「タクシー運転手 約束は海を越えて」を観に行ってきました
やってしまった後悔には、折り合いをつける方法があるように思う。
でも、やらなかった後悔に耐えることは、難しいと思う。
「やってしまったこと」というのは、そのことについて悩めばいい。
もちろん、「やってしまったこと」を選択したせいで「やれなかったこと」が出てくる場合もあるし、問題はそう単純じゃない。
けれど、何かやってしまったのであれば、その具体的な事実に対して、自分がどうするのかを考えることが出来る。
しかし、「やらなかったこと」というのは、具体的なことではない。いや、「やらなかったこと」は具体的なことかもしれないが、「やらなかったこと」によってどんなマイナスが引き起こされたのかについては、可能性でしかない。やらなかったのだから。可能性など、いくらでも思考を伸ばすことが出来る。ああしていたらこうだったんじゃないか。こうしていたらああだったんじゃないか。悩んでいることが具体的なことではないからこそ、思考の焦点を当てにくいし、「やらなかったこと」に対して何か具体的な行動も取りにくい。
だから、よく言われることではあるが、「やらないで後悔する」より、「やって後悔する」方がマシなのだと思う。
「虐殺器官」という映画を見た。無関心についての映画だった。人は見たいものしか見ない。便利さを享受するために、徹底的に、見たくないものを排除する。意識的にそうしていなくても、社会のシステムや価値観の変遷が、無意識レベルで人間をそういう方向に進ませている。そんな現代を描き出す物語だ。
映画を見ながら、ずっと考えていた。今、この瞬間にも、どこかで「光州事件」のようなことが起こっているはずだ、と。1994年に、ルワンダで大虐殺が行われた。一説によれば、数ヶ月で100万人近くの人々が殺されたという。今から24年前、僕は11歳だった。11歳の僕は果たして、この20世紀最大の悲劇と言われた大虐殺を知っていただろうか?日本にいて、正しくその情報が届いていただろうか?
まさにこの映画で扱われている「光州事件」についても同じだ。僕が生まれる前に起こった出来事ではあるが、それにしても、これほどの事件をこの映画を見るまで僕は知らなかった。学校の授業では習うのだろうか?僕が歴史の授業を真面目に受けていなかったから知らなかったのだろうか?
インターネットが世界中を覆い、多くの人がスマートフォンを持つようになった。マスコミでなくても、自分が見たもの、聞いたことを発信できる時代になった。内戦が続くシリアで、ツイッターを通じて現状を発信し続けた7歳の少女が話題になった。ノーベル平和賞を最年少で受賞した、当時17歳のマララさんも注目を集めた。確かに、世界にはこれまで以上に「目」が行き届いているし、以前よりも情報を隠すことが難しくはなっている。しかし、あの大国・中国は、未だに国内のインターネットの監視・検閲をしていると言われているし、インターネットやスマートフォンという武器を手にしても自由な言論を手に入れられないでいる人もまだまだ世界中にはいるだろうし、何よりもインターネットという武器がまだ世界のすべてに行き届いているわけではない。
僕らは、きちんと意識しなければ、見たいもの、見て心地よいと感じるものしか見ないで済む。これは、インターネットがもたらした負の側面だ。見たくないものは見ない、という意識のせいで、どれほど世の中に「真実」が溢れ出てくるようになっても、その情報を受け取る者が誰もいない、ということになってしまう。
「光州事件」が起こった時点では、まだインターネットはほとんど存在していなかっただろうが、「見たくないものは見ない」という人間の意識がどれほどの悲劇をもたらしうるかについて、非常に示唆的だと言えるだろう。普通に生きていたら視界に入らない世界、などというと外国や戦争のような大きな話をイメージされるかもしれないが、現代においては、隣人やクラスメートや同僚などでも、きちんと見ようとしなければ何も見えてこないという現実がある。
そういう社会で生きる僕らが意識すべきことを、この映画は強烈に印象づけてくれる。
内容に入ろうと思います。
ソウル市内でタクシー運転手をしている男は、一人娘のウンジョンを男手一つで育てている。彼は楽天家らしく、日々を陽気に生きているように見えるが、ひとり親で娘に負担を掛けていたり、家賃を4ヶ月も滞納していたりする現状をどうにかしたいと考えている。溜まった家賃は10万ウォン。せめてこれぐらいはなんとかしなければ。
そんな折、耳寄りな情報を手に入れる。別のタクシー運転手が、光州まで乗せて帰ってくれば10万ウォン払うという外国人客について話していたのだ。彼はその客を横取りすることに成功し、カタコトの英語でコミュニケーションを取りながら、ドイツからきたヒンツピーターという男を乗せて光州へと向かった。
しかし…光州に入ろうとする道には軍がいた。通行禁止だという。状況は不明だが、男は金のために口八丁で兵士を説き伏せ、なんとか光州入りを果たす。
そこは、道路にゴミが散乱し、スプレー缶で物々しい標語がシャッターに書かれた寂れた街の様相を呈していた。そこで男は、ドイツ人が記者であることを知った。ピーターは、デモ隊の英語が喋れる学生を通訳にして、光州の町を撮影しはじめる。
そこでは、地獄絵図が展開されていた。軍が市民に対し暴虐の限りを尽くし、兵士が容赦なく銃を撃つ、危険地帯だった。タクシー運転手の男の頭に、娘の顔が過ぎる。なんとかここから無事脱出しなくては…。
というような話です。
素晴らしい映画だった。
この映画は、実話を基にしているという。しかし最後まで見ると分かるが、どうやらこの映画の主人公であるタクシー運転手は、身元が分かっていないようだ。恐らくこの映画を構成するすべての情報は、光州入りしたドイツ人記者からもたらされたものだろう(映画の最後に、ピーター本人が喋っている映像が流れる)。ピーターは韓国語に明るくない。つまりこの映画で「真実」と言える部分は、「ピーターが目にしたもの」だけであり、それ以外はフィクションだと考えていいだろう。
この映画を見ながら僕はずっと「人間でいたい」と思っていた。
人には、立場や背景や状況など、様々な付帯事項がある。「やれと言われればやるしかない」と判断せざるを得ない状況も当然あるとは思っている。
しかし、その「やれ」と言われたことが、人間としての道を外すものであった場合、決断は非常に困難になる。僕は、心理学の世界で有名な「アイヒマン実験」のことも知っている。ナチスドイツの元でユダヤ人を収容所で殺し続けたアイヒマンが、本当に人間として酷かったのかを検証するために行われたものだ。その結果、どんな人であっても権威に強要されれば人を殺しうる、という結論が導き出された。だから僕は、「光州事件」において、同胞たちを無慈悲に銃で撃ちまくっていた兵士たちを単純に悪くは断罪できない。彼らにも、逃れられない状況があったのだ、とは想像する。
でも、自分がその立場だったら、なんとかして「人間でいられる方」を選びたい、と思ってしまった。
凄いシーンがあった。ピーターが現場にいた場面だから、恐らく実際にあった出来事だろう。具体的には書かないが、タクシー運転手たちが、自らの命の危険も顧みず、膠着した状況で一歩前進した場面だ。
自分に出来るかどうかは分からない。分からないけど、僕は強烈にそちら側にいたい、と思った。どれだけ命を危険に晒そうとも、どれだけ大切な人を悲しませる結果になったとしても、「人間でいられる方」でいたい、と思った。「国を守るため」とか「正義のため」というような、実感の得られないもののためではなくて、「自分が人間として生きられるか/死ねるか」を、自分の行動の基準にしたいと強く感じた。
後半は、ずっと祈っていた。もちろん、結果は分かっている。こんな映画が作られるぐらいだ。ピーターがフィルムを持って韓国を出国出来ていなければありえない。それは分かっていても、ずっと祈っていた。多くの人が犠牲になった。自分のために誰かが犠牲になることの辛さが、一つまた一つと積み上がっていく中で、それでも彼らは、「人間として生きるため」に前進し続けた。僕には、祈ることしか出来なかった。もし、自分の目の前で何かが起こり、祈る以外の行動が取れる状況であれば、僕はその行動を取りたいと思った。実際に出来るかどうかは分からない。でも、この映画を見たことが、その勇気を振り絞る力になるかもしれない、とは思った。
いつでも、僕らのすぐ傍でも、何かが起こっている。見たいものへのアクセス力は異様に発達する一方で、見たくないものを排除するシステムが完璧に構築されているこの現代社会の中で、自分の周りで起こっているかもしれない「何か」にちゃんと気づける/知れる人間でいたいと思う。そんな風にして僕は、なんとか、「人間でいられる方」にい続けたいと思う。
「タクシー運転手 約束は海を越えて」を観に行ってきました
でも、やらなかった後悔に耐えることは、難しいと思う。
「やってしまったこと」というのは、そのことについて悩めばいい。
もちろん、「やってしまったこと」を選択したせいで「やれなかったこと」が出てくる場合もあるし、問題はそう単純じゃない。
けれど、何かやってしまったのであれば、その具体的な事実に対して、自分がどうするのかを考えることが出来る。
しかし、「やらなかったこと」というのは、具体的なことではない。いや、「やらなかったこと」は具体的なことかもしれないが、「やらなかったこと」によってどんなマイナスが引き起こされたのかについては、可能性でしかない。やらなかったのだから。可能性など、いくらでも思考を伸ばすことが出来る。ああしていたらこうだったんじゃないか。こうしていたらああだったんじゃないか。悩んでいることが具体的なことではないからこそ、思考の焦点を当てにくいし、「やらなかったこと」に対して何か具体的な行動も取りにくい。
だから、よく言われることではあるが、「やらないで後悔する」より、「やって後悔する」方がマシなのだと思う。
「虐殺器官」という映画を見た。無関心についての映画だった。人は見たいものしか見ない。便利さを享受するために、徹底的に、見たくないものを排除する。意識的にそうしていなくても、社会のシステムや価値観の変遷が、無意識レベルで人間をそういう方向に進ませている。そんな現代を描き出す物語だ。
映画を見ながら、ずっと考えていた。今、この瞬間にも、どこかで「光州事件」のようなことが起こっているはずだ、と。1994年に、ルワンダで大虐殺が行われた。一説によれば、数ヶ月で100万人近くの人々が殺されたという。今から24年前、僕は11歳だった。11歳の僕は果たして、この20世紀最大の悲劇と言われた大虐殺を知っていただろうか?日本にいて、正しくその情報が届いていただろうか?
まさにこの映画で扱われている「光州事件」についても同じだ。僕が生まれる前に起こった出来事ではあるが、それにしても、これほどの事件をこの映画を見るまで僕は知らなかった。学校の授業では習うのだろうか?僕が歴史の授業を真面目に受けていなかったから知らなかったのだろうか?
インターネットが世界中を覆い、多くの人がスマートフォンを持つようになった。マスコミでなくても、自分が見たもの、聞いたことを発信できる時代になった。内戦が続くシリアで、ツイッターを通じて現状を発信し続けた7歳の少女が話題になった。ノーベル平和賞を最年少で受賞した、当時17歳のマララさんも注目を集めた。確かに、世界にはこれまで以上に「目」が行き届いているし、以前よりも情報を隠すことが難しくはなっている。しかし、あの大国・中国は、未だに国内のインターネットの監視・検閲をしていると言われているし、インターネットやスマートフォンという武器を手にしても自由な言論を手に入れられないでいる人もまだまだ世界中にはいるだろうし、何よりもインターネットという武器がまだ世界のすべてに行き届いているわけではない。
僕らは、きちんと意識しなければ、見たいもの、見て心地よいと感じるものしか見ないで済む。これは、インターネットがもたらした負の側面だ。見たくないものは見ない、という意識のせいで、どれほど世の中に「真実」が溢れ出てくるようになっても、その情報を受け取る者が誰もいない、ということになってしまう。
「光州事件」が起こった時点では、まだインターネットはほとんど存在していなかっただろうが、「見たくないものは見ない」という人間の意識がどれほどの悲劇をもたらしうるかについて、非常に示唆的だと言えるだろう。普通に生きていたら視界に入らない世界、などというと外国や戦争のような大きな話をイメージされるかもしれないが、現代においては、隣人やクラスメートや同僚などでも、きちんと見ようとしなければ何も見えてこないという現実がある。
そういう社会で生きる僕らが意識すべきことを、この映画は強烈に印象づけてくれる。
内容に入ろうと思います。
ソウル市内でタクシー運転手をしている男は、一人娘のウンジョンを男手一つで育てている。彼は楽天家らしく、日々を陽気に生きているように見えるが、ひとり親で娘に負担を掛けていたり、家賃を4ヶ月も滞納していたりする現状をどうにかしたいと考えている。溜まった家賃は10万ウォン。せめてこれぐらいはなんとかしなければ。
そんな折、耳寄りな情報を手に入れる。別のタクシー運転手が、光州まで乗せて帰ってくれば10万ウォン払うという外国人客について話していたのだ。彼はその客を横取りすることに成功し、カタコトの英語でコミュニケーションを取りながら、ドイツからきたヒンツピーターという男を乗せて光州へと向かった。
しかし…光州に入ろうとする道には軍がいた。通行禁止だという。状況は不明だが、男は金のために口八丁で兵士を説き伏せ、なんとか光州入りを果たす。
そこは、道路にゴミが散乱し、スプレー缶で物々しい標語がシャッターに書かれた寂れた街の様相を呈していた。そこで男は、ドイツ人が記者であることを知った。ピーターは、デモ隊の英語が喋れる学生を通訳にして、光州の町を撮影しはじめる。
そこでは、地獄絵図が展開されていた。軍が市民に対し暴虐の限りを尽くし、兵士が容赦なく銃を撃つ、危険地帯だった。タクシー運転手の男の頭に、娘の顔が過ぎる。なんとかここから無事脱出しなくては…。
というような話です。
素晴らしい映画だった。
この映画は、実話を基にしているという。しかし最後まで見ると分かるが、どうやらこの映画の主人公であるタクシー運転手は、身元が分かっていないようだ。恐らくこの映画を構成するすべての情報は、光州入りしたドイツ人記者からもたらされたものだろう(映画の最後に、ピーター本人が喋っている映像が流れる)。ピーターは韓国語に明るくない。つまりこの映画で「真実」と言える部分は、「ピーターが目にしたもの」だけであり、それ以外はフィクションだと考えていいだろう。
この映画を見ながら僕はずっと「人間でいたい」と思っていた。
人には、立場や背景や状況など、様々な付帯事項がある。「やれと言われればやるしかない」と判断せざるを得ない状況も当然あるとは思っている。
しかし、その「やれ」と言われたことが、人間としての道を外すものであった場合、決断は非常に困難になる。僕は、心理学の世界で有名な「アイヒマン実験」のことも知っている。ナチスドイツの元でユダヤ人を収容所で殺し続けたアイヒマンが、本当に人間として酷かったのかを検証するために行われたものだ。その結果、どんな人であっても権威に強要されれば人を殺しうる、という結論が導き出された。だから僕は、「光州事件」において、同胞たちを無慈悲に銃で撃ちまくっていた兵士たちを単純に悪くは断罪できない。彼らにも、逃れられない状況があったのだ、とは想像する。
でも、自分がその立場だったら、なんとかして「人間でいられる方」を選びたい、と思ってしまった。
凄いシーンがあった。ピーターが現場にいた場面だから、恐らく実際にあった出来事だろう。具体的には書かないが、タクシー運転手たちが、自らの命の危険も顧みず、膠着した状況で一歩前進した場面だ。
自分に出来るかどうかは分からない。分からないけど、僕は強烈にそちら側にいたい、と思った。どれだけ命を危険に晒そうとも、どれだけ大切な人を悲しませる結果になったとしても、「人間でいられる方」でいたい、と思った。「国を守るため」とか「正義のため」というような、実感の得られないもののためではなくて、「自分が人間として生きられるか/死ねるか」を、自分の行動の基準にしたいと強く感じた。
後半は、ずっと祈っていた。もちろん、結果は分かっている。こんな映画が作られるぐらいだ。ピーターがフィルムを持って韓国を出国出来ていなければありえない。それは分かっていても、ずっと祈っていた。多くの人が犠牲になった。自分のために誰かが犠牲になることの辛さが、一つまた一つと積み上がっていく中で、それでも彼らは、「人間として生きるため」に前進し続けた。僕には、祈ることしか出来なかった。もし、自分の目の前で何かが起こり、祈る以外の行動が取れる状況であれば、僕はその行動を取りたいと思った。実際に出来るかどうかは分からない。でも、この映画を見たことが、その勇気を振り絞る力になるかもしれない、とは思った。
いつでも、僕らのすぐ傍でも、何かが起こっている。見たいものへのアクセス力は異様に発達する一方で、見たくないものを排除するシステムが完璧に構築されているこの現代社会の中で、自分の周りで起こっているかもしれない「何か」にちゃんと気づける/知れる人間でいたいと思う。そんな風にして僕は、なんとか、「人間でいられる方」にい続けたいと思う。
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