黒夜行

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最後の秘境東京藝大 天才たちのカオスな日常(二宮敦人)

天才に生まれたかったなぁ、と未だに思う。
もちろん、天才に生まれたら、生きていくのは大変だと思う。天才に相応しい環境というのはあるだろうし、運良くそういう環境にいられたら最高だろうが、天才でありながら環境に恵まれずに不遇の人生を送るという人も、過去・現在・未来に常にいることだろう。それぐらいのことは、分かっているつもりだ。

それでも、僕は天才に生まれたかったなぁ、と思うのだ。

僕が、天才のどういう部分に憧れるのか、その一例を本書から挙げてみよう。

【「踊り場にある、あの彫像。『サモトラのニケ』。あれをずっと見てて。一時間くらい見てたかな、まだ見る?って聞いたら、見るって言うわけ。じゃあもう、好きなだけ見なさいって」
なんと、妻はえんえん五時間以上も「サモトラケのニケ」だけを見つめ続けたという。
同行者がすっかり飽きてベンチで昼寝し始めるなか、ただ一心不乱に。】

【私、始めてカラーコーンをちゃんと見た瞬間、があったんです。工事現場とかにある、赤いカラーコーンです。何だろう、あの赤い三角形のもの、みたいな。その色とか、くたびれ具合とかが、びっくりするくらい素敵に思えて。あれ、私は今までカラーコーンの何を見ていたんだろう、って。そういうものを見つけて、共感してもらうために作品を作るっていうか…】

これらのエピソードの持ち主たちも、本書の中では「そこまで天才ではない」という扱いなのだが、僕が天才に対して抱く羨ましさを衝いているものだったので引用してみた。

つまり、「見えている世界が違う」ということだ。

「サモトラケのニケ」でも、カラーコーンでもいい。世の中のものが、普通の人とはまったく違う風に見えている。あるいは、感じられている。そのことの羨ましさは、僕には強くある。もちろん、天才からすれば、そういう見え方こそが「普通」なわけで、自分が特別であることに気づくには、「世間一般の普通」を知るしかない。「世間一般の普通」を知ることがなければ、自分の体験が特別であるということに永遠に気づかないままだろう。それでもいい。やはり、その人にしか見えない世界、というものがあると思うし、天才であればなおさらだ。

【あと、毎年病んじゃう人が最低一人はいますね】

【「他の人は卒業後、何をしているの?」
「半分くらいは行方不明よ」】

【頭がおかしい人がいっぱいいて、自由で。人にどう見られるか気にしなくていいところですね。いやーほんと、いろいろいますよ。精神病棟に住んでる油画の人とか。薬やって施設に入って、芸能人に会ったっていう先輩とか…。でも、そういう人だからこそ生み出せるものがあるんですよね】

ヤバイ世界だが、それでも憧れてしまう。芸術だとかアートだとかが何なのか僕には分からないけど、結局のところ究極的には「衝動」なんだと思う。「どうしてもそうしたい」「何がなんでもそうありたい」という「衝動」があって、それを何らかの形にすれば、それが芸術とかアートと呼ばれるのだろう。だから僕は、そういう「衝動」を羨ましく思う。

【僕は、「ものを作っている時間が好き」と言った佐野さんのことを思い出していた。
誰かに認められるとか、誰かに勝つとか、そういう考えと離れたところに二人はいるようだ。
あくまで自然に、楽しんで最前線を走っていく。
天才とは、そういうものなのかもしれない。】

僕には、そういう「衝動」はない。もちろん、小規模なものはあるだろう。しかしそれは、規模も小さいし、長続きしない。それがどんなことであれ、やり続けることができるというのはやはりとても強いことだし、その行動が「衝動」に支えられているとするならば、僕にはとても羨ましく感じられる。

【「何年かに一人、天才が出ればいい。他の人はその天才の礎。ここはそういう大学なんです。」
入学時、柳澤さんは学長にそう言われたという。】

それでも、東京大学以上の倍率を突破するために、毎年多くの学生が東京藝大にチャレンジする。
「衝動」に囚われた人には、東京藝大は楽園のような環境だということが分かって、余計に羨ましさを感じてしまった。

内容に入ろうと思います。
本書は、ホラー小説でデビューした小説家が書いた初めてのノンフィクションです。舞台は「芸術界の東大」と言われる東京藝大。なぜ著者が東京藝大に関心を持つことになったかと言えば、それは、妻が現役の藝大生だったからだという。

【あれは冬も深まりつつある頃、深夜であった。僕がふと目を覚ますと、横に妻がいない。かわりに隣の書斎に明かりがついていて、嵐のような轟音がする。おそるおそる様子を窺い、僕は見た。
顔面に紙を貼り、ドライヤーを当てて乾かしている妻の姿を。】

なかなかシュールな場面である。こんな風に、奥さんが奇っ怪な行動をしている場面を結構見かけたという。「生協でガスマスクを売ってるよ」とか「キャンパス内にホームレスさんが住んでるよ」みたいなことを平然と言ってのける奥さんがいたら、そりゃあ興味も湧くだろう。

そんなわけで取材を開始してみるが、やはりカオスな場所だった。そりゃあ「最後の秘境」と言いたくもなるだろう。気になったエピソードをざっと書いてみよう。

◯口笛で入学した人がいる(後にも先にも彼だけだろうと言われるほどの天才)
◯漆芸専攻でありながら、趣味で絡繰り人形を作り続ける人(「現代の田中久重」と呼ばれるほどの天才)
◯腫れて練習ができなくなると困るから親不知が抜けないホルン専攻の学生
◯煮色着色では、途中でお椀に大根おろしをかける(なぜそうすると綺麗になるか先生も知らない)
◯3パック48円の納豆で凌いでいる人(タレ付きの納豆は高級品)
◯センター試験で1割しか取れなかったけど合格した人(実技がトップクラスの天才だった)
◯ブラジャーを顔に当て、半裸で学内を歩く美女がいる(「ブラジャーウーマン」として人気)

などなど。正直、読んでいると「は?」と言いたくなるようなエピソードが満載で、凄いとしか言いようがない。

とはいえ、そういうぶっ飛んだ話ばかりでもない。というか大半の人は、メチャクチャ努力してるし、メチャクチャ悩んでいる。東京藝大を卒業しても、アーティストとして活躍できるのはほんの一握り(というか、ひとつまみ)だし、どれだけ技術や才能があっても、それで食べていけるかは分からない。身体機能のように、努力ではどうにもならない部分で勝負しなければならないこともあるし、教授や学生に圧倒的な才能を感じさせる人がいるから、ものすごい倍率をくぐり抜けた「凄い人たち」も打ちのめされてしまう。それでも、やはり「衝動」に駆られて、作ったり演奏したりしてしまう。「衝動」という意味では、本書では「ブラジャーウーマン」が一番印象的だったなぁ。一部だけ抜き出しても伝わらないことは承知の上で、一箇所だけ引用してみる。

【その時、自分を守る方法を教えてもらったように思ったんです。ああ、こうやって戦っていけるんだと。こんなふうに何か、言葉にできないものを伝える作品を作りたいと思って、絵を描きはじめました】

確かに彼女の場合、「戦っている」という表現が似合う。自分の内側にある、どうにも制御できないものをなんとかするために戦っていて、それが結果的にアートになっている。こういうのはやはり、僕みたいな凡人には理解できないようなものであっても、アートとしての存在理由がはっきりと存在しているから、強いだろうなと思う。

一方、ちょっと意外だったのは、そこまでの「衝動」はない、という人も東京藝大にいるということだ。

【普通の学生になりたければなれたんですけど、でも私、結局藝大に来ちゃったんですよね。どういうわけか離れられないんです。美術は、好きかどうかわからないんですけれど、腐れ縁的な存在ですね…】

【「モノづくりは、山田さんの中ではどんな位置づけなんですか?」
しばし考えてから口を開く山田さん。
「人生そのもの、ですかね」
「それがなくては生きていけないということですか?」
「いえ。他にやりたいこともないっていうか。変な言い方ですけど」】

先ほど、東京大学以上の倍率をくぐり抜けて入学する、という話を書いたが、にも関わらず、こういう人も中にはいるのだ。これはとても意外だった。もちろん、「衝動」がまったくないわけではないだろう。「腐れ縁」「人生そのもの」という表現は、やはり「衝動」を連想させる。しかし、「どうしても」という強さは感じさせない。そんな風に悩みながら芸術と向き合っている人もいるのか、と感じさせられた。

あと、感覚的に「それ凄いわかる!」と思った発言がある。

【そうして制作した作品には、凄く愛着がわきますね。自分より大事なもののように思えたり。自分と世界との接点ですし、自分の分身でもある。でも、完成した瞬間にそれは他者になっていて、もう分かり合えない部分が生まれちゃうんですよね。だからまた、新しく考える…】

僕は全然芸術家ではないし、いわゆる「創作」的なことをしているわけではないのだけど、でもこの感覚は凄くわかる。特に、「完成した瞬間に他者になって、分かり合えない部分が生まれる」というのは、確かになぁ、と思ったりする。僕は、何かを考えたりすることが好きなのだけど、「何かを考えようとする動機」には、この発言に近いものがあるな、と感じた。

あと、僕のイメージになくて意外に感じたことがある。それは、東京藝大の中に、制作や演奏をしない人がいる、ということだ。彼らは、コンサートのパンフレットの解説文を書いたり、美術展での展示の仕方を考えたりしている。こういうものにも、音楽や芸術の歴史に関する知識が必要だし、また、制作する人・演奏する人の感覚が分かっている必要がある。こういう、制作する人・演奏する人をサポートする人たちを養成する、という学部もあるようで、なるほど、藝大というのは奥が深いなぁ、と感じさせられた。

とにかく、ハチャメチャなエピソードがてんこもりで、メチャクチャ面白い作品です。とりあえず本書を読んだことで、僕は、東京藝大の学園祭に行ってみようと思いました。

二宮敦人「最後の秘境東京藝大 天才たちのカオスな日常」

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小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
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6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
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コミック

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3位 浅野いにお「うみべの女の子
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5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
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6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
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9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
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14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
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16位 朝井リョウ「何者
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18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
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1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
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3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
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15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
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17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
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