも抱くごくあたりまえの疑問である】
もしかしたらこの問題について理解できない人もいるだろうから、ざっと書いておくと(僕も詳しいわけではないけど)、日本では、屠畜とか皮をなめしたりする仕事は、かつては部落出身の人がやらされる仕事だったという。僕は静岡出身だけど、少なくとも僕は子どもの頃などに、周りの「部落」の話は聞いたことがない。「部落」というものをちゃんと理解したのは、大人になって本を読むようになってからだったと思う。大阪都知事だった橋下徹が部落出身だった云々、というニュースを目にしたような記憶もあるんだけど、定かではない。でも、少なくとも「部落」というものについて、テレビのニュースで取り上げられる機会はほとんどないような気がする。本を読んでなんとなく理解してはいるものに、「部落問題」というものについて正直全然詳しくないし、何が問題なのかよく分からない。よくわからないが、未だに「部落」出身だと分かると、結婚などで障害が出る場合があるという。「部落」だと何がマズイんだ?と思ってしまうが、とにかく現に差別はまだ存在しているという。
本書の中にも、木下川という皮革業者が集まる地域が取り上げられるが、ここは「部落」差別の残る場所らしい。そこで皮革業に携わっている人が、こんなことを言っている。
【「ぼくらの時代は、部落の出だとわかると勤め先で嫌がらせを受けて、親の会社に戻って来ることがよくありました。弟も京都に勤めていましたが、帰って来ました。なにも言わなかったかもしれないけど、辛い思いをしているんです。一時期は、臭気を含めた環境を良くすれば、差別もなくなるかと思ったけど…。」
きれいになっても差別はなくならない、と市田さんは苦笑いとともに締めくくった】
とにかくこういう風に、屠畜と部落というのは結びついているらしい。そういう嫌悪感、みたいなものもやはり根強く残っているようだ。
しかし著者は、むしろそうではない感覚の方にこそ注目している。
【この仕事を怖がる人は、私が思ったよりも確実に多かった。私と同じように部落差別について何も聞かされずに育ち、いまだに知る機会も興味も持たずとも、動物をつぶす、殺す現場に対して忌避感を強く持つ人は多い。自分の感覚がずれていて、動物を殺すことをとにかくかわいそうと思う方が、今の社会では「自然」なのだろうか】
著者は、何故こういう感覚が日本にはびこっているのかを知りたくて、世界の、そして日本の屠畜の現場に入り浸るのだ。その記録が、本書である。
先ほど書いたように、僕自身は「生理的に受け付けない」という感覚は、仕方ないものだと思っている。しかし本書では、品川駅近くにある芝浦屠場について、
【今、芝浦屠場のある品川駅港南口は、再開発で、ぴかぴかの高層ビルが立ち並ぶ地域に変身した。高層マンションの住人から、移転要求が出はじめているという。嫌がらせの匿名の手紙のような、「部落だから、穢れているから」という論法ではない。移転要求の根本にあるのは、「肉を作っているのはわかるけど、すぐ隣で動物が殺されているのは嫌」という意識だ】
という話が載っていて、僕はこういう感覚には違和感を抱いてしまう。
僕たちは、大体の人が肉を食べている。だから屠場で肉を捌いてくれている人は「ありがたい存在」のはずだ。彼らがいなければ、肉を食べられないのだから。一方でそういう仕事に対して「生理的に受け付けない」という感覚を抱いてしまうのは仕方ないと思う。そういう場合、僕自身の感覚では、「大事なことだと分かっているのに、生理的に受け付けないと思ってしまうこと」に対して、申し訳無さを感じると思う。
例えとして適切ではないだろうが、こんな場面を考えてみる。奥さんが子供のオムツを替えた後で料理をする時、夫が「オムツ替えた手で料理なんかするなよ」と言ったら、奥さんとしては、「はぁ?だったらお前がオムツを替えるか料理を作れや!」という感じだろう。「オムツを替えた手で料理をする」ということに対して、仮に「生理的に受け付けない」という感覚を抱いたとしても、それは「そう感じてしまう自分を申し訳なく思う」べきなんじゃないかと僕は思うのだ。
屠畜にしても同じではないか。完全に肉を食べず、動物を殺すことで生み出される製品一切を使用していない、という人がそういう主張をするのであればもちろん筋は通るだろうが、そんな人が今の世の中にどれぐらいいるというのか。そうでないなら、「生理的に受け付けないと感じてしまう自分を申し訳なく思う」というのが筋だと思うのだ。
しかしそうはならず、「肉を作っているのはわかるけど、すぐ隣で動物が殺されているのは嫌」と言えてしまうということは、屠畜というものを何段も低く見ている、ということだろう。自分だって肉を食べているにも関わらず、である。その感覚は、僕には理解できない。
【案内をしてくださった沖縄県北部食肉協業組合専務理事の上原政英さんは、私の差し出した雑誌『部落解放』のタイトルを見て、「肉ってのは最高の食べ物なんだよ。それを作っている人を差別するなんて、沖縄県では笑いもんだよ。よくも平気で肉を食べられるね。そんなのは時代遅れだよ。ヤマトは後進国だね」としきりに憤っていた】
僕もそう思う。僕自身は、屠畜の現場を見たことがないし、見たらどう感じるか分からない。もしかしたら「生理的に受け付けない」と感じてしまうかもしれない。でも、だからと言って、屠畜そのものを悪く捉えることはないだろう。家の隣でやっててくれてもOKだと思う。そりゃあ、その仕事をやれと強要されたらそれはしんどいと思うけど、そうじゃないなら、やってくれてサンキュー、ってなもんである。
著者は、そういう感覚を抱きながら、世界中様々な国の屠畜の現場を見に行く。著者はそもそも、屠畜というものに興味があり(それはそれで珍しいし、世界中あらゆる屠場で珍しがられた)、自らの関心に沿ってこの取材を続けている。そういう中で著者は、あからさまな差別を見たり、あるいは目には見えないけど微妙な線引がされているのを見たり、あるいはむしろ屠畜に携わる人が敬意を払われている状況を目にすることになる。また、著者が取材をしていた当時は、BSE問題が取り沙汰された後で、世界中で屠畜をクリーンに行うように設備や法律が改正されているところだった。そしてその余波を受ける形で、個人が屠畜することが禁じられる流れが見えてきたりもした。そうなることで、個人の技能も失われるし、さらに、「命をいただいている」ということを子供が実感できる場がなくなってしまう。モンゴルの遊牧民でさえ、貨幣文化が流れ込むことでそういう風潮から逃れることができなくなり、世界各国で屠畜というものが結果的に人目に触れない形になってしまっている現状も明らかにしていく。
著者はあとがきでこう書いている。
【本書をお読みいただければわかるように、私はただひたすら無手勝流に、不躾に、おもしろい、おもしろい、おもしろいじゃん、この仕事!!なんで嫌われてるの??と、時には顰蹙を書いながら国内外を見て回り、文化人類学の亜流的立場(のつもり)でこの本を書きはじめた。そして、現場を回るうちにだんだんと、屠畜という営みが、畜産はもちろんのこと、公衆衛生、獣医学、動物福祉、都市学などとも密接にかかわるものだということに気付かされていく。気付きはじめたところで、本書の紙数は尽きるのである。
皮肉なことに、本を出したあとで、本を書いていたときよりもたくさんの出会いが続いていくことで、「もういいや」のはずだった、私の屠畜への見識と興味は、当人比ながらどんどん広がり、それなりの奥行きも出てきてしまった。孤立感も当然ながら薄まった】
著者の「おもしろいじゃん!!」という感覚は、読んでいればブワーッと伝わってくる。本当に、興味・関心と愛を持って屠畜の現場を見ているのだなと思う。なにせ、芝浦屠場には、半年以上通ってスケッチをしたというから尋常ではない。やはり、「好き」がベースになっているノンフィクションは面白いよなぁ、ということを再確認させられた作品でもありました。
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