黒夜行

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名人に香車を引いた男 升田幸三自伝(升田幸三)

僕は大分勘違いしていた。

「名人に香車を引いた男」という本のタイトルは、昔から知っていた。将棋は好きだけど全然知識も実力もない人間ではあるが、それでも、「プロ棋士が名人に香車を引く」なんてことが出来ない、ということぐらいは分かっているつもりだ。

将棋に詳しくない方のために少し説明しよう。「香車を引く」というのは、「自分が香車を1枚使わずに戦う」ということだ。対局相手と実力差がある場合、強い方がいくつか駒を落とす(最初から使わない)で戦うというやり方があり、「香車を引く」というのもその一つだ。

さてここで大事な点は、「強い方が駒を落とす」ということだ。プロが「飛車」と「角」を使わないでアマチュアと戦う、なんてことはよくある(はず)。しかし当たり前だが、その逆はない。アマチュアが「飛車」と「角」を使わないでプロと戦うことなんてあり得ない。つまり、駒を落とす(駒を最初から使わない)のは、強い側なのだ。

さてここで「名人」について説明しよう。これについては僕もはっきりと具体的には説明できないのだけど、すごーく大雑把にざっくり言えば、「一番強いプロ棋士=名人」ということになる。

さてすると、「名人に香車を引く」というのはどういうことになると、「一番強いプロ棋士に対して最初から香車を使わないで戦う」ということなのだ。

これがいかにあり得ない状況か、理解してもらえるだろう。

さて、升田幸三の自伝のタイトルは「名人に香車を引いた男」だ。著者略歴にも、『昭和三十一年には大山康晴名人に対し「名人に香車を引いて勝つ」という将棋史上空前絶後の記録を残す』と書かれている。つまり升田幸三は実際に、名人に対して香車を引いた、ということになる。そして、僕が持っている将棋の知識では、そんな対局を将棋連盟が許すはずがないのだ(この判断には、一時期プロ棋士が公式の場で将棋ソフトと対局することが禁じられていた、という事実も考慮している。ある意味でプロ棋士もイメージ商売なのだから、強い者が強いのだ、というイメージを崩すような対局は許容されない傾向にあると思う)。

升田幸三自身も、こう言っている。

『将棋界の仕組みがわかってからは、「名人に香車を引く」なんてことは、あり得ない、成し得ないことだと知った』

さてではどうなるのか。僕はこう考えていた。升田幸三は、名人に「俺が香車を引くから対局しろ」と無理矢理脅して迫ったのではないか、と。そうじゃないと、名人に対して香車を引いて戦う、という状況そのものが成り立たないと思っていた。

ずっとそんな間違ったイメージでいたから、升田幸三という棋士は、たぶんヤバいやつなんだろう、という漠然とした印象を持っていた。まあ、その印象は実際には当たらずといえども遠からずといったところだったのだが(笑)、とはいえ、将棋の品格や棋士の品位を貶めるようなことをする人間ではない、ということは本書を読んでよく分かった。

そう、将棋ファンなら当然知っているのだろうけど、升田幸三は名人を脅して対局に持ち込んだわけではないのである。

内容に入ろうと思います。
本書は、タイトル通り「名人に香車を引いた男」として、将棋界でもはや誰も成しえない弩級の記録を残した棋士が、引退後に自らの半生を語り下ろした作品です。
彼の凄さは、「名人に香車を引いた」という事実、そして「香車を引きながら勝った」という事実だけに留まらない。なんとこれは、幼い日に升田幸三が抱いた大望だったのだ。
広島県の農家に生まれ育った升田幸三は、兄の影響で将棋を始めた。父は博打狂いで、母親は非常に苦労していた。そして升田幸三自身も、借金取りから逃げる父に連れられて、日本中を転々とする生活をしていた時期もあった。一流の武芸者になるという夢は、自転車事故で大怪我を負って諦めた。しかしある意味でそれが、将棋への道へと繋がるのだ。片足が曲がらない障害を持ちながら超絶的な強さを誇った棋士の話を知り、自分も将棋の道で生きていくんだ、と決めたのだ。
そして満13歳で、彼は家出をした。棋士になるという彼の夢を、母親がどうしても理解しなかったからだ。彼は家を出る前に、母が縫い物をするのに使う三尺の物差しの裏側に、墨でこう書いた。
『名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く』
こうして、あてもないまま家を飛び出し、棋士になる道を探っていく少年は、様々な幸運に恵まれながら、メキメキと頭角を現していく。しかし、節目節目で彼は悲劇に襲われる。名人戦のルールが変わったり、対局場所に関する要望を聞き入れてもらえず死にそうになったり、戦争に召集されて命を落としかけたり、世論を巻き込む大騒動の渦中の人となったこともある。
決して恵まれた将棋人生ではなかったかもしれないが、しかし彼はついに、少年の頃に抱いた大望を果たした…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。やはりこういう、ぶっ飛んだ人間の話というのは面白いですね。棋士には色んなエピソードや伝説を持つ人がたくさんいて、そういう本はそれなりに読んでいるんですけど、とはいえやはり升田幸三のエピソードはずば抜けているでしょう。だって、プロ棋士になる前に宣言した「名人に香車を引いて勝つ」という、およそ不可能な大望(不可能、というのは、能力的な問題というより、環境的な問題)を実現させてしまったのだから。現在の将棋界では、この「名人に香車を引く」というのは制度上不可能なので、「名人に香車を引いた」のはこれまでもそして恐らくこれからも升田幸三ただ一人だし、「名人に香車を引いて勝った」のも同様です。

そんな升田幸三の人生は、波乱の連続と言っていいです。何度も死にかけているし、何度も煮え湯を飲まされている。時代や時の状況などが良く働くこともあり悪く働くこともあり、悪く働いた時の悲惨さは本当に酷いものがあるなと思いました。まあ、結果彼は死ななかったし、悪い状況をひっくり返せることもあったわけで、そうであれば後から振り返って笑い話に出来るネタが多くなったといえるのかもしれないけど、その真っ最中の時は本当に大変だっただろうなと思います。

そもそも、無一文で家を飛び出して、プロ棋士になるあてもないまま広島市をウロウロしている時なんて、よく生きのびたなぁって感じだったし、関東と関西の棋士の扱いに雲泥の差がある中で(升田幸三は関西棋士で、関西棋士は低く見られていた)、それでも豪腕を見せつけ続けてあらゆる声を力でねじ伏せていく姿なんか、ある意味では余計な苦労をしているよなぁ、と思いながら読んでいた。体調が悪いから温暖な地での対局を希望すると申し入れたのに、極寒の高野山での対局をセットされた時の彼の怒りは、相当なものだったでしょう。

升田幸三という男は、ムチャクチャな振る舞いをする一方で、一本筋が通っていると感じられる部分もあって、メチャクチャやっているのに嫌な感じがしない。特に、「名人」や「名人戦」に抱いている気持ちの強さみたいなものは非常に強く伝わってくるし、それがそのまま、彼が将棋を愛する気持ちそのものなのだと思う。純粋であるが故に、将棋以外の場でも戦わざるを得なかった男の辛さみたいなものを感じました。

升田幸三の頃の将棋界は、現在のような制度やルールがきちんと明文化される前の時代であり、棋士としての力以外の部分で様々ないざこざが起こっていた。一番驚いたのが、阪田三吉という棋士を取り巻く話だ。関西将棋の神的存在だった阪田三吉は、とある理由から関東将棋の逆鱗に触れ、将棋界で孤立してしまう。対局が一切できなくなってしまったのだ。現在では似たような状況はあまり想像しにくいが、将棋の腕前以外の部分での場外乱闘が様々に行われていたようだ。

そして升田幸三はその阪田三吉から、「木村を負かすのはあんたや」と言われるのだ。木村というのは木村義雄八段のことであり、当時棋界の絶対エースだった。升田幸三はまだまだ名前が知られるような棋士ではない。しかも阪田三吉は将棋界で孤立している人であり、升田幸三も師匠の奥さんから、阪田派とは仲良くしてはいけない、と釘を刺されていた。

そんな状況で升田幸三は、「木村を負かすのはあんたや」と言われるのだ。そして結果的にそうなっていくから凄い。ちなみに升田幸三の母は、升田幸三を出産した直後、骨相学をやっている親戚の一人に、「この子がきっと家名をあげてくれる。おそらく日本中に名を知られる男になる」と予言されており、それもまた現実のものとなっている。

場外乱闘と言えば、升田幸三もとんでもない場外乱闘をしている。ある日、何故かGHQに呼ばれた升田幸三は、「将棋はチェスと違い、取った駒をまた利用する。これは捕虜の虐待であり、人道に反するのではないか」という意味不明なイチャモンに対して、臆すること無く反論、逆に将棋の良さをアピールするのだ。このやり取りが面白がられたのか、升田幸三はライシャワー(肩書なんでしたっけ?)と講演したり、ロバート・ケネディ(この人は大統領ですよね?)に説教したりするようになったそうです。メチャクチャですね、ホントに。

『勝ったからって、威張っていうんじゃありません。二十年過ぎ去った今日、現在の目で振り返ってみて、わが生涯を通じての最高の将棋が指せたのは、この時期(※升田幸三が名人になってから、大山康晴の挑戦を受けた七番勝負の頃)だったと断言できる。冒涜を承知でいわせてもらえば、「神技」だった、と思う。それに比べたら、中原君にせよ加藤一二三君、米長にせよ、かったるい将棋で見ちゃおられん』

このあと、『「ホラの升田の大ボラ」が出たところで』と自虐しているが、これほど痛快にいい切れるのもまた升田幸三の魅力なのだろう。今将棋界では、藤井聡太が彗星の如く現れ、また羽生善治が国民栄誉賞を受賞した。実に盛り上がっている。しかし現在の将棋界は、なかなか「スマート」な感じの人が多いように思う。僕の勝手なイメージでは、かつての将棋界にはもっと無頼派がたくさんいたように思う。どちらがいいかという話ではないのだけど、将棋以外の部分でも多々伝説を残してくれるようなメチャクチャさがあると、将棋にそこまで詳しくない人間でも、面白がれるなぁ、と思うのであります。

升田幸三「名人に香車を引いた男 升田幸三自伝」

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