「虐殺器官」を観に行ってきました
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「無関心」の物語だ。
この作品はそれを、「社会」と「人間の機能」の両面から描き出す。
『人間は、見たいものしか見ない』
これはこの作品の中で、繰り返し語られる。自分の関心の範囲しか見ようとしない。見たくないものは見ない。そういう社会が明確に構築されている。
それは、僕らが生きているこの現代社会でも、程度はともかくとして既に存在する。
作品で描かれる世界では、それがより誇張される。9.11のテロによって、人々のテロに対する意識は大きく変容した。人々は、プライバシーをある程度以上捨てることを受け入れることで、テロによる脅威を排除する選択をした。そういう社会が舞台だ。
そういう社会では、人々は様々なデバイスと接続している。それは、紙幣を排除するような便利さを生み出しもするが、同時に、どこで誰と何をしているのかを常に監視される生活でもある。人々は、監視されていることが当たり前である世の中を生きる。社会インフラが、既にそのように整備されているのだ。
そしてそんな社会の中で人々は、便利さを徹底的に享受する。レジでお金を出したり、外国語を勉強したりしなくても済む社会の中で、人々はその便利さによって浮き上がった時間を“有意義”に過ごす。アメフトを見ながらピザを食べ、爆音の中でダンスをする。
それが当たり前だからだ。
人々にとって便利さは、水道の水のようなものだ。ひねれば、出てくる。あって当たり前。水道の水がどれほどの手間を掛けて家庭まで届くのかを想像する必要などまったくなく、いつでも安全な水を手に入れることが出来る。人々の、便利さに対する欲求はいつの世も変わらない。僕らの社会も、より便利さを追求する方向に突き進んでいる。
そして、便利になればなるほど、その便利さがどう生み出されているのかという関心が失われていく。
どれだけ科学技術が発達しようとも、最終的にその便利さを生み出しているのは人間だ。Amazonが最速で荷物を届けることが出来るのは、配送業者の努力のお陰だ。様々な製品が安価で手に入るのは、低賃金で働かされている発展途上国の人たちの労働のお陰だ。光り輝くダイヤモンドも、それが高貴な人の手に収まるまでに大量の血が流れているのだ。
僕らに、その現実は見えない。何故なら、見たくないものは見なくて済むように社会が出来ているからだ。僕らが「便利さ」と呼ぶものの中には、そういう都合の良さも組み込まれている。
新聞やテレビは、何らかの形で収益を上げなければならない。その一番の方法は、受け手の関心の高い情報を届けることだ。受け手は、自分たちの生活がどんな苦労の上に成り立っているのかなど知りたくない。だから、新聞もテレビもあまりそれらを報じない。
ネットがあるじゃないか、と思うだろう。その通り。ネットには素晴らしいくらい様々な情報がある。しかし、じゃあどうやってその情報にたどり着くのか?結局それは、あなたの「関心」からスタートするしかない。あなたが関心を持たなければ、その情報はあなたの元には届かない。情報の拡散のされ方も、結局は人々の関心の総和次第だ。
僕らは便利さを目指す中で、もしかしたら無意識の内に罪悪感を抱いているのかもしれない。自分が享受している便利さは、世界中すべての人が得られるものではないことは分かっている。この便利さが、どこにでも当たり前に存在するものではないことを知っている。それはある種の罪悪感となって自分の内側に溜まる。無意識の内に、便利さを支える構造を知りたくないと感じる。その、僕ら自身には感知出来ない無意識の衝動が積もりに積もって、この無関心な社会が生まれているのかもしれない。
この作品には、そんな社会の無関心さをある意味で逆手に取った男が登場する。物語のキーパーソンだ。彼は研究によって、ある発見をした。人間の脳には、ある機能が備わっていることを発見し、その機能を発露させる方法を見いだしたのだ。
その機能は、人間を無関心にするわけではない。しかし、無関心にするという機能を内包しなければ成立しないだろう、とも感じる。人間が生まれながらに持つとされるその機能が、人間社会全体の無関心さと結びつくことで、社会全体がどんな状態に陥るのか。この作品は、その可能性を描き出している。
人間は、自由や便利さや快楽を追い求めるためにどこまで残虐になることが出来るのか。ある意味でそれが問われる作品だ。人間の残虐性は、様々な発露を取る。しかし、もしかしたら人間の最大の残虐性は、「無関心」という形で発露されるのではないか。そして、「便利さ」と「無関心」は否応なしに対を成すが故に、僕らが今生きている社会も、そしてこれから目指すことになる社会も、この作品が示唆するような残虐性を発露するようになるのではないか。そんな風に思わされた。
物語のメインの舞台は、2020年のグルジアから始まる。アメリカ情報軍特殊検索軍i分遣隊に所属するクラヴィス・シェパードは、ある暗殺ミッションのために派遣された。グルジアでの内戦を指揮したとされる首相と、その日会う予定になっていたアメリカ人。アメリカ軍の目的はその人物だった。ジョン・ポール。彼は結局その場に現れず、それどこころか、PTSDを発症しないようにと調整されたプログラムが齟齬を起こし、仲間の一人がPTSDを発症。緊急避難的にクラヴィスは、仲間を撃ち殺すことになった。通常彼らは暗殺の際、「感覚適応調整」や「痛覚マスキング」などを施されることで、戦闘に適した心理状態を維持したり、状況に応じた的確な判断が出来るようになっている。いわば「戦闘マシーン」とでも言うような状態で、彼らは心を乱されることなく、仕事として戦闘に従事する。
暗殺ミッションに失敗した彼らには、ジョン・ポールについての情報が知らされる。元々はMITで学んだ言語学者だったが、その後、国家などをクライアントとしてイメージ戦略を提案するインターメディアグループに入社し頭角を表す。担当する国で様々な成果を生み出し、国家の補佐官に就任するも、彼が関わった国では常に内戦や虐殺が発生するという事態が浮上した。国防総省とも仕事をしていたジョンの存在はアメリカ政府にとっても悩みの種であり、一刻も早く拘束する必要があったのだが、CIAがその任務に失敗したためにクラヴィスらに回ってきたのだ。
彼らは、ジョンが最後に目撃されたというプラハで潜入捜査を開始する。そこには、ルツィア・スクロープバという、チェコ語を外国人に教えることで生計を立てている女性が暮らしている。ジョンが最後に目撃されたのは、そのルツィアの部屋だ。5年前、サラエボで起こった手製の核爆弾によるテロ。ジョンはそのテロで妻子を失ったが、その時ジョンはルツィアと不倫の真っ最中だった。
クラヴィスはルツィアと接触し、ジョンに繋がる情報を得ようとするが、その過程で彼はルツィアに心惹かれるようになり…。
というような話です。
面白かったし、カッコ良かった。
僕は正直、原作を読んだ時は、ストーリーそのものが理解できないくらい、全然読めなかった。とにかく、難しかったという記憶しかない。SF的な世界観を理解することがそもそもとても苦手だった、ということも要因として間違いなくあるのだけど、作品が持つ思索的な部分に、恐らくまったくついていけなかったのだと思う。その後も伊藤計劃の作品は読むが、本は難しくて歯が立たない、という印象をずっと抱いていた。
この映画は、原作がまるでお手上げだったそんな僕でも十分に理解出来、楽しめるような作品だった。
基本的には、戦争の物語なのだ。クラヴィスは様々な戦場に派遣されては、治安維持のために戦闘を繰り返す。普段はアメリカで便利さを享受する身だが、仕事となれば内戦や虐殺の頻発する途上国で危険な任務につく。慎重に感情が調整されるので、戦争に従事しているという事実は、クラヴィス自身には深刻な影響を及ぼさない。アメリカで便利さを享受するクラヴィスと、途上国で戦争に従事するクラヴィスは、基本的に切り離されている。
戦争が葛藤を生み出さない、という意味で、戦争を扱った作品とは一線を画すだろう。この作品の中では、「戦争」というのは、ある種の背景でしかない。クラヴィスらにとっては、「職場」と表現してもよいものだ。「戦争」が舞台でありながら、「戦争」そのものは背景でしかないという構造は、それそのものが「無関心」を浮き彫りにする枠組みである。
クラヴィスが葛藤にさいなまれるのは結局のところ、自らの無関心が何を引き起こしているのか、その現実を認識することによってだ。結果として耐え難い現実が引き起こされている。それがどういう理屈でどのようにして生み出されたのも理解した。しかし、結局のところその土壌となっているのは、自らの無関心なのだ。恐らくクラヴィスの葛藤は、こういう部分に端を発している。
『君たちは心に覆いをすることで無感覚になることを許容する。それは、子供を殺すことそのものより残虐だ』
ポールがクラヴィスにそう言う場面がある。これこそが、この作品の底に流れる本質的な部分であり、クラヴィスが自らが属する社会に疑問を抱くきっかけとなった部分なのだろうと思う。
なにせクラヴィスらは、テロを撲滅するのに必要だからという理由で、暗殺などに従事しているのだ。しかし、その自分たちが享受している便利さ、そしてそれが生み出す無関心こそが遠因となってテロが引き起こされているのだ、と知ることは衝撃だろう。クラヴィスはジョンを非難したい。しかしジョンと喋れば喋るほど、自分たちがしていることとジョンがしていることの境目が分からなくなっていく。やり方が違うだけで、結局同じことをしているのではないか?クラヴィスの葛藤は、観客にもそういう問いを突きつけることになる。
ジョンがあることに全精力を傾けている動機は、まさに今(というのは、トランプ大統領が就任した直後の混乱した社会の中で生きている今、ということ)、全世界的に声が上がるようになった発想と非常に近いものがあるだろう。彼らの過激な発言は、どう見るかによって見え方がだいぶ変わる。良い風に見ようとする人が多いからこそトランプ大統領が誕生したのだろう。そう考えると、ジョンの動機に賛同する人は、思いの外多いのかもしれないとも感じる。
ジョンの動機が許容される世界は、僕は受け入れたくない。これは生理的な理由だ、としか言いようがない。正しい正しくないの議論は成立しないだろう。「愛する人を守るためなんだ」という、その動機の背景にある思いは、人の心を強く揺さぶるからだ。
それでも、僕は生理的に、ジョンの動機を拒絶する。
一方で、ジョンに対する嫌悪感は、思った以上にはない。それは恐らく、ジョンが自覚的だからだ。自らの「残虐性」を、きちんと自覚した上で行動しているからだ。
無自覚なまま「残虐性」を発揮される方が怖い。そしてそういう人は、世界中に存在する。僕も、片足を突っ込んでいるのかもしれない。それも怖い。自分の行動が、どんな悲劇を生み出しているのか、それがわからないことが怖い。
『仕事だから仕方ない。その言葉がこれまで、凡庸な人間からどれだけ残虐さを引き出してきたか』
僕たちは、とても便利な世の中に生きている。その便利さが何によって生み出されているのかなどまるで考えることなく、その便利さを手軽に享受することが出来る世の中に生きている。しかしその便利さは、必ず誰かの犠牲の上に成り立っている。そしてその歪みは、様々な形で現れる。しかし僕らは、便利さの膜に包まれているが故に、その歪みの発露を目にせずに済む。この作品が描き出す現実はそういうものだし、まさにそれは僕らが生きている現実に連なる世界だ。
トランプ大統領が生み出した、自分たちさえ良ければいいという風潮は、決して世界を豊かにしない。そう分かっていても、一度手にした便利さを手放すことも出来ない。僕らは、ただ生きているだけで、遠くのどこかにいる誰かを苦しめている。せめてそれぐらいの事実は意識して生きていきたいと思う。
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