廃校先生(浜口倫太郎)
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学校の先生とは、あんまり相性が良くなかったなぁ、と思う。今振り返ってみれば、その理由ははっきり分かる。
僕は今でも、決められたこととかルールみたいなものが嫌いだ。自分の中でしっくり来るような内容であっても、それが「ルール」として定められているということに対してイライラしてしまうことさえある。
そして、まさに学校というのはルールの宝庫だ。「しなければならないこと」も山ほどあるが、「してはならないこと」も山ほどある。
そういう環境が、僕には窮屈だったなぁ、と思う。
子供の頃は表向きとても優等生だったので、ルールに対してさほど抵抗するようなことはなかったような気がする。ただやはり内側では、おかしいと思っていたし、時々どうにも我慢が出来なくなって爆発することもあった。
ルール、というのとはちょっと違うのだが、未だに覚えていることがある。
確か中学の合唱コンクールだったと思う。その時の担任の教師は、僕の中で「先生がなんでも決めてしまう」という見え方をしていた。それに対する反発があったのだろう。教師が、合唱コンクールで歌う歌はこれです、と勝手に決めてきた時に、それはおかしい、と言って反発したことがある。
正直僕にとっては、合唱コンクールで歌う曲なんかなんでも良かったのだけど、やはり「勝手に決められている」ということが凄く嫌だった。それで、選曲を一からやり直すことにしたのだ(まあ、結局、クラス全員で決めた結果、教師が最初に提示した曲に決まったのだけど 笑)。
そういうルールに対する嫌悪感は、やはり教師に向いてしまう。今なら、教師だって「やらされている」のだということは分かる。教育現場のことは詳しく知らないが、恐らく「こうしなければならない」「こうしてはならない」という様々な規則でがんじがらめにされているのだろう。教師にもよるだろうが、必ずしも生徒に押し付けているルールに賛同しているとは限らない。
とはいえ、その辺りのことは子供の頃はよく理解できていなかったのだと思う。ルールを押し付けてくる人=教師、と図式ですべての物事を見ていたのだと思う。だからどうしても、教師という存在を受け入れることが難しかった。時々、この先生はいいな、と思える教師もいたのだけど、数は決して多くはない。
その後僕の人生には、教師の側から子供を見る、などという経験はなかったわけだけど、教師を主人公にした物語を読むことで、少なくとも子供の頃よりは教師のことが理解できるようになったと思う。そうなった今思うことは、やはり教師も迷いながら教えているのだろうなぁ、ということだ。
『やっぱり先生って情熱持った人しかなったらあかん仕事やと俺は思うぞ』
作中にそんなセリフが出て来る。
教師になる理由には様々なものがあるはずだ。全員が、教育に対する情熱を持ち合わせているわけでもないだろう。とはいえ、そういう見られ方をされる、というのもまた一面の事実ではある。特に、子どもを預けている親はそう願ってしまうだろう。自分の教師としてのあり方と、教師の見られ方のギャップに、多くの人は苦労するのではないかと思う。
とはいえ、教え導くことに喜びを見いだせるのなら、天職なのだろう。本書の「よし太」のように。
内容に入ろうと思います。
里田香澄は、面積の96%が山林という、奈良県の十津川村にある谷川小学校の新米教師だ。創立143年の歴史を持つこの学校は、しかし今年度で廃校が決定している。2年生2人、4年生2人、6年生3人に教師が4人という非常にこじんまりした学校だが、生徒への目が行き届き、地域で学校を中心に行事を盛り上げる、という形が悪くないと思っている。しかし一方で香澄は、自分が教師に向いているのかどうか分からないという悩みをずっと抱えている。
香澄は4年生を受け持つが、同僚の仲村よし太が受け持つ6年生の副担任もやっている。地域の代表者であり、よし太の同級生でもある古坂一護の息子で絵の上手い十夢。曾祖母、母の女三人で暮らしながら、アイドル(NMB)に入ることを夢見る美少女愛梨。災害で母を亡くし、家具職人である父と二人で暮らしながら、中学受験を目指している優作。廃校の決定した小学校において、彼らのスタンスはばらばらだ。十夢は、この素晴らしい校舎、そして学校が無くなってしまうなんてあり得ないと考えている。しかし愛梨と優作はそうでもない。どちらも、スカウトされて、受験に受かって、この村を出て行くことを第一の目標としている。
よし太は教師で、当然大人だが、大人とは思えないほどアホだ。子供たちだけで遊んでいるといつも仲間に入りたがるし、いつも鼻をほじっている。勉強だって特別出来るわけでもないから、中学受験を目指している優作には不満だ。香澄にとっても、なんでこんな人が教師をやっているんだろう?と思うような人だったが、しかし子供たちからは絶大な人気がある。
ある意味で地域の中核を成す存在である谷川小学校が無くなることが決定している中で、そこに住む者たちの想い、そこを出たいと思う気持ち、誰かを思って行動する勇気などが丁寧に描かれていく作品。
これは良い物語だったなぁ。スイスイ読めてしまうような結構軽いタッチで描かれている作品なのに、中身はそこまで軽々しくはない。重厚なわけではないけど、穏やかな日常の物語の中に、小学校を中心とした人々の人生が屹立し、どっしりと張られた根っこのたくましさみたいなものをじっと眺めるような、そんな力強さを感じさせる作品だなと思いました。
物語の中心になっていくのは、やはりよし太です。彼はこの物語のキーパーソンだと言っていいでしょう。よし太がいるのといないのとでは、本書はまったく別の物語になってしまうだろうと思います。それぐらい、物語の根幹に関わってくるキャラクターです。
とはいえ、アホであることには変わりありません(笑)。作中でほぼずっと、よし太はアホなことばっかりやっています。まったく教師らしくないですし、教師らしく見せようという気も本人にはないでしょう。
それでも、よし太がやっていることは、まさに「教育」なんだろう、という感じがしました。
本書では、対比の意味を込めてでしょう、香澄が東京の小学校に研修に行く、という場面が描かれる。全校生徒が7人しかいない学校から、生徒数1000人以上の小学校に研修に行くのだ。そのギャップたるや。しかし、その現場は疲弊していた。そこに「教育」と呼べるものがあるのかどうか、判断は難しい。何を持って「教育」とするのか、というのは人それぞれではあるのだろうが、多くの人が最終的に求めてしまう「教育」というのは、よし太が実践するようなものなのではないか、と僕は思うのだ。
よし太の教師としてのあり方を真似するのはかなり難しいだろう。鼻をほじればいいのか、子供にバカにされるような振る舞いをすればいいのか、というとそれは全然違う。形だけ真似してもダメなのだ。そこには、よし太なりの想いと情熱がある。よし太は、それがとても強いのだ。想いや情熱だけでは乗り越えられないものもたくさんある。実際によし太は、教員免許は持っているが教員試験には何度チャレンジしてもダメで、講師という立場で教師をやっている。それでも、想いや情熱で届けることが出来るものもあるのだ、とよし太を見ていると思わされるのだ。
メインで描かれる3人の6年生も実に良い。三者三様であり、村での生活や学校への思い入れなど様々な部分で違っている。関係性がうまく行かなくなってしまうこともあるし、お互いのことが理解できなくなってしまうこともある。それでも、たった3人しかいない同級生との関わり、そしてあらゆるものがない村での生活は、彼らに良くも悪くも様々な経験を与えることになるのだ。
彼らを取り巻く大人たちも良い。大人たちにも物語があり、その多くは「何故十津川村での生活を選択したのか」だ。子供たちには、村での生活に不満がある。しかも親たちは、村での生活から離れられる機会があった、ということさえ知ることもある。じゃあ何故ここでの生活を選んだのか―。それぞれの家族のそれぞれの物語は、「生きる」ということについて大事な何かを伝えてくれるように感じられるのだ。
不覚にも、随所で泣きそうになってしまった。物語の展開としては、かなりベタではある。何度も、先の展開を予測出来た。しかしそれでも、予測通りの展開であることが分かって泣けてくる、という状況さえあった。正直、優しい人間が出て来る優しい物語はそこまで好きではないのだけど、本書はそういう部分に対する抵抗をほとんど感じることなく読むことが出来たし、ベタな展開であっても読ませる力には感心させられた。
こんな学校も、こんな生き方もいいかもしれないな、と思わせてくれる作品だと思います。
浜口倫太郎「廃校先生」
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