黒夜行

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火怨 北の耀星アテルイ(高橋克彦)

凄すぎた。
物語を読んで、これほどまでに打ちのめされたのは久しぶりだ。
今まで読んでこなかったことを後悔するレベルの作品だった。
大げさに聞こえるかもしれないが、この作品を読まなければ人としての魂は宿らない―そんなことさえ感じさせる、とんでもない物語だった。

闘うことは、少なくない犠牲を生むことだ。
まったく犠牲を生まずに、何かと闘い続けることは出来ない。
その犠牲を払ってでも、闘うべきだと考える誰かの意思によって、闘いというのは生み出される。

しかし、蝦夷の者たちに突きつけられた現実は、あまりにも辛いものだった。

『蝦夷が勝つ策はたった一つ。一度たりとも敗けぬことです。それも十年やそこらではとても足りますまい。五十年、いや百年を敗けぬことで、朝廷も陸奥から手を引きましょう』

蝦夷の者たちは、闘いを望んでいたわけではない。犠牲を払ってでも闘いに挑む理由は、彼らにはなかった。闘う理由があったのは、朝廷の方だ。陸奥で産出された黄金を奪い取ろうというのだ。

蝦夷たちにとって、黄金など価値がないに等しいものだった。しかし彼らは闘わざるを得なかった。

『黄金や土地を守るだけの戦さであるなら俺も首を横に振る。しかし、蝦夷の心を守る戦さとなればこの身を捧げてもいい』

「蝦夷」という名は蔑称であり、陸奥に住む者は人間ではなく獣―朝廷は彼らをそう見ていた。そして、それに見合った扱いしかされてこなかった。確かに、これまではそのことは良い風に働いていた。蔑まれていたからこそ朝廷からの関心が向けられることもなく、平穏に過ごすことが出来ていたのだ。しかし、黄金が出てしまった。蝦夷にとっては何の価値もない黄金を端緒に、両者引くに引けない闘いに突入することになってしまったのだ。

自分がそういう境遇に置かれている時、果たしてどう行動するだろうか?

これは、現代でも通用する問いだ。人としての尊厳を奪われる、あるいは奪われているような境遇に自ら飛び込まなければ生きていけない―そういう現実はあちこちに存在しているだろう。そういう時、闘う意思を持つことが出来るかどうか。

一人では、難しいかもしれない。

自分を守るための闘いに力を発揮できる人ももちろんいるだろう。しかし、やはり人は多くの場合、誰かを守る闘いにこそ力を発揮できるものだろう。そういう意味で現代はちょっと辛いものがある。環境と価値観が分離してしまっているからだ。自分の近くの環境に、自分と似たような価値観を持つ人間が多くいる可能性は低い。一方で、ネットの発達で、以前にも増して同じ価値観を持つ人と出会いやすくなりはしたが、地域はバラバラだろう。同じ土地に同じ価値観を持つ人間が住んでいるからこそ共闘出来る―そういう側面はきっとあるだろう。

『敵はほとんどが無理に徴収された兵ばかりで志など持っておらぬ。我ら蝦夷とは違う。我らは皆、親や子や美しい山や空のために戦っている』

闘うことが避けられることが何よりも素晴らしいことではあるが、しかしそれが避けられないというのであれば、同じ志を持った者どうして強大な敵と立ち向かうことが出来る、という状況は悪いものではないだろう。

彼らは、何のために闘っているのか、常に自覚的でいる。だから、無用な殺生はしないし、出来るだけ犠牲の少ない策を練る。蝦夷たちが望んだ闘いではない。だからこそ、何のために闘うのかを、彼らが手放すことはない。

『兵らはそなたとともに死ねるのを幸せとしているのだ。たとえだれに分かって貰えずとも満足して果てる。そうに違いない』

そう言わしめる、阿弖流為という一人の男。

『この二十二年の永い戦さは、蝦夷のはじまりとなろう。終わりではない。阿弖流為という男を生むための戦さであった、と田村麻呂は思い至った』

そんな阿弖流為が、一体いかにして蝦夷のリーダーとなり、どのように蝦夷を守る闘いに挑み、最終的にどういう決断をしたのか―。心震わせる一冊だ。

内容に入ろうと思います。
朝廷からの無関心故に平穏に過ごすことが出来ていた蝦夷たちにとって大きな転機となったのは、749年に多賀城に近い小田郡で黄金が見つかったことだ。当時朝廷は東大寺の大仏造立に着手しており、莫大な黄金を必要としていた。陸奥は朝廷が蔑んでいる土地。だから黄金も奪うまで―そうやって朝廷は小田郡の黄金を奪いに掛かった。
この時点ではまだ蝦夷は朝廷に抵抗しない。いくつか理由はある。蝦夷にとって黄金は無用の長物であったし、何よりも5千から1万の朝廷軍に対抗できる力を持っていなかったからだ。
しかし、朝廷軍は多賀城周辺に留まり、次第に蝦夷を追い詰める施策を打ち出してくる。朝廷軍が長く留まることで、蝦夷側にも朝廷に寝返る者が出始め、彼らが権勢を振るうようになっていく。そんな寝返った蝦夷を使って蝦夷を支配する―そんな侮蔑的なやり方を朝廷は採るようになったのだ。
ここに来て蝦夷らは立ち上がることになる。蝦夷の誇りを奪われるようなやり方には我慢がならない。ここから蝦夷と朝廷軍とは小競り合いを繰り広げることとなる。
そして780年。この闘いに一つの大きな転機がやってくる。朝廷側に寝返った伊治公鮮麻呂の使いが、胆沢の長である阿久斗の元へとやってきた。鮮麻呂は蝦夷の中では裏切り者と目されていたが、そんな鮮麻呂の使者が驚くべき計画を口にした。なんと、朝廷軍の要職にある紀広純と道嶋大楯の二人を暗殺する、というのだ。鮮麻呂は、朝廷軍に深く入り込むことで信頼されており、ごくわずかの兵のみを率いて築城の検分にやってくるのだ、という。胆沢の者には、城攻めをして注意を外に向けてもらいたいとの依頼が使者の目的だった。
そして、この暗殺を見事成功させたことで、蝦夷たちの闘いはまた新たなステージへと上がっていく。その過程で、阿久斗の息子である阿弖流為が、蝦夷を束ねる者として抜擢される。阿弖流為は、黒石に住む知恵者・母礼と組み、母礼の奇抜で効率的な策を、阿弖流為の人心を掴む手腕によって実行に移し、彼らは、人数的には圧倒的に不利な戦闘に次々と対峙していくこととなる。

『蝦夷が蝦夷であること。それだけだ』

何を求めるのか、と問われてそう返した彼らの、高潔で峻烈な戦闘の物語!

冒頭でも書きましたけど、本当に凄まじい物語でした。この本の存在は知っていたし、その評判ももちろん聞いていました。ただやはり、上下巻で1000ページを超える物語にはなかなか手を伸ばせないでいました。

ただこれは、本当に、読まなければ後悔するレベルの、とんでもない作品でした。あぁ、ホントに、読んで良かった。

僕は、史実を舞台にした物語は本当に苦手です。基本的に歴史の授業は大嫌いだったし、だからこそ年号や人の名前もまったく覚えていません。本書に登場する人物が、どれほど歴史の教科書に載っているのか、僕にはさっぱり見当も付きませんが、僕が読む前から知っていた名前は「坂上田村麻呂」だけです。あとは全員知らなかったし、もちろん蝦夷の歴史についてもまったく知りませんでした。

それでもホントに、一気読みでした。これだけ分厚い小説なのに、本当に長さを感じさせない小説だったし、ページをめくる手が止まりませんでした。

まず書いておくべきなのは、恐らく本書の記述のほとんどが、著者の想像でしょう。本書には「続日本紀」という書物からの引用もちょいちょいありますが、そこに本書で描かれている闘いの詳細が書かれているはずもないでしょう。また「続日本紀」は、朝廷側の記録です。本書は、陸奥での闘いを蝦夷側から描いているので、そういう意味でもほとんどが著者の想像だろうと思います。

ただ、僕はこんな風にも感じてしまいました。もし、蝦夷で闘った戦士たちが本書を読んだなら、「これはノンフィクションだ」と感じるのではないか、ということです。それぐらい、登場人物たちが活き活きと描かれているし、魅力的です。

物語の展開や構造は、典型的と言っていいでしょう。胆沢という地域の長の息子だったとは言え、蝦夷全体では無名だった阿弖流為という男が、様々なきっかけによって仲間をたくさん集め、母礼が策を練り、阿弖流為が人心をコントロールする。そうやって、普通であれば勝てるはずのない相手に連戦連勝という驚異の戦績を叩き出すが―というような流れです。

しかし、展開や構造がベタだからと言って、作品全体がベタなわけではありません。とにかく、どこを読んでいても飽きないし素晴らしい。

まずは、一人ひとりのキャラクターが素晴らしい。阿弖流為や母礼などメインどころのキャラクターは当然なのだけど、主役級じゃなくても皆に見せ所がちゃんとある。蝦夷のために、という想いで結集した者たちだが、それぞれの役割や考え方は様々だ。それらが、時にぶつかり合い、時にお互いに増幅し合い、読む者の心を揺さぶっていく。特に、やはり阿弖流為と母礼の個々人の考え方や、お互いのやり取りは素晴らしいものがある。自己犠牲を厭わない精神を持ちながら、リーダーとして少しでも長く生きて人々を率いなければならないという立場に苦悩する阿弖流為と、阿弖流為をなんとか死なせないために毎度極上の策を生み出す母礼のコンビは、蝦夷の闘いには不可欠な存在だ。

また、蝦夷全体の思惑も様々に関わってくる。蝦夷ではないが、陸奥に住む物部一族が、蝦夷に対する支援を申し出る。そうかと思えば、戦場の第一線から遠く離れた地では、阿弖流為たちがしている戦さを良く思っていない者もいる。直接戦闘に関わっていない地域の者なども、それぞれの立場からどの選択が最善であるのかを思い悩む。胆沢や黒石など、朝廷軍と接するような地域の者であれば一息に決まる覚悟が、なかなか付けられない者もいる。そういう中でどういう闘い方をするのかを考えなければならないのだ。

そして何よりも、戦闘の描写が圧倒的だ。毎回蝦夷側は苦戦を強いられる。それも当然だ。朝廷軍は数万の単位で兵を出してくるし、何年でも何十年でも兵を補充できる。しかし蝦夷たちは、初めの頃など数千の兵で立ち向かわなければならなかった。普通なら、どう考えても勝ち目のない闘いだ。

しかしそこで、母礼の斬新で見事な策が次々に決まっていくことになる。

川と山に囲まれた土地、そしてその土地を知り尽くした者たち、それらを最大限に活かした策をひねり出し、情報戦なども駆使しながら相手を手玉に取る様は見事だ。どの闘いでも、数だけでゴリ押ししてくる朝廷軍を押しのける蝦夷の強さに、ニヤニヤしてしまう。

さらに、坂上田村麻呂が登場することで、闘いの様相はまた変わってくる。坂上田村麻呂は、最強の軍師でありながら、坂上田村麻呂をうまく使いこなせないでいるために、朝廷軍は苦杯をなめることになる。蝦夷たちも坂上田村麻呂も、お互いにお互いを尊敬しており、たまたま立場が違い、闘わねばならないと捉えている。そんな、人間的にお互いを尊重し合う者同士の闘いは、さらに洗練され、礼を尽くしたものとなる。何のために闘っているのかに常に自覚的でいる蝦夷と、蝦夷もまっとうな人であり、その強さと賢さを嫌というほど理解している坂上田村麻呂だからこそあり得た見事な終結には、感動させられる。

死ぬまでには絶対に読んでおきたい、超絶的なスケールの一冊だ。

高橋克彦「火怨 北の耀星アテルイ」



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