残穢(小野不由美)
比較的、「科学」が好きだ。「科学」というものを信じている。
そう書くと、じゃあ超常現象や怪奇現象の類は信じないのだろう、と思われるかもしれないが、その辺り、スパッと話すことが出来ないので、ダラダラ書いてみようと思う。
まず、整理しよう。「科学を信じているから超常現象や怪奇現象を信じない」という主張はつまり、「科学で捉えきれないものは信じない」と言っているのと同じことだ。
しかし、僕にはそういう感覚はない。これには二つの方向から説明が出来る。
一つは、科学には限界がある、ということだ。
例えば物理学に、量子論という分野がある。非常に小さな物質(原子など)に関わる理論なのだが、この量子論は、僕らの日常の感覚からは到底外れた話ばかりが出てくる。
例えば量子論は、「光というのは、波でもあり粒子でもある」と主張する。いや、そんな風に主張したいわけではない。ただ、世界中の物理学者が繰り返し何度も行った実験を解釈しようとすると、そう捉えざるを得ないような実験結果が存在するのだ。
「光は波でも粒子でもある」という状態をイメージ出来る物理学者は一人もいない。つまり誰もが、何を言っているのか自分でも分からないような世界の描像を受け入れなければならないのだ。
もちろん、本当に世界はそうなっているのだ、という可能性もある。この世界には、「光は波でも粒子でもある」という性質があって、たまたまそれが僕らの感覚とズレるだけなのだ、と。しかし一方で、これは僕らがまだ世界をきちんと捉えきれていない、ということでもあり得る。本当はもっと正しい捉え方があるのだけど、現在の物理学では、「光は波でも粒子でもある」と解釈するのが限界だ、という可能性だ。
そしてこういう話は、科学の様々な場所に偏在している。科学という物の見方は素晴らしい成果を上げてきたけど、しかしだからと言って科学という物の見方が完璧なわけでもない。科学では未だに捉えきれない状況はいくらでもある。
それらは、今後科学が発展しさえすれば、科学という物の見方を通じて理解できることかもしれない。しかし同時に、今立ち止まっている場所が科学の限界で、それより先は見ることが出来ないということが分かるかもしれない。
そういう、僕たちが感知することが出来ないでいる場所で、いわゆる超常現象や怪奇現象の類が発生しているとすれば、それは安易に否定するものではないと思う。
もう一つは、再現性に関してだ。科学という学問分野には、「再現性」と「反証可能性」の二種類があると言われている。この両方が満たされていなければ科学ではない、ということだ。「反証可能性」についてはここでは説明しないが、「再現性」というのは、別の場所で別の人が同じことをやれば同じ結果が得られる、というものだ。
そして科学という物の見方は、要するに、「再現性のある現象しか捉えられない」ということなのだ。というか、「再現性のある現象を捉えるツールを科学と呼んでいる」と表現する方が分かりやすいかもしれない。
問題は、この世の中で起こっているすべての事柄に「再現性」があるのか、ということだ。そこに「再現性」があるならば、科学というツールで捉えることが出来る。しかし、「再現性」のない現象というものも、あってもおかしくはないだろう。その場合、科学では捉えることが出来ない、ということになる。
「再現性」のない現象が存在する、という前提を受け入れれば、科学で捉えきれないからと言って、超常現象や怪奇現象を否定するということにはならないはずだ。
こんな理由から僕は、超常現象や怪奇現象を真っ向から否定するつもりはない。
とはいえ、基本的な感覚からすれば、超常現象や怪奇現象などは存在しないだろうと思っている。決して頭ごなしに否定するつもりもないが、かといって積極的に信じるつもりもない。というかむしろ、積極的に疑いを抱いている。
これが僕のスタンスだ。
そういう僕のスタンスからすると、本書は非常に好ましい作品に感じられた。例えば本書には、こんな文章がある。
『幽霊も祟りも信じていない。なのに「縁起でもない」という言葉には心が揺れる。合理的説明のつかない「何か」が、現象と現象を結び付ける―そういうことなら、あるような気がする、理屈ではなくそう感じているようだ。しかもこれは自分だけに限ったことではないらしい。私の周囲には私と同様の合理主義者が多いが、それでも「ついている」「ついていない」「縁がある」「縁がなかった」などという言葉はしばしば耳にする。夫は私以上に心霊現象完全否定論者だが、麻雀に関してだけは、「運」や「流れ」などという非合理的な言葉を大真面目に口にする』
『そうですね、と久保さんは答えたが、それでも割り切れないようだった。割り切れない気持ちは私にも分かる。久保さんを説得しながら、私自身、実は割り切れてなどいなかった。ただ、骨身に染み付いた懐疑主義が「これには何か意味がある」という結論に飛び付くことを嫌っただけだ。意味があるように見えるからこそ、あえて制動がかかる。制動のために理屈を探し出したのだ』
本書の主人公は、物事を合理的に、理性的に捉えようとする。ホラー小説をそこまで読まないから比較は出来ないが、しかしイメージとしては、ホラー小説は幽霊や祟りを積極的に信じる人間がたくさん登場するからこそ成り立つのだと思う。しかし本書は真逆だ。本書に、怪異的なものを積極的に信じようとする人間はほぼ出てこない。そこが個人的には、非常に好感が持てると感じる部分だ。
怪異など存在しない―そう決めつけるのもよくはないが、存在すると盲信してしまうのもまた困ったものだ。少なくとも僕の捉え方でいえば、怪異が存在するとすれば、現在の科学では捉えきれないものである。であれば、捉えなくてもよいのではないか―僕はそんな風に思ってしまう。
内容に入ろうと思います。
小説家である「私」(読み進めると、小野不由美本人を造型していることが分かる)は、とある事情から読者から時々怖い話が書かれた手紙が届く。かつてある文庫レーベルで仕事をしていたが、その文庫レーベルは「あとがき」を書くことが義務だった。そこで私は、怖い話を知っていたら教えて欲しい、と書いたのだ。作品自体はまだ生き残っているが、その「あとがき」が載ったバージョンは既に手に入るようなものではないのだが、それでも現在に至るまで、時々怖い話が送られてくる。
その手紙も、そんな経緯で届いた。送り主は久保さんとしておく。30代の女性で、編集プロダクションで働いているという。その久保さんが、自分の住んでいるマンションの部屋から妙な音がするのだと手紙をくれた。その音は、「疲れた女性が箒を力なく掃いている」ような音だという。
久保さんからの話を聞いて、私はある違和感を覚えた。どこかで聞いたような話に思えたのだ。
私は今引っ越しを考えていて、そのために本やら荷物やらを整理している。かつて送ってもらった怖い話の束も整理すべく引っ張り出してきたのだが、その中に、久保さんとほぼ同じ住所(部屋番号だけが違う)送り主のものを見つけた。仮に屋嶋と呼ぶことにする。屋嶋さんは1児の母であるが、その子どもが部屋にいる時に、何もない虚空を見つめていることがあるという。ある時何を見ているのか聞くと、たどたどしい言葉で「ぶらんこ」と答えたという。娘の目には、そこに何かがぶら下がっているのが見えるのだという。
同じマンション(後に岡谷マンションと呼ぶことに決めるのだが)で、多少違いはあるものの奇妙な現象が起こっている。私は久保さんと、主にホラー映画などの雑談をよくしており、その合間合間に久保さんから、謎の音に関する近況の報告がある、という感じだった。いよいよ本腰を入れて調べてみよう、ということになり、岡谷マンションの現在の住人や過去住んでいた者、あるいは同じ土地の過去の出来事などを調べていくが、次々と、関わりがありそうな出来事が見つかる。しかし、関わりがありそう、というだけで、はっきりと関連づいているわけではない。岡谷マンションのある部屋は住人が居着かないとか、岡谷マンションを出て別のアパートに移った男が自殺してしまった、などという話が色々と出て来る。掘っても掘っても、震源地らしきものが見えてこない。やはりこれらは怪異などではなく、ただの偶然が連鎖しているだけのことなのか…。
というような話です。
この作品、小説を読む前に映画を見ていました。映画を見たのはちょっと前なので正確には覚えていませんが、概ね原作通りだと感じました。
本書はまず、ノンフィクション風に描かれている点が非常に面白い。実話怪談的な雰囲気を出すためなのだろうけど、良い効果を生んでいると思う。平山夢明や福澤徹三など、実在する小説家も登場するし、「私」である小野不由美自身の話(もちろん僕にはその真偽は判断出来ないけど)もかなり盛り込まれていて、現実に著者がこういう調査に関わったかのような雰囲気が見事に作り出されている。小説なんだと頭では分かっていても、ふとどこかで、これが実際にあった出来事を事実として描いている作品だ、というような気もしてきて面白い。
また、描かれている内容も、実際にありそうなことに「抑えられていて」、それもまた本書のリアルさを増している。あまりホラー小説は読まないが、イメージは、幽霊的なやつがバーンって出てきたり、ポルターガイスト現象的なのが起こったり、呪われた体がヤバイことになったりするような気がしている。しかし本書の場合は、怪異と言えば怪異だし、そうじゃないと言えばそうじゃないと言えるような、そういうどっちつかずの現象が延々と積み重なっていく。そのことをどう評価するかは、人それぞれ様々だと思う。物足りない、と感じる読者もいるだろう。しかし僕は、はっきりと霊的な存在を打ち出すわけではなく、そう捉えようと思えば捉えられる程度の現象に「抑えている」からこそ、本書のような独特の怖さがにじみ出るのだと思っている。
とはいえ、ちょっと退屈であることも確かだ。登場人物たちがやっていることは、結局のところ「過去を掘り返していく」というだけだ。どんな風に過去を知る人物にたどり着いたのかなど、リアルさを保つために様々に工夫しているなと感じるが、やっていることは、過去を調べ、誰かに話を聞くということの繰り返しだ。どうしても単調にならざるを得ない部分はあるし、作中に登場する人物もかなりの人数になるので把握するのも難しい。そういう意味で、本書のような叙述スタイルを採ったのには、一長一短あると感じはする。
本書は、ホラー小説的な怖さではなく、作品の叙述スタイルや現象の描き方的に、「実際にあってもおかしくなさそう」と感じさせる点が怖いのだと思う。本書の長い長い調査の発端となるのは、ほんの些細な出来事だ。僕らが住んでいる家でも、実は同じようなことが起こるかもしれない―絶対にないとは、誰にも言い切れないだろう。
小野不由美「残穢」
そう書くと、じゃあ超常現象や怪奇現象の類は信じないのだろう、と思われるかもしれないが、その辺り、スパッと話すことが出来ないので、ダラダラ書いてみようと思う。
まず、整理しよう。「科学を信じているから超常現象や怪奇現象を信じない」という主張はつまり、「科学で捉えきれないものは信じない」と言っているのと同じことだ。
しかし、僕にはそういう感覚はない。これには二つの方向から説明が出来る。
一つは、科学には限界がある、ということだ。
例えば物理学に、量子論という分野がある。非常に小さな物質(原子など)に関わる理論なのだが、この量子論は、僕らの日常の感覚からは到底外れた話ばかりが出てくる。
例えば量子論は、「光というのは、波でもあり粒子でもある」と主張する。いや、そんな風に主張したいわけではない。ただ、世界中の物理学者が繰り返し何度も行った実験を解釈しようとすると、そう捉えざるを得ないような実験結果が存在するのだ。
「光は波でも粒子でもある」という状態をイメージ出来る物理学者は一人もいない。つまり誰もが、何を言っているのか自分でも分からないような世界の描像を受け入れなければならないのだ。
もちろん、本当に世界はそうなっているのだ、という可能性もある。この世界には、「光は波でも粒子でもある」という性質があって、たまたまそれが僕らの感覚とズレるだけなのだ、と。しかし一方で、これは僕らがまだ世界をきちんと捉えきれていない、ということでもあり得る。本当はもっと正しい捉え方があるのだけど、現在の物理学では、「光は波でも粒子でもある」と解釈するのが限界だ、という可能性だ。
そしてこういう話は、科学の様々な場所に偏在している。科学という物の見方は素晴らしい成果を上げてきたけど、しかしだからと言って科学という物の見方が完璧なわけでもない。科学では未だに捉えきれない状況はいくらでもある。
それらは、今後科学が発展しさえすれば、科学という物の見方を通じて理解できることかもしれない。しかし同時に、今立ち止まっている場所が科学の限界で、それより先は見ることが出来ないということが分かるかもしれない。
そういう、僕たちが感知することが出来ないでいる場所で、いわゆる超常現象や怪奇現象の類が発生しているとすれば、それは安易に否定するものではないと思う。
もう一つは、再現性に関してだ。科学という学問分野には、「再現性」と「反証可能性」の二種類があると言われている。この両方が満たされていなければ科学ではない、ということだ。「反証可能性」についてはここでは説明しないが、「再現性」というのは、別の場所で別の人が同じことをやれば同じ結果が得られる、というものだ。
そして科学という物の見方は、要するに、「再現性のある現象しか捉えられない」ということなのだ。というか、「再現性のある現象を捉えるツールを科学と呼んでいる」と表現する方が分かりやすいかもしれない。
問題は、この世の中で起こっているすべての事柄に「再現性」があるのか、ということだ。そこに「再現性」があるならば、科学というツールで捉えることが出来る。しかし、「再現性」のない現象というものも、あってもおかしくはないだろう。その場合、科学では捉えることが出来ない、ということになる。
「再現性」のない現象が存在する、という前提を受け入れれば、科学で捉えきれないからと言って、超常現象や怪奇現象を否定するということにはならないはずだ。
こんな理由から僕は、超常現象や怪奇現象を真っ向から否定するつもりはない。
とはいえ、基本的な感覚からすれば、超常現象や怪奇現象などは存在しないだろうと思っている。決して頭ごなしに否定するつもりもないが、かといって積極的に信じるつもりもない。というかむしろ、積極的に疑いを抱いている。
これが僕のスタンスだ。
そういう僕のスタンスからすると、本書は非常に好ましい作品に感じられた。例えば本書には、こんな文章がある。
『幽霊も祟りも信じていない。なのに「縁起でもない」という言葉には心が揺れる。合理的説明のつかない「何か」が、現象と現象を結び付ける―そういうことなら、あるような気がする、理屈ではなくそう感じているようだ。しかもこれは自分だけに限ったことではないらしい。私の周囲には私と同様の合理主義者が多いが、それでも「ついている」「ついていない」「縁がある」「縁がなかった」などという言葉はしばしば耳にする。夫は私以上に心霊現象完全否定論者だが、麻雀に関してだけは、「運」や「流れ」などという非合理的な言葉を大真面目に口にする』
『そうですね、と久保さんは答えたが、それでも割り切れないようだった。割り切れない気持ちは私にも分かる。久保さんを説得しながら、私自身、実は割り切れてなどいなかった。ただ、骨身に染み付いた懐疑主義が「これには何か意味がある」という結論に飛び付くことを嫌っただけだ。意味があるように見えるからこそ、あえて制動がかかる。制動のために理屈を探し出したのだ』
本書の主人公は、物事を合理的に、理性的に捉えようとする。ホラー小説をそこまで読まないから比較は出来ないが、しかしイメージとしては、ホラー小説は幽霊や祟りを積極的に信じる人間がたくさん登場するからこそ成り立つのだと思う。しかし本書は真逆だ。本書に、怪異的なものを積極的に信じようとする人間はほぼ出てこない。そこが個人的には、非常に好感が持てると感じる部分だ。
怪異など存在しない―そう決めつけるのもよくはないが、存在すると盲信してしまうのもまた困ったものだ。少なくとも僕の捉え方でいえば、怪異が存在するとすれば、現在の科学では捉えきれないものである。であれば、捉えなくてもよいのではないか―僕はそんな風に思ってしまう。
内容に入ろうと思います。
小説家である「私」(読み進めると、小野不由美本人を造型していることが分かる)は、とある事情から読者から時々怖い話が書かれた手紙が届く。かつてある文庫レーベルで仕事をしていたが、その文庫レーベルは「あとがき」を書くことが義務だった。そこで私は、怖い話を知っていたら教えて欲しい、と書いたのだ。作品自体はまだ生き残っているが、その「あとがき」が載ったバージョンは既に手に入るようなものではないのだが、それでも現在に至るまで、時々怖い話が送られてくる。
その手紙も、そんな経緯で届いた。送り主は久保さんとしておく。30代の女性で、編集プロダクションで働いているという。その久保さんが、自分の住んでいるマンションの部屋から妙な音がするのだと手紙をくれた。その音は、「疲れた女性が箒を力なく掃いている」ような音だという。
久保さんからの話を聞いて、私はある違和感を覚えた。どこかで聞いたような話に思えたのだ。
私は今引っ越しを考えていて、そのために本やら荷物やらを整理している。かつて送ってもらった怖い話の束も整理すべく引っ張り出してきたのだが、その中に、久保さんとほぼ同じ住所(部屋番号だけが違う)送り主のものを見つけた。仮に屋嶋と呼ぶことにする。屋嶋さんは1児の母であるが、その子どもが部屋にいる時に、何もない虚空を見つめていることがあるという。ある時何を見ているのか聞くと、たどたどしい言葉で「ぶらんこ」と答えたという。娘の目には、そこに何かがぶら下がっているのが見えるのだという。
同じマンション(後に岡谷マンションと呼ぶことに決めるのだが)で、多少違いはあるものの奇妙な現象が起こっている。私は久保さんと、主にホラー映画などの雑談をよくしており、その合間合間に久保さんから、謎の音に関する近況の報告がある、という感じだった。いよいよ本腰を入れて調べてみよう、ということになり、岡谷マンションの現在の住人や過去住んでいた者、あるいは同じ土地の過去の出来事などを調べていくが、次々と、関わりがありそうな出来事が見つかる。しかし、関わりがありそう、というだけで、はっきりと関連づいているわけではない。岡谷マンションのある部屋は住人が居着かないとか、岡谷マンションを出て別のアパートに移った男が自殺してしまった、などという話が色々と出て来る。掘っても掘っても、震源地らしきものが見えてこない。やはりこれらは怪異などではなく、ただの偶然が連鎖しているだけのことなのか…。
というような話です。
この作品、小説を読む前に映画を見ていました。映画を見たのはちょっと前なので正確には覚えていませんが、概ね原作通りだと感じました。
本書はまず、ノンフィクション風に描かれている点が非常に面白い。実話怪談的な雰囲気を出すためなのだろうけど、良い効果を生んでいると思う。平山夢明や福澤徹三など、実在する小説家も登場するし、「私」である小野不由美自身の話(もちろん僕にはその真偽は判断出来ないけど)もかなり盛り込まれていて、現実に著者がこういう調査に関わったかのような雰囲気が見事に作り出されている。小説なんだと頭では分かっていても、ふとどこかで、これが実際にあった出来事を事実として描いている作品だ、というような気もしてきて面白い。
また、描かれている内容も、実際にありそうなことに「抑えられていて」、それもまた本書のリアルさを増している。あまりホラー小説は読まないが、イメージは、幽霊的なやつがバーンって出てきたり、ポルターガイスト現象的なのが起こったり、呪われた体がヤバイことになったりするような気がしている。しかし本書の場合は、怪異と言えば怪異だし、そうじゃないと言えばそうじゃないと言えるような、そういうどっちつかずの現象が延々と積み重なっていく。そのことをどう評価するかは、人それぞれ様々だと思う。物足りない、と感じる読者もいるだろう。しかし僕は、はっきりと霊的な存在を打ち出すわけではなく、そう捉えようと思えば捉えられる程度の現象に「抑えている」からこそ、本書のような独特の怖さがにじみ出るのだと思っている。
とはいえ、ちょっと退屈であることも確かだ。登場人物たちがやっていることは、結局のところ「過去を掘り返していく」というだけだ。どんな風に過去を知る人物にたどり着いたのかなど、リアルさを保つために様々に工夫しているなと感じるが、やっていることは、過去を調べ、誰かに話を聞くということの繰り返しだ。どうしても単調にならざるを得ない部分はあるし、作中に登場する人物もかなりの人数になるので把握するのも難しい。そういう意味で、本書のような叙述スタイルを採ったのには、一長一短あると感じはする。
本書は、ホラー小説的な怖さではなく、作品の叙述スタイルや現象の描き方的に、「実際にあってもおかしくなさそう」と感じさせる点が怖いのだと思う。本書の長い長い調査の発端となるのは、ほんの些細な出来事だ。僕らが住んでいる家でも、実は同じようなことが起こるかもしれない―絶対にないとは、誰にも言い切れないだろう。
小野不由美「残穢」
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