蚊がいる(穂村弘)
style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">
穂村弘、やっぱり好きなんだよなぁ。
そもそも僕は、世界にうまく馴染めない人が好きだ。
もちろん、馴染めない人にも色んなタイプの人がいる。挙動不審だったり、対人関係が極度に無理だったりと、見た目ですぐに、あぁ馴染めないんだな、と分かる人もいる。確かにそういう人も、決して嫌いではない。嫌いではないけど、しかし実生活ではあまり出会わないし、ちょっと関わり合うのがめんどくさそうだなという気持ちも持ってしまう。
僕が好きなのは、世界に馴染んでいる風で全然馴染めていない人だ。表向き、友達もたくさんいるし、誰とでも話せるし、明るくてハキハキしてるし何でも楽しそうにやるんだけど、いざ話を聞いてみるとどうも馴染めていないような人、というのがいる。僕は人生で何人かそういう人に会ったことがある。
こういう人は、本当に魅力的だ(少なくとも僕にとっては)。そういう人は、やはり昔から馴染めなさを感じているから、自分の馴染めなさを自分なりに説明するために、言葉が巧みであることが多い。何故自分がそう思うのか、そして何故自分がそんな風に思わないのか。そういうことをきちんと説明できるのだ。
それは、馴染めてしまう人にはなかなか持ち得ない性質だ。本書の巻末には穂村弘と又吉直樹の対談が載っていて、そこで穂村弘が又吉直樹に、
『(サッカー部に入っていた又吉直樹に対して)僕はそこが謎で。たとえば運動ができないとなぜできないかを考えると思うんです、言葉で。できるヤツは言葉要らないんですよ、できるから。モテるヤツ、運動できるヤツ、楽器弾けるヤツはそえでコミュニケーションできるから言葉を必要としない。だから意外で、サッカーができたのに、なぜ本を読む必要があったんだろうって』
と聞いていて、確かにその通りだと僕も思った。そう、世界に馴染めてしまう人は、言葉を必要としないのだ(普通は)。僕はそれが不満で、世界に馴染めてしまう人には、あまり魅力を感じない。
欠損や歪みがあって、その欠損や歪みをきちんと捉えて自分の言葉で説明できる人。そういう人はやっぱり素晴らしいなぁ、と思ってしまうのだ。
そして、穂村弘という人は、まさにそういう人である。
本書はエッセイ集であり、それぞれのエッセイ毎に話は全然違う。けれど、あるエッセイの中で書かれていたある文章が、穂村弘のその欠損部分をうまく表現しているように感じられたので、そこを抜き出してみようと思います。
『文化祭でもキャンプでも大掃除でも会社の仕事でも、いつも同じことが起きる。全ての「場」の根本にある何かが私には掴めないのだ。現実世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなルールがみえない。何のための穴なのかよくわからないままに、どこまでも掘ってしまう。だが、わかっていないということは熱心さではカバーできないのだ』
何故穴を掘っているのか、という点は是非本書を読んでほしいが、穂村弘のこの感覚は僕も凄くよく分かるし、そうそう、って感じになる。
僕は、世界に対するアプローチの仕方が、穂村弘ととても似ているように感じられる。自分の中に確信がない。確信を得ようと周囲を観察するのだけど、ルールらしきものが分からない。自分にはルールが分かっていないのに、どうも周りの人は特に説明もされないままルールを把握しているようで、その場に馴染んだ振る舞いをしている。色々と考えて、これかな、という行動をしてみる。でも、どうも違う。いや、はっきりとは分からないが、違うような感じがする。そういう雰囲気だ。でもじゃあどうすればいいのだろう?
というような葛藤は、僕の根っこにある。今の僕はもう、世界から外れることをあまり恐れなくなった。自分がその場で浮いていても構わない。むしろ浮いていることが当然であるような立ち位置を作ってやろう、と思って普段から生活をしている。そういう意識に切り替えて、前よりは楽になった。
そういう意味で、僕は日常の中で、穂村弘が感じているようなことをあまり感じなくなった、ような気がする。でも、まったくというわけではないし、このエッセイを読みながら、穂村弘の行動原理にとても共感している自分がいる。
だから、やっぱり穂村弘って好きなんだよなぁ。
本書は、穂村弘が日常の中で感じたあれこれについて書くエッセイだ。一遍一遍はとても短い。だいたい文庫本で2ページくらいだ。一気に読んでもいいし、ちょっとずつ読んでもいい。
2ページの文章の中で話をうまく完結させるから、一部だけ抜き出して面白い箇所というのは実は少ない。話全体の中で面白さを醸し出すスタイルなのだ。一遍全体で面白いエッセイというのは本書の中にたくさんある。その中で、これは抜き出しても面白い、と思える箇所を抜き出してみる。
『最近、五十肩になってしまって「家庭の医学」的な本を買った。そこに「アイロンを使った振り子運動」というものが紹介されていた。家庭でできる運動療法らしい。
ふと見ると、図解の端っこに注意書きがある。「アイロンがない場合は、ダンベルなどの代替用品でもかまいません」。えっ、と思う。そもそもアイロンの方が代替用品なんじゃ…、でも、自信がない。全てがよくわからない。』
思わず吹き出してしまった。穂村弘は、こういうのをよく見つけるのだ。「漁師プリン」の話も面白い。別になんてことのない話なんだけど、穂村弘の手に掛かると、面白い話になっちゃうんだよなぁ。
「周りの人も、みんな本当に日常の中で大変さを味わうことがあるのか?」という疑問に囚われた穂村弘の、こんな妄想も面白い。
『お天気お姉さんが腋の下から体温計をしゅっと抜き出して「今日の体温は三十八度八分、ふらふらです。でも、仕事だから頑張ります。もしも、あたしが倒れたら、明日のお天気はあなたが自分で空を見上げて予想してね」と云ったら、どんなにときめくことだろう』
なんか分かるような気がする。本書の「蚊がいる」というタイトルにも込められていることだが、テレビや雑誌ではもっと色んな人がしゅっと生きているような気がする。テレビや雑誌の世界には、蚊なんていないのだ。でも、現実にはいる。この落差は一体なんだろう?というような疑問から、こんな妄想が生まれてくるのだ。
世界は一つかもしれないが(複数あっても特に問題はない)、世界の見方はそれこそ山ほど存在する。その視点をたくさん持っていればいるほど、色んな世界の中で生きることが出来る、といえるかもしれない。穂村弘は、世界に馴染むのが苦手だが、馴染むのが苦手というだけで、色んな世界を見ることが出来る。穂村弘は、そんな自分で見た世界を、時に短歌で、時にエッセイで切り取っていく。穂村弘には、色んな世界が見えてしまい、ただでさえ世界に馴染むのが苦手なのに、余計に苦手になっていく。でも、その困惑みたいなものが、見ている方としては楽しい。
自分も世界にうまく馴染めないんだよなぁ、という自覚がある人の方が、きっと読んでいて面白いだろう。馴染めてしまう人からすれば、この人は一体何をそんなに悩んでいるんだろう、となるのかもしれない。分からない。とにかく、僕にとっては、とても楽しいエッセイだった。
穂村弘「蚊がいる」
Comment
コメントの投稿
Trackback
http://blacknightgo.blog.fc2.com/tb.php/3277-f9daa733