「日日是好日」を観に行ってきました
「型を身につけること」の大事さを、僕は“頭では”理解しているつもりだ。
型というのは、理由を必要としない。いや、理由がちゃんと存在するものもあるのだろうけど、絶対になければならないわけでもない。この映画の中でも、お茶の先生が何度か「とにかくこうするの」「お茶ってそういうものなのよ」と言って生徒にやらせる場面がある。
元から理由がないもの。理由があったけど忘れ去られたもの。理由はあったけど現代では意味を失ったもの。そういう様々なものが、「伝統」というパッケージの中に収まっていて、型として生き残っている。
そういうものに身を置く大事さはちゃんとある。もちろん、子供の頃、いやたぶん20代でもきっと理解できなかっただろう。今なら、多少は分かるような気がする。
それは、思考を追い出すための作法だ。「頭で考えるな」と、この映画の中でも何度か繰り返されたが、決まった型を身につけることは、思考を必要としないし、というかむしろ思考が邪魔になる。「思考しないこと」にこそ、型を身につける一番の価値があるのだ、と僕は考えている。
また、型を身につけることは、違いを際立たせることでもある。一定の型があるということは、そこから外れた場合の差異が際立つ、ということだ。基本やルールや当たり前みたいな、ベースとなるものがきちんとインストールされていないと、違いというのは分かりにくいものだが、日常の中でそのことをはっきり理解出来る機会は少ない。日常生活の中では、「基本」と「変化」が、常にダイナミックに連動して、複雑に織りなしているからだ。そういう中で、「変化」を一切捨て、「基本」だけを徹底的にインストールすることで、違いに気付きやすくなる。このことも、型を身につけることの大事さだと僕は考えている。
そんな風に、ある程度は“頭では”その大事さを理解しているのだけど、僕には型を身につけることに時間を費やす気分がどうしても持てない。やはりそれは、「情報」や「思考」の絶対量こそが自分の力になる、という思い込みを捨てられないでいるからだ。というか、「情報」や「思考」を手放すことが、とても怖い。それが自分の弱さの一つだなぁ、と思う。
足したり積み上げたりするだけではなく、引き算することの重要性も“頭では”理解しているつもりなのだけど、やはりそれは身体感覚として自分の中にはない。というか、引き算することの大切さというのは、特に現代の情報化社会の中で普通に生きていたら、まず身につかないだろうと思う。だからこそ、それがお茶である必要はまったくないのだけど、何らかの型を強制的に身に着けさせる、というのを、もっとずっと子供の内からやっておくことが大事になってくるような気がしている。もちろん子供も、現代では、「それは何の役に立つのか?」と問い、必要ないと思えばすぐに手放すようなメンタリティを持っているだろう。だから、強制的に型を身に着けさせることは難しいだろうと思う。それでも、やはり型を身に着けさせるのは、子供の内がいいだろうなぁ、と思う。大人になってしまえば、「情報」や「思考」を手放すことの怖さや、「型を身につけること」の表面的な無意味さみたいなものを感じて、なかなか長く続けることが難しくなるのではないかと思う。
僕が何らかの形で型を身につけるとすれば、「将棋」か「俳句」かなぁ、と思う。どちらも、多少興味はある。型を身につけるには膨大な時間が書かることが分かっているから、なかなか一歩を踏み出すのは難しいのだけど、一見無駄に思えることにこそ真理がある、という感覚は常にあるし、だからこそ、いずれ何らかの形で型を身につける世界に飛び込んでみたいと思う。
内容に入ろうと思います。
大学生のノリコは、就職活動をするような時期になってもやりたいことが見つからないでいた。真面目でおっちょこちょいと言われる自分とは違って、従姉妹のミチコは竹を割ったような性格で、羨ましさを感じることもある。二人は、母親の勧めで、近くに住むタケダのおばさんから、お茶を習うことにした。
一挙手一投足まで決められているお茶の世界に戸惑いながらも、二人はなんだかんだで毎週土曜日のお茶の稽古に通っていた。月日は経ち、ミチコは順調に就職していくが、ノリコは文章を書く仕事をしたいと思いながら、出版社には入れず、出版社でアルバイトをすることになる。大学をなんとか卒業してからもお茶の稽古は続け、その後人生の節目節目で、お茶を続けてきた自分のあり方を振り返ることになる…。
というような話です。
何が起こるというわけでもない映画なのだけど、なかなか面白い作品でした。やっぱり、樹木希林の存在感がいいなと思いますね。不思議なもので、樹木希林がいるだけでなんとなく画面が締まるような感じがする。樹木希林の、芯を感じさせるのにどこかふにゃっとした印象もある佇まいが、観ている人をすーっとその世界に引き込んでいくような感覚があるんだよなぁ。なかなか不思議な人です。
観ていて感じたのは、やはり冒頭で書いたような「型を身につけること」の大事さみたいなものですね。必要性とか、重要性とか、そういうことからセレクトされた行動・様式ではなく、ただそうなっているからそうなのだ、という理由で決まっている作法を意味もなく受け入れていくという作業の大事さみたいなものを、改めて感じさせてくれる映画だったな、と思いました。
学校や社会ではどうしても「正解」ばかりが追い求められるけど、そもそも「正解」なんかあるのか?とも思う。一方で、「型」という「正解」が厳然と存在するお茶という世界を通じて、「型」だけが唯一の「正解」ではないのだ、という心境に至ることも出来るのではないかという気がします。「型」を身につけるというのは、最終的にはその「型」から外れることが目的でもある、と言えると思います。外れるためには、まず完璧に身に着けなければならない。結局どんな場合でも、「正解」というのはその程度の存在なのではないか、という気もしました。
凄く面白いかと聞かれればそうでもないと答えますが、観て良かったなと思います。
「日日是好日」を観に行ってきました
型というのは、理由を必要としない。いや、理由がちゃんと存在するものもあるのだろうけど、絶対になければならないわけでもない。この映画の中でも、お茶の先生が何度か「とにかくこうするの」「お茶ってそういうものなのよ」と言って生徒にやらせる場面がある。
元から理由がないもの。理由があったけど忘れ去られたもの。理由はあったけど現代では意味を失ったもの。そういう様々なものが、「伝統」というパッケージの中に収まっていて、型として生き残っている。
そういうものに身を置く大事さはちゃんとある。もちろん、子供の頃、いやたぶん20代でもきっと理解できなかっただろう。今なら、多少は分かるような気がする。
それは、思考を追い出すための作法だ。「頭で考えるな」と、この映画の中でも何度か繰り返されたが、決まった型を身につけることは、思考を必要としないし、というかむしろ思考が邪魔になる。「思考しないこと」にこそ、型を身につける一番の価値があるのだ、と僕は考えている。
また、型を身につけることは、違いを際立たせることでもある。一定の型があるということは、そこから外れた場合の差異が際立つ、ということだ。基本やルールや当たり前みたいな、ベースとなるものがきちんとインストールされていないと、違いというのは分かりにくいものだが、日常の中でそのことをはっきり理解出来る機会は少ない。日常生活の中では、「基本」と「変化」が、常にダイナミックに連動して、複雑に織りなしているからだ。そういう中で、「変化」を一切捨て、「基本」だけを徹底的にインストールすることで、違いに気付きやすくなる。このことも、型を身につけることの大事さだと僕は考えている。
そんな風に、ある程度は“頭では”その大事さを理解しているのだけど、僕には型を身につけることに時間を費やす気分がどうしても持てない。やはりそれは、「情報」や「思考」の絶対量こそが自分の力になる、という思い込みを捨てられないでいるからだ。というか、「情報」や「思考」を手放すことが、とても怖い。それが自分の弱さの一つだなぁ、と思う。
足したり積み上げたりするだけではなく、引き算することの重要性も“頭では”理解しているつもりなのだけど、やはりそれは身体感覚として自分の中にはない。というか、引き算することの大切さというのは、特に現代の情報化社会の中で普通に生きていたら、まず身につかないだろうと思う。だからこそ、それがお茶である必要はまったくないのだけど、何らかの型を強制的に身に着けさせる、というのを、もっとずっと子供の内からやっておくことが大事になってくるような気がしている。もちろん子供も、現代では、「それは何の役に立つのか?」と問い、必要ないと思えばすぐに手放すようなメンタリティを持っているだろう。だから、強制的に型を身に着けさせることは難しいだろうと思う。それでも、やはり型を身に着けさせるのは、子供の内がいいだろうなぁ、と思う。大人になってしまえば、「情報」や「思考」を手放すことの怖さや、「型を身につけること」の表面的な無意味さみたいなものを感じて、なかなか長く続けることが難しくなるのではないかと思う。
僕が何らかの形で型を身につけるとすれば、「将棋」か「俳句」かなぁ、と思う。どちらも、多少興味はある。型を身につけるには膨大な時間が書かることが分かっているから、なかなか一歩を踏み出すのは難しいのだけど、一見無駄に思えることにこそ真理がある、という感覚は常にあるし、だからこそ、いずれ何らかの形で型を身につける世界に飛び込んでみたいと思う。
内容に入ろうと思います。
大学生のノリコは、就職活動をするような時期になってもやりたいことが見つからないでいた。真面目でおっちょこちょいと言われる自分とは違って、従姉妹のミチコは竹を割ったような性格で、羨ましさを感じることもある。二人は、母親の勧めで、近くに住むタケダのおばさんから、お茶を習うことにした。
一挙手一投足まで決められているお茶の世界に戸惑いながらも、二人はなんだかんだで毎週土曜日のお茶の稽古に通っていた。月日は経ち、ミチコは順調に就職していくが、ノリコは文章を書く仕事をしたいと思いながら、出版社には入れず、出版社でアルバイトをすることになる。大学をなんとか卒業してからもお茶の稽古は続け、その後人生の節目節目で、お茶を続けてきた自分のあり方を振り返ることになる…。
というような話です。
何が起こるというわけでもない映画なのだけど、なかなか面白い作品でした。やっぱり、樹木希林の存在感がいいなと思いますね。不思議なもので、樹木希林がいるだけでなんとなく画面が締まるような感じがする。樹木希林の、芯を感じさせるのにどこかふにゃっとした印象もある佇まいが、観ている人をすーっとその世界に引き込んでいくような感覚があるんだよなぁ。なかなか不思議な人です。
観ていて感じたのは、やはり冒頭で書いたような「型を身につけること」の大事さみたいなものですね。必要性とか、重要性とか、そういうことからセレクトされた行動・様式ではなく、ただそうなっているからそうなのだ、という理由で決まっている作法を意味もなく受け入れていくという作業の大事さみたいなものを、改めて感じさせてくれる映画だったな、と思いました。
学校や社会ではどうしても「正解」ばかりが追い求められるけど、そもそも「正解」なんかあるのか?とも思う。一方で、「型」という「正解」が厳然と存在するお茶という世界を通じて、「型」だけが唯一の「正解」ではないのだ、という心境に至ることも出来るのではないかという気がします。「型」を身につけるというのは、最終的にはその「型」から外れることが目的でもある、と言えると思います。外れるためには、まず完璧に身に着けなければならない。結局どんな場合でも、「正解」というのはその程度の存在なのではないか、という気もしました。
凄く面白いかと聞かれればそうでもないと答えますが、観て良かったなと思います。
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