ひこばえに咲く(玉岡かおる)
style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">
ただしたいからする、というのは、僕にとっては「文章を書くこと」だろうか、と思う。
何故だが、文章は書きたくなる。これは、「誰かに何かを伝えたい」とか「文章を書く練習をしたい」というような動機ではない。それらがまったくない、とは言わないが、そういうものよりももっと、ただ「書きたい」という気持ちになる。
自分でも、良く分からない。
僕は、なんだかんだこうして文章を書き続けてきたお陰で、「文章を書くこと」が仕事に役立てられるようになった。それは、とても運が良かった。文章を書くことが出来る、というのは有用性が高くて、色んな範囲で役に立つ。自分でも、文章を書くことを続けてきて良かったなぁ、と思っている。
ただしたいからする、という欲求は、どんな風に生み出されるのだろう、と思う。僕は、元々理系の人間だ。国語は大嫌いだった。本は読んでいたが、いわゆる本が好きな子どもが読むような本は読まなかった。特別文章が上手い子どもでもなかった。
僕がちゃんと文章を意識して書くようになったのは、たぶん20歳くらいからではないか。初めは、書きたくて書いていたわけではない。初めは、本を一冊読んだらその本の感想を必ず書く、というルールを決めて、無理やり書いていた。正直、文章の書き方なんて知らないし、その当時は長く文章を書くなんて全然出来なかった。
いつから、無理やり書く、から、書きたい、に変わったのだろう?
今でも、そう決めたから書きたくないけど書いてる文章もある。書く文章のすべてが、書きたくて書かれたものではない(これは、文章を書くことが仕事に活かせるようになった弊害と言えば弊害である)。とはいえ、やはり僕が文章を書き続けているのは、書きたい、と思うからだ。過去を振り返ってみて、「本を読む度に感想を書くことに決めて、粛々と書き続けた」という経験以外、文章を書くことに親しむ経験なんてほとんどないのに、どうして自分の内側からそんな欲求が湧き上がってくるのか、よく分からない。
『描くためだけの絵もあるんでねえか』
僕には到底、ケンの気持ちは分からない。画家であるケンは、『人が、食べたら排泄しないと死んじまうように、描かなきゃどこか胸の一部が詰まって死んじまうやつだっているべ?』と語る。僕には、そこまでの感覚はさすがにない。けれど、なんとなくは分かるつもりだ。僕は、感想を書くところまで含めて読書だ、と考えている。今では、読んだ本に関して感想を書かないことが気持ち悪く思えてしまう。
ケンの『描くためだけの絵もあるんでねえか』というのは、お金に換えるなんてことのために絵を描く以外のやり方もあるのではないか、という主張だ。これだけ聞くと、芸術家を気取った若者の理想論のようにも聞こえてしまうかもしれない。
しかしケンは90歳になるまで、ほとんど青森から出ることなく、150枚以上の絵を描き、納屋に押し込めていた。誰から評価されることも、まして誰かに絵を見てもらうことすら望まないまま、ひたすら魅惑的な絵を書き続けたのだ。
『描くためだけの絵もあるんでねえか』
そんな男の言葉だと思って聞くと、全然違った風に聞こえるはずだ。
『「あのですね。―誰に見せるつもりがないなら、百五十枚ものこの作品、いったいどういうつもりで描きためたのですか?」
眼鏡の下で、困ったような目がさまよう。香魚子は重ねて聴いた。
「こんなところに押し込むしかない絵を、どうして一生懸命、描いてるんですか?」
何が訊きたいか、今度はわかってくれたか、という目でケンを睨む。
だが、ケンの答えは香魚子の予想を超えていた。
「そりゃあ絵描きは絵を描くだろ。船頭が船をこぐようなもんだ」』
理由を考える理由さえ思いつかないまま、ケンはひたすらに絵を描き続ける。
特殊な環境があったとは言え、こんな風に生きられるとしたらいいな、と思える一生だった。
内容に入ろうと思います。
若瀧香魚子は、父が始めた銀座の骨董店で働いていたが、父がその骨董店の閉店を決断し、自らの身の振り方を考えなければならなくなった。既に50代。素晴らしいものを見る目と、人を惹きつける能力に長けた父に庇護の元不自由なく育ったが、自分の才覚で何かをやるという決断のなかなか出来ない年代だ。パリには、3年ほど付き合っている恋人がいる。黒岩俊紀は妻子ある身だが、日本とパリとで離れて暮らしているが故に、家族との関わりは薄い。ついぞ結婚しなかった女と、結婚しているがパリで一旗上げようと起業した男。男の事業が右肩下がりで下降している現実を前に、二人の恋の灯火も危ういものになっている。
骨董店の閉店準備を進め、また俊紀との関係がどうにもどん詰まりに陥っていたある日、まったくの偶然に、香魚子はある無名の画家の画集を目にすることになった。上羽研(ケン)というその画家の絵に、香魚子は魅入られた。ひと目この絵を見たい。思いつきで、ケンの住む青森まで言った香魚子は驚いた。
画集に載っていた、見る者の心を揺さぶる絵が、納屋に押し込められるようにしてひと目に触れない場所にしまわれていた。
この絵を多くの人に見て欲しい。そういう思いに駆られた香魚子は、閉店した骨董店の跡地をギャラリーに変え、その第一弾として上羽研展を行うことに決めた。俊紀の事業が下降するのに反比例するかのように香魚子の事業はトントン拍子に進み、それもまた、二人の関係に少なくない影響を及ぼす。
また、口数の少ないケンに変わって渉外すべてを担当する馬力のある70代の緒方芙久(フク)は、ケンのことを「オヤブン」と呼び、若い頃から慕ってきた。彼らには、絵画を介した長い長い歴史があり…。
というような話です。
かなり素晴らしい作品でした。香魚子と俊紀の現代の話と、ケンとフクの過去の話が折り重なるようにして進んでいき、時代時代の苦難を乗り越えながら「生きていく」ということを考えさせる物語だなと感じました。
何よりも、ケンが素晴らしいですね。ケンは、実在のモデルがいるらしいです。巻末に載っている参考文献の書名に、恐らくこの人物なんだろう、と思う名前がありますが、一応ここでは書かないことにしておきましょう。
ケンが実在した人物だ、という事前情報は、この作品を読む上で非常に重要だと僕は思っています。というのも、ケンという存在は、いやーそんな奴おらんやろ、と思ってしまうような非実在感を抱かせるものがあります。一流の批評家をもうならせる絵を描きながら、青森からほとんど出ることもなく、誰に見せるでもない絵を描き続ける。それは、実在の人物がいた、という情報があるからこそリアルに感じられる側面はどうしてもあると思います。
ケンのように生きられたら、と多くの人が思ってしまうのではないだろうか。何も望まず、何にも囚われず、目の前にあるもので、自分に今出来ることで満足する、という生き方。それは、出来るかもしれないことを、手に入るかもしれないものを諦めるような生き方に見えるかもしれないけど、たぶんそうじゃない。うまく説明できないけど、望まないことが結局、望んだ場合以上の何かを生み出すことがある、と僕自身が思っているからそんな風に感じるのかもしれない。
僕も、何の目的もなく、ただ書きたいというだけで文章を書き続けてきたけど、そのお陰で、自分が望んでもいなかったような現実がやってきた(詳しくは書かないが)。ケンも、もしかしたら同じなのではないか。何のため、ということもなく、ただ絵を描き続ける。そのことが、作品の質を高め、さらに物語を生み、死の間際に盛大な評価を得るに至ったのではないか。望むことで、その望んだものが手に入りにくくなる、ということは、起こりうるのではないか。そんな風にも感じた。
とにかく、ケンの存在感(ほとんど喋らないのだけど)に溢れた物語だった。
フクもまた良い。ケンを「オヤブン」と慕い、ケンを世に出すために奔走し続けてきた女。香魚子と出会ってからは、ケンの展覧会を成功させるために出来る限りのことをやった女。そんな彼女もまた、厳しい時代を生き抜いてきたのだった。東北の、厳しい貧しさの中で育ったケンとフクが、何故絵を描くことと出会い、二人がどこで出会い、日々どんな風に生きてきたのか。後半のメインとなるその辺りの物語も、実に読み応えがある。
物語を動かしていく香魚子は、恐らく最も読者に近い立ち位置の人物だろう。不自由なく育ったが、始末に負えない妻帯者との恋や、奔放な父が突然止めると言った骨董店の後始末など、どうにもならない現実に絡め取られながら生きている。その悲哀が、作品の隅々から漂ってくる。泰然自若としたケンや、何事にも前向きなフクの有り様には、正直遠さを感じる人もいるのではないか。境遇こそ様々に違えど、香魚子のような、くたびれ感とでも言うような生き方に共感できる人は多いのではないかと思う。
特に、俊紀との恋の物語は、大人の恋愛だからこそのややこしさみたいなものが非常に色濃く描かれていて面白い。妻子がいたり、パリと日本との距離だったり、俊紀の事業が傾きかけていたりと、様々な要因が絡まり合う中で、好きだとか嫌いだとかでは制御出来ない何かに翻弄される様は、読んでいて滑稽でもあり、切実さを感じもする。
時代背景や境遇などはまったく違うが、読者からすると、香魚子の人生と、ケンとフクの人生とか、様々な場面で共鳴していく。絵を介して出会った三人の人生が、時間を超えたところで折り重なっていく構成は、見事だなと感じる。
生きていくということの切実さや覚悟みたいなものに溢れた作品だ。若さを超え、人生の先が見えてきた者たちが咲かせた美しい花。奇跡的な邂逅から生まれたその花の行く末を読んでみて欲しい。
玉岡かおる「ひこばえに咲く」
- 関連記事
-
- スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか(池谷孝司) (2017/06/09)
- でんでら国(平谷美樹) (2017/05/25)
- ライオン・ブルー(呉勝浩) (2017/04/28)
- アイデア大全 想像力とブレイクスルーを生み出す42のツール(読書猿) (2017/03/04)
- あなたの人生の科学(デイヴィッド・ブルックス) (2017/08/24)
- レッツ!!古事記(五月女ケイ子) (2017/10/04)
- 崩れる脳を抱きしめて(知念実希人) (2017/09/16)
- 真夏の島に咲く花は(垣根涼介) (2017/07/13)
- たまうら~玉占~(星乃あかり) (2017/11/09)
- 水曜の朝、午前三時(蓮見圭一) (2017/11/08)
Comment
[7830]
[7833]
なんか、いきなり暖かくなりましたよね。
確かに、急な変化はびっくりしますよね~。
生活のためではなく絵を描く、しかもその絵が人の心を打つ、というのは凄いですよね。
しかもそれが実在の人物だ、というのが驚きでした。
芸術とは言え、やりたいことをやっているだけでは世間から受け入れられず、作品の良し悪しとは別に、芸術家であり続けることが難しい、という状況は良くあるでしょうけど、
ケンの場合は、芸術家であり続ける(他者から芸術家だと思われる)という部分を一切斬り捨てて、描きたいものを描き続けた人生で、その潔さが結局、作品に反映されたんだろうなあ、と思いました。
僕も玉岡さんの作品は初めてでしたけど、巧い構成でしたよね。いくつかの人生が、まさにある一点で交錯したその場所で物語が生まれる、というのが絶妙でした。しかも、実在のモデルがいる中でそれをやるのは難しかっただろうなぁ、と思います。
確かにこの作品を読むと、実際に絵を見てみたくなりますよね!観に行ったら教えて下さいね~
確かに、急な変化はびっくりしますよね~。
生活のためではなく絵を描く、しかもその絵が人の心を打つ、というのは凄いですよね。
しかもそれが実在の人物だ、というのが驚きでした。
芸術とは言え、やりたいことをやっているだけでは世間から受け入れられず、作品の良し悪しとは別に、芸術家であり続けることが難しい、という状況は良くあるでしょうけど、
ケンの場合は、芸術家であり続ける(他者から芸術家だと思われる)という部分を一切斬り捨てて、描きたいものを描き続けた人生で、その潔さが結局、作品に反映されたんだろうなあ、と思いました。
僕も玉岡さんの作品は初めてでしたけど、巧い構成でしたよね。いくつかの人生が、まさにある一点で交錯したその場所で物語が生まれる、というのが絶妙でした。しかも、実在のモデルがいる中でそれをやるのは難しかっただろうなぁ、と思います。
確かにこの作品を読むと、実際に絵を見てみたくなりますよね!観に行ったら教えて下さいね~
コメントの投稿
Trackback
http://blacknightgo.blog.fc2.com/tb.php/3299-f15bed35
こちらは、すっかり暖かくなり、身体が戸惑っています(泣)。
昨夜、この本を読み終えました。実在の画家がいたようですが、青森でひたすら絵を描いて90歳の天寿を全うしたこと自体が、驚きです!生活の為、という縛りがなく、好きな絵を描いて一生を送れたら、ある意味幸せですよね。絵の題材も、農夫や農作業、リンゴ畑ということで、青森が生んだ画家と呼ばれるのも頷けます。無欲に徹し、泰然自若とした生き方は、読んでいて清々しい想いでした。ちょっと仙人みたいですよね(笑)。
玉岡さんという作家の作品は初めて読みましたが、香魚子の迷いの多い生き方と達観したようなケンの生き方が好対照で、巧い構成だなぁと思いました。香魚子のような華やかさとは無縁でしたが、オヤブンと慕いながら一生をケンに捧げたフクの存在も見事でしたね。香魚子以上に情熱家でした!田舎の人の純朴さが伝わってくるようでした。
この本を読み終えて、私は是非自分の目で、彼の作品を見たいと思っています。青森で太宰ゆかりの地を訪ねようと計画していますので、あるいは…と考えています。
では、この辺で。お元気でお過ごしくださいますように。。。