青が破れる(町家良平)
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自分の外側にあるものに、自分の内側にあるものが乱されることがあまり好きではない。良いことも、悪いことも。
悪いことはともかくとして、良いことであっても、それは長く続かないという意味で好きではない。安定しない。いずれ落ちていく。上昇する時は楽しいが、下降する時は辛い。だったら、上がらなくてもいいのではないか。
乃木坂46の齋藤飛鳥は、雑誌のインタビューなどでこんなことをよく言う。
「良いことが起こったら、その後必ず悪いことが起こるじゃないですか。だから、気分が悪くなるような小説を先に読んでバランスを取るんです」
わかるなー、と思う。上向いた軌道は、自然な状態のままでも下降へと向かう。しかし、自然に任せたままだと、どこまで下降するかコントロール出来ない。なら、自分で下降させる、というのはどうか。うまくすれば、安定する平常的な場所までソフトランディング出来る、かもしれない。
「ボクサーのひと」とも呼ばれる主人公にも、少し近いものを感じた。
『他人に関心があるひとのかなしみを、他人に関心がないひとのかなしみを、秋吉さんはどっちもわからない』
彼は友人にそう言われる。
平常であろうとすればするほど、他人に関心を持ちすぎることも、他人に関心を持たなさすぎることも無意識の内に避けるようになっていく。どちらも、自分の内側を乱す要因になるからだ。だから彼は、ダンボール紙の断面みたいな起伏の狭いギザギザ程度の揺れに収まるような、凪いだ感情だけを内包させながら、そこからはみ出す部分はスパッと切り取るようにして毎日を生きている。
『なるほど、すきな女の子の前でこんなにキラキラしつづけなきゃならないなんて。すこしハルオに同情した』
彼は、自分のことを好きではないと彼自身気づいている彼女と、突然池に飛び込むような不可解さを持つ友人と、健康という希望と呪縛から同時に解放された友人の彼女となんとなく関わっていく。彼に主体性はない。他者との関わりにおいては、主体性を端から放棄しているように見える。そうすることで、自分自身が侵食されないというまじないをかけているのかもしれない。
そういう感覚は、僕の中にもある。僕も、他者との関わりにおいて主体性を捨てることで、自分の中の何かを守っている、という自覚がある。
『おれは、一瞬で少年に戻って、傷つけたことを傷ついたことにすり替える速度だけすばやい子どものようになって、たちすくんでいた』
彼の、主体性を捨てることで、自分の中の何かを守る術みたいなものはなかなか卓越している。友人の彼女に言われるがまま添い寝をし、相手が自分のことを好きではないと実感しながら彼女から連絡があるとすぐに出向いてしまう。死を間近に控えた人間を前にしてもさほど動揺しないのは、彼が傷つかないための方法をよく理解しているからだろう、と感じる。
『だれしも嘘はいやがるのに、ほんとうのことを伝えないことはやさしいことだとおもっている』
これはきっと、自分のことも含めてそう言っているのだろうと思う。
他者との関わりとのバランスを取るかのように、彼はボクシングにはストイックだ。いや、ボクシングに、というわけではないかもしれない。ボクシングはあくまでも、ただの手段だ。彼は、自分の努力によって、自分の内側を高めることにストイックだ、と言えるかもしれない。
『だけどほんとうにこわいのは、そんなことを思考してしまうおれ自身だ。きっとおれはいざというとき、おれに還ってしまう。相手のパンチを避けて自分の拳をうちつける一瞬に、ボクシングと一体になって、おれという人格を捨ててボクサーに成りきれなければ、きっと勝てない。おれはおれを捨てないと。
思考は敵だ。』
ここには、はっきりとした主体性がある。他者との真っ当な対話は拒絶する一方で、自らの内側との対話には真剣に取り組んでいく。こう書くと歪に思えるが、現代人の多くはこういう状態に陥っているかもしれない。他者との対話は、「共感」という通貨を抜き取るためだけの手段であって、あとはひたすら内向きに対話を続ける現代人と。
『こんな瞬間の連続で生きているとしたら、おれはおれが心配になった』
「主体性のなさ」と「自由」は等号で結ぶことが出来るのか。彼の生き方から僕は、そんな問いを拾い出した。
内容に入ろうと思います。
本書は、1編の中編と、2編の短編が収録された作品です。
「青が破れる」
ボクサーも目指す秋吉は、友人のハルオに連れられて、ハルオの彼女であるとう子の見舞いに行く。ナンビョーだという。健康であることを諦めたとう子の投げやりな感じを、秋吉はそのまま受け入れる。
付き合っている夏澄さんは、秋吉のことが好きではない。そのことが、秋吉には分かる。けれど秋吉は、呼ばれれば夏澄さんのところへすっ飛んでいってしまう。バランスの悪い関係。
ジムでは梅生とスパーをする。正直、梅生とのスパーは好きではないが、梅生は秋吉とのスパーを好んでいるようだ。梅生が絡んでくるのに任せて、秋吉は梅生とボクシングの練習をする。
それぞれが、少しずつ折り重なるようにして関わっていき、そして唐突に3人が死ぬ。
「脱皮ボーイ」
ホームから転落し、間一髪のところで電車に轢かれずに済んだ男。彼をたぶん突き飛ばしてしまったと言って見舞いにやってきた女。二人は付き合うことになる。男としては、全体的にはラッキーな出来事だった。女は、男と初めてセックスをした日、彼が脱皮することを知った。
「読書」
電車内の男と女は、膝がぶつかった。女は男の方を見なかったが、男は彼女がかつて手ひどく振った女だということに気づいた。女は読書をしていた。正確に言えば、女の上半身は読書に耽っていた。膝から下は、男の存在を感知していた。男は、悩んでいた。このままここに座っていたら、女に気づかれるのではないか…。
というような話です。
いわゆる「文学作品」というのをあまり読まないので、この作品が文学としてどうか、ということはイマイチよく分からない。物語が面白いかどうかと聞かれれば、決して面白いわけではないと思うけど、ただ文章は好きだなと思う。物事をどう捉え、それをどんな言葉で切り取るのか、という感覚がとてもいいなと感じる。
たとえば、こんな描写。
『おれはハルオの、滑稽でなければひとといっしょにいられないとでもおもっているような性癖が、とてもいやだった』
『声を失い、とう子さんもじっと黙ったので、場はしずまった。ふしぎなことだが、季節の変わり目をおれは感じとった。ドアをあけた瞬間、「もう秋なんだな」とおもった。風の温度より、明確な感触の差が、空気ちゅうに満ち満ちていた。人間は、季節のち外を気温なんかでは認識してないんだ、とおれはとつぜんにおもった。』
『ばかじゃないから、わかるけどさ、あたらしいままはままと違うんでしょ?でも、やさしいのよ。ほんとに違うのは、わからないのよ』
こんな感じの描写が、作中に結構あって、僕はそういう切り取り方や表現の仕方が結構好きだなと思う。秋吉がボクシングに向かっている時の思考も、なかなか面白い。物語自体は短いけど、重厚で濃密な感じがするのは、この文章のテイストのお陰だろうと感じる。
物語的には3編とも、僕はなかなかうまく読み取れなかった。まあこれは、国語が大嫌いだった理系人間だからだろうと思う。「青が破れる」の登場人物たちは全般的に変わってて好きなんだけど、彼らが秋吉を真ん中に置きながら関わりあった末に何がどう変化して何がどう変わらなかったのか、というようなことはうまく掴めなかった。そういうことがうまく掴めると、もう少し面白く読めるんだろうなと思う。
「青が破れる」の中で気になったことがある。おそらくこれは作者の意図ではないと思うのだけど、漢字をひらがなに開いたために、多義的な解釈が出来る文章が複数あるな、と感じた。
『だって、ハルくんはかえるでしょ?許せないの。死ぬこととか、病気に選ばれたこととかは、わりに許せるけど、許せるっていうか、許せる許せないのレベルじゃないし、「はぁー、まじか」って感じだけど、ハルくんがきたらかえっちゃうってことだけは、どうしても許せない』
僕は最初、「ハルくんはかえるでしょ?」の「かえる」が漢字に変換できなかった。「変える」なのか「買える」なのか「帰る」なのか。実際は「帰る」である。
『雨の日でも構わずロードワークにはいくが、きょうはきが進まなかった』
ここは、「今日は気が進まなかった」だとすぐ分かったが、最初読んだ時は「今日覇気が進まなかった」って読んでしまって、「???」ってなった。
『目の前にはなすべき他者があらわれると、まったくおれがおれでないくらい、考えることがかわってしまう』
ここも最初、「目の前には成すべき他者が」と読んでしまった。「目の前に話すべき他者」だとすぐにわかったのだけど。
『おれはみ放さない。梅生の感情を、当面、み放さない』
これは最初、意味が取れなかった。「見放さない」だと分かるのにちょっと時間が掛かった。
恐らく、漢字をひらがなに開くことで、一つの文に複数の意味を重ねる、というような意図はないと思う。純粋に、漢字を開く方が読みやすいと判断したのだろうと思う。とはいえ、こんな風にして違和感を覚えて立ち止まる、ということを何度か繰り返すというのは、僕みたいになんとなくすーっと文章を読んでしまう人間にはちょっと面白いかも、とは思った。もちろん、読みにくいな、とも思ったのだけど。
「脱皮ボーイ」では、『その男の子が微かに動くまで、わたしは人殺しだった』という一文が一番好きだ。僕がもし小説を書くとしたら、この文章を冒頭に持ってきちゃうだろうなぁ、なんて思った。まあ、この一文から始めると、物語が文学寄りに進まないような雰囲気を醸し出すのかもしれないけど。
全体的には、物語にではなく文章に惹かれた、というような感じでした。
町家良平「青が破れる」
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