黒夜行

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エアー2.0(榎本憲男)

メチャクチャ面白かった。



わからないこと、というのは必要だ。何もかも分かってしまう世界を、僕は望まない。
未来が分からないから、人間は生きていける。明日の夕飯に何が出るのか、半年後彼女が出来ているかどうか、5年後今の仕事を続けているかどうか。30年後どんな風に年を取っているか。僕らには知りようがない。知りようがない、という事実が大事なのだと僕は思う。

明日の夕食程度のことなら別にいい。半年後に彼女が出来ているかも、まあいいだろう。しかし、5年後、30年後の自分の姿をもし正確に突きつけられたらどうだろうか?その5年後、30年後に至る自らの軌跡をすべて知ることが出来るとしたらどうだろうか?
悪い未来だったら、最悪だということは想像出来る。しかし、5年後、30年後の未来予測が仮に素晴らしいものであったとしても、それは同じぐらい最悪なことだと思う。これからの5年間、30年間が、すべて分かってしまうのだ。自分がどんな行動をし、自分の身に何が降りかかり、どんな風に時間が過ぎていくのか分かってしまったとしたら。

それはもう、生きている意味を失ってしまうのではないかと思う。

そんな完璧な未来予測は、まあ恐らく実現不可能だろう。かつて、物理学でまだ量子論が発見される前、古典物理学の世界では、決定論という考え方が存在した。例えば、手に持ったボールを離す。その時の初速度、落ちる角度、空気抵抗、風速、その他もろもろすべての要素を知ることが出来れば、手を離した瞬間に、そのボールがどんな速度でどんな軌道を取って進むのか分かるはずだ、という考え方だ。初期条件さえ分かれば、その後の挙動すべてが計算できるはずだ、という考え方だ。

その後量子論が登場し、有名な不確定性原理が発見された。これは、速度と位置は同時に正確に測定不可能だ、ということを明らかにした。初期条件さえ分かれば、というその初期条件がはっきりとは分からない、ということが分かってしまったのだ。しかしこれは、原子などのごく小さな物質の世界で起こる出来事だ。僕らが生きている世界にある、例えば自動車の位置と速度は、同時に正確に測定出来る。

しかし一方で、カオス理論というものが登場する。これは、初期条件がほんの僅か違うだけで、結果が大幅に変わってしまう現象ことだ。どんな現象がカオス理論に支配されているのか、僕は詳しくは知らないが、世の中のあらゆる場面でカオス理論は顔を出す。

このカオス理論の登場により、決定論の考え方は苦しくなった。初期条件がほんの僅か違うだけで結果に大差が出るというなら、初期条件から未来を予測することは難しいことになる。

例えば、バタフライ効果というものを聞いたことがある人はいるだろう。北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる、というアレだ。これもカオス理論の一つだ。まさに気象の世界は、カオス理論に支配されていると言っていいだろう。

現在、天気予報というのは、スーパーコンピュータによって行われている。地球全体を無数の細かな立方体に分割し、それぞれの立方体内での変化を計算し、全体を統合して天気を予測している。しかし、天気予報は必ず当たるわけではない。カオスの壁に阻まれているのだろう。

しかし、もしかしたら、と考えることもある。この限界は、処理能力の限界に過ぎないのではないか、と。現存するコンピューターの処理速度が、カオスの壁を突破するのにまだまだ遅いだけであって、いずれカオス的な挙動もすべて計算し尽くすことが出来るコンピューターが登場し、僅かな初期条件の差も考慮に入れた完璧な未来予測が出来てしまうのではないか。

そんな妄想を物語に組み込んだのが、本書である。

舞台は、2020頃の東京。中谷は、オリンピックを控え、建て替えられている新国立競技場の建設現場で働いている。現場に、70歳は超えているだろう「おっさん」と呼んでいる作業員がおり、若手の作業員から使えないと常にちょっかいを出されていた。中谷はそんな場面を見かける度におっさんに手を貸していた。
ある日おっさんが辞めることになった日、いつものようにノミ屋が二人の元へとやってきた。中谷は競馬はやらないが、おっさんは普段から、少額ではあるが万馬券狙いの掛け方をしていた。おっさんは、当たったとしても払戻金を受け取れないにも関わらずまた万馬券狙いの掛けをして、もし当たったら中谷にやる、と言って去っていった。
そしてこの万馬券が、なんと当たるのである。
おっさんが消えた一時間後、工事現場で爆音がし、工事が中止になった。X線調査により、建物の基礎部分に爆弾が仕掛けられていることが分かった。そして、中谷の預かり知らぬところで、とんでもない事態が起きていた。
爆弾を仕掛けた脅迫者は、政府に対して要求を出した。それがなんと、中谷が買った万馬券が当たりになるよう、八百長をしろというものだった。政府は大急ぎで手はずを整え、警察は犯人確保の準備を整えた。
が、空振りに終わる。
突然大金が転がり込んできた中谷は、難癖をつけて金を吐き出させようとするヤクザを振りきってとある高級ホテルへと逃げこむことに成功する。
なんとその部屋に外線が掛かってくる。自分がここに逃げ込んだことを知っているものなどいるはずないのに…。
それが、おっさんとの再会だった。おっさんと再会した中谷は、「エアー2.0」という、おっさんが開発した未来予測を可能にするシステムを使って、新たな社会秩序を生み出す大きな渦に巻き込まれていくことになり…。
というような話です。

繰り返しますが、メチャクチャ面白い作品でした!久々に、骨太で手応えのあるエンタメ小説を読んだなぁ、という感じです。

とにかく作品のリアリティが凄い。

先に書いておくと、僕は社会情勢とか経済の知識などには非常に疎いので、そういう方面の知識に乏しい人間が感じるリアリティです。だから、そういう知識をふんだんに持っている人が読んだらどう感じるのかそれは分かりません。ただとにかく、作品の中で醸し出すリアルな雰囲気は凄いなと感じました。

この物語の中心には、「エアー2.0」という、恐らく現実には実現不可能なレベルのシステムが存在します。しかし、本書でリアリティがないのはこの「エアー2.0」というシステムだけです。それ以外のリアリティが半端ではない。「エアー2.0」という架空のシステムを僕らが生きている世界にぶち込んだ時にどんなことが起こりうるか、ということを考えに考え抜いて生み出された世界です。

まず、中谷とおっさんを中心とした、「エアー2.0」を開発した側の物語。基本的に、ここが物語の核になっていきます。中谷は基本的にある種の傀儡であって、新システムの構想・構築・運用まですべてを担っているのが、杉原と名乗るおっさんです。中谷は、現場作業員という立場から一気に、日本を、そして世界を変えうるかもしれない新しい経済システムの構築を推進する人物へと転身することになります。

おっさんは何者で、何を目指しているのか、というのは最後まで読まないと分からないし、最後まで読んでも分からない部分は残ります。なので、おっさんの思想めいた部分は、作中にはほとんど登場しません(謎かけのようにほのめかす場面は多々ありますが)。

一方で、中谷の思想は時々現れる。

『閉塞した空気がじわじわとこの国を満たし支配しはじめていて、中谷はときどき名伏しがたい苛立ちを覚え、なぜだと心の中で叫んだ。』

中谷というのはなかなか面白い人物で、金にそこまで執着を持たない。それは、おっさんと再会し、とんでもない大金を動かした後だから、というわけではない。そうなる前から中谷は、金というものに特別な執着を持たない。

『俺はさ、肉体労働ってのは嫌いじゃない。自分の力で土と掘り返したり埋めたりしてると、少しずつなにかデカいものが建っていく、そういうのは楽しいんだ。でも、あんたのやっていることにはそんな実感がないじゃないか』

金に執着がないだけでなく、労働というものに対する考え方も持っている。金のためにも働いてはいるが、しかし、体を動かすことが好きなんだ、と。震災をきっかけに故郷の福島を離れ東京にやってきた中谷にとって、肉体労働で金を稼ぐというシンプルな生き方が合っているようだ。

だからおっさんから選ばれたとも言える。

『けれど、現実には、金がこの世の中を規定してるんだよな。世界のすみずみまで科学が説明をし、気持ちよさげなものをどんどん作って、それに大量の金がつぎ込まれてる。(中略)でも、それだけだと、基本的には原発と同じだ。つまり科学と金で回っているシステムだ。そこに俺たちもいやおうなしに巻き込まれている。ただ、俺たちの生が金と科学とでガチガチに決定づけられているってのはどうなんだろうか。俺はいやだな。金と科学の上になにかもっと大きなものが必要なんじゃないかって思うわけなんだ』

中谷はそんな風にロマンを語る。こういう人は好きだ。金と科学がシステムを規定している。確かにその通りだ。その中にうまくはまり込めば幸せに生きていける。そんな風なレールが敷かれていることだってある。でも、そのシステムを蹴飛ばして拒絶する人間が、どんな時代にも一定数いる。そういう人たちはそれぞれの時代で、違和感を持つ者と見られてきた。皆が当然だと感じている、「信じている」という意識さえないまま採り込んでいる常識や価値観を無視して、自分が自然だと感じる生き方を選択する人は、凄く好きだ。

『今の中央銀行制度と税制は、巨大資本と国家権力による詐欺のシステムだ。人々は、本来得られるはずの利益を不当に搾取されているんじゃないかな』

『銀行にとっては危険ですよ。きちんと融資しないで株と国債ばかり買って金利で儲けて、中小や零細には貸しはがししたりしてるって実態がバレちゃいますからね』

今の世の中の仕組みがなんかおかしい、と感じている人は多くいるだろう。残業をしまくっても賃金は上がらず、子供を育てる環境は整わず、社会保障も逼迫している。そのくせ、税金はどんどん高くなっていく。しかもよく知らないけど、金持ちは優遇されているようだぞ。システムのどこにどんな欠陥があるのか指摘出来なくても(僕も出来ない)、そういう漠然とした違和感みたいなものを感じている人は多くいるだろう。

本書では、おっさんが開発し中谷が宣伝に務めている「エアー2.0」が、そんな閉塞した実態を暴き立てていく。彼らは、巨大資本と国家権力が搾取できないシステム、誰にとっても公平で合理的な仕組みを構築するために、何重もの仕掛けを敷き、準備を続け、行動を起こしてきた。彼らの運動が、もし現実に起こった場合、その是非は長い時を経なければ判断出来ないだろう。ただ少なくとも、風穴を開ける役割を果たすことは出来る。僕らは、人類の様々な歴史を照らし合わせ、資本主義と共に生きていく決断をした。しかしその資本主義も完璧な仕組みではない。もし「エアー2.0」を中心に据えた、彼らが構築しようとしたシステムが資本主義の代わりとなるより高位のシステムであるとすれば、なんとしても「エアー2.0」を開発してもらいたいと思う。

しかし、「エアー2.0」は、魔物とイコールでもある。使い方を間違えれば悲惨な結果を生むだろう。今回「エアー2.0」は、おっさんと中谷という、金銭的な欲望に頓着しない者によって生み出され運用された。だからこそ、「エアー2.0」の持つ可能性を引き出すことが出来た。もし別の価値観を持つものが「エアー2.0」を手に入れたらと思うと…恐ろしくて仕方ない。

さて物語は、様々な者を巻き込んで展開していく。新国立競技場の爆破未遂を追う警察、「エアー2.0」を中谷らから借り受けるような形で手に入れた政府(政府にも、中谷らに賛同する者と反抗する者がいる)、中谷らを追うマスコミ、中谷らの計画に乗って様々なプロジェクトを進行させる人々。「エアー2.0」から始まった社会のうねりは、瞬く間に日本中を飲み込む勢いを見せ、社会の構造を変えうる可能性を持ち始める。政府は、詐欺的なシステムの露見を恐れて手を打とうとするし、政府に追従するマスコミは彼らを叩こうとする。正義なのか羨望なのか、中谷らの行動に憤慨するものも現れる一方で、彼らが提示する新たな可能性が、震災と原発事故を経験した日本に新しい風を吹き込んでいく。新国立競技場の建設現場から始まった物語がどう展開し、どう帰結を迎えるのかは是非読んでみて欲しいが、とにかく凄いとしか言いようのないリアリティとリーダビリティに溢れた物語だった。

「エアー2.0」がもし存在したら、と考える。いや、この想像の仕方は、たぶん間違っている。何故なら、本書で描かれている通り、もし本当に「エアー2.0」が存在するとしたら、その存在はほとんどの人間に秘されるだろうからだ。だから、今まさに日本のどこかで「エアー2.0」が稼働している可能性だってある。僕らは永久にその事実を知ることはないかもしれない。

今もし「エアー2.0」が存在するとしたら…。しかしそれでも、僕らの生活はきっと何も変わらない。中谷らのように、「エアー2.0」が生み出す富を還流させる仕組みを構築する人物がいれば別だが、そうでなければ、「エアー2.0」の存在を知らない人間にはなんの恩恵もない。そう考えると、なんだか虚しいような気持ちにもなってくる。

未来は、分からない方がいいと僕は思う。未来は分からないから生きていけるのだ。けれど本書のように、未来を知るということを手段として、現在の腐敗したシステムに変わる新たな仕組みを構築出来る可能性があるなら、「エアー2.0」は存在してもいい。僕は、それに触れる機会があっても、自分の未来を知ろうとは思わないけど。

閉塞感に支配された現代の日本を実にうまく切り取りながら、「エアー2.0」という架空の存在をリアルに描き出すことで、生き方の新たな選択肢を提示する。社会を鋭く批評する内容でありながら、先の展開が読めないスリルのある物語でエンタメ作品としても良質だ。生きるとはどういうことか、そして社会の中で生きるとはどういうことかを改めて突き詰め、自身が崩壊したシステムの中に囚われているだけの存在であることに気がつくことだろう。僕らが今、結果的にしがみついているシステムは、本当にそれなしでは生きていけないのか。人間が生きていくのに本当に必要な仕組みとは何なのか。様々に考えさせる実に見事な作品だと感じました。

榎本憲男「エアー2.0」


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3位 浅野いにお「うみべの女の子
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番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

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9位 山本弘「詩羽のいる街
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5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
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17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
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