「怒り」を観に行ってきました
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人を信じることは、とても難しい。
僕は人と関わる時、「裏切られてもいいや」と思って接している。
人を信じることは、とても難しい。でも、人を信じないまま生きていくこともまた、とても難しい。人は生きていく中で、様々な形でこの葛藤を乗り越えるのだろう。無邪気に人を信じれる人、どうしても信じられない人、ある程度距離が縮まったら信じる人、本当に親しい人しか信じない人。
僕は、信じてもいないが疑ってもいない、というスタンスを取ることにしている。
人を信じることが難しいのは、裏切られることを恐れるからだ。自分が信じた相手が、自分をどう見て、どう思って、どう判断しているのか、基本的には分からない。いつか裏切られるかもしれない、あるいは、もう既に裏切られているのかもしれない。そう思うことは、とても大変だ。だから、信じることに慎重になる。
裏切られることさえ恐れなければ、人間関係は楽になるな、と考えるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。全然覚えていない。どんな人と関わる時でも、相手のことを信じていない。信じていないが、疑ってもいない。どちらでもない。そういう風に自分を持っていくと、裏切られることがどうでもよくなる。まあもちろんこの態度も、信じることを恐れる態度の延長線上にあるだろう。
『本気って、目に見えないからなぁ』
信じる、というのも、なかなか目に見えない。信じていると口に出しても、信じているという態度で振る舞っても、それで相手に「信じている」ということが伝わるかどうかはまた別の問題だ。
『まあ、お前がどう答えたって、それをどう受け取るかは俺次第なんだろうけどなぁ』
だから、人間同士の関係は難しい。とても難しい。
誰かを信じたことで人生を棒に振った人間もいる。
誰かを信じられなかったことで人生を棒に振った人間もいる。
それでも僕たちは、常に何かを決断して進んでいくしかない。
人を信じきれなくて後悔するのと、
人を信じて裏切られるのとでは、どちらがマシだろうか?
映画を観ながら、ずっとそんなことを考えていた。
僕は、人を信じて裏切られる方がマシだ、と考えているのだろう、きっと。
人を信じて裏切られるのは、まだ自分を責めずに済みそうな気がする。結果的に未来への希望を失ったが、俺は相手のことを信じたのだ、という部分が、自分の傷口を癒やすように思う。
しかし、人を信じきれなくて後悔する場合、何かキラキラした未来を失うのと同時に、俺はあいつのことを信じてやれなかった、という塊が、自分の内側にずっと残りそうだ。その塊を手放すことがずっと出来なそうな気がして、そういう選択を選びたくないと思うような気がする。
信じていたのに裏切られた者。
信じようとして信じきれなかった者。
この映画では、人を信じる、ということの難しさが、様々な人間の人生を壊していく。
八王子夫婦殺人事件から1年。容疑者である山神一也の行方は、杳として知れない。警察は、未解決事件の情報をテレビを通じて集めることにし、山神の変装姿や整形後の姿などを想像して写真を公開した。
同じ頃。千葉・東京・沖縄の3箇所にそれぞれ、謎の男が現れた。
槇は、失踪した娘・愛子を歌舞伎町の風俗店で見つけ、連れて帰る。愛子がいなかった間に、田代という男が漁港にきて仕事を始めていた。前歴はよく分からないしあまり喋らないが、よく働く男だ。槇も、アルバイトではなく正社員で雇おうと考えている。そんな田代のことを、愛子は好きになっていく。毎日手作りした弁当を田代と食べる日々…。
優馬は、ゲイが集まるパーティーに繰り出しては男漁りをしていた。ある日出会った男・直人が、住む場所を転々しているという。うちに泊まればと声を掛けて、一緒に住むようになった。直人と一緒に住むようになって、優馬はよく家にいるようになった。ホスピスにいる母親の元にも連れていき…。
東京から母親と一緒に沖縄に逃げるようにやってきた泉は、同級生の辰哉と一緒に無人島に行く。そこで泉は、田中と名乗るバックパッカーと出会う。しばらくこの島に住んでいるという。泉は田中の雰囲気に惹かれ、度々島までやってくる。辰哉と共に那覇に行った泉は、そこでばったり田中と会い飲みに行くのだが…。
田代、直人、田中。誰かが、八王子夫婦殺人事件の犯人だ。
というような話です。
原作小説と映画の比較で、感想を書いていこうと思う。
個人的な意見では、原作小説の方が好きだ。
これは、物語の構造上、ある程度仕方ないと僕は感じる。
この物語は、ストーリーそのものに核があるわけではない。核は、人間関係の中にある。
田代、直人、田中。この三人は、千葉、東京、沖縄というまったく関係のない地に現れ、それぞれの物語は最後まで交わることなく物語が閉じる。この三人を繋ぐものは、「八王子夫婦殺人事件の犯人かもしれない」という、読者や観客だけが持っているメタ的な視点のみだ。
田代、直人、田中の三人は、それぞれの場所で人と関わっていく。田代は愛子と、直人は優馬と、田中は泉と。素性の知れない三人は、ごく狭い範囲でしか人と関わらない。そういう風に、世の中の隙間に隠れるようにして生きている。
彼ら三人の、その狭い狭い関係性が濃密に濃密に描かれるほど、この物語は力を持つ。この物語は、小説でも映画でもそうだが、「誰が犯人か?」というような興味で引っ張る作品ではない。物語を追いながら、誰もが恐らく、「誰も犯人でなければいいのに」と思うのではないか。誰も犯人であって欲しくない、そう思えば思うほど、ラスト物語が閉じた後の余韻が強く残る。誰だったのか、が問題なのではない。この三人の中に犯人がいるのだ、という失望みたいなものが、読む者・観る者を捉える。
そして、そういう視点で見た場合、小説の方がそれをやりやすい。映画は2時間半近くあり、映画の中では長い方だと思う。しかし、物語の分量に制約のない小説の方が、より描きこむことが出来る。「誰も犯人でなければいいのに」と思わせるだけの描写を、より一層詰め込むことが出来る。だから僕は、この物語は特に小説の方が合う、と感じる。
映画の方は、「言葉では表すことの出来ないモノ」によって組み上げられているという印象が強く、その点がとても良かった。愛子が漂わせる不幸せなオーラ、ある出来事があった後の泉の心情、直人をどう受け入れていいか戸惑う優馬の仕草。そして、愛子、泉、優馬の号泣。これらはどれも、文字では立体的に描き出すことがとても難しいだろう。この物語には、どうにも割り切れない様々な感情や想いが漂っている。それらを文字で描く場合には、なんらかの割り切りをしなければ言葉に落とし込むことは出来ない。しかし、表情や声や仕草であれば、それらを割り切らないまま表現することが出来る。なんだか分からない割り切れないものが全編に漂うこの雰囲気は、映画だからこそという感じがした。
3つの物語ではそれぞれ、何らかの形で「諦め」が描かれている。「諦め」という言葉で、どうにもならない現実を受け入れてしまっている人々が描かれている。とても大きな何かを諦めながら、それでも生きていく。それは決断ではなく、受容だ。受容に慣れ、慣れていきながら、淡々と毎日を過ごしていく。
その中で最も惹かれるのが、愛子の物語だ。
『愛子が幸せになれるはずないって思ってない?』
槇は娘の愛子を可愛がってはいるが、しかし同時に哀れんでもいる。愛子は、ちょっと普通ではない。それは、この辺の人なら誰でも知っている。愛子自身でさえ、わかっているのだ。
『私なんかが普通の人と幸せになれるわけないの』
そういう諦めを、槇も愛子もずっと抱えながら生きてきた。恐らく二人とも、その状況が将来的に変わる可能性があるとは、想像もしていなかっただろう。
そこに、田代という要素が代入された。
田代は時間の経過と共に、様々に形を変える。田代自身が変わるのではない。田代を見る槇と愛子の見方が変わるのだ。そしてそれぞれの形ごとに、田代の知らないところで槇と愛子を揺さぶっていく。
自分の娘の幸せを願いながら、同時に諦めている父親。そして、幸せになれないんじゃないかという思いを抱えながら、幸せへの可能性に手を伸ばそうとする娘。二人が掴み、手放したものは何なのか。愛子の号泣が、人を信じることの難しさを雄弁に物語る。
この映画で描かれていることは、どこかで起こっていることかもしれない。そして、僕たちの近くで起こっていることかもしれない。そうであっても、決しておかしくはない。
「怒り」を観に行ってきました
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Comment
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返信遅くなりました~。なんだか一気に気温が下がりましたね。
映画はやっぱり、尺的に難しいなと思いました。もし4時間の映画を作れたら、映画が原作を超える可能性もあると思います。それぐらい、役者の演技から凄みを感じました。まさにドラさんが言うように、人を信じることの重さを突きつける内容で、犯人であってほしくないなと思いながら読んだり観たりしました。
吉田修一の初期の作品はあまり読んでないんですけど、重厚な作品の方が雰囲気合うなと思います。ちゃんと解決が与えられるような作品が少ない印象があります。それで作品を成立させてしまう巧さがありますね。
僕も、原作のある映画はあんまり見ないですね。見るとしても、映画を見てから原作を読むと思います。今まで、映画の方が上だと思ったのは、湊かなえの「告白」と、伊坂幸太郎の「フィッシュストーリー」です。この二つは、原作を超えたなぁと思います。
映画はやっぱり、尺的に難しいなと思いました。もし4時間の映画を作れたら、映画が原作を超える可能性もあると思います。それぐらい、役者の演技から凄みを感じました。まさにドラさんが言うように、人を信じることの重さを突きつける内容で、犯人であってほしくないなと思いながら読んだり観たりしました。
吉田修一の初期の作品はあまり読んでないんですけど、重厚な作品の方が雰囲気合うなと思います。ちゃんと解決が与えられるような作品が少ない印象があります。それで作品を成立させてしまう巧さがありますね。
僕も、原作のある映画はあんまり見ないですね。見るとしても、映画を見てから原作を読むと思います。今まで、映画の方が上だと思ったのは、湊かなえの「告白」と、伊坂幸太郎の「フィッシュストーリー」です。この二つは、原作を超えたなぁと思います。
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私は小説を読み、映画は見ていません。やはり原作には及ばないだろう、という諦め(笑)があるからです。この作品を2~3時間に収めるのは無理ですよね。3か所で同時進行のような形で物語が進み、どの人物も怪しい要素充分でしたが、私もできれば皆シロであってほしいと思いながら読みました。
人を信じることの重さを問うような進行でしたね。吉田さんは、デビュー当時はかなり淡泊な作品を発表されていたと思いますが、「悪人」辺りから変わってきて、ここまで重い作品を書かれるのか、と驚きました。
通りすがりさんは映画をたくさんご覧になっているようですね。私はシルバー料金で入場できる年齢になりました(泣)が、原作が気に入った作品は映画化されても、ほとんど見ていません。「映画は原作とは別、と思ってみれば良いんだよ」と息子が言っていましたが、なかなかそういう風には考えられません(汗)。困ったものです!!