黒夜行

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一〇〇年前の女の子(船曳由美)

『語り手はこれ以上ない聞き手に出会い、聞き手はこれ以上ない題材を見つけた』

解説で中島京子氏がそう書いているが、まさにその通りの作品だろう。

本書は、実の母親の生まれてからの生い立ちを聞き書きした作品である。語り手である母親は、恐ろしいほどの記憶力で当時の生活の細部や感情の端っこまでを繊細に語る。そして聞き手である著者は、平凡社の元編集者であり、様々な作家と一緒に仕事をしてきた敏腕編集者なのである。
その二人が、100年前の日本の生活を、ありありと描き出す作品を生み出したのだ。

本書の主役である寺崎テイ(著者の母親)は、実家でテイを産んだ実母が、栃木県の高松村に戻りたくなくなったために、生後一ヶ月にして実母と別れ高松村で生活することになった。父はすぐに後妻と結婚するが、後妻の実家が、テイには寺崎家を継がせないこと、という条件で娘を送り出したので、テイは寺崎家にいられないことになってしまう。

『おぶされたその背中は冷たくて固い。おばあさんのように温かく柔らかい背中ではない。だから、固い背中だと感じるときは、かならず、どこかの家に連れていかれるときなのであった』

テイは、わずか5歳にしてあちこちの家を転々とさせられ、やがて落ち着き先が見つかってからも仕事ばかり押し付けられた。

『ここは越えられないのだ、決して渡ることは出来ないのだ、寺崎の家には絶対に呼び戻されることはないのだ…。テイはそう考えて、涙をためて、また南の方の家に帰るのであった』

幼くしてそんな悲壮な覚悟を決めて毎日を過ごしていた少女は、ちょっとした要因があってなんとか寺崎家に戻ることが出来た。常に「母親に捨てられた」「実母に会ったことがない」という寂しさに囚われ、また貧しい村で暮らすことの苦労を感じながら、季節ごとのちょっとした楽しい出来事や学校での行事など、ささやかにテイの気持ちを浮き上がらせる事柄もある。どのみち寺崎家にずっとはいられない運命であるテイは、小学校時代、すべての教科で「甲」を取り続けたその優秀な頭で女学校へと通い、やがて東京で独立して生活するようになり…。
というような話です。

非常に豊かな作品だな、と感じました。基本的には、実在する一人の女性の生涯を綴っているだけの作品なのだけど、全体的に描写の濃密さが凄い。これを娘に語っている時は100歳ぐらいだったはずなのだけど、よくもこんなことまで覚えているなという描写ばかりなのだ。例えばこんな描写。

『ア、よその茶屋に、お客が立ったぞ、とその太鼓の音を聞くや、赤い襦袢のお女郎さんたちが色めき立つ。奥の方のお女郎さんが長ギセルをぽんぽんはたき、格子窓に近づいてくるや、手ぬぐいでほっ被りをしていた若い男の袂にキセルの雁首をひっかけ、くるくるっとねじった。そしてキセルの長い柄を格子の内側に横倒しに押しつけると、もうどんなことをしてもキセルの雁首が袂からふりほどけないのだ』

もちろん、事実がこの通りだったかは誰も確かめようがないし、後々映画などで見たシーンと記憶が入れ替わってるということも当然あり得るだろう。だから、実際の描写であるのかどうかという部分についてはあまり関心がないのだけど、これを語っているテイが、「自分はこういうことを覚えている」というつもりで喋っているわけだ。そういう意識で話したことで本書が出来上がっているとすると、たとえそれが改ざんされた記憶であったとしても凄いものだな、と僕は思うのだ。僕は今33歳だけど、10年前のことだって、こんな風には語れないから、なおさらそう思う。

本書の中で一番グッと来るところは、やはりテイが故郷や実母を想う場面だろう。特に、とある法律の存在により、正式にテイが寺崎家に戻ってこれるようになるまでの、他の家に預けられている間の話は、胸が締め付けられるような気がする。

『もしかして高松に戻れることがあるかもしれない、テイはそのときのためにと幼な心に考えて、必死に道筋を憶えながら走ったのだ』

別の家に連れていかれる時のテイの心情だ。

『しかし、お父っつあんが見ると、そのテイのにぎりこぶしの上にぽたぽた、ぽたぽたと、涙があとからあとから落ちていた。親の前でも声をあげて無くことはしなかったのである。
父は、家の者が田仕事から帰る前の昼時をわざと選んで、ようすを見に来ていたのだ。そして、ああ、これはやはり、テイは連れ戻してやらなければ、と決心した』

他の人の家にやられ、その家の者から適当に扱われながら、必死に仕事をする5歳のテイは、様子を見に来た父の前で静かに泣く。

『こうして、イワというお嫁さんが来たことには来たが、テイにとっては、胸に抱きとめてくれるおっ母さんではなかった。“おっ母さん”と呼ぶこともならなかったのだ』

ずーっと自分の居場所がきちんと定まらないまま生きてきたテイは、甘えるということがほとんどなかったし、出来なかった。実母を想う気持ちや、他家にやられながら故郷を想う気持ちは常にあったが、それを分かりやすく表に出すことは苦手だった。辛抱強い子どもだったが、それ故に脆さも抱えていた。そんなテイが、健気に、必死に生きざるを得なかった幼き日の描写には、非常に切なくさせられる。

テイが再びきちんと寺崎家に戻ってからは、高松村での四季折々の生活が描かれていく。この辺りの描写には特別関心はないのだけど、読みながら考えていたことは「豊かさ」についてだ。

現代は、物質的には非常に豊かだ。欲しいと思っていたわけではないけど便利で楽しいものが山ほど見つかるし、こうしたい、と思った時にそれを実現するためのツールは様々に見つかる。
ただ、物質的に非常に豊かなはずなのに、現代人はあまり豊かそうに見えない。

この作品で描写される日常は、物質的には豊かではない。この高松村は、県全体で電気が通るようになってからもしばらく、電気が通っていなかった地域だ。日本という国全体がそこまで豊かではなかったのだろうが、高松村の周辺は貧しくて、寺崎家はそれなりに豊かだったが、周囲には乞食や物乞いも多くいた。

しかし、そんな人々の暮らしは、ある意味で豊かに思えるのだ。

『このあと、お墓から帰るとき、けっして振り返ったりしてはいけない
(中略)
―ダンゴや供え物を子どもに早く持っていってやりたいんだよ。顔を見られたくないだろう。だから、けっして後ろを見てはならねえよ』

『おばあさんもいつもいっている。
―どんなに汚い姿をしている者でもバカにしてはいけない、そういうヤツは人間のクズだ。コジキだって、来世は仏様に生まれ代わるんだから…。
そういえば村では物乞いでもていねいに“お乞食さま”と呼んだりする。何か理由があって、神様が身を窶して村を訪れているのかもしれないからだ』

彼らは決して、自分たちの生活だけが良ければいい、という考え方をしない。村全体で、さらに直接的には村とは関係ない人も一緒になんとか生きていこう、という発想でいる。常に他者を思いやる心を持っているのだ。

辛い農作業も、節目節目で行事を入れ込むことで息抜きをし、季節ごとの役目や食べ物を大切にし、伝統をきちんと守っていく。確かに彼らの生活には刺激は少ないかもしれない。貧しいが故に気分を高揚させるような出来事が日常の中にほとんどないかもしれない。しかし、生活という土台を疎かにして全力で遊んでいるような現代人よりも、生活という土台にきっちりと力を入れ、毎日を過ごしていくという生き方は、一つの豊かさの実現ではないかと感じるのだ。もちろん、それはある種の理想に過ぎない。都会に住む人間が田舎での暮らしに憧れるけど、実際には田舎暮らしには特有の困難さがある、というのと同じように、大正や昭和の時代にも相応の困難さがつきまとうはずだ。そこにもきちんと目を向けなくては公平ではないのだけど、良い面に内包されている豊かさみたいなものが羨ましく感じられる部分もある。

日本人は、欧米のような生活を目指し、豊かになろうと必死に努力した。日本は先進国となり、先進国の一員として、グローバリズムの波に飲み込まれようとしている。グローバル化は避けられないにしても、「豊かさ」とは一体何であるかを考え、グローバリズムによって失われた「豊かさ」もあるのではないかと、立ち止まって考える時間を作ってみるのもいいのかもしれない。そういう発想のきっかけとなる一冊とも言える。

テイはその後、教育を受ける機会に恵まれ、新渡戸稲造が校長を勤めていた女学校に入学する。女性にも教育を、という時代の流れが生まれ始めたタイミングであり、学ぶことでテイは生きる力を身に着けていった。テイが教育を受けることが出来たのは、結局のところ「寺崎家の跡継ぎにはなれないから」なのであり、結果としてそれはテイのためになったと言えるだろう。実母がテイを置いて行ってしまわず、母子ともに高松村に戻っていれば、テイが教育を受ける機会はなかったかもしれない。テイ自身は、生涯実母への想いは捨てきれなかったようだが、物事がどう転ぶかは分からないものだとも感じる。

ドラマチックなわけでも、スリリングなわけでもありません。恐らくその当時、テイのような少女はどこにでもいたことでしょう。ままならない現実を呑み込みながら、色んなことを「しょうがない」と受け入れて生きなければならなかった少女が。テイはそういう一人であり、現在まで長生きをし、その類まれな記憶力によって当時の生活を細部まで描写することによって、テイ以外の、当時苦労を重ねて成長していった他の少女たちの救いにもなっているのではないか、と思う。本書で描かれているのは、たった100年前の出来事だ。現代と直接繋がっているとは思えないほど違う世界の中で、真っ当な感覚を持った優秀な少女はどのように生きたのか。「豊かさ」とは何か、ということを考えさせながら読ませる本だと思う。

船曳由美「一〇〇年前の女の子」

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小説

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6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
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11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
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13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
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新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
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4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
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小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
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9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

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2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
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5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
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8位 笹本稜平「天空への回廊
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1位 「「科学的思考」のレッスン
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番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)