桶川ストーカー殺人事件 遺言(清水潔)
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事件の存在自体は知っていた。
事件の推移も、なんとなく漠然とは知っていた。
本書を読んで、知らなかったことをたくさん知った。
怒りが、身体中に渦巻いているのが分かる。
『私は別に詩織さんを神聖視などしない。聖女のようなひとだったと言うつもりもない。私が言いたいのは、彼女は本当に普通の、あなたの周りにいるような、善良な一市民だったということだ。彼女は、私やあなたの娘がそうであるように、あらゆる意味で無実なのだ。ストーカー達は彼女を殺した。警察は告訴状を無視し、改竄した。彼女はなにをした?
彼女はただ訴えたのだ。警察に。助けてくれと。』
国だけが暴力を行使できる権利を持つ。そういう発想が、近代国家のベースの一つのはずだ。国家が行使できる暴力の最たるものが、警察や司法だろう。誰かを逮捕し、罰を与えることが出来る。それを、国家だけが行える、ということは、警察や司法には強大な権力が与えられている、ということだ。
『殺人事件の被害者が、犯人を名指しする「遺言」を遺していた』
僕ら市民は、警察という暴力装置が、正しくその暴力を行使してくれることを願うしかない。罪を犯した人間を捉え罰を与え、罪を犯していない人間の安全と平和を守る。そのために警察には強大な権力が与えられているはずだ。
『詩織は小松と警察に殺されたんです』
しかし、その強大な権力が、罪を犯していない人間に向けられたとしたら?あらゆる意味で無実の一市民を貶めるためだけに行使されたとしたら?
『小松を筆頭とするストーカーチームを逮捕したら、警察が何と言われるか目に見えている。
「結局犯人はストーカー達だった。ならばどうして被害者が相談に来たり告訴しようとした時にちゃんと対応しなかったのか。警察は何をしていたのか。きちんとやっておけば猪野さんは死なずに済んだ」
そんな結果が待っていると分かっていて、県警が本気で事件を解決する気になどなるだろうか。むしろ警察は、詩織さんの「遺言」通りの構図などでは事件を決して解決させたくないのではないか』
警察が持つ、暴力という強大な権力が、明らかに誤った方向に使われている。
『ところがその遺品を、国賠請求で訴えられた県警側はまるで違う目的に使用しているのだ。はっきり言えば自己弁護のために、刑事事件ではなく、民事裁判の証拠として、しかも、被害者と遺族に対する攻撃材料として使っているのだ』
著者は、警察よりも犯人を探り当て、さらに埼玉県警の不正を暴いた。彼は、取材が行き詰まる度に、何らかの形で「何か」を受けとる。そんな連続だった。
『私のところに情報を提供してくれた人達は口を揃えてこう言うのだ。
「最初は警察に連絡したんです。でももう嫌です。何から何まで聞くだけで、こちらには何も教えてくれない。向こうが困った時だけ呼び出されるんです。それなのになんであんなに偉そうな態度なんでしょうか…。」』
何かあれば、僕らは警察を頼る以外に方法はない。しかしその警察が、怠慢によって人を殺し、さらにその事実を隠蔽しようとした。
『最終的に警察が描いた絵柄がどんなものか見てみればいい。実行犯久保田が小松武史の指示だと自供。武史の同期は、弟和人を苦しめる悪い女を懲らしめてやるつもりだった。よって和人は無関係、というものだ。その絵柄を最後まで押し通したのだ。現在公判もそれで進行している。和人を絵柄の中から外している限り、詩織さんの「遺言」通りになることはない。それが警察の描いた絵だ。
だが、それが何を意味するか分かっているのだろうか。詩織さんは、名指しして警察にその男からの救いを求めたのに、警察はその男だけ無視するのだ。それは警察の面子によるものなのか。だとしたら、その面子が被害者を二度殺すということになぜ気づかないのか。詩織さんの声は最後まで届かぬままなのか。「犯人」が捕まりさえすればいいのか。「真相」なんてものはどうでもいいのか』
この事件における埼玉県警の対応は、事件の前も、事件の捜査中も、そして裁判中も、すべてが最悪だ。同じ人間と思いたくないくらいだ。もちろん、現場で組織の決定に心を痛めていた人はいただろう。不正に携わったとされた人たちも、重い処分を下されることのなかった上司の指示でやらされたのだろう。本当に、本当に悪い人間は、ごく一部であるのかもしれない。
しかし、もしそうだからと言って、この事件には何も影響しない。現実に、警察の怠慢と不正によって、なんの罪もない一人の女性が殺され、死後も名誉を貶められ、あまつさえ警察の面子を守るために、明らかに主犯だと判明している男を逮捕しないという暴挙を押し通したのだ。
『「でも、俺はおじさんみたいにこういう警察の対応を許せないとは思わないよ。彼らは捜査本部なんか存在しなければ、夕方さっと仕事を終えて、駅前の赤ちょうちんで一杯やるか、家に帰って野球中継でも見るか、そんな普通の人達なんだよ」
それはそうだろう。警察官だって人の子だ。普通で悪いとは全然思わない。だが、だからといって事件があるのに捜査をしない、ましてや事件そのものをなくしてしまおうという奴らをかばって嘘をつくなど許されることか』
僕らも、ミスはする。怠慢であることもあれば、不正を隠蔽したくなることもあるだろう。実際に不正を隠蔽することだってあるはずだ。僕らはいいけど、警察は駄目、という理屈は通らない。通らないと僕も思っているが、しかし冒頭で書いたように、警察というのは国家がほぼ唯一認めている暴力装置だ。警察が世の中の暴力を一手に引き受ける、という条件で、僕らは暴力を禁じられるのだ。僕らから闘うためのすべての武器を奪っておきながら、さらに警察という存在が僕らの“敵”になるとすれば、勝てるはずがない。
僕は本書を読んで、警察にはそういう自覚が皆無なのだ、と感じた。唯一の暴力装置だからこそ、より高い倫理が求められる。それは、そういう職業なのだから仕方ないだろう。
『取材ではありません。伝えたいことがあったから来ただけです。来週発売のFOCUSで桶川駅前の殺人事件の容疑者について重要な記事を掲載します。すでにその内容は捜査本部が十分にご存知のはずです。締め切りは今週土曜です。このことは必ず署長にお伝えください。以上』
この事件は、著者がいなければ間違いなく埋もれていた。「派手好きな女子大生が不幸にも命を落とした」という型に嵌められて終わっていただろう。著者は、詩織さんのイメージを回復させ、事件の真相を見抜いて犯人を特定し、さらに警察の不正を暴いた。本書は、その全記録である。
1999年10月26日、詩織さんは桶川駅前で刺殺された。当初は、通り魔の犯行だと思われていた。著者はFOCUSの記者として取材を続けた。FOCUSは記者クラブに入っていないため、警察からの情報は入手出来ない。いつものことだ。だから著者は、独自に取材を開始することにした。しかし、状況がまるで理解できない。どうやら通り魔ではないようで、詩織さんが執拗なストーカー被害に遭っていたらしいということまではなんとなく分かったが、詩織さんの周辺にいる人は皆一様に口が固く、取材は進まない。
しかし、詩織さんから相談を受けていたという男女から、ようやく話を聞くことが出来ることになった。
そこで著者が耳にしたことは、想像を遥かに絶するものだった。
『私は、あのカラオケボックスの中で、言葉以外の「何か」を受け取ってしまったような気がしていた』
生前詩織さんは、周囲の人間に何度も「私は殺される」と話していた。警察にも相談したが、まともに取り合ってもらえなかった。詩織さんは、警察が力になってくれないことを落胆しながら、それでも毎日前向きに生きようと努力していた。詩織さんに降りかかる嫌がらせは、どんどんエスカレートしていた。外に出るのも怖かったはずだ。しかしそれでも詩織さんは、亡くなる当日まで愛犬の散歩を続けた。普通に生活をしようと、精いっぱいの努力をしていたのだ。
しかし、詩織さんの「遺言」通り、詩織さんは殺されてしまった。
著者の怒りは、まず犯人に向いた。「三流」週刊誌記者が執念を燃やし、警察よりも先に実行犯を特定し、居場所も押さえた。著者の怒りは、警察の発表をただ垂れ流すだけの「一流」のマスコミにも向けられていく。そしてさらに、取材を進める過程で、埼玉県警が不正を隠蔽した可能性に気づく。著者は、警察という権力と闘うべく、再びペンを執り闘うことを決める…。
『週刊誌記者、カメラマンとして、事件取材は嫌になるほどうやってきた。しかし殺人事件の遺族から労いの言葉を掛けてもらったのは初めてだった。大抵の場合はまず逆だ。我々が事実を報じたつもりでも、関係者からすればマスコミはどう転んでも嫌な存在でしかない』
足利事件の冤罪を証明し、警察がその存在を認めていない「連続幼女誘拐殺人事件」の存在をあぶり出した取材を元にした「殺人犯はそこにいる」という作品を読んでも思ったが、著者の執念は凄い。
彼のやっていることは、もう記者のレベルを越えている。じゃあなんだ、と聞かれれば答えに窮するが、敢えて言えば「弱い声を拾い、行動する人」となるだろうか。
著者の執念の根底には常に怒りがある。無念さがある。やりきれなさや理不尽な思いがある。著者は、そういうものに突き動かされるようにして、がむしゃらに行動する。
この事件で最も弱い立場にいたのは、被害者と被害者家族、そして被害者の友人たちだ。彼らは、事件が起こる前から殺人事件が起こることを予感して警察に駆け込むも、手ひどく警察にあしらわれる。事件が起こっても、真犯人を捕まえる素振りを見せない。詩織さんの想いを無視し、警察の都合で事実が捻じ曲げられる。あまつさえ、警察の面子を保つために、応酬した証拠品を使って裁判で詩織さんの印象を貶めるようなことをするのだ。
なんなんだこいつらは、と思う。著者も思っただろう。誰だって思う。しかし、そう思った上で、行動できる人間となるとまずいないだろう。自らの身を危険に晒すことになるとわかっていて、それでもなお実行犯を特定し追い詰めることなど、まず出来ないだろう。
遺族の方からすれば、たしかに著者は、実行犯を特定し埼玉県警の不正を暴いたヒーローだろう。しかし、仮にそういう成果を得られなかったとしても、遺族の方にとって著者は救いだっただろう。
そう、他のマスコミがあまりにも酷すぎる、という意味で。
著者はまえがきで、『週刊誌が嫌い』と書いている。週刊誌記者としての自分の仕事を卑下しているわけではない。その理由を著者はこう書いている。
『派手な見出し、愚にもつかないスキャンダル、強引な取材。イメージで言えばそういうことだ。実際にはそうやって雑誌が作られているわけではないのだが、官庁広報型の「公的なメディア」でないというだけで、そういうイメージが作られてしまっているところが嫌いだ。そういう社会のあり方が嫌いだ』
そしてそれに続けて著者はこんな風に書くのだ。
『だが、この桶川の事件に関わってみて私の思ったことの一つは、その分類の弊害が如実に現れたのがこの事件だったのではないか、ということだ。官庁などが発表する「公的な」情報をそのまま流して「一流」と呼ばれることに甘んじているメディアの報道が、その情報源自身に具合が悪いことが起こったときにどれだけ歪むか。情報源に間違った情報を流されたとき、「一流」メディアの強大な力がいかに多くのものを踏み潰すか。』
この感想の中では触れずに来たが、本書は、「一流」メディアがこの桶川ストーカー殺人事件でどんな役割を果たし(というか、果たせず)、そしてどんな害悪を撒き散らしたのかを指摘する。実際桶川ストーカー殺人事件においては、大部分の非は埼玉県警にあるが、一部は「一流」メディアにあると言っていいだろう。警察が情報を隠蔽しようとする時、警察情報だけを頼りに記事を書く「一流」メディアが、事件の実像をどのように歪めていったのか、著者は丁寧に検証していくのだ。
『それでは記者クラブの構造と同じだ。事件がどんなものかではなく、警察が何を発表するかが大事だというクラブと、「犯人」さえ逮捕すればいいという警察に何の違いがあるのか』
当時著者が所属していたFOCUSは、記者クラブに加盟していなかった。加盟していなければ、警察が行う記者会見にも行けない。警察署を取材しようとしても、非加盟社であるという理由ですべて拒否、警察からの情報がまるで手に入らない、という状態になるのだ。
その状態で著者は、自らの足で稼いだ情報のみで犯人に辿り着く。そして、実行犯が逮捕された後、今まで調べた情報をFOCUS誌上で放出すると、同業他社は度肝を抜かれたという。警察発表しか記事にしない「一流」メディアは、その時点で事件の概要をまるで把握していなかったのだ。記者たちは、桶川ストーカー殺人事件の情報を求めて、FOCUSが発売されると真っ先に買い求めたという。
しかし、ただそれだけのことであれば、まともな取材をしていない社がただ損をする、というだけの話だ。しかし当然、話はそれで終わらない。
『大メディアの流れは急変した。被害者側の訴えなど、知っていてもほとんど記事にしなかった大手マスコミが、狂喜したように県警叩きに躍起になっていた。「桶川事件」がいきなり一面トップであった。しかもその根拠たるやさんざん嘘をついてきた県警が「これが事実です」と発表したことなのだから、ブラックジョークとしか思えなかった。警察の発表だと、どうしてこんなに簡単に信用するのだろうか。それまで県警は嘘を並べ続けてきたのに、それでも県警の発表の方が被害者の父親の会見より真実味があるというのか。詩織さんの「遺言」は記事に出来なくても、警察から文書が配布された瞬間に警察官の行為は犯罪として報じられ、突然事実となるのか…。あまりの変貌ぶりに、私は驚くしかなかった』
大手マスコミは、警察が発表したことだけを信じて記事を書く。それまでにも被害者側が様々な形で訴えてきたことは一切報じず、それらが警察というフィルターを通った後にだけ報じるのだ。著者が指摘したこの状況こそが、埼玉県警の不正を助長したと言っていいだろう。そういう意味で大手マスコミは、埼玉県警と共犯だったと言ってしまっていい。
警察が発表したことが事実になる。警察とマスコミの間で、そういう関係性が出来上がっている。それはつまり、警察が嘘をついても、それが事実になる、ということだ。桶川ストーカー殺人事件で起こったことは、まさにそういうことだった。警察側のあからさまな嘘に、被害者側がどれだけ悩まされ、どれだけ苦しめられてきたのか。100%嘘しかない発表が、大手メディアが報じることで事実となり、桶川事件の実像がどんどん歪められていく。それに加担しているマスコミの責任は重い、と僕は感じる。
『ありがとうございます。詩織のことをひどく書かないでくれて…』
被害者の詩織さんの友人で、著者に詳細な情報を提供した男女が、著者にこういう場面がある。
警察は、詩織さんの殺害が判明してから、記者会見などで詩織さんのイメージを歪めるような発表を次々としていた。「グッチ」などの高価なブランド物を持っていた、「風俗店」で働いていた、などだ。これらは、悪意を持って切り取れば事実ではあるのだが、実情は全然違う。この時警察は、「殺された詩織さんもこんな人間なんだから、殺されても仕方ないのだ」というイメージを植え付けようとして、そういう情報をマスコミに流していたのだ。
警察からそういう情報を入手した大手マスコミは、それをそのまま書く。詩織さんは派手好きで遊び歩いているような女性でしたよ、と。そうやって、何の罪もない被害者である詩織さんのイメージは、警察とマスコミの手によって蹂躙されていったのだ。
記者クラブに加盟できない「三流」週刊誌の記者である著者は、すべての情報を自らの足で拾っていった。その取材で知ることが出来るのは、親思いで誰からも好かれる優しい女性像だ。大手マスコミが報じるような、遊び歩いている詩織さんの話に出会ったことなどない。
著者に感謝した男女は、まさにこのことを言っているのである。
「正しさ」というのは、作るものではない。作られる「正しさ」も、もちろん世の中にはあるだろう。その最たるものは「流行」だ。今これが流行ってる、これなら間違いないという「正しさ」は、間違いなく誰かの作為によって生み出されているはずだ。
しかし、「正しさ」が作られる、という状況は、基本的に歪んでいると考えていいと僕は思っている。「流行」も、歪んでいる。そして、この事件において警察とマスコミは、一体となって「正しさ」を作ろうとした、という意味で歪んでいるし、許してはならないのだと思う。
「正しさ」というのは、化石のようにそこにあるものだ。常に、誰かに掘り出されるのを待っている。その形を崩さぬよう、壊さぬよう、慎重に掘り出すのが「真実を追う者」の役目ではないのか。そこにあるはずの「正しさ」を見ようともせずに、誰かが作った「正しさ」ばかり追うのは、それこそ正しい姿勢とは言えないだろう。
『この事件の真実を求める多くの人たちに、この事件がどういうものだったのか、また、報道を志す人々に、報道する人間が真に持つべき姿勢とはどのようなものか、この本を手にする事で分かって頂けると信じ、心から願っている』
詩織さんの父親は「文庫化に寄せて」という巻末の文章でこう書いている。
この本は、掘り出されるのを待っていた「正しさ」で溢れている。
清水潔「桶川ストーカー殺人事件 遺言」
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[7749] Re: タイトルなし
お久しぶりです!
誰かと思いました(笑)
Oさんも、しばらく考えないと分からなかったしなぁ。
そうですか、Oさんすぐ分かってましたか。
さすがだなぁ。
そちらもがんばってください~
誰かと思いました(笑)
Oさんも、しばらく考えないと分からなかったしなぁ。
そうですか、Oさんすぐ分かってましたか。
さすがだなぁ。
そちらもがんばってください~
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