自閉症の僕が「ありがとう」を言えるまで(イド・ケダー)
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『こういう人たちは、「知恵おくれの自閉症者」がじつはなんの問題もなくものを考えていることが明らかになるのが怖いのだろう。そうなると、彼らは自閉症の見方を変えなくちゃならなくなるから。
ぼくはこれまでずっと専門家を怖がってきた。でも、彼らもぼくの存在を怖がっている―このことに気づいて思わず笑ってしまった』
本書は、重度の自閉症児であり、明らかに知的障害がある、と専門家に指摘された少年が書いたエッセイだ。彼は、外からの見え方とはまるで違い、自閉症児が見事な理解力・思考力を有しているのだ、ということを、その巧みな文章によって証明してみせた。本書は、そんな彼が語る、言葉によるコミュニケーションが不可能だった時代の葛藤から、今抱いている将来への希望などについて綴った、刺激的なエッセイだ。
しかし、そうした部分に触れる前に僕は、専門家、という存在についてあれこれ書いてみたい。
科学者である父から、著者はこんな話を聞いたことがあると書く。
『お父さんからこんな冗談を聞いた。物理学の学生の話だ。この学生は自分の研究について話していたときに、こういったそうだ。
「仮説に合わないデータは捨てました」
もしデータが仮説に合わなかったら、データに合うよう仮説を修正すべきで、データが存在しなかったようなふりをしてはいけない』
この後彼は、これまで彼を診てきた「自閉症の専門家」たちが、彼の存在を「仮説に合わないデータ」として捨ててしまったのだろう、と続ける。
これまでは、自閉症を患った者は理解力・思考力に欠ける者だと考えられていた。こちらが言った指示をまともに返すことが出来ない、単語や概念を理解していない。自閉症を外から観察していた者は、自閉症は知能の問題なのだ、と考えていた。
しかし、出力できる言葉を獲得した数少ない自閉症患者である彼は、そうではないと書く。
『知的障害のある自閉症者もいるのかもしれないけれど、みなさんが考えているほど多くはない。ぼくたちが知能エストで失敗してしまうのは「出力障害」のせいだ。内側で考えていることを正しく外に出せない。出口を見つけた自閉症者はごく少数だ』
『理解できないんじゃない。頭がそんなことを思ってもいないのに、身体が勝手に動いてしまうんだ』
彼は、頭と身体がうまく接続していない、と表現する。頭で思っていること、考えていることが、口や目や手や身体全体にうまく行き渡らない。喋りたいことがあっても喋り方が分からない、目の前にあるものを掴みたいと思っても身体が勝手に別のものを掴んでしまう。
自閉症とは、そういう「出力障害」なのだ、と著者は表現する。
これは、それまでの自閉症に対する理解を根本から覆すものだろう(ただ、その方面には詳しくないので、こういう主張をしていた学者もその時々で多少はいたかもしれない)。長い間、専門家と呼ばれる人たちから見当違いの療法を受けさせられた彼は、専門家という存在に対して疑問を投げかける。
『どうしてある種の人たちは、特別教育に携わる道を選ぶのか、よくわからない。
人によっては、純粋に人助けのためなのだろう。
でも、特別教育の専門家にいやな思いをしたのは、ぼくだけではないはずだ。一部の人にとっては、こういう仕事はほとんど「権力の誇示」でもある。「必要だから」と正当化して抗議できない弱者を支配しつづけるのだ』
なかなか辛辣だが、彼にはそう主張する権利があるだろう。そして同時に、専門家だけを非難するのもまた違うのだろう。彼らにしても、これまでは、自閉症を内部から知る機会はなかったのだ。見当違いの療法がまかり通っていても、殊更には非難できないだろう。
しかし今は違う。今は、イドという名の少年が、自閉症を内側から語り、これまでの常識が間違っていることを明らかにしてくれた。
専門家と呼ばれる人たちの挑戦は、ここから始まるはずだ。イドの存在を「仮説に合わないデータ」として斬り捨てるのか、あるいは、それまでの常識を打ち捨ててイドを起点に自閉症を理解しようとするか。
『そのことを気にするのはやめた。
それはぼくの問題ではなく、彼の問題だと気づいたから。
その人は自閉症について学ぶ機会があったのに、無知でいることを選んだのだ』
そう厳しい意見を言うイドだが、その一方でこんな風にも書いている。
『ぼくの努力はまだ終わっていないけれど、いまならぼくの手助けをしてくれるよう専門家の先生たちを導くことができる』
これまで散々な目に遭わされてきた専門家たちを、「導くことができる」と書く少年。この文章を書いた時、イドはまだ12歳だ。どれだけイドの内的世界が豊かであるか分かるだろう。
イドの母親は冒頭でこんな風に書いている。
『本書の目的は、専門家たちが長いあいだかかえてきた思いこみに挑戦することです』
イドは巻末で、こんな風に書いている。
『専門家の意見は、親が自分の目で見ているものとはちがうかもしれません。
専門家のかかげる目標はときに低く、最低限のゴールしか設定しない場合があります。その結果、実現できることもわずかになることがあります。
ぼくはこのパターンを打ち破りたいのです。』
僕は学生時代理系の人間で、理系の本も好きで結構読む。科学の歴史というのは基本的に、それまで信じられてきた常識を覆す歴史の連続だと言っていい。自閉症の常識も、イドの登場によって覆された。こうやって、学問は切り拓かれていくのだろう。イドはまだまだ苦労の連続だろうが(未だに、イドに知能があることを信じない者がいる、という事実だけ見ても、相当大変だ)、彼が新しい知見を切り拓いていってくれることを願う。
イドは、7歳の時に、実は知性があるのだ、ということを偶然母親に伝えることが出来た。母親はその事実を信じた。あらゆる専門家の話をはねのけ、イドとイドの母親は様々な奮闘を繰り広げ(ただろう、おそらく。本書にはその様々な奮闘の具体例はそこまで書かれていないが)、ようやく、本書のようなエッセイを書けるまでにコミュニケーションが取れるようになった。
そうなる以前、イドはどう感じていたのか。
『自分の頭がまともだということを知っているのは自分だけなのだ。
断言できるけれど、これは一種の地獄だ』
それはそうだろう。地獄だ、という表現は大げさではないはずだ。
イドは、自閉症者は井戸の底に閉じ込められているようなものだ、と表現する。井戸の底に閉じ込められている者の場合、身体全体が拘束されている。しかし自閉症者の場合は、身体は拘束されていないが、頭だけが井戸の底に閉じ込められているのだ。自閉症者が頭の中で考えていることは、井戸の外に出ることはない。だから、誰にも分からない。
『なんの希望もなかったから、ぼくの内側はゾンビみたいだった』
身体が全部井戸に閉じ込められたことを想像してみても恐ろしいだろう。イドはほとんど同じような状況を、周りにたくさんの人がいるのに感じざるを得なかったのだ。
想像できることではないが、ちょっと想像して見るだけでも、それは恐ろしい状況だと思う。
『この本のメッセージは、自閉症についての世の中の誤解を正し、理解を深めてもらうことでした。自閉症というのは運動能力の障害であって、知的障害ではないのです。
ぼくの身体と脳は正常につながっておらず、そのためにぼくの脳は身体にどう動けばいいかを伝えるのが苦手なのです。その結果、みなさんが非言語型の自閉症に見るようなものになってしまっています』
このことを、自閉症者自らが伝えることが出来たのは、とても大きなことだ。彼は、『ぼくの行動を、ぼくが話しているように見てほしい。それがいちばん筋が通っているとわかるはずだ』とも書く。彼自身にも説明のつかない事柄はあるものの、イドは自分の言動を実に冷静に捉え、分析していく。12歳とは思えない聡明さを感じさせるのだ。
『小さなこどもが気づいているなんて、信じてもらえないかもしれない。
だけど、ぼくはすごくものごとを観察しているので、だれよりもいろんなことに気づいている。しゃべれないから、いろんなことを注意して見ないといけないのだ。そうじゃないと気が狂ってしまうから』
彼はその知性と観察力で、自分自身についても、さらには周囲の人間についても様々なことを分析している。「そうじゃないと気が狂ってしまうから」というのは、本当に切実な心の叫びだ。結果的に彼は「声」を獲得し、それまで考え続けてきたことを言葉として表に出すことが出来るようになった。それは本当に幸運なことだった。
そして彼は、その幸運を、他の自閉症者にも分け与えたいと思っている。
『もしぼくが発言することが、彼を解放するきっかけになるのなら、人前に出る怖さを克服するだけの価値はある』
『かつては絶望していたけれど、いまでは希望を持っている。
この希望をもっと多くの自閉症の人たちにも持たせてあげたい。そうするだけの価値はある。
そうでなかったら、これほど恥ずかしがり屋のぼくが、プライバシーがなくなることや、偏見を持った人たちから不当に判断されることがわかっていながらこの本を書いたりはしない』
イドの母親は冒頭で、『イドが書いたものは、わたしたちに自閉症について教えてくれるという意味ですばらしいだけではなく、彼の精神的成長と自己受容の旅を物語ヒューマン・ストーリーでもありました』と書くが、まさにその通りだ。イドは、「声」を獲得し、思考を表に出せるようになるまでは「心がゾンビ」だった。しかし今は、『思っていることを世界に発信できるので、心は自由だ』と言う。そして、「声」という伝達手段を獲得することで、イドは、他の自閉症者にも「声」を与えるという目標や、自閉症というものを内側から語ることで専門家を導くという使命などを獲得し、それまでとはまるで違う人生を歩み始めた。イドは心の中で、様々な問題と対峙し、解決し、様々な困難を乗り越えていく。それに伴ってどんどん強くなっていくイドの心の有り様が素晴らしい。
例えば、中学を卒業し、普通高校に入学することになったイドは、入学前や入学してしばらくは、自分が受け入れられていないことを感じ取り、落ち込む。しかしやがてイドは、こんな風に考えるようになる。
『いまの高校にいると、いやでもたくましくなっていく。
「ここでは歓迎されていない」と思ったから、最初はみじめだった。
だけど、成功するためにはなにも歓迎される必要はないのだ、という結論に達した。
特別教育の教育者の世界と向きあうなら、もっと図太くなったほうがよさそうだ』
また彼は、自分をとりあえず受け入れてくれた学校に対しても、こんな風に感じる。
『学校側は、ふつうの生活を送ろうと努力している障害児をサポートすることに、誇りを持ってくれてもいいのに。
なのに、彼らは障害のある子を「頭痛の種」とみなし、ぴかぴかのキャンパスから出て行ってくれればいいのに、と願うのだ。
気の毒な人たちだ。子どもたちに手を差し伸べる能力にみずから限界を設けているのだから』
彼は、自分が特別扱いをされるべきだ、なんてことを主張しているわけでは当然ない。状況を客観的に判断して、自分をサポートすることに価値を見出だせないのはもったいなくはないだろうか、と疑問を呈すのだ。障害を持つ者の権利を殊更に主張するでもなく、権威に屈するでもなく、中立的な視点で物事を捉えることが出来ている、というところが素晴らしいと思う。
書きたいこと(というか、引用したい部分)は非常に多いのだけど、最後に、著者が自身の自閉症という障害をどう捉えているのかを引用して終わろう。
『認めたくはないけれど、自閉症はぼくにいいことももたらしてくれた。
沈黙の世界で、ものごとを深く考えることを学んだ。
まわりの人たちとその環状を観察して理解することを学んだし、この病気がすべての終わりじゃないこともわかった。
取り組むことができるとわかっている難題にすぎないのだ。
幸せになる秘訣は、自己憐憫をやめることだ』
『小さな奇跡が積み重なって大きな贈りものになる。
与えられた贈りものを自覚しながら暮らすことが、悲しみに抗う武器となるのだ。
しょっちゅう悲しんでばかりいる人は、与えられた幸運にフォーカスしてみてほしい』
僕は、「彼みたいな障害児だって頑張ってるんだから、あなたも頑張ろう」みたいなことを言うのは好きではない。そうではなくて、ここで彼が言っていることは、彼が障害児であるかどうかに関係なく真実であり、普通に生きていると忘れがちな真実だ、と思うのだ。彼は、障害を持って生まれたからこそ、10代という若さでこれだけの境地に達することが出来ている。僕らも、人生の色んな場面で悔やんだり嘆いたりすることだろう。しかし、「自己憐憫をやめ」、「与えられた幸運にフォーカス」する、という意識を忘れないようにすれば、前に進んでいけるのではないか。
そんな希望を抱かせてくれる作品だ
イド・ケダー「自閉症の僕が「ありがとう」を言えるまで」
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