「火花」を観に行ってきました
僕は、自分の頭が死ぬのが怖い。
自分の頭から、何かを出せなくなることが怖い。
何でもいい。それが「表現」などと呼べるようなものである必要などまったくない。何かを考えようと思って、実際に考えて、それを誰かに伝わるような形で自分の外側に出していく。どういうことを続けていきたい。
それがどんな風に評価されるかは、重要な問題じゃない。
というか、そんなことに自分の思考が左右されないような自分でありたい。
『ウケてても漫才じゃないから』
そんなアホみたいな意見に、壊されたくない。常識を拠り所にした、意味なんかカスッカスの価値観に、翻弄されたくない。
自分の内側から何かを出すことは、怖いことだ。それは、ずっと思っている。評価されることが怖いのではない。そういう気持ちがまったくないと言ったら嘘になるけど、でも大事なのはそこじゃない。自分がちゃんと、自分の頭で考えたことが出せているのかどうか。それが出来ているのかどうか、という怖さがある。
自分の内側から出したはずのものが、自分のものではない可能性はいつだってあり得る。誰かに影響を受けていたり、オマージュを捧げるみたいなことは良い。けど、誰かの真似をしたり、無意識の内に流されているものが、そうと気づかずに自分の内側から出て来ることは、いつだってあり得る。
それが怖い。
『常識を覆すことに全力を尽くせる者だけが、漫才師になることができる』
常識を錨にしたような生き方は、したくない。自分の内側から出したものが、結果的に常識と似たり寄ったりであることは、なんの問題もない。けれど、常識を出発点にして自分の思考を生み出すことは、僕にとっては死んでるも同然だ。
そんな生き方に、どんな意味があるんだろうか?
『僕たちは、完全には世間を無視出来ないんですよ』
徳永が放ったこの言葉に、彼はどんな意味を込めていただろうか。彼がこの発言をした状況、言い方、それらすべてを総合すると、当たり前のことだが、「世間に100%迎合しろ」という意味ではないことは分かる。
じゃあ徳永は、どの程度まで世間に合わせるべきだと考えていただろうか。
『芸人はみんな、自分たちが絶対に面白いって思うものがちゃんとあるんですよ。でも、それは伝えなアカンやろ。その努力を怠ったら、自分が面白いと思ったことがないことになっちゃうやろ』
徳永はそう叫ぶ。
そう。漫才は、誰かに向けてするものだ。自分が面白いと思っているだけではダメだ。伝えなくては。自分の内側から外に外に出していかなくては。
別の場面で神谷はこう言う。
『この世界に漫才師が1組しかおらんかったら、こんなに頑張れてたかなぁ。この世界は、勝ち負けがハッキリ決まる、だからおもろい。けど、1位のやつら以外みんなやる必要なかったかいうと、そんなことないやろ?淘汰されてくやつらの存在も、絶対に必要なんや』
これは、思考も同じだと思う。
良いものだけを自分の外側に出したい、という気持ちは、理解できる。でもそれは、1位の漫才師以外は全員出る必要がなかった、と言ってるのと同じようなものだと思う。そうじゃない。良いわけじゃないものも自分の外側に出していくことにも、ちゃんと意味がある。
だから僕は、自分の内側から何かを出すことを恐れない人でいたいと思う。
そんな風に生きられないんだとしたら、生きている意味なんて、たぶんない。
内容に入ろうと思います。
中学の同級生である山下から漫才をやろうと誘われた徳永。彼らは「スパークス」というコンビ名で活動を始める。熱海のお祭りでの仕事で、徳永は「あほんだら」というコンビの神谷から飲みに誘われる。神谷は、上京して小さな事務所でよく分からないまま漫才師を目指している徳永にとって、大きな存在に見えた。徳永はその場で、神谷に弟子入りを志願した。神谷から出された条件は、一つ。「お前、俺のことちゃんと覚えててくれよな。俺がしたこと、言ったことをその場で記録して、伝記を書いてくれ。そしたら、免許皆伝だ」
大阪を拠点に活動する神谷とは、なかなか会う機会もなかったが、連絡だけは絶やさなかった。その間スパークスは、薄暗いライブハウスでオーディションを受け、劇場で漫才をし、学園祭に出たりした。
神谷が東京に拠点を移すことになった。毎晩のように飲み歩く二人。ある日、酔いつぶれた徳永を神谷が自宅へと連れ帰った。そこには、マキさんという可愛らしい女性がいた。徳永は、二人の関係を聞き出せないまま、マキさんとも仲良くなっていく。
スパークスもあほんだらも、なかなか目が出ない。決して悪くはないが、ブレイクもしない。同じコンテストに出ていた濃い顔のピン芸人が、すぐさま売れてテレビで見かけるようになった。風呂なしアパート、バイト生活から抜け出せないスパークスの二人は、うまく行かない時期もあり…。
というような話です。
良い映画だったなぁ。原作はまだ読んでない。原作は原作できっと良いだろうと思う。ただ映像の場合は、漫才をしているシーンを実際に見られるというのが大きく違うだろう。スパークスの漫才もあほんだらの漫才も、なかなか面白かった。あれは一体誰が考えてるんだろうなぁ。菅田将暉も桐谷健太も、ホントの漫才師みたいに上手かった。
物語は、なかなか一筋縄ではいかない。様々な想いが交錯して、複雑に絡み合う。
とはいえ、やはりメインとなるのは、菅田将暉演じるスパークスの「徳永」と、桐谷健太演じるあほんだらの「神谷」だ。この二人の関わりが、物語の要となっていく。
二人の関係も、なかなか複雑だ。
いや、最初は分かりやすかった。徳永が神谷を慕うという、分かりやすい先輩後輩、あるいは師匠弟子の関係だった。徳永は、神谷の破天荒さ、常識から逸脱する感じに惹かれていく。徳永は、漫才師を目指しているし、自分でネタも書いているが、神谷のような破天荒さはない。そのことに対して徳永がどう感じているのかを明確に描写する場面はなかったが、自分にないものを持っている神谷への憧れみたいなものがその答えなんだろうと思う。
しかし、彼らの関係は少しずつ変化していく。一つは、人間として。そしてもう一つは、芸人として。
徳永は、あることを知って、神谷の人間としてのあり方に疑問を抱くようになってしまう。ここでは詳しくは触れないが、マキさんに関わることだ。彼ら三人の関係は、なかなかに捩れている。神谷を許容していいのか、という葛藤が、時折徳永の心情に見え隠れする。
さらに、比較の問題ではあるが、スパークスは少し売れるようになる。テレビにも、時々出る。一方、あほんだらの方は活動の様子も聞こえなくなってくる。そうなってからの、徳永の神谷に対する葛藤は、僕には完全には想像しきれない。
徳永には、神谷さんはもっと面白いはず、という想いがある。しかし、どんな事情があるにせよ、神谷は漫才から遠ざかっている。そのことに、徳永は忸怩たる思いを隠せない。さらに、芸人として尊敬していた部分さえ、徳永の思い込みだったのかと失望させられるような状況もやってくる。
『お前に神谷さんの何が分かるんだ!』
かつて相方の山下にそうキレたこともある徳永だったが、そういう神谷の様子を見ることで、かつてのようには神谷を見ることが出来なくなっていく。
この物語は、師匠だと思っていた男への失望を抱えながら、それでもその男を自分の中でどうにか受け入れようとする葛藤を描いているように僕には感じられた。
また、スパークスの二人の関係性も描かれていく。売れない現実、それでも夢を見て踏ん張る日々、お互いの人生の変化、漫才に対する気持ちの変化、そういう様々なことが入り混じって、にっちもさっちもいかなくなっていく。
漫才師を目指すということは、ほとんどの人にとって破綻の約束された人生なのだと思う。皆、そのことが分かっていて飛び込んでいく。だから、辛い日常は、ある程度織り込み済みのはずだ。しかしそれでも、耐えられなくなっていく。環境も変わる。昔のままの自分ではいられない。
確証のない未来を掴むためにしんどい日常を生きているすべての人が、きっと彼らの共感できるだろう。
そしてこの映画では、「世間」も切り取られていく。そのことを、観客は意識した方が良いような気がする。僕ら観客は、夢を追って厳しい現実を突き進んでいく芸人の姿を見て、きっと様々なことを感じることだろう。しかし同時にこの映画は、「世間」を切り取っている。そしてそれは、「世間」の一部である僕たちのことでもあるのだ。
芸人の目から見る「世間」は、アホの集団に見えるのだろう。自分たちの方が絶対に面白い、と思いながら、何が面白いのか分からない芸人を見て笑っている「世間」に憤りを覚える。僕たちは映画を見ながら、徳永や神谷や山下に共感しているから、彼らが「世間」を見る視線に違和感を覚えないかもしれない。しかし客観的に見てその描写は、まさに僕たちに向けられたナイフのようなものだと僕は思う。
お前は本当に面白いものが分かっていて笑っているのか?
こいつらがテレビに出ている人気者でなくても、お前たちはこいつらが好きなのか?
俺の漫才で笑わなかった奴、俺がもしテレビに出る人気者だったら、同じ漫才をやってても笑うんだろう?
直接的にそんな描写はなかったが、この映画の描写によって「世間」に突きつけていることは、そういうことなんだと思う。
だから僕たちは、徳永や神谷や山下の視点に立って、「世間」のことを笑っている場合ではないのだ。向けられた刃にどう答えるのかを考えなければならない。
『僕たちは、完全には世間を無視出来ないんですよ』
徳永のこの言葉は、芸人としての妥協と執念の叫びだ。しかし同時に、「この映画を見ているお前らはどうなんだ?」という問いかけでもあると僕は感じた。
評価する者が、実は評価されている。そういう意識を忘れてはいけない、と思いながら映画を見ていた。
「火花」を観に行ってきました
自分の頭から、何かを出せなくなることが怖い。
何でもいい。それが「表現」などと呼べるようなものである必要などまったくない。何かを考えようと思って、実際に考えて、それを誰かに伝わるような形で自分の外側に出していく。どういうことを続けていきたい。
それがどんな風に評価されるかは、重要な問題じゃない。
というか、そんなことに自分の思考が左右されないような自分でありたい。
『ウケてても漫才じゃないから』
そんなアホみたいな意見に、壊されたくない。常識を拠り所にした、意味なんかカスッカスの価値観に、翻弄されたくない。
自分の内側から何かを出すことは、怖いことだ。それは、ずっと思っている。評価されることが怖いのではない。そういう気持ちがまったくないと言ったら嘘になるけど、でも大事なのはそこじゃない。自分がちゃんと、自分の頭で考えたことが出せているのかどうか。それが出来ているのかどうか、という怖さがある。
自分の内側から出したはずのものが、自分のものではない可能性はいつだってあり得る。誰かに影響を受けていたり、オマージュを捧げるみたいなことは良い。けど、誰かの真似をしたり、無意識の内に流されているものが、そうと気づかずに自分の内側から出て来ることは、いつだってあり得る。
それが怖い。
『常識を覆すことに全力を尽くせる者だけが、漫才師になることができる』
常識を錨にしたような生き方は、したくない。自分の内側から出したものが、結果的に常識と似たり寄ったりであることは、なんの問題もない。けれど、常識を出発点にして自分の思考を生み出すことは、僕にとっては死んでるも同然だ。
そんな生き方に、どんな意味があるんだろうか?
『僕たちは、完全には世間を無視出来ないんですよ』
徳永が放ったこの言葉に、彼はどんな意味を込めていただろうか。彼がこの発言をした状況、言い方、それらすべてを総合すると、当たり前のことだが、「世間に100%迎合しろ」という意味ではないことは分かる。
じゃあ徳永は、どの程度まで世間に合わせるべきだと考えていただろうか。
『芸人はみんな、自分たちが絶対に面白いって思うものがちゃんとあるんですよ。でも、それは伝えなアカンやろ。その努力を怠ったら、自分が面白いと思ったことがないことになっちゃうやろ』
徳永はそう叫ぶ。
そう。漫才は、誰かに向けてするものだ。自分が面白いと思っているだけではダメだ。伝えなくては。自分の内側から外に外に出していかなくては。
別の場面で神谷はこう言う。
『この世界に漫才師が1組しかおらんかったら、こんなに頑張れてたかなぁ。この世界は、勝ち負けがハッキリ決まる、だからおもろい。けど、1位のやつら以外みんなやる必要なかったかいうと、そんなことないやろ?淘汰されてくやつらの存在も、絶対に必要なんや』
これは、思考も同じだと思う。
良いものだけを自分の外側に出したい、という気持ちは、理解できる。でもそれは、1位の漫才師以外は全員出る必要がなかった、と言ってるのと同じようなものだと思う。そうじゃない。良いわけじゃないものも自分の外側に出していくことにも、ちゃんと意味がある。
だから僕は、自分の内側から何かを出すことを恐れない人でいたいと思う。
そんな風に生きられないんだとしたら、生きている意味なんて、たぶんない。
内容に入ろうと思います。
中学の同級生である山下から漫才をやろうと誘われた徳永。彼らは「スパークス」というコンビ名で活動を始める。熱海のお祭りでの仕事で、徳永は「あほんだら」というコンビの神谷から飲みに誘われる。神谷は、上京して小さな事務所でよく分からないまま漫才師を目指している徳永にとって、大きな存在に見えた。徳永はその場で、神谷に弟子入りを志願した。神谷から出された条件は、一つ。「お前、俺のことちゃんと覚えててくれよな。俺がしたこと、言ったことをその場で記録して、伝記を書いてくれ。そしたら、免許皆伝だ」
大阪を拠点に活動する神谷とは、なかなか会う機会もなかったが、連絡だけは絶やさなかった。その間スパークスは、薄暗いライブハウスでオーディションを受け、劇場で漫才をし、学園祭に出たりした。
神谷が東京に拠点を移すことになった。毎晩のように飲み歩く二人。ある日、酔いつぶれた徳永を神谷が自宅へと連れ帰った。そこには、マキさんという可愛らしい女性がいた。徳永は、二人の関係を聞き出せないまま、マキさんとも仲良くなっていく。
スパークスもあほんだらも、なかなか目が出ない。決して悪くはないが、ブレイクもしない。同じコンテストに出ていた濃い顔のピン芸人が、すぐさま売れてテレビで見かけるようになった。風呂なしアパート、バイト生活から抜け出せないスパークスの二人は、うまく行かない時期もあり…。
というような話です。
良い映画だったなぁ。原作はまだ読んでない。原作は原作できっと良いだろうと思う。ただ映像の場合は、漫才をしているシーンを実際に見られるというのが大きく違うだろう。スパークスの漫才もあほんだらの漫才も、なかなか面白かった。あれは一体誰が考えてるんだろうなぁ。菅田将暉も桐谷健太も、ホントの漫才師みたいに上手かった。
物語は、なかなか一筋縄ではいかない。様々な想いが交錯して、複雑に絡み合う。
とはいえ、やはりメインとなるのは、菅田将暉演じるスパークスの「徳永」と、桐谷健太演じるあほんだらの「神谷」だ。この二人の関わりが、物語の要となっていく。
二人の関係も、なかなか複雑だ。
いや、最初は分かりやすかった。徳永が神谷を慕うという、分かりやすい先輩後輩、あるいは師匠弟子の関係だった。徳永は、神谷の破天荒さ、常識から逸脱する感じに惹かれていく。徳永は、漫才師を目指しているし、自分でネタも書いているが、神谷のような破天荒さはない。そのことに対して徳永がどう感じているのかを明確に描写する場面はなかったが、自分にないものを持っている神谷への憧れみたいなものがその答えなんだろうと思う。
しかし、彼らの関係は少しずつ変化していく。一つは、人間として。そしてもう一つは、芸人として。
徳永は、あることを知って、神谷の人間としてのあり方に疑問を抱くようになってしまう。ここでは詳しくは触れないが、マキさんに関わることだ。彼ら三人の関係は、なかなかに捩れている。神谷を許容していいのか、という葛藤が、時折徳永の心情に見え隠れする。
さらに、比較の問題ではあるが、スパークスは少し売れるようになる。テレビにも、時々出る。一方、あほんだらの方は活動の様子も聞こえなくなってくる。そうなってからの、徳永の神谷に対する葛藤は、僕には完全には想像しきれない。
徳永には、神谷さんはもっと面白いはず、という想いがある。しかし、どんな事情があるにせよ、神谷は漫才から遠ざかっている。そのことに、徳永は忸怩たる思いを隠せない。さらに、芸人として尊敬していた部分さえ、徳永の思い込みだったのかと失望させられるような状況もやってくる。
『お前に神谷さんの何が分かるんだ!』
かつて相方の山下にそうキレたこともある徳永だったが、そういう神谷の様子を見ることで、かつてのようには神谷を見ることが出来なくなっていく。
この物語は、師匠だと思っていた男への失望を抱えながら、それでもその男を自分の中でどうにか受け入れようとする葛藤を描いているように僕には感じられた。
また、スパークスの二人の関係性も描かれていく。売れない現実、それでも夢を見て踏ん張る日々、お互いの人生の変化、漫才に対する気持ちの変化、そういう様々なことが入り混じって、にっちもさっちもいかなくなっていく。
漫才師を目指すということは、ほとんどの人にとって破綻の約束された人生なのだと思う。皆、そのことが分かっていて飛び込んでいく。だから、辛い日常は、ある程度織り込み済みのはずだ。しかしそれでも、耐えられなくなっていく。環境も変わる。昔のままの自分ではいられない。
確証のない未来を掴むためにしんどい日常を生きているすべての人が、きっと彼らの共感できるだろう。
そしてこの映画では、「世間」も切り取られていく。そのことを、観客は意識した方が良いような気がする。僕ら観客は、夢を追って厳しい現実を突き進んでいく芸人の姿を見て、きっと様々なことを感じることだろう。しかし同時にこの映画は、「世間」を切り取っている。そしてそれは、「世間」の一部である僕たちのことでもあるのだ。
芸人の目から見る「世間」は、アホの集団に見えるのだろう。自分たちの方が絶対に面白い、と思いながら、何が面白いのか分からない芸人を見て笑っている「世間」に憤りを覚える。僕たちは映画を見ながら、徳永や神谷や山下に共感しているから、彼らが「世間」を見る視線に違和感を覚えないかもしれない。しかし客観的に見てその描写は、まさに僕たちに向けられたナイフのようなものだと僕は思う。
お前は本当に面白いものが分かっていて笑っているのか?
こいつらがテレビに出ている人気者でなくても、お前たちはこいつらが好きなのか?
俺の漫才で笑わなかった奴、俺がもしテレビに出る人気者だったら、同じ漫才をやってても笑うんだろう?
直接的にそんな描写はなかったが、この映画の描写によって「世間」に突きつけていることは、そういうことなんだと思う。
だから僕たちは、徳永や神谷や山下の視点に立って、「世間」のことを笑っている場合ではないのだ。向けられた刃にどう答えるのかを考えなければならない。
『僕たちは、完全には世間を無視出来ないんですよ』
徳永のこの言葉は、芸人としての妥協と執念の叫びだ。しかし同時に、「この映画を見ているお前らはどうなんだ?」という問いかけでもあると僕は感じた。
評価する者が、実は評価されている。そういう意識を忘れてはいけない、と思いながら映画を見ていた。
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Comment
[8254]
[8256]
お久しぶりです~。
250席に3人って、ちょっと凄すごますね(笑)。僕は、大晦日の今日も映画を観てきましたけど、結構お客さんいましたよ~。
僕は原作を読んでなかったんですけど、原作に近い形なんですね。
監督の板尾創路自身もお笑い芸人だったというのが、たぶん良かったんだろうなと思いました。
あの空気感は、やっぱりお笑い芸人じゃないと分からないと思うので。
そう意味では、お笑い芸人じゃない菅田将暉と桐谷健太が、本当に芸人に見えたのは凄かったと思います。
徳永と神谷の関係が良かったですよね。
「実力」とか「面白さ」って何なんだ、みたいな問いかけも含んだ作品だったと思いますけど、
とはいえ世間から受け入れられてナンボというのが、どんな世界でも共通だと思うので、難しいですよね。
そういう世界の感じを絶妙に捉えていたなと思います。
読書の助けになれたなら良かったです~。
「ご健筆」っていい表現ですね!
ありがとうございます!
ドラさんも、佳いお年をお迎え下さい~
250席に3人って、ちょっと凄すごますね(笑)。僕は、大晦日の今日も映画を観てきましたけど、結構お客さんいましたよ~。
僕は原作を読んでなかったんですけど、原作に近い形なんですね。
監督の板尾創路自身もお笑い芸人だったというのが、たぶん良かったんだろうなと思いました。
あの空気感は、やっぱりお笑い芸人じゃないと分からないと思うので。
そう意味では、お笑い芸人じゃない菅田将暉と桐谷健太が、本当に芸人に見えたのは凄かったと思います。
徳永と神谷の関係が良かったですよね。
「実力」とか「面白さ」って何なんだ、みたいな問いかけも含んだ作品だったと思いますけど、
とはいえ世間から受け入れられてナンボというのが、どんな世界でも共通だと思うので、難しいですよね。
そういう世界の感じを絶妙に捉えていたなと思います。
読書の助けになれたなら良かったです~。
「ご健筆」っていい表現ですね!
ありがとうございます!
ドラさんも、佳いお年をお迎え下さい~
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Trackback
http://blacknightgo.blog.fc2.com/tb.php/3460-231121dd
私も一昨日この映画を観てきました。最近できたシネコンですが、
250席ある中で観客はたったの3人という状況でした(汗)。
こんなことは生まれて初めての経験です!凄いですよね(笑)。
開始時間が8:20(勿論午前)ということで、年末の忙しい時期に
こんな早朝から映画館に行こう、と考える人が少ないのでしょうね。
1人じゃなくて好かった、というのが正直な感想です。
内容は原作に近いのですが、映画監督の手腕を見た想いでした。
モヤモヤしていた部分が、すっきりした感じです。
通りすがりさんがお書きのように、好い作品でしたよね。
師と仰ぎ信奉していた神谷が、徐々に世間とずれて行ってしまい
徳永は戸惑いながらも神谷を正す立場になってしまいました。
徳永としては悲しいですよね。最後の熱海旅行は、ほのぼのしていて
好かったです。10年ほど芸人をしたことが、徳永の中では宝物に
なったはずと思いました。不動産屋に就職して外見はサラリーマン
になっても、芸人だったころの充実した(?)日々が、
気持ちの上で支えになると思います。
厳しい世界ですが、他の芸人たち皆がライバルではなく成長する仲間
という感覚が素晴らしいですね。
又吉さんの「劇場」も、なかなかの作品ですので、是非映画化を
と願っています。
今年一年、この「黒夜行」には、読書の指標として随分助けられました。
来年も、通りすがりさんのご健筆を祈ります。
どうぞ、佳いお年をお迎えくださいますように。。。