黒夜行

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活版印刷三日月堂(ほしおさなえ)

“ひと手間掛けた文字”でしか伝えられない想いがある。

…なんてこと、これまで特に感じたことはなかった。
でも、この本を読んで、思い浮かべたことがある。大学時代のある出来事だ。

その時僕は、大学に一切行かず、誰とも会わずに、ひたすら引きこもっていた。すべての連絡を無視していたので、心配した両親が上京して来て、僕が住んでいた部屋に来ることになった。

その時僕は、一枚のフロッピーディスクを渡して親を追い払った。

そのフロッピーディスクには、あるWordファイルを入れていた。親への恨みつらみを書いたWordファイルだ。それまで優等生のフリをしていた僕は、小学生ぐらいの頃からひたすら親に対してのイライラを募らせながら、それを一切表に出さずに生きてきた。その何年間分の積もりに積もった想いを文章にした。

未だに僕は、その文章を読んだ時の両親の反応を聞いたことはない。しかしまあ、相当にショックだっただろうとは思う。それまで真面目で親の言うことを良く聞いて勉強も出来た息子が、まさかこんな風に考えていたとは、と思ったことだろう。

この本を読んでその過去を思い出したのは、親に渡したのが電子的な文字だった、ということに関係がある。

もし手書きの手紙だったら、どうだっただろう?

手書きである、ということによる親の受けとり方もそうだけど、何よりも、手書きである、という点が、僕を冷静にさせたかもしれない、という気もする。キーボードを打ってすらすら文章が出力されてしまうのと、手書きの文章はまた違った感覚がある。キーボードで打った場合とは、まったく違う文章になったかもしれない、という気もする。

そして僕は、電子的な文字が持つ冷たい感じも意識して、親にフロッピーディスクを渡したような気もする。面と向かって話す勇気がなかった、というのももちろんそうなのだけど、よりフロッピーディスクで渡す方がよりダメージが大きいだろう、という判断をしていたように思う。

裏返せば僕は、手間を掛けて書いた文字が持つある種の力をきちんと認識していたんだろうな、と本書を読みながら連想したのだ。


パソコンやスマホが普及した今、僕らにとって「文字」は、ある種のデータでしかない。そこには、重さも匂いもなく、プリンターで出力しなければ存在を感じさせるようなものは何もない。

しかしかつて「文字」は、物体だった。活字と呼ばれる小さなハンコのようなものを組んで、昔は印刷していたのだ。活版印刷という、今ではほとんど失われてしまった文化だ。

『文字に身体があるんだ』

膨大な数の活字から目当てのものを拾い、それを正確に組み、紙に押し付けるようにして印刷する。それは、自分の手で書く以上の手間であり、その分、生み出された「文字」には想いが宿ることになる。

『ときどき、不安になるときがあるんです。印刷って、真っ白な紙を汚す行為のような気がして。だけど、文字が刻印されることで、その紙に人の言葉が吹き込まれる。言葉を綴った人がいなくなっても、その影が紙のうえに焼きついている。』

現代ほど、「文字」によるコミュニケーションが盛んな時代はないかもしれない、と思う。Facebook、LINE、Twitter…あらゆるツールで人々は「文字」を書き「文字」を読み、そうやって「文字」によるコミュニケーションをしている。

しかしそれは、瞬時に出力される「文字」が成り立たせているコミュニケーションだ。瞬時に出力される「文字」は、同時に消え去るスピードも速い。人々は、蟻地獄でもがく虫のように、書いては消え書いては消えていく「文字」をひたすら書き続ける。

“ひと手間掛けた文字”は、簡単には出力されない。手書きにせよ、活版印刷にせよ、出来上がるまでに時間が掛かる。しかしそれ故に、消え去るスピードも遅い。出力された「文字」が、そしてその「文字」に込めた誰かの想いが、長く長く残り続ける。

“ひと手間掛けた文字”でしか伝えられない想いがある。

あぁ、そうか。そういうこともあるのだな、と実感させられる作品だった。


舞台は川越市。かつてこの街に住んでいた月野弓子が、単身でこの街に戻ってきたことから物語は始まる。弓子は、長らく空き家になっていた、祖父が経営していた印刷所に住み始めた。街で需要のあった活版印刷を受け持っていたが、祖父が亡くなってからは継ぐ者はなかった。
印刷所の再開など頭になかった弓子だったが、とあるきっかけからやってみようかと思うようになる。

『弓子さんはお客さんの作りたい形をいっしょに探してくれる人だから』

印刷を通じて人が繋がり、わだかまりが解け、誰かの想いが繋がっていく。誰かの想いが文字になり、それが印刷されることでその想いが増幅される。ただ文字を印刷するだけではない、言葉が持つ力を最大限に引き出す手助けをする活版印刷とその周りの人々を描き出す物語。

「三月のレターセット」
川越運送店の一番街営業所の所長である市倉ハルは、息子・森太郎が4才の時に夫を亡くし、以来一人で子育てをしてきた。そんな息子ももう18才。北海道大学の森林科学科への入学を決め、あと少しで引っ越してしまう。息子と一緒に暮らせるのもあと僅かだ。
仲間とランニングをしていたある夜、ずっと空き家だったはずの建物に灯りがついていた。恐る恐る近づくと、そこにいたのは弓子さんだった。最近引っ越してきたと言う。かつて三日月堂という名の印刷所だったところで寝泊まりするという。ハルのいる運送店で働き始めることになった。
息子への入学祝いに悩んでいたハル。息子がいなくなる寂しさから要らぬ喧嘩をしてしまい、余計プレゼントの力を入れたい気になった。その時思い出した。レターセット。子供の頃憧れだった、三日月堂のレターセットはどうだろう。弓子さんが刷ってくれないかしら…。

「八月のコースター」
「桐一葉」という喫茶店を経営している岡野は、地域の顔であるハルさんに紹介されて、三日月堂を見に行くことにしていた。叔父から受け継いだ喫茶店の経営に特に問題はないが、ずっと自分は叔父の代わりでしかないような感覚を拭い切れないでいた。就職した会社でも、似たようなことを言われたことがある。そんなぼんやりとした悩みをハルさんにしていたら、喫茶店の何かをちょっと変えてみたらいい、あぁじゃああまり持っていく人がいなくなった紙マッチを止めてショップカードを作りましょう、という話になったのだ。最近印刷所を再開した、いい人がいるから、と…。

「十月の栞」
川越の私立高校の教師である遠田真帆は、「桐一葉」という喫茶店で魅力的なコースターと出会った。高浜虚子の俳句が印刷されたそのコースターは、三日月堂という印刷所で刷られたという。活版印刷。文芸部の顧問をしている真帆には、それは魅力的な響きだった。早速文芸部でも話をすると、部長の村崎小枝と、感性豊かな物語を書く山口侑加の三人で早速三日月堂を訪ねてみることになった。そしてトントン拍子に、学園祭でのワークショップが決定する。文芸部は、「銀河鉄道の夜」から部員が気に入ったフレーズを選び、それを印刷して栞にすることになった…。

「十一月の招待状」
市立図書館の司書をしている佐伯雪乃は、ゼミの後輩で、川越市の案内所でアルバイトをしている大西くんから、高校の学園祭で活版印刷のワークショップがあることを聞いて興味を持った。正直、活版印刷については詳しくないが、我が家には、祖母が大事に持っていた活字のセットがある。曽祖父がかつて銀座で「活字屋」をやっていたのだという。ワークショップをやっていた三日月堂の弓子さんと話す中で、祖母が遺してくれたこの活字を使って、間近に迫った結婚式に招待状を刷りたい、と思うようになったのだが…。

というような話です。

結構良い話でした。「活版印刷」ってそもそもなんなのかよく分からないまま読みましたけど(説明されればわかりましたけど、それを「活版印刷」って呼ぶってことを知らなかったんです)、手間の掛かる活版印刷だからこその物語がうまく組み込まれていて、良い物語だなと思いました。

どの話も、切実に伝えたい想いがあり、あるいは想いを伝えたい誰かがいる。ハルさんは、これまでずっと一緒に二人三脚で暮らしてきた息子への感謝と、いなくなってしまって寂しい気持ちを伝えたい。岡野は、亡き叔父の代わりでしかないのではないかという自分のモヤモヤを払拭させ、さらに、かつて付き合っていた女性の存在や言葉をもう一度理解しなおしたいという気持ちを持っている。真帆の物語では、微妙な関係に陥ってしまった小枝と侑加が、弓子さんのワークショップを通じて関係が回復する過程を描き、また真帆自身も、大学時代異彩を放っていた友人のとのやり取りを再解釈しようとする。雪乃は、夫となる人について外国に行くという不安の中に、夫となる人への不安を見出し、自己主張が苦手な自分自身の想いを、祖母が遺してくれた活字を介して伝えようとする。

文字でなくても、活版印刷でなくても、彼らの想いは通じたかもしれないし、彼らの問題は解決したかもしれない。それでも、文字というワンクッションを置くことで、活版印刷という手間を一つ加えることで、絡まった糸がするりと解けるように物事が流れるようにうまく行く。活版印刷という馴染みのないモチーフを物語の中に実にうまく組み込んで、ささやかな人間のささやかな想いをうまく掬いあげたものだな、と感じました。

『印刷とはあとを残す行為。活字が実体で、印刷された文字が影。ふつうならそうだけど、印刷ではちがう。実体の方が影なんだ』

弓子の祖父が言っていた言葉だ。本来であれば、モノとしての実体を持つ活字の方が主であるはず。しかし印刷の場合、印刷された文字が主となる。

これは、人の気持ちでも同じことが言えると感じた。人の気持ちには実体がない。だから、言葉にしたり、抱きしめたりと、何らかの実体のあるものに仮託しなければ気持ちというのは伝わらない。言葉や抱きしめる行為は、実体を持つが決して主ではない。そこに乗った気持ちそのものが主なのだ。そういうことを強く感じさせてくれる作品だった。

物語全体には関係ないが、作中で時々描かれる、活字に関する蘊蓄的な知識も面白かった。「ルビ」の語源も分かったし、「絶版」という言葉が本来は一体何を指していたのかも理解した。活版印刷の現場を目にしたことはないが、小説で描かれる描写を読む限り、出版というものが、一文字ずつ活字を組んで行われていたなんてことはちょっと信じられない。新聞だって雑誌だって書籍だってそんな風にして刷られてたんだと思うと、ちょっと気が遠くなるような感覚がある。現代の、プリンターで出力する形式しか知らない世代には、活版印刷は新しく映るだろう。少しブームになっているというが、ちょっとわかるような気もする。

文字にせよ印刷技術にせよ、人の思考や想いを伝える道具でしかない。しかし時に、人の思考や想いを増幅させる装置にもなりうる。“ひと手間掛けた文字”がどんどん少なくなる世の中にあって、その感覚は益々強くなっていくことだろう。“ひと手間掛けた文字”の持つ力を再確認させてくれる作品だ。

ほしおさなえ「活版印刷三日月堂」


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