くらやみにストロボ(ハヤカワノジコ)
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最近BLを読んでいるのは、BLを貸してくれる人がいるからだ。
僕はその人に、僕が好きそうなBLの感じを伝えて、それを元に結構な量の選書をしてもらった。それを今読んでいるんだけど、でもその時にもう一つお願いしたこともある。
僕が好きなわけじゃなさそうな、普通のBLも混ぜて、と。普通の、と書くと、ちょっと語弊があるかもしれないけど。
自分に合いそうな、あるいは、誰かが素晴らしいと感じているような、そういう作品ばっかり読んでいると、自分の中で基準が分からなくなる。普段読んでる小説なんかは、昔から自分で選んで、自分なりに良い作品、悪い作品に出会って、そういう中で自分なりの基準が出来ていったからいいんだけど、人から勧めてもらう時は、良いものだけ読み過ぎると良く分からなくなってしまう。だから、普通のも混ぜて欲しいとお願いした。
本書は、その人から特別勧められたわけじゃない、普通の方のBLだ。
やはりこれまで、自分で選んで読んだ作品も、勧められて読んだ作品も、基本的に傑作クラスのものが多かったのだろう。本書はやはり、BLとしては自分の中にグッと入ってくる作品ではなかった。
榊新(さかきあらた)は高校で写真部に所属している。父親が写真屋である関係で、自分で現像まで出来る。専ら男の写真を撮り、それを女子に売りつけている。一番人気は、バスケ部のスーパールーキーであり、新の幼なじみでもある宮本正太郎だ。
新は常に、正太郎にファインダーを向けている。表向きは、女子たちに売るためだ。正太郎の写真は人気がある。しかしそれだけじゃない。新はずっと正太郎に、想いを寄せているのだ。
校内の人気者である正太郎は、頻繁に女子から告白を受ける。新はそれを、常に陰から盗み聞きしている。正太郎は、常に女の子の告白を断る。ある時正太郎が、好きな人がいるんだ、と言っているのを聞く。そうだったのか、知らなかった…。
こんな風に盗み聞きして、女々しく嫉妬して、正太郎のことは好きなんだけど、でも周りから気持ち悪いって思われるだろうし、あーこんなこと考えてる俺って最低だと、新はいつも自己嫌悪にさいなまれている。
僕がBLに関心があるポイントは、男同士の恋であることが、何らかの障害になっている、という点だ。本書にも、そういう要素がないとは言わないが、これまで僕が読んだ作品と比べるとやっぱり薄い。新の方は思い悩むのだけど、正太郎の方が新の苦悩などお構いなしに扉をこじ開けてくるので(まあそのお陰で物語が進んでいくわけなんだけど)、新の葛藤が作品の中で強い重力を持つに至らない。
とはいえ、新が持つ、男が好きなことはおかしいことなんだ、フツーじゃないんだという葛藤がきちんと描かれているのは良かった。今の僕はもはや、フツーって何、みたいな葛藤に囚われることはないんだけど、子供の頃はフツーではいられない自分(誤解されそうだから書いておくけど、別に僕は男が好きで悩んでたとかじゃない)に苦しんでたこともある。だから、新の葛藤は分かるような気がする。周りの目が気になって、フツーでいられないことを責めて、どうしたらいいか分からなくてもがく。そんなフツーに囚われている新を、正太郎が天然全開でこじ開けていく感じはなかなか面白かったです。
さて、僕が本書で面白いと思った点が二つある。
「写真を撮るということ」と「長谷浩一という男」の二つだ。
『女子は自分の見せ方を知っている。だからつまらないんだよなぁ。
その点男は、カメラを向けても素のままっつーか、レンズ通して伝わるものとかあって』
新が、頼まれて女子の写真を撮るようになった時にこう述懐する場面がある。
新が感じているのとまったくぴったりではないけど、僕も近いことを感じたことがある。
僕は高校に入学する際に、一眼レフのカメラを買ってもらった。それで写真を撮りまくっていた時期があったんだけど、人間の写真を撮る時にどうしても不満があった。
カメラ目線の写真が全然面白くないのだ。
だから僕はいつの頃からか、勝手にカメラを向けて、勝手に写真を撮るようになった。周囲の人間からは「盗撮」と言われた。まあ、まさにその通りだったと思う。被写体に、撮る前も撮った後も一切許可を取らないまま、カメラ目線ではない写真を撮りたいというただそれだけの理由で「盗撮」を続けていた。
誰かに怒られたり、それが原因で嫌われたりした記憶がないから(陰でどう言われていたかは知らないけど)、周囲も僕の「盗撮」を普通に受け入れていたのではないかという気がする。どうして受け入れられたのか、その点はよく覚えていないんだけど、よく許してもらえたもんだなと今なら思う。まあ別に、スカートの中とか胸のアップとかを撮ってたわけじゃないし、別に大して気にしてなかったぐらいのことだと思うけど。
その当時撮った写真は、ネガも含めて一切残っていない。実家の奥底に眠ってたりするのかなぁ。ちょっと分からない。せめてネガだけでもいいから手元に残したいのだけど。
カメラ目線じゃない写真は、少なくとも僕の中では凄く良かった。それは、人間を人間として撮るのではなく、人間を風景の一部として撮るという感覚だった。人間を撮るためにカメラを向けているのではなくて、人間を含めた風景そのものを切り取っている感覚。それももちろん良かったんだけど、もう一つ覚えている感覚がある。
それは、撮影者である僕自身が「透明になる」という感覚だ。
カメラ目線の写真を撮っていると、どうしても撮影者である自分の存在が意識されてしまう。被写体は、カメラを、そしてカメラを通じて僕を見ている。僕のことは別に意識して見てないかもしれないけど、僕にはそう受け取られる。その視線によって、僕自身の存在を意識させられる。それは僕にとって、居心地のいい感覚ではなかった。
でも、カメラ目線ではない写真では、撮影者である僕自身の存在は意識されない。僕自身が透明になることが出来る。カメラを境に、レンズの向こうの風景と自分自身が切り離されているような、自分がまるでその世界に存在していないかのような感覚になれた。
この感覚は、人間の写っていないただの風景を撮る時には感じられないものだ。カメラ目線ではない人間が風景の一部として写っているからこそ感じられる感覚だった。僕はその感覚が好きで、ずっと写真を撮り続けていたような気がする。
僕は、カメラ目線か否かを基準にしていたけど、新はそれを男女で区別していた。それは、僕のカメラ目線云々の話に通じる。女子は、自分をどう見せるかをきちんと知っているから、当然カメラ目線だし、カメラ目線だというだけではなく自分自身を作りこんでカメラの前に立つ。しかし男の場合は、新の感覚では「素」、それはカメラ目線ではないことも含むだろう。だから、新が男女の違いとして受け取った差異に、僕は共感することが出来たのだと思う。
新は、自分が撮られることは苦手だ。僕もそうだが、その感覚は、カメラ目線によって撮影者である自分自身が意識されることを拒絶する感覚に通じる。新の、写真と関わる感覚は、なんだか凄くよく分かる。
さてもう一方の「長谷浩一という男」の方である。
新と正太郎は、長谷と澤山という四人でいることが多い。新と正太郎が付き合っていると知った二人の反応は対照的だった。澤山は、恐らく気持ち悪いという意識が先に立ったのだろう、二人のことを拒絶するようになる(それを解消するために新が澤山に切り込んでいった場面はとても良かった)。一方長谷の反応はこうである。
『おまえらがいーなら、オレはいいと思うよ』
僕も基本的なスタンスは同じだ。
僕自身が、男から好意を受ける場合はまた別だが、僕の関係ないところで男同士がくっつこうがなんだろうが、別にどうでもいい。それで付き合いが変わるとか、避けようとするとか、別にそういうことはないだろうと思う。僕自身も、色んな場面でフツーに馴染めないままここまで生きてきた人間だ。そもそもフツーって何?という感覚もあるし、フツーじゃなくたって別にいいと思ってる。
長谷は当初、物語の中にほとんど出てこなかった。さっきの「おまえらがいーなら、オレはいいと思うよ」という場面以外では、さほど大した役割を果たさない。それでも、その場面がなかなか印象的だったので、出番はほとんどないながらも、長谷に対する好感はあった。
後半でなんと、長谷がメインで登場する話が出てくる。ここでの長谷が、とてもいい。
『お前は俺のこと嫌いだろうけど、俺はお前のことけっこー好きだから、さ。まずはお友達からはじめてみようぜ』
長谷が澤山に対して言う(一応書いておくと、この二人は特にBL的な関係ではない。しかし腐女子がこの二人をどう読むかと言えば、まあBL的関係として捉えるんだろうか)。新・正太郎・長谷・澤山の四人はよくつるんでいるけど、長谷と澤山はそこまで仲良くない。でも、新と正太郎が抜けてしまう状況が最近多いから、二人きりになって気まずいという、澤山視点の物語が展開される中でのことだ。
長谷は、何に囚われることもない。そういう意味で、澤山とは真逆だ。澤山が「真っ当」な立ち位置でいようとするのに対し、長谷は、目の前の状況を何でも受け入れますよ、という余裕がある。それはある種の無関心の裏返しでもあるのだけど、ただの無関心ではない。その辺のひねくれた感じがさらりと描かれていて面白い。僕の中では、長谷のように振る舞ったり生きたりするのは、ある種の理想だ。
『俺さぁ、ダメなんだよね。グイグイ来られんの。引くっつーか』
すげぇ分かるなぁ。
BLとしては、あまりグッとこなかったけど、作品のメインではない要素がなかなかよくて、全体としての印象は悪くないです。ってかむしろ、長谷と澤山の関係(別にBL的な関係に着地することを望んでるわけじゃない)を読みたいなぁ。番外編としてちょろっと載ってるだけなのは勿体無い。
ハヤカワノジコ「くらやみにストロボ」
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