黒夜行

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棺の女(リサ・ガードナー)

少し前、「ルーム」という映画を観た。誘拐された少女が誘拐犯によって、裏庭に建てられた狭い“部屋”に閉じ込められる。そこで性的虐待を受けた少女は妊娠し、“部屋”で子どもを産む。
その子どもにとっては、“部屋”の中が世界のすべてだ。母親から、テレビに映る映像はすべて嘘だと教えられる。壁に囲まれたこの狭い空間だけが世界のすべてなのであり、壁の向こうには何もない。彼はそう思ってずっと生きてきている。
ある日母親はある企みを実行に移し、子どもを“部屋”の外に出すことに成功し、母子共に救出された。
しかし、問題はここからだ。“部屋”から生還した少年は、本物の世界にどうしても馴染むことが出来ない。母親から、テレビに映っていたものは全部本物だ、と言われても、そのことがよく理解できない。“部屋”の外に世界なんてないと思っていた少年にはあまりにも広すぎる世界が、彼にはうまく捉えきれない。そうして少年は、どうにも世界に馴染めない。

彼の苦しみは、「自分が慣れ親しんだ価値観に戻りたい」という地点から発せられる。“部屋”は、母親にとっては最低最悪な環境だったが、子どもにとっては生まれた時からそれがすべてだった。その“部屋”の中で培われた価値観だけで生きてきたのだ。しかし彼は、生還したことで、これまで身につけてきた価値観をすべて捨てることを求められる。今まで正しかったことが間違っていて、間違っていたことが正しかった、そういう大きな変化を迫られたのだ。

少なくとも少年にとっては、狭く汚く薄暗い“部屋”から救出されたことを喜ぶよりも、その空間で培ってきた価値観を手放すことの方が苦痛だったのだ。

アインシュタインは、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションだ」と言ったという。そういう意味で、それぞれの人間が抱えている価値観というのは、どれも偏見に満ちていて歪なのだろうと思う。しかしそれらは、その人が慣れ親しんでいるものなのだ。それを手放せ、と言われることの苦しさは、僕はそういう状況に直面したことがないのでなかなか想像が出来ない。

誘拐された少女である母親の方は、その映画の中では、監禁生活の間もそれまでの自分の価値観を手放さずに過ごせたようだ。正気を保つのは容易ではなかっただろうが、この壁の向こう側にある価値観が正しくて、この“部屋”はおかしいんだという感覚をずっと持ち続けることが出来た。そういう意味で母親の方は、価値観の転換という試練にそこまで直面しなくて良かったと言えるのかもしれない。

しかしもちろん、そうできない人もいる。囚われている環境における価値観に慣れてしまう被害者もいるだろう。慣れることで苦痛を減らせる可能性があるなら当然だ。
しかしその場合、価値観の転換は二度訪れることになる。普通の生活から囚われの環境での価値観の転換、そして、救助されたあと囚われの環境から普通の価値観の転換。

自分がそういう被害者になったことがないから欠片も想像出来ないが、その価値観の転換は相当辛いのだろうと、本書を読んでなんとなく理解した。

ボストン市警殺人課の刑事であるD・D・ウォレンは、ある殺人現場で全裸の女と遭遇する。殺されたのはデヴォン・グールディングというバーテンであり、自宅のガレージで生きたまま焼き殺された。そして殺したのが、全裸のフローラ・デインである。襲われそうになった女性が、抵抗の末化学の知識を使ってデヴォンを焼死させた正当防衛なのだが、ウォレンは納得いかないものを感じた。その思いは、フローラが7年前に誘拐され、1年以上に渡って監禁された末に救助された被害者だった、ということが判明するとより強くなった。有名な誘拐事件の被害者が、今度は男に連れ込まれながらその男を焼死させる。
そんなことあるだろうか?
捜査の過程で、殺されたデヴォンが複数の女性を連れ去っているかもしれない、という痕跡が発見された。もしかしてフローラは、自ら囮となることで、性犯罪者を懲らしめようとしているのではないか。
そんな疑念を抱きながら捜査を続けるウォレンは、あの焼死事件の後家に戻ったはずのフローラが在宅していないことに気づく。部屋中のドアと窓の鍵が開いている。セキュリティを万全にしていたはずのフローラがどう連れ去られたのかは不明だが、明らかにフローラの失踪には第三者が絡んでいるはずだ。
7年前、誘拐され監禁されていたフローラが、何を見て何を知ってどう行動したのか。そして、奇跡の生還を果たしたフローラが一体何の目的で自ら性犯罪者の罠に掛かるような真似をしていたのか。物語が進むに連れて、究極的な状況から「生還」したフローラが抱える恐ろしいほどの葛藤と使命が明らかになっていき…。
というような話です。

なかなか凄い作品でした。ページ数もなかなかのものですが、物語も相当重厚で、重苦しさもあるテーマをエンターテイメントとして読ませる作品に仕上げていると思います。

『わたしは見たくないものをたくさん見た。知りたくないことをたくさん知った。そして犯罪の被害にあうということについて、はじめてはっきりと悟った。それをなかったことにはできない。時間を巻きもどすことも、過去を消すことも、すべてをもとに戻すこtもできない。起こったこと、それらがわたしであり、わたしがそれらなのだ』

本書の物語の圧倒的な中心にいるのが、フローラだ。彼女は、7年前に誘拐され奇跡的に救出された被害者でもあり、性犯罪者を返り討ちにして殺し、さらに再度行方知れずになってしまう。彼女の動向がこの物語を動かし、物語に力を与えているのは間違いない。

フローラの中には、何らかの葛藤がある。そしてそれは、ジェイコブという男に誘拐された472日間に芽生えたものだ。フローラは、長い期間棺に入れられていた。様々な感覚が遮断され、自分を誘拐した男に調教されるようにして、ジェイコブとの特異な関係性を構築していくようになる。

『男の顔を、自分にこんなことをした人間の顔をはじめて見たとき、ほっとする。嬉しささえ感じる』

472日間、フローラにとってジェイコブだけがすべてだった。そういう環境で、棺に入れられ、食事や水をまっとうに与えられなければ、フローラにとってのジェイコブの価値というのはどんどんと変わっていくことになる。ストックホルム症候群という、事件に被害者が加害者に共感してしまうようになる状況は有名だ。フローラも、それと同じような状況に置かれることになる。

『彼が憎い。そして彼が恋しい。彼はわたしの人生にもっとも大きな影響をおよぼした人物であり、これからもずっとそうだ。ほかの人にとってそれは初恋の相手であったり、崩壊した家族であったりするように、わたしにとってはジェイコブなのだ。どこへ行き、何をしても、彼の影がつきまとっている』

フローラは監禁されている生活の中で、自分自身を組み替えた。フローラはジェイコブから「モリー」という名前を与えられていた。そういう環境に長くいたことで、彼女は自分が「フローラ」であることを思いだすことが困難になっていったのだ。「フローラ」と呼ばれていた、農場で狐を追いかけるのが大好きな優しい女の子ではない。「モリー」と呼ばれる、それまでとは違う自分へと生まれ変わっていく。

そしてそのことが、救助された後も苦しみとしてつきまとう。

著者はあとがきの中で、本書のテーマを「救出は試練の終わりではなく、まったく新しい試練の始まりです」という表現で書いている。訳者もほとんど同じようなことを書いている。まさにその通りだ。

『これまでに話を聞いたすべての救出された被害者が、逃げられさえすれば、この試練を耐え抜きさえすれば、二度と苦しむことはないとみな信じていた。そうではないと理解させることがぼくの最大の仕事といってもいいほどだ。生還はゴールじゃない、旅なんだ。そしてぼくが支援した被害者の多くが、まだその旅の途中だ』

FBIの被害者支援スペシャリストであるサミュエルがそう語る場面がある。

サミュエルは、誘拐や監禁などで救出された者を「生還者」と呼んでいる。生還者は、生き抜くためにやれることをやる。救出された後、生還者たちは、自分がしたことに思い悩む。自分が生き抜くためにしたことを自分の内側で処理することができずに。フローラの葛藤も、そこに根がある。
本書の中に、フローラのこんな葛藤が表現されている場面があり、非常に苦しくなる。

『ほんのつかの間、母にもう一度会いたくなった。もうわたしのことは忘れてと伝えるために。お母さん、どうか幸せに暮らして。
でもわたしのことは忘れて。
そうすれば、わたしはもう諦められるかもしれないから。もう頑張るのをやめ、生きるためにこんなにひどいことをしなくてもすむから。ただ消えてゆけるから。
きっとそのほうがましだから。
わたしはひさしぶりに母のために祈った。母がわたしを見つけないように祈った。母がこんなわたしを見ないように祈った。わたしのしたあらゆることを母が決して知らぬようにすむように祈った』

救助された後、フローラはそれまでのフローラとは別人となって、フローラが正しいと信じる行動を取り続ける。フローラが正しいと信じる行動は、周囲から見ると異常でしかない。それでも、フローラは止めることが出来ない。どれだけ危険な状況に追い込まれようとも、フローラは自分の中にある“使命”に囚われて行動してしまう。

『生き抜くことはもうしたくない。
人生を生きたい』

読者は、フローラに翻弄される。読み始めは、フローラの行動原理はまるで理解できない。しかし読み進めると、フローラが抱えている壮絶な葛藤や、“使命”を果たすためにしてきた努力を知ることで、フローラが何に囚われているのかが少しずつ理解できるようになっていく。

フローラを否定することは簡単だ。しかし僕らは「生還者」ではない。「生還者」の経験のない人間には、なんだって言えるのだ。経験したのは、フローラだ。「生還者」となって、それまでの自分と決別したフローラは、自分なりの論理で正しいと思うことをし続ける。その行動を、外部の人間が正しく判断することはとても難しい。

『でもすべての生還者が秘密をかかえている。決して口に出せないことがある。なぜなら、口に出せば起きたことが生々しい現実になってしまうから。他人にとってだけでなく、誰よりも自分にとって』

壮絶すぎる体験を経て、尋常ではない葛藤を抱え、その葛藤に押されるようにして“使命”を果たそうとするフローラと、そんな“被害者”である彼女に遭遇し、その得体の知れさなから捜査を開始するウォレン、そして、まさに誘拐・監禁されている最中のフローラ。これらの物語が、絡まり合って大きな物語を作っていく。僕らは、犯人が逮捕されれば事件は終わりだ、と考えてしまいがちだ。しかし、被害者にとってはそんな終わりはやってこない。永遠に。そういう状況の中、一体どうやって社会の中で生き延びていくのか。その問いかけに真摯に向き合い、答えを見出そうとする、そんな物語だ。

リサ・ガードナー「棺の女」

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9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
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13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
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5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
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小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
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11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
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コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

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1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
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10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
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14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
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17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
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