「光」を観に行ってきました
「大事なもの」を持たないようにしている。なるべく。
「大事なもの」があると、自分の感情が揺さぶられる。守らなければ、と思う。でも、もし守れなかったら、絶望か後悔か、そう言った何かに襲われる。ずっとあって欲しいと思う。でも、その保証はない。何かの拍子に失われてしまうかもしれない、という怯えを捨て去ることは出来ない。「大事なもの」が傷付けられたら自分も傷付く。「大事なもの」が悲しい時は自分も悲しくなる。
もちろん、その逆もある。「大事なもの」があるからこそのプラスもあるだろう。でも、少なくとも僕は、その両者を足し合わせた時に、マイナスの方が勝つ。だったら「大事なもの」なんか要らないと思う。
『暴力に暴力で返した者は、人間の世界にいられないのかもしれない』
生得的に「暴力」が好きという人間ももちろんいるだろう。しかし「暴力」は、「大事なもの」を守るためにも発動される。「大事なもの」が自分自身であれ、誰か他の人であれ、何かのモノであれ、最終的には「暴力」で返すしか守れないものというのも、残念ながらある。
『人間のフリをするのが難しい』
「人間でありたい」と強く願うわけではない。別に人間である必要はない。でも、人間のカタチをしている以上、中身も人間である方が生きやすい。
「人間であること」を諦めざるを得なくなった時、その目に何が映るだろうか?
『死んだ方がマシって人生だってあるだろ』
内容に入ろうと思います。
東京の離島である美浜島で、中学生の信之と美花、そして小学生の輔は暮らしている。信之は、美しい美花と付き合っており、時々神社でセックスをしている。信之にとって美花はすべてだった。輔は父親から虐待を受けており、いつも傷だらけだ。そんな輔は信之を慕って、いつもくっついている。
ある日、美花と待ち合わせの場所に向かうと、そこで美花が男に犯されているのを目撃してしまう。信之は美花に頼まれ、その男を殺す。
そしてその夜。巨大な地震の後でやってきた津波で、美浜島は壊滅的な被害を被った。
25年の時が経った。市役所で働く信之は、美しい妻と5歳の娘と共に平凡な生活をしている。妻は、団地周辺での不審な出来事にちょっと神経質になっており、信之に引っ越しを検討してくれるよう頼むが、信之は意にも介さない。そんな妻は、電車に乗ってある男の部屋へと向かう。小汚いアパートにいるのは輔だ。輔は信之の妻と不倫関係にある。鉄くずの解体工場で働き、カツカツの生活をしている。
信之はリビングでテレビを見ている時、篠浦美喜という女優の特集を見かけた。美花だった。美花は、過去がほとんど明かされていない、ミステリアスな女優として紹介されていた…。
というような話です。
分かりやすい映画ではありません。小説は、エンタメと純文学なんていう区分がされることがあるけど、この映画をどちらかに区分するとしたら、純文学の方になるでしょう。信之、輔、美花の心の動きは、ほとんど明確には読み取れないまま、物語は展開されていく。何が起こっても無表情な信之、日常的に狂気に満ちた笑い声を発する輔、何を考えているのか分からない美花。彼らは、各々の人生を生きながら、同時に、25年前の出来事に囚われていく。
外から見れば、公務員であり家族もいる信之は幸せに映るだろう。しかし、信之自身はあの日以来ずっと、死んだように生きてきた。
『美花と会えなくなってから、幸も不幸もない。ただ生きてただけだ』
25年経った今も、信之の中には美花がいる。いや、美花しかいない。どれだけ恵まれた境遇にいようと、信之は何も感じない。信之の日常に、美花がいないからだ。満たされないし、意味を感じることが出来ない。
そのことは、輔から脅された信之の反応からもすぐに分かる。詳しくは書かないが、ある時まで輔の脅迫に無反応だった信之の態度が一転する。自分が生活の基盤を築いている日常に自分の軸足を置かないという狂気が、信之の在り方から染み出してくる。それは、妻との関わりの中からも感じ取ることが出来る。
輔は、単純な男に見える。楽して大金をせしめよう、という行動原理だけで動いているように思える。しかし、実際はそうではない。輔は今でも、信之に認められたい。子どもの頃、輔は信之を慕っていたが、信之は美花ばかり見て輔はかまってもらえなかった。輔はもちろん金も欲しい。しかし金のためだけだったら動かなかっただろう。相手が信之だったからこんなことをしたのだ。そういう気持ちは、ある場面で輔が呟く言葉に集約されるようにも感じられた。
『こうなれば良いと思ってたよ』
映画は信之と輔の関係性がメインであり、美花の出番は少ない。そういう意味でも、美花は捉えるのが難しい。しかし、子どもの頃はともかくとして、25年後の今、美花の中に信之がいない、ということは確かだろう。
輔が信之を想い、信之が美花を想い、美花は誰の方も向いていない。そういう構造が、彼らの、理不尽で不合理で理解不能な言動へと繋がっていく。
映画を観ながら、やはり一番の狂気は信之の中にある、と感じた。それを一番実感したのが、映画のほぼラスト、信之が「ただいま」というシーンだ。詳しくは書かないけど、それ以外に選択肢はなかったのかもしれないが、しかしそれでも、そう行動出来る信之は狂気に満ちているなと感じた。
この映画は、音楽が実に印象的だ。この映画の予告編を観ている時、「音楽 ジェフ・ミルズ」と大々的に映し出されていたので、有名な人なのだろう(僕は知らなかったけど)。
うまく説明できないが、この映画においては、映像と音楽が不協和音を奏でていたような印象が強かった。別にそれは悪いわけではない。恐らく、意図的なものだろう。普通の映画の場合、映像と音楽は合っているなと感じるのだけど、この映画では、音楽が流れると違和感を覚える。しかも、非常に強い違和感だ。音楽が主張しすぎているという感じだった。信之も輔も美花も、演技を観ているだけだと感情がないように感じられてしまうから、そういう映画全体の雰囲気をさらに誇張するという意味で、この音楽は合っていると言えるとは思う。しかし、正直もの凄い違和感だったので、よくこの音楽でGOが出たなという感じだった。正直、この映画の音楽をちゃんとは評価できないけど、全体としては成功しているのだと思う。
「光」を観に行ってきました
「大事なもの」があると、自分の感情が揺さぶられる。守らなければ、と思う。でも、もし守れなかったら、絶望か後悔か、そう言った何かに襲われる。ずっとあって欲しいと思う。でも、その保証はない。何かの拍子に失われてしまうかもしれない、という怯えを捨て去ることは出来ない。「大事なもの」が傷付けられたら自分も傷付く。「大事なもの」が悲しい時は自分も悲しくなる。
もちろん、その逆もある。「大事なもの」があるからこそのプラスもあるだろう。でも、少なくとも僕は、その両者を足し合わせた時に、マイナスの方が勝つ。だったら「大事なもの」なんか要らないと思う。
『暴力に暴力で返した者は、人間の世界にいられないのかもしれない』
生得的に「暴力」が好きという人間ももちろんいるだろう。しかし「暴力」は、「大事なもの」を守るためにも発動される。「大事なもの」が自分自身であれ、誰か他の人であれ、何かのモノであれ、最終的には「暴力」で返すしか守れないものというのも、残念ながらある。
『人間のフリをするのが難しい』
「人間でありたい」と強く願うわけではない。別に人間である必要はない。でも、人間のカタチをしている以上、中身も人間である方が生きやすい。
「人間であること」を諦めざるを得なくなった時、その目に何が映るだろうか?
『死んだ方がマシって人生だってあるだろ』
内容に入ろうと思います。
東京の離島である美浜島で、中学生の信之と美花、そして小学生の輔は暮らしている。信之は、美しい美花と付き合っており、時々神社でセックスをしている。信之にとって美花はすべてだった。輔は父親から虐待を受けており、いつも傷だらけだ。そんな輔は信之を慕って、いつもくっついている。
ある日、美花と待ち合わせの場所に向かうと、そこで美花が男に犯されているのを目撃してしまう。信之は美花に頼まれ、その男を殺す。
そしてその夜。巨大な地震の後でやってきた津波で、美浜島は壊滅的な被害を被った。
25年の時が経った。市役所で働く信之は、美しい妻と5歳の娘と共に平凡な生活をしている。妻は、団地周辺での不審な出来事にちょっと神経質になっており、信之に引っ越しを検討してくれるよう頼むが、信之は意にも介さない。そんな妻は、電車に乗ってある男の部屋へと向かう。小汚いアパートにいるのは輔だ。輔は信之の妻と不倫関係にある。鉄くずの解体工場で働き、カツカツの生活をしている。
信之はリビングでテレビを見ている時、篠浦美喜という女優の特集を見かけた。美花だった。美花は、過去がほとんど明かされていない、ミステリアスな女優として紹介されていた…。
というような話です。
分かりやすい映画ではありません。小説は、エンタメと純文学なんていう区分がされることがあるけど、この映画をどちらかに区分するとしたら、純文学の方になるでしょう。信之、輔、美花の心の動きは、ほとんど明確には読み取れないまま、物語は展開されていく。何が起こっても無表情な信之、日常的に狂気に満ちた笑い声を発する輔、何を考えているのか分からない美花。彼らは、各々の人生を生きながら、同時に、25年前の出来事に囚われていく。
外から見れば、公務員であり家族もいる信之は幸せに映るだろう。しかし、信之自身はあの日以来ずっと、死んだように生きてきた。
『美花と会えなくなってから、幸も不幸もない。ただ生きてただけだ』
25年経った今も、信之の中には美花がいる。いや、美花しかいない。どれだけ恵まれた境遇にいようと、信之は何も感じない。信之の日常に、美花がいないからだ。満たされないし、意味を感じることが出来ない。
そのことは、輔から脅された信之の反応からもすぐに分かる。詳しくは書かないが、ある時まで輔の脅迫に無反応だった信之の態度が一転する。自分が生活の基盤を築いている日常に自分の軸足を置かないという狂気が、信之の在り方から染み出してくる。それは、妻との関わりの中からも感じ取ることが出来る。
輔は、単純な男に見える。楽して大金をせしめよう、という行動原理だけで動いているように思える。しかし、実際はそうではない。輔は今でも、信之に認められたい。子どもの頃、輔は信之を慕っていたが、信之は美花ばかり見て輔はかまってもらえなかった。輔はもちろん金も欲しい。しかし金のためだけだったら動かなかっただろう。相手が信之だったからこんなことをしたのだ。そういう気持ちは、ある場面で輔が呟く言葉に集約されるようにも感じられた。
『こうなれば良いと思ってたよ』
映画は信之と輔の関係性がメインであり、美花の出番は少ない。そういう意味でも、美花は捉えるのが難しい。しかし、子どもの頃はともかくとして、25年後の今、美花の中に信之がいない、ということは確かだろう。
輔が信之を想い、信之が美花を想い、美花は誰の方も向いていない。そういう構造が、彼らの、理不尽で不合理で理解不能な言動へと繋がっていく。
映画を観ながら、やはり一番の狂気は信之の中にある、と感じた。それを一番実感したのが、映画のほぼラスト、信之が「ただいま」というシーンだ。詳しくは書かないけど、それ以外に選択肢はなかったのかもしれないが、しかしそれでも、そう行動出来る信之は狂気に満ちているなと感じた。
この映画は、音楽が実に印象的だ。この映画の予告編を観ている時、「音楽 ジェフ・ミルズ」と大々的に映し出されていたので、有名な人なのだろう(僕は知らなかったけど)。
うまく説明できないが、この映画においては、映像と音楽が不協和音を奏でていたような印象が強かった。別にそれは悪いわけではない。恐らく、意図的なものだろう。普通の映画の場合、映像と音楽は合っているなと感じるのだけど、この映画では、音楽が流れると違和感を覚える。しかも、非常に強い違和感だ。音楽が主張しすぎているという感じだった。信之も輔も美花も、演技を観ているだけだと感情がないように感じられてしまうから、そういう映画全体の雰囲気をさらに誇張するという意味で、この音楽は合っていると言えるとは思う。しかし、正直もの凄い違和感だったので、よくこの音楽でGOが出たなという感じだった。正直、この映画の音楽をちゃんとは評価できないけど、全体としては成功しているのだと思う。
「光」を観に行ってきました
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