寡黙な屍骸 みだらな弔い(小川洋子)
偏執、という言葉が、無駄な部分を残さないまま、ぴったりと当てはまる。小川洋子の作品には、偏執、が常に付きまとう。
僕らは現実の世界を、シンプルに、シンプルだと信じるように捉えようとする。その人の常識に従って、もっともわかりやすい形で物事を捉える。ありとあらゆる言葉や関係を駆使しながら、これがシンプルなんだと信じようとする。
報道番組を見ていると、それをよく感じる。ニュースなどは、いかにわかりやすい形で物事を切り取り、編集するか、そのことしか考えていない。少年が犯罪を起こせばゲームや教育を非難し、社会的地位のある人の犯罪をことさら大げさに取り上げる。動機の見当たらない犯罪を許容せずに、無理矢理にでも何かを探り当てようとする。そうしたやり方をテレビ側がし続けた結果、僕ら見ている側は、そういった欺瞞や工作を気にも留めないままに、テレビの伝えることを真実だと捉えるようになってしまっている。
ニュースで伝えていることは、シンプルに見える形で世の中を切り取っている。そう信じている人が多いような気がするのだ。
もちろん、それは間違っている。
世の中にはびこるシンプルさは、本来のあるべき姿では既にないように思う。長い年月を掛けて、権力者や金のあるものが、自らの利益のために、あらゆる手段をもって人々を洗脳した結果ではないか、と僕は思っている。
何故こんな話をしているかと言えば、小川洋子の作品には、そうした失われた本来のシンプルさが、文章の隙間から這い出るように存在しているように僕には感じられるからだ。
それが、今の僕らには、偏執だと映る。きっとそういうことだと僕は思った。
偏執、という言葉は、どうにも悪い印象を与える。ストーカーのような存在をイメージするからだろう。つまり、偏執さが人に何らかの危害や影響を与える、という認識が広まっているためだろう。
しかし、偏執というのは本来そうした意味合いではなかったはずだと思う。例えば、部屋に籠って研究に没頭したり、飽きもせずに本を読み続けたりといった類のことをそう呼んでいたのではないだろうか。
つまり、行き過ぎた探究心こそが偏執である。
小川洋子は、そうした人間の偏執さを、一層に深め濃くし、そうして小説に扱っているという印象である。
小川洋子という作家は、「博士の愛した数式」という作品で有名だと思うが、寧ろあの作品は例外中の例外だと言ってもいいだろう。他の作品にはどれも、何かしらの偏執さが、静かに、それでいて深く描かれているのである。
本作は、11の短編からなる連作短編集であるが、どの作品からも、漂うような、匂い立つような偏執さを嗅ぎ取るだろう。それが、何故か透明な文体で静かに包まれ、異様さや不快感を剥ぎ取られて、僕らの目の前にやってくる。
それぞれの内容を紹介しようと思うけど、どうにも難しいので、作品の雰囲気を漂わせる単語をいくつか並べることで紹介に替えようと思う。
「洋菓子屋の午後」
店主のいない洋菓子屋。冷蔵庫の中で死んだ息子。苺のショートケーキ。時計台のある街。背中を向けて泣く女。
「果汁」
あまり親しくないクラスメイト。知らない男性との三人での食事。ひそやかさを身に付けた少女。部屋に積み上げられたキーウィの果実。
「老婆J」
向かいの部屋に住む大家の老婆J。キーウィ畑。老婆Jの度々の来訪。小説。手の形をした人参。
「眠りの精」
止まったまま動かない電車。静かな車内。電話で知らされた、一時母だった女性の死。動物園に行った記憶。小説を書いていた母。
「白衣」
秘書室のパートナー。呼吸器内科の助教授との不倫。進まない離婚話。電車が止まったという言い訳。汚れた白衣。ポケットから落ちるモノ。
「心臓の仮縫い」
どんな鞄でも作ることのできる職人。心臓の鞄。心臓が外に飛び出した女性。その美しさに張り切る職人。手術を受けることになる依頼人。鋏を持ち病院に佇む職人。
「拷問博物館へようこそ」
階上で起きた殺人事件。彼氏の機嫌を損ねてしまった会話。飛び出した部屋と辿り着いた拷問博物館。居並ぶ拷問器具。正装した執事。
「ギブスを売る人」
評判のよくない叔父。お土産をくれる叔父。背の伸びるギブス。拷問博物館とベンガル虎。ゴミに埋もれた叔父。
「ベンガル虎の臨終」
呼吸器内科の助教授の妻。不倫相手の女性の元へと車を走らせる。道路に散らばるトマト。ぐしゃりと潰れるトマト。ふと迷い込んだ庭先で、息絶えようとするベンガル虎。
「トマトと満月」
チェックインした部屋に何故かいた女性。連れられた犬。拾ったトマト。度々顔を合わせる犬を連れた女性。胸に抱いた、大事な原稿用紙。
「毒草」
美しい声の少年。奨学金の申し出とその対価。少年を呼んで、その声を聞く。引き込まれそうな美声。迷いと不安の入り混じった電話。途絶えた関係。整然と並ぶ冷蔵庫。
僕が好きな話は、「白衣」と「心臓の仮縫い」です。この二つは、驚異的に怖いです。そして読んだ人に、深い印象を残すだろうと思います。あと、「ベンガル虎の臨終」「トマトと満月」「毒草」も、小川洋子らしいです。後半の作品の方がいいですね。
本作の最大の特徴は、それぞれの短編が、他のいくつもの短編と関係を持っていることでしょう。絡まりあい、もつれ合った関係や時間が、ひそやかに物語に染み込んで、なんとも言えない深みを生み出しています。
小川洋子の作品は、その文章も不思議さ醸し出す要因です。現実を塗り込めるかのような均整の取れた自然さが、小説に取り込めば不自然にすらなってしまいそうな完璧な自然さが、その穏やかで深みのある文章によって釣り合いが取れているような、そんな不思議な印象を与えてくれます。
本作は、構成こそ目新しいけど、やはり地味な作品だと思います。それでも、読んでいて不思議な世界に引き込まれていきます。「博士の愛した数式」で小川洋子を知ったという人には、他の小川洋子の作品はどうかなって感じだけど、そうでない人にはなかなかいいんではないかと思います。
小川洋子「寡黙な屍骸 みだらな弔い」
僕らは現実の世界を、シンプルに、シンプルだと信じるように捉えようとする。その人の常識に従って、もっともわかりやすい形で物事を捉える。ありとあらゆる言葉や関係を駆使しながら、これがシンプルなんだと信じようとする。
報道番組を見ていると、それをよく感じる。ニュースなどは、いかにわかりやすい形で物事を切り取り、編集するか、そのことしか考えていない。少年が犯罪を起こせばゲームや教育を非難し、社会的地位のある人の犯罪をことさら大げさに取り上げる。動機の見当たらない犯罪を許容せずに、無理矢理にでも何かを探り当てようとする。そうしたやり方をテレビ側がし続けた結果、僕ら見ている側は、そういった欺瞞や工作を気にも留めないままに、テレビの伝えることを真実だと捉えるようになってしまっている。
ニュースで伝えていることは、シンプルに見える形で世の中を切り取っている。そう信じている人が多いような気がするのだ。
もちろん、それは間違っている。
世の中にはびこるシンプルさは、本来のあるべき姿では既にないように思う。長い年月を掛けて、権力者や金のあるものが、自らの利益のために、あらゆる手段をもって人々を洗脳した結果ではないか、と僕は思っている。
何故こんな話をしているかと言えば、小川洋子の作品には、そうした失われた本来のシンプルさが、文章の隙間から這い出るように存在しているように僕には感じられるからだ。
それが、今の僕らには、偏執だと映る。きっとそういうことだと僕は思った。
偏執、という言葉は、どうにも悪い印象を与える。ストーカーのような存在をイメージするからだろう。つまり、偏執さが人に何らかの危害や影響を与える、という認識が広まっているためだろう。
しかし、偏執というのは本来そうした意味合いではなかったはずだと思う。例えば、部屋に籠って研究に没頭したり、飽きもせずに本を読み続けたりといった類のことをそう呼んでいたのではないだろうか。
つまり、行き過ぎた探究心こそが偏執である。
小川洋子は、そうした人間の偏執さを、一層に深め濃くし、そうして小説に扱っているという印象である。
小川洋子という作家は、「博士の愛した数式」という作品で有名だと思うが、寧ろあの作品は例外中の例外だと言ってもいいだろう。他の作品にはどれも、何かしらの偏執さが、静かに、それでいて深く描かれているのである。
本作は、11の短編からなる連作短編集であるが、どの作品からも、漂うような、匂い立つような偏執さを嗅ぎ取るだろう。それが、何故か透明な文体で静かに包まれ、異様さや不快感を剥ぎ取られて、僕らの目の前にやってくる。
それぞれの内容を紹介しようと思うけど、どうにも難しいので、作品の雰囲気を漂わせる単語をいくつか並べることで紹介に替えようと思う。
「洋菓子屋の午後」
店主のいない洋菓子屋。冷蔵庫の中で死んだ息子。苺のショートケーキ。時計台のある街。背中を向けて泣く女。
「果汁」
あまり親しくないクラスメイト。知らない男性との三人での食事。ひそやかさを身に付けた少女。部屋に積み上げられたキーウィの果実。
「老婆J」
向かいの部屋に住む大家の老婆J。キーウィ畑。老婆Jの度々の来訪。小説。手の形をした人参。
「眠りの精」
止まったまま動かない電車。静かな車内。電話で知らされた、一時母だった女性の死。動物園に行った記憶。小説を書いていた母。
「白衣」
秘書室のパートナー。呼吸器内科の助教授との不倫。進まない離婚話。電車が止まったという言い訳。汚れた白衣。ポケットから落ちるモノ。
「心臓の仮縫い」
どんな鞄でも作ることのできる職人。心臓の鞄。心臓が外に飛び出した女性。その美しさに張り切る職人。手術を受けることになる依頼人。鋏を持ち病院に佇む職人。
「拷問博物館へようこそ」
階上で起きた殺人事件。彼氏の機嫌を損ねてしまった会話。飛び出した部屋と辿り着いた拷問博物館。居並ぶ拷問器具。正装した執事。
「ギブスを売る人」
評判のよくない叔父。お土産をくれる叔父。背の伸びるギブス。拷問博物館とベンガル虎。ゴミに埋もれた叔父。
「ベンガル虎の臨終」
呼吸器内科の助教授の妻。不倫相手の女性の元へと車を走らせる。道路に散らばるトマト。ぐしゃりと潰れるトマト。ふと迷い込んだ庭先で、息絶えようとするベンガル虎。
「トマトと満月」
チェックインした部屋に何故かいた女性。連れられた犬。拾ったトマト。度々顔を合わせる犬を連れた女性。胸に抱いた、大事な原稿用紙。
「毒草」
美しい声の少年。奨学金の申し出とその対価。少年を呼んで、その声を聞く。引き込まれそうな美声。迷いと不安の入り混じった電話。途絶えた関係。整然と並ぶ冷蔵庫。
僕が好きな話は、「白衣」と「心臓の仮縫い」です。この二つは、驚異的に怖いです。そして読んだ人に、深い印象を残すだろうと思います。あと、「ベンガル虎の臨終」「トマトと満月」「毒草」も、小川洋子らしいです。後半の作品の方がいいですね。
本作の最大の特徴は、それぞれの短編が、他のいくつもの短編と関係を持っていることでしょう。絡まりあい、もつれ合った関係や時間が、ひそやかに物語に染み込んで、なんとも言えない深みを生み出しています。
小川洋子の作品は、その文章も不思議さ醸し出す要因です。現実を塗り込めるかのような均整の取れた自然さが、小説に取り込めば不自然にすらなってしまいそうな完璧な自然さが、その穏やかで深みのある文章によって釣り合いが取れているような、そんな不思議な印象を与えてくれます。
本作は、構成こそ目新しいけど、やはり地味な作品だと思います。それでも、読んでいて不思議な世界に引き込まれていきます。「博士の愛した数式」で小川洋子を知ったという人には、他の小川洋子の作品はどうかなって感じだけど、そうでない人にはなかなかいいんではないかと思います。
小川洋子「寡黙な屍骸 みだらな弔い」
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