黒夜行

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ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件(杉山春)

『だが、大人たちの厳しい意見の前で、自己主張ができなくなるのが、自尊感情が弱まっている若者の特徴だ』

昔の僕もそうだった。だから僕は、自分の経験としてこう言いたい。

助けを求めることは、とても難しいのだ、と。

本書で、二児を置き去りにして死なせた母親として登場する「芽衣さん(仮名)」と僕とでは境遇はまるで違う。正直芽衣さんと比べれば、僕が置かれた状況など大したことはない。だから単純に比較は出来ないにせよ、自分ではどうにも出来ないと感じている現実が目の前にあったこと、自分ではどうにも出来ないと思っていながら助けを求めることが出来なかったこと、自分ではそんなこと全然望んでいないのにそうする以外に仕方なく酷い状況が現出してしまったこと。そういうことは僕も同じだった。

芽衣さんと僕の差は、もしかしたらほとんどなかったかもしれない。昔の僕が芽衣さんと同じ立場に立たされていたら、かなり近い行動をしてしまっていたかもしれない。まったく同じ状況にはきっとならなかっただろうが、芽衣さんの行動を否定できない自分がいる。

自分がそういう状況に置かれると、まともな思考が働かなくなる。僕もそうだった。一日中テレビを見ながら、頭の中がひたすらグルグルしていた。自分では何か意味のあることを考えているつもりでいるのだが、それはただどこにもたどり着かない袋小路でウロウロしているだけだ。そういうことにすら気づかないし、自分が何を考えればいいのか、何をすべきなのかなども、ちゃんとは分からなくなっていく。

だから、そういう人間が助けを求めることが出来なかったとしても、それは仕方がないことなのだと僕は感じてしまう。

だからと言って僕は、周りの人間がもっと気づいてあげるべきだ、などと言いたいわけでもない。それも無理だ。確かに、何かおかしくなっているという兆候は見えることがあるかもしれない。でも、はっきりと分かることは少ないだろう。僕も、自分の頭がどれだけグルグルしていても、外側にはそれなりに真っ当な自分を見せていたような記憶がある。

『良い奥さんだと見られることが大事だった。困難で惨めな自分の姿を認めることができない』

どれだけ自分がダメになっていても、そのダメな感じを知られたくない、という気持ちは残る。だから、他人に自分の状況を悟らせないように行動してしまう。だから、周囲が気づかなくても仕方ない。確かに、明らかな兆候が見えるなら、何か出来ることがあるかもしれないと思って欲しい気持ちもある。けど、大抵の場合、困っている人間の困窮度を周りの人間が推し量ることは困難だろう。

『芽衣さんは、離婚の話し合いの場で、「私は一人では子どもは育てられない」と伝えることができれば、子どもたちは無残に死なずにすんだ。その後も、あらゆる場所で、私は一人では子育てができないと語る力があれば、つまり、彼女が信じる「母なるもの」から降りることができれば、子どもたちは死なずにすんだのではないか。そう、問うのは酷だろうか。だが、子どもの幸せを考える時、母親が子育てから降りられるということもまた、大切だ。少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくていいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる』

今の僕は、降りることに成功した。だから、昔の僕とは違って、今ならたぶん他人に助けを求めることが出来るような気がする。ダメな自分を見せることが出来るのではないかという気がする。僕も、「ちゃんとした自分」というものに囚われていて、そこから降りることが凄く難しかった。そこから降りられなかったことが、色んなことの原因だったのだなと、後から振りかえってそう思えるようになった。

今では、降りることが出来たから気が楽だ。でも現代社会には、降りられなくなっている人が山ほどいるのではないかと思う。

『母親になることを願った芽衣さんは、妻の地位を失った時、アイデンティティの基盤を失う。就労を可能にする教育を受けられなかった者として、自尊心をつなぎ止めるのは「男性に選ばれる私」しかいない。「男性と関係がある私」という商品となる。
SNSはいわばそんな芽衣さんのショーウィンドウだ』

『本当に子育てをしているかが重要ではなく、「メディア」を通じてみせること。それが現実となる』

『他者から拒否され、嫌われることへの怯え。人が「選別されるべき存在」となった現代社会で、社会の一員になり切れないと感じる若者たちが当たり前に抱える感情を芽衣さんもまた深く抱えていた』

芽衣さんについて書かれたこれらの文章が当てはまる人は、現代社会にはとても多いのではなだろうか。他者から認められることが重要であるという価値観があり、他者から認められなければ自分の存在を肯定できない。そして、その肯定を得られなかったが故に行き着いてしまったのが、この事件の結末なのだ。

だから、この事件は、決して他人事ではない。確かに芽衣さんは、解離性の人格障害を抱えていたらしい(裁判では認められなかったようだが)。それ故に、通常以上に酷い結果を引き寄せてしまったという部分もあるだろう。でも、程度の大小はともかくとして、芽衣さんのような状況に陥る人は、僕も含めてだったけど、決して少ないわけではないはずだ。

『本当に大切だった。命よりも大切だった。それなのに亡くしてしまった』

二人の子どもを最後まで愛していたと主張する芽衣さんは、殺意を否定する。しかし裁判では殺意が認定され、児童虐待死事件としては異例の懲役30年を言い渡される。しかし、事件の推移や芽衣さんを取り巻く環境などを踏まえて考えると、芽衣さんにすべての罪を着せて事件を終結させるのは間違っているという感覚を得るのではないかと思う。

芽衣さんは現実ときちんと向き合う心の強さを持てない人ではあったが、少なくとも子どもに対して最も責任を感じ、その責任を果たそうと意志を持っていた人間だった、と言うことは出来る。母親なんだから当たり前じゃないか、という人間がいればそれはちょっと古すぎる考え方だし、だからと言って芽衣さんの行為は許されるものではないと言う人間がいれば、芽衣さんの周りの人間の無関心さを知らない。芽衣さんの両親も、芽衣さんの元夫も、元夫の両親も、誰も芽衣さんとその二人の子どものことを真剣に考えようとしなかった。突き放したり、無関心だったりという態度を取る。それでいて、裁判では、元夫やその両親が、「遺族」として芽衣さんに厳しい処罰を望む発言をしている。正直、彼らには芽衣さんを糾弾する資格はないように思える。あなた方は、芽衣さんにもっと手を差し伸べるべき人だったのではないか、という思いは拭えない。

『子どもたちが安全に、守られて暮らすためには、どれほど母親の安全と安心が必要か』

母親の安全と安心がどんどんと奪われている現代社会。その中で僕たちはきっと、知らず知らずの内にそれらを奪い去ることに加担しているに違いない。加担する側にも、そして奪い去られる側にもならないように、本書を読んで現実をきちんと認識しておくことは大事かもしれない。

内容に入ろうと思います。
2010年7月30日、大阪ミナミの繁華街近くにあるワンルームマンションの一室で、三歳の女の子と一歳八ヶ月の男の子が変わり果てた姿で見つかった。子どもたちはクーラーのついていない部屋に閉じ込められた。外からガムテープで塞ぎ、南京錠を掛けて部屋の外に出られないようにしていた。引っ越し以来一度も捨てられなかったという堆積されたゴミの中で、服を脱ぎ折り重なるようにして亡くなっていた。内蔵の一部は蒸発し、身体は腐敗し、一部は白骨化していたという。
母親である芽衣(仮名)さんは、50日間も子どもを放置して男と遊んでいた。その様子をSNSに投稿していた。それでも彼女は、子どもを愛していたし、どうしてこんなことになってしまったのか分からない、と語っている。

著者は、そんな芽衣さんの言動を理解しようとして、芽衣さんの周囲の人間に取材を続ける。そして、「自分勝手で子どもに愛情を持たない母親が身勝手にわが子を放置し死に至らしめた」という事件の見方を変えさせた。僕は本書を読んで、確かに芽衣さんのしたことは許されることではないが、芽衣さんこそ一番の被害者だったのではないか、と感じられてならない。そして、誰しもが芽衣さんと同じ場所に立つ可能性があるのだ、と。

僕はそもそも子どもに興味がないし、結婚にも関心がないから、結婚も子育ても恐らくはすることはないだろう。そしてその判断には、自分が子どもを育てたら、どこかで必ず子どもに不幸を与えるようなことをするはずだ、という自分の感覚がある。それが暴力なのか、無視なのか、金銭面でのことなのか、それは分からないけど、ただ僕が子育てをすると子どもは不幸だ、という感覚が僕の中にはある。ただの思いこみだと言われるかもしれないし、実際その通りだと言われればそうなのだけど、僕はこの点において自分を信じることが出来ない。

『芽衣さんは自分を守る力を持っていたのかどうか。周囲の期待を敢えて無視すること。それは、時にはわが子を守ることでもある』

僕は自分が芽衣さん側の人間だという自覚がある。この自覚は、とても大事だと思う。結婚や子育ての良い部分だけを夢見て憧れて結婚する人は多いだろうが、その結果、離婚や虐待は増えている。そもそも結婚に向かない人、そもそも子育てに向かない人というのは絶対にいると思うし、そういう自覚をどこかで受け入れることが大事ではないかと思う。しかしきっと多くの人は、そういう自分の存在に気づくことなく結婚や出産を経験する。その結果、痛ましい事件が起こる。

もちろん、結婚や子育てを通じてしか分からないこともある。最初から諦める姿勢を気に食わないと感じる人もいるだろう。しかし、大人がきちんと考えずに行動するせいで、何の罪もない子どもが苦労するというのは、僕は嫌だなと感じる。

本書を読むと、本当に様々なところに、「ちゃんとしていないことを糾弾される場面」が見え隠れすることが分かる。僕たちは、どんな場でも完璧を求められるような、とても窮屈な世の中に生きている。世の中の風潮が、もっと「失敗した人間」「間違った人間」に寛容であれば、みんなもう少し生きやすくなるだろう。しかし、世の中はどんどん、「失敗した人間」「間違った人間」に厳しくなっていく。そのせいで、社会にうまく馴染むことが出来ない人たちが無用の苦労をさせられることになる。

『価値がないものとして扱われている自分自身を受け入れることは、この上もなく困難なことだ』

この本は、芽衣さんという、傍目に見れば残虐な行為をした極悪非道の人間を追った作品であるように思えるだろう。しかし実際はそうではないと僕は思う。本書は、芽衣さんという一人の人間の人生を追うことで、社会全体を、そして本書を読んでいる僕ら一人ひとりに刃を突き立てる作品なのだ。

『精一杯の勇気が届かない。芽衣さんは社会への信頼をもはや持てない』

僕は、社会全体がもう少し寛容であってほしい、と思っている。先程も書いたが、社会が窮屈だからこそ、社会からはみ出してしまう人間の行き場がなくなり、SOSが届かなくなるのだ。そんな風に思っているから、僕自身は、出来るだけ、他人に寛容であろうという意識は持っている。少しのミスで怒ったりイライラしたり、そういうことをしないように意識している。そういう意識が、最後には自分のところにきちんと返ってくる。僕はそんな風に考えている。

『子どもの幸せを考える時、母親が子育てから降りられるということもまた、大切だ。少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくていいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる』

こういう世の中を実現できるように、僕ら一人ひとりの行動を変えていくべきだと僕は思う。 

杉山春「ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件」

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