いまは、空しか見えない(白尾悠)
小中学生の頃、僕はよく学校を休んだ。たぶん。ちゃんと覚えてないけど。実際に病気だったりどこかが痛かったりしたこともある。骨折したり入院したりしたこともある。ただ、仮病だったことも確かにあった。なんというのか、学校に行きたくないな、という感覚は、やっぱりどこかにあった。
具体的な、分かりやすい何かがあったわけではなかった、と思う。特別いじめられていたとか、特別嫌な先生に当たったとか、確かにそういう部分はゼロではなかったかもしれないけど、でもはっきりとこれが原因だというような、明確な何かはたぶんなかった。でも、学校に行くという現実が、もっと言えば、今日という一日をちゃんと生きることが、嫌だなと思っていたことはやっぱりあったはずで、そういう時、ちょっとした逃避をしていたのだと思う。
その一方で、高校時代は皆勤だった。などと書くと、学校が好きになったのだ、と思われるかもしれないが、そうではない。たぶん状況は真逆と言っていい。
僕は、こう思っていた。一度でも学校に行かなくなったら、二度と行けなくなってしまうんじゃないか、と。たぶん、そういう強迫観念に押し出されるようにして、学校に行っていたような気がする。高校時代だって、具体的な何かがあったわけではない。ただとにかく、学校という閉鎖的な空間が嫌だったし、他人と関わることが嫌だったし、教師の言うことに従わなければならない状況が嫌だった。
眼の前の現実から逃げたくなる状況というのは、ある。誰にでもあるのか、それは分からないが、どれだけ恵まれているように見える人だって、そういう状況に陥ることはあるだろう。
今ならば、僕は、逃げてしまえ、と思える。今の思考のまま、学生時代を過ごせたとしたら、全然違っただろう。全然違ったと思う。闘う必要なんてないし、逃げたって何もかもすべてが失われるわけでもないし、我慢して得することなんてほとんどない。でも、やっぱり、あの当時の僕には逃げることはとても難しかった。僕は、その時の自分が取りうる可能な限りの最良の選択肢を進みながら、なんとか生きのびてきた、という感覚がある。
「生きのびてきた」などと大袈裟に書いたが、目に見えるような、誰かにはっきり伝えられるような分かりやすい何かは、別にずっとなかったのだ。今だって、昔の自分が何に辛さを感じていたのか、きちんと言語化出来るとは言えない。でも、僕の思考の片隅には常に「自殺」というのはあったし、そうする可能性だって決してゼロではなかった。
『私には、戦ってるように見えた』
逃げるしかないほど絶望的で圧倒的な現実があるなら、逃げる自分を肯定するしかない。僕は、長い時間を掛けて、そういう自分を確保出来た。良かったな、と思う。今逃げている人にも、あるいは逃げたくても逃げられないと思っている人にも、逃げる自分を肯定できるようになって欲しいと思う。『いつも独りになる恐怖を抱え、誰かに必要とされたくてやまない』なんて、たぶんみんなそうだ。だから逃げられないんだ、なんて卑下する必要なんてない。今いる場所が辛かったら、全力で逃げろ。とにかく僕が多くの人に伝えたいと本当に思っていることは、これぐらいしかない。
内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。
「アクロス・ザ・ユニバース」
山梨に住む高校生の智佳は、ちょっとしたこと(服のボタンが取れている、程度のこと)で不機嫌になり、家族の平穏を脅かす父と、そんな父に服従するようにしか生きられない母親との三人暮らし。両親に嘘をついて飛び乗った長距離バスには、最悪なことに、同級生の森本優亜が乗り込んできた。接点はほぼない。智佳は学年トップクラスの成績で、優亜はギャルだ。何故か道中を共にすることになった。智佳は、東京の芸術大学で行われる、憧れの映画監督・水沢隆秀の講演会に出るのが目的だった。しかしその後、何故か優亜の予定につきあわされ…。
「春のまなざし」
智佳の母親である雪子は、子供の頃からずっと独りだった。母親は、雪子と目を合わせようとしなかった。兄と姉ばかりを見て、雪子はいないも同然の扱いだった。その母が危篤だと言うので、気乗りはしなかったが新潟の実家へと向かった。雪子は親戚一同の中でも問題児扱いで、所在なく家の片隅にいるしかなかったが、兄嫁に話しかけられ、雪子は少し心が軽くなったように感じる。
「空のあの子」
銀行への就職が決まり、さて卒業まで遊び倒すぞ、と思っていた矢先に付き合っていた彼女に振られた翔馬。医学部の奴に乗り換えたと聞き、やるせなさが募る。友人に誘われる合コンに出るもイマイチ気合は入らず、家で動画を見ているときに、GAMIの存在を知った。「LUCY」というタイトルの動画の撮影場所が、明らかに近所だったのだ。さらに同じ大学のバンドのミュージックビデオも作っているらしい。ホラーを基調とした映像に魅せられた翔馬は、製作者であるGAMIの名前を覚えた。そしてなんとそのGAMIは、同じ大学の、しかも同じ銀行に就職する同期である坂上智佳だった。翔馬はふとしたことでそれに気付き、それ以来坂上の映像制作を手伝うことになったが…。
「さよなら苺畑」
名古屋にいる伯母を頼り、美容師になった森本優亜は、東という、ゲイだと睨んでいる先輩から丁寧に仕事を教わっていた。過去の出来事のせいで、男が全般的に怖くなっている優亜は、東はゲイのはずだと安心していた。しかし友人との会話で、そうではないかもしれないという疑念が持ち上がった。さらに自身が働く美容室にやってきた男性客からの振る舞いによってフリーズしてしまった優亜は、色んなことが信じられなくなっていく。
「黒い鳥飛んだ」
智佳は疲弊していた。入社したテレビの制作会社での、昼も夜も、休日も何もないような怒涛の日々に、消耗していた。青柳伸太郎という、カルト的な人気を持つ映画監督の20年ぶりの新作に関わらせてもらっているのは非常にありがたいのだけど、そのせいで社内での風当たりがキツくなっているし、そもそも期待してもらえるほどの何かを自分の内側から出せるわけでもない。自分がなんのためにここまでやってきたのか、わからなくなる。それでも、何かを悩んだり考えたりする余裕など一切ない怒涛の毎日は、智佳の日常を凄まじい勢いで押し流していく。
というような話です。
「女による女のためのR-18文学賞」を受賞した作品で、つまり新人のデビュー作だ。新人のデビュー作とは思えない、非常に重厚でしっかりとした作品だ。
坂上智佳という女性と、その周囲にいる人々を描き出す物語だが、誰もがやるせなさみたいなものを感じている。それぞれが直面している「現実」は違う。それは、人だったり過去だったり現在だったりするのだけど、その囚われている「現実」にどう関わっていくのか、ということが実に巧く切り取られていく。
『安全圏でうまくやれるならいいじゃない。そこで頑張ることがなぜダメだと思うの?”みんな危険を冒しても外に向けて挑戦するべき”みたいに言う人は信用できないよ。結果的に自分が成功したからって無責任だなって思う。伝わるのは夢を叶えた人の話ばっかり。その百倍とか千倍とかいるはずの、どんなに頑張ってもどうしても叶えられなかった人は、なかったことにされてる』
大体、多くの人に届く物語というのは、叶えられた人の話だ。そうじゃない人が山ほどいる、という現実を、多くの人が知る機会は少ない。極端な事例を「成功」だと思わされ、そこを目指すべき、と追いまくられるような生き方に、いつの間にか僕らは慣れてしまっている。
智佳は、そういう人とは違う人種だ、と僕は思う。智佳には、確固たる何かがある。そこに向かうべきだという確信がある。それがあるからこそ、智佳は戦うことが出来る。そこには、漠然と夢を追う人間には持ちえないような切実さがある。
そのために智佳が乗り越えなければならない「現実」の壁は、非常に大きい。直面する「現実」は人それぞれ違うし、だからこそ物語も変わってくるが、智佳の物語を読んで、なにがしかの勇気をもらえる、という人は少なくないだろう。
しかし、智佳にとっての最初の、そして最大の壁である父親は、僕には本当に許容できない存在だ。こういう人間がいる、というだけで苛立ちを覚える。それは、森本優亜にとっての壁となった男に対しても同じ感覚を抱く。他人のことを許容せず、理解もしない人間というのは、社会の中での存在価値などないのではないかと思えてしまう。
常に現実というのは、残酷さを内包している。いつ何時、その残酷さに絡め取られるか、誰にも分からない。何もないまま人生を終えることが出来れば、それは本当に幸運だろう。しかし、そんな幸運を当てにするのも怖い。というか、逃げる以外選択肢がないような現実が身に降り掛かってくる状況を許容するには、この経験が後々役に立つはずだ、と思い込む以外にはないじゃないか、といつも思う。
白尾悠「いまは、空しか見えない」
具体的な、分かりやすい何かがあったわけではなかった、と思う。特別いじめられていたとか、特別嫌な先生に当たったとか、確かにそういう部分はゼロではなかったかもしれないけど、でもはっきりとこれが原因だというような、明確な何かはたぶんなかった。でも、学校に行くという現実が、もっと言えば、今日という一日をちゃんと生きることが、嫌だなと思っていたことはやっぱりあったはずで、そういう時、ちょっとした逃避をしていたのだと思う。
その一方で、高校時代は皆勤だった。などと書くと、学校が好きになったのだ、と思われるかもしれないが、そうではない。たぶん状況は真逆と言っていい。
僕は、こう思っていた。一度でも学校に行かなくなったら、二度と行けなくなってしまうんじゃないか、と。たぶん、そういう強迫観念に押し出されるようにして、学校に行っていたような気がする。高校時代だって、具体的な何かがあったわけではない。ただとにかく、学校という閉鎖的な空間が嫌だったし、他人と関わることが嫌だったし、教師の言うことに従わなければならない状況が嫌だった。
眼の前の現実から逃げたくなる状況というのは、ある。誰にでもあるのか、それは分からないが、どれだけ恵まれているように見える人だって、そういう状況に陥ることはあるだろう。
今ならば、僕は、逃げてしまえ、と思える。今の思考のまま、学生時代を過ごせたとしたら、全然違っただろう。全然違ったと思う。闘う必要なんてないし、逃げたって何もかもすべてが失われるわけでもないし、我慢して得することなんてほとんどない。でも、やっぱり、あの当時の僕には逃げることはとても難しかった。僕は、その時の自分が取りうる可能な限りの最良の選択肢を進みながら、なんとか生きのびてきた、という感覚がある。
「生きのびてきた」などと大袈裟に書いたが、目に見えるような、誰かにはっきり伝えられるような分かりやすい何かは、別にずっとなかったのだ。今だって、昔の自分が何に辛さを感じていたのか、きちんと言語化出来るとは言えない。でも、僕の思考の片隅には常に「自殺」というのはあったし、そうする可能性だって決してゼロではなかった。
『私には、戦ってるように見えた』
逃げるしかないほど絶望的で圧倒的な現実があるなら、逃げる自分を肯定するしかない。僕は、長い時間を掛けて、そういう自分を確保出来た。良かったな、と思う。今逃げている人にも、あるいは逃げたくても逃げられないと思っている人にも、逃げる自分を肯定できるようになって欲しいと思う。『いつも独りになる恐怖を抱え、誰かに必要とされたくてやまない』なんて、たぶんみんなそうだ。だから逃げられないんだ、なんて卑下する必要なんてない。今いる場所が辛かったら、全力で逃げろ。とにかく僕が多くの人に伝えたいと本当に思っていることは、これぐらいしかない。
内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。
「アクロス・ザ・ユニバース」
山梨に住む高校生の智佳は、ちょっとしたこと(服のボタンが取れている、程度のこと)で不機嫌になり、家族の平穏を脅かす父と、そんな父に服従するようにしか生きられない母親との三人暮らし。両親に嘘をついて飛び乗った長距離バスには、最悪なことに、同級生の森本優亜が乗り込んできた。接点はほぼない。智佳は学年トップクラスの成績で、優亜はギャルだ。何故か道中を共にすることになった。智佳は、東京の芸術大学で行われる、憧れの映画監督・水沢隆秀の講演会に出るのが目的だった。しかしその後、何故か優亜の予定につきあわされ…。
「春のまなざし」
智佳の母親である雪子は、子供の頃からずっと独りだった。母親は、雪子と目を合わせようとしなかった。兄と姉ばかりを見て、雪子はいないも同然の扱いだった。その母が危篤だと言うので、気乗りはしなかったが新潟の実家へと向かった。雪子は親戚一同の中でも問題児扱いで、所在なく家の片隅にいるしかなかったが、兄嫁に話しかけられ、雪子は少し心が軽くなったように感じる。
「空のあの子」
銀行への就職が決まり、さて卒業まで遊び倒すぞ、と思っていた矢先に付き合っていた彼女に振られた翔馬。医学部の奴に乗り換えたと聞き、やるせなさが募る。友人に誘われる合コンに出るもイマイチ気合は入らず、家で動画を見ているときに、GAMIの存在を知った。「LUCY」というタイトルの動画の撮影場所が、明らかに近所だったのだ。さらに同じ大学のバンドのミュージックビデオも作っているらしい。ホラーを基調とした映像に魅せられた翔馬は、製作者であるGAMIの名前を覚えた。そしてなんとそのGAMIは、同じ大学の、しかも同じ銀行に就職する同期である坂上智佳だった。翔馬はふとしたことでそれに気付き、それ以来坂上の映像制作を手伝うことになったが…。
「さよなら苺畑」
名古屋にいる伯母を頼り、美容師になった森本優亜は、東という、ゲイだと睨んでいる先輩から丁寧に仕事を教わっていた。過去の出来事のせいで、男が全般的に怖くなっている優亜は、東はゲイのはずだと安心していた。しかし友人との会話で、そうではないかもしれないという疑念が持ち上がった。さらに自身が働く美容室にやってきた男性客からの振る舞いによってフリーズしてしまった優亜は、色んなことが信じられなくなっていく。
「黒い鳥飛んだ」
智佳は疲弊していた。入社したテレビの制作会社での、昼も夜も、休日も何もないような怒涛の日々に、消耗していた。青柳伸太郎という、カルト的な人気を持つ映画監督の20年ぶりの新作に関わらせてもらっているのは非常にありがたいのだけど、そのせいで社内での風当たりがキツくなっているし、そもそも期待してもらえるほどの何かを自分の内側から出せるわけでもない。自分がなんのためにここまでやってきたのか、わからなくなる。それでも、何かを悩んだり考えたりする余裕など一切ない怒涛の毎日は、智佳の日常を凄まじい勢いで押し流していく。
というような話です。
「女による女のためのR-18文学賞」を受賞した作品で、つまり新人のデビュー作だ。新人のデビュー作とは思えない、非常に重厚でしっかりとした作品だ。
坂上智佳という女性と、その周囲にいる人々を描き出す物語だが、誰もがやるせなさみたいなものを感じている。それぞれが直面している「現実」は違う。それは、人だったり過去だったり現在だったりするのだけど、その囚われている「現実」にどう関わっていくのか、ということが実に巧く切り取られていく。
『安全圏でうまくやれるならいいじゃない。そこで頑張ることがなぜダメだと思うの?”みんな危険を冒しても外に向けて挑戦するべき”みたいに言う人は信用できないよ。結果的に自分が成功したからって無責任だなって思う。伝わるのは夢を叶えた人の話ばっかり。その百倍とか千倍とかいるはずの、どんなに頑張ってもどうしても叶えられなかった人は、なかったことにされてる』
大体、多くの人に届く物語というのは、叶えられた人の話だ。そうじゃない人が山ほどいる、という現実を、多くの人が知る機会は少ない。極端な事例を「成功」だと思わされ、そこを目指すべき、と追いまくられるような生き方に、いつの間にか僕らは慣れてしまっている。
智佳は、そういう人とは違う人種だ、と僕は思う。智佳には、確固たる何かがある。そこに向かうべきだという確信がある。それがあるからこそ、智佳は戦うことが出来る。そこには、漠然と夢を追う人間には持ちえないような切実さがある。
そのために智佳が乗り越えなければならない「現実」の壁は、非常に大きい。直面する「現実」は人それぞれ違うし、だからこそ物語も変わってくるが、智佳の物語を読んで、なにがしかの勇気をもらえる、という人は少なくないだろう。
しかし、智佳にとっての最初の、そして最大の壁である父親は、僕には本当に許容できない存在だ。こういう人間がいる、というだけで苛立ちを覚える。それは、森本優亜にとっての壁となった男に対しても同じ感覚を抱く。他人のことを許容せず、理解もしない人間というのは、社会の中での存在価値などないのではないかと思えてしまう。
常に現実というのは、残酷さを内包している。いつ何時、その残酷さに絡め取られるか、誰にも分からない。何もないまま人生を終えることが出来れば、それは本当に幸運だろう。しかし、そんな幸運を当てにするのも怖い。というか、逃げる以外選択肢がないような現実が身に降り掛かってくる状況を許容するには、この経験が後々役に立つはずだ、と思い込む以外にはないじゃないか、といつも思う。
白尾悠「いまは、空しか見えない」
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