死刑のための殺人 土浦連続通り魔事件・死刑囚の記録(読売新聞水戸支局取材班)
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まず、少し長いが、僕がここで書きたいことと関係あるので、引用から始めようと思う。
『私には彼が感じただろう、つまらなさが実感として分かる。それは、私と同世代か下の世代が感じる、独特の閉塞感だ。成熟しきった日本で、多くのことはやり尽くされている。それでも、先進国の地位を維持し続けるには成長しなければならない。他国や他人に取り残されないように、どんどん価値を上げ、多くのことを同時にこなし、競争を勝ち抜かなければならない。現状維持は後退を意味する社会だ。「もう、成長はこの辺でいいだろう」という考え方は許されない。でも、そんな社会に適応できる若者ばかりではないし、皆、成長は頭打ちだと、うすうす感じている。
成長しない日本を生きる。そんな閉塞感の中で、彼は現実に希望が見いだせず、早々に降りる道を選んだのだろう。もちろん、自殺願望を募らせ、最終的に殺人という手段を選んだのは許されないことだ。弁護するつもりは全くない。
でも、彼が感じたつまらなさに共感できる人は、世の中にたくさんいると思う。彼のつまらなさの根源は、日本の社会を覆う閉塞感にある。何不自由のない生活を送っていても、心は満たされない。希望が見いだせない社会だ。
「何を甘いことを言っている」。そう批判する人も多いかもしれない。でも、私は希望が見いだせない若者たちを単純に批判できない。何不自由のない生活は幸せとイコールではない。なぜ、豊かな国であるはずの日本で、毎年3万人前後の人が自ら命を絶つのか。そして、なぜ若年世代の自殺率が上昇傾向にあるのか。私は、その現実は希望を見いだしにくい日本の社会のあり方と無縁ではないと思う。飽和状態にある、と分かっていながら成長を求められるのは、若者にとってつらいことだ。たまたま職を得た人も、一度脱落したら敗者復活はできない、という恐怖と戦いながら毎日生活している。そんな社会で希望を持てるのはよほど才能があるか、運のいい人たちだけだろう』
僕も、共感できてしまう側の人間だ。
この「土浦連続通り魔事件」の犯人である金川真大に対する僕の感覚をまず書こう。
彼が考えていること、感じていることは、かなり分かってしまう。僕は、大きな括りで言えば金川真大と同じ種類の人間だろう。本書の中にも、取材班の一人の実感として、こんな記述がある。
『「もしどこかでつまずいていれば、自分も同じようになっていたかもしれない」。そんな思いさえ抱くようになった。それは私だけの特別な感情ではなく、同僚記者も同じだった』
僕もそう思う。僕も、どこかで踏み外していたら、金川真大のようになっていた。そういう入り口(人を殺そうとする入り口ではなく、周囲と相容れない思想を持つようになる入り口)に、僕は何度か足を踏み入れたと思う。僕が引きずり込まれなかったのは、ただ運が良かっただけだ。僕と金川真大は、ある意味で等価交換可能な存在だ。金川真大は人を殺し、僕は殺していない。それだけの差しかないように、僕には感じられる。
ただ先に書いておく。金川真大が「確実に死ぬために死刑を選択した」という行動は、頭が悪いと思う。「他人に迷惑を掛けて死のうとするな」とか「痛みを伴わない自殺の方法は探せばあるだろう」とか、色んな突っ込み方があるが、僕は単に頭が悪いなと感じる。
まず死刑というのは、死ぬ時期が完全に他者に委ねられている。「死ぬ」と決めて死ぬことの最大の自由は、自分が死ぬ時期を決められることにあるのではないか、と僕は感じる。自殺の最大の自由は、いつ死ぬかを自分で選択できることにある。死刑による死は、この自由を完全に手放してしまっている。事実、金川真大は逮捕されてから死刑が執行されるまで3年ほど掛かっている(これでも十分早い方だが)。僕には、その3年間はアホくさくてやってられないだろうと思う。
また金川真大は、「確実に死ぬために死刑を選択した」と発言している。しかし、死刑が宣告されれば確実に死ねるが、死刑が宣告されるかは確実ではない。彼は、2人を殺し、7人に重傷を負わせた。普通に考えれば死刑だ。しかし裁判では、「死刑を望む者に死刑判決を下していいのか」という議論が起こる。当然だ。結果的に金川真大は死刑を宣告されたが、死刑を宣告されない可能性だって僅かながらあっただろう。だから、金川真大が考えるような確実さは死刑には存在しない。
金川真大の頭が悪いと考える理由は、この辺りにある。彼は、死刑のことを碌に調べもしないで、死刑というイメージだけに寄りかかって犯行を起こした。ちょっと知識があれば、「確実に死ぬために死刑を選択した」という判断のおかしさに気づけただろう。
色んな理由を含めた上で、僕は、金川真大の「確実に死ぬために死刑を選択した」という判断は頭がおかしいと思う。僕の内側からそういう考えが外に出ていくことはまずないだろう。しかし、それ以外の部分では、金川真大の考え方は理解できてしまう部分が結構ある。
僕は、このブログで何度も書いてきたが、人が死んで哀しいと感じたことが一度もない。祖父は二人共死に、大学時代の先輩も二人死んだ。葬式に出る度に、別に哀しいと思っていない自分に気づく。
また、社会に出ることが出来ないと悲観して、就活から逃げるために大学を辞めた。未だに後悔したことがないばかりか、あの時辞めておいて本当に良かった、とさえ思っている。
『青年は20歳の頃から、自分の人生に見切りをつけていた。進学も、就職もしたくなかったから、しなかった。でも、自室にいても、何の濰坊もなく、つまらない日々が過ぎていった。テレビゲームで毎日を埋めていたが、もう限界だった。「死のう」。自殺を考えた、でもよく考えると、自殺はうまくいかないかもしれない。確実に死ねる方法は何だろう?思いついたのが死刑だった。
綿密に計画を立て、2人を殺し、7人を負傷させて死刑判決を受け、ここまで来た。なぜこんなに時間のかかる方法を選んだんだろう。何度も後悔した。確実に安楽死の制度があるなら、迷わずそれを選んだだろう』
僕は、就活が嫌で大学を辞め、大学時代のアルバイトはすべて3ヶ月でバックれた。誰とも会わずに引きこもっていた時期もある。今僕は悪くない環境にいるが、一年前今いる場所に来るまでは、僕の人生はかなり詰んでいたことだろう。そこから抜け出せたのは、本当に、運が良かったにすぎない。
そういう意味で本書が描いているのは、「特異な人間が起こした例外的な事件」ではないのだと僕は感じる。本書は、「第二の金川真大がどんな家庭からでも生まれうる」という現実を活写している。確かに本書を読めば、一見、金川真大の両親に問題があると思うだろう。そして、こんな両親だから金川真大みたいなモンスターが生まれたのだ。ウチは大丈夫と思いたいことだろう。
しかし、本書をきちんと読めば、両親も両親なりの考え方によって、子供を愛していたのだろうということが分かる。結果として金川家は、ちょっと歪で狂った家庭環境だ。しかしそれは、決して悪意からではなく、両親なりの子供を思う気持ちの積み重ねによって生み出されてしまった。両親との関わり方を読むと、僕がしてきた振る舞いと重なる部分もある。やはり僕は、金川真大と等価交換可能な存在なのだろうなと改めて思う。
本書は、あまりにも異質で特異で信じがたい事件が描かれる作品だ。しかし、だからと言って目を背けていいわけではない。自分とは関係ない事件だと見ないふりをしていいわけではない。多くの若年世代が、金川真大のような閉塞感を抱えて生きている。僕もそうだし、本書を執筆した記者自身もそうだ。その閉塞感とどう付き合っていくのか。誰もが様々な経験をしながら、それらと折り合いをつけていく。しかし中には、金川真大のような折り合いの付け方を選択してしまう者も出てくるだろう。それが自分の子供ではないとは、誰にも断言できないはずだ。
そういう意識で、本書を読んで欲しいと僕は思う。
内容に入ろうと思います。
本書は、「確実に死ぬために死刑になる」ことだけを目指して通り魔事件を引き起こした金川真大という男に迫ろうとする作品だ。
2008年3月19日。金川真大は茨城県土浦市で男性を一人刺殺する。その四日後の3月23日、荒川沖駅で金川真大は無差別にその場にいる人間を殺傷し、逮捕された。
逮捕された金川真大は、独自の「思想」を繰り返す。「人を殺すことは悪ではない」「世の中の人間は常識に毒されている」「人を殺すのは蚊を殺すようなもの」「死刑になるために殺人を犯した」「いくら人を殺しても死刑にならなければ、殺人は犯さなかった」などなど…。
これまで、「死刑になっても構わない」という動機を持つ無差別殺人は存在した。しかし、「死刑になるために人を殺した」というのは前代未聞だった。金川真大は一貫して、人を殺したかったわけでもないし、社会に恨みがあったわけでもないと語る。ただ、出来るだけ多く人を殺さないと死刑にならないから殺人を犯したのだ、と語る。
『「申し訳ないことをした」
言葉でなくてもいい。そんな気持ちが彼の心に生まれることを本気で願い、行動を起こした。それはもう、取材を超えていた』
『私にできるのは、金川に贖罪の心を芽生えさせることではないか。そんな思いが日増しに強くなっていった』
記者は、被害者から白い目で見られることを覚悟しながら、憑かれたように金川真大との面会を続ける。金川真大は強固な思想を語る。それは一般の常識からすれば異常とも言うべきものだ。その思想を、少しでも揺るがせることが出来ないか。たとえ死刑になるとしても、真っ当な心を取り戻してから刑を受けさせることは出来ないか。
『死刑囚のまま、友人を得て、恋をして…。死にたくない。そう一瞬でも思ってから執行されて欲しかった』
金川真大の死刑が執行された後、同僚記者が感じたこの思いこそが、記者たちを取材へと駆り立てた原動力だった。
金川真大は何故犯行に及んだのか。それを支える思想はどんなものか。何故その思想が生み出されたのか。金川真大を改心させることは出来ないのか…。葛藤を抱えながら続けた取材の記録です。
正直に言って僕は、金川真大に対してそこまで関心を持てない。冒頭で書いたように、僕は金川真大が抱えていただろう感覚が、少しは理解できる。そしてその上で、「何故死ぬために死刑という手段を選んだのか」という問いには、「金川真大の頭が悪かったからだ」という結論が僕の中では出ている。「死ぬために死刑という手段を選ぶ」という、僕からすれば不合理な判断ではなく、抱え続けてきた葛藤や閉塞感から生み出されるもっと合理的な判断によって何か行動を起こしていたとしたら、金川真大にもう少し興味を持てたかもしれない。ただ、頭の悪い人間には、さほど興味が持てない。
本書を読んで僕が気になったのは、金川真大と関わる、あるいは関わらざるを得なかった人々の話だ。記者を始め、遺族・弁護士・裁判官・家族・精神科医など、金川真大と何らかの形で関わる者たちの困惑や葛藤の記録として、僕は本書を読んだ。
本書を執筆した記者の物語として、本書は興味深い。記者自身が、「それはもう、取材を超えていた」と書いているように、彼がしていることは「世間に対して報じる者」としての立場を超越している。同じ人間として、金川真大という存在を許容できないが故に、どうにか自分が理解できる存在にまで金川真大という男を引き下げようと奮闘する。また、死刑制度の根幹を成す「死を恐れる」という感覚を無くしてしまっている(ように見える)金川真大に対し、死刑という刑罰が何らかの意味を持つように、死を恐れたり死ぬことを後悔したりする感覚を植え付けようと努力する。それは、記者自身の内側から「これをせねば」と湧き上がってきた想いだ。自分の行動の意味を振りかえったり、遺族の方の思いを逆なでしているだろうと思ったりと、取材とは言い難い行動を続ける自分自身に対して、それでもこれはやらなければならないんだ、という意志を持って金川真大と関わり続ける記者の奮闘の記録として、本書は興味深い。
そして、金川真大と関わる者の話としては、金川真大の家族の話が一番強烈だ。
たとえば、金川真大には他に3人の兄弟がいるが、彼らの金川真大や家族に対する発言を読むと、ゾワゾワとさせられる。
上の妹「母親のことが嫌い。一生、自分の声を聞かせたくないから、筆談で会話している」
下の妹「家族にも、合う、合わないがある。きょうだいとは、縁を切りたい」
弟「家族の誰かが死んでも、さみしいとはおもわない。今、付き合っている彼女が死んだら、さみしいかもしれない」
金川家に捜査に入った捜査員は、「家族同士で携帯電話の番号も知らない。他人がたまたま同居しているようだ」という、強烈な違和感を抱いたという。
一方で、そんな兄弟を、両親はどう思っていたのか。
母「きょうだい仲は、悪くないと思っていた。子ども同士、仲良くさせるのに、苦労することはなかった。子どもは母である自分のことを分かってくれているし、自分も子どものことを分かっている、と思っていた。」
父「(事件までに、家族が抱えていた一番大きな問題は何だと考えていましたか?と問われ)
特に深刻な問題があるとは思っていませんでした」
子と親で、ここまで認識に差が出るものなのか、と感じた。
僕自身も、今はともかく、親との関係では色々あった。子どもの頃は両親が、特に母親が嫌いだった。しかし僕はそのことを、一切表に出さなかった。僕が初めてそれを両親に伝えたのは、大学進学のために実家を出て二年後、大学三年になる春のことだったと思う。小学校の高学年ぐらいからもう親が嫌いだった記憶があるから、10年近くもそのことを親は知らなかった。
親からしてみれば、青天の霹靂だっただろう。僕は優等生で通っていたから、まさかそんな風に感じているとは想像もしなかっただろうと思う。そういう意味では金川真大の両親の反応は驚くことではないかもしれない、とも思う。僕が両親にそのことを告げる前に、両親が何かインタビューに答える機会があったとしたら、「長男には特に問題はない」ときっと答えていたことだろう。
とはいえ、金川家の場合、はっきりと目に見える兆候が出ていた。上の妹は、母親と筆談でしか話さない。上の妹と下の妹は、ある時から一切会話をしなくなった。その他、両親や兄弟のことを語る子どもたちの話は、はっきりとした殺伐とした関係性が表れている。
ここに怖さがある、と僕は感じた。
子どもからすれば明らかなサインであっても、親にそれは伝わっていない、ということがあるのだと、本書は明確に示している。本書を読むと、父親はちょっと他者への共感力が低い人間に思えるので、一旦除外しよう。しかし、そこまで記述は多くはないが、母親の描写を読めば、母親は子どものことを考え、大事に育てていこうと考えている善良な人間だと思える。その母親は、家族内の「明らかな問題」を、自分なりに納得できる理由をつけて問題視していなかった。家族の問題を認識できていれば金川真大が殺人という手段を取らなかったかと聞かれればそれは分からないが、可能性はあっただろう。
僕らは、金川真大を生み出した家族、という目で金川家を見るので、そういう先入観によって彼らが極悪非道に思えてしまう部分もあるだろう。しかし、事件の前に金川家について知ることが出来れば、印象は違ったかもしれない。金川家は、結果的にモンスターを生み出してしまっただけで、どこにでもある家庭なのかもしれない、と。
そんなことはない、と思いたいだろう。ウチは筆談なんかで会話はしない、と。しかし、母親の認識を思い出して欲しい。多分に願望もあっただろうが、母親は家族の問題を認識していなかった。これを母親だけの問題だと捉えるのは、問題を矮小化しすぎていると言えるだろう。正しくは、明らかなサインがあっても親には問題の兆候が分からないことがある。金川家の事例は、そんな風に捉えるべきなのではないかと僕は思うのだ。社会が夢や希望を内包することが出来なくなってしまった時代に、子どもをどう育てていくのか。本書だけからその答えが得られるわけでは決してないが、そのことに問題意識を向け、考えるきっかけにはなるのではないかと思う。
司法や医学が金川真大をどう捉えるのかも非常に興味深かった。弁護士も検察官も精神科医も、金川真大という存在を持て余す。司法や医学で扱うためには、金川真大を何かしらの枠組みに入れなくてはならない。しかし、金川真大を入れられるような枠組みがどこにもないのだ。最終的に金川真大に対しては、死刑を与えるべきか、という議論になる。弁護士の一人は、「死刑を求めて殺人を犯した者に死刑を宣告するのは、金欲しさに犯罪を犯した者に金を渡すようなものかもしれない」という発言をしている。確かに一理ある。しかし同時に、たとえ本人が死刑を望んでいるのだとしても、遺族感情としてはやはり極刑を望んでしまう。法の整合性の観点から言っても、死刑以外の選択肢はない。
しかし…。
『本当に彼の思い通り、死刑にしていいのか。何とか生きる苦しみを味わわせることはできないのか。そんな思いが次第に強くなっていった』
罪を犯した人間は裁きを受けるべきだ。そんな当たり前の、人間として生きていく限り大前提となるような根幹を成す考え方を揺るがせた金川真大。金川真大は、死刑判決を受けてから3年後に死刑が執行されたという。通常死刑の執行には6年ほど掛かるという。死刑を望んでいた者を、通常よりも早い期間で死刑執行する。それにどんな意味があったのか分からないが、死刑制度の意味そのものを問いかける男だったことは間違いないだろう。
何が正しくて何が間違っているのか、どんどん分かりにくい世の中になっている。彼がその一生を通じて投げかけた様々な問いに向き合うことは、この複雑な社会を生きざるを得ない僕たちに課せられたある種の義務であるのかもしれない。
読売新聞水戸支局取材班「死刑のための殺人 土浦連続通り魔事件・死刑囚の記録」
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