完全版 下山事件 最後の証言(柴田哲孝)
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読むのは二度目だ。一度目は、単行本で読んだ(感想はこちら→「下山事件(柴田哲孝)」)。単行本で読んだ時の記憶がちゃんとあるわけではないけど、文庫化で中身は結構変わっているような印象だ。著者は冒頭で、こんな風に書いている。
『2005年7月―。
私は「下山事件 最後の証言」を発表し、事件の真相に迫った。
その反響は予想を遥かに越えるものだった。あえて「最後の~」としたのは事件から56年を経過し、生の証言を得られるのはこれが最後だと考えたからだ。だが、私の予想はいい意味で外れることになった』
単行本発売後の反響も含め、「完全版」として出したということだろう。
さて、ここでは、下山事件の詳細については踏み込まない。ざっくりとした概要は、前回の感想で書いたし、ネットで調べればいくらでも出てくるだろう。そして、本書で「真相」とされていることは、とても短く説明できるようなものではない。下山事件は、国鉄総裁だった下山定則氏が列車に轢かれて死亡しているのが発見された、という事件だ。警察はなんと、自殺か他殺かも判明しない、として捜査を打ち切った。その後様々な仮説が生み出されたが、決定打となるものはなかなか出ない。本書が決定打になるのか、それは僕には判断が出来ない。
下山事件は、一人の男が殺された、という単純な見方が出来る事件ではない。法医学者が自殺か他殺かの見解を闘わせ、警察が証言を捏造したと思しき矛盾があり、GHQや時の政権やアンダーグラウンドな勢力までもが一斉に関わった、まさに昭和史のごった煮のような事件だ。下山事件を掘り下げることで、占領下における日本の状況が、そして現在まで続くアメリカによる日本の支配が、まざまざと浮かび上がるのだ。
とある理由(後述する。まさにこの点が本書の肝なのだ)により、著者は「亜細亜産業」という会社が下山事件に関わっていることを知る。そして著者は、「亜細亜産業」の総帥だった矢板玄に会うことが出来た。彼らは下山事件だけではなく様々な話をするが、矢板玄が下山事件に関して著者にこんな風に言う場面がある。
『(―それならやはり、アメリカの謀略ですか?)
そうは言っていない。ウィロビーは事件を利用しただけだ。ドッジ・ラインとは何だったのか。ハリー・カーンは何をやろうとしていたのか。それを考えるんだ。アメリカは日本の同盟国だ。東西が対立する世界情勢の中で、日本は常にアメリカと同じ側に立っている。過去も、現在も、これからもだ。もしアメリカじゃなくてソビエトに占領されていたら、どうなっていたと思う。日本は東ドイツや北朝鮮のようになっていたかもしれないんだぞ。それをくい止めたのが、マッカーサーやおれたちなんだ。日米安保条約は何のためにある。アメリカの不利になるようなことは言うべきではない』
繰り返すが、これが、下山事件について問われた矢板玄の回答だ。国鉄総裁が殺されたという事件が、「ドッジ・ライン」や「世界情勢」と関わりを持っている。そう、それぐらい壮大な話なのだ。正直僕は、本書の「真相」をきちんと理解できたとはいえない。誰と誰が対立していて、誰にどんな利益があり、どの情報が捏造で、どの情報に信憑性があり、誰が何のために動いていたのか。そういうことを把握することは、とても困難だ。途中で、戦時中に細菌兵器などの開発をしていた731部隊に所属していたという人物の証言も登場する。下山事件という、昭和最大の謎とも呼ばれる事件の闇の深さが窺える。
というように、下山事件という底なしの沼のような事件を把握するのはとても難しいので、下山事件の話はここで終わりにする。
さて、ここまで書かずにいたが、本書は、「何故著者が下山事件を追っているのか?」という動機が、明確過ぎるほど明確に存在する。
それは、「敬愛する祖父が下山事件に関わっていたかもしれない」という理由だ。
発端は、祖父・柴田宏の23回忌に当たる法要だった。その席には、祖父の妹であり、著者にとっては大叔母である飯島寿恵子もいた。そして寿恵子が、こんなことを言ったのだ。
『あの事件(=下山事件)をやったのはね、もしかしたら、兄さんかもしれない…』
この瞬間から、著者の長きに渡る下山事件の取材がスタートした。その対象は、まず大叔母の寿恵子と、母の菱子だった。彼女らは、共に同じ会社で働いていた。それが、先程の「亜細亜産業」だ。祖父ももちろん、同じ会社にいた。寿恵子と菱子は、亜細亜産業に出入りしていた人間や取引先の会社などを克明に覚えていた。著者はそれらの話を拾い集めながら、それまでとはまったく違う下山事件の仮説を追い始める。これまで亜細亜産業に着目した仮説はない。著者は、祖父が亜細亜産業に関わっていたからこそそこに辿り着けたのだ。そして調べれば調べるほど、下山事件に繋がる様々な要素が浮かび上がってくる。
もちろん、下山事件の真相が少しずつ明らかになっていく過程もスリリングだ。身内から聞いた事実と、取材によって知り得た事実が様々な形で結びつき、線となっていく。身内の何気ない記憶が、重要な鍵を握る場面もある。亜細亜産業に関わる身内がいたという、まさに著者の境遇だからこそ実現できた取材により、まったく新しい方向から下山事件に光が当てられていく様は、物語であるかのようにスリリングだ。
しかし、僕が一番気にかかったのは、著者の内面だ。それはほとんど描かれることはない。ただ、時折こんな文章が出てくる。
『以後、私は急速に下山事件の謎に没頭していった。といっても、その興味の対象が事件そのものに集約されていたわけではなかった。むしろ私を駆り立てたのは、祖父柴田宏に対する愛着と好奇心だったような気がする』
著者は祖父のことを、『あの頃の私にとって、祖父は自分の世界の大半を占める大きな存在だった』と表現する。ただ身内であるというだけではなく、著者にとってはかけがえのない存在だと言っていいほどの人物だったのだ。著者は、下山事件の取材をすることで、そんな祖父に「下山事件の首謀者」というレッテルを貼ることになるかもしれない。その葛藤が、時折見え隠れするのだ。
『私は、祖父を信じたかった。その一方で、下山事件の謎を解くことに使命感を燃やす自分がいる。それは、もしかしたら、尊敬する祖父の秘密を暴くことにもなりかねないと予感しながら。』
また一方で著者は、母親に対してもこんな感情を抱く。
『だが、いずれにしても、私の行為は少なからず年老いた母を傷つけることになる。
ある日、下山事件の話をした後で、母が泣いている姿を見た。ただ黙って俯きながら、涙をこぼしていた。』
著者は、寿恵子や菱子から話を聞くことで、彼女らを追い詰めることになる。著者以上に「身内の恥」という感覚が強い世代だ。祖父の行為が明らかになればなるほど、彼女らを辛い立場に追い詰めることになる。
しかし著者は、真実を追うことを諦めることが出来なかった。
『膝の上で組む手の上に、涙が落ちた。それを見た時、心の中で何かが切れたような気がした。
もうやめた。下山事件なんかどうでもいい。いまさら犯人をつきとめたって、何になるというのだ。
だが、できなかった。私にはどうしても、心の衝動を抑えることができない。気が付くとまた私は下山事件の資料を開き、その迷宮に足を踏み入れていた』
本書は、基本的には下山事件の本だ。下山事件をいかに掘り下げていくかという本だ。しかしその一方で、本書は「柴田家の本」であることから逃れられない。少なくとも著者はそれまで、柴田家に「不穏な歴史」が眠っているなどとは想像もしなかった。しかし、平穏でしかない、ごくありきたりな家族だと思っていた自分に連なる歴史に、昭和史の謎を解き明かす秘密が眠っていた。その衝撃と興奮、そして掘り下げることで迷惑を掛けることへの悔恨。それらが入り交じった著者の筆致は、普通のノンフィクションでは醸し出せないものだ。ノンフィクションを書く人にはそれぞれ、そのテーマを選び取った理由があるだろう。それらはそれぞれの著者にとっては、何物にも代えがたい衝動なのだろうと思う。しかし、どれだけの衝動があろうと、本書の著者の衝動に敵う者はそうそういないだろう。「祖父が実行犯かもしれない」というのは、それほどの状況なのだ。
寿恵子はある時、著者にこんなことを言う。
『あんた、これをどこかに書くつもりなんだろう。それ、まずいのよ。亜細亜産業は、絶対に身内からしか事務員を雇わなかったのよ。わかるでしょう?私も入る時、業務内容に関しては他言しないって念書入れてるの。あの会社は下山さんだけじゃない。他にも殺されたとか、消されたとか、そんな噂はいくらでもあった。私、怖いのよ…』
個人史と昭和史の交差点で苦悩する人がいる。また、その交差点で真実を探し出そうとする人がいる。そして、そこに歴史が生まれる。
本書を読んで強く感じたことがある。それは、事実が歴史を作るのではなく、誰かが信じたことが歴史になる、ということだ。つまりそれは、あなたが歴史だと思っていることは、事実であるとは限らない、ということも意味する。
いずれ、僕らが生きている現実も、歴史と呼ばれるようになる。その時僕らは、きちんとした歴史の証言者になれるだろうか?そのためには何が必要か、本書を読んで感じ取って欲しいと思う。
柴田哲孝「完全版 下山事件 最後の証言<再読>」
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