定理が生まれる 天才数学者の思索と生活(セドリック・ヴィラーニ)
なかなか変わった本である。その変わった点について、本書の訳者の一人の文章を抜き出してみよう。
【この本のスタイルは少し特殊である。統計をとったわけではないが、多くの数学者は苦労しているところは見せず、成果だけをさらりとみせることがスマートだと思っているはずだ。本書はそれとは逆に、証明を得るまでの苦労を一般読者向けに記しているのだ。】
僕自身も、あまりこういう類の本は読んだことがない。数学者本人ではない人が、その数学者の人生なんかを描く作品はもちろんあるが、本人が、凄い証明(その凄さは後で説明する)にたどり着くまでの七転八倒を描いている作品というのはなかなかないだろう。
さて、本書の著者であるセドリック・ヴィラーニの略歴をざっと書いてみよう。
【弱冠28歳でリヨン高等師範学校数学教授になり、現在リヨン第1大学数学教授およびポアンカレ研究所所長。数々の数学賞を受賞し、2010年にフィールズ賞を受賞。トレードマークはドレッシーかつカリスマティックな、プルーストを思わせる衣装とクモのブローチ。手塚治虫、宮崎駿がお気に入り。『DEATH NOTE』の悪魔的な面白さに心酔し、クラシックからポップスまで広範な音楽を愛する、フランスを代表する数学の伝道師】
この紹介文だけでも、なんとなく変人っぷりが伝わってくる感じがするから、なんとなくさすがだ。まあ、本書にも色々登場するが、基本的に数学者というのは変人揃いなので、この程度では数学者の中ではさほど変人でもないのだが、一般的に見れば十分変人枠に入るのではないか。
彼は日本のマンガが好きなようで、本書の中にこんな描写がある。
【メトロに乗り込むとすぐさま、私は上着のポケットからマンガを取り出し、短いながらも貴重な時間を過ごす。まわりの世界は消え去り、顔に縫合の痕がある超人的に器用な外科医や、切れ長で大きな瞳の幼い娘たちのために命を捧げる筋金入りのヤクザが登場し、いきなり悲劇の英雄になる残酷な怪物、そして反対に残酷な怪物に変貌を遂げる金髪の巻き毛の少年たちが活躍する世界が現れる、懐疑的であるかと思えば甘く、情熱的かと思えばしらけた世界。偏見もなければ、善か悪かの単純な二元論でもなく、感情がほとばしり、無邪気に楽しむことを恐れない読者の心を打ち、目に涙を浮かべさせる世界だ。
市役所駅に着いた。降りなければならない。メトロに乗っていた間は、まるでインクと紙が小さな流れとなって私の血管を通るかのように、物語が頭の中に入り込んできた。私は体の中からすっかり洗われた気分になる。】
他にも、家族全員でアニメ『ベルサイユのばら』を見たり、娘に『DEATH NOTE』のアニメを見せたりしている。彼は、【マンガと数学が一緒くたになることはない】と書いてはいるが、日本のマンガが彼の気晴らしとなり、そういう意味で研究の助けに少しでもなっているとすれば、なんかいいじゃない、という感じだ。
さてさて、彼がどれぐらい凄いか、という話なのだけど、そのためには、先程の略歴の中にあった「フィールズ賞」について説明しなければならない。この「フィールズ賞」は、数学のノンフィクションを読んでいれば結構出てくる。有名なところで言えば、フェルマーの最終定理を証明したワイルズが受賞できなかったり(ちゃんと理由はある)、あるいはポアンカレ予想を証明したペレルマンが受賞を拒否したりして、世界的に話題になった。
さて「フィールズ賞」とはこういう賞である。
【4年に1度、40歳以下の数学者にのみ与えられる数学界最高の栄誉であり、ノーベル賞に数学部門がないこともあり、数学のノーベル賞とも称される。】
ノーベル賞に数学部門がないのは、ダイナマイトを発明したノーベルが当時付き合っていた彼女を奪ったのが数学者だったから、なんていうホントかウソか分からない話もあったりするんだけど、とにかく、ノーベル賞が毎年発表されるのに対して(1つの部門に最大3人までだったかな)、フィールズ賞は4年に1度、2~4人しか選出されない。さらにこの賞は、40歳以下という制約がついている(この制約のせいで、ワイルズは受賞出来なかった)。若手が取り上げられ、しかも世界的に注目を集めるという意味で、フィールズ賞はどんな数学者も手にしたいと思う聖杯なのだ。
このフィールズ賞について、著者はこう書いている。
【フィールズ賞―受賞する権利のある人々にとってはその言葉を口にするのもおこがましく、フランスではせいぜい頭文字をとって「MF」(訳注:Medaille Fieldsの略)などと呼ぶのがやっとという存在。4年おきに開かれる国際数学者会議で、40歳未満の数学者二人から四人に授与されるという、働き盛りの数学者にとって最高のご褒美である。
もちろん、他にも数学には粋な賞がいくつかある。アーベル賞、ウルフ賞、京都賞にいたっては、おそらくフィールズ賞よりも受賞するのが難しいかもしれない。だが受賞することによる反響とメディアへの露出はフィールズ賞にはおよばない。それにこれらの賞は数学者のキャリアの終盤に与えられる。フィールズ賞のように数学者にとってさらならステップアップのきっかけになるとか、今後の研究人生に対する激励という役目を担っていない。その意味で「MF」はずっと大きな輝きを放っているのである】
さて著者は、そんなフィールズ賞を受賞した。本書は、そのフィールズ賞を受賞するまでの過程を、日記のような形式で綴った作品である。彼がフィールズ賞を受賞した研究タイトルはこうである。
「非線形ランダウ減衰とボルツマン方程式の平衡状態への収束に関する証明」
まあ正直、これについては意味不明である。本書には、彼ら(著者は共同研究者と二人で研究を進めている)のメールのやり取りや、著者のひらめきなんかが書かれているんだけど、ほぼ意味不明である。
ランダウ減衰の話ではないが、本書で描かれる数学がどれほど意味不明かを体感出来る文章を引用してみよう。
【口頭試問から3年後、誠実なロラン・デヴィエットとの共同研究で、私は弾性理論におけるコルンの不等式とボルツマンエントロピーの生成の間のありそうなかった関係性を発見した。
そのまま勢いに乗った私は、準統御性の理論を発展させた。これは、縮退した散逸方偏微分方程式における正則化の問題と平衡状態へ向かう収束性に関する問題との間に新たに見つけた類似性に基づいている。
そして、ダリオ・コルデロ=エラウスキンとブルーノ・ナザレとともに私が明らかにしたのは最適輸送とソボレフ不等式の間に隠された関係である。それは、この不等式を熟知しているつもりでいた数多くの解析学者たちを唖然とさせた。
2004年、カリフォルニア大学バークレー校ミラー研究所の客員教授となった私は、当時、数理科学研究所の客員教授だったアメリカ人ジョン・ロットと出会い、共同研究を行った。私たちは共に、非ユークリッド的で滑らかでない幾何の問題であるいわゆる構成的リッチ曲率の問題に取り組むため、経済性の観点に基づく最適輸送の考え方をどう利用するかを示した。この研究から誕生し、ロット―シュトゥルム―ヴィラーニ理論とも呼ばれている理論は、解析学と幾何学の間にあったいくつかの壁を壊したのである。
2007年、接最小跡の幾何と、最適輸送の生息性に必要な曲率条件の間に何か調和的なつながりが潜んでいると私はにらみ、両者の間に強い関係性があると推測した。ふってわいてきたかのような関係性に見えるかもしれないが、これを私はグレゴワール・ルペールと一緒に証明した。】
僕は一応理系の人間で、大学は中退しているから大学で専門的な数学を学んだことはない。そんなわけで、数学に特別詳しいわけではないが、しかし、ここに書かれていることが「ちょっと数学に詳しい」レベルの人に理解できる話ではない、ということぐらいは理解できる。そもそも、「ランダウ減衰」も「ボルツマン方程式」も物理の領域であって、恐らく「弾性理論」や「最適輸送」も物理の話だろうと思う。フィールズ賞で、同じ方程式(今回の場合ボルツマン方程式)の研究でフィールズ賞が2度与えられたのはこれが初だそうだ。
まあそんなわけで、本書の数学に関する部分は、一般人はほぼ理解不能だろう。理解できる人がいるとすれば、数学科の大学教授ぐらいじゃないだろうか。しかし本書には、著者のこんな文章があったりもする。
【ヴォエヴォドスキーの数学ほど、私が研究している数学からかけ離れているものはない。彼の研究で使われる言葉はただの一語も私にはわからないし、おそらくその逆もしかりだろう】
同じ数学者と言えども、分野が違えば用語もやり方をまったく違う。だから、数学者だからと言って、本書の数学が理解できる、というのもまた違うかもしれない。だから、とにかく本書を読む一般人は、数学部分については理解できなくて当然だ、理解できたら天才だ、というぐらいの気持ちで読むのがいいと思う。
本書は、数学者自らが、暗中模索しながら数学理論の証明に少しずつたどり着く様を描き出す作品だが、本書の中に、数学者がどういう風に研究を進めていくのかを端的に表した箇所があるので引用してみようと思う。
【“数学者とは、真っ暗な部屋の中で何も見えないまま、黒い猫を、しかもそこにはいないかもしれない猫を探し続ける人のようなものだ”…これはダーウィンが言った言葉だが、その通りだと思う。完全な暗闇…洞窟でゴクリとなぞなぞの勝負をするビルボのようだ(訳注:トルーキンの『ホビットの冒険』より)
この暗闇の時期は、数学者が未知の領域に踏み出す最初の一歩を特徴的に表わしており、第1段階としては普通のことである。
その暗闇に、何かが整いつつあると思わせる、かすかな、かすかな光が差し込み始める…。そのかすかな光が差し込んだ後は、絡んだ糸がほぐれていくようにすべてうまくいけば、晴れて到達点にたどり着くのだ。自信と誇りをもって、至るところで発表する。この段階は一気にやってくることがあるが、それはまた別の話だ。私にも心当たりがある。
そしてこうした晴れやかな日と輝かしい光の後には、大きなことを達成した後につきものの気の停滞期がやってくる。自分自身の貢献などちっぽけなものに思えてしまうのだ】
「真っ暗闇の中で、いるかどうかも分からない黒い猫を探す」という表現は、なるほどなぁ、という感じだし、そのダーウィンの言葉を引きつつ、数学者の研究のスタンスを端的に表している著者の書きぶりも、なんかいいなと思いました。
さて、そんなわけで、数学の部分は超難しい(っていうか、難しいのかどうかも理解できないほど意味不明)ですが、エッセイ的な部分はなかなか面白く読ませる作品です。数学者の七転八倒を見ることはなかなかないので、貴重だと思います。
セドリック・ヴィラーニ「定理が生まれる 天才数学者の思索と生活」
【この本のスタイルは少し特殊である。統計をとったわけではないが、多くの数学者は苦労しているところは見せず、成果だけをさらりとみせることがスマートだと思っているはずだ。本書はそれとは逆に、証明を得るまでの苦労を一般読者向けに記しているのだ。】
僕自身も、あまりこういう類の本は読んだことがない。数学者本人ではない人が、その数学者の人生なんかを描く作品はもちろんあるが、本人が、凄い証明(その凄さは後で説明する)にたどり着くまでの七転八倒を描いている作品というのはなかなかないだろう。
さて、本書の著者であるセドリック・ヴィラーニの略歴をざっと書いてみよう。
【弱冠28歳でリヨン高等師範学校数学教授になり、現在リヨン第1大学数学教授およびポアンカレ研究所所長。数々の数学賞を受賞し、2010年にフィールズ賞を受賞。トレードマークはドレッシーかつカリスマティックな、プルーストを思わせる衣装とクモのブローチ。手塚治虫、宮崎駿がお気に入り。『DEATH NOTE』の悪魔的な面白さに心酔し、クラシックからポップスまで広範な音楽を愛する、フランスを代表する数学の伝道師】
この紹介文だけでも、なんとなく変人っぷりが伝わってくる感じがするから、なんとなくさすがだ。まあ、本書にも色々登場するが、基本的に数学者というのは変人揃いなので、この程度では数学者の中ではさほど変人でもないのだが、一般的に見れば十分変人枠に入るのではないか。
彼は日本のマンガが好きなようで、本書の中にこんな描写がある。
【メトロに乗り込むとすぐさま、私は上着のポケットからマンガを取り出し、短いながらも貴重な時間を過ごす。まわりの世界は消え去り、顔に縫合の痕がある超人的に器用な外科医や、切れ長で大きな瞳の幼い娘たちのために命を捧げる筋金入りのヤクザが登場し、いきなり悲劇の英雄になる残酷な怪物、そして反対に残酷な怪物に変貌を遂げる金髪の巻き毛の少年たちが活躍する世界が現れる、懐疑的であるかと思えば甘く、情熱的かと思えばしらけた世界。偏見もなければ、善か悪かの単純な二元論でもなく、感情がほとばしり、無邪気に楽しむことを恐れない読者の心を打ち、目に涙を浮かべさせる世界だ。
市役所駅に着いた。降りなければならない。メトロに乗っていた間は、まるでインクと紙が小さな流れとなって私の血管を通るかのように、物語が頭の中に入り込んできた。私は体の中からすっかり洗われた気分になる。】
他にも、家族全員でアニメ『ベルサイユのばら』を見たり、娘に『DEATH NOTE』のアニメを見せたりしている。彼は、【マンガと数学が一緒くたになることはない】と書いてはいるが、日本のマンガが彼の気晴らしとなり、そういう意味で研究の助けに少しでもなっているとすれば、なんかいいじゃない、という感じだ。
さてさて、彼がどれぐらい凄いか、という話なのだけど、そのためには、先程の略歴の中にあった「フィールズ賞」について説明しなければならない。この「フィールズ賞」は、数学のノンフィクションを読んでいれば結構出てくる。有名なところで言えば、フェルマーの最終定理を証明したワイルズが受賞できなかったり(ちゃんと理由はある)、あるいはポアンカレ予想を証明したペレルマンが受賞を拒否したりして、世界的に話題になった。
さて「フィールズ賞」とはこういう賞である。
【4年に1度、40歳以下の数学者にのみ与えられる数学界最高の栄誉であり、ノーベル賞に数学部門がないこともあり、数学のノーベル賞とも称される。】
ノーベル賞に数学部門がないのは、ダイナマイトを発明したノーベルが当時付き合っていた彼女を奪ったのが数学者だったから、なんていうホントかウソか分からない話もあったりするんだけど、とにかく、ノーベル賞が毎年発表されるのに対して(1つの部門に最大3人までだったかな)、フィールズ賞は4年に1度、2~4人しか選出されない。さらにこの賞は、40歳以下という制約がついている(この制約のせいで、ワイルズは受賞出来なかった)。若手が取り上げられ、しかも世界的に注目を集めるという意味で、フィールズ賞はどんな数学者も手にしたいと思う聖杯なのだ。
このフィールズ賞について、著者はこう書いている。
【フィールズ賞―受賞する権利のある人々にとってはその言葉を口にするのもおこがましく、フランスではせいぜい頭文字をとって「MF」(訳注:Medaille Fieldsの略)などと呼ぶのがやっとという存在。4年おきに開かれる国際数学者会議で、40歳未満の数学者二人から四人に授与されるという、働き盛りの数学者にとって最高のご褒美である。
もちろん、他にも数学には粋な賞がいくつかある。アーベル賞、ウルフ賞、京都賞にいたっては、おそらくフィールズ賞よりも受賞するのが難しいかもしれない。だが受賞することによる反響とメディアへの露出はフィールズ賞にはおよばない。それにこれらの賞は数学者のキャリアの終盤に与えられる。フィールズ賞のように数学者にとってさらならステップアップのきっかけになるとか、今後の研究人生に対する激励という役目を担っていない。その意味で「MF」はずっと大きな輝きを放っているのである】
さて著者は、そんなフィールズ賞を受賞した。本書は、そのフィールズ賞を受賞するまでの過程を、日記のような形式で綴った作品である。彼がフィールズ賞を受賞した研究タイトルはこうである。
「非線形ランダウ減衰とボルツマン方程式の平衡状態への収束に関する証明」
まあ正直、これについては意味不明である。本書には、彼ら(著者は共同研究者と二人で研究を進めている)のメールのやり取りや、著者のひらめきなんかが書かれているんだけど、ほぼ意味不明である。
ランダウ減衰の話ではないが、本書で描かれる数学がどれほど意味不明かを体感出来る文章を引用してみよう。
【口頭試問から3年後、誠実なロラン・デヴィエットとの共同研究で、私は弾性理論におけるコルンの不等式とボルツマンエントロピーの生成の間のありそうなかった関係性を発見した。
そのまま勢いに乗った私は、準統御性の理論を発展させた。これは、縮退した散逸方偏微分方程式における正則化の問題と平衡状態へ向かう収束性に関する問題との間に新たに見つけた類似性に基づいている。
そして、ダリオ・コルデロ=エラウスキンとブルーノ・ナザレとともに私が明らかにしたのは最適輸送とソボレフ不等式の間に隠された関係である。それは、この不等式を熟知しているつもりでいた数多くの解析学者たちを唖然とさせた。
2004年、カリフォルニア大学バークレー校ミラー研究所の客員教授となった私は、当時、数理科学研究所の客員教授だったアメリカ人ジョン・ロットと出会い、共同研究を行った。私たちは共に、非ユークリッド的で滑らかでない幾何の問題であるいわゆる構成的リッチ曲率の問題に取り組むため、経済性の観点に基づく最適輸送の考え方をどう利用するかを示した。この研究から誕生し、ロット―シュトゥルム―ヴィラーニ理論とも呼ばれている理論は、解析学と幾何学の間にあったいくつかの壁を壊したのである。
2007年、接最小跡の幾何と、最適輸送の生息性に必要な曲率条件の間に何か調和的なつながりが潜んでいると私はにらみ、両者の間に強い関係性があると推測した。ふってわいてきたかのような関係性に見えるかもしれないが、これを私はグレゴワール・ルペールと一緒に証明した。】
僕は一応理系の人間で、大学は中退しているから大学で専門的な数学を学んだことはない。そんなわけで、数学に特別詳しいわけではないが、しかし、ここに書かれていることが「ちょっと数学に詳しい」レベルの人に理解できる話ではない、ということぐらいは理解できる。そもそも、「ランダウ減衰」も「ボルツマン方程式」も物理の領域であって、恐らく「弾性理論」や「最適輸送」も物理の話だろうと思う。フィールズ賞で、同じ方程式(今回の場合ボルツマン方程式)の研究でフィールズ賞が2度与えられたのはこれが初だそうだ。
まあそんなわけで、本書の数学に関する部分は、一般人はほぼ理解不能だろう。理解できる人がいるとすれば、数学科の大学教授ぐらいじゃないだろうか。しかし本書には、著者のこんな文章があったりもする。
【ヴォエヴォドスキーの数学ほど、私が研究している数学からかけ離れているものはない。彼の研究で使われる言葉はただの一語も私にはわからないし、おそらくその逆もしかりだろう】
同じ数学者と言えども、分野が違えば用語もやり方をまったく違う。だから、数学者だからと言って、本書の数学が理解できる、というのもまた違うかもしれない。だから、とにかく本書を読む一般人は、数学部分については理解できなくて当然だ、理解できたら天才だ、というぐらいの気持ちで読むのがいいと思う。
本書は、数学者自らが、暗中模索しながら数学理論の証明に少しずつたどり着く様を描き出す作品だが、本書の中に、数学者がどういう風に研究を進めていくのかを端的に表した箇所があるので引用してみようと思う。
【“数学者とは、真っ暗な部屋の中で何も見えないまま、黒い猫を、しかもそこにはいないかもしれない猫を探し続ける人のようなものだ”…これはダーウィンが言った言葉だが、その通りだと思う。完全な暗闇…洞窟でゴクリとなぞなぞの勝負をするビルボのようだ(訳注:トルーキンの『ホビットの冒険』より)
この暗闇の時期は、数学者が未知の領域に踏み出す最初の一歩を特徴的に表わしており、第1段階としては普通のことである。
その暗闇に、何かが整いつつあると思わせる、かすかな、かすかな光が差し込み始める…。そのかすかな光が差し込んだ後は、絡んだ糸がほぐれていくようにすべてうまくいけば、晴れて到達点にたどり着くのだ。自信と誇りをもって、至るところで発表する。この段階は一気にやってくることがあるが、それはまた別の話だ。私にも心当たりがある。
そしてこうした晴れやかな日と輝かしい光の後には、大きなことを達成した後につきものの気の停滞期がやってくる。自分自身の貢献などちっぽけなものに思えてしまうのだ】
「真っ暗闇の中で、いるかどうかも分からない黒い猫を探す」という表現は、なるほどなぁ、という感じだし、そのダーウィンの言葉を引きつつ、数学者の研究のスタンスを端的に表している著者の書きぶりも、なんかいいなと思いました。
さて、そんなわけで、数学の部分は超難しい(っていうか、難しいのかどうかも理解できないほど意味不明)ですが、エッセイ的な部分はなかなか面白く読ませる作品です。数学者の七転八倒を見ることはなかなかないので、貴重だと思います。
セドリック・ヴィラーニ「定理が生まれる 天才数学者の思索と生活」
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