凶犬の眼(柚月裕子)
自分の中のルールに正直に生きていきたいと思っている。
自分の中にあるそのルールは、世間のルールからは外れているかもしれない。でも、それは正直大した問題ではない。他人に迷惑を掛けるべきではないと思うし、社会の秩序を乱すのも良くないと思うが、そうでなければ、自分の中のルールが世間のルールにそぐわなくたって問題はない。
変な話だが、僕にはこんな感覚がある。天から誰かに見られているような感覚だ。
僕は、何か特定の宗教を信仰しているわけでもないし、神だの創造主だのと言った存在を信じているわけでもない。バリバリの理系で、オカルト的な話全般にはイマイチ興味が持てない。
だから僕は、何か特定の存在を信じているというような意識でいるわけではない。僕が言う「誰か」というのは、本当になんだか分からない実態のない存在で、そういうよく分からない存在に「見られている」というような感覚がある。
例えば、道端にゴミを捨てたくなることがある。実際に捨てることも、もしかしたらあるかもしれない。でも、大体捨てない。捨てようとすると、天にいる謎の存在に「見られている」というような感覚が強まるのだ。で、見られてるから、なんとなく止めようという感じになる。そうやって、僕は道端にゴミを捨てない、という選択をする。
こんなことを書くと、僕が道徳的、模範的な人間に思われるかもしれないけど、別にそういうことではない。あくまでも僕は、自分の中のルールに正直にいたいだけで、世間のルールに従おうと思っているわけではない。例えば、危険がないと判断すれば、赤信号でも渡る。僕の中のルールでは、それを禁じていない。でもなんとなく、ゴミはダメだ。どういう基準で決まっているのか、自分でも分からないのだけど。
この「見られている」という感覚は、自分の行動を律するのになかなか便利だ。こういう便利さを日常の中に組み込むために自分が生み出した感覚なのか、あるいは元々僕の中に存在した感覚なのか分からないが、自分が極端に悪い方向に進まないでいられる歯止めとして、とても重宝している。
自分の中のルールは、破ったところで罰則はない。一回ぐらいサボったって、誰かに怒られたりはしない。でも、だからこそ、なかなか破れない。自分しか歯止めがないのだから、その自分が簡単に破ってしまったら、なし崩し的にすべてダメになってしまう、という風に思っているからだ。僕は高校時代、夏休みの宿題を夏休み前にすべて終わらせ、その上で毎日長時間勉強をし続けたが、これも、一旦止めてしまったらもう二度と勉強を再開出来なくなるのではないか、という感覚があったからだ。
たとえそれが言語化出来ないようなものでも、この人にはこの人なりの明確なルールがあるのだな、と感じられる人が好きだ。ルールそのものをうまく捉えきれなくても、そういうのは感覚としてなんとなく分かる。逆に、時と場合によってルールがぐにゃぐにゃに見えたり、筋の通ったルールを持ってなさそうに見える人は、あまり好きになれないことが多い。
たぶん、不自由さを内在することでしか獲得できない自由、みたいなものに惹かれるのだろうなと思う。
内容に入ろうと思います。
本書は、「孤狼の血」の続編に当たる作品ですが、ストーリーだけなら本書からでも読めます。
日岡秀一は、久々に「小料理や 志乃」の晶子に会いにきた。裁判絡みの用事のついでなのだが、かつての上司・大上章吾とここで過ごした日々は、今も日岡の血肉となっている。以前は呉原東署捜査二課にいた日岡だが、今は山奥の駐在所勤務だ。有り体に言えば、左遷である。事件らしい事件も起こらない土地で、夫婦喧嘩の仲裁を買って出るような日々は、かつて大上と過ごしたひりつくような毎日とは雲泥の差だ。
「小料理や 志乃」でしばらく旨い飯を食っていた日岡だったが、階上に人の気配を感じた。そこには、日岡の見知ったヤクザらが数名顔を揃えており、その中に一人、誰なのか分からない男がいた。
明らかにカタギではない。どこかで見覚えもあるのだが…。記憶を探る日岡は、ある人物の顔が浮かび、衝撃に震えた。
国光寛郎―。日本最大の暴力団組織・明石組の二次団体である北柴組の若頭だった男だ。今年の二月、明石組四代目の武田力也が暗殺され日本中が騒然となったが、国光はその暗殺の首謀者の一人として、殺人幇助の容疑で全国に指名手配されているのだ。
動悸がする。僻地に追いやられた身でも、指名手配犯を確保出来れば大手柄、所轄へ戻れる―。
国光は日岡が刑事と知っても動じることなく、しかもなんと自ら名乗った。どういうつもりだ…。国光は日岡に、少し時間をくれ、と言った。まだやらなければならないことがある。目処がついたら、必ずあんたに手錠を嵌めてもらう、と。
日岡は考えた末、国光をすぐに捕えないことに決めた。管轄中に指名手配犯が潜んでいたとなれば処分は免れないが、その危険を冒してでも国光が何をやろうとしているのか気になった。
国光という男には、他のヤクザにはない何かがある―。日岡はそれを見極めようとしていた…。
というような話です。
人間関係や組織図は難しくて基本的に理解できなかったけど、それでも面白かった!というのが正直な感想です。
まず、難しかった、という部分から触れましょう。
僕は「孤狼の血」の内容はもうほとんど忘れちゃってるんですけど、「孤狼の血」の時も、ヤクザ的な部分は把握するのが難しいと感じたと思います。本書でもやっぱりなかなか大変で、正直、ちゃんと把握するのは諦めながら読みました。
いやー、複雑過ぎませんか、ヤクザの関係って。
誰と誰が兄弟で、なんとか組となんとか会が関係があって、どことどこが対立していて、みたいなこと、わたくし、ほぼ理解できませんでした(泣)。まあ、理解できないだろうなぁ、と最初から諦めてそういう描写を真剣に読まなかった、というのもあるんだけど、ちょっと僕にはハードルが高かったです。
あと、ヤクザ独特の理屈、みたいなものも結構難しかったですね。例えば、こういう感じ。
『自分が引退した後は、子分の○○を当代に据える腹よ。そうなりゃあ、いまの舎弟のほとんどは、代替わりして跡目を子分に譲り、組長の座から降りにゃァならん(ネタバレになるのかどうかも判断出来なかったので、人物名は一応伏せました)』
僕には、「ある人が当代になる」と何故「代替わりして跡目を子分に譲り、組長の座から降りなければならない」のか、その理屈がイマイチよく分からないんですよね。これ、発言してる方も聞いてる方も刑事で、二人の間では当然過ぎるほど当然の話なんだろうから作中で説明されないんだけど、こういう、メンツとか体面とか仁義みたいなものを重んじるヤクザ独特の考え方みたいなものも、スッと入ってこない部分があってなかなか難しい部分がありました。
それでも、本書は面白い作品でした。何故なら、国光という男が実に魅力的だからです。
日岡は、『ヤクザの大半は、その場しのぎの嘘で生きている。暴力団とは欲と金にまみれた外道の集団だ。(中略)しかしその一方で、わずかだが昔ながらの仁義を貫いている者もいる』と感じている。そして、国光は後者のヤクザなのではないか、と思っている。
国光は確かにヤクザだし、同じヤクザとは言え人を殺している人間だ。だから当然「良い人」なんて括り方は出来ない。しかし、冒頭で書いたような、自分のルールに忠実な人間で、それも忠実すぎるほどに忠実な人間なのだ。その点が、国光という男をとても魅力的に見せているし、日岡が国光に惹かれたように、きっと僕も国光の近くにいれば、彼のために何か出来ないかと思ってしまうだろうと思う。
悪人をここまで魅力的に描けるというのは、本当に素晴らしいと思う。
国光はたぶん、ヤクザでなかったとしても頭角を現していただろう。わざわざヤクザになる必要はなかった。何故国光がヤクザになったのかは、後半の方で描かれるのでここでは触れないが、国光なりの理由があり、この道を選んだ。そして選んだからにはその道を貫き通すのだ、という覚悟に溢れている。
もし国光がヤクザでなかったとしたら、あまりにも出来すぎていて逆に興ざめしてしまうだろう。それぐらい、国光という男の生き方や振る舞いは徹底している。国光がヤクザでなかったとしたら、ノンフィクションならともかく、小説の中では「そんな奴いるか!」と一喝されてしまうような、そんな人物だ。
本書では、国光のような見事な男がヤクザである、という点がとても重要で、これほどの男なのにヤクザであるが故に全面的に許容できない、という自分の中の葛藤が、本書をより面白くするのだ、と思う。国光という男に惹かれている自分に気づく度、いやこいつはヤクザなんだ、と我に返る。読みながら、その繰り返しだ。それが、妙な緊張感を生む作品だ。
ヤクザである国光が、警察官である日岡とこれほどの関係になる、というのは、恐らく現実にはあり得ない設定だろう。しかし、なんとも言えない説得力が、本書にはある。柚月裕子の作品には、全体的にそういう力強さが漲っている感じがして、あり得ないだろうと感じさせるような物語がリアルなものに感じられるようになっていく。
ヤクザの組織や理屈は僕にはちょっと難しすぎたが、国光という男の魅力に引きずられて一気読みさせられてしまった作品だ。
柚月裕子「凶犬の眼」
自分の中にあるそのルールは、世間のルールからは外れているかもしれない。でも、それは正直大した問題ではない。他人に迷惑を掛けるべきではないと思うし、社会の秩序を乱すのも良くないと思うが、そうでなければ、自分の中のルールが世間のルールにそぐわなくたって問題はない。
変な話だが、僕にはこんな感覚がある。天から誰かに見られているような感覚だ。
僕は、何か特定の宗教を信仰しているわけでもないし、神だの創造主だのと言った存在を信じているわけでもない。バリバリの理系で、オカルト的な話全般にはイマイチ興味が持てない。
だから僕は、何か特定の存在を信じているというような意識でいるわけではない。僕が言う「誰か」というのは、本当になんだか分からない実態のない存在で、そういうよく分からない存在に「見られている」というような感覚がある。
例えば、道端にゴミを捨てたくなることがある。実際に捨てることも、もしかしたらあるかもしれない。でも、大体捨てない。捨てようとすると、天にいる謎の存在に「見られている」というような感覚が強まるのだ。で、見られてるから、なんとなく止めようという感じになる。そうやって、僕は道端にゴミを捨てない、という選択をする。
こんなことを書くと、僕が道徳的、模範的な人間に思われるかもしれないけど、別にそういうことではない。あくまでも僕は、自分の中のルールに正直にいたいだけで、世間のルールに従おうと思っているわけではない。例えば、危険がないと判断すれば、赤信号でも渡る。僕の中のルールでは、それを禁じていない。でもなんとなく、ゴミはダメだ。どういう基準で決まっているのか、自分でも分からないのだけど。
この「見られている」という感覚は、自分の行動を律するのになかなか便利だ。こういう便利さを日常の中に組み込むために自分が生み出した感覚なのか、あるいは元々僕の中に存在した感覚なのか分からないが、自分が極端に悪い方向に進まないでいられる歯止めとして、とても重宝している。
自分の中のルールは、破ったところで罰則はない。一回ぐらいサボったって、誰かに怒られたりはしない。でも、だからこそ、なかなか破れない。自分しか歯止めがないのだから、その自分が簡単に破ってしまったら、なし崩し的にすべてダメになってしまう、という風に思っているからだ。僕は高校時代、夏休みの宿題を夏休み前にすべて終わらせ、その上で毎日長時間勉強をし続けたが、これも、一旦止めてしまったらもう二度と勉強を再開出来なくなるのではないか、という感覚があったからだ。
たとえそれが言語化出来ないようなものでも、この人にはこの人なりの明確なルールがあるのだな、と感じられる人が好きだ。ルールそのものをうまく捉えきれなくても、そういうのは感覚としてなんとなく分かる。逆に、時と場合によってルールがぐにゃぐにゃに見えたり、筋の通ったルールを持ってなさそうに見える人は、あまり好きになれないことが多い。
たぶん、不自由さを内在することでしか獲得できない自由、みたいなものに惹かれるのだろうなと思う。
内容に入ろうと思います。
本書は、「孤狼の血」の続編に当たる作品ですが、ストーリーだけなら本書からでも読めます。
日岡秀一は、久々に「小料理や 志乃」の晶子に会いにきた。裁判絡みの用事のついでなのだが、かつての上司・大上章吾とここで過ごした日々は、今も日岡の血肉となっている。以前は呉原東署捜査二課にいた日岡だが、今は山奥の駐在所勤務だ。有り体に言えば、左遷である。事件らしい事件も起こらない土地で、夫婦喧嘩の仲裁を買って出るような日々は、かつて大上と過ごしたひりつくような毎日とは雲泥の差だ。
「小料理や 志乃」でしばらく旨い飯を食っていた日岡だったが、階上に人の気配を感じた。そこには、日岡の見知ったヤクザらが数名顔を揃えており、その中に一人、誰なのか分からない男がいた。
明らかにカタギではない。どこかで見覚えもあるのだが…。記憶を探る日岡は、ある人物の顔が浮かび、衝撃に震えた。
国光寛郎―。日本最大の暴力団組織・明石組の二次団体である北柴組の若頭だった男だ。今年の二月、明石組四代目の武田力也が暗殺され日本中が騒然となったが、国光はその暗殺の首謀者の一人として、殺人幇助の容疑で全国に指名手配されているのだ。
動悸がする。僻地に追いやられた身でも、指名手配犯を確保出来れば大手柄、所轄へ戻れる―。
国光は日岡が刑事と知っても動じることなく、しかもなんと自ら名乗った。どういうつもりだ…。国光は日岡に、少し時間をくれ、と言った。まだやらなければならないことがある。目処がついたら、必ずあんたに手錠を嵌めてもらう、と。
日岡は考えた末、国光をすぐに捕えないことに決めた。管轄中に指名手配犯が潜んでいたとなれば処分は免れないが、その危険を冒してでも国光が何をやろうとしているのか気になった。
国光という男には、他のヤクザにはない何かがある―。日岡はそれを見極めようとしていた…。
というような話です。
人間関係や組織図は難しくて基本的に理解できなかったけど、それでも面白かった!というのが正直な感想です。
まず、難しかった、という部分から触れましょう。
僕は「孤狼の血」の内容はもうほとんど忘れちゃってるんですけど、「孤狼の血」の時も、ヤクザ的な部分は把握するのが難しいと感じたと思います。本書でもやっぱりなかなか大変で、正直、ちゃんと把握するのは諦めながら読みました。
いやー、複雑過ぎませんか、ヤクザの関係って。
誰と誰が兄弟で、なんとか組となんとか会が関係があって、どことどこが対立していて、みたいなこと、わたくし、ほぼ理解できませんでした(泣)。まあ、理解できないだろうなぁ、と最初から諦めてそういう描写を真剣に読まなかった、というのもあるんだけど、ちょっと僕にはハードルが高かったです。
あと、ヤクザ独特の理屈、みたいなものも結構難しかったですね。例えば、こういう感じ。
『自分が引退した後は、子分の○○を当代に据える腹よ。そうなりゃあ、いまの舎弟のほとんどは、代替わりして跡目を子分に譲り、組長の座から降りにゃァならん(ネタバレになるのかどうかも判断出来なかったので、人物名は一応伏せました)』
僕には、「ある人が当代になる」と何故「代替わりして跡目を子分に譲り、組長の座から降りなければならない」のか、その理屈がイマイチよく分からないんですよね。これ、発言してる方も聞いてる方も刑事で、二人の間では当然過ぎるほど当然の話なんだろうから作中で説明されないんだけど、こういう、メンツとか体面とか仁義みたいなものを重んじるヤクザ独特の考え方みたいなものも、スッと入ってこない部分があってなかなか難しい部分がありました。
それでも、本書は面白い作品でした。何故なら、国光という男が実に魅力的だからです。
日岡は、『ヤクザの大半は、その場しのぎの嘘で生きている。暴力団とは欲と金にまみれた外道の集団だ。(中略)しかしその一方で、わずかだが昔ながらの仁義を貫いている者もいる』と感じている。そして、国光は後者のヤクザなのではないか、と思っている。
国光は確かにヤクザだし、同じヤクザとは言え人を殺している人間だ。だから当然「良い人」なんて括り方は出来ない。しかし、冒頭で書いたような、自分のルールに忠実な人間で、それも忠実すぎるほどに忠実な人間なのだ。その点が、国光という男をとても魅力的に見せているし、日岡が国光に惹かれたように、きっと僕も国光の近くにいれば、彼のために何か出来ないかと思ってしまうだろうと思う。
悪人をここまで魅力的に描けるというのは、本当に素晴らしいと思う。
国光はたぶん、ヤクザでなかったとしても頭角を現していただろう。わざわざヤクザになる必要はなかった。何故国光がヤクザになったのかは、後半の方で描かれるのでここでは触れないが、国光なりの理由があり、この道を選んだ。そして選んだからにはその道を貫き通すのだ、という覚悟に溢れている。
もし国光がヤクザでなかったとしたら、あまりにも出来すぎていて逆に興ざめしてしまうだろう。それぐらい、国光という男の生き方や振る舞いは徹底している。国光がヤクザでなかったとしたら、ノンフィクションならともかく、小説の中では「そんな奴いるか!」と一喝されてしまうような、そんな人物だ。
本書では、国光のような見事な男がヤクザである、という点がとても重要で、これほどの男なのにヤクザであるが故に全面的に許容できない、という自分の中の葛藤が、本書をより面白くするのだ、と思う。国光という男に惹かれている自分に気づく度、いやこいつはヤクザなんだ、と我に返る。読みながら、その繰り返しだ。それが、妙な緊張感を生む作品だ。
ヤクザである国光が、警察官である日岡とこれほどの関係になる、というのは、恐らく現実にはあり得ない設定だろう。しかし、なんとも言えない説得力が、本書にはある。柚月裕子の作品には、全体的にそういう力強さが漲っている感じがして、あり得ないだろうと感じさせるような物語がリアルなものに感じられるようになっていく。
ヤクザの組織や理屈は僕にはちょっと難しすぎたが、国光という男の魅力に引きずられて一気読みさせられてしまった作品だ。
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