子どものための哲学対話(永井均)
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僕は、「考えること」が好きだ。
でも、最初から好きだったわけじゃない。
最初は、考えざるを得なかった、というだけのことだ。
子どもの頃。僕には色んなことが分からなかった。
周りの人と自分が、同じような感じがしなかったのだ。
これだけ書くと中二病っぽい感じに聞こえるかもしれないし、実際にそういうのを中二病と呼ぶのかもしれないけど、とにかく僕はずっとそんな風に感じていた。
周りの人がなんで今笑っているのか分からない。
周りの人がなんでそのマンガにハマっているのか分からない。
周りの人がなんでそんなことに一喜一憂しているのか分からない。
僕はそんなことをずっと感じていた。
周りの人は、どうも、そういう疑問を抱いていないように僕には見えた。
周りの人は、特に問題なく、お互いの存在を分かり合っているように思えた。
もっと言えば、なんというのか、前提が共有されているような気がしたのだ。
僕には、その感覚は得られなかった。
同じような形をして、同じような格好をして、同じような言葉を喋っているけど、
周りの人が考えていることがよく分からなかった。
だから僕は、「考えること」によってそれを掴もうとした。
…のだと思う。
正直、そこまで正確には覚えていないのだけど。
周りの人の言葉、表情、仕草、感情の出し方、話題の選び方、興味の方向。そういうものを材料にして僕は考えたんだと思う。
なるほど、こういう時に笑うんだな。
なるほど、こういう時にこんな風に振る舞うんだな。
なるほど、こういう時にこう言うんだな。
僕はそういうことを、観察と思考によって身につけた、という意識がある。
考えなければ、僕は、色んなことが理解できないままだっただろうと思う。
そんな風にして、考えることで周りの人の振る舞いを理解し、それを元に自分の振る舞いを決める、ということを続けている中で、僕は、「考えること」の面白さに気づくようになったのではないかと思う。
『問いそのものを自分で立てて、自分のやりかたで、勝手に考えていく学問のことを、哲学っていうんだよ』
本書には、そんな風に書かれている。そういう意味で言えば、まさに僕はずっと哲学をしてきたんだろうと思う。
何故親が苦手なのか。
何故生きているのがしんどいのか。
何故初対面の人と関わるのは得意なのか。
何故勉強するのが好きなのか。
何故社会に出たくなかったのか。
何故大学を辞めたのか。
死んだら人間はどうなるのか?
幽霊がいないことを証明することは出来るのか?
…
そういう様々な問いに対して、僕は自分なりの答えを説明できるようになっていった。その答えが“正しい”かどうかということには、さほど興味はない。そうではなくて、自分が導き出したその答えが、他の問いに対する答えと矛盾しないかどうか。あるいは、答えを導き出す過程が論理的であるか。そういう部分に興味が湧くようになった。
中学生ぐらいから今まで、そんな風に、ずっと色んなことについて考えて生きてきた。このブログをこんな風に続けられているのも、元々僕が考えることが好きだからだろう。このブログは、「考えたことを書く場」ではない。僕は、考えた事柄を書いているのではなく、書きながら考えている。だからこのブログは、「考える場」なのだ。
僕が話していて面白いと感じる相手は、程度はともかく、僕のように、どうしようもなく何かを考えてしまう人だ。考えようと思って考えるのではなく、ナチュラルに、意識しなくても、色んなことを考えてしまう人。僕は、誰かの価値観そのものにはあまり関心はない。僕とは違う価値観を持っていてもまったく問題ない。ただ、その価値観に至る思考の道筋を言葉で説明できない人は、嫌だなあと思う。つまらないと感じてしまう。
別に、変わった価値観を持っていなきゃいけないわけではない。結論自体は、世間の多数派の価値観と同じだって構わない。ただ、その結論に至るオリジナルの思考を提示出来るかどうか。「みんながそう言ってるから」「当たり前じゃんそんなの」以外の理由を提示出来るか。そこに、僕の関心は集約されていると言っていい。
本書は、僕のような「考えてしまうタイプの人」には不必要でしょう。というのは、本書で書かれるような思考は、既に通り抜けているからだ。本書に書いてあることとまったく同じことを考えているかどうか、が問題なのではない。そうではなくて、思考のスタイルとして、前提を疑ったり、枠の外の意識を向けてみたり、常識の真逆に振り切ってみたりというような、物事を様々な角度から見て、常識や多数派の意見から離れたところから眺めるみたいなやり方は既に出来ていると思うからだ。
しかし、「考えないタイプの人」には、非常に良い入門書なのではないかと思う。それこそ本書は、小学生からでも読める。小学生には難しいだろう、という話も出てくるが、しかしこれは、年齢の問題でもないだろうとも思う。「考えてしまうタイプの人」であれば小学生でも理解できるだろうし、「考えないタイプの人」であれば大人だって理解に苦しむでしょう。本書はそういう本です。
考える力がさほどなくても、正直、この世の中では生きていける。「考えないタイプの人」というのは、あくまでもイメージだが、これまで自分の価値観が世の中の大多数の価値観とズレたことがほとんどないのだろう。ある意味では羨ましい人だ。そのズレが少なければ少ないほど、常に多数派の価値観に疑問を感じずにいられるのだから、生きていく上での障壁は少ない。結果的に生きやすい、ということになる。
けど、そういう「考えないタイプの人」は、変化に弱い。自分が依って立つ価値観が、「多くの人に支持されている」という土台しかない、ということに気づかないままでいることで、大きな変化があった時、どの変化についていけなくなるかもしれない。
また、これからさらに変化が激しくなるだろう社会を生きざるを得ない子どもたちには、考える力は必須と言っていいだろう。
本書は、「考えないタイプの人」の格好の入門書である。
内容に廃炉と思います。
本書は、哲学者の永井均が描く、「猫のペネトレ」と「ぼく」との対話のやり取りである。扱われている内容は多岐に渡るが、一つのテーマは2~3ページで終わる。非常に短い。思考を深めるための本ではなく、思考する際の発想力や手順みたいなものを見せてくれるお手本みたいな感じかもしれない。
目次からテーマをいくつか拾ってみる。
「人間はなんのために生きているのか?」
「善と悪を決めるもの」
「学校には行かなくてはいけないか?」
「言葉の意味はだれが決める?」
「友だちは必要か?」
「なぜ勉強しなくちゃいけないのか?」
「クジラは魚である!」
「地球は丸くない!」
こんな感じである。
子どもに「どうして?」と聞かれて答えられない、というような経験は、子どもを持つ親なら持っているかもしれない。本書で扱われるテーマも、そういうものに近い。スパっと答えを出すのが難しい問いに対して、どんな風に考えるのか。答えを提示するのではなく、考え方の一例を提示する、という印象だ。
『つまり、この本のほんとうの意味っていうのは、この本の読者ひとりひとりにとって、それぞれちがっていていいのさ。だいじなことは、自分で発見するってことなんだ。もし自分でなにかが発見できたなら、それが本当の意味だったんだよ。哲学っていうのは、そういうものなんだ』
「考えないタイプの人」からしたら、本書はとても難しく移るかもしれない。でもそれは、練習をほとんどしない人がいきなるフルマラソンに出る、みたいなものだ。そりゃあ、走りきれるわけがない。きちんと準備運動をして、筋トレをして、練習して、そうやって「考える筋力」みたいなものをつけていかないといけない。
「考えてしまうタイプの人」というのは、そういうことを、息を吸うように自然に出来てしまうのだ。それはもう、筋トレや練習が習慣になっている、という意味だ。だから、「考えてしまうタイプの人」には本書は勧めない。本書は、準備運動の仕方も、筋トレの仕方も知らない人に、そのやり方を教えてくれる、そういう立ち位置の本である。
とはいえ、ところどころ興味深いと感じる話も出てくる。
僕が一番面白いと感じたのは、犬が囲碁をする話だ。
作中に、8コママンガが登場する。流れはこうだ。老人が飼い犬に、お前が囲碁を打てたらいいのに、と言う。犬は出来ますよと言って、老人の向かいに座り、碁盤に向かって「お手」をする、というマンガである。
どういうことかと言うと、人間が囲碁を打つ動作を見て、それを犬は、碁盤にお手をするゲームと捉えた、ということだ。
『ちょうどロダンが囲碁をおてだと思いこんじゃっているみたいに、人間もなにか根本的な勘ちがいをして、ほんとうはぜんぜんちがうものを、そう思いこんじゃっているのかもしれないんだよ』
なるほどな、と思う。
この話で僕が連想したのは、物理学の世界の話である。
例えば光。光は、波としての性質を持っている。電波や電磁波と同じように、波として空間を伝わってくる。これは昔から知られていた。
しかしアインシュタインが、光には光子という粒としての性質もある、と主張した(確かアインシュタインは、光電子効果と名付けられたこの研究でノーベル賞を受賞したはず)。別の人物が行った、従来の理論では説明がつかない実験結果を、光に粒としての性質があるとすることで完璧に説明したのだ。
そうすると、光には、波としての性質と粒としての性質があることになる。
これは光だけに限らない。例えば電子。電子は基本的に粒としての性質を持っている。しかし、ある特殊な実験をすることで(この実験は日本人によって行われ、世界で最も美しい実験の一つに選ばれているはず)、電子には波としての性質もある、ということを示して見せた。
光だけでなく、電子にも波としての性質と粒としての性質がある。
現在の物理学では、こんな風に説明されている。
しかしこれは、もっと単純な何かを僕らが勘違いしているだけなのではないか、と僕には思える。波と粒、両方の性質を持つのだ、というちょっともたついた説明ではなくて、もっとすっきりした捉え方があるのではないか、と思えてしまう。ちょうど犬が、囲碁を「碁盤にお手するゲーム」と思い込んだように。
そしてこういうことはもっと山程あるのではないかと思う。ピラミッドやナスカの地上絵もそうだし、株式の値動きもそう。僕らは、色んな物事を、違った受けとり方をしているのかもしれない。そういう思考は昔から持っていたけど、「犬が囲碁を勘違いする」という例が非常に秀逸だったので、今まで持ってた問題意識みたいなものがクリアになったような印象を受けました。
「クジラは魚なんだ」という話も面白かった。確かに、本書に書かれている通りだ、と感じた。クジラは哺乳類だ、とされているが、それは、「体の内部の機能を最も重要な要素として捉えている」ためにそう判断されるわけだ。それは、一つの解釈の仕方として正しい。しかし、「クジラは海に住んでいるんだから魚だ」という捉え方もまた、一つの解釈として正しいだろう。僕らは今、「体の内部の機能を最も重視して動物を分類する」という前提を共有している(この前提を“科学”と呼んでいる)のだ、ということを意識出来るかどうか。そういう話が非常に面白いなと感じました。
「考えないタイプの人」には是非読んでもらいたい一冊だ。考える、ということの面白さを少しは分かってもらえるかもしれない。
永井均「子どものための哲学対話」
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